「はぁ……」
小さな部屋の中に、ため息が一つ溢れる。
それは北西地区の比較的見目の良い住宅街の中にある借り部屋であり、それこそ昼間にリゼが契約した部屋と似た作りのものだ。
しかし内装はそれよりも少しだけ高級感があり、部屋の中も綺麗に整えられている。それこそ埃の一つも許さない程に徹底的に、その徹底振りには人によっては若干の狂気すら感じるだろう。部屋の主人の為に、主人の健康の為に。
「お疲れですか、エルザ様」
「ユイ……また少し面倒な案件が来たのよ」
「それはまた……ギルド長からでしょうか」
「いや、マドカ。ギルドの方にも話はいってるみたいだけどね」
「珍しいですね、マドカさんから直接だなんて」
机の上に置いた紙をユイに手渡し、疲れた顔を隠す事もなく肘を付いて返答を待つエルザ。最近はギルド長に色々と扱き使われていた彼女だが、漸く解放されると思った矢先に舞い込んだ一つの知らせ。
「……龍の飛翔の、再兆候?エルザ様、これは」
「わっかんない、ほんとにわかんない。そんな例外これまで一度も無かったから、普通なら戯言だと切り捨てればいいんだけど……情報提供者がマドカとなるとねぇ」
「マドカさんはこれを一体どこで……」
「あの子、商人も含めて顔が広過ぎるから。それこそ複数の目撃情報を個人で色々と取り纏めて出してるわ。明日の朝に"聖の丘"が調査に向かう予定よ」
「……兆候は、資料上では中間段階ですか」
「それが本当ならまだ1ヶ月は時間があるとして、どうやって誤魔化すかが問題ね。年に2度も都市成立祭なんて言い訳立てられない、気を引くための新しい祭りの用意も1ヶ月だと商人連中にいくら頼んでも難しいでしょ」
「それはエルザ様が頭を悩ますのも当然の話です」
「しかも今はかなりの数の探索者が精神的にも肉体的にも疲労してる、圧倒的に戦力が足りないわ。主力はマドカも含めて全員出さざるを得ない、都市の守りに割いていられる余裕がない」
知れてよかったが、知らなければよかった。
これは正しくそんな話。
年に2度も龍の飛翔、つまり地下からの強力な龍種の出現が起きた事例は過去に存在しない。前回の敵がアレだっただけに、それの残党という可能性も無くはないが、今はタイミングが悪過ぎる。最悪の場合スポンサーとなっている商人達がこの街から逃げてしまう可能性も出て来る。
「外部からの戦力の補充は間に合うのでしょうか?」
「どうかしら。唯一戦力になり得るグリンラルの探索者達も、モンスターの大量発生を対処しているところだもの。期待は難しいと思うわ、先輩さん達は帰ってくるでしょうけど」
「ステラさんとリエラさんですか、それは心強いですね」
「後は英雄さんが呼べるといいわね、それだけで難易度がずっと下がる」
実際、大抵の敵はこの街の最大火力を持つ探索者達をぶつければ何とかなる様にも見える。しかしいつもそう容易く行く訳ではないのが現実というものだ。前の敵がその火力すら凌ぐ程の数の暴力であった様に、街を襲撃した化け物がラフォーレの魔法を阻害した様に、何事にも例外は存在する。
けれど、その例外を凌ぐ例外こそが"英雄"と呼ばれる人物でもある。常に忙しく飛び回っているその人を呼ぶ事が出来れば、2度目の龍の飛翔だろうがどうとでもなるに違いない。
「街への説明も、"外部に強力なモンスターが出現した"という理由を正直に話した方がいいかもしれませんね。1ヶ月しかありませんが、1ヶ月はありますから。今こそ街の力に頼るべきかと」
「……まあ、そうね。今は出来ることをするしか無いわよね」
「他にも何か懸念があるのですか?エルザ様」
「………」
ユイは何よりエルザの事を知っている。
彼女が悩んでいる時、困っている時、苦しんでいる時、そんな事は表情を見れば直ぐにでも分かる。そしてそれを自分に見せると言う事が、相談に乗って欲しいという合図である事も当然に。
「……気になるのよ、マドカの様子が」
「マドカさんの様子、ですか……?」
「なんか、妙に落ち着いていないのよね。エリーナも同じ事を言っていたわ」
「ギルド長まで……」
「"聖の丘"の調査は明日。けど実はマドカと副ギルド長のエルキッド、それと"聖の丘"の副団長のエミ・ダークライトの3人は今もう外に出てるのよ。明日の朝には着けるからって」
「……夜間の移動の危険を承知で率先して動いた訳ですか、確かにマドカさんらしくないですね。それに面々も異質です」
「エルキッドは奇妙な勘が働くし、エミ・ダークライトは偶々居合わせただけなのにマドカの顔を見た瞬間に同行を志願したわ」
「何か感じたのでしょうか」
「さあ、私にはわからない事よ。ただエリーナの話を聞くに……3年前の邪竜候補、それが出現する前の時も同じ3人の面子で調査に向かってるって事だけは確かね」
「……縁起が悪い、と」
「もしまた邪龍候補が現れれば、次は勝てるか分からない。全滅の可能性も十分にあるし、最悪この街ごと滅ぼされる。そうなればこの世界は終わり。海で眠ってる邪龍を起こされた日には再起すら出来なくなるでしょうね」
悪い事を考えればキリがない。
しかし邪龍候補という存在はそれほどの物だと、エルザは過去の記録を見て知っている。実際に戦った者達の言から知っている。圧倒的な力を持つ彼等が絶望的な状況に追い込まれる程の存在であったのだと、理解している。
「……以前の邪龍候補は、"六龍ゲゼルアイン"でしたか。6つの首を持つ巨大な竜」
「ええ。5つの属性全てのブレスを自在に操り、脅威的な回復防御魔法で尋常ならざる耐久力を持つ巨大な個体。複数の種類のブレスを混ぜることで全ての対策防具を無に還し、強力な近接戦闘能力と超射程のブレス攻撃のせいで少数精鋭での戦闘をせざる得なかったと記録にあったわ」
当初は数で攻める予定であったが、一吹きで山一つを焼け野原に変えてしまうほどの広範囲攻撃に一度は凄まじい数の負傷者を出してしまい、撤退を強いられたという事もあった。
それはもう3年も前の話。
ユイとエルザがこの街に来た頃には、その話はもうとっくに終わっていた。
「英雄、軍長、レンド、クロノス、ゼクロス、エアロ、アクア、ラフォーレ、マドカ、カナディア、シセイ、セルフィを中心とした精鋭陣に、山岳の都アイアント産の最新鋭のバリア装置を可能な限り装着させての徹底抗戦。戦闘に参加出来ない者達の魔力を利用した遠距離魔法兵器による陽動を含め、6日間の継続戦闘の末に討伐成功……記録を見るだけでも納得の面子よね、他の街からも根刮ぎ力を集めての総力戦よ」
「6日間の継続戦闘、ですか……」
「我等が先生も3年前から最前線に立っているんだもの、教え子の1人として誇らしくて仕方ないわ」
「唯一無二のスキル持ちの方ですから。その事を考えるに、我々も今後間違いなく戦場に投入されることになるでしょう」
「リゼもね」
「……あの威力を見せられてしまえば仕方ありません。特に魔法を帯びていない遠距離物理攻撃は貴重ですから、量産が出来ればいいのですが」
「量産しても完全に扱える様になるまでどれだけ時間の掛かる事やら、そもそも量産ができないのだけど。軽く見ただけでも頭のおかしい武器よあれ、多分リゼもまだ知らない機構がいくつか存在してる」
リゼ・フォルテシア。
見ているだけでは必死なだけの無知な女であるが、時間が経つに連れて彼女の異常性が明らかになっている。無駄に大きなだけだった様に見えた大銃の異常性、それを使い熟す銃士としての異常性、そしてマドカがあれほどに期待をしているという事は彼女の素質はそれだけではないはず。
「今回の件で以前からマドカが提案していた遠距離物理攻撃兵器の有用性が確認されたでしょう?だから早速、鍛冶屋のガンゼンを中心に開発班が出来たのよ」
「……順調なのですか?」
「今のところは全く。人を殺す程度の威力の物は作れても、龍種に明確なダメージを与えられる程の物は作れない。色々と構想はあったけど、それを実物にしようとすると上手くいかない。ただ銃を大きくするだけでは作れないのよ、魔力砲の様な設置式で作るのが最適ね。まあ銃に詳しい人間なんて居ないんだけど。結果的には魔力で砲弾を押し出す原始的な兵器に立ち戻りそう」
「そもそも実弾の銃の製造は殆どされていませんし、研究の対象にもなっていませんでしたから。しかしそうなると、やはりリゼさんの助力が必要ということですね」
「ええ、リゼのお祖父さんはもう亡くなってるみたいだし。……ほんと、あの武器もモンスター殴って傷一つ付かない硬度だし、何を素材にしてるのだか。リゼは気付いてるのか分からないけど、重量も普通の金属の比じゃない」
リゼはまだ知らない。
その研究班の人間達が今血眼になってリゼの事を探しているということを。そしてそんな彼等を押さえ込んでコントロールしてくれているのがエルザだという事を。
「はぁ、真面目な話は終わり終わり。家の中でも肩が凝るのは流石に嫌よ」
そう言うとエルザはそれまでの雰囲気を緩めて柔らかな笑みを浮かべてユイに手招く。彼女は真面目な人間ではあるが、決して自分の家の中でまで固い顔をしていたいとは思わない。自分の近くに寄ってきたユイの両手を取り、抱き締めさせる様にその手を胸元に引き寄せる。自然、ユイの顔がエルザの顔の横まで来るが、2人とも今更その程度で顔を赤らめたりすることは無い。これはただの甘えだ。
「ユイ〜?肩揉んで〜」
「構いませんが、そろそろお休みになられますか?」
「う〜ん、そうしようかしら」
「そうですか、それでは準備を……」
「ユイ〜?添い寝して〜」
「駄目です」
「なんでよ〜、もう別に嫁入りする予定も無いんだしいいじゃない。ぶっちゃけユイに嫁入りしてる様なもんなんだし〜」
「女装を解く許可を頂けるのでしたら、その論法も通用しますが」
「それは駄目」
「……せめて膝を貸す程度でお治め下さい。私とて立場というものがあります」
「別に襲ってくれてもいいのよ?」
「お嬢様」
「もう、今は私の方が従者なんだからその呼び方はやめなさい。主人としての自覚がまだまだ足りていない様ね」
「……エルザ様は従者としての自覚が足りていないのでは?」
「あら酷い、私はこんなにもご主人様の為に働いているのに」
「……申し訳ありません、自覚が足りていませんでした」
「真面目に受け取らないの、冗談なんだから」
自分の肩を揉ませながら、決して顔を離す事を許さず、愛おしげにユイの頭を撫でるエルザ。
生まれてから今日まで、ずっとエルザの為に生きてきたユイ。決して優しい言葉だけを与えて来た訳でも無いにも関わらず、恨むどころか、遂にここまでついて来てくれた誠実な従者。
「愛おしい」
この気持ちを言い表す言葉は、それ以外に浮かばない。抱えている想いはその言葉程度では到底言い表せられるものではないけれど。
「ユイ、女装やめたい?」
「……いきなりどうされたのですか」
「貴方が本当にやめたいと言うのなら、やめてもいいのよ。これはただ私の、私が少しだけ寂しいというだけだもの」
「……」
「いつかはやめないといけないのだし、それなら」
「……いえ、構いません」
「?」
「今更です、エルザ様。もう女装をしている方が長いくらいですから、問題ありません」
「ユイ……」
「それに……とっておきは取っておくものです。必要な時に、エルザ様を驚かす時に、いつか訪れるかもしれないそんな時の為に残しておきたいと思います」
「……本当にいいの、それで」
「未完成な状態でエルザ様に見せたくはありませんから。密かに準備をして、仕上げて、磨いて、最高の状態で披露させて頂きます。その時まではどうか、この見苦しい姿でご勘弁下さい」
「……馬鹿ね。でも、それなら私も準備をしておかないと。その時になって心の準備が出来ていなくて、心臓が止まりでもしたら大変だもの」
「なるほど、それは確かに困ってしまいます」
冗談混じりに2人は微笑むと、ユイは慣れた様にしてエルザを横にして抱き抱えた。かつては病弱な彼女の為に何度もしたが、ある程度の活動が出来なくなった今はこの抱き方は殆ど趣味の様な物でしかない。けれどユイが抱き抱え、エルザがユイの首に手を回し、抱える側も抱えられる側も自然と互いにとって楽な姿勢を作り出すそれは、病が回復したからと言って無くすにはとても勿体無い事だった。
「少し重くなってしまったかしら、恥ずかしい」
「むしろ私としては安心します。もっと重くなって下さい、エルザ様」
「ふふ、女性に対しては最低な言葉よ?ま、許してあげるけど」
ずっと、ずっと、ずっと、側に居てくれるだけでいい。彼女達に支援能力が宿ったのは、もしかしたらただそれだけを誰よりも強く思い願っている彼女達だからこそなのかもしれない。