俺達は同じ道場で育った同胞だった。
生まれは人族の多いそれなりに大きい街で、周りを見れば裕福な人間ばかり。同じくらいの歳の子供が綺麗な服を着て"学校"というところへ行っている間、俺がやっていたのはゴミ漁り。クソみたいな父親とクソみたいな母親の元で生まれて、生きていくために仕方なくそんなことをし始めて、何が楽しいのかも分からないような話ではしゃいでいるガキ共を見ながら腐りかけのパンを食らう。今考えればもう少しやりようはあったのかもしれないが、当時の俺にとって大人は敵で、子供は馬鹿で、世界は憎悪と苦痛に溢れていた。
野良犬同然に生きている俺のことをわざわざ目の前に来て笑い、憂さ晴らしのようにボコボコにして去っていく奴等がいた。ゴミを漁って生きている俺に嫌悪感を抱き、自分の子供に近付かないように注意しながらも、心のどこかで嘲笑っている奴等がいた。救いの手を差し伸べるふりをして、そのまま何処かに売られかけるようなこともあった。
もしかすればその中に、本当に俺を救い出そうとしてくれた人も居たのかもしれない。今ならそう思うこともできる。しかし当時の俺にそれを受け入れることが出来たかと問われれば、今でも無理だと断言してもいい。
そもそも初めて知った大人が自分の両親だ。そして次に知った大人があんな奴等だ。小さな人間は頭が悪く、大きな人間は自分の敵。この世界にはそんな奴等が溢れていて、生きていくにはあいつらと戦うしかない。あの輪の中に入ろうなどと、一度も考えたことはなかった。羨ましいとすら思える土壌が無かった。ただ怒りと憎しみと恐怖だけが心の内には存在していて、近付く奴等全員に牙を剥いていた。
そんな生活に変化が起きたのは14の頃。
元より身体だけは丈夫だった俺は、体格も食事の割には大きくなって、喧嘩で負けることもなくなっていた。街を彷徨く半グレを見境なく叩き潰し、そいつらが持っていた財布なり食料なりを奪い取る。散々に痛ぶってくれた大人達を探し出して、何度も何度も顔面を床に叩きつけてやった。そんなことを続けていれば当然に探索者崩れや街の衛兵に狙われることにもなったが、正直に言えばカモが増えたくらいの感覚で。むしろ奴等から奪い取った武器やスフィアで、より手が負えなくなっていた。
このスフィア一つで何十日も食い物に困らない、むしろこれを使えばもっと多くのスフィアを奪い取ることが出来る。それを知ってしまってからは、むしろ自分の方から探索者崩れを狙うようになった。この段階で俺は街の人間全員の共通の敵になったそうだが、それこそ今更だろう。俺にとっては街どころか他の全ての人間が自分にとっての敵だったのだから。味方など居たことも作ったこともなかったのだから。そういう人間と出会うことも、認識したこともなかったのだ。
……だから、きっと。
当時の俺を止めるために、"彼女"のとったその行動はあまりにも的確だった。
『これで満足?』
『……………』
負けた、完膚なきまでに。
その日は雨が降っていた。
いつものように大橋の下で10人程の徒党を組んで襲って来た威勢の良い半グレ達を叩き潰し、その頭を名乗っていた男を必要以上に殴り付けていた時に、その女は現れた。
『やめなさい!!それ以上したら死んでしまうわ!』
「?」
なんだこいつは?と、
なにを言っているんだ?という疑問。
別に殺しはしない、殺してしまえば面倒なことになるという経験があったから。けれどだからと言って、ここまで殴り付けているのは自分が生き残るためだ。半端な仕置きで許していたら、こいつらは何も懲りることなくまた歯向かってくる。だからやめるつもりも、やめる必要もない。やって当然のことだ。足の骨を折って、許しを乞うても殴り付け、意識を失っても川に投げ込んで引き起こす。ここまでやっても足りない奴には足りない。それが14年間生きて来て学んだことだった。だからそれが分からないあの女は、なるほど馬鹿の1人なのだなと思った。だから構わず殴り続けた。そんな女の言葉は無視をして。
『だから!やめなさい!!!』
『………なんなんだお前は、お前も俺と喧嘩しに来たのか?』
自分よりも背が低くて、全然に弱々しそうで、小突いただけで吹き飛んでしまいそうな、そんな女。俺にとっての女というのは、集まってコソコソと何やら話しているかと思えば、こちらに向けて不快な視線を寄越し、殴り付けてやれば容易く吹き飛んでビービーキャーキャーと喚き出す。そんな不快で阿呆な存在でしかなかった。そんな奴等を守ろうと勇足で前に出てくる男共も阿呆にしか見えなかった。
それこそ稀に女の中にも強そうな奴等も居たが、正直に言えば良いスフィアを持っているカモという印象しかない。だが目の前のこの女はそのスフィアすら持っていない。正直何の価値もない。だから興味もない。面倒だから何処かへ行って欲しくはあったのだが、彼女は頑として譲ることなく、気絶した男に振り下ろそうとしていた俺の腕を止めに来る。
『この街には衛兵すら恐れる暴れん坊が居るって聞いたの。それってあなたのことよね?』
『知るか、いいからさっさと退け。お前もこいつと同じ様になりたいのか』
『退かない、私は貴方を止めに来たんだもの』
『何言ってんだお前……?』
『いいから、その人を降ろして。もう十分でしょう。それから私と来て、連れて行きたいところがあるの』
『……気持ち悪ぃ』
心の底からそう思った。
こういうことを言って来た奴はこれまでも多く居た。けれどそういう奴に限って真っ先に逃げる。一緒に雇って連れて来た探索者崩れ共を仕向けて、そいつらが負けたら真っ先に逃げ出すのだ。個人的に一番信用できない奴等だと思っていた。
……目の前の女は本当に一人でここに来たらしく、そこだけはこれまでとは違うが、だとしても本質は変わらない。1発2発殴ってやれば直ぐに逃げ出すだろう。金を出せば許してやるとでも言えば、今日の稼ぎも増えることだろう。
少なくとも、その時の俺の考えはそんなものだ。
それが覆ったのは、面倒臭くなった俺が胸倉を掴んでいた男を放り捨てて、その女の頬を軽く殴ってやった直後のこと。
『………は?』
気付けば俺の身体は宙を舞っていた。
そして逆さの格好で視線を合わせた女が、鋭い眼と共に発声と共に、右脚を振るう。
『ハッ!!』
『ぶっ!?』
空中で無防備な脇腹に突き刺さった本気の蹴り。
その細身からは予想もしていなかったような威力で放たれたそれは、俺のこの大きな身体をも容易く吹き飛ばし、空気が肺から強引に押し出されれような強烈な勢いと共に橋脚に向けて叩き付けた。
頭部から落下し、苦痛に悶えて蹲る。
怒りと共に睨み付けた女は変わらず鋭い表情をしていて、しかし右の頬だけは赤く腫らしていた。それでも迷いのない戦闘態勢。背中に背負っていた布袋から木刀を取り出すと、意外にもサマになっている雰囲気でそれを構える。
『……お前、覚悟は出来てんだろうな』
『ここに来た時点でそんなものは済ませてるわ。力づくでも貴方を連れて行くって覚悟だけど』
『訳の分かんねぇこと言ってんじゃねぇ!!』
近くに落ちていた質の悪い剣を拾い、女に向けて飛び掛かる。渾身の力を込めた一振り、それはただそれだけで岩をも叩き割るような威力のものだ。ただの棒を叩き付けただけで、そこらの半グレは骨が折れるし意識を失う。だから剣なんて使おうものなら、ほぼ確実に相手の命を奪うことが出来るだろう。別に命を奪わないのはその後が面倒だからであって、喧嘩の流れで死なせてしまったことは何度かある。他者の命を奪うことに今更なにかを思うこともなかった。だから加減など一切しなかった。
……していない筈なのに、当たらなかった。
一振り、二振り、何度振るっても当たらない。
いくら質が悪いと言っても鋼製の剣、本来は木刀などで防げる様なものではない。しかし女はそれをただ一度当てて身体を動かすだけで捌き避け、一瞬の隙を突いて反撃してくる。受けた攻撃は大した威力は無いにしても、仮にそれが自分と同じ鋼製の剣であった場合、間違いなく致命傷であったと断言出来るようなものばかり。お前の命などいつでも奪えるのだと言われているようで腹が立ったし、だからと言って現状では何の意味もないと余計に怒りを激らせて剣を振るった。究極、剣を持って来ていない女の方が悪いのだから。いくら反撃を食らったとしても、最後に立っていた方が喧嘩は勝ちなのである。この場に木刀などを持ち込んだ時点で、そもそもこの女は勝つ気がなかったということなのだから。
『っ!!』
『お前の木刀と、俺の身体……!どっちが先に壊れるか見ものだな!!』
少しずつ、少しずつではあるが木刀にダメージが入っている。当然だ、いくら捌くだけとは言え、対するのはこの俺の全力の一撃なのだから。ある程度のダメージを与えたら、スフィアを発動させて木刀ごとぶった斬る。それで終わりだ。勝ち筋は見えている。こいつも強かったが、結局はその程度なのだと。……正にそう、思った瞬間。
『ごふぁっ!?!?!?』
『そこ、鳩尾って言うのよ』
『おっ、前……ごグッ!?』
『いくら筋肉があっても、顎を叩かれたら辛いでしょう?』
『がっ……ぁぐっ……!!』
『そもそも……別に木刀なんか使わなくても、今の貴方に勝つことは大して難しいことじゃないわ』
ドゴンッ!!と、女の全身全霊の体当たりがフラついた身体に正面から打ち当たる。自分が知っている体当たりとは全く質が違うそれは、体格の全く違う俺の身体を、再度大きく吹き飛ばした。
顎を叩かれた直後から全身に上手く力が入らなくなってしまい、ロクな受身も取ることが出来ずに転がっていく自分。剣は手を離れ、情けないほどに無様な姿で這い蹲る。女は少しの息切れはしているが、大した怪我は全く負っていない。それに対して自分はどうだ。何発殴られた、立ち上がることは可能か、ここからまだ勝ち目はあるのか。懸命に腕に力を入れて立ちあがろうとするが、息は苦しく、鳩尾とやらを突かれた瞬間から吐く様な痛みが止まらず、身体は自然と丸まっていく。
『これで満足?』
『……………』
女はそんな俺の姿を見下ろし、腰に手を当てそう言った。
短く切り揃えた黒い髪、背後に浮かぶ月より輝く青い瞳。彼女は決して嘲笑するような顔はしていなかったし、その表情は最初からずっと変わらない。彼女は常に真面目で、真剣だ。これまで会って来た女の様に目線を逸らすことなく、その強い意志を持った青の瞳にむしろこちらが逸らしてしまいそうになる。まるで何かを見透かされている気がして。その目の前では嘘をつくことも憚れる気がして。
『……俺を、どうするつもりだ』
『私のお世話になっている道場に連れて行くわ』
『道場……?』
『剣術を学ぶところよ。剣術だけじゃないけど』
『……そんなところが、あるのか』
『ちなみに私がそこの1番弟子、だからこんなに強いの。納得した?』
『…‥なるほどな』
ニカッと、その時に彼女は初めて笑った。
それはそれほど不快な笑みじゃなかった。
そんな顔を向けられたのは、生まれて初めての経験だった。
だからその笑顔に連られて、自分も思わず口元が上がってしまったのも、驚きはしたが本当は人として不思議なことではなかったのかもしれない。より身体を丸めたのは、そんな自分の顔を隠すためだ。こんな反応をしたのもまた、生まれて初めてだった。自分の笑顔を隠すことなど、今日まで一度もしたことがなかった。
『……なぜ、俺なんだ』
『きっかけは、稽古相手が欲しかったから』
『?』
『道場ではもう誰よりも強くて、先生も滅多に相手をしてくれないから。だからこの街に強い人が居るって聞いて、その人のことを勧誘してみようと思ったの』
『………』
『色々と調べたら、貴方はずっと1人で喧嘩ばかりしてるって話だったからね。これはやっぱり道場に入れるべきだ!って思ったのよ』
『頭おかしいのか、お前……』
『ひどいなぁ』
『事実だろ』
本当に、なんて馬鹿げた理由なのだろう。
そんな理由のためにこの女はここまでしたのかと、普通に理解に苦しんだ。けれど彼女は構わず自分の話を続ける。蹲る俺の前に蹲み込み、出来る限り目線を合わせながら。先程までとは違い、優しげな顔で。
『だからこれは、勧誘の1段階目です。道場に来れば、貴方も私みたいに強くなれます』
『……2段階目は?』
『待遇の話』
『待遇……?』
『うちの道場はね、ちゃんと仕事をして成績を残すだけで、美味しい食事も安心して寝られる場所も保証して貰えるの』
『!』
『練習して強くなって、道場を綺麗に掃除して、他の道場と交流試合をして、偶にモンスター討伐の依頼を受けて……うん、それくらいかな』
『……意外と大変そうに、聞こえるな』
『うん、意外とね。でも、貴方なら出来ると思う』
『……どうして、そう思う?』
そんな俺の質問に、彼女は一瞬考え込んだ。
けれどその後に出てきた言葉は、それまでの雰囲気とは違ってなんとも間抜けなもので……
『なんとなく?』
『………本当に、なんなんだお前は』
『別に理由なんて何でもいいもの、私は単に相手が欲しかっただけだから』
でも、だからこそ良かったのかもしれない。
ここで少しでもまともな返答が返ってきたら、それっぽい答えが出て来たのなら、不要な疑いはより膨れ上がってしまっていたであろうから。彼女がこうして時々こちらが不安になってしまうくらいの間抜けな反応を出してくれたからこそ、失笑であっても笑ってしまって、ほんの僅かな心の緩みを突破口にしてくれたのだから。
『もういい、好きにしろ』
『……!ってことは!!』
『お前の話を聞いていたら、俺はこんな阿呆に負けたのかと情けなくなった。不意を付いて殴ってやろうとも思ったが、最早そんな気もない』
『嫌なら嫌って言えば引き下がるわ』
『違う、そうじゃない。……察しろ』
『?』
『お、お前は…………そこに行けば、俺はお前より強くなれるんだな?』
『!……それはどうだろうなぁ、私もたくさん努力してるしなぁ』
『本当に面倒な奴だなお前は。だったらそれ以上の努力をすればいいだけだ。……それに、ただ強くなるだけで美味い飯と寝床が貰えるというのが良い。もちろんお前の言っていることが嘘という可能性はあるが……そろそろここでの生活も先が見えなくなっていた頃合だ。近頃は飯の種になる半グレも減って来たからな、正直に言えば都合が良い」
『つまり?』
『……………………連れていけ』
『はい、よく言えました!』
『屈辱だ……』
笑う女、頭を抱える俺。
けれど。
……違う、そうじゃない。
別にそんなこと、どうだって良い。
生きていくことは簡単だ、奪えばいいのだから。
自分がされたように、仕返せばいいのだから。
だから半グレが減ろうが増えようが変わらない。
むしろこれは今より生き難くなる選択であり、率直に言ってしまえば面倒な選択肢を選んだ訳であり、きっと後から自分は苦労をして後悔するであろう道だ。だって別に強くなりたいなどと思ってはいないのだから。このままでも大抵の人間を叩き潰すことは出来るのだから。
だから、理由は、
わざわざ生き難い道を選んでしまった理由は、
この言いようのない焦燥感が疾る原因は、
『………俺は』
『ん?』
『俺は…………お前の眼が、好きなのかもしれない』
『……………?????』
分かっているとも。
分からないけれど。
それは今でも、ずっと……