予告通り、ホワイトデー編です。
先におことわりさせていただきますが、この話のメインヒロイン(?)は、クルミです。
最終話(3/3)の伏線回収ともいう。
時系列的には番外編1の3話と4話の間の話です。
ハワイで過ごす日々も、そろそろ二週間になろうとしている。
この日は現地での二回目の定休日だった。全員があのフードトラックを離れて常夏の島のレクリエーションと洒落込んだ、その夜のことだ。
「邪魔するぞ」
割り当てられている僕の一人部屋に、来訪者がやってきた。クルミだった。
「お、来たか」
「ああ。……どうしたんだ? ボクだけ呼びつけて」
訝しそうに、彼女が訊ねてくる。その言の通り、彼女がここにいるのは、僕が
「いや、ごめん。呼びつけるような真似しちゃったのは。だけど二人きりとなると、今はこうでもしないと」
「それはいいんだが。じゃなくて用件をだな」
促してくるクルミに咳ばらいを一つして、僕はその理由を説いた。
「去年の話だけど、延空木のあれのあと、病院で約束したよな、確か」
「あ? 奢りの話か?」
頷く。そして続きを口にした。
「そうそう。でなんだけど、明日僕と君、どっちも非番だろ、午後」
「ほー……なるほど?」
クルミが、にやりと笑う。
「そろそろボクに財布を軽くされる覚悟ができたというわけだ」
てっきり忘れてるかと思ってたぞ。そう、茶化してきた。
「言い方よ。……それと、明日はあれだし」
「ん? ……ああ、そうか」
一瞬だけ怪訝そうな顔をして、それでもどうやら気づいたらしい。ピンときたとばかりに口角を上げ、そして彼女は思いついたそれを口にする。
「
その通りだ。黙って頷いて、本題に入った。
「こないだのお礼と、ホワイトデーのお返し、まとめてさせてほしいと思って。明日、二人で出かけないか」
眼前のクルミは気持ち俯くようにして、少しばかり考え込む素振りを見せる。
しかしそれも束の間のこと、今一度上げられた顔には、どこか意地悪そうな含みを持った笑みが浮かんでいた。
「なら、隼矢。お前のエスコートのお手並み拝見といこう。……楽しませてくれよ?」
合った目線に覗く双眸には悪戯な光が宿って、真っ直ぐに僕を射抜いた。
Extra. 3/14 + 11/10: One good turn deserves another
次の日の、午後のことだ。前日の夜の話通り、僕とクルミは揃って非番だということで、接客を千束やたきなさんに任せて、二人一度コテージへと戻っていた。
時刻としては大体午後三時、いつもより昼間にやってくるお客さんが多くて、シフトの交代自体も少し押してしまっていた。スケジュールに余裕こそ持たせていたが、これ以上動き出しが遅れて終わり際にバタバタするというのも、もてなしとしては考え物だろう。
そういうわけで、早速にして僕たちは停めてあるレンタカーに乗り込んで、そのまま第一の目的地に向かうことにした。
「なあ、これは今更なんだが」
その路上、不意にクルミが口にする。
「お前、千束からももらってただろ、バレンタイン。ボクとでよかったのか、今日」
言いながらこちらを向いた。運転中だしあまりよそ見は出来ないと、ちらとだけそちらに目を配って、答える。
「あの子には、別に買って帰るつもりだよ、最後」
「お? 他の女へのプレゼントを買うのか? ボクの目の前で」
「……だから言い方。いやまあ、そうかもしれないけど」
けらけらと、笑う声が聞こえる。言わずもがなクルミだ。
「冗談だよ、冗談。けどお前、本当にいいんだな? 千束じゃなくて、ボクを優先するので」
そう言われたそのタイミングで、丁度信号が『停止』を示す。車を停め、横を向いて答えた。
「確かに、迷ったけどさ。でも僕にしろ千束にしろ、今こうやってやれてるのは全部君のおかげなわけで、だからそれに報いるのは何より優先されるべきだって、思っただけだ」
「だったらもっと早くにやってほしかったがな」
「なら君はもっとその出不精をなんとかしてくれ。今日ぐらいしかなかったんだよ」
ぐぬぬ、とクルミが唸る。――いや違う。今日接待する相手をやりこめてどうするんだ。
どうにも彼女と一緒だと、こういう張り合いが多少は混ざってしまう。長年の付き合い故の弊害だった。
「……いや、ごめん。そういうことを言いたいんじゃなくてさ。とにかく、今日は君のための日なんだよ。本当、それだけ」
「……そうかい」
クルミが僕から視線を逸らしたその時に、信号が変わった。アクセルを踏み込む。
そしてその後、最初の行き先たるホノルルのショッピングモールに着くまで、僕たちの間には会話はなかった。
第一の本題というのは、クルミに着せるための洋服を見繕うことだった。
今日の夜、クルミを連れていくために用意してある店と言うのは、一応そこそこの格式を持つレストランだ。翻ってクルミの格好を見ていれば、結局纏っているものはいつもとそう違いはない。お土産屋で買って来たようなTシャツに、まあ申し訳程度に長丈のフレアスカートと、お世辞にもスマートカジュアルとは言えそうにもない出で立ちだった。それ以上のドレスコードなど、以ての外だろう。
言うまでもないが、クルミは余所行きの服装などというものには頓着しない。僕だって必要でもなければかっちりした格好なぞ着たくもないわけで、それは
とは言え、今回ばかりはそうもいかない。クルミもそれには理解を示した。
彼女はものぐさであっても、非常識な人間ではない。当然のことではあった。
現地に着いたのは、午後も三時半を少し過ぎたころだった。丁度おやつ時、先にホワイトデーのお返しをやってもらおうかというクルミの言に、ショッピングモールのなかでもまず目についたスイーツパーラーへと入った――当たり前だが、こちらの奢りだ――僕たちは、その次にやっと服の売り場へと足を向けた。目指す先はハワイの土産物屋で、ハワイアンファッションを取り扱うところとしては結構有名な店らしい。
中に入り、真っ直ぐに目当てのエリアへと歩を進める。辿り着いたその場所、所狭しと並べられるハワイらしい衣服の陳列棚をぐるりと見まわして、そしてそこで何かに気づいたようにクルミは僕へと問うてきた。
「アロハシャツ……そういえば隼矢、お前それいつ買ったんだ?」
その指は僕の身体へと向けられている。視線を自分の上につと落として、答えた。
「いつって、ここ来てすぐだけど。最初の日、千束がたきなさんの服買いに行った時、ついでにって引っ張られたから」
「ほぉ……けどそれ、初めて見るがな」
興味深そうな目線だった。
「まあ、普段使いは自前のシャツで事足りるし。これは
「
「うん」
さすがはクルミ、察しが早い。特に訳も言うことなく、彼女は納得したように頷いた。
ハワイにおいては、
「じゃあなんだ? ボクには
そうして彼女が指をさした先には、ワンピース様の服――ムームーが吊るされている。アロハシャツと対になる、女性用のハワイアンドレスだ。
「ということだな。まあ、君の場合はどうしても子供用になっちゃうだろうけど」
「……悪かったな、ちんちくりんで」
ギロリと睨んでくるクルミにひらひらと手を振って、売り場の方へと歩き始める。クルミも「なんとか言え」とぶつくさ言いながらも、僕の後ろについてきた。
クルミのムームーを見繕ってから更にお土産の類も諸々買ったことで、気づけば時刻は既に五時半を回ってしまっていた。日の入りの遅いこの島では、傾きつつも日は未だ西の空にある。それでもやや長居しすぎた感があったのは事実だった。
やや足早に、二人モールの外へ出る。しかしそこから駐車場への途上で、不意にクルミが声を上げた。
「なあ」
「ん?」
足を止めて、振り返る。
目線の先、彼女が纏うのは、ハイビスカスの柄が特徴的な青地のムームーだ。クルミと言えば何かと黄色に縁がある服ばかりを見てきたせいか、それは僕の目には非常に新鮮に映っていた。
「いや、よかったのか?」
「僕がそれの金を出したことがか?」
黙って、彼女は頷いた。らしくない。もらえるものはもらうのが彼女の生きざまだろうに。少しばかり意外に思って、それでも答えた。
「いやだって、今日の店に行くための服なんだぞそれ。奢りにしようってのに、服を買わせたら片手落ちもいいところだ。違うか?」
「だからって……まあ、くれるというならありがたくもらっておくが」
裾を掴んで、見回している。少しおかしさすらも感じて、思わず笑ってしまった。
「……なんだよ」
「いや、しおらしいなって。君らしくないぞ」
言った途端、クルミが露骨にむくれた。
「悪いか」
「全く。でも君は今日はゲストなんだから、いつもと同じでいいんだよ」
気にすることなくそう言い返した言葉に、クルミは一瞬、肩透かしを食らったかのように目をぱちくりとさせる。しかしそこからそう時をおかずに、彼女はどこか穏やかに笑った。
「……ま、確かにそうだな。じゃ、行こうか」
そしてそのままに、僕に先んじて車の方へと歩いていく。
まあ、彼女がらしさを取り戻せたのであれば、何よりだ。僕もその後を追いかけて、車へと戻った。
そこはワイキキビーチの西端、カラカウア通りの傍にあった。
数日前まではリコリコのフードトラックをここからも見ることができたかもしれないが、今彼らは営業場所をクイーンズビーチの方へと移している。そして今から入ろうとしているこの店は、ニューヨークで有名なステーキハウスだった。
ID代わりの旅券を提示して、予約している旨を伝え、中へと入る。アメリカのレストランらしく、手荷物の類はチップと一緒にクロークへと預けた。
そして案内された席の上で、クルミは辺りを見回しながら僕に言う。
「へぇ……お前よく知ってたなこんな店」
それはどこか意外そうな口ぶりだった。まあ、僕のような若輩者がどうしてと、そう思うのは分からないでもない。
「まあ、学生時代にアメリカにはちょいちょい用があってね」
そう訳を話しつつ、そのまま問い返した。
「初めてか? こういう場所は」
「さあ、どうだろうな?」
思わせぶりな目つきだ。どうにもクルミは、頑なに自らの来歴につながるような諸々を話そうとしない。それは彼女なりの処世術――否、生存戦略なのかもしれなかった。
まあ、言いたくないものを言わせる必要もない。ウェイターがやってくるまでの間、しばし歓談する。
「それにしてもまあ、やっとというか、なんというか」
「全くだな。まあボクも悪かったが、延び延びは延び延びだ。……四か月経ったか、あれから」
そう言われて、回顧する。
本当に、あの延空木のあとの諸々をどうにかしてくれたクルミには、何度感謝してもしきれない。僕も割かし生死の境を彷徨ったわけでそう悠長にぐーすかしていたわけではないが、それこそその死の淵から還ってこれたのはクルミの奮闘あってのことで、それがなかったらかなりの確度で僕は生きては帰れなかっただろう。
「四か月、経ったんだな。そうか、四か月か」
思わず、そんな声が漏れていた。
「結局向こうじゃ、君からあの時のことはそんなに詳しく聞けてなかったよな」
「ま、そうだな。千束が随分と取り乱してたぞ、って話はちょっとしたが、それぐらいか」
懐かしむような口調だった。今となっては「苦労した思い出」に納まるものでも、あの時はもっと切実な思いをみんなが懐いていたのだろうとは思わされる。
その労は、ねぎらわなければならないだろう。
「……聞かせて、くれないか」
「ん?」
伏し目がちだった目線を上げて、僕の方を見てくるクルミに、努めて真摯に言葉を続けた。
「あの時はさらっと流しだったけど、あれから何があったのか。クルミが何をしてくれたのか。……千束が、どうだったのか」
それを聞いたクルミの目が、すっと細められる。
「……いいんだな」
無言で頷く。それを聞くのが、けじめだと思っていた。
「分かった。けど、すぐ終わる話じゃないぞ。だから……」
ちら、と脇を見る。通路の奥から、僕たちのテーブル担当のウェイターが注文を取りに近寄ってきていた。
「ま、乾杯してからだな、それは」
僕に視線を戻して、クルミはニヒルな笑みを浮かべた。
サラダ、シーフードプラッター、そしてメインディッシュのステーキを頼む。飲み物は結局、二人ともスパークリングウォーターにした。
僕は運転してきているから当然だったし、クルミはクルミで「気合入れて話をするのに酒はいらない」、と僕のアルコールを勧める提案を蹴った。尤も、ID、つまり旅券の年齢欄に書かれている彼女の歳と、彼女自身の見た目の年齢に凄まじい開きがある以上、アルコールを頼んでまたIDの再チェックになったら一悶着起こってもおかしくはない。それを避けるという意味も、そこには間違いなくあった。
暫くして運ばれてきたグラスに、大瓶からスパークリングウォーターが注がれていく。終わるやそれをそれぞれ手に取って、そして二人、目を見合わせた。
「じゃあ、クルミ。……あの時は色々ありがとう。それとホワイトデーも、おめでとう、というか」
「ああ、ありがとう。じゃ……乾杯」
合わせた二つのガラスから、澄んだ音が鳴った。
一頻り喉を潤して、また二人見合う。咳ばらいを一つして、クルミは口を開いた。
「じゃまあ、メインが来るまでは話をするか。そうだな――」
そしてそこから、クルミの話は十一月のあの日、延空木の事件へと飛んだ。
十一月十日、午後七時五十五分。クルミが延空木に千束とたきなを送り出してから、そろそろ五十分が経とうとしていた。
喫茶リコリコの同僚にして腐れ縁たる隼矢はその時、恐らくは
結果から言えば、千束とたきなは間に合った。
延空木の最上階、隼矢が真島に殺される寸前だったところを彼女たちは救い出し、そして真島はそこから奮起した隼矢との格闘戦の末に、延空木から墜ちて、夜の闇へと消えた。まあ、恐らくそちらは助からないだろうが、取り敢えず真島に隼矢が殺されるという最悪の結末だけは、避けることができた。
しかし、現実はそれで終わってくれるほど、甘くはなかった。
真島が仕掛けたであろう爆弾の解除を行うと同時、制御が回復して動き始めたエレベーターを使って降りてきた三人を迎えるべくエレベーターホールへと出向いたクルミの眼前に広がっていたのは、直視に堪えない光景だった。
人が、倒れている。年若い男だ。……いや、現実を認めなければならない。それは、隼矢だった。
エレベーターからはあまりにも濃い血の臭いが漂っている。出元などは、言うまでもない。
止血帯とガーゼが、その右肩と左腿から覗く。それでも少しずつ漏れてくるどす黒い血が、彼の命を蝕み、そして着実に失わせているのがここからも見えた。
一瞬だけ呆然とそれを眺めていたクルミだが、すぐに再起動する。
「っ……救急車! おいたきな、呼べてるのか!」
「呼んでます! もうすぐ来るはず……っ!」
無事な左肩を抱え、どうにかして引きずるように外へ運び出したたきなに、クルミは叫ぶように言う。たきなは切羽詰まった表情で、それでも気丈に返した。
一応、隼矢には最低限の手当ては施されている。そう時をおかず救急車がやってくるのであれば、きっと大丈夫なはずだと、クルミは自らに言い聞かせた。
何にせよ、手助けをしなければ。そう考え、隼矢の傍に駆け寄ろうとする。
しかしそれと同時、たきなの
幽鬼の如き足取りだった。こちらを見ているようで、全く見ていない。ただその目線の先にはたきなが、いや、たきなが抱えている隼矢の姿だけがあるようだった。そのまま近寄ってきた千束は、たきなが肩から下ろし、その身を床へと横たえた隼矢の側に、そのままがくりと膝をついた。
唇が、わななく。声にならない吐息ばかりが漏れ出て、この広間に消えてゆく。
クルミたちも、何も言うことはできなかった。一つ、二つ、膝歩きでにじり寄って、隼矢の身体のほど近く、手をついた。
「――っ」
しゃくりあげるような息の音が、この空間にやけに大きく響く。
震える手をなんとかもたげて、千束は隼矢の右手を取った。彼の血に汚れ切った身体に、覆いかぶさるように身を乗り出す。
「じゅ、んや、さん……っ!」
千束の唇が、そこで何とか声を紡いだ。
「何で……っ! 言ったよね、生きてって、僕のためって……ッ! なのに……ッ!」
「千束……」
小さく、悲痛な声が響き渡る。いかないで、いかないでよ、と。
それはまるで、眼前にいる隼矢を除いて何一つ知覚していないが如き振る舞いだった。そして同時に、彼の死を深く予感しているような声でもあった。
その横で、たきなが小さく千束の名前を呟いている。痛ましげな表情でそちらの方へと目を遣っていて、そしてその手がぎり、と握り込まれたのも、否応なく目に入った。
それが、その光景が、クルミにはどうしても
つかつかと歩み寄り、千束の横に立つ。
「千束。……おい、千束ッ!」
少しばかりの怒りを込めて、声をかける。びくりとその肩が震えた。
振り返ったその顔を見て、クルミは顔を顰めた。瞳が収縮している。呼吸は荒く、そして気もそぞろだ。千束は完全に、精神の均衡を失っていた。
クルミの中で、怒りがさらに募る。
ここまで動揺して、絶望して、やれること、やるべきことすらやれなくなっている千束にも。
千束と約束したばかりなのに、自らの命を簡単に危険にさらして、今まさに死にかけている隼矢にも。
何より、「こういうことはあり得る」と予感していたのに、気が緩んだか看過して、結果今手を拱いているばかりの、自分に対して。
「お前、
果たしてそれは、千束に向けた言葉となって表れた。
飴色の瞳が、当惑に揺れる。一瞬だけ隼矢の方に目をくれて、またクルミへと戻ってきた。
「『諦めるのか』と言っているんだ。隼矢は、諦めたのか」
強い語気で浴びせかけられてなお、彼女は何も言葉を返さない。それでも暫くの沈黙を挟んで、千束は首をほんの僅かに、しかし確かに横に振った。
「なら、諦めるな。コイツは、こんなことじゃ死なない。――ボクが、死なせない」
その姿をしかと見据えて、クルミは力強く断言してみせる。己を鼓舞するような態度で、同時に彼女は、千束に対してまた一つの「指示」を出した。
「お前も今日、心臓移植を受けろ。……コイツの頑張りを、無駄にさせるな」
或はそれは、何よりクルミにとっての切なる願いだったのかもしれない。意を汲んだであろう千束が、ぺたりと座り込んだままにクルミを見上げて、こくりと頷いた。
時を同じくして、クルミは延空木のエントランスが開く音を聞く。
振り向き、目を向けた。視線の先では数人の救急隊員が、囲んだストレッチャーを押しながらも足早に近づいてきている。
クルミは悟った。ならば隼矢の命運は、未だ尽きてはいないのだと。
――そうだとも。隼矢、お前のことは死なせない。絶対に。
故に彼女はただ一人、心の中でそう強く決意を固めた。
クルミがそこまで話をしたところで、シーフードプラッターがテーブルの上に並んだ。
ロブスター、シュリンプ、そしてクラブミート――つまり蟹が一つのプレートに盛られた、結構豪華な一皿だ。
話し疲れたと言いたげにグラスの炭酸水を一口飲んで、そして待ち切れないとばかりに手を伸ばす。
「そう、か……」
しかしその傍らで、僕は静かに衝撃を受けていた。「千束が半狂乱だった」というのはいつぞやクルミから聞いた話ではあったが、こうしてその詳細を聞くにつけ、僕の胸中には罪悪感が広がっていく。
本当に、全く僕の認識の中にはない千束の振る舞いだった。絶望し、呆然として、動く気力すら失う。そんな彼女の在り方など、まさかあり得ると思ったことすらもなかった。
「あの子も、多分任務の中で同輩を『見送る』こともあったはず、なんだけどな」
独り言ちた僕に、クルミが指摘する。
「そりゃお前、そん時の千束はこの世に未練なんかなかったろうしな。薄皮一枚向こうの世界のことなんて、その程度の感覚だろうよ」
――ま、悼みもしただろうし、悲しみもしただろうがな。
どこか投げやりに、そうクルミは言い捨てた。確かに、それはその通りなのだろう。
フォークに刺したシュリンプにかぶりつく。咀嚼し、嚥下し、満足げに頷いたクルミは、そこで反対側の人差し指をびしっと僕へ向けた。
「それを変えたのは、お前だろ。変えたかったのも」
真っ直ぐな指摘だった。言っているのはきっと、あの日千束から言質を取り付けた時の話だ。
生きたいという意思の発露を引き出すためにやった、あの一連のやりとりとその結果を、彼女は僕に突きつけようとしている。
クルミが、目を眇めた。
「お前が」
言って、一呼吸する。
「千束を現世に
言い切ってから、クルミはもう一つシュリンプを頬張って、旨い、と呟いた。
「……というか、お前も食えよ。それとも、ステーキの方をたらふく食おうとでも思ってるのか?」
悪いが、ボクの分はやれんぞ。茶化したように言ってくる彼女に、苦笑する自分を自覚した。
「じゃ、僕ももらうよ」
そこまで言うのならと、半身のロブスターを半分ほど取って、自分の皿へと載せる。そのままの勢いで手をつけてみれば、なるほど確かにクルミの言う通りであると、僕は思わず頷いていた。
さしずめ、「ステーキハウス、侮りがたし」といったところだろうか。ボイルして塩で味を軽く調えただけのそれも、話に気を取られながら片手間に食べてしまうのはあまりに勿体ない。
我ながら店の選択は誤らなかったなと、内心安堵する自分がそこにいた。
兎も角も、である。二人して瞬く間にシーフードプラッターを平らげたあと、ナプキンで手をぬぐいながらもクルミは続きを話し始めた。
「で、だ。まあそういうわけでお前はあの病院に運ばれたわけだが、まああれでボクも結構頑張ったんだぞ。まだフック掛けてあったラジアータの交通管制システムをいじくって、お前の乗ってる救急車をずーっと青信号であの病院に運べるようにしたりとかな」
そう、さらりと爆弾発言をかましてから、病院に着いてからのことに話は飛んだ。
時刻は、既に十一時を回っている。隼矢をこの病院の救急科に担ぎ込んだのはもう二時間は前のことだが、彼に対する緊急手術はまだ続いていた。
クルミが隼矢の搬送先としてわざわざこの世田谷の病院を選んだのには、大きく二つの理由があった。
一つは、千束の心臓移植術のために隼矢自身が用意していた病床が、ここにあるからだ。つまり千束と隼矢、二人のためにリコリコの人手を二分させる必要がないように、そして千束が心臓移植術を拒絶しないように、同じ病院の中で隼矢の応急手術をやってもらうことが望ましかった。
もう一つは、今日という日のせいだ。延空木完成記念式典で起こった今回の事件の中で、一般民衆と
そういうこともあって、延空木の周辺――つまり墨田区近辺の救急指定病院のほとんどが、今回の事件の影響で生じた負傷者の治療に駆り出されていた。リコリスも含めてだ。ならば空きのある病院を先んじて指定した方が、最終的な隼矢の救急医療へのアクセスは早くなる。そこへ至るまでの信号機は、クルミが全部制御すればよい。そういう判断も、そこにはあった。
救急科の待合室の中で、クルミたちはただ待っている。ちなみに千束はここにはいない。既に心臓外科の病棟の方に送って、隼矢の用意してある病床と手術室を使っての心臓移植術が始められている。そしてそちらの対応については、ミズキとたきなに任せていた。故にこの場所にいるのは、二人だけだった。即ち、クルミとミカだ。
クルミたちのいるこの場所は、それでも昼と同様に、照明によって明るく照らされている。間違いなく、心理効果を期してのものだろう。ただそうであっても、この二時間という長い手術の時間そのものが、隼矢に未だ襲い掛かる死神の鎌の大きさ、鋭さというものを強く意識させていた。
「……ミカ」
クルミは、気づけばそう声に出していた。
「なんだ」
「……すまん。これはボクの落ち度だ」
前を見て、ポツリと呟く。ミカの顔は、見れなかった。
「隼矢に現場を任せた時、『嫌な予感』はした。アイツも感じてはいたみたいだが……でも」
首を振る。ヤキが回ったとしか、言いようがなかった。
「狙いすまされてたんだ。ボクが延空木のシステム復旧を仕掛けたその処理にフックされた。調べれば分かっただろうに……油断した」
ヘアバンドで掻き上げている前髪を、ぐしゃりと掴む。
クルミは苛立っていた。言うまでもなく、自分にだ。
「まだ、取り返しはつく、よな……?」
そして最後、弱音すらも出てきてしまう。千束にああまで言ったのに、情けないばかりだ。けれどクルミ自身は、人体の構造にそう詳しいわけでもない。不安は拭えなかった。
しばしの沈黙が続いて、ミカが口を開いた。
「隼矢くんは、肩と腿から出血していた。血の量は確かに多かったが、出ていたのは
クルミは顔を上げる。その目の前、ミカは真剣に、それでも安心させるような声でクルミへと語り掛けていた。
「その意味が分かるか?」
「……動脈血じゃない」
「そうだ。大出血とは言え、出元は静脈だ」
顔を正面に戻す。そこまで聞けば、クルミは理解できた。
「初期の手当で出血性ショックの進行は止められた。隼矢のバイタルは生きてる。ならばまだ、間に合う。そうだな」
視界の端で、ミカの頷く姿が見えた。目を瞑って、息をする。
「あとは、アイツの精神力次第か……」
そう呟いていた。
クルミは祈るように手を組む。いや、それはまさしく祈りだった。
――死んでくれるな。千束を悲しませるな。お前はそんなところで、終われないはずだろう。
――約束しただろう、帰ってくると。お前は約束を簡単に反故にする、不誠実な男ではないはずだ。
――だって、お前は、このボクが――
そこまで考えたその時、手術室につながるドアが開く。
救急医だ。クルミたちの方に向けて歩いてくるその顔つきは、深刻な表情を隠さずも、しかし気落ちしている様子は見られない。
そこにクルミは、隼矢の無事を悟った。
果たしてその救急医は、隼矢に対する緊急手術の成功を、告げに来たのだった。
「そっか、そんなことを……」
思わず、僕は零していた。僕をあの病院の救急科に担ぎ込んだ時、まさかクルミがそんなことを考えていたとは思いもしていなかった。
「まあ、実際問題あれはボクの油断だったからな。お前には、悪いことをした」
どこかバツが悪そうに、クルミはそう上目遣いに見てくる。
らしくない。少し笑ってしまった。
「あれは誰が悪いってわけでもないだろ。僕だってあの場じゃあんまり深刻には思ってなかったんだ。ま、一件落着したその瞬間が一番危ないってのは、君もそうだったというわけだな」
「まあ……そう、だな」
煮え切らない声だった。気持ちは分かる。僕たちのような人種はいつだってプライドが高いし、完璧主義者だ。自分に落ち度があれば、そしてそれによる失敗があれば猶の事、自分が誰よりもそれを許さない。許したくない。そういうのが、僕たちなのだから。
けれど、だからこそ僕は、感謝の気持ちをクルミに伝えたかった。クルミには、誇っていてほしかった。
「『次はもっとうまくやれる』。同じ間違いは犯さない。お互いに。僕たちは学べる生き物だし、チャンスだってある。
その顔を覗きこんで、念を押す。その向こうで、クルミが小さく笑った。
「……お前、大分口がうまくなったなぁ」
そんなことを、呆れ口調で返してきた。
そして話は、また戻る。僕の手術がどうにか終わった、その次の日のことだった。
そのあとのこと。店のことを任せる必要があるからとミズキだけは帰っていたが、それ以外のクルミたち一行はそのまま病院で仮眠を取った。
そして次の日の朝、クルミたちは病棟のエントランスで一人の男と向き合っていた。
その原因そのものは、昨日の深夜にクルミが取った行動による。隼矢が現場に持って行った千束のバッグの中から彼のスマホを発見したクルミは、そこに複数の通知が入っていることを見て取った。恐らくは、途中でいきなり途絶えた隼矢からの音信を不審に思った彼の組織の人間が連打している連絡がメインだろう。
そう思って彼のスマホのロックを解除した――方法などまあ、野暮だろう――クルミは、果たして大量に受信していた連絡に対して、その現況を以て返信した。隼矢の「協力者」を名乗ってのことだった。
それは厳密には隼矢の所属する組織ではなかったらしいが、しかしその報告を重く見た彼らは、それを速やかに隼矢の組織、というかその上長に対して共有したらしい。つまり今クルミたちの目の前に立っているその男こそが、隼矢の組織における直属の上司、曰くの「警視庁公安部外事第五課第二係、係長」であった。
「まずは、礼を述べさせていただきたい」
病院の食堂の一角に陣取り、その男はクルミたちに向かってそう切り出した。
その立ち居振る舞いを見る。動きはきびきびとしていて、姿勢にも隙がない。周囲全てに注意を緩慢なく払っている。なるほど、公安警察官らしい姿だった。
そう考えると、隼矢には普段からあまり警察官らしさがない。どちらかと言えばクルミのような種類の人間に見える。それは若さゆえの慣れの問題なのか、はたまた別のところに原因があるのかは、分からなかったが。
そんなクルミの感慨はさておいて、彼は更に続けた。
「今回の事案、真弓を迅速な対応で救助いただいたこと、感謝します。彼は我々にとっては必要不可欠な人材です。それを喪わずに済んだことは、あまりにも大きい」
言いながら、深く頭を下げてきた。そしてそれには、ミカが答える。
「お気になさらず。我々にとっても彼は貴重ですし、そうでなくても仲間です。助けるのに全力を尽くすことに、理由などございません」
「仲間、ですか……」
ミカの言葉を、男――『係長』は反芻する。そしてそこからしばらくして、少しだけその相好を崩した。
「そう言っていただけるのであれば、彼も喜ぶでしょう。……それで、ですが」
しかしそこまで言って、彼は表情と、そして姿勢を今一度正した。
「今回のことですが、申し訳ございません。聴取にご協力いただきたいというのが趣旨です。我々も今回の事案、こういう結果になったからには上への報告は速やかにせねばなりません。真弓の意識がいつ戻るか分からない以上、どうしても皆様方にはご助力をお願いすることになります。お手数をおかけしますが」
ミカがそれに、黙って頷く。しかしそこで、横を見た。クルミの方ではない、もう一方の方だった。
「そういうことでしたら、こちらの井ノ上が詳しいです。当日救助に当たって実際に延空木に乗り込んだのは、彼女ですので」
そう言いつつ、たきなに向けて掌を向ける。『係長』はその言葉にそちらの方を向いて――しかしそこで、少しばかり目を瞠った。
当然だろう。彼女は未だ、
「失礼ですが、彼女は……」
「ええ。見ての通りです」
「……わかりました」
そのやり取りの中で大体の事情に見当をつけた『係長』が、たきなへ向けて声をかける。
「では、井ノ上さん。当日真弓からの連絡が途絶えた午後七時以降の彼の動向とその結果について、分かる範囲で構いませんのでお話しいただけますか」
その言葉を聞いて、たきながミカを、そしてクルミの方を見る。
視線を受けて、クルミは頷いた。
たきなもまたそれに頷き返して、自らに声をかけた男の方を向く。
「――わかりました。では――」
そして、話を始めた。
そこから大体一時間ほど聴取は続き、その終わり、礼の言葉一つを残して、彼はこの病院から去った。そしてその最中、彼は一つポツリと言葉を残していた。
――井ノ上さんや、ミカさんのような考えの方が
クルミはその台詞に、隼矢の、そして彼の属する組織の考えというものが、割とはっきり見えたような気がしていた。そう考えれば、隼矢自身は努めてそれを表に出さないよう心がけてはいるのだろう。ただそれでも、今回の延空木にまつわるあれやこれやの中で、どうして隼矢があれほどまでに大掛かりな仕掛けを施したのか――否、施すことができたのかの答えは、きっとそこにあった。それを、クルミはほぼ確信していた。
そしてそれとほぼ同時、クルミたち三人は呼び出しを受けた。
人工心臓置換術を受けた千束が、目を覚ました。その連絡だった。
クルミたちが千束のために割り当てられた病室へ入ったその時、千束は窓の外を眺めていた。しかしクルミたち三人の足音が聞こえるや、彼女はそちらに振り向く。
水色の入院着を纏う千束の胸元には、大きめのガーゼが当てられている。きっとその下には手術創があるのだろう。最低でも抜糸となる一週間ほど先までは、それはそのままなのだと思われた。
「みんな……」
小さな、千束の声がする。それに弾かれるように、たきながまず駆け込んでいった。
「千束っ」
言って、ベッドの傍に立つ。ただ彼女は手術後で、清潔が保たれなければならない。あまり近寄ることができない微妙な距離感の中で、しかしたきなは胸中の安堵を隠そうともしていない。
追いかけるようにクルミたちが歩み寄る中、千束はたきなへ声をかけた。
「……まあ、この通りだよ。私は、大丈夫」
「そう、みたいですね……」
そしてクルミたちへと、顔を向けた。
「みんな、ありがとね。……これで、私は大丈夫なんだよね」
「ああ。お前の心臓は、新しくなった。これで相当先までは大丈夫だ。聞いたところによれば、五十年ぐらいは持つらしいぞ? その心臓」
「五十年……」
クルミの言葉を受けて、そうポツリとつぶやきつつも胸に手を当てる。そこで、顔を少し顰めた。
「痛い」
「そりゃ痛いだろう。でもな千束、その痛みはお前が生きているということだ。生きているんだよ。
そこで、彼女は気づく。目を見開いた。
「そうだ、隼矢さん! あのあとどうなったのッ!?」
何で今まで気がつかなかったんだ。そんな自責の念すらも感じる問いの声だった。ただそれを責めるものは、ここには誰もいない。
つまりそれはある種の防衛機制なのだろう。隼矢の名前をずっと力なく呼び続けていたあの時の千束の姿は、クルミたちの記憶には未だ新しかった。
ミカが、一歩進み出る。そして、努めて柔和に口を開いた。
「端的に言おう。――隼矢くんは、助かった」
息を呑む音が、ここにまで届く。
「『静脈吻合と右肩亜脱臼の治療、それと左大腿骨が一部剥離骨折していたところの骨片除去をした』そうだよ。出血がひどかったからまだ目は醒めてないけれども、命に別条はないそうだ」
そこまで言ったミカの言葉を、クルミが継いだ。
「意識がいつ戻るかはわからないが、まあ危機は脱したみたいだな。だからいつまでもこのままと言うこともない。いつかは目も醒める。……助かったんだよ、アイツは」
それを聞いた彼女が、口に手を当て、目を瞠る。
そしてそこから涙が零れ落ちるまで、そう時間はかからなかった。
「あの人が……そうか、だから知ってたのか」
そんな言葉が漏れていた。まさかリコリコのみんなと、あの係長が会う機会があったとは。
「まあそうだな。けどどちらかと言えば、千束の話だ」
テーブルに並べられているパンを一つ手に取り、千切りながらもクルミが言う。
「まあそういうわけでアイツの方が大分先に目を覚ましたんだが、自由に動けるようになった五日目ぐらいから、アイツ毎日お前んとこ行ってたんだぞ、見舞いに」
びっ、と指を突きつけられた。頷く。
「それはまあ、なんとなく分かってはいた、けど」
少しだけ目を伏せて、しかしすぐに上げる。クルミを正面から見て、頭を下げた。
「ありがとう、全部聞かせてくれて。やっぱり、いろいろ苦労をかけたみたいで、ごめん」
僕がそこから顔を上げるまでのたっぷり十秒間ほど待って、クルミは言葉を返してきた。
「まあ、礼は受け取るよ。ここで肉奢られるのだって、その一環だしな。ただまあ……」
そこで一度言葉を区切って、そしてクルミが微笑む。
びっくりするぐらい穏やかで、優しい笑みだった。
「お前が助かったのは、よかったよ、本当に」
彼女が僕にそう言ったちょうどその時、ウェイターの近寄る音がした。肉の脂が皿の上で弾ける音と、食欲をそそる匂いも。
思わずと言った様子でクルミがそちらに目を向けて――そして、また別の笑みをその顔の上に形作った。
「さ、メインイベントだな」
すっかり暗くなった夜のハワイを、車で駆けてゆく。
僕たちはその後、出されたステーキを一瞬で平らげた。ドライエイジドされた最高級の牛肉をオーブンで焼き上げたと謳うそれは、まさしくかつて僕がアメリカの学会に出た時に教授に奢ってもらった味と相違なく、クルミと二人競うように食べ進めていれば、その全てを食らいつくすのには十五分もいらなかった。アメリカのレストランらしく料理の加減を聞きにテーブルへやってきた担当のウェイターが思わず苦笑いを浮かべてしまうほどには、僕たちの食べっぷりというのは凄まじいものがあったのだろうと思わされる。
その後はクルミに
「今日は、ごちそうさん」
その路上で、クルミが不意にそう声を上げた。
「どうも。で、どうだったよ、あの店」
「言うまでもないだろ。というか、この店日本にもないのか?」
どうやら彼女は、あの店が大層お気に召したらしい。小さく笑って、答えた。
「あるぞ。東京に三か所ぐらいと……あとそれ以外にも二、三か所ぐらいはあったような」
そうか、と声がする。
「けどクルミ、君あんま外出たがらないだろ。まあ気持ちは分かるけどな、生命的な意味で」
「まあ、そうなんだが。……デリバリーとかないかな」
思わず吹き出してしまった。そこまで気に入ったか、と。
「まあしばらくしたら君のほとぼりも冷めるだろ。そしたらまあ、一緒に行く機会はあるんじゃないか? 次はリコリコ全員で、とか」
「……そうだな」
呟くクルミは、どこか感慨深げに映る。首を振るのが、目の端にも見えた。
「まあ、とにかくだ。今日は、ありがとう。こういうのはガラじゃないが……でも、楽しかったぞ」
思わず、一瞬だけクルミの方を見てしまった。そこに捉えたクルミはどこか遠慮がちな面持ちで、驚くことに
二度見しそうになって、運転中だったと思いとどまる。それでも上げた声の中にある驚きの色は、隠せそうになかった。
「……ほんと、ガラじゃないな、それは」
けど。そう、言葉を繋ぐ。
「楽しんでくれたのなら、それに勝る物はないよ。よかった、本当に」
心中に広がる満足感を隠さずに、頷いた。
そしてしばらく、車内には沈黙が続いた。夜の闇を車のライトが照らし、少し気温の下がってきたハワイの空気が開けた窓から流れ込んでくる。
オアフ島は、夜の中にあっても賑やかだ。やはり世界有数のリゾート地と言うのは、伊達ではないのだろう。
その中で、またポツリとクルミが切り出した。
「まあ、ボクはいいんだが。……千束はどうするんだ? そのケーキか?」
後部座席に目線をやりながら、そんな問いを投げてくる。
彼女の視界の先、シートベルトまでかけて滑らないようにがっちりガードした袋の中に入っているのは、まさにそのためのものだ。僕は頷いた。
「そうだよ。このあと帰って、千束に渡す。僕が店でデザート食べなかったのも、それだし」
「なるほどな」
得心がいったような声色だったが、彼女の追及は緩まない。
「まあ、いい心がけだとは思うが。……ただ、やっぱり隼矢お前」
そこで一度言葉を区切って、前の方へと向き直る。ちらりとまた僕の方を見て、続きを口にした。
「そろそろ千束とのこと、結論を出すべきだぞ」
またか。少しばかり僕はそう思う。今回のハワイ旅行の中で、クルミからこの種の言葉を聞くのはもはや何度目か。
――今日は君のための日なのに。そう殆ど口から出かけたが、それよりほんの少し先、クルミの言葉が僕に先んじた。
「今日話していてやっぱり思ったが、今の千束ははっきり
一瞬、言い淀むような雰囲気を感じた。それでも、クルミはきっぱりと続ける。
「まあ……でもそれはボクも悪かったとは思う。原因の一つではあるさ。けど……やっぱり、お前が千束を
視界の隅で、クルミが僕の方へと真っ直ぐ視線を向けているのを見た。真剣な目のように、思えた。
「……それは、分かってる。でも千束に、あの子に『分からない』ままの気持ちは、ぶつけられない」
ならば僕も真剣に、それには応えるべきだろう。
道端の灯りが後ろへと流れてゆく。夜の喧噪は未だ開けた窓から漏れ聞こえてきていて、だから僕はそこで徐に、それを閉めきった。
何となく、その言葉はクルミにだけ聞かせたかった。二人だけの世界のなかで、言いたかった。
「僕はあの子を穢したくない。生き方を、枉げてほしくない。……でも、そばにはいたい。分かってるのは、それだけなんだ。今はまだ」
息が漏れる音を聞いた。クルミだ。
「……らしいな、お前も」
呆れたような、でもどこか慈しむような、そんな凪いだ声だった。
「まあでも、
後ろを指さしながら、クルミは言う。
――明後日。そう言われて一瞬だけ思案して、それでもすぐに気づいた。
「ああ……そういえばそろそろだったか、部屋交換」
「そうだ。気ままなシングルライフは終わりというわけだな」
皮肉げにからかってきたクルミも、すぐに真剣な声色に戻る。
「まあ、その日が一つの期限だ。少しぐらい、考えておくんだな」
クルミがそう言ったそのタイミングで、ハンドルを左に切る。目の前には僕たちのコテージが見えていた。
駐車場に着いて、車を停める。クルミへの
灯りの消えた車内で、クルミの方を向いた。
「まあそれは、考えておくよ。……じゃ、今日は終わりだ。お疲れ様、クルミ」
「お疲れさん。……ああ、最後にもう一回言うが、隼矢」
目線を真っ直ぐ、コテージからの灯りに照らされる中、クルミは笑って、親指を立てた。
「最高の一日だった。ありがとう」
ホスト冥利に尽きる言葉だった。僕もまた頷いて、拳を握って、クルミのそれへと近づけていく。
「……それは、なによりだ」
二人の間で、握った拳が合わさった。
その日の深夜、十一時ぐらいのこと。他のみんなが明日に備えてそろそろ寝入らんとする中、僕はリビングに千束を呼び出していた。
それはまさしく、今日の僕の最後の仕事だった。
僕がリビングに着くのとほぼ時を同じくして、千束もそこへやってくる。
「言われた通り来たけど……隼矢さん、どしたん? こんな遅くに」
素朴な問いを発しながら、彼女はソファに座った。そちらをちらと見て、しかし僕は作業を続ける。
冷蔵庫を開けて、一つの紙の箱を取り出した。それを掲げて、千束を食卓の方へと呼び寄せる。
怪訝そうな顔で椅子へと腰かけた彼女の前に、その紙の箱を差し出した。
封を切り、開けて、そして広げる。
「これは……」
中から見えた景色に、千束の声が漏れた。思った通りの反応に若干気をよくしながら、僕は千束めがけて声をかけた。
「ハッピーホワイトデー、千束。バレンタインは、ありがとう」
そこに座するのは、二人分のチーズケーキだ。件のステーキハウスから包んでもらった、お土産でもあった。
「売り物で申し訳ないんだけどね。でも、なんというか、二人で食べれたらなって、思ってさ」
千束は、口に手を当てている。しばらくののちに、ふるふると首を振った。
「そんなことないよ。……嬉しい、ありがとう」
横に立つ僕を見上げて、千束が笑う。その瞳は揺れていて、微かな潤みすらも感じた。
彼女はまたケーキへと視線を落とす。そこで何かに気づいたように、声を上げた。
「そういえば今日、クルミに『お礼』してたんだっけ、隼矢さん」
「うん。僕にしろ君にしろ、あいつにはそれはそれは世話になったから。お礼は、しないとなって思って」
千束はそれに、深々と頷いた。
「そう、だね。ホント、そうだと思う」
しかしそこで、俄に罪悪感が頭をもたげてきた。
今日は、ホワイトデーだ。ホワイトデーなのだ。千束が僕のために、手作りまでして持ってきてくれたチョコレートへの、お返しをする日なのに。
分かってはいたけれども、クルミにもそれは言ったけれども、それでも僕は今日、
「……でも、ごめんね。今日にぶつけるようなことしちゃって。言い訳かもしれないけど、僕とクルミの午後の非番が重なるのが今日しかなくて」
だからそれは、本当に言い訳だった。食器棚から皿を出そうとする手を止めて、千束を見る。ながらでする話では、間違いなくなかった。
そしてこれは千束には死んでも言えないが、結局クルミへのホワイトデーのお返しもその中で済ませているわけだ、僕は。とんだ浮気男になった気分だった。いや、今のところ千束とどうこうなっているわけではないにせよ、それでもどこかそれは不誠実な振る舞いに、思えてならなかった。
千束が、キッチンの向こうにいる僕を見る。内心を見透かすような目つきだった。二人何も言わない時間が続いて、その末に千束は、小さく首を振った。
「いいんだよ。私が隼矢さんの立場でも、きっとそうしてた。そうするべきだよ。隼矢さんは、正しいことをした」
そう言って微笑んで、第一、と言葉を重ねる。
「そもそも今日私午後働いてたし。時間は有効活用しなくちゃ、ね。だからいいんだよ、本当。こうやって一緒にケーキ食べられるだけで、幸せ」
慈愛の目線だった。きっと今千束は、僕が本当はクルミにホワイトデーのお返しまでやったことに、恐らく気づいている。
それでも何も言わなかった。僕のやったことを、選択を、受け入れてくれている。
泣きたくなるほどに、それは彼女の優しさだった。
「そう、かな」
「そうだよ」
「そっか……」
会話の末に、千束が徐に立ち上がる。そしてこちらに歩いてきた。
「手伝うよ、食器出すの」
「……ありがとう」
そのあと、二人食器棚から皿を出し、カトラリーを引っ張って、机の上に並べる。更にそのついでにと、冷蔵庫から持ち出してきたアイスティーをそれぞれのコップに注いでいった。
「まあ『二人分』って言ったって、実際のところこれ、もともと一個だったんだよね。頼んで二個に切ってもらったんだけどさ」
そして最後の仕事とばかりにケーキをよそいながらも、ふとステーキハウスでの一幕のことが頭を過って、気づけばそんなことを口に出していた。
千束もまた、僕のその言葉に苦笑いを浮かべた。
「ね。アメリカのサイズって何でもかんでもデカすぎるわ。じゃっぱにーずの私たちには、ちょっとなあって」
言っている間に、テーブルの上には「アイスティー付きケーキセット」が二つ並ぶ。
それぞれの食卓にそれを据え、僕たちは今一度腰を落ち着けて、そして各々コップをその手に持った。
二人見合って、それを掲げる。呼吸を一つ、音頭を取った。
「じゃ、改めて。ハッピーホワイトデー」
「うん。ありがと、隼矢さん」
それからはそのまま二人、ケーキと紅茶を手に語らう。
そして二人してそれを腹の中に収める頃には、もうすっかり日付が変わっていた。
三月十四日のハワイの夜は、そうやって更けてゆく。
それは千束と僕との間に一つの
クルミ視点での三人称一元視点法という、この小説では初の試みでした。
一応これで、今回の更新分は終わりです。
また気が向いたらこういう形で突発更新するかもですが……まあそれも、リコリコに新情報あれば、と言う感じだと思います。
それでは、またいつか。