ある日の夜。
人々はすでに眠りにつき、来るべき明日に備えて休息をとっているであろう、そんな時間。
まるで雷光虫かと見まごうほど明るい月、その月下に佇むとある家の中では、とある一人の初老の男が黙々と作業を行っていた。
男は、ハンターである。
……元、だが。
度重なる強力無比なモンスターたちとの戦いによって傷つき、ゆっくりと、しかし着実に弱っていく己の体に、男はついにハンター業を引退。
それからはや十年。
現役時代から仲の良かったハンターの女性と結婚し、かわいい一人娘ももうけた。
男は、穏やかな余生を送っていた。
「……」
ふと、男の作業の手がピタリと止まる。
ペンをインクに戻し、部屋の扉へ視線を向ける。
「起きているよ。入ってきなさい」
そう声をかけると、扉の前にいた気配は驚いたように一瞬固まるが、許可が出たことに心強さを感じたのか、すぐに扉を開けて部屋に入ってきた。
男は、訪れた人物にとてもやさしい表情で笑いかける。
「どうした? 眠れないのかい──ローラン」
ローラン、と呼ばれた女の子は、手にしたムーファのぬいぐるみをぎゅっと抱えながら、不安そうにコクリ、と頷いた。
彼女こそ、男の愛娘である。
母親譲りの雪のように白い白髪と、父親譲りのルビーのように赤い瞳。その端整な顔には、何かに怯えたような色と、父親の側まで来れた安心感が混在している。
ローランはとても心優しい性格だったので、村の人たちにもいたくかわいがられている。もちろん優しいだけではなく、正義感が強い、でもそれでいて臆病、という面も持ち合わせていたが、どちらにせよ、家族はもちろん村の人たちにとっても大事にされてきたのは間違いない。
ローランは、口元をキュッと結びながら、そのまだまだ幼い顔を男へ向ける。
「……怖い夢、見ちゃったの。もう一回寝ようと思ったんだけど、天井のシミが顔に見えて、怖くて……」
「だから僕のところへ来た。……合ってるかな?」
「合ってる」
ならよかった、と笑顔を浮かべた男は、椅子を引き、腕をローランを抱擁するかのように大きく広げる。
「前にも言ったろう? 怖いお化けが出てきても、お父さんが退治してやるって。……さ、膝へ来なさい」
ローランは、ぱぁっと笑うと、喜んで男の膝へちょこんと座る。
そんな可愛らしい娘の姿を見て、男はふと物思いにふける。
娘はまだ幼い。そして、親である自分は彼女の花嫁姿を拝めるかもわからないのだ。
男は、心臓に病を患っていた。
いくら『伝説のハンター』と呼ばれた男とはいえ、人間である以上、老いと不治の病には勝てない。
今の妻と結婚する際にも、「きっと自分は彼女を残して死んでしまう」という不安がどうしても引っかかってずっと踏ん切りがつかなかったが、彼女の強い覚悟と、その運命を受け入れてでもともにありたいという、強い想いに心を打たれ、結婚へと踏み切ったのである。
もちろん、男としてもきたるべき『その日』のために、幾重もの準備を重ねてきた。
ハンター時代に稼いだ、使っても使っても有り余るほどのお金は引退してからも贅沢とは無縁の生活を送ってきたためまったく使っていないし、また信頼できる知り合いたちもたくさんいる。まず、生活に困ることはないだろう。
だが、どうしても拭えない不安が一つ……それが、ローランである。
愛娘の将来がどうなるのか。どんな職に就くのか。どんな相手と結婚するのか。
不安をあげればキリがないが……中でも一番の不安は、『危ない目にあったりしないか』、ということ。
危ない目というのは、いわずもがなモンスターのことである。
ハンターであった男は、人一倍……いや人十倍、モンスターの恐ろしさをよく知っている。
妻は大丈夫だろう。彼女は現役時代、凄腕のハンターとして名を上げていた。見た限り、その腕はまだ健在だ。
しかし、ローランは?
男はモンスターの神出鬼没性……そしてモンスターによって引き起こされる、その惨劇の理不尽さもよく知っている。
村にいれば、いくらかは安心だ。しかし、これから先どうしてもモンスターがたくさん生息する地域に行かなければならなくなることもあるだろう。
その時、もし運悪く強力なモンスターに襲われたら?
現役時代、『一人の農家が比較的安全な道を歩いていたのに運悪くイビルジョーに襲われ食われた』ことで張り出されたクエストを何度も見た。
もしも娘が、その当事者となってしまったら?
考えただけでも恐ろしい。
男が生きている間は娘にそんな危険は冒させない。もしもの時は命をなげうってでも助ける。
だが、さすがに死んでしまった後では助けに行けない。
だからこそ──だからこそ、男は『それ』を書いていたのだ。
「お父さん? なに書いてるの?」
「……これはね、僕の知ってる限りのモンスターの情報を書き込んだ『モンスター図鑑』だよ。あと一文で完成するところさ」
「モンスター図鑑……!?」
男の言葉に、ローランは目を輝かせる。
「わぁ……! すっごい分厚いね!!」
「ハハハ、そりゃ僕のハンター生活で出会ったモンスターたちを一匹残らず書き記しているからね。僕の所感がほとんどで、ギルドが出してる図鑑からの引用もあるけど、これにはあの古龍のことだって詳しく載ってるんだ」
『モンスター図鑑』は、辞書と見紛うほどに分厚くまとめられており、いつまでも残しておくためか、丁寧に紙の一枚一枚まで保護されていた。
娘に褒められて、どこか自慢げな男。それだけ、この図鑑に費やしてきた時間は果てしないものだったということだろう。
もともと両親がハンターだということもあり、興味津々、ワクワクドキドキといった風にペラペラとページをめくっていたローランだったが、ふと、とある終盤のページで、ページをめくる手がピタリと止まる。
ローランの目に留まったのは、比較的最近発見された古龍──天彗龍 バルファルクというモンスターの項目……その、すぐ隣のページ。
そこに載せられていたモンスターの名前も、バルファルク。しかし、その姿を示す絵の左目には、縦一文字に走ったわかりやすいキズが付け足されていた。
「ねぇ、お父さん? このバルファルクってモンスター、絵が違うけど隣のページにも書いてあるよ? なにか特別なの?」
「あぁ、そいつか。……そうだなぁ、確かにあいつは『特別』だな」
昔の思い出を辿るかのように目を閉じる男に、ローランは首をかしげる。
そんな娘に、男は静かに口を開いた。
「このバルファルクはね、僕にとってとても思い入れのある相手なんだ」
「思い入れ?」
「そう……初めて会ったのは、まだハンター業に慣れ始めた頃だったかなぁ。龍識船に乗って、遺群嶺の調査をしてた時だね。ある時、グラビモスの狩猟をして、やっと狩れた、ってなった僕の前に、そいつは突然現れたんだ」
「えぇっ!?」
グラビモスといえば、なかなか手ごわい相手であると、図鑑に載っていた覚えがある。そんな相手と戦った直後に乱入、ましてや相手は古龍種だなど。
ローランはゴクリ、と生唾を飲み込みながら、黙って話の続きを聞く。
「……もちろん、狩るなんてできなかったさ。言い訳をするなら、その時僕は疲れ切っていたし、当時の僕にとってバルファルクは遥か格上の相手だったしね。……いや、もし本調子だったとしても、あの頃の僕じゃ到底勝てなかっただろうな……そのぐらい、強いバルファルクだった」
男の話は続く。
「でも、なんとかみんなのところへ生きて帰ろうと思って、必死に戦ったね。いまにも倒れそうだったけど、不思議と体が動いたんだ。……やっとのことで撃退できたその瞬間、僕はぶっ倒れちゃったんだけどね」
かっこ悪いなぁ、と自虐する男だったが、ローランはまったくかっこ悪いとは思わなかった。むしろ、仲間の元へ戻るため必死に戦った父を、さらにカッコいいとさえ思った。
私も、そんな風に『カッコよく』戦えたら……。
ローランに芽生えた一つの憧れなど知る由もなく、男は話の続きを始める。
「それから、ずっとあの時のリベンジを果たそうと探し回ってたんだけど……結局、引退するまでにあいつともう一回戦うことはできなかったな」
「え!? リベンジ、果たせなかったの!? だ、だってお父さん、確かハンターで最初にバルファルクを倒した人だったんじゃ……」
「もちろん、それは嘘でもなんでもないよ。……ただ、あの時倒したのはその時のバルファルクじゃなかった。別の個体だったんだよ」
「別の個体……? どうして別だってわかったの?」
「傷さ。そのバルファルクの左目にはね、僕が必死に戦ったあの時につけた、目をまたいで縦一文字に延びる傷跡があるんだ。だから『このバルファルクはあいつじゃない』ってわかったんだよ」
そこまで話を聞いて、ローランは少し目を閉じて考えてみる。
思い描くのは、己の父を追い詰め、そして結局倒すことの叶わなかった、このバルファルク。
イメージのバルファルクは、赫い龍気が翼脚の先端で蠢き、見るものに圧倒的な威圧感を与える、災厄の象徴。
……なぜかはわからないが……ちょっと、どこか残念な印象になったのは、きっと実物を見ていないからだろう。
たぶん。
「ローラン?」
「あ、ううん、なんでもないの! ……でも、お父さんを追い詰めた唯一のモンスターかぁ。会ってみたいな~」
「おいおい、冗談でもよしてくれ。あんな凶暴な奴とローランが会うなんて、お父さん心配で寝込んじゃうよ」
そう言って二人で笑う親子。
和やかな空気が流れる中、ローランが「決めた」と言って、なにか決心したかのように父へ向き直る。
「お父さん。私、お父さんやお母さんがみんなに自慢できるぐらい立派に生きて見せる! だから、ずっと見守っててね!!」
そう、曇りなき眼で宣言する自らの愛娘の言葉に、『ずっと』見守ることができないだろう、という事実を残念に思いながらも、それをおくびにも出さず、男は微笑む。
「……もうずっと前から、お前は僕らの自慢の娘だが……ふふ、そうだな。頑張れよ、ローラン」
「うん!!」
輝く笑顔で頷くローランに、それを優しさのつまった暖かい微笑みとともに見る父。
その二人を窓の外から照らす月は、もうすっかり真上に上っていた。
今夜は満月。
次に満月が見られるのは、およそ来月ほどになるだろう。
そして、来月。
またあの親子を照らそうと、再び姿を現した月が見た光景は。
墜落したのであろう、原形をとどめぬほど破壊され、ごうごうと燃え上がる飛行船の側。
──死に絶えた両親の亡骸の前で泣く、一人の少女の姿だった。
それはとあるハンターの終わり。
そしてとあるハンターの始まり。