赤い林檎を蹴飛ばしたら 作:d1199
そこはもう慣れたエルメロイ教室だ。黒皮のソファーに腰掛けて、ジョナサン=スコットはこう言った。
「それはヘルメス=トリスメギストス様ですね」
ティーカップを口元に近づけ、紅茶を今正に飲もうとしていた真也の手がピタリと止まった。その名前の意味をようやく思い出したのであった。
「って、あの“三重に偉大な者”?」
「そうです。二〇〇〇年以上の歴史を持つ、由緒正しい一族の末裔ですよ」
「神秘学の大御所じゃないか。て言うかなんで時計塔に居る。錬金術ならアトラス院だろ」
「噂ですが閉塞的な環境を嫌ったとか。お父上との確執とも。私も面識がありますが、開放的で気さくな方です」
「まいったね。その気さくな大御所に睨まれた」
「それはそうでしょう。レディ=エーデルフェルトにご執心と聞きますから」
真也は渋い顔であった。
「つまり何か? 俺は気になる女の子の傍に現れたお邪魔虫って事か」
「違います。恋人にちょっかいを出す不届き者、と言う事ですよ。あのお二方は交際している、という話ですから」
「俺はただの従者なんだけど」
「とても“ただの”には見えませんし、そうでなくともいい顔はしないでしょう。トリスメギストス様、閣下の立場になって考えてみる事です」
「……いてて」
「どうしましたか。突然胃を抑えて」
「色恋沙汰には良い思い出がなくて」
「姉妹発言といい、色々気になりますが。とにかく釈明しておいた方が良いのでは?」
「そーなんだけどさ。なーんか、引っ掛かるんだよな、あの二人。手を突っ込んで良い物か」
「なんです?」
「やぶ蛇にならないか、って事だ。どうせ一ヶ月だし。のらりくらりと躱せる物なら躱した方が良い様な」
「私が思うにトオサカさん」
「言わなくていい。手遅れって言いたいんだろ?」
「自覚があるなら、と言いたいのですが。トオサカさんはそういう星の下に生まれている様です」
「いいんだ。そんな気はしてた」
翌日。ルヴィアの授業中、つまり待ち時間を利用して真也は紳士服店に駆け込んだ。身なりを整えるためだ。店内にずらりと並ぶのはビジネススーツである。予定外の出費だがやむを得ない。
(しゃーないか。赤はともかくボロボロだもんな。この恰好。偉い人に会う恰好じゃないし)
正装。それは相応の心構えで会いに来ましたよ、というジェスチャーになるのだ。生憎とこの手の知識が無い真也は店員を捕まえた。
「何をお求めで?」
「偉い人に会うんです。一式下さい」
「社交界ですかな?」
「そこまで仰々しくないです。ビジネスシチュエーションで」
「では、こちらへどうぞ」
その店員は別のコーナーへ真也を連行していった。今の真也はカモそのものだ。
「ここのスーツじゃいけないんですか?」
「目上の方に会うならば相応の物が必要です。時計塔のお偉い方は身なりに拘りますよ」
「はぁ」
そして薄暗いエルメロイの執務室である。エルメロイがノートパソコンに向かっていると扉が盛大な音を立てた。
「教授!」
現れたのはスーツ姿の真也であった。彼の姿を一瞥したエルメロイは何事も無かった様にタイピングを続けた。
「随分と張り込んだな」
「DUNHILL〈ダンヒル〉です。スーツと靴で一〇〇〇ポンド。前払い金を取り崩しました」
「随分と気合いが入っているが、レディ=エーデルフェルトとデートか?」
「違います」
「ほぅ。その長身痩躯な体格に物を言わせて、どこぞのご令嬢に唾を付けたか」
「何を言ってるんですか。偉い人と会うんですよ」
タイピングしている指がピタリと止まった。真也の発言を聞き咎めたのであった。察した真也はこう言った。
「ご安心下さい同じ生徒です。身分のある方ですけれど」
「仏作って魂入れず、君の国の格言だったな」
「なんです、それ」
「ネクタイはどうした」
「ええ、それです。教授。ネクタイの結び方教えて下さい」
真也が突き出したのは真っ黒なネクタイだ。たすきを渡すランナーの様にその手からぶら下がっていた。
「その偉い人は、棺桶の中か?」
「はい?」
英国でも葬儀は黒ネクタイが一般的だ。そもそもライトグレーのカジュアルスーツにブラックタイはそぐわない。スイートグレーかコチニールレッドが妥当だろう。
「トミー=リー=ジョーンズもウィル=スミスも黒いネクタイで、でかい顔してましたけれど」
真也は映画メンインブラックの事を言っていた。
「面会場所はエリア51か。なら急がないとな。アメリカまでは長旅だ」
「あの、何か間違ってます?」
穂群原の男子制服は詰め襟だ。蒼月姓時代は実母と義理の妹と三人暮らしだ。遠坂になってからは言うまでも無く、男は彼一人。葵は知っていたがその機会は無かった。身近に年上の男性が居ない彼が、ネクタイの結び方を知っている訳が無い。エルメロイは深い、とても深い溜息を付いた後、引き出しからネクタイを取り出した。
「この色柄の方がまだマシだろう」
「ありがとうございます。で、縛り方なんですけれど」
「“結び”方だ。流石のトオサカリンもネクタイの結び方は知らない、とみえる」
「えーと、義父〈ちち〉は第四次聖杯戦争の時に、」
「”知って”いる」
エルメロイは渋々立ち上がるとこう言った。
「教え役になってそれなりに経つが、ネクタイの、結び方の指導は初めてだ」
彼はそう言うと実演して見せた。
「恐れ入ります」
◆◆◆
そこは時計塔の敷地内にあるオープンカフェだった。食堂の前にあり、食堂とオープンカフェの間には花壇があった。木製の、土器色〈かわらけいろ〉の椅子と机が並んでいた。ビーチパラソルの様なひさしは紅色で、それらがずらっと並ぶ様はパリの町並みを連想させた。開放感と賑やかさ、華やかさもあった。昼時もあって相応の賑わいだ。街路樹から落ちる木漏れ日が、まだらの影となって地に落ちる。それが風に吹かれて揺らいでいた。のんびりした物である。そこにヘルメスが座っていた。先日見た白色の民族衣装に身を包んでいた。脚を組み、書物を読んでいた。同伴者は一人の男子生徒だ。彼の従者であった。
「トリスメギストス様」
真也はネクタイを締め直しながら、こう言った。
「私はトオサカシンヤと言います。ご多忙の所申し訳ありませんがお時間を頂けないでしょうか」
真也を追い払おうと彼の従者が立ち上がるものの、ヘルメスは手を掲げ下がれと命じた。
「俺は君の事を知っている」
「私も閣下の事を知っています。ですからこうして立っています」
「エーデルフェルトの従者としてか?」
「いえ、個人ですよ」
「軽薄な笑みだな」
「笑顔は基本です」
「その笑みは仮面だ、違うかね」
「閣下の洞察力に私は感服するより他はありません。ですが、ご指導頂くために参ったのではありません」
「用件を聞こうか。俺は無駄な時間を費やしたくない」
「私たちを結びつける存在はただ一人です。不用意な諍いを避ける為に意見交換は必要かと思いまして。もちろん今が難しいというのであれば、後日またお伺いします。ですが、早めの方が良いでしょう。何分扱いが難しい問題ですから」
「問題など無いな」
「それを聞いて安心しました。貴重なお時間を頂きありがとうございました。失礼」
「待ちたまえ」
振り返った真也は満面の笑み。それは引きのあった浮きが当りだった、そう分った釣り師の笑みだ。
「会場は何処に致しましょうか」
「俺はこれほど不愉快な笑みを見た事が無い」
ヘルメスは頬杖をつきながら、そう吐き捨てた。ヘルメスは真也の申し出を受けざるを得ないのだ。己の従者ならいざ知らず、交際相手の従者に噛み付くなど、出来ようはずが無い。
「だからこの程度の嫌みは言わせて貰おう。スーツを着慣れていないな」
「高かったんですよ、これ」
ルヴィアの寮と対を成すエリート向けの男子棟、真也はその一画を締めるトリスメギストスの部屋に居た。一般生徒は入れないが彼は非常勤とはいえ講師、というのが二人の言い分である。
そして、それはそれは立派な大きな部屋だった。その部屋は西洋仕立てであったがアラブ調に改装されていた。部屋の壁、柱は紅色を基調に金細工であしらわれていた。至る所に布があった。屋根を伝う布、壁に掛けられた布、特に床に敷かれた布は複雑な刺繍がしてあり曼荼羅にも見えた。ソファーとテーブルもあったが、大人数が向かい合う座敷もあった。布も座敷もアラブ様式の一つである。
棚にはトロフィーや写真が並んでいた。乗馬、ゴルフ、ヨット、狩猟、舞踏、テニス。金の掛かる趣味の一覧であった。アラブの伝統習俗である鷹狩りや駱駝競争の写真もある。どの写真のヘルメスも主人公の様に写っていた。
そして人形もあった。それは五〇〇ミリペットボトル程の高さで、クリームイエローの身体に水色のシャツを着ていた。頭には申し訳程度の葉っぱが生えており、つぶらな瞳を持っていた。その人形がもつイメージは梨だ。真也は呟いた。
「……ふ○っしー?」
ヘルメスは慌てて隠した。
「秘密だ」
「分っております。決して口外はいたしません。エジプトを発祥とする、由緒ある魔道の当主に懇意にされるのであれば、彼にとってもこの上ない名誉となるでしょう」
「男なのかね」
「……存じません」
真也は座敷に通された。真也の手元にはシャイ〈紅茶〉とムルキーヤ〈スープ〉そしてケバブ〈肉料理〉が並んでいた。部屋の主であるヘルメスは真也の隣だ。二人は胡座を組み座っていた。ヘルメスの声は僅かに沈んでいた。
「済まない。客人を持て成すには余りにも貧弱だ。本来ならば、」
「あ、いえ。客人を手厚く持て成すイスリムの教えは存じております。アポ無しでしたし、お気遣いなく」
「中東に滞在した事があるのかね?」
「陸路でここまで来ましたから」
「ほう。それは興味深い事だな」
「日本から海路で中国に入り、ミャンマー、バングラディッシュ、インド、パキスタン、イラン、トルコ。距離だけならイスリム圏が多いぐらいです。ですから礼拝もお構いなくなさって下さい」
一日五回、メッカに向かって祈るあの儀式である。
「心配にはあたらない。イスリムの教えは生活習慣というレベルで折り合いを付けている。偶像崇拝を禁じているからな。それに、根源という神を信じる魔術師に宗教はそぐわない。アッラーを根源と見立てる強引な者もいるが、君はどうだ」
「敢えて言うなら私はギリシャ信仰ですが、ご存じの通り多神教ですから。根源を神の一つと見立てる事も出来ますし、ガイアと見立てる事もできます。深くは考えていません。なにせ根源は誰も知りませんから」
「日本人なのにギリシャ信仰か」
「色々立て込んだ事情がありまして」
ヘカテーだ、などと言える訳が無い。キャスターが真也に刻んだヘカテーのシンボルが疼いた。真也には堂々と名乗れと、言われている様な気分に陥った。そして真也はシャイ〈紅茶〉の入ったコップを置くとこう切り出した。
「では閣下。自己紹介も済んだところで始めましょう。まず私の立場を明確にしておきます。私はエーデルフェルトの従者です。閣下がお気になさる必要はありません」
「それは君の立場の考えだ」
「仰りたい事は分ります。ですから、こう付け加えましょう。私は長くお側に居ません。来月には帰国します。これは主もご承知です」
「君はルヴィアをどう思う」
「仕えるに、申し分ないお方だと」
「それだけかね?」
「それだけです」
「君の事は調べさせて貰ったが、分った事は冬木市の聖杯を作った御三家の一つ、トオサカ家の人間である事。第五次聖杯戦争に関わった事だけだ。聞こえてくるのは噂ばかりで、とにかく謎が多い」
「語る事は許されていません」
「だろうな。調べる事も許されていない。例えトオサカに男子が居たという記録が無くともな。君の保証は、君を知っているであろうロード=エルメロイ二世が立てている。本来であれば、口を挟む事ではないが。正直に言って、例え一月でもルヴィアの傍に君が居るのは不安だ。叶うなら今すぐにでも排除したい」
「それはどのような立場で仰る?」
「もちろん、個人としてだ」
「その心中はお察しします。私は得体が知れないでしょうから。ですが、ルヴィア様と交わした契約は正規のものです。それでご納得頂くより他は無い」
「決闘を申し込む、と言ったらどうするかね?」
「お受け出来ません。よくお考えください。暫定とはいえ私はエーデルフェルトの従者です。主の許しなく、主の交際相手と刃を交わすなど、出来よう筈が無いでしょう」
「個人で来ているのでは無かったのか」
「確かに。では、こう言い直します。決闘を受け入れ、私が閣下に敗北し、時計塔を立ち去るとします。その結果、主が閣下をどう思うか、それが分りますか? 交際相手の従者に喧嘩をふっかけた、それは閣下にとっていい話では無いでしょう。格下に勝って当然、大人げない。なによりトリスメギストス家の当主が、エーデルフェルト家の当主を差し置いて無視して、その従者に決闘を申し込んだとなれば、主からしてみれば蔑ろにされたも同然。侮辱されたと怒るでしょう。それは閣下にとっても良い展開では無い」
「君は政治家向きだな。見事、私を封じてしまった」
「質問をしても良いでしょうか」
「構わない」
「当主同士、これは悲恋ですよ?」
「エーデルフェルトを背負う覚悟はある」
「閣下。無礼を承知で言います」
「分っている。言うは易し、行うは難し。証を立てよ、と言うのだろう? だが今の関係を解さねば話が進まない」
「なぜそこまで執着なさいます」
「ルヴィアと初めて会ったのは、時計塔に入学し一ヶ月後の事だ。時計塔内の有力者を集めた社交界があった」
「一目惚れですか?」
「いや、違うな。私にとってはルヴィアは数ある中の一つだった。エーデルフェルトはルネッサンス中期から始まっているが、その格は私にとってそれなりだ。大した美貌だが珍しくは無かった」
む、と内心不愉快になる真也であった。だものでその発言は多少棘を持っていた。
「でしょうね、トリスメギストス家の発祥は紀元前ですから」
「それはヘルメス文書が書かれた年代だ。我が祖神ヘルメス=トリスメギストスの発祥はBC三〇〇〇年にまで遡る。エジプト初期王朝時代だ。くだらない女に言い寄られ、辟易していた俺は交際する振りをしないか、そう申し入れた。くだらない男に言い寄られ難儀していたルヴィアは快諾した。俺たちは利害の一致を得た、と言う訳だ」
「であれば何故です」
「分るだろう。あの気性の荒さだ。俺を尊重などしはしない。偽りのデートの間ですら言いたい放題であった」
「そうでしょうね」
「ある時だ。等々我慢出来ずに無礼なと対峙した。俺が差し向けた死を前にしてすら、ルヴィアは退かなかった。一歩たりともな。ルヴィアは宝石を片手にこう笑ったよ」
“殺すなら殺しなさいな。言う事を聞かない女に腹を立て殺した。この事実を背負う覚悟がおありなら。不敬か、不名誉かの判断は暇な歴史家に任せましょう? もっとも、対価としてその片腕は頂きますが”
真也は表情を殺すより他は無い。ただ苦悩は十二分に見て取れた。
(何故だろ。その状況が克明に浮かぶ)
「俺は初めて負けたのだ。それからだ私が変わったのは。初めは小さな芽だった。そう、予兆のような物だった。それが弾けて恋の華となった。その時俺の世界は変わった。違う、俺は生まれ変わったのだ。それがルヴィアなのだよ。俺はルヴィアにモロモロだ」
「メロメロ」
「そう、その通りだ。俺は生まれて初めて恋という物を知った。これがルヴィアに執着している理由だ」
それは真っ直ぐな想いだった。“めっちゃ好感が持てる”というのが真也の偽らざる感想である。自分が如何に汚れているか、見せ付けられている様だった。
「いて、いててて」
「どうかしたか? 突然胃を抑えて」
「いえ、私は過去に過ちを犯しまして」
「過ち?」
「とある女性に酷い事を」
言うまでも無く虚偽の告白だ。
「彼女は許してくれたのか?」
「ええ、まあ」
「では何時までも、引っ張るべきでは無いだろう。彼女のためにも胸を張りたまえ」
「いててててててて」
真也がウンウン唸る事しばらく。ヘルメスは躊躇いの後こう切り出した。
「ものは相談だがトオサカシンヤ」
「はい」
「手を貸してくれないか」
真也は“えー”と言う不満を飲込んだ。
「お言葉ですが、閣下。私は従者、主の意向に沿わない行動はできません」
「分っている。そこを押して頼みたい」
「何故です。私で無くとも良いでしょうに。そもそも女性の扱いが達者な閣下に助言など」
「見苦しい事は重々承知している。だが、ルヴィアは私に心を開いていない。君と違ってな」
考えすぎだと、真也は否定しようとしたが。でなければ例え従者であろうと懐に入れよう筈がない。真也は渋々こう切り出した。
「閣下はどの程度、譲歩されますか? 入り婿は候補になります?」
「それは男子のする事では無い!」
突然の雷に真也は謝った。失態である。
「尊位を持つお方なら当然の考え方です。無知をお許し下さい」
「……いや、俺こそ済まなかった。ルヴィアの事となると、冷静で居られないのだ。芸術は長く、人生は短い、わかるかね?」
「人生は短いから芸術〈ルヴィア〉を手に入れる事に励むべき、ですか?」
「うむ」
(元意のヒポクラテスを持ち出すのは良いけれど、苦しくないか。その用法)
「あの美しさは神細工。そう、まるでエリザベート皇后のようだ」
「ハプスブルクの、ですか? 閣下。それは口にしてはなりません」
「何故だ。美女と名高いかの姫に例えたのだぞ」
「比較される事を主はとても嫌います。褒めるのであれば絶対基準でするべきです。主に相対基準は破滅です。例えクレオパトラであろうとも、ヘレネであろうとも」
「経験があるのかね?」
「いえ、そうするという確信があります。自尊心が強いお方ですので」
「君は、やはり」
「いえ、〈ある意味〉特定の人が居ますから」
「そうか」
むぅ。真也は暫く考えた。
「よろしい。ここで突っぱねるのも情がありません。念を押しますが閣下。私はエーデルフェルトの従者、それに反しない限りという条件が付きますが、及ばずながら尽力を尽くしましょう」
「おお! 頼もしいぞ!」
(“今日こそ良い返事を聞かせて貰うぞ”といい、“頼もしいぞ”といい、その手の劇調セリフを生で聞く事になろうとは……)
真也は気恥ずかしさで頬を掻いた。こう続けた。
「トリスメギストス様、見苦しいなど自嘲なさいますな。もし閣下を笑う者が居るなら、私が叱りつけましょう。射止めたい女性に必死になる、少なくとも私にとって閣下の純粋な想いは動機に十分です……いてててて」
◆◆◆
計画目標は明確だ。ルヴィアとの関係を一歩進める事である。であるならば、最初の一手は現状判断だ。真也は目の前の御曹司を失礼だとは思いつつ値踏みした。
・花束を贈る気遣いはある。
・目下にも態度が丁寧だ。身分があるので横柄で無ければ良いだろう。
・笑顔を絶やさない、目を見ながら人の話をしっかり聞く。
・言葉遣いや抑揚に威厳があり、笑顔に見える歯は真っ白で美しい。
・身だしなみは申し分ない。
そしてヘルメスの携帯が鳴った。
「済まない。失礼する」
「どうぞ」
・携帯電話が鳴って出てもいかと確認する。マナーも問題ない。
「パーフェクトです、閣下」
「当然だ」
(何が不満やねん。あのお嬢様)
水タバコを進められ、断るのも失礼だと、しぶしぶ吸えばゴホゴホ咽せた。真也は涙目でこう言った。
「極論ですが、女性は特別扱いをされたい願望を持っています。それに関し閣下に隙はありません。ですから攻め方を変えましょう」
「具体的に言ってくれないか」
「男らしさ&ワイルドさを見せると言うのが定番かと。私の所感ですがルヴィア様は恋愛経験は少ない様です。知らない世界に案内し興味を惹きつつ、持て成すと言うのがベターだと。ですが閣下もルヴィア様も貴人でいらっしゃる。豪邸も乗馬もテニスも大した効果を持たないでしょう。何かありませんか? 主が知らなさそうで、閣下がお得意である事」
「トオサカシンヤ」
「何でしょうか」
「君は旅をしてきた、そう言ったな。バックパッカーか?」
「それがなにか?」
「ワイルドだな」
「閣下も十分にエキゾチックかと」
「強引にルヴィアの手を取り、レストランに引き入れ、異国の料理〈ナンカレー〉を手づかみで食べる所を見せたとか」
「……よくご存じで」
「ルヴィアから聞いた」
(お、お嬢さまー。仮初めとはいえ交際相手になに言ってるんですかー)
「依頼も機転を利かせ見事解決したとか」
「主の助力があってこその事でした」
「君は私の持たぬ物を持っている様だ」
「……私はそもそも土俵に乗っておりません」
真也はコホンと一つ咳払い。
「そもそもお二方は高名な魔道の家の当主、という立場があります。偽りの交際、という形で初め約二年。その枠組みで収まってしまっています。まずそれを壊しましょう。定番ですがギャップ。意外なところを見せる、というのはどうでしょうか」
「君の説明は具体性に欠けるな」
「えーと。可愛い動物に弱いとか如何ですか?」
「軟弱な物は好かない」
「お酒が弱いとか」
「イスリムでは御法度だ」
「映画を見て感激の余り涙する」
「俺のイメージに合わない」
「甘い物に目が無い」
「落としどころか」
「よろしい。次の定期デートはスウィーツをテーマにしましょう。生憎と私は詳しくはありません。時間も余りありませんし、閣下の従者に聞かれるのが良いでしょう」
「上手くいくだろうか」
「弱気になってはいけません」
「流石に門外漢でな」
「気合いを入れる為にも賭けましょうか」
「賭け事は嫌いでは無い。何を賭ける」
真也は1ペンス硬貨を取り出した。
「上手くいけば閣下の勝ちです」
「皮肉か? その程度の価値しか無いと」
「とんでもありません。我々には十分で最も相応しいものです。他の者が見ればただの1ペンスですが、我々には重大な価値を持つ、痛快でしょう?」
「最も小さな貨幣が、俺の命運を分ける価値を持つか。これは俺にとって非常に重要な1ペンスだな」
ヘルメスは笑っていた。
◆◆◆
真也が居を構える集合住宅〈フラット〉は人種のるつぼだ。
「ナマステー」
そのアフリカ人の若夫婦は真也をブッディスト〈仏教徒〉だと思っていた。否定すれば翌日には「Assalam Alaykoum 〈アッサラームアレイクム〉」になっていた。ムスリムの挨拶である。宗教を持つと宣言する事は、どのような考え方を持っているのか言っている様な物だ。言い方を変えれば、無神論者は何を考えているか分らないと判断される。海外で無神論者の扱いはお世辞にも良くない。嘘でも答えて置いた方が無難だ。だもので彼は神道と適当に答えた。白人男性のカップルも居た。フランス、ドイツもそうだがイギリスでもゲイは市民権を得つつある。
「Hellow♪」
人当たりが良いのが悩ましい。だが生憎と美少年とは限らない。中年でハゲていて、毛深い筋肉質というのが現実である。弁護士、医者、大学教授、とかくインテリ層に多い。閉鎖的な時計塔も例外では無いのだろう、真也はそんな事を考えた。ジョナサン=スコットはどうなのか、真也はそれを考えるのを止めた。アーチャーに無理矢理脱がされ、着せ変えられたのは忌まわしき記憶である。ただ。少女の様な容姿を持つジョナサン=スコットをゲイという枠組みに入れて良いのか、真也には分らなかった。
真也の家は欧州でよく見られる、風呂、トイレ、洗面台が一つになったユニットバスである。風呂と言っても浴槽はなく、半透明のビニールカーテンで仕切られたシャワースペースのみだ。電気瞬間湯沸かし器式〈エレクトリックシャワー〉と呼ばれる給湯器にて湯を浴びるのだが。水圧が弱くチョロチョロとしか出ない。
「あー、地中海はよかったなー」
彼はトルコを抜けてからはギリシャに入り、そのまま北上するルートは避けて、ギリシャから海路でイタリアに入ったのであった。北上すると、アルバニア、ボスニア=ヘルツェゴビナ、クロアチア、スロベニアとと小さい国が続くからである。単に、入出国の手続きが面倒だったのだ。イタリアに入ってしまえば、フランス、イギリスと一直線である。聖堂教会には絡まれなかったが、マフィアに絡まれたのはここだけの話だ。ゴシゴシと濡れた頭をタオルで乱雑に拭えば、フローリングの床には髪から滴った雫が落ちていた。
“兄さんはだらしないです。ちゃんと拭かないと風邪引いちゃいますよ”
義理の妹との昔からのやりとりだ。今にして思えば、義理の妹との繋がりが欲しかったのか、単にだらしなかったのか、甘えていたのか、良く分からない。ただ言える事は、一人なら一人でどうにでもなった、と言う事だ。もちろん誰かに拭いて貰うという行為は、この上ない喜びだと分った事でもある。
部屋のTVは保守党が第一党になった、と報道していた。BCCであった。時計塔上層部は表向き普通の貴族という者も多い。当然保守派である。これで時計塔も暫く安泰だろう、真也がそんな事を考えていると、ノックが四回なった。ノック二回はトイレの合図なので注意しなくてはならない。正式は八回だが日常的には四回で済まされる。
誰だと、思った真也が鍵を開け、扉を開ければ見知った女性二人が立っていた。グレイとルヴィアだった。“おや、珍しい組み合わせですね”と言おうとした目の前の二人は固まっていた。これは一体どうした事か。その固まっていた二人の表情は歪み始めた。瞳も大きく開いていた。その視線は真也の下半身である。ライトグレーのボクサーパンツのみだ。
「あ、しまった」
頬を真っ赤に染め、怒りを堪えたルヴィアは、盛大に彼を引っぱたいた。余談だが今を遡る事三年前。彼の義姉が同じ状況に陥った時、彼女はガンドをぶっ放した。ただ、当時彼女は十七才。三年という年齢差は考慮するべきであろう。真也は暇を五分貰い、身繕いを整え、謝罪の後、改めて二人を招き入れた。
「インスタントですがどうぞ」
左頬をパンパンに腫らした真也が二人に出した物は、コーヒーの収まった白いマグカップであった。もちろん前の住人が置いていった物だ。洗浄済み、呪いも無い、問題ない。グレイとルヴィアの二人はダイニングテーブルに並んで腰掛けていた。相対し二人を見据える真也は対照的な二人だな、そんな事を考えた。先陣を切ったのはルヴィアであった。
「外観と違って部屋の内装は割と作りの良い部屋ですけれど、どうして七階建ての最上階に居てエレベーターがありませんの?」
「古い建物だからですよ。登り切った後で買い忘れに気がつくと凹むんです」
「何故新しい物件にしなかったのか、そう聞いています」
「家賃が高いじゃないですか」
「住宅補助は出していますでしょう?」
「来客ってのは全く想定していなかったものですから」
「エーデルフェルト家の従者としての自覚が足りませんわね。シンヤ、もっと上等な家に越しなさい。私の顔に泥を塗るつもりかしら」
「分相応ですよ、ルヴィア様。それより何用ですか。グレイさんと一緒とは珍しい組み合わせです」
グレイは鞄を漁りだした。
「師匠から聞いていると思いますが、」
彼女が差し出したのは書類とスキットルだ。スキットルとはアルコール濃度の高い蒸留酒を入れる金属缶だ。使用される材質はステンレスか銀、もしくはチタン。彼のはそのチタンを使っていた。真也はスキットルを嬉々として受け取った。書類は相応の表情だった。
「わざわざありがとうございます。言って頂ければ取りに行ったのに」
「理由は二つです。師匠が“明日中に提出しろ”と。そしてこの家に電話がありませんから」
「なっとく」
「その途中レディ=エーデルフェルトに捕まって、同行という流れです」
「従者の生活態度を調査しに来ただけですわ」
「私めプライベートにに関心を持って頂けるとは感謝感激ですよ、ルヴィア様」
「シンヤ、その自惚れは直すべき悪癖ですわね」
妙なやりとりにグレイは首を傾げた。
◆◆◆
ルヴィアはグレイが持ってきた真也のスキットルをじっと見る。
「日常的に呑んでいるのではないでしょうね」
「気付けですよ。消毒にも使いますが」
「なんですの、この槍で突いた様な凹みは」
「秘密です」
「それ位構わないのではなくて?」
「ルヴィア様は油断ならないお方ですから。一つ漏らすと芋づる的に見透かされます。その手は食いませんよー」
まったくと、不満を隠さないルヴィアを見てグレイはこう言った。
「お二方はどのような関係ですか?」
「勘ぐる様なその様な関係ではありませんわ」
「主従関係ですよ」
「とても仲が良さそうに見えます」
「ミス=グレイ。それ以上の発言は聞き咎めますわ」
「そうですよ。滅多な事を言う物では無いです」
ルヴィアの目が光った。少なくとも真也にはそう見えた。
「そう。トリスメギストス様に会った、と言う事かしら」
「いやですよ。何を仰いますやら」
「トリスメギストス様がシンヤを睨んでいる事は知っています。それに気がつかないシンヤでも無い。リバプールの時あれだけ慎重かつ用心深かったシンヤなら事前に手を打つ、そう考えるのが自然ですわね」
(鋭い)
ここまで見透かされた以上、誤魔化すのも上策では無い。真也はしばし躊躇った後こう切り出した。
「分を弁えない行動だとは思いましたが誤解はトラブルの元です」
「何を話したのかしら」
「それは男同士の義理と言う事でご容赦のほどを」
「私との約束は尊重するべき価値は無いと?」
「そんな事言ってません。立場によって尊重する物は変わる、と言う事です。閣下とは対等の男同士という立場で会いました。ルヴィア様の従者であるこの身に性別はありません。精神的な意味で。その違いです。ですが、ご心配なされますな。ルヴィア様の不益になる行動は、神に誓って……えーと。家名に誓って致しません。万が一、閣下が手を上げようものなら、その時は汚名を着ようともお守りいたしましょう」
「言いなさい」
「俺の話聞いていますか?」
「言いなさい」
「言えませんったら」
「言いなさい」
「ですから」
「言いなさい」
「あの、」
「言いなさい」
「……」
真也は考えた。別に口止めされている訳ではない。男同士の連帯的な価値観に基づきそう判断したまでだ。だがよく考えてみればヘルメスが悩んでいる事はルヴィアも知るべきであろう、そう考えた。
「個人の立場を取らせて頂く事になりますが、それでも宜しいですか?」
「言いなさい」
「レディ=エーデルフェルト。閣下の事をどう思ってる?」
グレイはごくりと唾を呑んだ。突然舞い込んだ恋愛事情に彼女は興味津々だった。
つづく!