「タッチィィ!!!」
「……!」
閑静な住宅街の公園に、男の情けない雄叫びが響き渡った。
男――迅の両の掌が、とうとうゼットンの両肩に覆いかぶさったのである。約五分間の激闘の末、彼は
(抑えられてるとはいえトリオン体なんだからな……!!!これくらいアリだよね!)
ぽけーっとしたゼットンから手を退けた迅は、膝に手をついて自己保身の苦笑いを浮かべ、静かになった子供の方を振り向いた。
「負けた〜!!やろうめ!おとなげねー!!」
「お兄さんかっこよかったよ〜!!」
「……負けちゃった」
二体一で敗北していた。試合で勝ったが勝負に負けた。まさしくそんな状況であった。迅は、未だかつてない気分に襲われた。
「負け……」
そして、この経験はまた、ゼットンにとっては初めてであった。
その時、
「あーっ!!」
鼻垂れ小僧が指を刺したのは、公園の薄汚れた公衆トイレの隣に立つ、ガラス板に年季の入った時計。
その針は、午後2時を回ろうとしていた。指をさした本人は、チクチクの坊主頭を抱え、
「お母ちゃんとの約束!!おれ帰る!!!」
と、その場で焦ったように腿上げをした後、公園の出入り口の方へあっという間に駆けて行き、ふと、後ろに振り返って、
「またあそびにこいよ!!やろうにおねーさん!!!」
そんな捨て台詞を残した彼は、律儀に左右を確認した後、煉瓦造りの歩道を飛び越え、車道に飛び出して行くのだった。
「……」
残された四人を取り巻く雰囲気が、急速な冷え込みに襲われた。
「ならあたしもかーえろっ」
と、ドライな反応を見せてスタスタと出入り口の方へ向かう女の子を他所に、物静かな風貌の男の子は、ゼットンと出入り口を視線が右往左往。
「ま、また来る……?」
その幼い表情は、トマトのように真っ赤に染め上がっていたのである。
そんな熱視線を受けてなお、ゼットンは一部の動揺もなかった。
「あなたがそう望むなら」
凍った表情から放たれた言葉に、見上げていた子供は首を傾げた。
そこへ助け舟を出したのは、まるで中学生男子のような腹立たしい笑みを浮かべた迅であった。
彼は腰を落として同じ目線になり、手で口元を隠しながら、真っ赤な耳へ顔を近づけ、
「お姉さんまた来るって!」
その瞬間、まだまだ未熟な心に多幸感の炎が灯って、彼の胸を打つのだった。
「ば、ばいばーい!」
そう言って、遠慮がちだったのが嘘のように、気分よさそうに手を振った男の子は、スキップで鼻歌混じりに公園を後にした。
あれほど騒がしかったというのに、子供心というものは、えてして情熱的で、呆気ない。
「……鬼ごっこで落とすとは」
「?」
そして、ゼットンもまた、憧れに程近い甘酸っぱさをよく理解していない、いたいけな少女であった。
「うぁー冷える冷える……お前は、大丈夫か」
お天道様が少し西に傾き始めた頃に、少し道幅の大きい通りを進んでいた二人組の一人、迅は、隣合う黒髪の少女、ゼットンを見やるが、それは杞憂であった。
しかしその実、ゼットンの脳内では、公園での出来事が延々と尾を引いているように思えていた。
「……」
彼らの瞳は、彼女が今まで見てきた人間の中で、最も光り輝いているように見えたのである。
それは、人を照らすだけでなく、焼き尽くさんばかりに強い輝き。
「……子供」
「……?」
噛み締めるように呟いたゼットンの方を、迅が不思議そうに覗き込んだ。
「迅にも、あのような時期があったのですか」
「そりゃぁそうだけども」
「……」
ゼットンは、迅の青い瞳に、透き通る琥珀色を向けた。
彼の瞳は、上空の白んだ青色に比べて、幾分かくすんで見えた。
「何々、迅さんに見惚れちゃった?」
「はい」
「えっ」
彼女は、迅の瞳の方が、子供の光り輝くものよりも、より柔らかな暖かさを感じたのである。
「……」
ゼットンは、おっかなびっくりな様子の迅を無視して、自身が経験していない事を思い起こして、思わず、電線の交差の奥の青を見上げた。
「ここは……」
しばらく歩いて、カラスがゴミ袋を突いているような道端、その光景に、ゼットンの記憶が刺激された。
そこは、死んだような街路樹が立ち並ぶ、茶色の落ち葉が舞う、道幅の広い商店街。
「この先を抜ければ目的地に着くっておーい」
迅の説明も待たずに、ゼットンは足速に歩き出していた。
閉じたシャッターが次々と見切れていく毎に、ゼットンを突き動かす衝動はますます勢いを増す。
そして、もはや駆け足となっていた彼女の足は、白い、年季の入った商店街にしては浮いた、綺麗な商店の前に、急制動で止まった。
「……」
彼女の瞳は、先ほどの子供となんら変わりなかった。
ゼットンの足は、戸惑いなく店内に向けられた。
店内に入ってまず目に入るのは、ショーケースの中の金属パットに所狭しと詰められた新鮮な赤。そして、雪のように白い脂身である。
「いらっしゃー……」
そして、小さなレジの机で肘ついていたのは、恰幅の良い、気の良さそうな女店主。
彼女は、ゆっくりともたげていた顔をあげ、立ち尽くしているゼットンの顔を凝視。
「アンタ……この前のぴちぴちタイトな子!」
そして、パンと手を叩き、肉付きが良い顔を喜色満面に染め上げるのだった。
「背格好が随分変わったじゃないか!かわいいよ〜!……そういえば、アンタ名前は?」
「私はぜ……瀬戸、瀬戸です。
迅がそこへ追い着いた時には、女店主は身を乗り出して、ゼットンは見事な棒立ちで応じているのであった。
思わず、迅は女店主の方を見た。
(……!)
その時、「んー?」と、疑問を投げかけるような声が、迅の正気を引き上げさせた。はっとさせられた彼は、努めて自然な笑みを湛える。
「いらっしゃーい……」
「……」
店主は、店内にいそいそと入ってきた迅の姿と、迅の方を凝視するゼットンを交互に眺め、
「彼氏さん?」
「あぁいや、どちらかといえば保護者みたいなもんです……」
しかし、女店主は「ははーん」と、生暖かい笑みを迅へ送るのである。
一先ず愛想笑いで流した迅は、
「
「はい。初めて、私が会った人です」
「……なんだか訳ありって感じだねぇ」
二人の物々しい会話を聞いた店主は、しかし、あくまでも見守るだけであった。
すると、ゼットンはニット帽を取り、
「以前、私に振舞ってくれたコロッケ、美味しかったです。ありがとうございました」
ゼットンは、少し俯き気味になって言った。
平坦ではあったが、彼女が表現できる精一杯であったのだ。
惚けたようになっていた店主は、どこからともなく、くつくつと笑い始め、
「それなら、前も聞いたよ」
「しかし、あれは____」
「寧ろ、お礼言いたいのはこっちさね」
店主が振り返り、その視線の先にあった額縁にあったのは、一枚の写真。
目を凝らして見えたのは、一人の女性と隣り合う男性。そして、その二人の間を陣取る、逆光で顔が隠れた少女。
迅からすれば、それだけで想像するのが容易であったのである。
「このお店……他店と比べて新しいのは……」
顔を戻した店主の表情は、翳りの入った笑みであった。
「大規模侵攻で、ね」
店主は、徐に語り始めた。
「何故だか生き残ってしまったからねぇ……どうしても、この店を建て直さない訳には行かなかったさ、寂しいからねぇ……だが、ボーダーさんが守ってくれるとはいえ、ここは戦場のすぐそこだ。おまけに、こんな場所にはジジババしかこない。お金も無かったからここしか無かったんだよねぇ」
そう語った店主は、一つため息を吐き、
「昔はもっと活気があったんだがねー……だから、君らのような若いのが来ると、嬉しくなってしまうのさ」
店主は、底抜けな笑顔で、立ち尽くしていた二人の心を溶かしてやった。
噴き上がる水飛沫が、ダイヤモンドの煌めきを持って水面に落下し、激しい水音を上げる。
しかし、そんな音しか無い噴水の側のベンチに、迅とゼットンの二人は寄り添って座っていた。
二人の手には、温かな湯気を上げる、重みの入った包装紙が握られていたのである。
「……」
「……」
先に口を開いたのは、紙袋からコロッケの顔を覗かせるのを、金色の瞳で見つめたゼットンであった。
「あの方は、
迅は、何も言わずに、ガサガサと紙袋の中身を出して、一口頬張った。
別に行ったことがないのに、懐かしい味がする。
「あの方のお陰で、私は一番最初に人の暖かさを知ることができた。人に興味を持つきっかけとなってくれた人なのです」
ゼットンもまた、揚油のほのかな香りが立ち込めるコロッケに、小さな口でかぶりついた。
「しかし、私は、あなた方がいうところの
照りの入った、ゼットンの弾けるような唇は、まるで不安げなように見えるのであった。
「もし、あの人が私を
ゼットンは、妙にコロッケの味付けが薄いように感じていた。
「……」
その瞬間。
大地が、一瞬震えた。
「……!?」
一筋の黒い雷が、晴天から降り注いだのである。
その方向は、彼女達が先ほどまで歩いてきた場所。
「……イレギュラー、
二人の耳に、
「……ぁ」
ドン、と地面が振動し、迅はそれが、ゼットンが思い切り飛び上がったからだと理解した。
平然と立ち尽くしていた迅の視界に、商店街の廃屋の屋根に着地したかと思えば、すぐに姿を消したのが映っていた。
「……大丈夫さ、そんな君なら」
そう言った迅は、安心したような表情を浮かべているのである。
ようやく、ポケットの中からグレーのグリップ――トリガーを取り出し、彼は黒雷の方へ歩み始めた。