小倉百人一首 第参拾八番
忘らるる 身をば思はず 誓ひてし 人の命の 惜しくもあるかな
右近
人間忘れられてしまうほど哀しいことはありません。
ええ、それ以上ことはありゃしません・・・しくしく。
そうあれは今日のあさというか、ほんの二、三分前のこと。私は今年クラスが離れてしまった『親友』が目の前を歩いていることに気がついて声をかけたのですよ。
「祐巳さん、ごきげんよう」
そう我が校のシンデレラ、去年紅薔薇の蕾、つまり現紅薔薇さまの小笠原祥子さまに見初められて、妹となった祐巳さん。そりゃあ、親友の私としては鼻が高いわけですよ。
でも祐巳さんは、そんな私にこう言い放ちやがりました。
「ごきげんよう・・・誰だっけ?」
はい、そうまったくの笑顔でそう言ったのデスよ。そうですか、スターは素人のことを覚えていない、と言ったのはたしかに私ですよ、でもひどすぎやしません?しかも素ですよ。素で忘れてんですよ。チクショー。
でも、忘れているなら思い出させればいいのです。私はこれぐらいでめげません、こういうことは慣れてますから。
「ほ、ほら、祐巳さん、去年までクラス一緒だった、桂、ね?」
「あー、桂さん!!」
トレードマークの二つ結びがぴょんと跳ねて、私のことを思いだしてくれたみたい。うん、こんなに簡単に思い出してくれるなんて、やっぱり親友だよね。
うんうんと、私が感動して涙がほろりと出そうな時に祐巳さんがこう言いました。
「名字のない桂さんだ!うわぁ、懐かしい」
―――涙がちょんぎれました。
桂です。名字ぐらいあります・・・・・・。
了
小倉百人一首 第四拾六番
由良のとを 渡る舟人 かぢを絶え ゆくへも知らぬ 恋の道かな
曾禰好忠
なんでこんなやつを―――。
隣に座って、きざったらしくカクテルを口に注ぐ男。
(ほんとにキザなやつ)
こんなハズじゃなかったのに―――。
自分は野暮ったいグラスに満たされた、野暮ったい水割りウイスキー。一口呑めば、その茶色い液体に野暮ったい自分の顔が映った。
(なんでこんなやつのせいで私がこんな野暮ったい顔をしなくちゃいかないのよ)
いったい、何で―――
「どうしたんだい?たまに祐巳ちゃん抜きで会ったら無視かい?」
「うるさい。銀杏王子、なんで貴様がここにいる?」
私はそれしか言えない。抜けているようでどこかで鋭いこの男に、これ以上喋ればぼろが出そうで。
「相変わらず、ひどいなぁ、僕はここの常連なんだ」
私はそんな軽口を相手にしない。そんな余裕もない。
(祐巳ちゃんがいれば、なんとか凌げるのに)
その姿を探しても居るわけない。というか、店員とこの男以外、今店の中にいない。
仕方ない。私は黙りを決め込むことにする。すると、隣の男は返してこないことに多少怪訝な顔をしただけで、これ幸いとグラスのほうを楽しみ始めた。それはそれで腹が立つ。
くそっ―――
心の中で罵ったが、誰に、なんのために罵倒しているのか見当がつかなかった。
否。分かっていて、認めたくなかった。
――――――――――なんで、こんなやつに恋してしまっているのよ、私は?―――
それを認めたくなくて――
ここから逃げ出せなくて――
そして、この場から逃げたくなくて――聖はウイスキーを一気に飲み干して酔いに逃げることにした。一滴もなくなると間髪入れずに同じ物を注文して一気飲みにした。
そうして、一時凌ぎにしかならないと知りながら。ふらふらする世界へと耽溺していった。
―――どうなるのよ、ほんとに・・・・。
目先の不安を残しつつ・・・・。
了
小倉百人一首 第四拾番
しのぶれど 色に出でにけり わが恋は ものや思ふと 人の問ふまで
平兼盛
「祐巳さん、祥子さまとデートでも行くの?」
「なんで知ってるの?!」
朝一番、その開口一番、つまり「ごきげんよう」の挨拶の前、由乃さんにそう訊ねられて、淑女らしくない大声で驚いてしまった。目を丸くするクラスメイト達が一斉にこっちを見ている。―――ん?「見ている」?
由乃さんは「何でもありませんのよ」という風に微笑んだ後、祐巳に向き直って呆れたように、
「あれだけほくほく顔をしていたら、どんなに鈍い人でも分かるって」
と言った。
百面相という異名持つ私は、これでも必死で表情に出ないよう隠していたのに・・・・。
それを由乃さんに言うと「あれで?」と逆に驚かれてしまった。
ちょっとショック・・・・。
それでも朝のことを思い出すと嬉しくなる。
朝、駅でバスを待っていると、たまたま姉さまと会ったのだ。その後、バスから降りて、マリア様へと向かう銀杏並木の途中でお姉さまがこう言った。
『祐巳、今度、私のジーンズを見立ててくれないかしら』
『え、え?お姉さま?』
見立てるって、お姉さまそんなにジーンズをお買いになったのですか?私がそんなこと思っていると、
『一緒に買いに行きましょうと、私は行っているのだけれど』
と、私が思っていたことを見透かしたように笑って付け足して下さった。
それよりも「一緒に買いに行きましょう」って、それって、つまり・・・
『デートですか?!』
『ええ、まぁ、そういうことね』
その後、思わず飛び跳ねてしまい、お姉さまに窘められてしまったが、もうそれすら嬉しかった。
「祐巳さん、脳味噌溶けたような顔しているわよ」
「へ?」
その由乃さんの指摘で私は現実に舞い戻ってきた。
「まるで嬉しい顔だけを菓子箱に詰め込んだような百面相。祐巳さんわかりやすすぎよ」
う、そんな顔していたの?
すると、由乃さんはともかく、いつの間にカメラを持っていった蔦子さん、やはりいつの間にか横でメモを取っていた真美さんが頷いた。
それだけではない。周囲のクラスメイト達までもこくんと首を振ったのが、ちらほらと見えた・・・
「って、ずっと見られたの?!」
思わず叫んで立ってしまって、クラス中、いや扉が開いていたので廊下までもの視線を集めてしまった。そのまま、私は恥ずかしいやら、やっぱり嬉しいやらで、机に突っ伏してしまった。シャッターの音と、ペンが紙をこする音と、笑いをこらえる音が聞こえたが、もう真っ赤な頬を隠すのが精一杯で気にはならなかった。
この後、廊下であった桂さんと志摩子さんにも、薔薇の館の前であった乃梨子ちゃんにも、さらに帰りにあった聖さまと家で祐麒までもに、同じことを訊ねられて自分のわかりやすい性格を本気で呪うことになった。
でも――――お姉さまとのデートは楽しかったから、良かったかな。
おまけ。
その日の午後、三年生の階廊下。
「祥子、祐巳ちゃんとデート行くんだって?」
「何で令が知っているの?」