〝名残の桜(その背中)を見た瞬間、時代の変革を感じた〟
晴天に恵まれた京都レース場。
ラスト数百メートルのところで凄まじい末脚を繰り出して一気に先頭に躍り出た一人のウマ娘を見た時、胸中にそんな想いが過ったのを今でも覚えている。
ピークを過ぎたとは思いたくはなかった。
しかし現実は残酷で、昨年の天皇賞秋から成績は不調続き。この天皇賞春を機に返り咲く。そう意気込み万全に仕上げてきたつもりだった。
第四コーナーを回りマヤノトップガンと並んだ時、阪神大賞典の時と同じように気持ちが昂った。おそらく彼女もそうだったであろう。負けじ抜かせじの意地と意地。拮抗再来を僅差で制した時、僅かに気を緩めてしまった。勝った気になっていた。
『サクラだサクラだ! サクラローレル先頭!』
そんな油断を突くかのように、私の横を春風が華麗に抜けて行ったのだった。
(……焼きが回った——というより、もう潮時かもしれんな)
自室のベッドで仰向けになりながら、ブライアンは一人天井を眺める。先日のレースからこのような状態が続いている。
度々姉のビワハヤヒデが心配して様子を見に来てくれており、昨日も実家から荷物が届いていたと言ってダンボールを抱えてやって来ていたが、それに対して素っ気ない相槌を返すしか出来なかった。
こんな自分に対し、同室のタニノギムレットは話しかけてくることはない。気を使ってくれているのか。はたまた腑抜けたウマ娘にかける言葉を持たないだけか。いずれにせよ窮屈な想いをさせているのは申し訳ないと思い、せめて彼女が練習を終えて戻ってくる間は部屋から出ていようと久方ぶりにベッドから体を起こして立ち上がる。顔を洗い、鏡を見るとそこには覇気のない自分の顔が映っていた。
(なんて顔してるんだ。とても人前には出せないな)
溜息一つ吐いて寝巻きから着替え、部屋を出る。どこに行くかなんて目的はない。ただ部屋から出たかっただけ。あのまま部屋で塞ぎ込んでいては一生立ち上がれなくなる。何となくそんな気がしていた。
滅入る気持ちをほんの少しだけ払拭してくれたのは、廊下から漂ってくる美味しそうな香り。その匂いに釣られるように向かった先は遼の台所。そこには、テーブルの上にまだ湯気を放つカレーライスが置いてあったのだ。
(やはり匂いの正体はこれか。……ん? なんだこの紙は。手紙か?)
スプーンとコップに入った水と一緒に一枚のメモ書きが置いてあり、目を通すとどうやら自分宛に残されたものだと知る。
『アンタの実家から届いた野菜で作ったヒシアマ姐さん特製、野菜たっぷりチキンカレーだよ! 最近ロクに食べてないってアンタの姉貴から聞いたから、これ喰って元気出しな。そんでアタシとタイマンだよ! おかわりもあるからね!』
荒々しい文体に似合わず可愛らしい文字に思わず笑みが溢れる。わざわざ美浦寮の寮長が栗東寮まで出張ってくれた。おそらく、ここの寮長フジキセキもこのことを了承してくれたのだろう。改めて自分が多くの者に心配をかけていたのだと気づいた。
(なるほど。この前、姉貴が持って来ていた荷物の中身は実家から届いた野菜だったのか。それにしてもタイマンとは。ふふっ、なんともアマさんらしい。野菜は得意ではないが、挑まれた勝負から逃げるわけにはいかないな)
椅子に座ると、湯気に乗ってカレーの香りが鼻腔を刺激する。食欲を唆るスパイスの香りに堪らずブライアンはスプーンを手に取る。
「いただきます」
ルーとライスをすくい、大きめに切られた鶏もも肉と共に口に入れる。
(なっ、なんだこのカレーは。一口目から押し寄せる旨みが半端じゃないぞ。香り、辛み、甘み、酸味のバランスが絶妙だ。鶏肉も食べ応えがある。それでいてよく煮込まれていてとても柔らかいぞ。しかもしっかりと下味が付いているじゃないか。噛むたびにルーとはまた違ったカレーの風味とヨーグルトの酸味が滲み出てくる。タンドリーチキンのようにカレー粉とヨーグルトを合わせたタレに漬け込んだのか)
少食気味で寝ぼけていた胃袋がたった一口で一気に覚醒。食欲に火が灯ったブライアンはがっしり皿を掴むと次々とカレーを掻き込んでいく。
(クミンを効かせているからかインドカレー屋のようなエスニックさが際立っている。それにこのまろやかさの正体はバターか? スパイスの効いた辛口カレーの味をマイルドに。尚且つ強いコクを与えている。にんにくで味全体にパンチが加わり、生姜の効果で体がポカポカと温まってきた。家庭的でありながら本格的な味わい。だが何故だ? どこか懐かしさも感じる……)
食べ進めるうちにブライアンはその違和感の正体に気づいた。ヒシアマゾンのメモには野菜カレーと記載があるにも拘らず野菜の姿が見当たらないのだ。だが、舌先に神経を集中させるとスパイスに誤魔化されてはいるが確かに野菜の存在を感じる。
(ヨーグルトだけじゃない。この酸味はトマト由来か。ならこの甘みはよく炒めたタマネギとニンジンの擦りおろし、煮溶けたカボチャ……なるほど、懐かしいわけだ)
ふと脳裏に過ったのは姉のビワハヤヒデが作ってくれたカレー。偏食な妹の為に野菜を細かくし、煮込んで手間をかけてくれた。
(そういえば、以前も二人にカレーを作って貰ったことがあったな。あれも美味かったが、こいつはそれを更に超えている。陳腐な言葉になるが、二人の愛情がこの一皿から十二分に伝わってくる)
実の姉と、姉のように世話を焼いてくれる存在。二人の気持ちがブライアンの心と腹を満たしていく。
(嗚呼、美味い。美味いなぁ。こんなに美味いカレーは今まで食ったことがない。スプーンを口に運ぶ手を止められない)
静かなキッチンに響くスプーンが皿を叩く音。そしてポタポタと、皿を打つ雫の音と少しだけ鼻を啜る音。
二杯、三杯とおかわりを繰り返し、鍋のカレーと炊飯器のごはんはすっかり空となった。コップの水をぐいっと飲み干し、服の袖で目元を擦り両手を合わせてただ一言「ごちそうさまでした」と呟く。
いつまでも情けない姿は晒せない。
今出来るベストを尽くすのみ。
二人の姉の想いを胸に、ブライアンの心に真っ赤な情熱が再燃する。
(変わることを恐れるな。例え無謀な賭けだとしても賽を振らないよりはずっと良い。トレーナーは反対するかも知れない。世間も納得しないかも知れない。だが、このままジリジリと燃えカスになるのならいっそ派手に燃え尽きたい。例え未来がどうであれ、それが私の選んだ道なのだから)
その数日後、ナリタブライアン側から発表された異例のローテーション。長距離の天皇賞春から短距離の高松宮記念へ出走は界隈に大きな波紋を呼ぶこととなる。
〜後日〜
「おいブライアン! アンタ昨日のアレ、本気なのかい!?」
「あぁ、誰かと思えばアマさんか。アレとは?」
「スプリント出走の件だよ! なんでまたそんな妙なローテーションを組んだのさ!」
「なんとなくだ。深い意味は無い。そんなことよりアマさん、あのカレーまた作ってくれ」
変わることを恐れない。
例えどんな結果になろうともそれを受ける。
本音を隠し、ぶっきらぼうに答えたブライアンは心の中でその一歩を踏み出すきっかけと勇気をくれたヒシアマゾンに深く感謝をしていた。
「まったくアンタって奴は……しょうがないね。いっちょ作ってやるか!」
呆れながらもヒシアマゾンは頼まれたカレーを作り、ブライアンはそれを五杯も平らげたのだった。