赤い林檎を蹴飛ばしたら   作:d1199

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三話

真也は主に断りを入れ、立ち話も何であるからと義姉を家に招いた。ここだけの話だが、主があっさり認めた事に、意外性と僅かばかりの落胆を彼は感じていた。取り合いと言う展開を僅かだが期待していたりもした。セイバーとイリヤが士郎を取り合うという状況を、遠からず羨ましく思っていたのである。有るかな、無いかな、無かった、と言う訳だ。愚かしくも、哀れである。

 

義姉は主と同じ様に7階建にも関わらずエレベーターが無い事に不平を言った。言い回しは異なっていたが指摘内容、そしてその順番は同じだ。

 

(ほんと、そっくり)

 

部屋に入った義姉はぐるりと見渡し開口一番詰め寄った。

 

「何で化粧台があるのよ!」

「前の住人の置き土産だ。同棲とかそう言うのじゃ無いから」

「あの洋服ダンスの中は?」

「開けてない」

「へぇ、見ず知らずの女の人が使ったベッドで寝てる訳。我が家の長男がこんな変態だなんて母さんになんて言えば良いのよ。頭が痛いわ」

「俺はソファーで寝てるから。ベッドは使ってない」

「ソファー? ベッドがあるのにどうしてよ」

「長旅でそういう癖が付いた」

「良くないわよそれ。寝ている様で寝てない、疲れが取れないんだから」

 

敢えて今話すことでも無かろうと話を打ち切る事にした。彼の指が示した先はそのソファーである。

 

「その辺に座ってくれ。キャスターは呼んだからその内来る。コーヒーで良いか? インスタントだけど」

 

義姉は何も言わずソファーに腰掛けた。文句が有れば言う、ないなら何も言わない、それを思い出した真也は黙ってコーヒーを淹れ始めた。

 

「なんで夜逃げ同然の家を選んだのよ」

「この部屋はそういう場所でね、障りやすいんだ。だから安かった、そう言う理由」

「そう」

「どうぞ」

 

義姉の前に置かれたのは陶器の白いコーヒーカップだった。ソーサー(皿)にスプーン、フレッシュも添えてあった。

 

「……ソーサーを持ち出すなんてどういう心境の変化よ。何でもかんでもマグカップ使っていた真也が嘘みたい」

「色々あったから」

 

2人そろってソファーに腰掛け向かい合った。義姉は手にある白いコーヒーカップに口を付けようとしてその手を止めた。

 

「背、伸びたわね」

「うん、少し」

「結構伸びたと思うけれど」

「そう? 計った事は無い。どれ位だろ」

「ランサーと同じ位はありそうね」

「そうか、ランサーと同じぐらいか。えへへ♪」

 

ランサーに似ていると言うと、途端に機嫌が良くなるのであった。

 

「ふん。これで士郎とのいざこざも終わりだな。圧倒的勝利だ男として」

「衛宮君も伸びたわよ」

「ほう。どれ位かね」

「アーチャーぐらい」

 

ランサーは185センチ、アーチャーは187センチだ。つまり士郎の方が背が高いと言う事である。

 

「ふん、男の価値は身長で決まらないもんね。中身で勝負してやる」

「……軽くなったわね、アンタ」

「メリハリが大事だって長旅で気がついた」

「メリハリというよりはランサーを意識している訳? ランサーの様になりたいとか」

「意識していないと言えば嘘になるかな。心底辛い状況でも笑って乗り越え様とするタフさ、その場その場で悔いを残さない生き方は良く覚えてる」

「そう」

「そう」

 

悪いところまで似なければ良い、そう願う義姉であった。

 

「で?」

「で? とは?」

「ならそのハリは? って事」

「冬木市にはセイバー、ライダー、キャスター、そして剣製の魔術師がいるんだ。真祖でも裸足でにげだすさ、」

 

無言の義姉が差し出したのは手紙だった。

 

「何これ」

 

それに書かれていたのは2年開けた家族からのメッセージであった。

 

“早く帰って下さいね。じゃないと泣いちゃいますからね。桜”

“元気な姿で安心させて下さい。皆も私も待ってます。葵”

“私が怒るかどうかはお土産次第だ。綾子”

 

コーヒーカップから立ち上る、湯気越しに見える義姉の瞳は鋭く光っていた。義姉は物静かであったがキレる寸前である。大幅にずれ込んだ旅程。諦めきれなかったと言えば聞こえは良いが、相談もせずに強行したとも言える。彼は彼女らを蔑ろにしたのだ。言葉が出なかった。

 

「真也。アンタが何をしたのか、漸く理解出来た? 不安を強いたのは私だけじゃ無いのよ?」

 

義弟は深々と頭を下げた。

 

「済まなかった。心配掛けた」

「皆への謝罪を考えておきなさい」

「そうする」

「ランサーの事となると目の色変えるわよね真也って。ま、無理も無いんだけどさ」

「3年前よりは落ち着いた、と思いたい」

「それで答えは見つかった?」

「言うよ」

 

彼は居住まいを正した。

 

「二人にされたこと、二人にしたこと、あの行動は俺がした事だったのか、散々考えて、喜んでくれたならそれで良い、って」

「そこに自分があるの?」

「もし無いなら、不特定多数を相手にするだろうな。けれど違うだろ。そだな、誤魔化しは無しだ。俺の姉と妹の二人が喜んでくれたならそれで良い」

「そう」

「ごめん、2年掛かった」

「その手紙の裏を見なさい」

 

ペラリと捲ればその中央に簡潔な一文があった。ご丁寧に古代ギリシャ文字である。

 

“覚悟しておくように”

 

当然その筆跡はライダーの物であった。真也はたちまち硬直した。散々抓られ捻られた左頬が痛み出した。ゆっくりと頬を摩れば、その確認は石橋を叩いて渡るかの如く。

 

「……怒ってた?」

「とても。おしかり5時間コースね、あれ」

 

そして今度は青ざめた。3年前にライダーは真也の教育係となったのである。それは筋力という意味で他に適任が居なかった為だが、千歳の申し出でもあった。マーダーライセンス(教育許可証)と言う訳である。彼は脂汗を垂らし、呆然とその文字を凝視するのみだ。金縛りというよりは見えない彼女の鎖で拘束されているかの様だった。

 

「ふん、いい気味なんだから」

 

呼び鈴が鳴り、真也が扉を開ければそこにゼニスブルーの長い髪が流れていた。真也は宝箱の中の宝石を見つけた様な顔である。

 

「2年ぶりだキャスター。相変わらずの美人さんで何より……なんだよ。じろじろと」

 

真也の姿を見たキャスターは、その瞳を大きく見開いていた。絶句とも言うだろう。彼女の瞳に映るのは真也が纏う真紅の外套だ。色は問題ないが、大きな違いを彼女は見つけたのである。真也の従者である彼女にとって、それは大問題であった。

 

「いえ。実り多き旅であった様で何よりです」

「背なら伸びたぞ?」

「その様です」

「まぁ良いけれど。その辺に座ってくれ。キャスターもコーヒーで良いか?」

 

真也がその場を後にすると、キャスターのその発言は追いかける様であった。

 

「気づいておられますか?」

「もちろん。姉さんの髪型が変わってない」

「なによ、文句ある?」

「いや、少し驚いたってだけ。相当気に入ってるんだな」

「マスターが一目見て分る様にと、」

「うっさい!」

「そうか。そうだったのか」

 

コーヒーを淹れていた真也の手は止まり、振り返れば、彼は義姉に向かって歩き出した。その表情を表せば感無量の一言である。ソファーに腰掛けていた義姉は思わず立ち上がり、後ずさった。

 

「違うって言ってるでしょ! 真に受けるなこのバカ!」

「姉さん、俺は感激している。この喜びをどのように表現しようか悩ましい位だ」

「しなくて良いからね、あれ」

 

真也は義姉を抱きしめた。

 

「リンデニオン補給ー♪」

「それ止めなさいっていってるでしょ!」

「おぉ、そうかそうか♪」

 

義姉がその顎に掌底を打ち込めば、彼は思わず仰け反った。その顎を腫らしつつ、涙目になりつつも、腕の中の義姉に笑いかけた。

 

「その様子じゃ未だカレシ無しか。弟としては心配でならないよ」

「いけしゃあしゃあと言ってくれんじゃない。遠路遙々地球を半周すれば、よりにもよってエーデルフェルトのご令嬢といちゃついてさ」

「そんなんじゃ無いよ。言ったろ。姉さんと桜が片付くまではそんな気は無いって」

「は、どうだかね」

「おろ? ヤキモチか?」

「死になさい。つーか、アンタ本当に軽くなったわね」

 

主の物言いが軽薄になった、それはキャスターも同意だったが今はそれどころでは無いのだ。

 

「いえ、私が申し上げた相手はマスターでは無く凛様で、その言及はマスターの出で立ちの事です」

 

義弟の腕の中で暴れていたその義姉は、彼が纏っている真紅の外套に気がついた。しまったと真也はまた青い顔である。彼はゆっくりと義姉を解放すると背を向けた。

 

「コーヒー淹れるから」

 

そして義姉は義弟のコートを掴んだ。時が止まった。義姉の表情は、ルヴィアの弱点を見つけたかの様な悪い顔だった。隠していたテスト用紙を見つけたとも言うだろう。

 

「ねぇ真也。私の思い違いかしら。そのコート出発時と違う気がするのだけれど」

「気のせいじゃないかな」

「出発する時に装備していたコートは?」

「今来ているコレ」

「真也」

「……壊れたので捨てました。でもちゃんと、殺しておいたから大丈夫」

「あれがどういう代物か覚えてる?」

「ええ、まぁ」

「キャスターが6ヶ月掛かって作った礼装を壊した?」

「はい」

「何があったのよ」

「あ、うん、ちょっと」

「怒らないから素直に話なさい♪」

 

可憐な微笑みだったが、迫力があった。

 

「えっと」

「早く言え。まどろっこしい」

「それは旅の途中の事でした。その旅人はとても強い死徒に襲われて、あぁ、なんと言う事でしょう、大事なそのコートはその時に壊されてしまったのです」

「死徒?」

「そう。真っ白な犬ような狼みたいな奴でさ、プライミッツ・マーダーって言ってた」

「死徒二十七祖第1位の?」

「うん。直感でヤバイって思って、とっさに肥だめに突っ込んだら喰われずに済んだ。う○こ塗れなんて喰いたくない、触りたくないだろうしね。あはは。そしたら中学生ぐらいの女の子に“誇り有る死か、生き恥を晒すか、好きな方を選ぶがよい”と聞かれて、」

「誰?」

「アルトルージュ・ブリュンスタッド、そう自分で言ってた」

「死徒二十七祖第九位の?」

「そそ」

「それでどうしたのよ」

「いやもう、尻尾巻いて逃げちゃった。てへぺろ♪」

 

義姉はキレた。

 

「ガンド! ガンド! ガンド!」

「痛い、痛い、痛い」

 

手加減していたとはいえフィンの一撃を連射すること暫く。義姉は肩を怒らし、髪を振り乱し、そして息を切らしていた。義弟は床の上でひっくり返っていた。その表情は腹痛に苦しむかの如く。

 

「俺は姉さんに殺されそうだよ」

 

義姉は馬乗りになるとその胸ぐらを掴み上げた。そして前後にシェイクである。

 

「あーうーあー」

「アンタね! なに死徒に目を付けられててるのよ!」

「大丈夫だってー。連中不死だからー、気が長いからー、思い出した頃には俺死んでるー、“リィゾ。そういえばあの小僧どうしたかの?” “100年経っております、アルトルージュ様” こういうノリー、問題ない、大丈夫、大丈夫ー」

「そういう問題じゃない! 遠坂の子孫が目を付けられる事だって考えられるじゃない!」

「え、」

「え、」

 

真也の“え”とは自分も結婚出来るのだろうか、という意味であった。凛のそれは少し違っていた。真也が不在の冬木市で、とある大イベントが起きたのだが、その影響であった。キャスターは聞いているだけで恥ずかしい。義姉はコホンと一つ、仕切り直し。

 

「死徒に遭遇するのだって希なのに死徒二十七祖に遭遇するってどういう事よ!?」

「良い質問だ。俺も不思議」

「帰るわよ」

「いやそれがだな」

「うっさい、もう帰るから。やっぱり一人旅なんてさせるんじゃなかった。金輪際、家からいーっ歩も出さないからね、覚悟しなさい!」

「んなむちゃな」

「なによ。私の言う事が聞けないわけ?」

 

うふふ、と義姉は笑い始めた。そして左腕の刻印がエライ勢いで回り始める。電動ドリルもびっくりの勢いだ。“帰ると言うまでぶっ放す。言う事聞くまでぶっ放す” そういきり立てば、どうした事だろう、彼女の義弟は見るからに消沈していた。胡座をかき、背を丸め、視線は落ちていた。それは後悔と屈辱である。余りの落差に義姉も戸惑った。

 

「……なによ。突然盛大に落ち込んで」

「ごめん、家名もこの色も汚した。姉さんとの心臓の誓いも破り掛けた。本当に済まない」

「……」

 

彼女は義弟の頭に腕を回すと、そのまま胸の中に納めた。頭に鼻先を埋め、髪を軽く握った。

 

「ばかね、生きていてくれた方が嬉しいんだから。家名の為にと死んだら逆にとっちめるところだったわよ」

「ごめん」

「もういいのよ。荷物を纏めなさい。ここの家財は備え付けでしょ? キャスター、私は時計塔で手続きしてくるからこのバカ見張ってて」

 

義理の弟は立ち上がった義姉の腕を掴んだ。

 

「ちょいまち。いま雇用契約を結んでる。直ぐ帰るのは無理」

「雇用って何よ」

「ルヴィアゼリッタ・エーデルフェルトは雇用主だ。従者ってそういう意味」

「なによそれ」

「手紙で書いたろ。親切な人って」

「へぇ、どのぐらい親切だったわけ?」

「契約金5000ユーロに加えて、住宅補助を初めとして、各種手当て付き」

「たった5000ユーロでホイホイ尻尾を振ったって事?」

「いや、5000ユーロって70万だぞ」(※2015/06/12現在)

 

直死の魔眼を持つサーヴァントを一月雇って5000ユーロは破格ではないだろうか、キャスターはそんな事を思った。

 

「というか、尻尾振りだなんて随分嫌な言い方するな」

「それだけ?」

「それだけ」

「本当にそれだけ?」

「多少入れ込んでるけれど、帰国する事は伝えてあるし、その意思は変わらない。ただ一ヶ月間って期間があるから中途半端は避けたい。残りは2週間だ。それまで待ってくれないか」

 

義姉は彼を睨むとこう言った。

 

「キャスター、留守番お願い。真也と少し外歩いてくる」

「なんだ、急に」

「なにぼさっとしてるのよ。さっさと来なさい」

 

“ぜんぜん分ってないじゃない”その心の独白を聞いたのはキャスターのみであった。

 

 

◆◆◆

 

 

時計塔を出た二人はそのまま川沿いに歩き始めた。その川は南イングランドのケンブル村からオックスフォードを通り、更に時計塔を介しロンドン、そして北海へと続いているテムズ川である。ロンドンとは異なり時計塔周辺では公園の様相を見せていた。川の両岸には歩道と道路が走っていたが、自動車の通りは殆ど無く静かなものだった。ガス灯と思わしき電灯と街路樹が川に沿って等間隔に立っていた。明かりが灯るにはもうしばらく時間が必要だ。川を泳ぐボートと白鳥はのんびりしていた。水面は静かであったが、川辺を走る風はまだ寒い。空は良く晴れていたが紅がかっていた。直に今日も終わるだろう。

 

凛はその川に沿う塀の上を歩いていた。両手を広げバランスを取り歩く様は、綱渡りでも出来そうな程の安定さであった。まず無いだろうとは思いつつ真也は言った。

 

「落ちるぞ」

 

凛は答えた。

 

「桜と違って鈍くさくないから」

 

2人が歩く道は真っ直ぐで、その先は木陰に塗れていた。暫くぼうと歩くと、切り出したのは真也である。

 

「話があるんだろ?」

「あの部屋に化粧台があったでしょ」

「さっきも言ったけれど、前の人が置いて、そのままにしてあるだけ」

「分ってる。そういう雰囲気は無かったから。私が言いたいのは、あぁそうなんだな、って思った事」

「らしくなく要領を得ないな。はっきり言ってくれ」

「家族を維持するのは大変で、意思、気持ちだけじゃダメだって事。住む場所を用意して、それを維持して、食費や光熱費などのお金も工面して、税金もそうよね。そう言った物質的な事と、住む人達の生活行動とか、人間関係から見ていかないと。逆に言うと、そう言った活動から家庭と家族ができる。家を作るってそういう事だから。私が真也に言う事でも無いでしょ?」

「……何かあったのか」

 

凛は少しバランスを崩した後こう告げた。

 

「セイバー、赤ちゃん産んだわよ」

 

真也は左隣でバランスを取りながら歩く凛を見上げた。顔を上げ、瞳は真っ直ぐだが、その視線は未来が見えていない。当然だった。真也は彼女に括られているが、凛もまた彼に括られている。2人の歩む未来は定まっていない、というより見えないのだ。

 

「ほら、セイバーって古い人だし、見た目私たちと同年代だけど実際は年上で、早めに欲しがったみたい。真也が出発したその年の6月に挙式して、去年の8月に出産。プロポーズは真也が発つ直前だって」

「……そう」

「驚かないのね」

「そんな気はしてた。どことなくぎこちなかったし」

「セイバーは真也の不在を気にしてたけれど」

「いいさ。こう言うのは勢いだって聞くし。俺のせいで時期を逸してもらっても困る」

 

凛はポケットから写真を出すとそれを真也に手渡した。その写真の中では幼子が笑っていた。畳の上に敷かれたタオルケットの上に寝そべり、父と母に挟まれていた。何の不安も恐れも無い無邪気な様だ。金髪碧眼。見るモノ聞くモノ全てが珍しい、そのようなクリクリの瞳をしていた。イリヤが撮ったらしい写真に写るセイバーは聖母の如き慈愛を見せ、子を挟み笑う士郎には頼もしさの様なモノが見て取れた。

 

真也が感じた事は三つだ。一つ目は祝福。二つ目は不安だ。オセとヘルメスの語った言葉が脳裏に響き渡る。この子も俺の様になるのではないか、それの根拠など無かったが不安になるには十分だ。

 

「その、大丈夫だったのか。受肉した英霊と現代人の子供って、存在的な格差がありすぎるだろ」

「キャスターが事前に手を回してたみたい。セイバーに聞かされて、私も後で知ったのだけれど随分神経質だったみたいね」

「まぁ大事だしな。無理もないか」

「ヘカテーって出産の神様でもあるから上手くやったんでしょ」

 

凛はセイバーの微妙な表情を思い出した。言いたくても言い出せない、その様な気遣いの現れである。セイバーはキャスターから真也の出生について聞かされたのであった。もちろん凛に伝える事など出来なかった。凛は写真を見つめる真也の、他人事で無い表情が気になったが、

 

(……まさか、ね)

 

とその荒唐無稽な考えを一蹴した。

 

「男? 女?」

「男の子。名前は一郎、衛宮一郎。皆はイチローって呼んでる。日に日にセイバーに似てきてセイバーは立派な騎士に育て上げるって息巻いてる。この間一人で立ったって大騒ぎ」

「つまり何か。士郎みたいに料理が上手くて、投影が出来て、セイバーみたいに剣の腕が立つかもしれないって事か?」

「おまけにセイバー似の美少年。ペンドラゴンの血を引く由緒ある血筋とくればモテるでしょうね」

「何故だろ、女の子的な意味で未来が見える。未来日記張りの確信付だ。俺は結婚しても娘だけは作らない」

「もって行かれるわね、絶対。それより今のうちから唾を付けておこうかしら♪」

「この子が年頃の頃、姉さんは立派なおばちゃんだよ。ごめんなさい、その左手の呪い仕舞って下さい」

「っとに一言多いんだから」

「野球のバットでもプレゼントするか。大リーガーも悪くないだろ」

 

若い夫婦が2人を通り過ぎていった。若い父親が押すベビーカーには1,2歳の子供が眠っていた。真也の感じた三つ目とは焦燥である。

 

「友人が結婚して子供を産むって、なんかおいていかれた気分だな」

 

写真に写る父親となった同級生の顔を見れば、己との漠然とした違いに、焦りと嫉妬を禁じ得ない。

 

「私が協力してあげても良いわよ?」

「そーね、今度頼む。明後日ぐらい」

「つまらないリアクションね」

「意地の悪いお姉ちゃんだってもう身に染みてる」

「何が言いたいかって言うと、真也が旅している2年間は、私たちにとっても2年間だったって事」

「……契約解除が出来ないか聞いてみるよ」

「ん」

 

 

◆◆◆

 

 

一夜開けたルヴィアの朝はエルメロイの言葉から始まった。

 

「ルヴィアゼリッタ・エーデルフェルト。毎年の事だが言わせてくれ。メインストリートはこの時計塔に所属する全員の財産だ。確かにこの時計塔には公共物保全に関する規則は無い。それは改めて用意する必要が無いと言うだけであり、暗黙の了解と言う形で存在する。この時計塔がイギリス立法から独立しているとは言え、規範、法令、全ての決まりを時計塔用に設けてはキリが無いからな。使用されない決まりなど、管理・維持を考える手間を考えるだけ無駄極まりない。そう、確かに生徒が実験に失敗し施設を破壊する事はままある。それを大目に見るのは魔術協会の、魔術師の、魔術の発展に寄与すると言う活動方針を有するからだ。魔術の発展に危険はつきものだ。施設の損壊を恐れ、魔術の研究を抑止しては本末転倒。つまりは生徒の良識と技量に委ねられている。だが今回の君の場合は極めて個人的な理由から損壊に至っている。例えそれが目的で無いとしても、損壊が副次的なモノだったとしても、見過ごす理由にはならない。たしかに君が持つ財力ならば修繕など造作も無いだろうがそう言う問題では無い。理解しているのか。私は君の“行動を”咎めている」

 

ルヴィアの背中を見送るとその扉は思いの外強い音を立てた。エルメロイは執務机に肘を置き両手を組んだ。目を瞑り口を瞑れば、瞑想しているようにも見えたが、眉を寄せていては台無しだ。彼はおくびにも出さなかったが、躊躇いを籠めて電話を取った。ルヴィアに説いただけでは終わらないのだ。

 

『はい、管理部ですが』

 

それは甘く、刺激があり、何とも耳をくすぐる声だった。はてな。エルメロイは首を傾げた。管理部の応対をする女性はもっと平凡なはずだ。答えは簡単、別人だからだ。付け加えれば、彼はその声に聞き覚えがあった。

 

「なぜ法務部の貴女がそこに居る。ミス・アダシノ」

『偶々、です。フロアも同じですし電話も近い。担当者が偶々席を外していただけ。それよりもエルメロイ2世様。出会って3年目。そろそろ“ひしり”と呼んでも良い頃だと思いませんこと?』

「話を逸らさないで頂きたいのだが」

『貴方の苦悩めいた声をお聞きしたかった、と申し上げれば喜んで頂けるかしら』

「貴女と駆け引きをするつもりは無い、そう申し上げている筈だ」

『連れない方。身を粉にして尽くしているのに貴方は一向に振り向いて下さらない。それほどグレイさんが大事?』

「貴女には関係の無い用件だ。言及は謹んで頂きたい」

『確かに彼女は手放すには惜しい駒ですから。ロードという立場を考えれば致し方ないのかしら』

「この話を続けるならば打ち切らせて貰う」

『昨日の騒ぎを知らない者はこの時計塔にいませんもの。その様子ですと方々から突き上げられているのでしょう。貴方の苛立ちを堪える声、好意に値しますわ。体の芯をくすぐられる様』

「化野菱理(あだしの ひしり)」

 

エルメロイのその声は何時になく重々しい。

 

『次回は是非、ひしりと呼んで下さい。それでは管理部代理としてお答えいたします。ルヴィアゼリッタ・エーデルフェルトとリン・トオサカのいざこざは想定範囲内。いえ、そのメリットを考慮すれば些細な事ですから。不問とします』

「そうだろうな。抑止力としてのルヴィアゼリッタ・エーデルフェルト、これの良いパフォーマンスとなった。刃向かおうという者はそうそう現れないだろう」

『彼女に建前の注意をしたならば、この一件はクローズです』

「新入生が入ってくる来年もまた繰り返す、というのは消極的だ」

『仕方がありませんわね。彼女程強力で、目立ち、人目を憚らず魔術を行使する風変わりは居ませんから』

「建前上、感謝を述べさせて頂く」

『お食事に招いて頂ければ、これ以上望みません』

 

取引にしては格安だ。

 

「……私の趣味につきあえるなら、ご招待しよう」

『今からお誘い頂くその日が楽しみです。ところでエルメロイ2世様。最近良い駒を追加で入手されたとか。それも、組織の存続維持を前提とする扱いやすい良く切れる刀。一ヶ月というのは勿体ないですわね。期間延長を考慮する価値が有るのでは無いかしら。なんと言ったかしら。そう、遠坂真也』

「ミス・アダシノ。今の貴女の言及はロードの権限を侵すものだ。これ以上は聞き咎める」

『単なる噂話ですわ、ロード・エルメロイ2世が最近何かを手に入れ、それをひた隠しにしているという話も。もし本当なら私にだけお話し頂きたいもの。その程度のご褒美を期待しても罰は当たらない、そうは思わない?』

「その様な事実は無い」

『そういう事にしておきましょうか」

「長話をしすぎた様だ。それでは失礼する」

『ごきげんよう私のロード』

 

耳をくすぐる艶声を最後に、エルメロイは受話器を置いた。彼は深々とソファーに身を預ければ、保管施設に存在するそれ(槍)を意識した。

 

「早い」

 

彼は呻いた。幾ら聖骸布で封印されているとは言え、これ程の歪みを完全に隠す事は難しい。この時計塔には秘密を知る術に長けている者も多い。その存在を知るだけなら尚更だろう。化野菱理(あだしの ひしり) のあれは警告だ。早い内に手を打て、という彼女なりの気遣いだった。トオサカに触れてはならない事になっているが槍は別なのだ。

 

「まったく、頭が痛い」

 

その執務室は彼の苦悩で飽和しているかの様に何時までも重苦しかった。

 

 

◆◆◆

 

 

エルメロイ教室のソファーで向かい合うのはグレイとルヴィアである。ルヴィアが手にするティーカップのその水面、走る波紋も苛立ちを隠さない。

 

「まったく。朝一番の呼び出しに何事かと思えば。お喋りな殿方というのは見るに堪えない、聞くに堪えませんわね。しかも何度も同じ事を執拗に繰り返すなど、その性質を疑いますわ」

 

ルヴィアはあの大騒動を駆けっこでもしたかの様に扱っていた。それに呆れもすれば畏怖も感じるグレイであった。

 

「レディ・エーデルフェルト。師匠への批判は聞き咎める立場なんですけれど」

 

だが彼女は全く聞いていなかった。

 

「やはり殿方というのは素朴で飾らない方が良いですわね。ミス・グレイ。貴女はそうは思いません事?」

 

遠坂の長男は一体どうやってこのご令嬢と意思疎通を図っているのか、グレイにはそれが不思議でならなかった。引いて押す、真也はそれを繰り返しているだけだが、彼女は知るよしも無い。

 

「シンヤさんは素朴でもありませんし、見栄を張る人だと思いますけど」

「いつからシンヤと?」

「お姉さんが居るなら、紛らわしいかと思います。気になりますか?」

「それは品の無い勘ぐりというものですわよ」

 

品が無いと言われてムッとするグレイであった。

 

「繰り返しますけどシンヤさんは真逆です。どうして側に置いているんですか」

「従者ですから」

「それだけですか?」

「それだけですわよ。ミス・グレイ。貴女は本当にこの手の話が興味を持っていらっしゃるのね。そろそろご自身の話をなさっては?」

 

更にムッとするグレイであった。エルメロイと進展したのか、してないだろう、オホホ、とルヴィアは言っているのである。実際の所グレイにもそう聞えた。

 

「恋人候補も居ないならレディ・エーデルフェルトは人の事言えないと思います」

「……私がその気になれば2人や3人造作もありませんから」

「良く聞く言い訳ですね、聞いていて恥ずかしいです」

 

今度はルヴィアがムッとした。

 

「どこで良くお聞きになさったのかしら」

「り○んです」

「○ぼん?」

「少女漫画です」

 

鼻で笑うルヴィアであった。

 

「フィクションで恋を語ろうなどと程度が知れますわよ」

「誰もが受け入れて、憧れる正統なお話です。それを知らないのでレディ・エーデルフェルトは道を逸れていることに気がつかなくて失敗するんです」

「……その真意を伺いましょうか。返答次第では覚悟なさい」

「シンヤさんが帰る時が来た、という事です」

「何を言い出すかと思えば。一ヶ月の契約がありますから」

「シンヤさんは常々家に帰る、と公言しています。それを引き留めるんですか?」

「契約とはそういうものでしょうに。ミス・グレイ。契約は魔術に於いても重要な概念ですわよ。それを忘れるのは余りにも不出来なのではなくて?」

「一つ聞きます。昨日の喧嘩にシンヤさんが居合わせたら、どちらの味方をしたと思いますか?」

「それはもちろん、」

“……一つだけ。姉の敵は俺の敵ですから。その時は覚悟して下さい”

 

リバプールでの会話が何の脈絡も無く浮かんだ。そしてルヴィアは言葉に詰まった。そう言ったことを念頭に主従契約を結んだのだ。遠坂真也がルヴィアの隣から離れ、凛の傍らに立つ。遠坂真也がルヴィアに敵対する。そのイメージは彼女にとって、戦力という意味以上に重い事実であった。流石に言い過ぎたと思ったのかグレイの口調は随分と温和しめだ。

 

「シンヤさんが帰りたいと言ったら、どうするんですか?」

「そんなこと、」

 

ルヴィアが言葉に詰まっていると、エルメロイ教室の扉をノックする音がした。扉が開き現れたのは真也であった。彼は主を見つけると歩み寄った。何時ものわざとらしいまでの鷹揚さは無く、その言葉も重々しい。

 

「ルヴィア様。お時間を頂けないでしょうか。折り入ってご相談が」

 

その表情を表せば、断腸の思い、そして苦渋の決断である。その態度で何を言おうとしているのかルヴィアは気がついた。だから彼女は立ち上がり、優雅な笑みを浮かべこう告げた。

 

「トオサカシンヤ。2週間という短い間でしたがご苦労様でした」

 

その沈黙は短くもあり長くもあった。聞きたくない言葉は先延ばしにしたい。だが死神の様に無情に素早く訪れる。

 

「本日、この時間を以て契約終了とします。後日振込先を連絡なさい。残金は褒賞金として振り込みますから」

「いえ、この場合は俺が違約金を払うべきで、」

「貴方との2週間は存外充実したものでした。ささやかながら私の報いです素直に受け取りなさい」

「……ありがとうございました」

「家族を大切になさいな。それではごきげんよう」

 

カーテシーを以て挨拶とすると彼女は背を向けた。真也は彼女が出て行った扉をずっと見ていた。不完全燃焼と言わんばかりである。

 

 

◆◆◆

 

 

そしてヒースロー空港である。メインロビーの床はグレーだが光沢を帯びて、照明を受ければ反射していた。見上げる天井は緩やかな弧を描くドーム状だ。高く息苦しさが無い。この開放感であれば、多少の雑踏はモノともしないだろう。その雑踏溢れるロビーを歩くのは遠坂家の3名だ。

 

真也はバックパックを背負っていたが凛とキャスターはハンドルを手に旅行鞄を転がしていた。底にキャスター(車輪)の付いたありふれたものだ。“キャスターがキャスターを転がすとはこれ如何に” 彼はそんな馬鹿なことを考えたが、キャスター(従者)の目が怖かったので言うのを止めた。義姉は上機嫌だった。声のトーンも高く、笑みを絶やさない。バストネタを持ち出してみようか、彼はそう考えたがもちろんしなかった。どういった理屈か、心でも読んだかの様なタイミングで、振り返った義姉の笑顔が怖かったのである。

 

「忘れ物は無いわね?」

「ない。荷物は殆ど無いからな。集合住宅(フラット)の解約は教授に頼んだ」

「挨拶はちゃんとした?」

「出来る分は」

「ロード・エルメロイ2世とヘルメス・トリスメギストス、そしてミス・グレイ。他に誰か居る?」

「スコットさん。数日前から顔を見てなくて挨拶が出来なかった。エルメロイ教室にも顔を出していないってさ」

「あぁ、あの子ね」

「あの子は無いだろ。俺らの年上だぞ」

「だって、見るからに中学生じゃない」

「だってじゃない」

「真也って変なところで堅いわよね」

「堅くない、礼儀の話をしてる」

「レディ・エーデルフェルトは?」

「話聞けよ。最後に一言言いたかったけれど、昨夜フランスに出発したらしくてそれきりだ。クラウンさんと上手く合流出来れば良いけれど」

「誰よ、それ」

「会った事は無いんだけどエーデルフェルトの従者らしい」

「あきれた。未練たらたらじゃない」

「うっさいな。一ヶ月の腹づもりだったから調子が狂ってるんだよ」

「やさしいお姉ちゃんが慰めてあげても良いわよ? レディ・エーデルフェルトは性格に難ありだけれど見た目は悪くないし。ま、私には及ばないけどさ」

「なんだ、そのにやついた顔は」

「マスター。凛様は“うっさい”が染った事が嬉しい、」

「うっさい!」

 

暫く歩けば空港内のお土産売り場が目に止まる。彼は自然に呟いた。

 

「あー、お土産買っていかないと。ちょっと待っててくれ」

「皆は気にしないわよ。真也の姿が一番のお土産なんだから」

「そう言う訳にも行くか。お菓子でも買ってくる」

「甘い物で、批判を躱そうって姑息ね」

「そんなんじゃないやい」

 

一件コスメショップと勘違いしそうな店にお土産がずらっと並んでいた。テーブルの上には山の様に積まれ、壁に沿う棚には詰め込まれていた。びっしりと隙間が無い。義姉は手に取った石けんを見定めつつ呟いた。

 

「何が良いだろ」

 

義理の弟は答えた。

 

「マカデミアンナッツ」

「アンタね」

「姉さん、これこれ」

「なんでマーライオンがここで売ってるのよ」

「コスメとか」

「肌に合う合わない有るから止めておきなさい」

「英国電車網を記した……タペストリー?」

「誰が部屋に飾るのよ」

「ライダー」

「流石に怒ると思うわよ」

「良いんだ、彼女は俺が何やっても怒るから」

「優しい教育係なんて存在価値無いわよね。衛宮君たちは?」

「美綴家と衛宮家はお菓子の詰め合わせで良いだろ。イチローにはクマのパディントン君のぬいぐるみを追加する。母親がブリテン出身だし丁度良い。士郎にはスマイルマークの缶バッヂを贈ってやる」

「嫌がらせにしては浅はかね」

 

荷物番をしていたキャスターの元に戻ってきた主とその姉は、パンパンに張れた紙袋をぶら下げていた。キャスターは呆れを隠さない。

 

「随分と買い込まれましたわね」

 

何故か主は意気揚々と。

 

「見てくれキャスター。紅茶の茶葉とチョコレート。Nestle、Mars、Cadburyはチョコレートの老舗メーカーなんだ。あとFox’s Biscuits社とMcVitie’sのビスケット。スコットランドのショートブレッド、ブレッドだけれどクッキーとは謎だ。後はぬいぐるみとか嫌がらせとか」

「マスターももう20歳。不用意な挑発は控えるべきかと」

「もちろん自重したさ。これでもな」

「そうだ。真也。働いて稼いだ分ちゃんと家に納めなさいよ」

「……えー」

「なによ、文句有る訳?」

「えー」

「栄誉有る遠坂家長男の初稼ぎじゃない」

「ちゃんと残してくれるんだろうな」

「褒賞金の振込金額は?」

「1000ユーロ」

「通帳確認するけれど?」

「……3000ユーロ」

「財布の中は?」

「1000ポンドぐらい」

「なら100ユーロを小遣いとして渡してあげる」

「100ユーロって一万円少々なんだけれど」

「何かご不満?」

 

義姉の晴れやかな笑顔に対し、義弟のうんざりさは筆舌に尽くしがたい。その対比に堪えきれずキャスターは楚々と笑っていた。彼はこのままこの地に残るべきではなかろうか、義姉の徹底ぶりにそんな事を考えた。思わず遠くを見ると、そこにグレイが立っていた。見送りか、忘れ物か、見定めようとすれば彼女の表情は“深刻”それに尽きた。

 

「トオサカさん! トオサカシンヤさん!」

 

事実その声は重大さを語っていた。重大さとは魔術師という意味でもあり、遠坂家長男という意味も持っていた。

 

 

◆◆◆

 

真也が立ち尽くすのはエルメロイの執務室である。執務机に対面する様に設置された、その設備のことは真也も知っていた。金属を以て物理的なシールドとし、魔術的な守りがが重ねられていた。金属とコンクリートを用い、相応に丈夫な構造であったが、一般社会に存在する網膜や指紋認証などのテクノロジーを駆使した鍵では無かった。南京錠レベルの簡単な鍵のみだ。保護術式を解いてしまえばそれで終わりである。ただその保護術式は相応に高度なものだ。その設備の扉が開いていた。真也には地獄に通じる蓋か扉が開いている様に思えた。

 

「槍が盗まれた」

 

そうエルメロイは簡潔に伝えた。

 

「この金庫にはタナトスの加護(呪い)が施され、正式な手順を用いず開けようとすれば死に至る、その筈だった。だが見ての通りだ」

「他に盗まれたモノはありますか?」

「槍のみだ。金銭、書類などには一切手を付けていない。あの槍の存在を知っている者はレディ・エーデルフェルト、そしてトオサカシンヤ、君だけだ」

 

エルメロイは執務室に居る人間を見渡した。

 

「いや、ミス・グレイとミス・トオサカも新たに加わったか以上、だった、が正しいか」

 

眼力鋭いエルメロイにキャスターを会わせる訳には行かないと、彼女は時計塔の外で待機中だ。

 

「奪うならわざわざ渡しはしません」

「彼女はそれなりに執着していた、また気が変わったことも考えられる」

「この保管設備は相応の物です。幾ら彼女でも無理です」

「確かにそうだ。君の魔眼でも使わない限りな」

「つまり教授は俺らを疑っていらっしゃる?」

「私とて教え子を疑いたくは無い、だが状況はそれを許さない。いずれにせよ確認はしなくてはならないだろう。事が事だけに他人に任せられない問題だ。あの招待状を名目に私は彼女を追いフランスに向かう。トオサカシンヤ。私は君への干渉を禁じられている。帰国を止めることは出来ないが、どうする」

 

真也は隣りに立つ義理の姉を見た。先程の朗らかな雰囲気から一転、態度を硬化させていた。彼女は彼の選択を不安がっていた。一晩悩み、漸く折り合いを付けたというのに。

 

(なんでこうなる)

 

彼は選択を突きつけられたのである。彼に課せられた役割を考えれば、このまま帰国するべきだ。だが心に刺さった棘が鈍く痛む。彼は己に問いかけた。

 

 

◆◆◆

 

 

善悪とは認識の結果でしかない。悪であった者が力を持てば善となる。勝てば官軍負ければ賊軍とうことだ。転じて、強い善性と強い悪性、どちらでも構わないが傾くと危険が大きい。強い善悪は多くの敵を作るという意味だ。

 

己の正義を掲げ、己の信条を貫く事は美しいだろう。だがそれは危険なことでもある。事実。多くの英雄たちが散り伝説となった。家族の存在を前提にする彼はそれ故に中道・中庸を選んだ。軽薄な態度と笑みを作る事も手段の一つである。ムッスリと陰湿にしていれば、不用意なトラブルを招く。それ故無理に笑っていた。それは仮面であったが多数の人間が気がつかないのであれば問題は無い。

 

彼は誰かを助けた事もあったが、手に負えないと判断すれば見捨てる場合もあった。虐待されている子供を助けたとする。その後はどうする。成人まで面倒を見るのか、出来る訳が無い。一人目を助けたら、二人目を見捨てる理由は何だ。相応の財力と権力があれば別だが、生憎と持ち合せていない。限られた孤児院など何処も一杯だ。結局見捨てることになる。そんな子供たちは知らないだけでごまんと居る。

 

それを非難する人間は得てして対岸の火事を見る人間だ。自分に火の粉が掛からないと、好き勝手なことを言う。現実を知っていれば、非難など出来よう筈が無い。誰かが「訴えるのが仕事だ」と言った。違う誰かが「その訴えで何人救われたのか証を立てろ」と反論した。「答えられるモノでは無い」「何人助かったか、何故それが気にならない」つまり彼らは救う事が目的では無いのだ。己を正当化し悦に浸ると言う目的のために、誰かを非難したいだけの連中に他ならないのである。

 

真也はその行動が公明正大さを欠くと知りつつも、現実的な手段を選択する事もあった。悪代官が居ようとも経済が回っていれば端の人間にまでパンが届く。正義を掲げ、悪代官を倒したところで頭が入れ替わるだけ。経済、官僚機構といった町の仕組みを根本的に作り直すには莫大な労力と時間を要する。その間に町が止まれば飢える人間が生じる。印籠を見せれば心を入れ替えるなど、現実には有り得ない。正しい権威者が存続すれば、或いは力を持てば、間接的に助ける事が出来る。ルヴィアやヘルメスの様な正統な貴人を尊重するのはその反動でもあった。

 

善と悪の間をメトロノームの様に言ったり来たり。その範疇で出来るだけ出来る事をする。全ては存続と現状維持の為だ。彼はその生き方を選んだ。サーヴァント並みの力を誇ろうとも何の役にも立たない。一人の力などたかが知れているのだ。例え消極的であろうとも全ては、死ねない、帰らないといけない、という目的に帰結する。

 

目の前に突きつけられた一つの選択。義姉の憂いた表情が重くのしかかる。真也は顎を締め、拳を震わせた。だめだここで退くべきだ。手を切るべきだ。これ以上はダメだ。ルヴィアは従者を呼ぶと言っていたから大丈夫だろう。これ以上の我が儘は出来ない。ルヴィアと契約したのは家に帰るという目的の手段。それ以上は無い。無い筈だ。遠坂という家の為、家族の為、今まで幾度となく誰かを見捨ててきた。目を瞑ってきた。それと同じだ。だが答えが出せない。

 

(ランサー、お前ならどうする)

『帰国しても良いんだぜ? あのルヴィアお嬢ちゃんにどのような結末が降りるのか、それが背負えるならな』

 

出来る訳が無い。彼は義姉に向き直り、こう告げた。

 

「ごめん。このまま帰国するのは後味が悪すぎる」

「レディ・エーデルフェルトが心配?」

「もう少しだけ時間をくれ」

「そう」

 

彼女の抑揚の無い言葉は、落胆と失望の顕われであった。

 

 

 

 

つづく!

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