赤い林檎を蹴飛ばしたら   作:d1199

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悪魔を憐れむ愛の歌二

人目を憚って行動するなら当然夜だ。エリスという村の子供と真也は一度別れて、人目に付かない場所で落ち合った。そして森の中を歩き続けた。村を迂回するのである。エリスという8歳の依頼者は、歳に見合わぬ強靱な足腰で、夜の森をザクザク歩いて行った。岩を超え、倒木を跨いだ。小さな裂け目を飛び越えて、急斜面を苦も無く登っていく。その逞しさに真也も舌を巻いた。舗装されていない道ですら慣れていないと厄介なのだ。彼女は立ち止まって、真也に向いた。

 

「そう。アンタの言う通り、旅人たちを襲って奪ってるんだ。でも暫く来なくて村人から選ぶ事になった」

「最近この国境付近はきな臭いからな。好きこのんで通る物好きは居ない。それはともかく喋る度に立ち止まるな。歩きながら話せ」

「それは行儀が悪い」

「地方ルールは知らないけれど、今それを問う状況か。無駄な時間を使うな。さっさと歩け」

「アンタ友達居ないだろ。そんなツッケンドンじゃボッチだ」

「……口の減らないガキだな。友好的な人間なら居る」

「上っ面だけだね、そうに違いない」

「この規模の村なら、腹を割った付き合いが必要かも知れないが町は人が多い。それ故一人当りの親密度は相対的に下がる。片っ端から深い人間関係を構築してみろ、首が回らなくなる。もう一つ、上っ面ってのは礼節とも言う、覚えておけ。そもそも中身を前提としない行為なんだよ」

「親の顔が見てみたいね。ひねくれすぎだ」

 

真也はその子供に拳を捻り込んだ。万力の要領だ。エリスの意見に同意だが人に言われると腹が立ったのである。

 

「いた、痛い! 離せ! この碌デナシ! ゴーカン魔!」

「お前の人間関係感が、人情味溢れたご立派なものだと理解出来たから、話をつ、づ、け、ろ。村人から選ぶってのは何だ」

「神様に生け贄を捧げるのさ」

「人間を、か」

「そう」

 

その子供は、その言葉に躊躇いが無かった。この村ではそれが普通なのだ。おかしいと指摘しても意味が無い。だもので真也はそのこと自体に言及はしなかった。そもそも何処の国でも昔は大なり小なりしていた風習だ。

 

「大体読めた。それで兄に白羽の矢が立った、と言う事か。やっぱり引き受けるんじゃ無かったな、宗教がらみは手に負えない」

「気になっているんだけど、なんで引き受けてくれたんだい。初めは渋っていたのに」

「お前には関係ない」

「やっぱりアタシに変な事をするつもりじゃ」

「死ね。良いか、助けてやるって言ってるんだ。理由なんか何でも良いだろ。面倒くさい」

「エリスだ。そう名乗った以上、名前で呼んで欲しいものだね。そもそもアンタの名前を聞いてない」

「覚える必要は無い。どうせ明日には居ないし、2度と会う事も無いだろ」

「それって虚無主義だ」

「難しい言葉知ってるな。その前にこの背負っている荷物をどこかに隠したい。良い場所は無いか?」

 

案内されたのは大樹であった。その根元にある、少々わざとらしい枝を退けると大穴があった。

 

「ここはアタシしか知らない場所だよ」

「遊び場か」

「兄さんと喧嘩した時ここに隠れるんだ」

 

おもちゃや、それらしい石、木の実、食器などが置いてあった。真也はバックパックを降ろすと穴の内側に立てかけた。滑り出し倒れ掛けたので慌てて支えた。何度か繰り返し、面倒だと倒したままにした。倒しておけば倒れる事は無いのだ。何がおかしいのか、エリスは必死に笑いを堪えていた。真也はただこう聞いた。その得体の知れない表情に、彼女は心臓を鷲掴みされた様な錯覚に陥った。悪寒もしたし、息も呑んだ。

 

「一つ確認したいが助けるってのは生きる事からか? それとも死ぬ事からか? どちらだ」

「何を言ってるの? そんなの決まってるだろ」

「そう、死ぬ事から助けるのか。面倒だな」

「人を助ける事が面倒だってのっ!?」

「分っていない様だから言っておく。助けるってのはこの村から逃がすって事だ。隣町ぐらいまでは付き合うがその後は関知しない。外の世界はお前が思う以上に残酷だ。ここが村の外だからって、外の世界だなんて思うなよ。兄を犠牲にしてこの村に留まった方がマシな可能性がある。それでもやるか」

「それ、本心から言ってるの?」

「ま、大事な家族を見殺しにして生き続けるよりは、やるだけやって二人一緒に死んだ方がマシか」

「死ぬなんて決まってない」

「確かにそうだ。全てはお前ら次第」

「アンタ、とても陰湿だ」

「なんでそう思う」

「助かるなんて全く信じていない。死ぬに決まってる、そう思ってる」

「そんな事は無い。その可能性は限りなく低い、そう思っているだけ」

 

森を歩き続けると村の明かりが見えた。お盆をひっくり返した様な、円形の崖になっていた。

 

「月明かりが有るとは言えよくこの森の中を歩けるな」

「ここはアタシの庭だからだよ」

 

草を掴み、枝に足を掛け5メートル程の崖を登った。木々の隙間を這う様に歩くと村の裏手、つまり深部に辿り着いた。右に崖がある。左に木々があった。その先に村の灯火が見えた。エリスのそれは急かす物言いだ。事実そうであった。

 

「兄さんが捕らえられている牢屋はこっち」

「その前に神殿に案内しろ」

「どうしてよ」

「確認しないと。万が一本物だったら後が酷い。災いが降りるって事だ」

「アンタは神官か何かなの?」

「さてね。救世主かも知れないし、破壊者かも知れない、正義の味方かも知れないし、悪党かも知れない。今ならまだ間に合う。止めておくか?」

「代わりに兄さんを諦めろって言うの? なんて嫌な奴」

「良く言われるよ」

 

その声はあの黒髪の娘だった。

 

「その娘に聞く事ではあるまい。止めておくべきはお主であり、退くべきは今であろう? その娘を見捨てるが良い」

 

振り向けば一瞬だけ姿を捕らえた、村の陰湿な闇夜に消えた。

 

「エリスって言ったか。今の声を聞いたか?」

「声? 知らないね」

「この村に長い黒髪の女の子の伝承か何かあるか?」

「でんしょうって何だい」

「言い伝え、お伽噺、伝説、その類いだ」

「聞いた事無いけれど」

「そうか」

 

彼はどうするべきか考えた。この依頼を続けるべきか、それとも不確定要素を理由に、退くか。彼は続行する事にした。

 

(どうなろうと知った事か。それならそれで、終わらせる事ができる)

 

暗視スコープを手にその神殿を見上げた。町の明かりは届かない夜の中、月明かりの下にそれは浮かんでいた。否、鎮座しているが適当だろう。片目で覗きながら真也は呟いた。

 

「これは、こいつは驚いた」

 

それは牛の顔を持っていた。胴体は人間で、天を仰ぐように両手を広げていた。下半身は外側から鍵を閉める部屋になっていた。地下室に該当する部屋もあり、そこには大量の炭が残っていた。その構造を説明すると、地下室で火を焚き牢屋の中を燻す、その煙が牛の顔の穴から抜ける構造になっていた。

 

「これを祀っている連中がまだ居るたんて」

「余所者のアンタがモラクさまを知ってる? どうしてだよ」

「正しくはモレク。元々はアンモン人が崇めた豊作や利益を守る神だ。エリス。生け贄は人間だけか? 動物とかも捧げるのか?」

「人間が一人だけだけど」

「そうか。いいだろ、兄の所に案内しろ。さっさと抜け出すぞ」

「どういう事だよ」

「この神は偽物ってことだ。霊格が殆ど無い」

 

牢屋に向かいながら、真也は小声で説明した。エリスの様な子供が疑問を持ちながらでは、それに気を取られる恐れがあったからだ。

 

「モレクは元々7つの生け贄を要求する神だった。小麦粉、キジバト、牝羊、牝山羊、子牛、牝牛。そして人間の子供だ。ただし権威者の第一子で、上限が6歳って決まっている。だがここのそれは少し違う。生け贄が一人になっていたり、年齢が上がっていたり、王子でなくても良かったり。もともとはヨルダン川の東にギレアドってところで祀られていた地方神なんだが、ここに伝わる過程で変わったんだろ。もしくは権威者が都合良く変えたのか。ともかくモレクの劣化コピーみたいなモノだ」

「神様を変える? そんな事許される訳が無い」

「伝わった神を都合良く変えるのは良くある話だ。例えばユダヤ教のヤハウェはもともと戦いの神だったんだよ。戦争をしていた当時の彼らにはそれが都合が良かったから。ところがイスラエルの人達は酷い目にあう。当時南北に国が別れていたんだが、北のイスラエル国はアッシリアに滅ぼされた。南のユダ国はバビロニアに滅ぼされた。何故こんな目に遭うのか。何故神は守ってくれないのか。そのうち彼らは、ヤハウェは自分たちだけの神ではなく、世界神で我々が罪を犯したからその罰だ、そう考える様になった。これがユダヤ教の唯一神の興り。自然という存在と供に誕生した自然信仰神以外は日が浅いから、こんな事が出来るんだな」

 

真也のその説明を聞いたエリスは真也の態度を硬化させていた。不機嫌さを隠さない。方や真也は呆れを隠さない。

 

「あのな。その神様から生け贄を奪うんだぞ、俺らは。いい加減腹を括って信仰を捨てろ。というか、お前の兄はこの事を知っているんだろうな。助けに行った途端大声を出されるとか、勘弁だ」

「……それは大丈夫だね、ちゃんと伝えてあるから」

 

樹木の影から顔を出すと確かに牢屋があった。岩壁にあった自然の洞窟に鉄格子を付けただけの質素なモノだった。これは一体どうした事か、見張りが居なかった。左右に視線を走らせたが、人気すら無い。どうも嫌な予感がする。

 

「エリス、お前の親は?」

「父さんと母さんがいる。けれど母さんは本当の親じゃ無いんだ。後から来た人」

「継母って事ね。大体読めた、その人は本当の子供を溺愛して、お前ら兄妹に辛く当たっている。父親は気が弱くて、継母に強く言えない」

「アンタ性格が悪すぎ。人が気にしている事イチイチ説明するだなんて」

「昔から良くある話だ。ところで確認したい、お前の親に話したか?」

「話せる訳無いよ。そこまでバカじゃない。話したのはお兄ちゃんだけ」

「それは結構だ」

 

牢屋に駆け寄るとエリスは立ち止まっていた。真也も立ち止まった。

 

「「……」」

 

沈黙が訪れた。そして真也は呟いた。

 

「鍵は持っているんだろうな」

「……」

「おい」

「そこまで考えてなかった。どうしよう」

「目を瞑って向こうを向いていろ」

「どうしてさ」

「問答するつもりは無い。兄貴を助けたいならさっさとしろ」

「なんだい、偉そうに」

 

真也はナイフを取り出すと、眼鏡をズラし、南京錠を線に沿って切断した。

 

「開いたぞ」

「どうやったんだ」

「質問は無しだ。急げ」

 

エリスは訝しがりながらも、牢屋の中に入っていった。続いて真也が牢屋に入ると兄妹は抱き合っていた。妹のエリスは目に涙すら浮かべていた。真也は彼女を信頼する事にした。エリスの安堵は本物だ。

 

「お兄ちゃん、助けに来たよ」

 

彼女の兄は、彼女と同じ黒髪に褐色肌。12歳前後だろう。彼女と同じ様な民族衣装を纏っていた。その兄は妹を抱きしめると、彼女の髪に鼻先を埋めて、こう言った。

 

「ああ良かったエリス。これで俺らは助かった」

 

その安堵は本物だった。真也は笑みを浮かべた。忘れていた屈託の無い笑みだった。

 

「感動のご対面だが急げ。さっさと逃げるぞ」

 

真也の声にその年若い兄は警戒を隠さない。

 

「エリス、この人が?」

「そう。名無しの赤法師」

「なんと言ってお礼を言えば良いのか」

「話は後だ、そう言っているのが理解出来ないか」

「確かにそうですね。さ、エリス。おいで」

「お、お兄ちゃん引っ張らないでよ!」

「ったく。話を聞きやしない。これだからガキは嫌だ」

 

呆れた様に真也が牢屋の外に出ると、彼は心底詰まらなさそうな顔をした。

 

 

◆◆◆

 

 

牢屋の出入り口の周りは、村の男たちで埋め尽くされていた。その数ざっと50人。何人かは松明、何人かはランタンを持っていた。兄妹は、男たちに捕らえられていた。否、正確には妹のエリスのみ捕らえられていた。彼女は展開が理解出来ず、あ、とも。え、とも。良く分からない感嘆符を繰り返すのみだ。

 

「さて、動かないで貰おうか。お客人」

 

村長らしき、白い髭を蓄えた老人が一歩踏み出した。

 

「アンタは良い人の様だのう。この娘を死なせたくはあるまい? 温和しくする事だ」

 

真也は両手を挙げた。数名の屈強な男たちが駆け寄ると、真也を殴りつけた。最初の男は右ストレートを以て真也の顎を打ち貫いた、咥内が切れ血が飛び散った。次の男は真也の頭を抱えると腹に膝を打ち込んだ、もう一発膝を撃ち込んだ。3人目の男は手にした鉄の棒で真也の背中を打ち付けた。4人目の男は真也の体を掴み岩壁に叩き付けた、次に髪を掴み額を打ち付けた、額が割れて血が流れた。

 

「ぐぅっ!」

 

彼は呻き声を上げるとそのまま地に伏せた。5人目の男は何度も踏みつけ蹴りを入れた。外套越し、つまり胴体へのダメージは無いが頭部顔面は別だ。痛みもあれば血も吐いた。真也は何処か他人事のように、それを受け入れていた。この5人は真也に叩き伏せられた男たちだった。両手に手錠を掛けられ、跪けさせられた。髪を掴まれ、強引に顔を上げさせられた。その様を見ていたエリスの声は震えていた。

 

「兄さん、どうして」

 

彼女の恐れは当然である。この脱走は兄にのみ伝えたからだ。必然、この展開の原因は特定出来る。

 

「言っただろ、これで俺らは助かったって」

「どう、して」

 

エリスの問いに答えたのは鼻の穴と口から血を流し、顔を腫らしていた真也であった。

 

「分らないか、エリス。お前の兄さんは初めからこの予定だった。妹から逃げ出す算段を聞いた瞬間、そう決めた。だろ? 坊主」

「そうだ。村を逃げ出したところで、俺ら兄妹に生きていく術は無い。だが生け贄が別に居るなら話は変わる。それとお前。俺の妹を呼び捨てにするな」

「10歳を少々回ったところにしては、随分肝が据わったアニキだな。将来有望だ。この村にとってのな」

「何も知らない余所者が知った風な口を効くな。これがこの村の、俺らの正義だ」

「あぁそうだろうさ。アンタらにはアンタらの法がある、そういう事だろ?」

 

真也を殴った男の一人が、真也の胸ぐらを掴んだ。

 

「良い人さん。荷物はどうした」

「捨てたよ。欲しければお前らの崇める神に聞いてみろ」

 

再び右顎を拳で打ち貫かれた、血にまみれた臼歯が一本飛んでいった。髪を掴まれ強引に引き起こされた、今度は左顎をを殴られた。鼻の穴から血を垂れ流し、顔を腫らしていく真也を見る度に、彼らの妬みという欲望は満たされる。喜びに打ち震える。正義の鉄槌を加える腕と足に鈍い衝撃が響く。骨肉を殴る感触は、彼らの暴力的な欲望をなお加速させていった。誰かの不幸が彼らの正義であり喜びなのだ。事実その様を見る誰も彼もが満足そうに微笑んでいた。これがこの村の有り様だった。

 

どうして良いのか分からず、ただ大粒の涙を流すエリスを真也はぼんやり見ていた。意識を失っていたのか、それとも気にしなかったのか。気がつけば牢屋に横たわっていた。藁を敷いた後があったが、わざわざ取り去ったらしい。岩の冷たさが、体の芯を冷やす。腫れた瞼の隙間を動く眼球が、格子の外に佇む黒髪の娘を捉えた。声を発しようと唇を動かした。塞がり掛かっていた下唇が割れた、血がにじみ出る。

 

「そうか、アンタはこの結末を知っていたのか」

「解き放ってやっても構わんぞ?」

「借りは作らない。アンタに借りは作りたくない。関わりたくない」

「理解出来ぬな。お主ならこの格子を破壊する事もできよう。囲まれた時逃げ出す事も出来たであろう。鉄の棒を持ち出されようとも、脆弱な人間如きの力では、傷を負う事など無い筈。それがなにゆえ、あの下らぬ輩の拳を受けた。なにゆえ、囚われの身を選ぶ。なにゆえ、己の身を傷つける」

「魔術は人前にさらせない。そもそもお前には関係が無い」

 

それならそれで、終わらせる事ができる。

 

「腐った眼をしておるの。死んでも構わんと言うなら今ここで殺して見せようか。それとも、死ぬ事が叶わぬ身にしようか。不死になれば終わりなど永遠に無いからの」

「死徒は暇なんだな。流石アンデッド、時間を持て余している様だ。でも御免被る。アンタは綺麗だが、生憎とアンタは趣味じゃないんだ」

「減らず口の絶えん小僧よの」

 

その黒の娘は妖艶に笑うと掻き消えた。

 

 

◆◆◆

 

 

一夜明けると雨が降っていた。大ぶりでもなく、小雨でもなく、シトシトと降っていた。ただ空は夜かと勘違いしてしまいそうな程暗かった。纏わり付く様な降り方が疎ましい。そして儀式が始まった。村中の人間が神殿に集まり取り囲むと、太鼓やシンバルの音が鳴り始めた。贄の悲鳴を掻き消す為だ。彼ら自身を鼓舞する為の物でもあった。

 

真也はその神殿、つまりモレクを模った釜の中だ。手と足に枷が付いていて、一応は身動きが取れない。彼が格子越しに村人たちをぼうと見ていると煙が漂い始めた。視界の端に赤い光が点いたかと思うと、釜の内壁が赤褐色の炎で揺らぎ始めた。パチパチと樹木が燃える音もする。

 

真也が着ている真紅の外套はキャスター謹製の礼装だ。対物理、対魔術、対呪詛、耐火、耐刃、防弾、耐衝撃、耐環境。彼女が半年掛けて作り上げた特注品である。男たちに暴行を受けても、胴体のみ無事だったのはこの為だ。この程度の火焔ではびくともしないだろう。ただし呼吸は別だ。窒息すれば終いである。そもそも頭を焼かれれば、どうにもならない。

 

釜が熱くなり溜らず立ち上がった、床は鉄板だった。煙が充満し、咽せてしゃがみ込んだ。手を床に突けば、ジュウと肉の焼ける音がした。熱と煙で目が開けられない。苦しいが息を吸うと胸が焼ける。息を止めれば、当然窒息だ。

 

(これはキツイ)

 

確かに苦しいが、義理の妹に施された強制再生された時よりはマシだった。今度は義姉の声が聞えた。

 

“この心臓は私のモノだから。勝手に取られる事も捨てる事も駄目”

(そうだったな)

 

膝を突きむせ返った。涙と咳が止まらない。

 

(でも未だ自分が良く分からないし、この旅に出た理由が正しかったのか、それすら自信が無くなった。出会って、信じて、裏切られた。今度こそはと、信じて裏切られた。この旅はなんでこんな辛いのかと、見合うモノはあるのかと何度も考えた。ここまで来たけれど、でももう疲れた。でもあの兄妹が助かるなら、それもまぁ良いかなって)

 

意識が朦朧としてきた。酸素が薄くなり始めたのだった。意識を失えばそこで終わりだ。

 

“契約せよ”

 

真也はカトンボでも振り払うかのように吐き捨てた。

 

(失せろ。こんなんでも悪魔に魂は売らない)

 

だが次のその声は無視出来なかった。

 

「何をしている、さっさと逃げぬか」

 

どういう事か、釜の中に黒髪の娘が立っていた。灼熱をものともしていなかった。

 

「お主ならこの様な壁を破壊する事など造作も無かろう」

「アンタが何処の誰かは知らない。神でも、精霊でも良い。なんだったら悪魔でも。けれど俺に関係ないだろ。死神って言うなら、好きにしろ」

「そうよの。確かに関係はない。ならばこう成ろうとも、関係なかろう?」

 

その時咆哮が響き渡った。その気配は遠かったが、釜の中ですら聞き取るのに十分だった。咆哮は途切れなどせず、押し寄せる津波の様に続いていた。それは犬のモノに似ていたが、その威は桁外れだった。何せ、その咆哮は地を震わしたのである。

 

それは白い魔犬、白銀の天狼、そうとしか形容できなかった。崖の上から村を見下ろすそれは、宙に身を投げると、大地に降り立った。何事かと目を丸くする村人たちを余所に、その魔犬は彼らを喰らい始めた。ある者は頭蓋骨の上半分を失い、大脳が抉られ脳梁を見せていた。ある者は左腕から左肩、左胸と左脇を喰われた。断面を見せる心臓は、血液を噴き出しながらもまだ動いていた。胃袋の一部と、大腸を垂れ流していた。ある者は、頭頂部から叩き潰された。背の皮膚と筋繊維を突き破り、肋骨と脊柱が飛び出していた。

 

それは同時に町を破壊し始めた。猛烈な突進力と、強度を誇るそれに、簡単な石造りの建築物など、障害物にすらならなかった。隠れていた親子は石壁ごと踏みつぶされた。小銃を構えた男は喰われ、砕かれ、飲込まれた。何故だろうか。その口は血に濡れていたが、白く輝く毛並みには血の一滴付着していなかった。100名ほどいた村人は30秒待たず半数になっていた。

 

釜の中に居た真也は余りの異常な気配に、釜を破壊、内側から飛び出した。至る所で悲鳴が上がっていた。銃声も聞えていたが直に消えた。目の前に繰り広げられるのは、惨劇であり、虐殺。そして蹂躙だ。半壊した石造りの影に白い鬣がちらりと見えた。真也は堪らず唾を飲んだ。

 

(……デカい)

 

初めて見るそれは圧倒的だった。ギルガメッシュ、バーサーカーなど比較にならない程だ。体格という意味もあったが、威圧という意味が圧倒的だった。遠目ですら恐怖を覚えるのに十分だ。それは彼が初めて感じた死の恐怖であった。本能の赴くまま逃げようとし、あのエリス(妹)を思い出した。“一緒に逃げるか?”一応確認するだけだ。ここで死なれては寝覚めが悪い。逃げるというなら連れて行く。そう思い駆け出せば、村の中央にある井戸の傍にそのエリスは居た。

 

彼は慌てて駆け寄った。彼女の息が荒い。口から血を出していた。視線は焦点定まらず天を見つめていた。エリスは歩けなかった。歩ける筈が無かった。立つ事すら叶わないだろう。だって、下半身が無い。真也はその手を取るとこう聞いた。

 

「言い残す事はあるか?」

 

彼女は、血走った目で真也を睨んだ。

 

“悪魔め、滅んでしまえ。悪魔め、呪われてしまえ”

 

絶え絶えの声で8歳の娘は息絶えた。手を振り払わなかったのは、単にその力が残っていなかった、ただそれだけだ。怒りが真也の恐怖を打ち破ったのでは無い。死んだ子供の呪詛が、ただ恐怖を無視させただけだ。彼は歯が砕けんばかりに噛みしめると、絶叫をあげた。それはただこの状況に陥った事への怨嗟である。抜刀、そして拘束術式限定解除。

 

筋力B / 耐久C / 敏捷A / 魔力A / 幸運C / 宝具B

 

今の真也はほぼランサーと同等だ。出し惜しみしている余裕など無い。魔眼殺しを捨て全力で踏み込み込んだ。その時魔犬は一人の男を見下ろしていた。その男は尻餅をつき、後ずさっていたが上手く下がれない。両足が無かったからだ。

 

「いや、止めて。殺さないで。死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくな、ぎゃぁぁぁぁ!」

 

魔犬は頭蓋を砕くとそのまま、咥え上げ持ち上げた。咥えた新鮮な死体から血を飲み干していた。その魔犬は食事に夢中だ。咥えているなら、牙は使えまい。好都合にも大岩が傍にあった。とっさの場合には楯に出来る。近くに森もあった。森の木々が障害物となる程の巨躯だ、ならば脱出に都合が良いだろう。そこまで立てた算段は何の意味も持たなかった。何故なら礼装が持つ防御結界が悲鳴を上げていたからである。受けた攻撃は許容量をオーバーしていた。真紅の外套に刻まれた術式が、自己修復を始めるが復帰には時間を要する。

 

(なんで真正面に空が見えるのか)

 

それは真也の身体が宙を浮いていたからである。空と大地がクルクル回る。どれ程回っていただろう。気がつくと目の前に大地があった。衝撃が全身を襲った。踏み込んだ真也は、為す術もなく弾き飛ばされたのであった。知覚すらままならなかった。思い返せば、尻尾で打ち払われたと言う事だけは把握出来た。手足を力なく振り回し、大地を転がるその様は、でんでん太鼓である。

 

修復もままならないうちに、大地に叩き付けられた。その為礼装が生み出す防御結界が部分的に崩壊し始めた。衝撃が体を貫き、口から血が漏れていた。転がり続け、崩れた家にぶつかりようやく止まった。全身の至る所にある痛みを無視し身を起こした。敵の居場所を探れば。井戸の向こう、更に廃墟と化した家屋の向こう。その距離はサッカー場の端と端ほどあったが、そこに佇む魔犬と眼が合った。彼が本能に従い全力を以てバックステップすると真紅の切れ端が宙を舞っていた。キャスターの礼装が完全に崩壊、吹き飛んだのである。魔犬の突進を喰らったのだ。魔眼など何の意味も持たなかった。

 

(これほど、か)

 

2度目の衝撃で右大腿骨は折れた。左上腕骨は砕けた。肋骨など折れていない箇所を探す方が難しい方だ。右手の指は反り返っていた。剣はもはや持てまい。それ以前に、霊刀はどこかに行ってしまった。礼装がその威を相殺しなかったならば、即死だっただろう。視界が色を失い白黒となった。それは脳の防衛本能だ。色の認識を断念し、反応速度を上げるのである。視界の端にチラと映ったそれに、真也は一縷の望みを掛けた。右腕を振り、姿勢制御。無傷の左足で大地を蹴飛ばし、それに頭から突っ込んだ。

 

そこは泥濘んでいた。泥に似ていたが、おがくずや落ち葉が混ざっていた。とても臭い。当然だろう。そこは肥だめだったのだから。口内に侵入し、己の血と混ざり合った。不快極まりないが、それを感じる余裕が無い。ダメージが原因でもあったし、感覚が麻痺していた事も理由だ。なにより、真也の目と鼻の先に魔犬が居たからである。歯がガチガチと鳴っていた。恐ろしさの余り声が出ない。呼吸すらままならない。目の前の存在は根本的に違う。

 

その魔犬は鼻先を右から近づけた。今度は左側からだ。真也の臭いを嗅ぎ確かめると、眉をしかめ飛び退いた。大好きなハンバーグに仕組まれた大嫌いなピーマンに気がついた子供のような顔だった。首が痛くなる程に高く跳躍すると崖の上に降り立った。その隣りにはあの黒髪の娘が立っていた。その娘が魔犬の顎を撫でると、魔犬はとても心地よさそうに眼を細めた。

 

「よしよし、良い子じゃ。汚物に塗れたモノを喰らっては腹を下してしまうからの。何よりその美しい毛並みを汚していては叱りつけるところであった」

 

そして紅い瞳が真也を貫いた。薄ら寒い笑みだった。

 

「死にたがりかと思えば、逃げようとするわ。あの小娘の死に怒り、剣を向けるわ。リィゾが気になると言うから、助けてやれば恩を仇で返すか。お主、死の恐怖は初めてであろう? であるからそれに堪えきれず、糞尿に塗れてまでも生に縋った。生き汚いのう。加えて生き方が定まっておらん。これは確かに未熟者よ。ま、自覚があるだけ良しとするべきかの」

「……何者だ」

「控えよ。我が名はアルトルージュ・ブリュンスタッド。紅い月の後継者よ。見知りおけ。実のところ後継者候補だが、似たようなものじゃ。この子はプライミッツ、リィゾとは顔合わせ済みじゃったな?」

 

気がつけばアルトルージュの隣り、プライミッツの反対側にリィゾ=バール・シュトラウトが傅いていた

 

「死徒二十七祖が3人……?」

「お主、いや小僧。罪人たちの弁明はこうじゃ。我らが苦しんでいるのには理由がある、ならば堪え忍ぶべきだ。だがその苦しみを持たぬモノが許せない。それは罪、ならば罰せねばならない……大方この様なところであろうて。己の身に降りかかった不幸、苦難を帳消しにする為にこの偶像を祭り上げた。その真実は妬み。旅人を襲い、憂さ晴らしをする、この村の贄の始まりよ。その正当化の為にこの神は都合が良かった。さて。かように罪人たちは皆死んだ。それでも尚悔しいか? 怒りがこみ上げるか? 仇を討ちたいか? 構わんぞ、掛かってくるが良い」

 

真也は動けなかった。蛇に睨まれたカエルの様に硬直していた。

 

「どうした。千載一遇の機会じゃぞ? この子にもリィゾにも控える様に申しつけよう。それとも我の言葉が理解出来ぬか? ふむ、ならば、お主にも理解できるように言ってやろう。名誉ある死か、無様に生き恥を晒すか、好きな方を選ぶが良い」

 

生き恥を晒す、彼女が言う事は真実だろう。100歩譲ってアルトルージュに勝利すれば、連中の片棒を担ぐ事になる。何故ならこの村を滅ぼした彼女の行動は正しいからだ。逃げれば、当然“俺が間違っていた”と認める事に他ならない。戦い死ねば、少なくとも助けようとした彼らを助けられなかった、その償いはできる。恩人に仇を持った償いも果たせる。この騒動の落としどころとなるだろう。

 

それを知った上で真也は逃げ出した。圧倒的なそれを目の当たりにして、死ぬ事が怖くなった。折れた足を引き釣りながら、躓き、転び、それでも逃げ出した。哄笑の声が背後から聞こえた。まるで群衆にゴミを投げつけられているかの様だ。逃げて、逃げて、そして逃げた。痛みなど恐怖でどこかに行ってしまった。屈辱など感じる余裕すら無かった。

 

どれ程の距離を這いつくばったのか、気がつけば村を抜け森の中だ。力尽き、転んだ。目の前にある雑草は風に靡いていた。笑っているかの様だ。それを見ていると、猛烈な脱力感に襲われた。このまま全てを放り投げる。そうすれば全てが終わる……その筈だった。

 

『ここで終わりか?』

 

それは見知った声だった。そんな筈は無い。居る筈は無い。あの男の魂は既にこの世に無い。だが、あの神父に魔槍を突き立てた時もそうだったようにその声は聞えた。

 

「あぁ、もう終わる」

 

その男は真紅の魔槍を、肩に乗せポンポンと叩いていた。

 

『諦める、の間違いだろうが』

「あの時あの女の子を見捨てた方がまだマシだった。俺はまた間違えた。今度は命令じゃない、自分の選択の結果だ。破滅を招いた責は負わないと」

『そうか?』

「そうだ。兄は死んだかも知れないが、妹は助かった」

『それは助かったって言うのか? あの嬢ちゃんはこの狂った村において比較的マトモだった。兄を見殺しにした、重責を一生負い続けるぜ?』

「心の傷は時間と供に癒える」

『そして今度はあの嬢ちゃんの子供が生け贄になるかもな。いや、連中といつか同化する。痛めつけられるお前を、愉しそうに見物する連中と同じになる』

「何が言いたいランサー」

『助けるのも、見捨てるのも、両方に責がある。背負う事に背を向けるから辛い。そう言ったはずだぜ。シンヤ』

「黙れ。勝手な事を言うな。お前に何が分る」

『あの死徒、なんつったっけか。アルトジュール?』

「アルトルージュ」

『そう、そのお嬢ちゃんが言う通りだ。降りかかった苦悩に目を背け、何かのせいにした。自分たちで解決出来ない連中の寄り集まり。あの村はそういう村だ。あの悪循環を、業(カルマ)を断つ事が出来た、そう考えても良いんじゃねーか?』

「無様だ。無様すぎるだろ。俺は助けるつもりだった。けれど結局死んだ。それどころか全滅、皆殺しだ。たった8歳の子供が俺を悪魔だと罵りながら死んだ。俺はあの村にとって災いだった。冬木市での俺もそうだった。俺はこんな事を何度繰り返す、何度繰り返せば良い。挙げ句、死ぬ事が怖くなって、逃げ出して、その責が重くなり、今またもういいやなんて思ってる。もう、嫌だ。こんなのは嫌だ。もう、ムリだ」

 

ランサーは笑っていた嘲笑ではなく、デキの悪い教え子に呆れ返るかのようだった。

 

『そんなに辛いなら止めても良いんだぜ? 酒を呑んで、歌を歌って、忘れたふりをする。それも一つの生き方だ。だけどよ。これだけは言っておく。目を背けた事実は生涯ついて回る。地に落ちる影の様に、何時までも付いてきて消える事は無い。真綿で首を絞められる様に死ぬまで苛まれる。だが死んじまえば確かに全てリセットだ。全てな。ま、お前の人生だ。好きにしな』

 

気がつくと目の前に、ルーンの石があった。戦闘と、転倒した衝撃でベルトの金具から飛び出したのである。それをぼうと見ていたら、いつの間にか雨は止んでいた。雲も切れその隙間から青い空が覗いていた。真也はその石を握ると、泣きながら立ち上がった。終わってしまうならともかく、終わらせる訳にはいかない。諦めるなんて出来ない。何よりあの槍兵に言われっぱなしは腹が立つ。

 

「また、言いたいだけ言って勝手に消えたか。あぁくそう。首を洗って待ってろよ、このお節介槍兵。今度は俺が追い詰めてやる」

 

体の修復を済ませた真也は身なりを整えた。堂々とその村に戻り、回収出来た遺体を心に刻みつけ全て弔った。そして村に火をつけた。煙が天に届いたのを見届けるとそのまま立ち去った。この一件は時計塔を訪れる9ヶ月前の事となる。

 

 

 

おしまい。

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