第十六話 異世界からの来訪者
乾燥した空気に枯れ葉舞い散る冬景色となり、ゼットンがこの世界に来訪してから、既に三週間が経過していた。
三門市において変わったことといえば、警戒区域外縁のとある寂れた商店街に、小さな子供の声が聞こえるようになったことぐらいである。
代わり映えのない、しかし、穏和な日々がこれからも続いていく。
三門市に住まう人々は、そう思い込んでいた。
しかし、新たなる来訪者の出現を皮切りに、三門市、ひいては世界に試練が齎されることになる____
眠るふりをして目を閉じることはできるが、脳は依然として冴えたまま。
徹夜で残っている者も少なく、物静かな開発室に響くのは、秒針が刻む音だけである。
そうして、無駄に7時間ほど浪費すれば、時刻は午前5時半、空が薄く白み始める時刻となる。
「……」
緩慢な動作で立ち上がり、胸に紙の乾燥した匂いを満たし、吐き出す。
尻についた埃を払った彼女は、黒いフード付きジャンパーの襟を正し、抜き足差し足移動し、書類だらけのデスクに突っ伏している
瀬戸がボーダーに入ると知るや否や、仮に瀬戸が大暴れした時の抑止力を開発するために心血を注ぎ、ついには“熱核エネルギー変換生体器官”の一端を掴むに至った彼でさえ、やはり人の子なのである。
寝ている時ですら険のとれない鬼怒田の寝顔を確認し、瀬戸は開発室の扉の前に立つ。そうすれば、センサーが反応し扉はスライドする。
そして、ひんやりとした雰囲気の通路に出た彼女が向いた方向にあるのは、食堂である。
“熱核エネルギー変換生体器官”を備えている彼女にとって、食事はほぼ無意味な行為である。ただ、同時に味覚も備えていた彼女にとって、食事は数多くの娯楽の一つであった。納豆とケーキはトラウマになって今は食べれないが。
「……」
広い間取りの中に理路整然と丸い机、パイプ椅子が並ぶ人のまばらな食堂に出ると、彼女の鼻腔いっぱいに、ふわりと飯の香りが入ってくる。人ならばお腹が早くしろと催促してくるが、生憎、彼女の腹は反応を示す気配が無い。しかし、興味を誘うには十分である。
ふらりと注文受付の場所へ向かうと、無気力な店員が気だるい挨拶で迎える。メニューは主食に主菜、副菜、汁物、その他諸々と分かれており、基本の四つ全てを選べば割引価格となる寸法である。
白飯、焼き鮭、たくあん、味噌汁を頼んだ彼女は、パンパンに太った財布から紙幣を出し、釣りの小銭と呼び出しベルを受け取った彼女は、振り返った瞬間、手招きをしている顔ぶれを見つけた。
ブリッジ部のないサングラスを頭にかけ、青いジャージ状の隊服を身につけた、軽薄そうな青い瞳の男である。
「随分馴染んでるなぁめぐりちゃん」
対面に座るやいなや、男――迅悠一は、気さくな調子で話しかける。
「加古さんの炒飯でダウンしたって聞いた時は驚いたし肝を冷やしたよ〜」
「二度とその話を掘り起こさないでください。不快です」
「あ、はい……」
無表情の中に、異様な触れ難さを覚えた迅はすごすごと身をひく。ピリリとした雰囲気を解いた瀬戸は、手の中に収まる呼び出しベルを見つめるだけであった。
そんな様子にも構わず、迅の口は回り続ける。
「ここ最近いろんな人と関わっただろう?どうだった?」
瀬戸は、呼び出しベルから目を離さずに、
「楽しい、そう感じていると思います」
「……!」
迅が見たのは、明らかに表情を柔らかくし、笑みを湛えた瀬戸の姿。
それは、触れたら壊れる硝子細工のような、儚い美しさであった。
「……」
朝からいいもの観れた、なんて頭で思っていても、案外顔に出ないものである。
迅は、雑念を振り払うように大きく咳払いをした。
「それなら良かった。……ところで、今日暇でしょ?」
「まぁ……はい」
急な切り出しに、少し上を見上げて今後の展望を並べてみるも、せいぜい自身の研究を行う寺島や鬼怒田の手伝いぐらいしか思いつかなかった彼女は、そう呟く。
それを見た迅は、満面の笑みで机に身を乗り出し、
「ならさぁ、迅さんとまたお出かけしない?」
青い瞳が金色の瞳と交差する。
すると、意外なことに、金色の目が半眼と化した。
「それは、ナンパというものなのでは」
「あら、君も日々人間を学んでいるというわけか……」
「行きます」
「あぁ行くのね……」
迅は、何故だか一喜一憂させられていた。
警戒区域の廃墟群と、整備されひび割れ一つも無い道路が隣り合うような立地に立つ、入居者がいた気配もない古びたアパート。
その屋上に、一人の白髪の少年が立ち、幼い風貌からは考えられないほど達観した表情で、警戒区域の中心で威容を放つ、巨大なボーダー本部を眺めていた。
「アレが、親父とその仲間がつくったものか」
赤い瞳は、満足したように、死んだように眠るボーダー本部から、幾分か人の気配を感じる街並みへ向ける。
「さて……がっこうとやらに行かないと……」
ふと、その少年は携帯電話の示す時刻を確認し、その瞬間、
「やべっ!」
達観した表情を、年相応に焦りに染め上げた。
「急がんとな……」
あたふたとしながらも、少年の小さな体は冷静に、二階建てのアパートから
「えーっと……信号は、赤で止まるんだよなー」
そして、肩に下げたスクールバッグを片手で押さえ、俊敏に駆け出した。
それは、物語の始まりを告げる足音であった。