朝、日が昇るよりも前にナリタブライアンはトレセン学園のジャージ姿で外へ出る。
外は暗く、吐く息は白い。
ピンと伸びた耳は寒さで痛いくらいだ。
身震いを一つし、覚悟を決めてブライアンは走り出す。レースは引退したが、走ることは辞められない。走らずにはいられない。感覚としては習慣というより本能に近いだろうか。
医者からは足に負荷をかけず軽めのランニングを少し位ならということで許可も得ているため、右足にサポーターを巻いてほぼ毎朝この時間に走っている。しばらく走っていると、人通りが疎に増え始めていることに気づく。いつもなら誰もいない時間にも拘らず、何やら賑やかな雰囲気である。
(嗚呼、そうだった。今日は元日か)
この先には地元の神社があるので、初詣に向かう参拝客がこの時間に集まっているのだろう。
(仕方ない。今日はルートを変えるか)
来た道を引き返し、いつもと違う道を走ることにしたブライアン。
誰かと競う走りではなく、自分のペースで。
決められたコースではなく、気分と足の赴くままに。去し日々の滾りは無いにせよ、これはこれで存外に気持ちがいいものだ。夜空が白み始め、初日の出を拝みつつ自宅へ続く道を戻るブライアン。ランニングを終えて戻る頃には時間は七時を過ぎていた。
玄関を開けると姉のビワハヤヒデがエプロン姿で出迎えた。
「なんだ、またランニングに行っていたのか。新年早々精が出るな」
「そんなんじゃないさ。姉貴こそおふくろに手伝わされてるのか。エプロンなんか着て」
「お前も帰省した時くらい母さんの手伝いくらいしろ。それと昼頃に家族全員で初詣に出掛けるから汗を流して着替えて来い」
「やれやれ、あれこれ注文が多いな。とりあえず風呂に行ってくる」
着替えとタオルを持ってブライアンはシャワーを浴びるため風呂場へ向かう。汗を流して私服に袖を通し、長い髪をドライヤーで丹念に乾かし、いつもの髪留めをして居間へと向かう。
父が既に銚子に入った熱燗で一杯やりながらドラマ番組を観ていた。正月の特番でよくやってる全話イッキ見のスペシャル番組らしい。
別段興味もないのでこたつに入るとカゴの中に入っていたみかんを一つ取り、ながら見しながら口に運ぶ。
(ん? このドラマの主役の男……何処かで見た気がするが……どこだったか)
思い出そうとするも全く思い出せない。だが、あの長身とスーツ姿には確かに見覚えがある。このドラマのように、どこかの飲食店だっただろうか。だとしたらカメラが回っていたはず。しかし撮影クルーなど見た覚えなどない。ならどこで……。
風呂上がりで火照った身体にこたつの暖かさが考え事をしていたブライアンを心地良い眠気が誘う。
こたつで居眠りをしてからどのくらい経っただろうか。寒さで目を覚ましたブライアンは起き上がると、居間の電気はこたつも含めて全て消えていた。
スマホを見ると姉から一通のメッセージが届いていた。
『起きなかったから先にみんなで初詣に行っている。起きて来たくなったら連絡をくれ』
元旦に初詣。人混みは必至。
それだけで外に出る気は失せる。
しかしそれでも腹は減る。
ブライアンは姉への返事を後回しにし、台所へと向かう。冷蔵庫にはおせちの重箱。コンロの上には雑煮用の出汁が入った鍋があった。
(雑煮か。久々に食べてみるか)
ブライアンは台所のストーブで餅を焼きながら、鍋の出汁を温め直す。
具材の小松菜や蒲鉾、三つ葉等は切り分けられて冷蔵庫に入っていたが蒲鉾だけを数枚セレクト。焦げ目が付いて膨らんだ餅を大きめのお椀に入れ、鍋の中の出汁を注ぐ。出汁の中には細かい鶏肉や干し椎茸が入っていた。
台所のストーブを消し、おせちの重箱と雑煮の入ったお椀を持って行く。新たな年になって初めての食事。母と姉の手料理とは何とも感慨深いものだ。ブライアンは実家で普段自分が使っていた箸を手にして居間のこたつに入り、自分以外誰もいない実家で一言呟いた。
「いただきます」
まずは雑煮から。醤油と鰹、そして干し椎茸で取った出汁の香りが湯気と共に鼻腔をくすぐる。一口啜ると、鰹と椎茸に加えて鶏肉の脂の旨味も口いっぱいに広がる。
(嗚呼、そうだこの味だ。我が家の雑煮は干し椎茸の出汁が効いていたっけ。小さく切られた鶏肉からも旨味が出ていて餅によく絡んでいる。小さい頃から慣れ親しんでいる味だ。しみじみ美味い)
鶏肉、椎茸、餅の次に蒲鉾へ箸を伸ばす。
元旦に食べる紅白蒲鉾は見た目も縁起が良く特別感がある為ブライアンは特に好きだった。
(このぷりっとした他の食材ではあまり味わえない独特の歯応え。たまらないな)
出汁をもう一回飲み、積み重なっていた重箱を広げる。中身はどこにでもある普通のおせち料理。数の子、田作り、伊達巻、海老の塩焼き、鰤の焼き物、紅白なます、昆布巻き、里芋の煮物。栗きんとんや黒豆などの甘い料理は別のタッパーに入っていたが今回は持ってこなかった。重箱には他にも肉好きのブライアンの為にローストビーフや豚肉の八幡巻きも入っていた。八幡巻きの中にはニンジン、いんげん、ゴボウが入っている。野菜嫌いのブライアンの為にある日からレギュラー入りしたおせちの一品である。
(この八幡巻き。まだ作っていたのか)
ブライアンはそれに箸を伸ばして一口で頬張る。
(そうだそうだ。この甘辛いタレで野菜の味を誤魔化して喰わされていたな。きちんと咀嚼して味わっていると徐々に野菜の味がタレと肉の味を押し除けて顔を出すんだ。それさえも何だか懐かしく感じるな)
ブライアンは口に広がった野菜の味を流し込むように雑煮の出汁を啜る。次に箸を伸ばしたのはローストビーフ。これも百貨店で買ってきたものではなく手製だろう。何やら昨晩ビワハヤヒデが炊飯器の中に調味液と肉の塊を入れたジップロックを入れているのを見たのでおそらくその成果がコレなのだろう。なるべく数日間日持ちする料理で構成するのがおせち料理の定石。聡明なビワハヤヒデがそれを知らぬはずが無い。
(姉貴のやつ、今日一日で私が喰い尽くすと見込んでのことか。ならばその想いに応えなくてはな)
少し厚めに切ってあるローストビーフをむしゃりむしゃりと噛み締めるブライアン。噛むほどに口内に広がる肉汁。低温調理でじっくり火入れしているからこそ冷めても尚ジューシーさが完璧に閉じ込められている。なによりこの赤ワインベースのソースが秀逸だ。中身はわからないが若干の酸味と甘味が牛肉の味をより引き立ている。
ローストビーフを全て平らげ、紅白なますと里芋以外を全て一つずつ食べたブライアンは箸をお椀において両手を合わせて一言呟いた。
「ごちそうさまでした」
片付けと洗い物を済ませたブライアンは縁側へ出て、食事で熱くなった身体を外の冷たい風で冷ます。
「色んなものを喰って来たが、やはり実家の味が一番舌に合う。美味かった」
風は冷たいが一月にしては日差しは暖かい。
一瞬だけ強く吹いた風がブライアンの長い髪を揺らす。
「もっと暖かくなったら北海道でも行ってみるか。海鮮、スープカレー、ラーメン。あそこなら美味いものはまだまだたくさんあるだろう」
そんなことを考えていると家族が帰宅したようで、玄関から家族の声が聞こえて来た。
「ご帰宅か。さて、小言を言われる前に自室に戻るかな」
自室に戻る道中、ブライアンは思い出した。
朝方、居間で父が観ていたドラマの主役の俳優とどこで合ったのかを。
「あぁ、巣鴨のモンゴル料理屋を覗いていた男だ」
〜その後〜
「そういえばブライアン。帰ってくる途中でゴールドシップに合ったぞ。お前に渡して欲しいフランス土産があるとかで預かって来たんだ」
「ゴールドシップが? 中身はなんだ?」
「1/650エッフェル塔プラモ」
「……捨てておいてくれ」