孤高のグルメ ~ナリタブライアン健啖録〜   作:後出 書

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兵庫県神戸市のカレーうどんと炭酸せんべい

 眩しい朝日を浴び、澄んだ空気を肺いっぱいに取り込んだブライアンはぐっと伸びをした後、数回ほど右ももを上げたりストレッチを繰り返した。

 

(……痛みが和らいでいる。これなら悪くない走りが出来そうだ)

 

 歯磨きと洗顔を済ませたブライアンは浴衣から白いトップスに紫のボトムスの普段着に着替え、肩がけの大きめなボストンバッグに荷物を詰めて宿のフロントへと向かった。

 

「チェックアウトでございますね。如何でしたか? 当旅館の自慢の温泉は」

 

「ああ、足の痛みもだいぶ軽くなった」

 

「有馬温泉はミネラルや鉄分を多く含む金泉と炭酸成分やラジウムを含む銀泉の二種類がございまして、うちの温泉は金泉の源泉掛け流しを使用しており神経や筋肉、関節の痛みを和らげる効能がございます。また是非いらっしてください」

 

 今回、一泊二日で兵庫県にやってきた目的は二つ。一つが近々出走を予定している阪神大賞典。その開催地である阪神レース場を訪れてイメージトレーニングにより士気を高めること。そしてもう一つがここ有馬温泉だった。

 

『阪神レース場へ行くのであれば有温泉に足を伸ばしてみるといい。あそこの泉質ならば今のお前の症状を緩和してくれるはずだ。湯治と言うほど大袈裟なものでもないが、せっかくならゆっくりしてくるといい』

 

 姉のビワハヤヒデに勧められて温泉を利用したのだが期待以上の効き目があった。流石は日本三古湯の一つに名を連ねる名泉だけのことはある。

 

 充分に英気を養い、宿を後にしたブライアンはバス乗り場へ向かう道中、ふと気になる香りを感じ取った。

 

(くんくん……温泉の香りじゃない。これは……)

 

 日本に住むものでこの香りを知らぬ者はいない。そして、この香りに抗える者もまた然り。

 

(何処からだ? この先か?)

 

 時刻は丁度昼時。食事は東京に着いてからと考えていたが、そんな考えを一瞬で消し去るほどの芳醇な香りに支配されてしまったブライアンの足はバス乗り場ではなく香りの出どころへ向かって坂道を下っていく。やがて瓦屋根の店が立ち並ぶ雰囲気のある小道を真っ直ぐ進んだところにそれはあった。

 

(見つけたぞ。ここか……)

 

 数百メートル先からでも漂っていた香りがより強烈にブライアンの鼻腔をくすぐる。表の看板にはメニューが掲げられており、そこにはカレーうどん専門店の文字があった。専門店の名に偽りなく、メニューはどれもカレーうどんばかり。海老天、チーズ、とんかつに牛スジ。違いといえば上に乗っているトッピングくらいのものだ。

 

(カレーライスではなくカレーうどんだと? フッ、だがそんなことはどうでもいい。この腹の滾りはカレーをブチ込まなければ鎮まらない)

 

 表情はあくまでクールに。しかし尻尾は正直なもので、歓喜を隠しきれずブンブンと左右に揺れていた。

 

 スライドドアを開けると、今までで一番強いカレーの香りがブライアンの全身を包み込む。それを合図にブライアンの唾液と胃酸がドパドパと分泌され始める。店内はラーメン屋のようにカウンター席がメインのようで、そこに加えて小上がりが数席設けられた珍しい内装となっていた。空いている真ん中のカウンター席に座ると、店員のお姉さんがお冷を持ってやってきた。

 

「いらっしゃいませ。ご注文が決まりましたら——」

 

「牛スジ煮込みカレーうどんを一つ」

 

「かっ、かしこまりました」

 

 店員の言葉を遮り注文を吐き出したところで、ブライアンは改めて店内を見渡す。

 

(ほう……この店、昼はカレーうどん屋で夜はBARをやっているのか。なるほど、店のロゴにビールが描かれていたのはそれが理由か)

 

 いつか自分もその時が来たら、親しい者と酒を嗜むのだろうか。それは姉か、友人か。或いは——

 

 雰囲気のある薄暗い店内。ジャズを聴きながらダウンライトに照らされた淡い炭酸の煌めきを閉じ込めたグラスを傾ける二人。着慣れぬドレスを褒められ、ふいに顔を背ける。「しまった」と思ったがもう遅い。BARの照明の下では肌の赤みなど目立たないし、そもそも赤面の理由など酒のせいにでもすれば良い。そう、全ては酒のせいなのだ。普段から一緒にいる存在のことを異性として意識してしまうことさえも……。

 

「お待たせしました。こちら牛スジ煮込みカレーうどんでございます」

 

 ブライアンの妄想を一瞬で掻き消したのは店員の声とカレーの香り。気づけば目の前には熱々の湯気を放つどんぶりが置かれていた。

 

 食べる前から体が火照っていたブライアンはコップの水を一気に飲み干すと、気持ちを切り替えるべく箸を構えて静かに呟いた。

 

「いただきます」

 

 麺物を食べる際、麺から味わう派とスープから味わう派がいる。普段ならスープを先に味わうブライアンだが、今回は敢えてうどんから先に味わうことにした。

 

(自家製麺を謳うくらいだ。余程こいつに自信があるのだろう。ならばその自信…‥試してやる)

 

うどんに絡んだカレーはスープというよりもはやソース。どんぶりから顔の位置まで麺を持ち上げているにも拘らず、重力に逆らうかのように純白のうどんにしっかりと纏わりついている。

 

「ふぅー、ふぅー」

 

 これだけ粘度の高いスープが絡んだ麺を一気に啜っては口内の火傷は必至。念入りに息を吹きかけ充分に冷まし、一口目を口へと運んだ。

 

(むっ!? こいつは凄いな)

 

 このブライアンが感じた凄いという一言には様々な意味が含まれている。まず最初のインパクトはなんと言ってもうどんのコシ。歯で噛み切ろうとする度にいちいち抵抗し、あまつさえ押し返そうとしてくるかのよう。ブツンとした歯切れとモチモチっとした食感はまさしく自家製麺ならではである。

 

 そして第二波の衝撃は微かだがしっかりと小麦の風味を感じるという点。これだけ味や香りが濃厚なカレーを纏っていながら、うどんそのものは決してカレーに染まりきってはいないのである。表面では周りに合わせるが、芯では決して自分を曲げない頑固さや気高さにも似たある種のプライドすら感じる。しかも、こうして二口目、三口目を啜っても尚熱々のスープですら奪われないコシや風味という名の個性。

 

(どんぶりの中という舞台に君臨する純一無雑にして唯一無二の存在。まるで会長のようじゃないか。おもしろい!)

 

 ブライアンはこのうどんにトレセン学園の頂点であるシンボリルドルフを重ねていた。

 

(ぐっ、しまった……私としたことが会長(うどん)に気を取られ過ぎた)

 

 うどんにのみ集中し過ぎたせいで麺はすっかり無くなってしまい、どんぶりの中はカレースープと牛スジ煮込みのみになってしまっていた。完全なペース配分ミス。何か手は無いかと店内をキョロキョロ見渡していると目の前にあったメニューの一部に気になる文字を見つけた。

 

(銀シャリ……確か戦後すぐの白米の呼び方だったな。フッ、あいつ(ライス)がいるなら話は別だ。この勝負、まだ終わっちゃいない)

 

「すみません、追加で銀シャリの並み——いや、大盛りを」

 

 銀の名を冠する黒い刺客ならぬ白いライスを追加オーダー。大盛りの茶碗にもられた純白のそれを皇帝(うどん)の去った残りのカレースープへ投入。箸を置いてれんげへと持ち替え、スープとよく混ぜたライスを一気に描き込んだ。

 

 辛さの中に溢れる甘み。いや、寧ろ辛さよりも甘みの比率が若干だが強く感じる。その理由は牛スジの煮込みにあった。柔らかくなるまで長時間煮込まれた牛スジが吸った醤油と砂糖の甘辛い煮汁がカレーの辛さをマイルドに抑えてくれているのだ。だからこそうどんに合うし、白米にも合う。まさに日本食と呼ぶに相応しい懐の深さと味わい深さを持ったカレー。それらが米粒一つ一つに絡んで流れるように食道から胃へと向かっていく。

 

 嗚呼、体が熱い。額からも汗が吹き出している。しかし匙が止まらない。カレーに入っている数種類ものスパイスが体温を上昇させ、発汗を促しているのだろう。

 

(喰う度に湧き上がるこの感覚、似ている)

 

 滲む汗を拭うこともせず、ひたすらにカレーに挑み続けるブライアンは思った。この高揚感や多幸感さえもスパイスの効果であるならば、カレーとは即ち真剣勝負(レース)そのものであると。

 

「ありがとうございましたー」

 

 腹を満たして店を出ると、冬の冷たい空気が熱くなった体を心地良く冷ましてくれる。ふと、近くの店を見ると名物と書かれたのぼりが風に揺れているのが目に入った。

 

「炭酸せんべい……?」

 

 見ると、職人が焼き台の前でたい焼きのそれに似た丸い焼き型に生地を流し込み一枚一枚手作業で焼いていた。珍しそうに足を止めてこちらを眺めているブライアンに気付いた職人は実に活気に溢れた声で話しかけてきた。

 

「はいそこのウマ娘のお嬢さん! 有温泉名物、炭酸せんべいだよ。生地に炭酸泉を使った焼き菓子だ。食感の変化を活かすための賞味期限はなんと五秒! 良かったら出来立てを一枚食べてかないかい?」

 

「あ、ああ。せっかくだ。いただこう」

 

 威勢の良さに思わず受け取ったせんべいを一口パクリ。しっとりとした食感と素朴な甘さ。いつかどこかで食べたような懐かしい味わい。しみじみ美味いと思えた。二口目を食べた瞬間、ブライアンは賞味期限五秒の意味を知ることとなる。

 

「なっ……食感が変わっただと」

 

 一口目の柔らかい食感から一変し、表面が固くなっていたのだ。パリッとした小気味良い音を聞き、食べていたこれがせんべいだったことを思い出す。

 

(しかしなんだ? 初めての食感ではあるが、初めての味じゃない。どこかで出会ったことがあるような味だが……くっ、思い出せん)

 

「いい顔で食べてくれるねェ。焼きたても美味しいけど、クリームを挟んだやつなんかはお土産で人気だよ」

 

「ほう、ならせっかくだ。姉貴とトレーナーにも買って帰るか」

 

 トレーナーの名を呟いた時、ブライアンは思い出した。

 

『では時が来たら、私の使いたいタイミングで使わせてもらうぞ。それでいいな?』

 

 先月の始めに商店街の福引で温泉旅行券を引き当てていたこと。

 

「フッ、時が来たら……か」

 

 冬の風で冷やされたブライアンの体に再び熱が宿る。今はただ、邁進するのみ。いつか来たる〝その時〟のために。

 

 その前にまず、白いトップスに跳ねたカレーうどんのシミを落とす仕事が待っていることをこの時のブライアンはまだ知らない。

 

 そして、結局上手く落とせず代わりにシミ抜きと洗濯をやらされることを女傑ヒシアマゾンは知る由もなかった。

 

〜後日〜

 

「姉貴に教えてもらった温泉でかなり足の痛みが和らいだよ。これ、土産だ」

 

「わざわざすまないな、ブライアン。開けてみていいか?」

 

「あげたものだ。好きにするといい」

 

「ほう、これはゴーフルか。ありがたくいただくよ」

 

「それだ姉貴! 流石だな」

 

「……何がだ?」

 

 炭酸せんべいに抱いた謎の既視感の正体を秒で看破したビワハヤヒデだった。

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