気が重いと思っていたが、終わってみればそれは全くの杞憂であった。
ナリタブライアンがここ東京レース場に足を運んだのは去年のジャパンC以来である。
先日の中山レース場の時とは違い、今日の目的はレース観戦。後にG1レースに昇格するGⅡレース、フェブラリーステークス。それに知り合いの一人が出走するのだという。
最初は遠巻きに観戦席から様子を伺うだけのつもりだったが、是非とも憧れの三冠ウマ娘であるナリタブライアンから激励が欲しいと彼女と彼女のトレーナーからのたっての希望に応えるため控え室に向かうことになったのだった。
出走前に軽く言葉を交わしたが、芝以外のレースに出たことがない事に加えて現在不調の只中にいるブライアンには彼女にしてやれる的確な助言などあるはずもない。抽象的な励ましや月並みなアドバイスしか出来なかったが、それでも彼女はブライアンの目を真っ直ぐに見つめて力強くこう伝えた。
『来てくれただけで嬉しいです。力の限り走りますから、見ていてください』
冷たい雪の降る中、結果こそ散々ではあったものの彼女は最後まで諦めることなく力強く走っていた。薄ら積もった雪を踏みしめながら東京レース場を後にするブライアンはふと考える。
(今の私は、あの眼差しを向けられるに足る存在なのだろうか……)
レース前とレース中に見せた彼女の熱い視線が今も脳裏に焼きついて離れない。
憧れや羨望を散りばめ、レースへの熱意と勝利への執念に燃えていた煌星のようにキラキラ輝く無垢な瞳。
あの熱を奪ってはいけない。
憧れを裏切ってはいけない。
その為に自分が今すべきことは、出走予定の阪神大賞典で一着を勝ち獲ること。決意を胸に歩いていたブライアンはふと足を止める。
「しまった。通り過ぎたか」
考え事をして歩いていたせいで、府中本町駅どころか市役所本庁舎さえも通り過ぎていたことに気づき来た道を引き返そうとしたブライアンだったが、再び歩みを止めた。
「ごちそうさん、また来るよ」
鳶職か大工と思しき、つまようじを咥えた初老の男性とそれに続いて数名の若衆が目の前の店から出て来た。
お食事処と書かれた年季の入った味のある看板。その外観からはいかにも長年やっている店であろうということが伺えた。チラッと見えた店内は男性客ばかりであったが、意外にも賑わっていた。まだ太陽も高いというのに、テーブルにはビール瓶も見える。女一人。特に年頃の娘——否、ウマ娘には入りづらい雰囲気ではあるが、好奇心と空腹が若干上回った。戻る前に軽く腹ごなしをしようとブライアンはその店ののれんをくぐることにした。
「いらっしゃい」
店のおばちゃんの声と男性客からの好奇の視線に迎えられ、ブライアンは店に入ってすぐ右手にあるテーブル席へと座る。さっと喰ってさっと出れる最短の場所を選択したのだ。わかってはいたが、やはり居心地は良くは無い。気を取り直すべく店内を見渡すと壁にはメニューが貼られていた。品数は多からず少なからずで丁度いい。あまりにも多すぎると、選ぶのに時間が掛かってしまうからだ。
「生姜焼き定食。それと単品で目玉焼きを」
おばちゃんがお冷をもってきたタイミングでブライアンは注文を済ませた。本当は定食のみで終えるはずだった。しかし土壇場で目に入った目玉焼きも頼んでしまったのは、この店独特の雰囲気に当てられたからに違いない。そんなことを思いながらブライアンはなんとなく店内を見渡す。先程は気づかなかったが、壁面のメニューの上には著名人らのサイン色紙がいくつも飾ってあった。加えてこの客の入り様から察するに、知る人ぞ知る名店なのやも知れない。
僅かに膨らむ期待にパイプ椅子から出た尻尾も無意識に揺れていた。
「はいおまちどーさま。ごはんのおかわりは無料だから遠慮なく言ってちょうだいね」
ごはん、味噌汁、白菜の漬物とほうれん草のおひたしの入った小鉢が二つ。そして中央には豚肉のみ炒められた生姜焼きと千切りキャベツが乗った皿が一つ。そして遅れてやってきた目玉焼きが乗った皿が一つ。ブライアンの目の前には見事な定食の陣が敷かれた。
(さっと喰って出るつもりだったが、これは……)
これぞ大衆食堂と言わんばかりの光景にブライアンは思わず生唾を飲み込み、割り箸を構える。
「いただきます」
まずは味噌汁。具はワカメと刻み油揚げの入ったごくごく普通の味噌汁だが、それがいい。最初に口へ運ぶものは下連味なく無難なものに限る。特にそれが汁物であれば尚良し。口内を適度に潤し、胃から体全体を温めて次の食べ物に対する期待感を向上させてくれる言わばウォーミングアップのようなもの。そして準備はより入念に行なうに越したことはない。
次にブライアンが選んだものは白菜の漬物。これまたごくごく普通の浅漬けで、ジャクジャクとした歯応えが実に心地良い。野菜類はあまり得意ではないが利点は心得ている。野菜を先に摂取することで血糖値の上昇を緩やかにしてくれるのだ。ここまで徹底してようやくブライアンはメインの生姜焼きに箸を伸ばす。
(ほう……生姜のすりおろしダレと肉のみを炒めてるのか)
玉ねぎと一緒に炒めてあるタイプの生姜焼きが一般的だが、これはタレがよく絡んだ茶色い肉の一点張り。付け合わせのキャベツの千切りも心なしか少なめで何とも潔い。まるで〝つべこべ言わず肉を喰え〟と言わんばかりだ。
(こいつは否応にもアガるな……。さて、肝心の味はどうだ?)
わしり、と箸で摘んだ生姜焼きを一口頬張る。舌先に乗った瞬間にじわっと溢れる脂の旨味に乗ってガツンとやってくる、やや辛味が残る刺激的で爽やかな生姜の香り。
(ぐっ……この味……ダメだ、白米(ライス)を抑えられん!)
口内に広がった肉の脂に溶けた生姜と醤油の効いたタレが米を呼ぶ。一口だけでは無理だ。まるで理性の箍(タガ)が外れてしまったことさえ気づかないくらいごはんをかき込んでいく。茶碗に盛られたごはん三分の一をかっ喰らったところでコップの水を一口。一息ついたところでようやく自分がかかり気味であったことに気づく。
(まずは落ち着かなくては。冷静さを欠いては物事は上手く運ばない。レースも食も。ならば——)
ブライアンは再び肉を口に運び、ごはんを食べたい衝動をキャベツへと向ける。ソースやマヨネーズは不要。濃い目のタレそのものがドレッシング代わり。肉、ごはん、キャベツ、その流れの中に寄り道でおひたしと漬物、時々味噌汁。気づけば生姜焼きとごはんは残り一口分のみとなっていた。
(そろそろ頃合いか……)
ブライアンは残りの漬物で茶碗を空にするとごはんのおかわりを頼んだ。
運ばれてきた茶碗から立ち昇るほかほかの湯気が第二ラウンド開始の合図。ここでブライアンは今まで敢えて手を付けなかった目玉焼きに箸を伸ばす。
黄身が二つ。卵二個分の目玉焼きの半分を箸で切り分け、片割れの黄身を箸で潰す。半熟の黄身から溢れるトロトロの卵黄。そこにすかさず卓上の醤油を垂らす。目玉焼きにも付け合わせのキャベツがあり、それを黄身と醤油が混ざった白身で器用に包み口に運ぶ。卵黄と醤油が混ざり合った濃厚な味わいに包まれたキャベツのさっぱりとした口当たり。そしてシャキシャキの食感が実に楽しい。目玉焼きの半分とキャベツ、そして卵黄と醤油が染みた擬似卵かけごはんを茶碗半分まで平らげた。
卓上に残ったのはもう半分の目玉焼きと少しの生姜焼き、そして半ライス。
「これで仕上げだ」
茶碗の上に目玉焼きを乗せ、その上から残りの生姜焼きをオン。すぐに黄身を割ってそこへ皿に残った生姜焼きの濃いタレをかけた。ブライアン特製即席どんぶりの完成である。
生姜焼きの濃いめの味を優しく包み込むまろやかな卵黄のソースが食べるスピードをより加速させる。肉、卵、米。無敵のトライアングルによって箸と茶碗が心地良いリズムを奏でていた。周りの客はブライアンの健啖ぶりに見惚れていたが、ブライアンには目の前のどんぶり飯しか見えていない。
「ご馳走様でした」
箸を揃えた茶碗をテーブルに置き、両手を合わせた瞬間に湧き上がる拍手。そこでようやくブライアンは周囲の視線を独占していたことを思い出した。
「かっ、会計を頼む!」
気恥ずかしさが限界を迎えたブライアンは会計を済ませ、そそくさと店を後にした。
(走りやウィニングライブならいくら見られても構わんが、ああいうのは流石に……な)
その日の来店以降、生姜焼きに目玉焼きを追加で注文する客が増えたということをブライアンは知らない。