赤い林檎を蹴飛ばしたら 作:d1199
ロンドンからリバプールまで電車に揺られる事約二時間半。二人はライムストリート駅に降り立った。リバプールはイギリス北西部にある海商都市で、ビートルズの出身地であり、有名サッカーチームの本拠地でもある。かまぼこ型ドームの屋根を持つ駅を出ると、石造りの建物の目立つが、近代鉄筋コンクリートの建築物も相応に混じっていた。駅前だというのに、背の高い建築物はなく、建物間の距離も大きく、圧迫感が薄い。日本とは町の作り方が根本的に異なるのだろう、真也はそんな事を考えた。地方都市に過ぎない冬木市ですら過密で高層建築物ですら存在するのだった。
その証拠に古式の建築物が駅の鼻先にあった。セント=ジョージホールと言い、ネオクラシック様式の建築物で、イギリスの遺産建築物でもある。それを知らない真也は「教会だろうか。教会にしちゃ石の柱が多いな。ギリシャ建築物に似ているし」と、適当な事を考えていた。駅前という一等地にその施設を置く余裕があるというお国柄、という意味だ。
見上げればあいにくの曇り空であった。この季節の欧州は天気次第で気温ががらりと変わる。つまり、もうじき四月だというのにとても寒い。ショール一枚では寒いのか、彼の左に居る、扱いに難しい同僚は、僅かにだが身を縮こませていた。“それに気がついた”真也は仕方が無いとこう告げた。
「レディ=エーデルフェルト。一度ホテルに向かいましょう」
「直接、警察署に向かいます」
「お疲れでは?」
「何を言うのやら。時は金なり、ですわよ」
ルヴィアのその反応は真也にとって予想範囲内だった。
「では昼食に付き合ってくれませんか。長く揺られて疲れてもいますし、腹も減っています」
「私の話を聞いていないのかしら。直接警察署に向かうと、言ったのだけれど」
「急いては事をし損じる、とも言いまして。お嬢様も長旅で気が立っておられるご様子。ささ、どうぞこちらへ」
真也はルヴィアの手を取ると強引に引っ張った。真也のその反応はルヴィアにとって予想範囲外だった。手を取るという意味であり、強引にと言う意味だ。
「な、なにを、」
「ですから食事です」
「ちょ、な、」
「あすこにしましょう」
真也の差した指の先には、煉瓦色の小さい店があった。白い看板を掲げていた。小さなカフェ レストランである。
「旅行に来たのではありませんわ!」
「ビジネスでも食事は重要ですよ。腹が減っていてはままなりませんから。一息つくべきです。バーにしたいのですが、開いている店は流石に無いようですね」
「トオサカシンヤ!」
「冗談ですよ。昼からと言うよりは仕事の前にアルコールは常識が無いですから」
その握り手は随分強く抗う事は出来なかった。何故だろうか、術を行使しても拘束を解く事が出来ない、彼女はそれを感じ取った。
「分ったから、その手をお離しなさい!」
頬染め、慌てふためくルヴィアに真也はニヤケを隠さない。
「可愛らしいお嬢様で助かりま、失言でした謝ります。ですからその呪いの右手仕舞って下さい」
青い長袖に隠されたルヴィアの右腕には、魔術刻印が唸りを上げていたのであった。
(ガンド使うのか、この人)
心に浮かんだ義理の姉は怒っていた。同類扱いするな、と言う意味である。
◆◆◆
窓側の席が良いと主張するルヴィアは強引に奥の部屋の席へ押し込まれた。自然、真也に相対する彼女は不満ありありの顔である。彼女は無視してメニューを捲っていた。真也は構わず続けた。それどころでは無いのだ。
「そのままで聞いて下さい」
ルヴィアは無言でメニューを一枚捲った。不愉快だから話しかけるな、と言わんばかりである。
「監視されています」
ルヴィアの指がピタリと止まった。メニューの文字を追っていた、ルヴィアの琥珀色の瞳が上向けば、真也の打って変わった真剣な眼差しに流石の彼女も戸惑った。この目の前の人物は相応の実践経験がある、彼女はそれを悟ったのだった。
「位置までは追えませんが、確実です。恐らく一人」
「その為の屋内であり、奥の席であり、窓から唇が読めない席、と言う事かしら」
「はい」
付け加えるならば、駅を出た直後それに気が付いた真也は、ホテルに向かおうとしたのである。その目的は同じだ。
「何を言い出すかと思えば……“それがどうかしましたの?” 多少実践経験があるようですけれど、」
「俺は第五次聖杯戦争に参加しました」
ルヴィアの態度が硬化した。“このお嬢様ともここまでか”と彼は腹を括った。
「手前味噌ですが俺は気配の察知に心得があります。サーヴァントと相対し何度か死にかけましたが、今生きているのはその気配読み、と言うスキルに因るところが大きい。そして俺はその誰かの存在を関知するものの位置を追う事が出来ない。つまり、その誰かはサーヴァント級の、そうでなくともそれに近い実力を持つ、手練れと言う事ですよ。この依頼は想定以上に根が深そうです。時計塔にお戻り下さい。危険すぎます」
「私の二つ銘をご存じかしら」
「地上でもっとも優美なハイエナ」
「価値があるものは危険な所にあるものですわ。低レベルの依頼かと思えば、随分と楽しめそうです」
「レディ=エーデルフェルト。冗談を言っているのではありません。俺は危険だと言っています。貴女はエーデルフェルト家の当主で、後継者は貴女一人。死ぬ事は許されていない筈だ」
ルヴィアは疑いの目でメニューを捲った。写真の中の料理は立派だが、実物はそれなりだろう。味は望むべくもない。彼女は真也の警告を取り合っていなかったのである。食事のほう重要だ、と言う事だ。
「トオサカシンヤ、貴方はどうなさるのかしら」
「これは俺が引き受けた依頼ですから、当然遂行します」
「危険すぎるのでしょう?」
「家名が掛かっていますから。気配を感じたから断念しました、なんて言える訳が無い」
「貴方が聖杯戦争に参加した魔術師だというなら、尚更退けませんわ。貴方より、私が上だと証明しなくてはなりませんもの」
何という、恐ろしくも美しい笑みだろう。それは獲物に狙いを付ける狩人そのものである。ただ野獣と言うよりは幻想種を想起させた。
「エーデルフェルトの当主として、トオサカに負ける訳にはいきませんから」
「もう、貴女の気高さは思い知っていますよ。ですからお帰り下さい」
「トオサカはエーデルフェルトより劣る、私に言ってご覧なさい。そうすれば時計塔に帰りますわ」
言える筈が無かった。
「他に、ご意見、有りまして?」
「どうぞご自由に」
ほら、ご覧なさいと言わんばかりの上から目線。艶のある表情が真也の混乱に拍車を掛ける。人をコケ下ろせば色気を帯びる性質など、将来の花婿様は苦労するだろう。
(Sかこのお嬢様は)
だもので真也は説得を断念した。梃子でも動かない頑固さだと理解したのである。透明硝子の容器に収まった水をぐいと飲むと、彼はインドカレーを注文した。羊肉〈マトン〉カレーとチキンマサラである。カレーの色は香辛料の色と言わんばかりの、なんとも食欲をそそる色だ。真也はナンを手で千切りカレーに浸して食べ始めた。ルヴィアは目を白黒させていた。
「この料理は手づかみなんですよ」
彼は先手を打った。カフェレストランにナンカレーがある理由は不明である。
「エスニックな料理がお好みなのかしら」
「旅では暑い地方をルートにしましたから」
「どのような意味?」
「香辛料の利いていない料理は不安で食べられない、と言う事です。衛生的な意味ですよ」
ルヴィアは追求はしない事にした。目の前の人物は己と有り様が違いすぎる、そう判断したのであった。理解しても意味が無いし、理解したところで納得は出来まい。ホリアティキサラタ……フェタチーズ、トマト、キュウリ、オリーブなどをオリーブオイルで和えた物を品良くついばんでいるルヴィアを見て真也は心中で溜息を付いた。
(頑固というか、何というか。物腰丁寧だけれど義姉とそっくりだな、この人)
「しかし、当主ではなく出来損ないの長男がマスター選ばれるとは。トオサカリンの悔しそうな顔が目に浮かびますわね。もっと早く知っていれば、あの邂逅もより輝いたでしょうに」
思い描くルヴィアは恍惚とした表情だ。罵倒し高笑いするルヴィアと、悔しそうに地団駄を踏む凛を思い浮かべていた。
「まぁ次回のカードにしましょうか。実に楽しみですわ」
ルヴィアは勘違いをしていたが、真也は御家事情なので敢えて言わない事にした。当主である凛に一任する、と言う事だ。
「もう少し気遣いのある呼び方を希望します。ご令嬢に出来損ないとか言われると色々困りますから」
「お忘れかしら。“デキが悪い”そう言ったのは貴方自身でしょう?」
そう言えばそうだったと真也は苦渋の顔である。
「……一つだけ。姉の敵は俺の敵ですから。その時は覚悟して下さい」
「構いませんわ。全力で応じる事は変わりませんもの。二人共々打ち砕くまで」
(もっともあの義姉は手出し無用と言うに違いないけどな)
二人はランチを食べてその店を後にした。雑だの品が無いだの、ルヴィアは苦情を忘れなかった。申立先はもちろん真也であった。
◆◆◆
リバプールのライムストリート駅から、コーペラス=ヒル通りを南西に向かい、リバーストリート沿いにその警察署はあった。それはリバプールを南北に流れるマージー川の東側に位置する、つまりは湾岸警察署と言う訳だ。煉瓦造り風ではあったが、近代建築であった。周囲をぐるりと見渡すと、近代的な町の作りだと言う事が良く分かる。計画的、と言っても良い。建物と建物の距離があり、緑が少なく、民家も見当たらない。町というのは多少不便でも、不均一、つまりごった返していた方が、風情があって良いと思う真也であった。靄が掛かっている事も、良くない印象に一役買っていた。だもので。そこかしこに建つ、どこぞのお偉いデザイナーが設計したであろう、有機的なフォルムを持つ建物を見たルヴィアが、溢した呆れに諸手を挙げて同意する真也であった。
「洗練さがないというか、工業意趣的というか。斬新であれば良い、という浅はかさが見透けますわね。趣きに欠けますわ」
署内の受付窓口に腰掛けるのは白人で、赤毛の中年女性だった。警官であろうその人の、指や頬に走る皺は彼女の人生を表していた。
(そうだよな。中年女性って普通こういう感じだよな)
どのように悪く見ても三〇前後に見える舞弥と葵の方がおかしいのだ。職業柄処女の血を啜ってる、と言われた方が納得がいく若作りである。ただ、どうした事か。目の前の女性警官の様子がおかしい。濃紺の制服はパリっとしており、規律と威圧を醸し出していると言うのに酷く顔色が悪い。緊張している、と言うよりは悪いモノでも見たかの様な青ざめた顔をしていた。何かが起こった、ルヴィアは直感で感じ取った。知ってか知らずか、真也は平然としたものである。カウンターに手を置いてこう告げた。
「テリー=シモンズ巡査部長に取り次いで頂きたいのですが」
「ご用件を教えてください?」
「塔の人間だといえば分ります」
「塔〈tower〉、ですか?」
「はい」
その婦人警官は名乗らない事に不審さを感じつつも、隙を見せない真也の態度に戸惑った。そして、見るからに偉そうなルヴィアの雰囲気に丸め込まれた。その女性警官が内線を掛けると、二人はカウンターに沿って突き当たりの部屋に案内された。ホワイトボードと、長机、そしてパイプ椅子が置いてあった。会議室であった。二人は促されるまま腰掛けた。暫く待つと恰幅の良い背広姿の男がやってきた。真也は立ち上がり右手を差し出した。
「初めまして。時計塔のトオサカシンヤです」
「テリー=シモンズです。巡査部長、刑事をしています。お待ちしておりました」
二人は営業スマイルで握手を交わした。おや、とルヴィアは違和感を感じた。真也の、その刑事への接し方は完全にビジネス的だ。それも良い意味である。異端児が集まるエルメロイ教室、エルメロイ本人を筆頭に、オッドアイのジョナサン=スコット、グレイ、そして真也。彼らは冷徹・合理的 を信条とする魔術師らしくない。人道性を重んじる傾向がある者たちだ。故に、この警官が塔を知っていることに、彼女は不審がったのである。真也の応対に違和感を感じないのか、という意味だ。もっとも、刑事の知り合いと言う魔術師が強い人道性を持っていてもおかしくは無いのだが。この刑事も調査対象だがルヴィアは踏み込むのを止めた。暗示を掛ける事も可能だが、万が一この人物が魔術師で、術に抵抗された場合は厄介な展開となる。事を荒立て態度を硬化させても面白くない。暫くは友好的に接した方が賢明だろう。その刑事は、どうみても場違いな令嬢を無視する事が出来なかった。無論ルヴィアの事である。
「……お一人と伺っていましたが?」
「彼女はルヴィアゼリッタ=エーデルフェルト。同僚です」
正確には違うが、事細かに説明して警官を混乱させる事も無い。時計塔という枠で見れば、似たようなモノだ。
「早い話援軍です」
「援軍が主力なのですけれど」
真也はルヴィアに微笑んだ。
「レディ=エーデルフェルト。この刑事さんと話していますので、お静かに願います」
刑事が混乱するから黙ってろと、と言う言い方は避けた。真也は笑っていたが威圧があった。真也の命令口調な物言いにルヴィアは不満を覚えたが、スムーズな展開は彼女も望むところだ。渋々従った。何よりこの調査は真也が責任者なのである。方やその刑事は不安になった。この塔から来た二人は意思統一がとれているのか、と言う事である。だが追い返せば次が来るかどうか分らない、その刑事は笑顔を崩す事なく二人を席へ促した。
「長旅お疲れでしょう。どうぞおかけ下さい。紅茶で宜しいですかな?」
三人が席に付くと刑事と真也は雑談を始めた。出身は何処か、リバプールは初めてか、サッカーの試合はどうのこうの、リバプールの郷土料理である“スカウス”は肉じゃがそっくりだ……等々。ビジネス上必要だとは分っていても、今のルヴィアは魔術師としての立場を取っている。
“どうでも良いでしょうに、そんな事”
うんざりしつつも展開を待っていた。そしてシモンズという刑事はこう切り出した。
「お伝えしましたが私は魔術師ではありません。ですから塔の方にお越し頂いたのです。この地は霊地ではありませんから管理者もおりません」
「地〈霊脈〉に根付く術者ではない、と言う事。ならば大した事ありませんわ。せいぜい二流の術師でしょう」
シモンズ刑事とルヴィアの会話を聞いた真也は黙っていた。
(士郎の一件もあるからな、何とも言えない)
かく言う真也本人もその口だと言う事に気がついてない。その真也はこう言った。
「シモンズ刑事。早速ですがトーマス=ニルセンと面会させてください」
「トーマス=ニルセンは自殺しました」
恐れを僅かに含む刑事の物言いに、ルヴィアと真也は思わず見つめ合った。
◆◆◆
ルヴィアと真也の二人がトマス=ニルセンと対面した部屋は“彼ら”専用の、寝心地など全く考慮されていないベッドのある部屋だ。別命遺体安置室である。冷蔵が効いており、吐く息も白い。その冷たい空気は、ある種の臭いを帯びており霊廟を想起させた。刑事が手を伸ばし、彼が収まっている袋のジッパーを下ろした。恐る恐る、というよりは爆弾を触れるかのような手つきである。
二人が見る、魔術師だと言い張った、その彼はその堅いベッドの上で、なり果てていた。神経質そうな印象を与えた彼は、見知らぬ他人に気を使いすぎてしまった様に、痩せこけていた。干からびていた、ミイラそのモノである。その刑事は、自分の半分も生きていないだろう二人の若い魔術師が、変死体を目の前にして、動揺すら見せない事に、頼もしさと恐ろしさを感じていた。
「トオサカシンヤ、貴方は初めてかしら」
「いえ、生憎と経験者です。フレッシュクラッシュを見た日の夜よりはマシでしょう」
「結構」
刑事の吐く息は、白くわだかまりエクトプラズムの様だった。そう思ってしまう程に、その刑事は青ざめていた。
「検死はこれからですが、気味悪がってまだ手を付けていません」
「逆に好都合ですわ。現代科学にかき回されては困りますから」
そう言うとルヴィアはポケットから鉱石を取り出した。それは透明度を持った立方体の結晶だった。真也が言う。
「カルサイトですか?」
「あら。流石に詳しいのですわね。姉に教わったのかしら」
「ええ、予備知識程度ですが」
「それは何ですかな」
刑事の問いに答えたのは真也であった。
「カルサイト。魔術で使う鉱石の一つで、複屈折という概念を持ちます。知覚外にあるモノをあぶり出す特性があります」
「呼び出すと言いなさいな。品が無いですわよ」
「失敬。隠れたモノを見つけるのにもっとも適した鉱石です。ただ壊れやすく、水に弱い。使い勝手の割には管理が難しい―」
「正解ですわ。ですがトオサカシンヤ。余計な事を言わないように。お喋りな殿方は嫌われましてよ」
ぺらぺらと話すな、とルヴィアは釘を刺したのである。彼は肩を竦めるより他は無い。
『Call』
ルヴィアはその石に魔力を籠め、発動の言葉を唱えた。魔力という燃料を供給された結晶は供える特性を顕現させた。その透明結晶越しにみる遺体の胸には、術式が刻まれていた。
「停止、拘束、流転、転送、ラベル、」
ルヴィアの読み上げを聞いた真也は警戒を隠さない。
「その場所は何処ですか?」
「左胸、心臓ですわ」
「レディ=エーデルフェルト」
「分っています」
ルヴィアもその表情に影を落としていた。二人の魔術師が態度を急変させた事実に刑事は気が気では無い。
「どういう事ですかな」
「このトーマス=ニルセンという人物は、己の魂を魔力に変換しどこかに送った、つまり自分自身を生け贄にした、と言う事ですわ」
継いだのは真也である。
「魔術師は本質的な意味において、とある真理を求める為なら自分の命を省みない。ただそれは自身を危険に晒すという意味であり、実際に死ぬかは別です。それに到達する前に死んでしまえば意味が無いですから。トーマス=ニルセンに刻まれた符陣は―」
・停止:生命活動を止めると魂は身体から解放される
・拘束:その魂を術式に捕らえ
・流転:魔力に変換し
・転送:文字通り魔力を送る
・ラベル:転送先の場所を司る、住所のようなもの
「という意味を持ちます。つまり彼は、とち狂ったのか、それとも自分の魂を対価にするだけの理由を持っていた、と言う事です。どちらにせよ、まともじゃない。自分の魂を魔力に変換する事は完全消滅を意味しますから。これは魂食いの術式です」
「魂を喰うなど、その様な恐ろしい行為が可能なのですか」
刑事の声は震えていた。
「現実問題として被術者が抗うとその成功率は極端に落ちます。それを無視し強制的に喰おうとするならば相応の規模、つまり“ある意味”高度な術となります。現代ではもろもろの事情で行使する術者は居ません。安心してください……と言いたいのですが。潰えた筈の術式を知る者が居たとなると頭が痛い」
「昔はあったと?」
「ええ、暗黒史と言う奴です」
ルヴィアが継いだ。
「その魔力を何に使うか、も気になりますけれど。彼は何故わざわざ警察署で儀式をしたのかしら」
真也が答えた。
「それはもちろん、彼にとって予定外の事が起きたのでしょう。どうやら符陣をとっさに刻んだようです」
「どういう事ですの?」
「これを見て下さい。左人差し指の爪が剥がれています。これは拷問の跡です。誰かの襲来を察したトーマス=ニルセンは己の身体に符陣を刻んだ。拷問を受け、もうダメだと思った彼は術を発動させた、そんなところでしょうね」
刑事が真也に聞いた。
「つまり自殺では無いと?」
「自殺は自殺でしょう、この拷問が直接の死因ではないのですから。侵入者の確認はしていますか?」
「少なくとも私は知りませんな。監視カメラの映像を確認しましょう」
ルヴィアが刑事に問うた。
「自首して来た時の状況を教えて下さる?」
「こいつは婦女暴行をやらかした後、署に駆け込んできた様ですな。ただ何かに怯えているようでした」
「怯える?」
「ええ。今思えばそれだったのでしょうが」
「被害者の方は?」
「病院に搬送され治療を受けています」
「彼の自宅を調べます、宜しいですわね?」
「構いませんが荒らされています。こいつがが出頭して来たと同時に、家宅捜査に向かったのですが既に荒らされた後でした。人影はあったのですが逃げられています」
「どのような人物かしら」
「分りません。目撃した警官によると、影のようだったと。トーマス=ニルセンを追い詰めた人物と同じでしょうか」
「確証はありませんわね。とにかく調べますわ」
「手配をしておきましょう」
「ミスター=シモンズ、現場を拝見させて下さらない?」
「ご令嬢に相応しい場所ではありませんぞ」
「お気遣いなく。だって、ここもそうでしょう?」
「ここにぶち込まれている連中〈死人〉は何もしませんが、地下にぶち込まれている連中は生きています。まぁ止めても聞かない方の様ですな」
「ご理解頂けて何よりですわ」
「どうぞこちらへ」
(影のような人物、か。駅前で感じたあの監視者か? 今監視されていない事も気になるけれど)
「トオサカシンヤ、行きますわよ」
ルヴィアの声で我に返った真也はつい地が出てしまった。
「ああ、今行く」
「……意外と粗野な方、と言う事かしら」
「はい?」
彼女は何も言わなかった。色々隠している人物を一皮剥く事が出来たからだ。
◆◆◆
拘置室は警察署の地下にあった。鉄格子のゲートを二つ通り抜け、階段を降りれば、真っ直ぐ走る通路があった。天井には細長い蛍光灯が申し訳程度に点いていた。お前らにはこの程度で十分だ、そう語っていた。通路を挟んだ左右に、鉄格子で蓋をされた部屋があった。光が届かない薄暗い部屋には人間たちが蠢いていた。悪態を付く事が当然と言わんばかりのいかにもガラの悪そうな者、手違いで放り込まれたような苦悩に満ちる者、無神経なのか慣れているのか寛いでいる者も居た。当然、貴人であるルヴィアを見た途端一部が騒ぎ始め、それにつられて、また一人、また一人、その騒ぎに加わった。良く言えばお祭り状態、悪く言えば暴動一歩前だ。シモンズ刑事は刑事棒で、その鉄格子を激しく叩き威嚇していた。ガンガンガンと耳に痛い程の暴力的な音だ。ルヴィアは無表情だったが、不愉快そうなのはありありと理解出来た。
「ここです」
刑事が開けた拘置室は偶然か最も奥の部屋だった。四角い殺風景な部屋である。天井には換気扇、簡素なベッド、剥き出しの便器、洗面台、棚とおぼしき物もあった。
「俺が入ります。わざわざ汚れる事も無いでしょう」
鉄格子を前に戸惑うルヴィアに気遣い、彼は躊躇いもなくその部屋に入った。
「トオサカシンヤ、貴方はこの手の部屋に経験があるのかしら」
「それは秘密です」
人差し指を唇に沿え内緒のポーズ。戸惑う二人。古すぎか、と真也は打ち拉がれるのみ。もちろん新しい古いという問題では無い。気を取り直した真也はベッドの下、便器の中、棚の上を手で探り始めた。彼の手が床のある場所を触れた時、彼はピタリとその手を止めた。
「そこですの?」
「ええ、ここです。ここでトーマス=ニルセンは死んだ。レディ=エーデルフェルト。残留思念を読めませんか?」
「それは専門外です」
「そうですか」
真也のあからさまな落胆に、ルヴィアは苛立ちを隠せない。ご立派な当主様なら可能でしょう? そういう皮肉に聞こえたのだった。
「ご存じないのかしら。それが行使できる術者など塔でも極僅か。そもそも、無機物に宿った思念を読み取る事など最高難易度ですわ。無機物と有機物の違いは存在という意味において本質的に異なる、つまり記録方法が異なる。無気質に宿る思念を読み取る事がどれ程困難か知らないのかしら?」
「知ってますって。別に馬鹿にした訳じゃありません。念のため聞いてみただけです」
真也は噴火直前のルヴィアに慌てて謝った。そして内心毒気付いた。
(くっそー。キャスターが居れば死体や部屋から色々楽々読み取れるのに)
日本にいる己の従者が如何に規格外か思い知らされたのであった。もっともルヴィアにキャスターを紹介する事など出来る筈も無い。因みに彼が出発時装備していた真紅の礼装もキャスターが誂えたものだ。現代であれば値が付かない程の非常に優れた物だったが、とある一件で破損し、彼の手元に残るのはその切れっ端のみである。
「そこの部屋の事を知ってるぜ?」
その声は、はす向かいの部屋の主だった。制止しようとした刑事と真也の声を振り切り、ルヴィアはその部屋に近づいた。
「あら、ご親切に聞かせて下さると言う事かしら」
ルヴィアは微笑んでいたが、その琥珀色の瞳は危険なまでに光っていた。どのような経緯でこの部屋に居るのか彼女は知らなかったが、その男の態度を見れば、どのような人物か一目瞭然だ。彼女の表情は侮蔑のみである。その声を聞く、その姿を見るだけで嫌悪がわき上がる。その囚われの男は不愉快な笑みを浮かべていた。彼女は確信した。真也の軽薄な笑みなど、これに比べれば天使の微笑みだ。
「あぁ、教えてやっても良い。あんた次第だがな」
「取引するつもりはありませんの。話すなら聞いて差し上げても構わない。ですが良くお考えなさい。次の発言で全てが決まりますわ」
ルヴィアのカードは暗示だ。目の前の男は為す術もなく囚われるだろう。だがそれは“目の前の男は無力”という彼女の慢心でもあった。囚われの男が薄ら笑みでふらりと立ち上がる事と、ルヴィアの眼の前に真也の右手の甲があった事は同時だった。何をと言う前に、彼女は気がついた。真也の手の平にはその男の精液が付着していたのである。ルヴィアは精子を投げられたのだった。真也の声は冷え冷えとしていた。
「お生憎、アンタの悪戯は失敗だ」
その男は忌々しそうに舌を打った。生臭い匂いが鼻を突く。知識としては知っていたが、初めて知覚するそれにルヴィアは目を白黒させていた。それは檻の中に居た。魔力の欠片も持ち合せていなかった。ルヴィアに何かを出来ようはずが無い。だから呼びかけに応じた。だが。人に精液を投げつける人間が居ようとは、まさか自分自身が投げつけられるとは、その状態だったとは、それに気がつかなかったとは。それは彼女にとって完全に予想外の事であった。足が震えていた。怒りなのか、恐怖なのか、己の不甲斐なさなのか、彼女にも分らなかった。
「先に戻ってて下さい、お嬢様。俺は彼に話を付けておきますから」
「な、なにを、」
「落とし前ですよ、お任せ下さい」
真也の声は酷く落ち着いていて、彼女はその落ち着きに引き上げられた。
「程々になさいな」
「ええ、程々にします」
彼女はそう言うと足早に立ち去った。居合わせた刑事は商売柄、真也が本気で怒っている事に気がついた。
「トオサカシンヤ、貴方の怒りはもっともだが、この国には人権と言う物があってな。私は立場上見逃す事ができない」
「シモンズ刑事、貴方は立派な方だ。人として尊敬しますよ。ですからこう言います。手は出しませんし、足も出しません。汚い言葉も発しません。アレ〈魔術〉も使いませんから」
「なら何をするのかね」
「もっと単純で、古い、本能的なものです。何でしたら、そこで見ていらっしゃっても構いませんよ。俺はただ突っ立っているだけですけれどね」
真也がその鉄格子の中を覗けばその男は悪態をついていた。真也に何かが出来るはずが無い、その男はそう確信していた。だが相手が悪かった。
「何か様か、ナイト様風情、が?」
真也は眼を見開いていたのである。それを例えるなら、この世界を覗き込む、別世界に住まう何か。手も伸ばせない、けして辿り着く事が出来ない、厚さ薄さと言う概念の無い、絶望的なまでに叶わない壁。その向こう側から、何かに見られている感覚……少なくともその男にはそう見えた。ごくりと唾を飲んだ、それが始まりだった。
◆◆◆
生物は基本的に己と似た存在に親近感を覚える。その逆も然り。人間は人型で無い異形には、嫌悪感を覚える、それは本能に基づくものである。人とは大きく異なる虫は、本来人間にとって嫌悪以外の何物でも無い。虫は地球外生物だという説も唱えられる程だ。子供の知的好奇心はその嫌悪感を凌駕しするが、大人になるにつれ苦手になる。その男もまたそうだった。その男が、その虫という存在にトラウマ〈幼少の禁忌〉を持っていたならば、その嫌悪は相当な物になる事は必然であろう。
腕に感じた妙な感覚は気味が悪かった。針よりは太く、指よりは細い何かに、腕を押されていた。一本? 二本? いやもっと多い。三本、四本、まだまだある。知覚できない程あった。細かい大量の足が波のように動き、あたかも這っているような感覚となっていた。何事かと己の腕を見れば全長二〇センチもある一匹の百足〈ムカデ〉が腕を這っていた。膨れあがった嫌悪感は爆発した。慌てて振り払い壁に叩き付ければ、それは動かなくなった。濡れ雑巾を壁に叩き付けた様な音だった。
「どういうこった、こりゃあ」
管理がなっていない、弁護士を使って訴えてやる。その直後ベッドの下から別の百足が現れた。古式の船のオールのように、足を波打たせ近寄ってくる。
「っ!」
恐怖に顔を歪ませたその男は、百足を踏みつけた。何度も踏みつけた。薄い甲羅が割れ、その中身が飛び出す音がした。革靴越しだというのに百足を噛んだ様な感覚に襲われた。飛び出したぬるっとした感触が咥内にみたされた。
「どうなってやがる……おい、お前! 警官を連れてこい!」
だが鉄格子越しに立って居たはずの、若造は居なかった。その代わり、鉄格子越しの廊下には夥〈おびただ〉しい数の虫がいた。
・足の沢山ある虫、ムカデ、ヤスデ、ゲジゲジ。
・数の沢山ある虫、ウマバエ、コイムシ
・軟体の虫、ユムシ、ウミケムシ。
・寄生する虫、タノニエ、ギニアワーム。
動けない。眼の無い虫、眼の有る虫たちが、否。その群が床を敷き詰め、壁に這いつくばり、天井にはぶら下がる。虫たちに凝視されていた。もはやその男は蛇に似睨まれたカエルだ。
「ひっ!」
その身体のルールを折り曲げたような、呼吸が生み出した悲鳴を合図に、その群は一つの生き物であるかのように、一斉になだれ込んできた。ガラスを引っ掻いたような鳴き声、牙を打ち鳴らす声、粘液めいたのたうつような足の声、一匹一匹がそれぞれの鳴き声を立てながら、鉄格子をすり抜けるその様は、悪夢そのものである。
その男は悲鳴を上げた。慌てて部屋の奥へ逃げるが、当然の如く逃げられない。その部屋はそういう部屋だった。壁に手を突けば何かを潰した様な感触があった。虫だった。慌てて下がれば何かを踏みつぶした。虫だった。足に這う感触があった。虫だった。狂った様に振り払えば何かを踏みつぶした。虫だった。足を滑らせ転んだ。目の前の虫と眼が合った。触覚を有機的に動かしていた。風に靡く草のようであったし、風に靡くモビールの様でもあった。動けない。その頭の無い乳白色の芋虫、そうとしか形容出来ないそれは、威嚇するかのように身を起こすと口を開いた。口の中の小さな牙は湯気に煽られる鰹節のように蠢いていた。それはゴムのおもちゃのように飛び跳ねると、その男の鼻の穴に潜り込んだ。男は絶叫を上げた。
床はもちろん、壁、天井、ベッドの上、棚に虫たちが敷き詰まっていた。天井からボロボロと落ちる。壁から飛び跳ねる。洗面台の下水口からムカデが遡ってきた。便器の蓋が開いたと思えば、ウマバエの大群が口を開けて待っていた。今やその部屋は虫箱だった。
いやだ、虫は嫌だ。
ムカデは見るからに異形である。連なった甲羅状の節は赤さび色で、各節から伸びるエビのような足は黄丹色。通常二〇~三〇センチ、最大で四〇センチを超える。その巨大さは既に毒蛇。首をもたげ、威嚇するその牙はプラスチックすら砕く。鳥、ネズミすら喰らう肉食動物だ。体中を喰い千切られた。
虫に這われるのは嫌だ。
ウマバエは数で攻める。成虫に卵を産み付けられた蚊は人間を吸血し、その血を吸った穴から、侵入し寄生する。体長五ミリほど。ミミズを蛇腹の要領で潰した様な姿で乳白色。アルビノのように表面直下が薄く透けて見える。違和感を感じてシャツを捲れば、その乳白色の軟体の“壷”が、腹部にびっしり生えていた。口がパクパクと開いては閉じている。視線が合った。強いて言うなら、ミツバチの六角形の巣に居る幼虫全てに凝視されている感覚だ。
喰われるのは嫌だ。
ウミケムシは軟体だ。乳白色だが全身を構成する節の根元が桃色で、その色合いが嫌悪感を増加させる。その形を強いて表現するなら、頭部の代わりに口蓋が付いている芋虫だ。アグレッシブに食い付く肉食性と毒針の毛を持ち、刺されると赤く腫れて水疱になる。その芋虫が体内を這っていた。先ほど鼻の穴から侵入した奴だ。体内を喰らいながら、皮膚の下を蠢いていた。布団の中を蠢く何かのようだった。狂った様に脇の皮膚を指で切り裂けば、その皮膚の裂け目から次から次へと幼虫が溢れだした。
死ぬのは嫌だ、こんな死に方は、嫌だ 。
タイノエは寄生虫。それは魚類の口蓋に寄生する、乳白色〈アルビノ〉の多足甲虫である。魚の口を開ければ同居するオスとメスが見える。魚の舌を溶かし養分を吸収する、ダンゴムシに似た寄生虫だ。嫌悪虫の代表である百足が可愛く見えてくる程の、おぞましさだった。正しく宇宙生物に他ならないだろう。その虫が魚類ではなく、自分の口の中に居たら、それを考えるだけで身の毛がよだつだつ……程度では収まるまい。口の中に違和感を感じ、指を突っ込み取り出せば、不釣り合いな程可愛らしい瞳をしていた。複数の足と触覚を、有機的に蠢かしていた。男は悲鳴を上げる事が出来なかった。なぜなら、タイノエに舌を喰われてしまっていたから。
彼は虫に塗れていった。彼は虫に纏われ、這われ、肉と骨を食い尽くされ、死んだ。だって、目玉しか残っていないんだから。生きているはずが無い。その残った目玉も蹴られるサッカーボールのように、ムカデに転がされてどこかに行ってしまったけれど。
「あ、かっ?!」
全ては己が生み出した幻。帰ったその男は拘置室の中だった。狭く、暗く、汚れ、臭う、何一つ変わっていない住み慣れたその男の部屋だ。真也は魔眼殺しを付けたままだった。真也はただ能動的な死という強い思念を叩き付けただけ。それは男の自我という結界を突き破り侵入した。その死念は彼の悪夢を呼び起こした。それはその男にとって最も死に近いイメージに他ならない。その男は幼い頃毒虫に噛まれ、虫にトラウマを持っていたのである。
「ひっ! ひあぁぁぁぁぁ!!!」
その男はなにもかも忘れて、転げ落ちるかのように部屋の隅に蹲った。端で見ていた刑事には、その男が真也に睨まれると突然怯え始めた、その様に見えた。その様にしか見えなかった。
「……何をした」
その刑事は生まれて初めてホラー映画を見た頃のような顔をしていた。真也は笑いもせず、ただ静かにこう言った。
「だから言ったでしょ? ただ見てるだけだって。ちょっと怒気を籠めましたけれどね。経験上この手の輩は、恐怖って警戒心が希薄ですからこれが有効なんです。自分に怖い物がないと錯覚して傍若無人になる。人によっては刃物だったり、動物だったり、事故だったりするんですが彼は虫を見たようです。また暴れるようなら百足のいっぴきでも放り込んであげて下さい。温和しくなりますから」
「君にその権利があるのか」
「当然ありますよ。俺の連れにあんな事をしようとしたんですから。一滴でも付着していたら、コイツのをちょん切るつもりでした」
その刑事は知れず冷や汗を掻いていた。
「ちょん切るとはナニか。それとも首か」
「冗談です。冗談ですよ」
「君には怖い物があるのかね」
「ええ。家に居ます。怖いけれど愛する人達が、ね」
その刑事は立ち去る真也を追う事も、留める事も出来なかった。目の前の人型は人間では無い、そう直感的に悟っていたのである。
◆◆◆
そこは警察署のメインフロアである。見渡せばオフィスデスクと積み上げられた書類が見えた。他にはノートPC、制服を纏った警官に私服警官、ルーキーにベテラン刑事、カウンターには苦情を申し立てる一般人。そして捕まったばかりであろう容疑者が、小突かれながらどこかへ連れ去られていく。つまり整然とごった返していた。その一画にパーティッションで隔離された、ミーティングスペースにルヴィアが居た。オイスターホワイトのデスクに向かい、インディアンイエローの背もたれを持つチェアーに腰掛けていた。その配色は心を落ち着かせる効果がある、彼女はそれを思い出した。
「失礼」
そう断り入ってきたのは、二人を時計塔から招き寄せた刑事、テリー=シモンズであった。彼は恰幅の良い腹を揺らしながら、ルヴィアに紙コップを差し出した。それはホットココアだった。
「どうぞ。安物で申し訳ないですが」
ルヴィアは素直に受け取った。例えインスタントであろうと、この状況でココアとはありがたい。カカオの香りが心身に染み渡った。
「大変な失態をしました。何とお詫びして良いのか。我々の落ち度です、ご容赦下さい」
「いえ、あの場所に趣いたのは、私の選択です。お気になさらないで下さいな。未遂で済みましたし」
「これからどうされますか?」
「予定通りトーマス=ニルセンの家を調べます。ミスター=シモンズ、お持ちの関連資料をホテルに届けて下さらない?」
「女性を賞するには不適当な言葉ですがタフですな」
「良いですわね、その賛辞」
窓を見れば既に陽が落ちていた。
「本来なら色々問題がある行為ですが……ま、我々の手に負えないようだ。今晩にでも届けさせましょう」
「感謝しますわ」
「レディ=エーデルフェルト。僭越ながら助言を」
「何かしら」
「貴女の連れですが、御交友をお持ちならよく考えなすった方が良い」
「それは、どういう意味ですの?」
「警官になって三〇年。私は職業柄色々な人間を見てきましたがね、あれ程ドギツイのはお目に掛かった事が無い。あの手の輩は厄介事を招き寄せる、疫病神と言っても良い。いつか今日以上の不幸を貴女にもたらしますぞ」
「ご忠告は感謝いたしますわ。でもそれは無用の心配と言うもの。魔術師とは万物の歪みを扱う存在なのですから。なによりそれは私が決める事、指図は受けません」
その刑事は笑い出した。
「本当に気が強いお方だ。なるほど。だから彼は貴女の連れをやっているのでしょうな」
「それは、どのような意味かしら」
「私が言うべき事ではありませんな。それが必要な事ならば自ずと知れましょうからな」
「警察官が運命論を語るとは意外ですわ。正確に捜査していらっしゃるのかしら」
「世の中偶然で片付けるには無理がある事も多いのですよ。魔術師の方に言うべき事ではありませんがね」
「ところで私のその連れがどこに居るかご存じないかしら」
「ずっとトイレに籠もりきりです。お連れの方は随分なムラを持っているようですな。あの姿に免じて同情はしましょうか」
その光景を思い出したシモンズは苦笑いをするのみである。
「どういう事ですの?」
「さて。真実を知る勇気がお有りなら男子トイレへお行きなさい」
「誰が行くものですか。その様な場所」
「それが良いでしょう。敢えて騎士のイメージを壊す事も無いでしょうからな」
そしてそこは男子トイレである。
「うえぇぇぇぇ!」
その悲鳴を聞いた数名の警官が何事かと駆けつければ真也は手を激しく洗っていた。黒ずんだ白色の、陶器の洗面台に手を突っ込み、蛇口から流れる水道水は鉄砲水のよう。トイレットペーパーで、手のひらに付着した粘りけのある白濁液をつまみ落とし、水洗いし、石けんで洗い、消毒薬を手に付けた。また水であらい、それを繰り返す事既に五回。半べそでゴシゴシと洗う様は、派手に転んだ子供そのものである。
「汚れちゃった、汚れちゃったよぅ……さくらー、お兄ちゃん汚れちゃったよぅ」
洗えども洗えども、右手に宿る生暖かい感触は消えざり、ぢっと手を見る。
「うえぇぇぇぇぇ!!」
つづく!