ブラック・ブレット -弱者と強者の境界線-   作:緑餅 +上新粉

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滑り込みセーフ(アウト)!

何とか年内に更新できました。番外編ですけど。
この話は血みどろバトル一切無し、終始夏世ちゃんとオリ主とのイチャコラを描き続けております。なので、肩の力を抜いてお楽しみいただけると作者としては幸いです。

機会があれば、飛那、ティナの両者も更新しようと思っているので、作者の気まぐれではありますが頭の片隅にでも置いておいてくれると宜しいかと。※期待し過ぎは厳禁です(汗)

ち、ちゃんと本編も描きますよ?


番外
夏世とおやすみ


 新たな環境というものは、得てして元いた環境より落ち着きにくいものだ。中でも、住む家を変える、というのは、それを最も明確に感じることができる手段だろう。

 

 新居特有の匂いや目にしなかった色調、家具の配置や部屋数、以前あったものがなく、無い筈のものがあるという違和感。そして、それらに昂揚感を覚えることもあれば、寂寥感に襲われることもある。

 

 こういった感情に悩まされているのは、偏に引っ越しや事務所の移転などの経験がほとんどなかったことの裏付けではあるのだが、それも時期になくなるのだろう。

 

 日が経つにつれて昔日の記憶は薄れ、現在の記憶が蓄積されていき、一度目にした新鮮さは数を増す毎に見慣れた感情に変化する。何しろ己の家なのだから、こと環境においては他の何よりも目にする機会は多い。

 

 単純ではあるが、年数が経てば新居もそうではなくなる。そして、人間と言う生物は順応性が高い生命体だ。大抵の場合は数か月もすれば、よほど劣悪な環境下でもない限り、ある程度はその場の有用性を見出し、ストレスを緩和していくのだろう。

 

 

「ほぁー、ユニットバスって実は不便だったんだな。この広さと自由さを知ったら到底戻れないわ」

 

 

 尤も、有用性が想像以上に高かったら、しち面倒くさい感情論や言い訳など即刻かなぐり捨てて全力で現状を受け容れるのだが。

 

 興奮してしまうのも許して欲しい。以前の民警事務所兼我が家の風呂場は、トイレ込みの浴室、つまりはユニットバスだったのである。

 

 それがどうしたという疑問を持った人は、とりあえず俺が言うことを今すぐに考えて見て欲しい。トイレには普通トイレットペーパーや足置きマットなどがあるだろう。それらが同じ部屋に存在している中でシャワーやふろおけの湯をぶちまけたらどうなる?普通に考えてびしょ濡れだ。ということで、身体の洗浄も浴槽の中で細々としなければならない。

 

 今まではユニットバスしか使った経験がなかったため、寧ろ毎日風呂が入れるだけ贅沢だと思いながら、飛那共々特に不満も無く使ってこれていたのだが、浴室を浴室であるがまま惜しげもなく使用できる開放感を知ってしまったら、今までの風呂で満足していた自分に向かって、木製の風呂桶を思い切り叩きつけて良い音をさせてやりたい気分に駆られる。

 

 

「まぁ、いいや。知らぬが仏っていうしな」

 

 

 世の中には便利なものなど掃いて捨てるほどに溢れている。仮にそれら全てを手に入れたとして、出来上がるのは怠惰を極めたダメ人間一人だ。まともな感性と価値観を保つには、少しくらい不便なくらいが却っていいのである。

 

 俺は湯冷めしないうちに手早く下着と簡素な黒い長ジャージ、そしてシャツを身に着けると、バスタオルを首にかけて脱衣所を出る。そこからダイニングまで続く廊下を歩き、湿った足の裏が冷たい廊下の表面と吸い付く感触を楽しむ。

 

 

「ん......?」

 

 

 居間の奥にある冷蔵庫を開け、愛飲しているインスタントコーヒーを取り出していた時にふと気づく。そういえば、風呂上りにいつも特攻してくる三人娘がいないな、と。

 

 そんな疑問を頭の片隅におきながら、木製の食器棚を開け、調和のとれた波状の木目が印象的なキッチン台に黒いカップを置く。これは飛那が俺の誕生日プレゼントに選んでくれたカップで、是非コーヒー好きである俺にもっと美味しいコーヒーを、という意を込めたものらしい。

 

 そんなことを思い出して目じりを緩めながら、お気に入りのカフェオレ用のミルクを取り出し、小鍋に注いで火にかける。次にカップへコーヒーの粉末を入れ、ぬるま湯を少し注いでかき混ぜておく。

 

 ふと立っているキッチンからダイニングの方を見回し、誰もいないことを確認。次に耳を澄ませてみるが、目立った物音もしない。一応一等地に建つビルの一室なので、防音はかなり効いている。流石にそれぞれ割り当てられた部屋にいるのかどうかまでは()()()()じゃ分からない。

 

 意識の変化でもあったのだろうか?そう思いながら小鍋にかけていた火を止め、ミルクの温度を確認してからカップに注ぐ。途端にコーヒー特有の香ばしい芳香に柔らかい色が混ざり、思わず呼吸を深くする。やはり風呂上りはこれに限る。

 

 至福の時を暫し味わったあと、無いと落ち着かないコースターをカップの底に敷き、ちびちびと口をつけながら一度来た廊下を再度歩く。そして、浴室のある扉の二つ手前にある自室の扉を開けると、中に人の気配を感じた。

 

 

「あ、樹万さん。湯加減はどうでした?」

 

「おお、ばっちりだったぞ。熱すぎず温すぎずで、俺好みの温度だった」

 

「それはよかった。っと....はい、読中の本です。栞が随分と草臥れていたので、新しいものと交換しておきました」

 

「助かるよ」

 

 

 俺の使っているシングルベッドの中央に腰かけていた夏世は、茶縁の伊達メガネをかけ、枕を抱きながら自分の保管している本を読んでいた。体勢的というか、間に挟んだ枕のせいで読みにくいのではと思ったのだが、本人は全く気にした様子も無く控えめな笑顔を浮かべている。外ではほぼ一貫して無表情なのに、家に帰るとこれだ。まぁ嬉しいことではあるが。

 

 そんな考えもそこそこに、俺は脇のチェストの上にコーヒーを置くと、元々座っていた夏世を驚かせないようにゆっくりとベッドに腰かけ、栞を起点に受け取った文庫本を開く。直後に視界へ映ったのは、若葉の描かれた真新しい栞だ。さすが、夏世は俺の趣味をよくわかっていいる。

 

 しかし、ふとこの状況に言いようのない違和を感じ、冒頭のページに挟もうとしていた栞を元に戻すと、一旦本を閉じて足に乗せる。そして、違和の元である少女の方を向こうとした矢先、背中に柔らかい感触が走り、仄かな熱もうっすらとだが伝わってきた。何故か、夏世は俺と背中合わせの状態になっているらしい。

 

 

「....あのさ?物凄く自然に溶け込んでたけど、なんでいるの」

 

「来たかったからです」

 

「いやでも、またなんか抜け駆けだって飛那とティナが乗り込んでこないか?」

 

「安心してください。既に了承済みですよ」

 

「ええ?ホントかよ」

 

 

 これまでの行動を鑑みるに、どうにも三人は俺を独占することに多大な意義を見出しているようなのだ。それはイニシエーターとしての役割を全うしたいがためなのか、俺限定で寂しがり屋なのか、単純な好意の現れなのか。

 

 ....割合としては後者に偏りそうだけど、自分で言うなんて自意識過剰みたいで何か嫌だ。

 

 いずれにせよ、こんな状況は今までにない。一人がこんなシチュエーションを作ろうものなら、絶対に他の二人が止めに入るはずなのだから。レッドカード、イエローカードのルールが毎日のように猛威を振るっていることが何よりの証拠だ。

 

 そう思うとどうも納得がいかず、実はドアの向こう側に般若のような形相をした二人が張り付いているのではないかと勘繰ってしまう。それを想像するとかなり恐ろしいので、素直に背後の夏世に聞いてみることにした。

 

 

「何で二人は了承したんだ?正直、理由が思いつかないんだが」

 

「簡単です。私が得られるであろう益を、同様に彼女たちも得られるから、です」

 

「益....ってなんだ?」

 

 

 益。己が得すること。この場合は、夏世が得られるという具体的な利益について聞いているのだが、これまででも結構な数の『俺と彼女たちの間で利益となりうること』を聞かされている。にもかかわらず、俺はその基準が全くと言っていいほど理解できていないのが現状だ。今回も恐らくは、そういう類のものなのだろう。

 

 夏世は俺の問いかけに対しすぐには答えず、代わりに背中に掛かっていた体重が消えた。

 

 思わず疑問の声を出しかけたが、それを口にする間もなく、再び柔らかい感触が背を包むと同時、後ろから伸びて来た二つの手に掴まれる夏世の伊達メガネが、俺の両耳に優しくかけられる。それから何故かワザワザ正面まで移動し、満面の笑みを浮かべた。

 

 

「樹万さんと一緒に寝ることです」

 

「........一緒に、寝る?」

 

「より正確に表現するのであれば、夜9時から起床まで共に同部屋で生活する、といったところでしょう」

 

「な、なるほど。要求自体はさして問題ない....と、ちょい待て。お前が得られる利益があの二人にも、みたいなこと言ってたよな?」

 

 

 この時点で大筋の予測は立てられていたが、念のために確認を取っておきたい。もしかしたら、本当にもしかしたらではあるが、過った想像とは違う答えが─────

 

 

「はい。飛那さんとティナさんも樹万さんと一緒に寝るということになります。ですが、同じ日に一度に全員で、というのは満足にイチャ....ンンッ、失礼。満足な語らう時間を取るのは難しいので、一日ごとのローテーションを組むことにしました」

 

「じゃあ、あれか。明日は飛那かティナが同じように来て、その次の日は前日に来れなかった奴が来て....ってことか」

 

「その通りです。順番は此方で決めますので、樹万さんは安心して待っていてください。あと、一周したら一番目に戻りますから」

 

「そ、そうっスか....」

 

 

 どうやら、俺の一人で過ごす静かな夜は空の彼方に飛んで行ってしまったらしい。

 まぁ、ある程度期間が過ぎて、少しほとぼりが冷めたら俺の案も通るだろう。それまでの辛抱だ。

 

 そう自分を慰めつつ、伊達メガネ越しに眺めていた白煙を棚引かせるコーヒーカップを手に取った。

 

 

 

          ****

 

 

 

 俺が読んでいる文庫本は、主人公のサラリーマンが一年発起して仕事を辞め、家を売っぱらって海外を転々とするという中々に思い切った内容のものだ。

 

 そんなあらすじも十分興味を惹かれる要因ではあるが、一番は『海外の風景が文字列から鮮明に想起できる』という点に尽きる。現代ではその大部分が失われてしまった国々の景色が、より具体的な輪郭をもって目の前に浮かび上がるのだから、見ていて実に飽きない。それでいて、細部の造形に関してはある程度読者に想像の余地を与えるところがまたニクい。

 

 ....とまぁ、ツラツラとこの本の良い箇所を挙げはしたが、それらを十二分に楽しむためには、それ相応の環境が必要になる。完全に自分の世界へ没入できる、そんな環境が。

 

 

「樹万さん、樹万さん」

 

「ん、んー?」

 

「コーヒー飲みます?」

 

「いや、大丈夫」

 

「そうですか」

 

「............」

 

「............」

 

「樹万さん」

 

「んー?」

 

「ページ、めくります?」

 

「んや、まだ二項残ってる」

 

「そうですか」

 

「..............」

 

「..............」

 

「樹万さ」

 

「だー!なんなの?!俺読書中!構って欲しいなら素直にそう言って!」

 

「ここで出て行けって言わない樹万さん、私大好きですよ」

 

「ぬぐぐ」

 

 

 俺の膝に向かい合わせの状態で座っている夏世が猛烈にかまってちゃん発揮しているお蔭で、本の世界に全く没入できない。といっても、集中できない環境であると分かってて読んでいる俺にも非はある。ここは素直に読書を諦め、さっきからしきりにTシャツの袖を引っ張ってくる彼女の相手に集中しよう。

 

 あらかじめ言っておくが、決して彼女の『大好き』発言に絆された訳ではない。決して違う。

 

 俺が手元の本から目を離したのを見ると、夏世は冒頭のページに挟んでおいた栞を器用に抜き取り、開いていたページに挿し込んだ。そんな彼女の暗黙の勝利宣言に一つ溜息を零してから、パタリと本を閉じ、掛けていた....というより掛けさせられていた茶縁の伊達メガネを外し、持ち主の顔に戻してやる。そんな俺の行動に若干の驚きを見せた夏世だったが、次の瞬間には嬉しそうな笑顔にとって変わる。

 

 

「この眼鏡、樹万さんがくれたんですよね」

 

「ああ、俺と飛那の私物ばっかりじゃアレだからって、色んな小物を買ってたっけ」

 

「はい。これもその中の一つでした。冗談で欲しいって言ったのに、律儀に包装までして渡してくれるんですから」

 

「はは。まぁ、入社記念って名目もあったんだ。本当はもっと上等なものをプレゼントしたかったんだが、申し訳ないな」

 

「いいんですよ。冗談でも、欲しいっていったことに変わりはありません」

 

 

 夏世は身体の向きを変え、胡坐をかいて座る俺の胸を背もたれ代わりにして体重を預けて来る。その手には、決して高価とは言えない伊達メガネが、しかし大事そうに鎮座していた。

 

 俺は丁度良い温度になりつつあるカフェオレを多めに口へ含み、舌の上でゆっくりと程よい苦みを転がしながら少しずつ嚥下していく。喉を降りていく心地よい熱は、やがて夏世の背と重なり合う腹部で優しく混ざり、芯まで温まるようだった。

 

 そんな風にリラックスしている俺の顔を見ていた夏世は、普段は全く見せない笑顔を再び浮かべながら伊達メガネを耳に掛け、持っていたカフェオレのカップを人差し指で遠慮がちにつついてきた。

 

 

「....飲みたいのか?」

 

「はい。口移し(マウストゥマウス)で」

 

「よし、じゃあ今からもう一杯新しいの作ってくるわ」

 

「嘘です嘘です。普通に頂きます」

 

 

 腰を上げかけた俺の頬をバチリと両手で挟み込んで制止を呼びかける夏世。腕を掴むなり服の裾を引っ張るなりで、その意思を表現するには十分なのだが、何故頬にしたのか。しかもしばらくむにむに揉んで来るし。

 

 言いたいことは諸々あったが、黙ってもう一度坐りなおし、持っていた黒いコーヒーカップを彼女に手渡す。一方の受け取った当人は、とてもただのカフェオレを飲む人間とはかけ離れた珍妙な微笑を浮かべていた。

 

 夏世は直ぐにカップへ口をつけることはせず、入念に香りを吸い込んでから、赤みが増したような気がする表情のまま一度、二度とカップを傾けた。一連の行動に一種の艶めかしさを感じてしまった俺はおかしいのだろうか。

 

 はふ、と熱っぽいため息を吐いた夏世は、カップから顔を離し、俺の肩に頭を預けてクリーム色の天井を茫と眺める。そんな彼女の瞳には、橙色の光を控えめに発するペンダントライトが反射して、ゆっくりと揺らいでいた。

 

 

「夏世は今の生活ってどう思ってるんだ?」

 

「ん....今の生活ですか」

 

 

 そう復唱すると、夏世はおもむろに俺の顔をじっと見つめて来る。それは一見、いつも通りの気怠そうな半開きの瞳なのだが、毎日のように顔を合わせているうちに、その機微が大分察せるようになってきた。

 

 俺はふぅと溜息を吐き、無表情のまま徐々に近づきつつあった夏世のおでこを手のひらでキャッチする。あまりにもナチュラルな動作なため、最初の頃は何度か接触しそうになっていたのだが、ここのところは上手く対応できるようになってきた。

 

 

「ぶう、最近の樹万さんはガードが固すぎます。警戒レベルを下げて下さい」

 

「常習的にレベルを引き上げるようなことをしなければな」

 

「むむ、何故ここまで求めているのに応えてくれないのでしょうか....やはり樹万さんの性的嗜好は年配の方に傾いて──────」

 

「ストップストッープ!はいはい、さっきの質問にまで移りましょうね!ちゃんと相槌を打ってくれる夏世は俺好きだなぁ!」

 

「そ、そうですか。好きですか。私のこと好きですか」

 

 

 一瞬暗いオーラを纏った夏世だったが、俺の『好きだ』発言で一転して表情を変え、前髪をしきりに弄りながら目を逸らすと、唇をツンと尖らせる。よし、危なかった。夏世はああなると行動が全く読めなくなるから、未然に防げて正解だ。

 

 夏世は今更口にするまでもないですが、と前置きを入れると、手にしていたコーヒーカップの中身を一度煽る。そして、カップをベッド脇のチェストにゆっくりと置きながら、その先の答えを紡いだ。

 

 

「とても、幸せです。ここで起こることのすべてが私にとってかけがえのないもので、生きる喜びを感じられるものです。ただ生きる為に生きていたあの頃では考えもしなかった感情ですが....まさか、一時でも『外』のことを忘れてしまえるほどに変わるとは思いませんでした」

 

「外....ガストレアのこと、か」

 

「はい」

 

「そうか....ん、よかったな」

 

 

 夏世はガストレアの存在を片時とはいえ失念したことを自省気味に語ってはいたが、俺はそれを含め、彼女の幸せを『よかった』という言葉で返した。

 

 忘れてもいいのだ。幸福とは負の感情を介在させないからこそ人の中で成立するものであり、幸せを感じたいのならそれら一切を切り離さなければならないのだから。そして、幸せを感じることは罪ではない。故に、忘れることも罪ではないのだ。

 

 俺は対面に座る夏世の額を撫で、前髪をサラサラと弄んでから、こめかみを通って手を移動させ、滑らかで柔らかい頬を包むように撫でる。

 

 

「人間はさ、憎しみだけを燃やして生きることはできないんだよ。だって疲れるだろう?毎日好きでもない奴のことを考えて、その結末を思い描く。当人は復讐までの道のりを快楽的に捉えるが、その実、心の傷をアイスピックでほじくり返してるようなもんだ」

 

「復讐という感情の源泉である生傷が時間と共に癒され、やがて忘れてしまうことを防ぐため、自ら傷つけてその時を鮮明に記憶し続ける....はい。それは確かに、辛いです」

 

「ああ。だからいいんだよ。必要なことだけを胸のうちに仕舞って、復讐の心はその場において来ていいんだ。ちゃんと置いてきたことを覚えてさえいれば、それだけで十分な戒めになる」

 

 

 持ち続けても辛く、苦しいだけだ。それが大きければ大きいほど復讐の原動力は巨大なものとなるが、同時に持ち主の人間性は早々に剥がれ落ちる。『それ』だけを達成する獣になり果て、総てが終わったと同時に心は跡形もなく砕けてしまう。....生きる意味を失うからだ。

 

 嫌な思い出など、時折思い返すくらいでいい。かつての復讐のために生きるより、これから先の幸福のために生きる方が何倍も建設的で、魅力的だ。

 

 何より、彼女たちは悲嘆に暮れ涙するより、幸に溢れ溌溂としているほうが似合っている。それが普段から寡黙で感情表現に乏しい夏世であれ同じことだ。

 

 

「俺はオッサンと一緒に戦争時代を生きたとき、泣きわめく子どもを何人も見た。家を失い、両親を失い、生きる意味を失った子どもたちを」

 

「........樹万さんは、見ていて辛くなかったんですか?」

 

「辛かった。俺もその喪失感を少しは知ってるからかもしれないが、悲しみに頭まで沈みこむより先に、オッサンと出会ったからな。何もかもを蹂躙して破壊し尽くしたはずの恐怖の象徴が、そこらの軽石みたく吹き飛んでく光景を見せられたんだから、悲嘆の心なんてそのうちどっかいっちまったよ」

 

「以前から気になってはいるんですが、その『オッサン』は一体何者なんでしょうか....?」

 

 

 長い間一緒に居たため、自分とあの男とは浅はかならぬ関係であると自負しているが、オッサンは自分の身の上を一切語らなかった。聞いてみても『忘れた』、『知ると死ぬぞ』、『あ、あそこにでっけぇガストレアが』とか言ってはぐらかされるので、結局今日まで聞けずじまいだ。

 

 まぁ、オッサンのことはどうでもいい。確かに大戦中は何度も助けられたが、ただ目的が一致していたから共に行動しただけで、特に戦友といった良い感情は持っていない。故に、夏世には『さぁな』といって言葉を濁しておくことにした。

 

 そして、すっかりズレてしまった話の軸を戻すため、頭を切り替える。

 

 

「俺みたいに、そんな突飛な状況へ放り込まれた子は恐らくいない。少なくとも、俺が見て来た戦地じゃ絶望と死の空気しか漂ってなかった」

 

「それでも、樹万さんは救ったんですよね?そこに居る皆を」

 

「..........」

 

 

 夏世の期待を滲ませた問いかけに、俺は己の心臓に重い鎖が絡みつく光景を幻視した。

 

 否、救えていない。誰一人救えなかった。あの場には希望も救いもなかったのだ。全てが手遅れで、俺とオッサンはそこから更に発生するであろう悪性を取り除くことしかできなかった。

 

 痛い、苦しい、殺さないで、死にたくない、生きていたい。そう懇願する変わりゆく命を刈り取る行為でしか、彼らに報いることはできなかった。

 

 答えに窮していると、不意に両手を暖かく柔らかい何かに包まれる感触があった。それにハッとして顔を上げると、目の前には年不相応な優しい笑みを湛えた夏世の顔が映った。

 

 

「ごめんなさい。酷い言葉でした。樹万さんならもしかして、と思いましたが、そんな都合の良い自分の理想を押し付けるのは甚だ間違いというものです」

 

「....いや、いいさ。生きているのなら、生きていられる可能性は僅かでもあったはずだ。それを十全に模索できなかった自覚はある。恨まれても仕方ない」

 

「そんなことは無いですよ。誰しもが自分の身を案じる中、樹万さんは誰かを救おうと必死だったんですから。その行いは尊いものであって、誹りを受ける謂れはありません」

 

 

 夏世は自嘲気味な俺の言を否定しながら手の五指に自分の指を絡ませ、ぎゅっと握ってくれた。触れ合う肌から暖かい体温と感情が流れ込んできて、ようやく落ち着きを取り戻すことが出来てくる。

 

 俺は渇いた喉を自覚してカップを手に取り、残り少なかったカフェオレを全て胃に落とし込んでから息を吐く。それから目を閉じ、蓮太郎から聞いた、『俺を失った』ときの飛那の様子を瞼の裏で想像する。

 

 

「救えなかった多くの命がある。望まない怨嗟の声を漏らしながら亡くなった人がいる。そんな人たちに少しでも報いるために、俺はこれからの未来を創る子どもたちに全力で尽くすんだ。お前たちに明るい世の中を見せるためだったら、この身体を百だろうが万だろうが潰され、刻まれても耐えて見せる」

 

「────もう、仕方のない人なんですから」

 

「?....っむぉ」

 

 

 結構な勢いで胸に飛び込んで来たものだから、意図せず変な声が出てしまった。その直前に夏世が呟いた言葉は心持ち不機嫌そうな声色だったので、何か不味いことを言ってしまったのかと不安になる。

 

 取り敢えずご機嫌を伺うために表情だけでも確認しようと思ったのだが、残念ながら夏世は両手をしっかりと背中に回してホールドしているため、胸板に押し付けられた顔面は容易には見れない。

 

 どうしたものかと思案していると、夏世はひっついた状態から軽く身じろぎし、顔のみを上げて俺へ視線を飛ばしてきた。....そして、その目の色の本気さに息を呑む。

 

 

「『私たち』のために貴方が傷付くなんて、そんなことは『私』が耐えられません。貴方が傷つきながらも戦うというのなら、私も同じくらい傷付いて、苦しんで戦います」

 

「....俺は死ににくい。命以外なら、犠牲の対価として差し出す場合は他者より安い」

 

「止めて下さい。樹万さんは血を流せば痛みを感じる、私たちと同じ人です。代わりがあるから安いなんて、()()()()()()()()()()()()()()

 

「ッ......すまん、言いすぎた」

 

 

 ──────()()()()()。その発言は、暗闇に浸りかけた俺を的確に引き上げた。

 

そうだ。俺は人なのだ。命は一つ限りで、傷つけられれば創傷は痛み、失えば涙する。オッサンからも、痛みだけは忘れるなと常々言われていた。アレは恐らく、俺が道を踏み外さぬよう注意するものだったのだろう。

 

 救うとか、報いるとか散々偉そうなことを言っておきながら、救うべき子に諌められるなど情けなさすぎる。当人がこれでは先人たちも未来を託すのを躊躇うというのものだ。

 

 

「はぁ....かっこ悪いな、俺」

 

「何言ってるんですか。貴方は世界一格好いいですよ」

 

「!......お、おう」

 

「ふふふ。樹万さん、照れてます。なるほど....こういうアプローチが効果的なんですね」

 

 

 夏世は何やらメモ用紙を取り出すと、付属のクリップで挟んでいたボールペンでしきりにメモを取り始める。その表情は朗らかで、やはり夏世は無表情より笑顔の方が似合うなと、改めて思った。

 

 そんな夏世を横目に見ながら、ふと傾けたコーヒーカップは空。時計の針は零時過ぎ。

 

 

「────今日はここまでにするか」

 

 

 俺はカップに残った一滴のカフェオレを舌の上に落とす。

 

 その味は、幾分か甘かった。

 

 

 

          ****

 

 

 

 樹万さんはコーヒーカップを洗い場に持って行ってから帰ってくると、私の対面に座って結んだ髪を解いてくれる。くすぐったくて、こそばゆくて、でもずっと触れていて欲しくなる時間だ。

 

 今日は貴重な一日だった。普段は気丈に、気高く振る舞う彼だが、その裏には数多の苦難を背負っており、ある種の強迫観念ともとれる『強くあれ』という思いがあることを知れたのだから。

 

 美ヶ月樹万は、私が勝手に押し付けていた理想像とは程遠い。何もかもを可能にする英雄などではなく、人並みに悩み、これからの未来を案じる一人の人間だ。ただ、苦鳴を呑みこみ、理不尽に抗う意志が多少なりとも強いだけ。

 

 それでいい。一人で全てを解決できてしまう存在では、私が此処に居る意味が無くなってしまう。それではあまりにも淋しい。もっと頼ってほしいし、縋ってほしい。

 

 そう。叶うのなら、私だけに────────。

 

 

「おい夏世?髪、解き終わったぞ」

 

「ぁ....すみません。ぼーっとしてしまって」

 

「ちょっと話し疲れたか?遅くまでごめんな」

 

 

 先ほどまで不純な思考に埋没していたことを知らない彼は、純粋に私を労う笑顔を向け、下ろした髪を梳いてくれる。こんな自分にここまでの優しさなど、分不相応だといつも思う。もっと飛那さんみたく明るくなれればいいのに、私の顔はいつまで経っても上手く動いてくれない。

 

 樹万さんはライトを消すためにベッドを離れるが、私も何となくそれについていく。聖天子様はとてもいい部屋を私たちに賜ってくれたのだが、いかんせん広すぎて自然と彼との距離が出来てしまう。部屋一つとってもこれだ。

 

 

「っと、ライト消したら足元暗くなるぞ」

 

「では、私の目が暗順応するまで待っていてくれますか?」

 

「それまで突っ立ってるのは妙な光景過ぎるな。じゃあ、ほれ」

 

「!」

 

 

 唐突な浮遊感。回された手の感触と位置を鑑みるに、どうやらお姫様だっこされているらしい。大方無意識なのだろうが、これは狡い。女性に対しこんな芸当をさらりとできるなど、相当な甲斐性だ。....尤も、女性として意識されていないという可能性もあるのだが。だとしたら誠に遺憾である。

 

 

「あのー夏世さーん、お布団に着きましたよー?」

 

「樹万さんなんて知りません」

 

「知りませんとか言いながら俺の首に腕を巻き付けるって、一体どういうことなの」

 

 

 とはいえ、あまり意固地になって好感度を下げても仕方ない。飛那さんとティナさんには悪いけれど、このままベッドインさせて貰おう。

 

 ということで、そのままベッドに寝かして頂くよう進言し、降ろされた瞬間に力を解放。今まで私を散々苦しめた忌まわしい赤目の能力だが、彼を助けるときや、『こういう場面』でも役に立つのならば赦せる。

 

 私を寝かせるためにただでさえ中腰の姿勢だったのだ。その状態から突然首を掴まれ、前に引っ張られれば、そのまま倒れ込まざるをえない。流石の彼とはいえ、想定外だったことも手伝い、容易にベッドの中へ引き摺りこむことができた。

 

 しかし、唐突にこんなことをしでかした私に、彼はかなりお冠らしい。

 

 

「夏~世~?」

 

「樹万さん、すみません。でも、こうでもしないと向き合って寝てくれないでしょうから」

 

「いや、それは......ぐむむ」

 

 

 すぐさま返答できず答えに詰まる樹万さん。やはり図星であったらしい。彼には悪いが、強行してよかったと思う。

 

 先んじて釘を打ちこんだので、彼は迷う素振りを見せながらも、この場からは絶対に動かないという私の意を察したか、やがて諦めたかのような溜息を吐き、掛布団を引っ張って私と自分にかぶせた。

 

 普段から彼が使用しているベッドなので、その途端に脳を溶かすような香りが鼻孔を抜け、思わず内股を擦り合わせてしまった。

 

 しかし、交わした盟約のこともあるので、これ以上は流石に踏み込まない。あとはただ、この愛しい温もりと香りに包まれて夢の中に落ちるだけ。

 

 とても名残惜しいが、筆舌に尽くしがたい多幸感と安心感からか、既に睡魔が足元辺りにまで迫ってきている。無論限界まで抗う腹積もりだが、直後に胸元へと抱き寄せられ、頭を撫でられてしまった。これは....あぁ、堪える。

 

 

「全く仕方のないお姫様だなぁ。でも、そういうところも含めて好きなんだけどな」

 

「ん......私も、好きですよ....。樹万さん」

 

 

 急速に受け取る情報の精度が落ちてゆく。

 

 ただ、ただ心地いい。全身を苛む衣服の擦れる感触すら、その心地よさを助長する。それに合わせ、呼気を行うたびに彼の香りが思考を甘く犯すのだ。もしもこの状態が覚醒時に起きていたら、自制できる自信は無い。

 

 

「おやすみ、夏世」

 

 

 止めとばかりにそう耳打ちされ、私の意識はあっというまに蒸発(ブラックアウト)した。

 




はい。番外編の夏世ちゃん回は如何だったでしょうか。
もう少し甘々成分が欲しいと思った方はすみません。(あれば)第二回にご期待ください。


そして、今話の後書きを更新するに至った原因を一つ。

できれば、番外編に限り一話につき一枚の挿絵を挟もうと思っております。やはり小説に絵(花)があれば一層作品として良いと思うんですよね。(以前挿絵要らないと言った自分から目をそらしつつ)
原作を知らないまま本作を呼んでいる方もおられるかもしれないので、できれば夏世、ティナといった少女たちの姿を目にして、幼女...いえ、原作の素晴らしさを知っていただけたらと思います。

とはいえ、原作を知っている方も無論おられるので、そのイメージを崩したくない、鵜飼沙樹さんの絵しか許せない、という方は閲覧をお控え下さい。私自身絵描きとしてはひよっこなので、読者の方々全員の目を十分に楽しませられる自信はありません。

以上の注意点を留意して下さる方のみ、閲覧をお願いいたします。


コンセプトは『読後の休息』です。
【挿絵表示】


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