孤高のグルメ ~ナリタブライアン健啖録〜   作:後出 書

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千葉県船橋市の洋食屋

 去年は散々な一年だった。

 

 そんなことを考えながら、ナリタブライアンは電車に揺られていた。

 

 天皇賞秋12着、ジャパンC6着、有記念4着。

 

 史上五人目の三冠を達成し、G 1五連勝、通算レコード四回という鮮烈な記録を打ち立てた一昨年とは打って変わって、去年出走したレースの内二戦は掲示板を外すという痛恨の下半期。

 

 決して気を緩めていたつもりはない。

 

 寧ろ、より一層精進せんとの意気込みで髪を少しだけ短くしたほどだ。

 

 だが、その気概とは裏腹に結果は散々なものとなってしまったのは事実。極め付けは髪を切ってからしばらくして右股関節炎が発覚してしまうというまさに弱り目に祟り目の現状。トレセン学園内でも〝ブライアンはイメチェンに失敗したから運気が下がった〟などと陰で噂される有り様だ。

 

 始めこそジンクスや悪評に抗おうと奮闘していたブライアンだったが、怪我ばかりはどうしようもない。より過酷なトレーニングを課して不安を吹き飛ばすという術さえも封じられたブライアンは心身ともに衰弱しつつあった。

 

 そんな妹を見兼ねた姉のビワハヤヒデは、ブライアンにこんな助言をした。

 

『今は耐え忍ぶ時だ。騙されたと思って、しばらく走ることを忘れてみるといい。押して駄目なら引いてみろという言葉もある。これまでの勢いの分まで心身共に休養を与えてみてはどうだろう。そこにこそ、きっとスランプから抜け出す糸口があるはずだ』

 

 知的で理論的な姉にしては随分と陳腐で眉唾な助言をするものだとブライアンは思った。しかし、それは同時にあの聡明な姉の目から見ても最適解や打開策を導き出せないほどどうしようもなく、陳腐で眉唾な助言を送らざるを得ないほど不憫に思えたということだろう。

 

 要するに〝見ていられなかった〟のだ。

 

 電車の窓に映る自分の顔は覇気は薄れ、頬もやや痩せこけたように見える。確かにこれでは家族に心配をかけるのも無理はない。

 

 自分のため、というよりは姉の顔を立てるため。何より、誰かさんのように頭でっかちになってはいけないと思い、今こうして当てもなくふらっと外出しているというわけだ。

 

「走るのを忘れろというが姉貴……悪いがそれは無理だ」

 

 ブライアンが降りた駅は千葉県船橋市にある船橋法典駅。三冠の一つ目、皐月賞が開催される中山レース場の最寄り駅だ。

 

 平日の駅前は閑散としているが、土日になるとレースを見に多くの人で賑わう。特にG1の開催日となればその熱量と響き渡る歓声は痛みすら覚えるほどだ。改札を出たブライアンは深呼吸を一つし、初めて重賞の熱気に触れた一昨年の出来事を思い返していた。

 

『ナリタブライアン勝ちました! ナリタブライアン堂々と! 堂々と皐月賞を制覇! ナリタブライアン堂々と皐月賞を制覇しました!』

 

 あの日、あの広大なレース場で十八人の才気溢れる強豪たちをねじ伏せて頂点にたった瞬間。ゴール版を駆け抜けて尚鎮火しなかった内なる炎。血の滾り。興奮と熱狂。ここには……この場所にはこれまで先人たちが築いてきた戦いの歴史と蹄跡が刻まれているのだ。

 

 火種とは、酸素を送り込む事で猛る炎となる。

 

 ここ船橋法典に漂う闘争の残り香を肺一杯に取り込んだ時、ブライアンは胸の奥で燻っていたものに僅かな灯りが点った気がした。

 

 ふと、取り込んだ空気の中にイイ匂いが混ざっていることにブライアンは気づいた。それと同時に自分が今空腹を覚えていることにも気づく。時計を見ると気づけば昼時。釣られるかのようにブライアンは匂いのする方へと脚を向けた。

 

(ここか……うん? 本当にここか?)

 

 辿り着いた先は1階がテナントスペースになっている集合住宅風の建物。イイ匂いは確かにここから漂っている。しかし、飲食店か判断しづらい。控えめな看板に引き戸。のぼりやメニューが書かれたサンドイッチボードが無ければ何の店かわかる人は少ないだろう。

 

 ここで臆して引き返すか意を決して踏み入るか。そんな考えを与えぬほどの空腹感とそれを刺激する洋食の香り。食欲に抗えなくなっていたブライアンはおそるおそる店の扉を開けてみることにした。

 

「いらっしゃいませ。カウンターでもテーブルでもお好きな席へどうぞ」

 

 外観を裏切らないこぢんまりとした内装。

 ラーメン屋のようにキッチン前は長いカウンター席となっており、奥はテーブル席となっていた。

 

 ブライアンはテーブル席の真ん中へ座ると、受け取ったメニューを開く。

 

(オムライス、本日のパスタ、ハヤシライス、ハンバーグにサーロインステーキ。典型的な洋食屋のようだな)

 

 店の外から漂う芳醇な香りはおそらくこの店特製のデミグラスソースだろう。洋食屋のデミグラスソースと言えばその店の味の基礎とも言うべき主柱。それを存分に堪能出来るハヤシライスにするべきか。いや、今はとにかく好物の肉が食べたい。ならここは噛み締める度に旨味が溢れる赤身のサーロインにするべきか。いや、ここは——

 

「ご注文はお決まりでしょうか?」

 

「ハンバーグステーキのランチを」

 

 ハンバーグであれば肉料理。尚且つ洋食屋のハンバーグにはデミグラスソースが通例。このチョイスならば、肉を食べたい欲求とデミグラスを味わいたいという欲求を両方カバー出来るという寸法だ。一抹の不安があるとすれば、メニューには写真が掲載されていなかったこと。シンプルな文字のみのメニュー表にはある種の自信のようなものが感じ取れたのは確かだ。しかし、だからといってデミグラスソースではない可能性は決してゼロではない。

 

 ハンバーグやステーキといった所謂グリル料理にはそれに合わせるソースが無数にあり、店によって提供されるソースもまた千差万別だ。大根やたまねぎのすりおろしを使った和風おろし。ガツンとにんにくのパンチが効いたガーリック醤油、イタリアンならトマトソース。家庭で作る際はハンバーグを焼いた後のフライパンに残った肉汁と赤ワイン、ケチャップとウスターソースを混ぜて作る簡易的なグレイビーソースを用いる場合も多い。実家で母や姉が作ってくれるのがまさにそのタイプだ。いずれにせよ、こういった洋食専門店ではまずお目にかからないだろうが、万に一つということも有り得る。

 

 もしデミグラスソースでなかったとしたらこの欲求を鎮めるためにハヤシライスの追加注文さえも厭わないと考えていたブライアンだったが、その覚悟は杞憂に終わった。

 

「お待たせしました。ハンバーグステーキのランチでございます。お先にライスから失礼します」

 

 平皿に盛られたライスは洋食屋ならでは。続いてテーブル中央に置かれたハンバーグ。ステーキ専門店や大衆レストランでは冷めないように鉄板皿に乗って提供されるがこういった本格的な洋食屋では違う。白い平皿に乗ったラグビーボールのような楕円形の大きなハンバーグ。そこにたっぷりとかけられたデミグラスソース、そして付け合わせのサラダ。白、茶色、緑、シンプルな色合いが実に洋食的だ。

 

 その見た目、香りによって刺激された食欲は既に限界を迎えていた。ブライアンの口内は決壊したダムの如く唾液で溢れている。生唾をごくりと飲み込み、ナイフとフォークを構え、ただ一言「いただきます」と呟いたブライアンは大きなハンバーグにフォークを刺す。

 

 刺しただけで溢れ出す半透明の肉汁。パンパンに膨らんでいる肉塊の中に旨味が爆発寸前にまで詰まっている証だ。ナイフで切ると更に流れ出る様はまさに肉汁の滝。旨味が皿に全て抜け出してしまわぬよう、ブライアンはまだ湯気が立ち昇る熱々のハンバーグを一切れ口に放り込んだ。

 

「あふっ……ほふほふ……ハフッ」

 

 粗く肉感が残った大粒の挽肉の塊は噛み締める度に肉汁が次から次へと溢れ出てくる。口に入れてまず初めに感じるのは強烈なまでの肉の主張。粗挽きならではの弾力のあるワイルドな噛み応えは細引き肉では決して味わえない満足感がある。例えるなら、米粒サイズのステーキ肉を口いっぱいに頬張っているかのよう。次に押し寄せるのは玉ねぎの甘み。しっかりと炒められた玉ねぎの甘みが肉汁の波に乗って舌から脳へとダイレクトに旨味の追撃を与えてくる。たった一口でこれほどの満足感を与えてくれたハンバーグには未だかつて出会った事がない。極め付けはハンバーグにかけられているデミグラスソース。ニンジン、トマト、セロリ、玉ねぎなど幾つもの香味野菜を煮込んで抽出したであろう自然な甘み、バターや赤ワインのコクや酸味。それらがハンバーグの肉汁と組み合わさることで最高のハーモニーを奏でていた。

 

 肉本来の味を決して邪魔せず、主張しすぎず、だがしっかりと奥深さを感じさせる絶妙な存在感。料理本来のポテンシャルを十二分に引き出している。ハンバーグをライスにワンバウンドさせてから口に放り込み、そこに旨味たっぷりのソースが染みたライスですかさず追いかける。その合間で苦手な野菜サラダを挟むローテーション。食べるほどに飢えていくかのような感覚にフォークが止まらない。繊細だが力強い味わい。武骨なれど優雅。ブライアンはこの日、本物の洋食の真髄を見た。

 

「ご馳走様でした」

 

 両手を合わせて静かにそう呟いたブライアンが会計を済ませようと席を立った時、隣のテーブル席に向かい合わせで座っていた二人の女性の話し声が耳に入ってきた。

 

「ねぇ知ってる? ここのオーナーシェフって、三十年前までフレンチのレストランとか一流ホテルに勤めて修行してたんだってー」

 

「へぇー、だからどの料理も美味しいんだ」

 

「特にオムライスが絶品だよね。卵がふわっふわでトロトロ。私毎回頼んじゃうもん」

 

(……チッ、また来る理由が出来てしまった)

 

 燃焼とは点火源、可燃物、支燃物が揃って初めて起こる反応である。一つでも欠けてしまえば炎が起こることはない。再燃に必要な要素を全てこの船橋で手に入れたブライアンは帰りの電車に揺られながら、中山レース場を駆けるイメージトレーニングを頭の中で繰り返していた。

 

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