冬の寒気がゆっくりと薄れ、春の陽気の中に夏の熱気の予兆を時折感じるようにもなった四月のとある一日。
夢に向けて瞳を輝かせた初々しい新入生たちが学園生活に加わり、その傍らでは年に一度のファン感謝祭へ向けてどこもかしこも忙しない雰囲気に満ち満ちた今日この頃。
そんなことは関係ないとばかりにメイクデビューへ向けて今日も弛まずトレーニングに励む僕は、トレーナーと一緒に学園内のジムにやってきていた。
「マシンの方は大丈夫そうだな。それじゃ、準備はいいな?」
「うん、いつでも」
サドルに腰掛けて前傾姿勢を取り確認程度にペダルを軽く回す僕に対し、クリップボードを携えたジャージ姿のトレーナーの確認が入る。
学園のトレーニング器具は専門の方々の手によって常に入念なメンテナンスが行われているが、普段掛けられる負荷が負荷だけあって稀に人知れずダメになっている時がある。怪我の元にもなりうるので、使用前の動作確認は使用者の重大な注意事項だ。
とは言え今回は特に異常はなさそうだったので、僕は頷きを返した。
本日のトレーニングメニューはフィットネスバイクによる練習になる。
ウマ娘用の超絶頑丈な、かつ超絶“重い”特別仕様のやつ。トレーナーと契約して以来、特に力を入れているスピードを重点的に鍛える練習メニュー。
そして、僕としては珍しい屋内でのトレーニングでもある。
「よーし。それじゃあ、始め!」
「ふっ……!」
トレーナーの合図とともに、脚に力を込めペダルを漕ぎ始める。
まずは慣らし程度に、それから徐々に速度を上げて最終的には全力まで。そうしてそこからはそれを維持する。
僕は確かに走るのが好きなので、トレーニングは基本的に屋外のものを好む。雨の日であれ雪の日であれ嵐の日であれ、どちらが好きか? と問われれば僕は常に迷わず屋外を選ぶだろう。ただ別に、だからと言って屋内トレーニングを嫌って避けていたわけではない。
屋内トレーニングの頻度が低かったのは、単に屋内ジムのトレーニング器具を使うとなると他の娘との兼ね合いがあったりとか、使用のために予約が必要だったりとか、そういうのが多いからだ。他の施設……例えばプールなんかも同じだが。
この学園の施設は極めて高いレベルで充実しており、揃えられた数もとんでもないものではあるのだが、やはりどうしてもそれ以上に所属人数が多い。そしてそのほぼ全員が同じ目的を持って同じ方向へ進もうとしているので、そのために必要なものは渋滞を起こしがちだ。
結果、使用優先度はどうしても現在進行形でトゥインクルシリーズを走っている娘の方が高くなるので、トレーナーが付いていない身の上だとその時々に使いたいものの席を取るのが難しかったのである。
ちょっと素行のよろしくない娘……例えばタイシンみたいな娘は門限ギリギリを狙ったりとか、あるいは普通に門限オーバーして使ってたりはするけど、一応優等生で通している僕にはああいうのはできないからな。別に全く使えないわけではないので、普通にお世話になったことはあるけども。
ともあれそういうわけで、トレーニングの際には基本的に屋外の色んなコースを日によって走り分けていたのだが、そんな苦悩も今はもはや過去の話。
僕にもトレーナーが付いてくれたので、事前に色々と折り合いを付けて予約を取りつつ、使える器材を考えながらトレーニングメニューを組んでもらえるわけだ。頭を使うメニュー以外に細々したことは何も考えず、指示されたとおりに動けば最も効率的にトレーニングができるというこのありがたさ。
至れり尽くせりだ。本当にありがたい。トレーナー最高! トレーナー万歳!
そんな風に礼賛しながらトレーニングに励む日々は、ちょっと前からだと考えられないような充実ぶりだった。……充実しすぎててしんどいのも事実だけど。
肝心の今日のトレーニング内容はと言えば、スパートを意識してしばらく全力で漕ぎ、トレーナーから休めの指示が入ったらしばらく緩く漕ぐ。そして始めの指示が出たらまた全力で漕ぐ、というもの。これの繰り返し。本当に延々これを繰り返すだけだ。
いわゆるインターバルトレーニングになる。相当きつめに調整されてるけど。
スパートなどの全速力を鍛える無酸素運動と、道中を走るスタミナを維持しながらの走力を鍛える有酸素運動を同時に行うこの練習は、レースに要求される能力を非常に効率的な形で鍛えてくれる。
そうやって最高速を伸ばし、体力を消費している状態でのスパートの練習にもしつつ、長いレースを乗り切りその上であと一歩を振り絞るための体力と根性もついでに付けていくということだった。
「ふぎぎぎぎ……!」
「いいぞ、その調子だ! 己の限界を超えろ! 頑張れ! 行け!」
「うがあああああああっ!!」
やかましい声援を受けながら、やかましくて女を捨てすぎの咆哮をあげる。
まあこの肉体以外にはそんなものを持った覚えは最初からないのだが。
「ふ、ぬ、う、う、う……!!」
「よおし! 凄いぞ! 今のお前は最強だドラモンド! そのままルドルフをぶっちぎれ!!」
「う、ぐ、おおおおおおおおお!!!」
ひたすらに脚に力を込め、そこまで、とか休め、とか言われるまでは永遠にペダルを漕ぎ続ける。しんどかろうが何だろうが、脚を緩めるということはしない。
その人柄と裏腹に、トレーナーの指導は中々スパルタを極めている。
このトレーニングにおいて、僕に自由意志などというものはほぼほぼ存在しない。脚や身体に何か異変を感じた時に脚を止める許可……というか命令が出ているくらいだが、近距離からトレーナーがガン見して注意しているのでその危険もまずない。もう体力がもちません、とかいう弱音は許されていないのだ。だってそれは横でトレーナーが見てるから。
トレーナーが「まだ行けるよね?」と言うのなら、僕はただ「はい」と返事をするか、無言で、あるいは雄叫びをあげながら脚を動かし続けることしか認められない。
この世界のトレーナーという人種の特性なのか、はたまた須藤トレーナーの特性なのかは知らないが、彼は僕の体力ゲージでも見えてるのかなってくらい的確に僕の限界を見抜いてくる。絶対にできないことはさせてこないのに、僕が「いやこれは無理でしょ」って思うくらいの場所まで無理やり踏み込ませてくる。その指示に付いていくのは本当に大変だ。
「よし、休め!」
「――っはぁ……っ、はぁ、ふう……」
結構な時間の全力漕ぎの後、指示に従って脚を緩める。脚は動かし続ける必要があるので完全なものではないが、息を入れることを許される休息の時間だ。
無酸素運動と有酸素運動を交互に繰り返すこの手のトレーニングは、効率的に複数の身体機能を向上させられるためトレーニングにはよく用いられる。それだけのことはあって効果は勿論高いのだが、その分だけやはり疲労も結構なものになる。
いかに僕が人間に比べて遥かに強靭な身体能力を誇るウマ娘であると言っても、トレーニングを繰り返せば繰り返すだけ身体は加速度的にしんどくなっていく。最初の内はともかく時間が経てば僕を支えるものは確かに根性だけ。なるほどそりゃあ鍛えられもするだろう。
「もう一回、始め!」
「ふ、ぅ……っ!」
そうしてまた下された指示に従って、疲労の蓄積する脚の回転を速める。
気力を振り絞ってペダルへ踏み込みながら、僕は数日前のトレーナーとの会話を思い出した。
『――ドラモンド。君の武器はその末脚と、それから絶対に諦めない勝負根性だ』
『……トレーナーの言うことだから信じるけど、正直あんまりピンとは来ないんだよね。スピードへの自信は圧し折られたばっかりだし、根性はなおさら。自分のことは根性なしの部類だと思ってるんだけど』
『うぅん、一般に言う根性なしはあんな……ごほん、まあいい。とにかくそういうところを伸ばしてやっていくって話だ。そしてその上で明らかに君特有の強みになるのが、その脚の強靭さだ』
『ふむ』
『ドラモンドの話を聞く限り、普通なら故障の危険があるようなレベルのトレーニングにも君の脚は平気で耐えてきたらしい。勿論故障に繋がるような無理をする必要もさせるつもりも一切ないが、普通より負荷の高いトレーニングを組み込めるのは間違いない』
『それはまあ、そのとおりだね』
この脚は本当に頑丈で、何をさせても全然へこたれない。タキオンのお墨付きと言えばまあ保証にもなるだろう。それは僕というウマ娘が誇る唯一の“才能”だ。
勿論疲労は普通に溜まっていくし、仮に脚が平気でも身体の方には限度があるが、故障に対する耐性値の高さは筋金入り。何せ本当に子供の頃から本当にずっと走り続けてきたにもかかわらず、脚に関する怪我なんて精々こけて膝擦り剥いたとかそれくらいだからね。
だからこそ、僕はこれまでその頑丈さに思いきり頼り切って、ひたすらトレーニングの数をこなすことでその質を補ってきた。僕がこのトレセン学園でも十分戦えるレベルにあるのは、おそらくこれが一番大きい理由だと思ってる。走ることに費やしてきた時間だけなら、僕はこの学園でも上から何本の指という上位に入るだろうから。
とにかく、道理の通らないような無茶をするわけにはいかないにせよ、これを利用しない手はないというのがトレーナーの意見で、僕もそれには同意だった。
その結果が、傍から見ていればいっそ前時代的な根性論に支配されたトレーニングにも見えるような、根性押しのトレーニングだ。
脚への負荷を高めつつ、根性で限界を補って、スピードを筆頭とした身体能力を身に着けるというのが大雑把なトレーニングの大方針。
日によって外を走ることもあれば今みたいにトレーニング器具を使うこともあるけど、大体はとにもかくにもぎっちりと時間の詰まった練習をこなす。
トレーナーの指示と応援の下トレーニングを延々繰り返し、繰り返し、繰り返す。
いつになれば終わるのかさえわからないまま、体力というものが行方不明になって気力だけが僕を支えるものになるまで、ひたすらに繰り返す。
もしも良心的な他のトレーナーが僕のトレーニングメニューを目にすれば、その人物はおそらく須藤トレーナーを張り倒して理事長室に連行するだろう。多分そういうレベル。そしてその上でなお、トレーナーは僕に一かけら程度の甘えさえ許してくれない。
「速度が落ちてるぞ! もう少しだ、もう少しだけ頑張れ! 君にならできる! 絶対にできる!!」
「ふ……ぎ、ぃ……!!」
もうとっくに何もかも絞り出しているにも関わらず、トレーナーは無茶な要求を突き付けてくる。
やかましいこれで限界なんだよ。そう言いたくはなるがそれを口にする余力さえなく、僕は歯を食い縛って身体の奥から残り滓じみたなけなしの体力を引き摺り出そうと尽力した。
マシンのスピードメーターを確認することすらできず、速度がちゃんと上がっているのかもわからないまま遮二無二ペダルを漕ぎ続ける。ただ脚を回し、ただ呼吸を続けることだけで僕に与えられたリソースのほとんど全てを使い果たす極限状況。
しかしこれは別に今日だけの特別な光景ではない。その時々によってメニューは違うと言っても、僕は大体半泣きになるまで徹底的に追い詰められることになる。
正直なところ、さすがに日常的なトレーニングでここまできつい思いをすることになるとは想像してなかった。
なんでここまで苦しめられないとダメなんだよ。トレーナーにこんな無茶させられてる娘なんて他に見たことないぞ。本当にこれで速くなるんだろうな。ダメだったら承知しないからな。
頭の片隅に一瞬浮かび上がっては疲労感に蹴り飛ばされて消えていく文句を吐き出すこともできないまま、僕はひたすら脚に全力を注ぎ続けた。
当たり前みたいにそんな要求を繰り返すトレーナーが心底憎たらしい。
「よし……! いいぞドラモンド、その調子だ! その調子であと少しだけ頑張るんだ!!」
「う、ご、お、おお……!!!」
本当に、憎たらしくてならなかった。
それができると言葉にされることが。
それができると信じられていることが。
そうして、そんな無遠慮極まりない期待に必死こいて応えた時の、本当に嬉しそうなその声が。
どこにもなかったはずの僕の力を、どこかから引き摺り出してしまう事実が、本当に憎くてたまらない。
『ルドルフに勝とうとする以上、君に課すトレーニングはどうしても過酷なものになる。端的に言えば、君は今後“この学園の他の誰が積んでいるよりも遥かに苦しいトレーニングに励み続ける”ことになるだろう。……いくら弱音を吐いても、文句を言ってくれても構わない。ただそれでも……俺を信じて、付いてきてくれ』
『……うん、わかった。信じるよ。約束する』
脚が破裂するんじゃないかというくらい力を込め続けて、映っているはずの視界から何の情報も拾い取れなくなるくらい走ることに集中して、僕はただただトレーナーの指示に従った。
そうすることでようやくルドルフに近付けるんだと、そう信じて。
◇◇◇
――そうして、どれだけ繰り返したのかもわからなくなるくらいの時間を漕ぎ続けてようやく、今日は一段落ということになったらしかった。
「よーし、そこまで! 終了!」
「――ぜえっ、はあ……はあっ」
「よく頑張った! 偉い! 感動した!」
「げほ……ごほっ、おぇっ」
「……だ、大丈夫か?」
もはや言語さえまともに扱えない状態に追い込まれて、トレーナーに背中を撫で摩られながら喘鳴を漏らす。大丈夫なわけあるか。見ればわかるだろこの節穴め。
しばらくそうしてぜえぜえと荒い呼吸を続けてから、せめてもの意趣返しに口を開く。
「はあ……ふう……と、トレーナー……毎回思うんだけど、誉め言葉、適当じゃない……?」
「えっ……ご、ごめん。なんかこう、勢いあった方がいいかなって思って……」
「はあ……ふふ。別に、いいけど……」
ゆるゆると惰性程度に脚を回し続けながら、トレーナーに文句を投げかける。すると彼は、先ほどまであれだけのスパルタトレーニングを僕に強いていたとは思えないほど弱々しく狼狽えた。
毒気の抜かれる顔だった。嫌味の十や二十くらいは言ってやろうというつもりだったのが、何となくまあいいかという気分にさせられる。
何というか、何をしていても大体常に締まらない人だ。
でもまあ、そういうところも嫌いではない。
必要なところではちゃんとやってくれるだろうし。多分。
「それより、今日もクールダウンお願いね……僕はもう動けない……」
「ああ、わかってる。痛みがあったらすぐに言うように。……しかしいつも思うんだが、君はこういうのを全く気にしないな。普通は大体嫌がられるんだが」
「下心があってやってるわけじゃないでしょ……それなら別に気にしないよ」
「それは勿論だが……いやまあ、嫌じゃないならいいんだけどな」
バイクから半ば引き摺りおろされるように支えられつつ床に横たえられて、その後はクールダウンのためのトレーナーの手によるストレッチやマッサージに身を任せる。トレーニング後の僕は精魂尽き果てているため、脚の面倒なんかの大部分は彼に見てもらっているのだ。
トゥインクルシリーズを走ったり目指したりしている娘たちは皆年頃の乙女なので身体的接触は嫌がる場合が多いと思うけど、僕は当然というか特に気にしない。いまだに男のつもりでいるわけではないけど、ベースが男なのは事実だし。
そりゃ全く見ず知らずの人とかなら男女問わず普通に多少の抵抗はあるけど、トレーナーなら別に構わない。触れてはいけない場所に触れないのであれば好きにしていただいて結構って感じ。勿論触れてはいけない場所に触れたら相応の報いを受けてもらうことになるだろうけど。尻尾とかね。
「転がすぞー」
「おぐえっ」
ごろんと回転させられて、僕は俯せの状態になった。年頃の乙女とは思えない呻きを漏らして、そのままぐったりと他人の手で伸ばされる脚の感覚を享受する。
トレーナーの指示は確かに厳しいし、しんどい。
でも、それがルドルフに追いつくために必要なことなのなら、僕は頑張るだけだ。
――以前のルドルフとの会話で感じたことが僕の自意識過剰でないのなら、きっと彼女は僕に期待してくれている。
ならばまずその期待に応えてみせることこそが、今の僕がすべきこと。
そしていずれその期待さえ裏切ってみせることが、僕の夢だ。
いつの日かその手から冠を奪い取るために、しんどかろうが辛かろうが走って走って走るだけ。
それに、彼が僕を信じてくれているのだと思えば、僕には確かに彼の言うとおりそこそこ振り絞れるものがあるようだった。
だから案外、そんな練習も苦痛ではない。
言葉を飾らずに言うのなら、いっそ楽しくさえあった。
「今日もお疲れ。また頑張っていこうな」
「……ん」
今はまだ遠い夢に走る日々は、確かに充実して思えたのだ。
◇◇◇
「ただいま……」
「おかえりい」
「っああ~……」
ベッドの上で休んでいる様子のタンジーといつもどおりの挨拶を交わしつつ、僕はよろよろと重い脚を引き摺りながら荷物を置いて、それから彼女に倣って自分のベッドに身体を投げ出した。
まったく今日も疲れ果てた。充実していようが何だろうがしんどいものはしんどいのだ。
シャワーくらいは浴びておかないとだけど、とりあえずは休息を挟みたい。
ああでももう動きたくないなぁこのまま寝たいなぁとか考えながらぐったりと伸びた僕に、ぽやーっと間延びした眠気を誘う声音のタンジーの問いが投げかけられる。
「最近毎日へろへろだねえ。今日も頑張ってきたんだ?」
「頑張ってきたよ……トレーナーがホントにスパルタでね。大変だよ」
「元からずーっと走りっぱなしだったドラちゃんがそんなに疲れるなんて凄いねえ。んー……わたしもトレーニング増やしてもらおうかなあ」
「増やすのはいいと思うけど、ちゃんと相談してからね……僕は自分の脚の頑丈さに頼ってるところが大きいから」
「はあーい、気を付けまーす」
気を抜いたらそのまま寝落ちしてしまいそうな倦怠感に何とかかんとか抗いつつ、念のためタンジーに忠告しておく。僕は割と頻繁に“故障には気を付けよう”みたいな話題を出すので彼女の返事も慣れたものだ。
最近無事にトレーナーを捉まえた彼女も練習量が増えた……というか効率的に圧縮されたようで連日疲労の色を隠せていないが、それでも当たり前みたいに練習量を増やそうとしているあたりレースに懸けるウマ娘としての想いの強さが窺える。
とは言え話を聞く限りトレーナーとの関係は今のところ良好そうなので、それを無視してまで無茶をするということもないだろう。
ちなみに女性トレーナーらしい。小さくて可愛いって言ってたけど、タンジーと比べたら大体の女性は小さくなるんだよな。身長分けてくれよお願いだから。50㎝でいいよ。
ベッドに寝そべりながら妬みを込めてタンジーを睨みつけると、それをどう受け取ったのか彼女はへらっと笑みを溢した。
「ドラちゃんは中長距離路線だし、一緒に走れるのはしばらく先になるかもだからねえ。脚は大事にしないとね」
「……ん、まあ、ホントに気を付けてね」
特に深くは考えてなさそうな言葉に良心その他を撃ち抜かれつつ、僕はもごもごと捨て台詞のように呟いて枕に顔を埋めた。
僕はルドルフを追いかけて中長距離路線に挑むのが実質的には既に決定している。
一方タンジーが得意とするのは主にマイル、それからトレーナーの意見で“行けそう”ってなってるらしい短距離だ。彼女は中距離も走れるがマイルほど得意というわけではないので、方針としてはマイルまでの短い距離に絞っていくつもりだという。
よって、ジュニア期はわからないにせよクラシック期にぶつかることはおそらくない。お互いに十分成長してからの勝負に限定するなら少なくとも二年ほどは先の話になるだろう。
それまでに故障なんかを起こしたら、直接対決はさらに遠のく可能性も……あるいは永遠に成立しなくなってしまう可能性も十分にありうる。
そういう可能性を、彼女も考えたことがあるのかもしれない。
「わたしもちゃーんと頑張るから、ドラちゃんもちゃーんと頑張るんだよお。怪我なんかして時間を無駄にしたら、すぐ追い抜いちゃうからねえ」
「……うん、わかってるよ。心配しなくてもその時は全力でボコボコに叩きのめしてあげるから、衆人観衆の前で号泣する準備は済ませといてね」
「お、言ったなこいつ~」
内心の窺い辛いふにゃふにゃの声で言うタンジーに喧嘩を売りつつ返答すると、彼女はにやぁっと嫌な笑みを浮かべてベッドから起き上がり、手をわきわきさせながら僕の方へ歩いてきた。
あれ……ひょっとしてこれヤバいやつか。
咄嗟に逃げようとして身体が全然動かないことに気づく。しまった疲労が蓄積しすぎている。
「あっ、ちょっと待ってごめん、僕今動けないから許し……ぐむぎゅ」
「残念、許しませ~ん。お仕置きの時間です。十分コースで行ってみようねえ」
無慈悲な一言とともに圧し掛かってきたタンジーの下敷きになりながら、僕は絶望した。
くすぐりはダメなんだ。そして彼女はそれを知っている。
つまりそういうことだ。
終わりだ。
◇◇◇
「反省した~?」
「もう……ゲホッ、二度と……減らず口は、叩きません……ゴホッゴフッ……」
「ん、よろしい」
涙目で咳き込みながら、僕はタンジーに許しを乞うた。
仲のいい相手とかについつい軽口叩きたくなるのは自覚している悪癖だ。
……が、口から述べられた反省の弁と裏腹に、それを改めるつもりは全くなかった。
口は禍の元というしついこの前人生で一番強くそれを実感したところだけど、しこりにならない程度の軽い挑発は相手をやる気にさせるのにちょうどいいので、僕はこの悪癖を半分くらい自発的に活用している。あんまり本気になってくれない娘をメラッとさせるには多少言葉で擽っていく必要があるので。気合の乗った併走はとても楽しいのだ。
とは言え痛い目を見るのは嫌なので、次から喧嘩売る時はもう少しマイルドにしようと僕は内心でちょっとだけ反省した。一週間後くらいまでは多分覚えてるはずだと思う。多分ね。
……などと、戯けたことを考えたのが悪かったのか。
眉を顰めたタンジーがぼそっと呟いた。
「……なんか邪な気配を感じるなあ」
「エッ……」
「よおし、もう十分追加で行ってみよ~」
「アッ」
処刑は結局その後ニ十分ほど続き、僕は体力の全てを使い果たして、打ち捨てられた魚のようにベッドの上でぴくぴくする羽目になった。
反省と自粛は一か月に延長だな……。