愚者と翡翠の魔女   作:K.Sui

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愚者の記憶

 

 

 母が目の前で死んだ。

 死因は悲しい事故に過ぎない。

 事故が起きたのは、今まで暮らしていた極寒の貧しい集落を出て、何とか《寒冷群島》と呼ばれる地域に差し掛かった時のことであった。

 集落を出たのは、数年前に父がいなくなって、それから母の懸命な働きで何とかその日暮らしを続け、それでも立ち行かなくなった暮らしにどうにか区切りをつける為だった。

 どうにか区切りを、という点であれば、事故が起きた時点で区切りがついたと言えるが、母はきっとこんな結果を望んではいなかったと、子供の自分でも分かる。

 何せここ最近の母の口癖は〝もっと暖かいところに行けば仕事もたくさんあって、楽な暮らしになるからね〟というものだったからだ。

 幼い未熟な頭で、理解出来る範囲のあれこれを反芻するように考える。

 低く喉を鳴らし歓喜しているかのような鳴き声を聞きつつ、目の前の、母だった肉塊を、ただ呆然と見つめながら。

 母の命が目の前で刈り取られたその瞬間、確かに区切りはついたのだろう。

 動かし方が分からなくなった足から力が抜けていって、凍りついた地面にへたりと座り込み、ぎゃあぎゃあと歓喜の声を上げる目の前の竜をゆっくりと見上げた。

 よく晴れて冷え込んだ朝の、薄青い空のような鱗が、母の血で汚れて禍々しく光っている。

 そんな様子を見ていると竜のあぎとが大きく開いて、鋭く並んだ牙を見つめたまま、また考える。

 あの牙で自分の命に区切りをつけられたら、母と同じ場所に行けるのだろうか、と。

 竜が一際高く吠えて、その口から粘液を吐き出した。

 吐き出された粘液を頭から被った瞬間、あっという間に意識が遠のいた。

 遠のく意識の中最後に聞いたのは、竜の鳴き声と、凍りついた雪を踏む足音と、金属が擦れるような涼やかな音だった。

 

 ◇

 

 暖かさに、ゆっくりと目を開く。

 開いたはずの目が酷く霞んでいる上に頭がぼんやりしていて、周りが一体どうなっているか分からなかった。

 目を開く前までのことは全て夢か何かだったのだろうか。

 何も分からない今も、夢なのだろうか。

 現実だとすれば、竜の腹の中はこんなにも明るくて暖かいのだろうか。

 ぼんやり考えて、それから母の姿を探して動かない身体の代わりに視線だけを動かしてみる。

 しかし霞む目ではどうにも困難なので今度は母を呼ぶ為に口を開いてはみたが、乾いた喉をひゅう、と息が通っただけで声にはならない。どうにも口の中が気持ち悪い。

「ん、目が覚めたか」

 急に見知らぬ人の声がしてドキリとする。

 だれ、と声の出ない喉で問うと、見知らぬ人は喉を鳴らすようにして笑い声を上げた。

 姿は見えないが、恐らく女の人だ。

 母の声とは似ても似つかない、低い声だったが。

「雪の中で気を失うまでのことは覚えてるかい? …喋らなくていいから、頷くか首を横に振るかで答えなさい」

 そう言われて、母の命が目の前で刈り取られたのも、母の血で汚れた竜が歓喜の鳴き声を上げていたのも、全てが現実だったのだと気付く。

 母が死んだことが事実だというのに、悲しいかどうかは分からなかった。

 急に起きてしまった事故はあまりにも自分が知っていた日常からはかけ離れていて、どういう感情を持てばいいのか分からなかった。

 そんな事を考えてから僅かな間を開けてゆっくりと首を横に振ると、女の声は全く調子の変わらない様子で「そうか」とだけ口にした。

「ふむ…一先ずは体力の回復が優先だ。どのくらいあの場にいたのか分からないが、凍傷になりかけて限界まで体力を使っている上に、ドスバギィの睡眠液を頭から浴びてる。もう少し寝て、それから私と話をしよう」

 勿論お前さんが良ければだが、と女は付け足すようにそう言うと、布団らしき布を首元まで引き上げてくれた。

 額に手のひららしき暖かいものが触れるとゆっくり撫でられて、明かりしか感じ取れない目を素直に閉じた。

 額に触れた暖かな手のひらはたこでもあるのか、ゴツゴツとしていてやはり母とは似ても似つかなかった。

 

 ◇

 

 目覚めて最初に会ったその女の人は、こちらが布団から身を起こしてそこから動き回れるようになっても《話》とやらを切り出しては来なかった。

 唯一向こうから切り出してきたのは、自分の名前は《ヒスイ》だというのと、こちらの名前は何と言うのか、と尋ねてきたことだけだ。

 尋ねられたその時に、今となっては死んだ母が唯一遺してくれた《メノウ》という名前を名乗ると、ヒスイは「遥か遠くの国にある玉石の名だからあたしと同じだな」と嬉しそうに笑っていたことは今でもよく覚えている。

 名前以外に話を切り出さなかったことは、こちらの状況に気を使ったのか、それとも体調を気遣ったのか、それともそれ以外の理由なのかは、今となっては確認しようもない。

 しかし、当時はこちらから話を切り出すように急かす雰囲気さえ出していなかったことは確かだ。

 自分が布団から起きられない間、ヒスイはこちらを残してほんの数分家を空けても大体の時間は家にいたが、布団から起き上がって動き回れるようになると日の出前に家を出て、夜更け近くになって帰宅するようになった。

 恐らく仕事なのだろうとは思ってはいたが、幼い自分には殆ど丸一日働き通しの職なんて思い浮かびはしなかったので、ヒスイが何をしていてどんな立場の人間なのか、というのはさっぱり分からなかった。

 そんな日々を続けて半月程経って、凍傷になりかけた傷も、根こそぎ削り取られた体力もすっかり戻った頃、いつも通り日の出前に家を出たヒスイが昼時に帰宅した。

 日の明るいうちに顔を合わせることはまだ寝込んでいた時以来だったので、思わず玄関から入ってきたヒスイを凝視してしまった。

 凝視してしまったのは、ヒスイが見た事もない服装で、見た事もない大きな金属の塊を背負っていたというのもある。

「おお、昼寝でもしてるかと思ったんだが、すっかり元気そうだな」

 ヒスイは背負っていた鉄塊を土間に下ろすと、囲炉裏の傍で固まっていた自分を見てそう言った。

 それから足甲を外して草履を脱ぐと、板間に上がって囲炉裏を挟んだ向かい側にどっかりと腰を下ろして胡座をかいた。

 その時着ていた腰巻が酷く短く、また動きやすくする為か両脇に下履きが見えそうな程深い切れ込みが入っているものだったので、幼い自分は目のやり場に困って咄嗟に囲炉裏を見るように視線を下げたが、ヒスイは気付いているのかいないのかお構い無しだった。

 そして目の前の姿に動揺する自分を差し置いて、その時初めて「私と話をしよう」と実に楽しそうに切り出した。

 

 今思えば「私と話をしよう」と切り出されたその瞬間こそが、自分の区切りで、転機であったのだと思う。

 

 ◇

 

 私と話をしよう、と切り出されてその時初めて知ったのは、ヒスイの職が《ハンター》であるということ、そして拾われた自分が今いる場所は寒冷群島から更に南にある《カムラの里》のヒスイの家であるということだった。

 ヒスイはまずそこから話し始めると、こちらが幼い頭でゆっくりと噛み砕いて理解するのを待ってから、ここから本題だ、と話を続けた。

「まず一つ目。お前さんは目の前で見ていただろうから分かっていると思うが、お前さんの母御は助からなかった。あたしの手で弔わせてもらったから、この話が終わったら墓所に行こう」

 ヒスイは気遣うでもなく、ただ淡々と真実を述べた。

 この家でどうなるか分からない身を回復させる為に寝込んでいた時から分かっていたことだ。

 だから大して理解する為に時間を使うことも無く、コクリと頷くと、ヒスイも頷いてまた口を開いた。

「二つ目だ。お前さんが寝込んでいる間に、身の回りのことについて調べさせてもらった。お前さんは寒冷群島の集落の家を母御と二人で引き払って、南を目指していたそうだね? 行き先をお前さんが知っているかはともかく、それで確かに間違いはないかい?」

 また殆ど考えるまでもなく頷いた。

「…母さんは、あったかいところに行くって、言ってた」

 南、かは自分には分からなかったが、母は〝もっと暖かいところに行けば仕事もたくさんあって、楽な暮らしになるからね〟と言っていたのだから、ヒスイが調べたそれに間違いはないのだろう。

「そうか。それなら間違いはないようだね。…次が三つ目。母御の血縁…そうだね、お前さんから見て、爺さんや婆さん、叔父叔母が居ないかも調べた。ただ、こちらはあたしには見つけることが出来なかった。つまり、お前さんが帰る家は無いということになる」

 そう言われた時に絶望したかと言えばそんな事は無い。

 祖父母や親戚の類に会った記憶は自分には一切無かったし、家も引き払って寒冷群島を進んでいたのだから、母以外に自分が頼れる人間がいないことは幼心に分かっていた。

 しかしそれでも何も反応出来ないでいると、ヒスイは困った様子になるでもなく口を開いた。

「三つ目を踏まえての、四つ目だ。いいかい? これから話す事は、お前さんが自分で決めるんだ。……帰る家の無いお前さんには選択肢が三つある。一つ、寒冷群島の集落に戻って、元の家で暮らす。二つ、このまま一人で南に行って、下宿可能な職を見つけてそこで暮らす。三つ、あたしの養子になって《ハンター》になり、ここで暮らす」

 そう言われて、思わず囲炉裏を挟んだ向かい側で楽しそうな顔をしているヒスイを真っ直ぐと見た。

「どの選択肢もある程度は面倒をみてやれるし、その点は心配しなくていい。まあ…そんなこと心配するほどまだ大人では無いかもしれんが」

 ヒスイはそう言って胡座をかいた自分の膝に頬杖をつくと、目を細めて真っ直ぐとこちらを見つめ返しながら笑った。

「……あなたは、子どもはいないの?」

 道を決める前に、思わずそう聞いてしまった。

 ヒスイに自分が拾われたその時、ヒスイは三十になる年だった。

 その時は知らなかったが、何となく子どもがいたって不思議では無いと感じたので、三つ目の選択肢は大丈夫なのかと気になってしまったのだ。

 しかし目を細めていたヒスイは尋ねるなり目を丸くすると、それから声を上げて笑った。

「そうか、お前さんにはあたしに子がいるように見えるか。ふふ、大丈夫だよ。お前さんが気を使うような相手はいない。…さぁ、好きな道を選びな」

 お前さん自身の道なんだからな、と笑いを収めたヒスイはそう続けると、改めてこちらを真っ直ぐと見た。

「…………《ハンター》って楽しい?」

「そうだね。辛い仕事さ」

 ヒスイはすぐそう答えて笑った。

「…三つ目にする」

 はっきりとそう言うと、ヒスイは「今日からお前はあたしの家の子だ」とそう言って目を細めて笑った。

 

 

 ――母はいないけれど、物心ついてからずっと暮らしていた集落の家に戻れる。

 

 ――母が夢見たあったかい場所で、職に困らない新しい生活を続ける。

 

 口利きまでしてもらえて自ら命を危険に晒すことの無いその二つを選ばなかったのは、辛い仕事だと言いながらもヒスイの目が生き生きと輝いていたからだと思う。

 

 そうして、自分はヒスイという一人のハンターを《母》と呼び、《先生》と呼び、やがて自らもハンターとなる道を自分の意思で確かに選択した。

 

 

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