星に憧れた石ころウマ娘の物語   作:ボ・クッコスキー

15 / 16
春の終わりの一日

 トレーナーの指導の下、自らの脚を鍛えては休め、休めては鍛える日々を過ごす中。

 暖かな春風が徐々に熱を帯びていき、その日差しは地上を暖かく包み込むものから、生きとし生ける者全てを焼き焦さんと言わんばかりの熱線へと変化しつつある。

 梅雨時の纏わりつくような鬱陶しい熱気の気配も近付いてきて、雨天での屋内トレーニングも何となく増えてきた気がする今日この頃。

 来たるデビュー戦へ向けて、僕は今までに何度も繰り返してきたのと同じように、ターフの上を駆けていた。

 

「はっ、はっ、はっ……!」

 

 規則正しい呼吸を心掛け、余計なスタミナの消費をしないよう気を付ける。

 僕の選んだ“追込”という戦法は、実際のところ戦法と呼ぶにはあまりにも欠点ばかりが目立つ。レースにおける絶対的な優位である前方の好位置を争う道中の競り合いを放棄して、代わりに温存した体力を注ぎ込んだ末脚に全てを懸ける一点特化の脚質だ。

 だからこそ、切り札である末脚だけは十全に発揮できるよう細心の注意を払う必要がある。最後に振り絞れる力を道中にどれだけ余せるか。それだけが僕の勝ち筋。

 

「っ……!」

 

 抑えたままで中盤をやり過ごし、最後のコーナーに入る。

 コースの上に僕以外の人影はない。けれど前を行く背中を追うつもりで、遠心力をいなしながら速度を維持する。

 

 最後の直線が近づいてくる。ここからが、僕の勝負所だ。

 

「ふっ――!」

 

 鋭く息を吐き出して、力強く芝を蹴ってスパートを掛けた。

 想像の中で前を走る娘たちが、それぞれ前へ出るためばらけていく隙間を縫うように、脚の回転を速めて内側を突く。

 

 掻き分けて置き去りにした風の鳴る音。視界を過ぎ去っていく内ラチ。蹄鉄が地面を抉る感触。想像の中で引き千切った幾つもの人影。

 最終直線に入り、ここまで大事にためてきた脚の全てを使い果たすこの瞬間、何もかもが思考の中から弾き出されていく。

 そうして最後に、前へ向けて走るという機能と――今もなお、一つだけ眼前を走る幻影だけが残る。

 

 視界の端が白く霞んでいくような錯覚さえ覚える速度の中で、肺の中身を振り絞って、脚を使い果たすつもりで幻影を追う。

 いくら努力を重ねても近付けた気さえしない遠い背中。

 どれほど力を込めて脚を回転させようと、決して追いつかせてはくれない憧憬。

 喉元から込み上げてくる無力感を呑み込んで、必死に追い縋って走るその最中、視界の端に一瞬だけゴール板を捉え――

 

「ゴール!」

 

「……っふう……! はぁ……」

 

「今回もいい走りだった! ゆっくりクールダウンをしておいてくれ」

 

 間を置かず、トレーナーの声が僕の意識を現実へと引き戻した。

 

 全速力の高揚から解放されたばかりでどこかぼんやりとする思考の中、指示に従って緩やかに速度を落とし、徐々に徒歩へと切り替えていく。頬を伝う汗を拭いつつ、多少落ち着いたら次はストレッチ。

 そうして脚の調子を整える内に、トレーナーは僕の走りのデータをノートに纏めてくれているわけだ。カリカリとページの上を走るペンの音に耳を傾けながら、僕はしばらく色々と身体を伸ばしながらそれを待つ。

 

 ――待ちに待った今期のデビュー戦の始まりはもう目と鼻の先にまで迫っており、最近は実戦に近い形の走りで調整を行っている。消耗が激しいトレーニングも減らしたレースへ向けての準備段階だ。

 その一環として、最近の僕は走る予定のレース場に近い形状のコースで距離を合わせつつ、タイムを縮めることに注力していた。

 

 トレーナーが記録を終えて顔を上げるのを見て、僕もストレッチを切り上げ立ち上がる。

 まだ数字は見ていないが、彼の浮かべた笑顔を見るに結果は悪くなかったのだろう。そうは思いながらも一応問いかける。

 

「で、タイムはどうだったのかな」

 

「ああ、見てみろ! 記録更新だ! さすがだな!」

 

「……よし」

 

 衒いのない笑顔とともに差し出されたストップウォッチに示されているのは、確かに彼の言うとおり更新された僕の記録だ。

 その事実に一つ頷いて、呟くと同時ほっと息を吐く。

 こうして目に見える形で結果が出てくれるのはある種の救いだ。どれだけ真剣に試行錯誤と練習を積み重ねたとしても、それが必ずしもいい結果に繋がってくれるとは限らないから。

 

「……君の喜び方は本当に控え目だな。もう少し感情を表に出してもいいだろうに」

 

「逆にトレーナーはちょっと明け透けすぎるでしょ……実戦もすぐそこなんだから、あんまり気楽に喜んでばかりもいられないし。記録はこれからも継続的に更新していかないとダメなんだから」

 

「とりあえず更新できたんだから、その時くらいは喜んでも罰は当たらないと思うけどなぁ……」

 

 しかし、そんな僕の振る舞いは彼には不満に思えるらしい。

 トレーナーくらい感情を直截に表現できれば確かに色々楽なのかもしれないが、それは僕には無理な話だ。二つの人生に跨ったネガティブ思考は既に根を下ろしきっている。

 

 それに結局のところ、自分の記録を更新できたとしても彼女に追いつけたわけではない。遥か遠くにある背中を追う日々の中で、細々とした結果の一つ一つを心の底から喜ぶことは中々に難しい。

 なおも納得できない様子で唸る彼に苦笑いして、僕はトレーニングの続きを催促した。

 

「それで、次は何すればいいのかな。脚はまだまだ元気だけど」

 

「……ま、やる気があるのはいいことだな。それなら休憩を挟んでまた計ってみるか。最高記録はひとまず更新できたわけだし、次は……そうだな、最終直線までは徹底的に後ろに控えて、そこからスパートって想定で行こう」

 

「了解」

 

 つまり、展開的な不利を背負った場合を考えた調整だ。指示に頷いてから、僕は自分の脚を休めに入った。

 

 ――デビュー戦はもう目前。

 そして、それは僕にとって初めての“実戦”となる。

 

 たかだかデビュー戦……そんな言い方をすることもできないわけではないが、そこは既に勝者がウイニングライブのセンターの座を手に入れ、一方で敗者がそのバックダンサーとなる義務を負う、ある種の弱肉強食の理が支配する世界。

 メイクデビュー……あるいはそれに敗北した後の未勝利戦。重賞やG1という輝かしい舞台には確かに程遠い場所で、それでもそこを勝利して乗り越えられる者でさえ一握りだ。

 出走者の意識という意味では、決して模擬レースや選抜レースに並べられるものではない。それらは確かに本番ではあるが、どこまで行ってもそれ止まりだ。

 そんな初めての実戦で何が起こるかはわからないが、少なくとも練習でできないことは実戦でもできないと思うべき。練習で、かつ一人で走るのであれば、例年の記録は明確に上回れなければ勝利は難しい。

 

 タイム的な話で言えば、僕はその水準には既に十分到達している。練習の記録をそのままデビュー戦に持ち込めるのであれば勝利はほぼ間違いない。

 しかし、残念ながら僕は先手を取って一人旅を決めることのできる逃げウマ娘ではなく、他の娘たちの後ろに待機し続けてレースを運ばなければならない追込ウマ娘だ。仮に実力において問題がなかったとしても、不利を喰らうパターンはいくらでも想定できる。

 それならば、自己ベストを追及するのと同時に、最も大きく不利を背負った時のことも考えておくべきだ。

 例えば最終直線で前が詰まり右に左にと移動しながら抜き去っていかなければならない時もあるし、極端なスローペースになって終盤の脚の差が出なくなるパターンもある。

 はたまたそういった不利を背負わないために、スタミナの消耗を呑み込んで大外を回り前方のバ群を早い内から抜きに行く、いわゆる“まくり”の練習なんかも必要だろう。

 

 与えられた準備期間で、やるべきことは山ほどある。不安を完全に拭い去ることはできなくとも、それを少しでも小さなものにしたいのであれば、ただ努力を積み重ねるしかない。

 一つでも多くのものを積み上げる。それを欠かさなかった者が勝利する。例え現実に才能の差という絶対的な壁が存在するとしても、努力だけが自身を勝利に近付ける唯一絶対の方法であることに変わりはない。

 ならば、例えゴールさえ見えない道の最中であったとしても、繰り返した一歩がいつか必ず夢に届くのだと信じて走り続けることだけが、今僕がやるべきことだ。

 

 しばらくの休息の後、僕は立ち上がって脚を伸ばした。

 

「そろそろ行けるよ」

 

「オーケー。それじゃ、さっき言ったとおり次は直線一気の練習と行こうか」

 

「ん、合図はよろしくね」

 

 ――ルドルフに挑むために、まずは乗り越えなければならないデビュー戦。

 彼女に勝つなどと口にした以上、ここで失態を演じるわけにはいかない。

 

 例えどんな不利を背負ったとしても、その上で勝つ。

 そう内心で呟いて、僕は蹄鉄で芝を掻いた。

 

 

 

◇◇◇

 

 

 

「よし、今日のトレーニングはここまでにしよう。お疲れ様」

 

「お疲れ様でした……」

 

 何のかんのと結構走り、そこそこぐったりしている僕を尻目に、トレーナーはご機嫌で纏めた記録を確認している。

 まあ今日の僕は中々調子もよかったので、指導する側としても嬉しかったのかもしれない。トレーナーの機嫌がいいなら、それは僕にとってもいいことだ。

 

「さて、寮に戻るなら送っていくが……どうする?」

 

「ん……いや、今日はいいよ。さっきちょっと用事ができたから」

 

「うん? ……ああ、なるほどな。そういうことなら、今日は先にあがらせてもらおうか」

 

 最後に何事かをそこに書き加えてからノートを閉じたトレーナーが顔を上げる。

 トレーニング終わりの恒例の言葉に対し首を横に振ると、彼は一度首を傾げてから、すぐに何かに気づいた様子で頷いた。

 まだ何も言ってないんだけど察しがいいなぁとでも言うべきか、それとも僕の行動原理があまりにもわかりやすすぎるだけか。どちらかと言えば、間違いなく後者だろう。

 

「それじゃ、また明日。脚はちゃんと休めておくんだぞ」

 

「心配しなくても今日はもう満足したよ。また明日ね」

 

 コースを去るトレーナーに手を振って、その背中が校舎に消えるまでしばし見送る。

 そうしてから、僕は背後を振り返った。

 視線の先にいたのは、当然と言うべきか――僕の追いかける“夢”その人……シンボリルドルフだ。

 

 今日は自分のトレーニングというわけではないようで、校舎外だと大体いつ見ても傍にいる印象の彼女のトレーナーの姿はない。代わりに下級生と思しき娘を四人ほど連れている。

 おそらくトレーナーのいない娘への練習の指導だろう。今はアドバイスをしているらしい。エアグルーヴもそうだが、その理想の形ゆえに彼女たちは後輩を導くことに非常に熱心だ。

 学園の教官やトレーナーに対するより明らかに遥かにガチガチに緊張している様子の後輩たちはルドルフの言葉に頻りに頷いて、それからルドルフを除きコースへと連れ立って歩いていった。

 

 スタートラインに並んで一斉に走り出す彼女たちを見ながら、ルドルフの視界に入らないよう、その背後の方向へと移動する。こそこそと物陰に隠れつつ、コースを走る後輩たちを見守るルドルフを見守る体勢。

 まるでストーカーみたいだなと一瞬思ったが、これは単に彼女が彼女の夢そのものとも言える後輩たちを教え導こうとしているところを邪魔したくはないという配慮による判断だ。

 よって仕方なく、トレーニング終わりの休憩がてら、彼女の用事が終わるまで待つだけ。断じて疚しいところはない。

 

 ルドルフの視界には入らないがその姿は見える場所から、後輩たちの走りを眺める。

 当たり前と言えば当たり前だが、彼女たちは見たところまだ本格化は迎えていない様子だった。未熟な僕から見てもさらに未熟な走りではあるが、丁寧に学んできたウマ娘特有の、一目でわかるような明らかな研鑽の跡の見える走りをしている。

 この学園に通うことを許されるレベルの娘であれば大体はそうなのだが、良くも悪くも存在感に溢れるかの“皇帝”の薫陶を自ずから受けに行ったのであれば、将来は栄達するかもしれない。ルドルフにとっては悲しいことだが、ビビってまともに話しかけられないのが基本みたいなところあるからな。

 

 レースの方は中々の接戦を見せて、最終的には四人がほとんど団子になったままゴールを駆け抜けた。何とかそれを制した一人が勝利に拳を突き上げて、他の娘たちは芝生に倒れこんだりして敗着を嘆いている。

 しかしそこに柔らかい笑顔を浮かべたルドルフが歩み寄ると、這いつくばっていた後輩たちも即座に立ち上がってびしっと四人で整列した。

 普通に優しく接しているはずなのに、なぜか鬼教官みたいな扱いを受けている。

 

 心なしかしょんぼりした様子のルドルフが、それでも気を取り直して後輩たちへのアドバイスを再開した姿をしばらく眺め、それを受けた後輩たちが深く頭を下げて立ち去っていくのを物陰から見送ってから、ようやく僕は彼女の方へと歩み寄った。

 直後、ルドルフがこちらを振り返る。

 

「すまない、待たせてしまったな」

 

「……気づいてたんだ。まあ、気にしなくていいよ。君の邪魔をしたくなかっただけだから」

 

 ストーカー行為を対象に察知されていた気まずさに目を逸らしつつ呟く。

 しかし幸いと言うべきか、彼女は僕の行動そのものより、単に僕を待たせたことを気にかけている様子だった。

 

「そう気を使ってくれなくとも構わなかったのだが……私だけではなく、君からの助言もあれば彼女たちも喜んだはずだ」

 

「いやぁ、君がいるのにそれを差し置いて何かを喋ろうって気にはさすがになれないな……」

 

「そう謙遜することはない。君の日々の奮励努力には、私も常々見習わなければと思わされる。その経験から来る言葉は、きっと彼女たちにとっても千金に値する金言名句となっただろう。次の機会があれば、是非ともよろしくお願いするよ」

 

「……ま、まあ、機会があったらね。やぶさかではないけどね」

 

 自分は至極当然の事実を述べただけですよ、みたいなしれっとした声音で叩きつけられた評価の言葉にお得意の減らず口も封じ込められて、口端を引きつらせながらもごもごと呟くように返す。努力に関して言うならば、彼女自身より頑張っている人間なんてそれこそ数えるほどもいないだろうに。

 ああくそ、ルドルフに褒められると勝手ににやつきそうになる顔を抑え込むのが大変だ。

 

「そ、それにしてもと言うか……僕たちももうじきデビューの時期だけど、そっちの調整は大丈夫なのかな。ただでさえ色々忙しいと思うんだけど」

 

 げほげほと何度か誤魔化しの咳払いを挟みつつ、話題を変えようと試みる。そもそも、彼女に声を掛けに来た理由はこっちが主だ。

 

 ルドルフであれば体調管理にも手を抜いていないのは間違いないが、そうは言っても彼女があまりに多忙な身の上であることに変わりはない。

 それだけでも大変であろう生徒会長としての学園内外の職務に加え、今期のデビューへ向けて日夜トレーニングにも励まなければならず、さらに学園トップレベルのその学力を維持するために勉学にもそれなり以上の時間を割いているだろうし、それらの疲労を抜くための休息の時間も確保しつつ、その上でこうして後輩の面倒まで見ているなど、一体どこから時間を捻出しているのかさえわからない。僕が彼女と同じことをしようと思えば、一日が七十二時間になってもまだ足りないかもしれない。

 

 確かに事実として、彼女にはそれを可能とするだけの能力がある。そしてそれが彼女自身望んでやっていることなのも事実。それでも、どこかには必ず限界がある。

 他人のために平然と労苦を背負い込む彼女の姿は、傍から見ているとあまりにも不安を誘うものだ。

 

「なに、心配は無用だ。今日は元々休養日の予定だったのでね。こうして彼女たちの走りを見ていたのも息抜きの一環だよ。忙しくない、とは言えないが……身体は十分に休めているし、デビュー戦へ向けての準備にも無論問題はない。誰が相手であったとしても、鎧袖一触に打ち負かしてみせよう」

 

 一応心配して来たわけだが、しかし当然と言うべきか、ルドルフは事も無げに笑ってみせた。

 

「……そ。まあそれならいいんだけど……せめてレースの前くらいは、少しくらい力を抜いてもいいんじゃない? 君が本当に凄いウマ娘なのは嫌ってほど知ってるけど、体力まで無限にあるわけじゃないでしょ。他の娘にちょっとくらい仕事とか任せても嫌とは言わないだろうし……それこそエアグルーヴなんか喜んで受け持ってくれると思うけど」

 

「忠言痛み入る。しかし、生徒会の皆は既に十二分に己の職務に励んでくれている。生徒会の仕事にせよ、後輩たちへの指導にせよ、それらは私がすべきと自ら定めたことだ。皆を導かんとする者として、それを自ずから投げ出して迷惑を掛けるわけにはいかない」

 

「……ま、実際君が大丈夫なのなら、僕から言うことは特にないんだけど。エアグルーヴが君のこと凄く気にしてるのは覚えておいてあげてね」

 

「ああ。……彼女は本当に、私をよく支えてくれている。その期待に応えるためにも、より一層勇往邁進せねばならないな」

 

 ルドルフの表情には、確かに彼女の言うとおりさしたる疲労の色は見えない。満ち満ちる覇気は相変わらず息苦しさを覚えるほどだ。デビュー戦で躓くような未来は万に一つもないだろう。

 

 ……“勇往邁進”。

 既にこの上ないほど努力しているであろう彼女の放つその言葉そのものが、ある意味ではその時点でエアグルーヴの望みに反しているとも言えるのかもしれない。

 そうは思いながらも、僕はただ口を噤んだ。

 

 ルドルフがどれほど真摯に自らの理想を追い求めているのかを、僕は多少なり知っている。それを軽んじるようなことはしたくなかった。少なくとも今はまだ彼女に十分な余裕がある以上、訳知り顔で口を挟むにも限度がある。

 だからその代わりに、あくまでも彼女への挑戦者として、僕は口を開いた。

 

「……まだしばらく先になるだろうけど、僕は必ず君に挑みに行くから。だから、その前にぶっ倒れたりしないでよ」

 

「勿論だ、約束しよう。君の挑戦を楽しみにしていると……以前口にした言葉に嘘はない。対決の場を見す見す手放すような愚は犯さないさ」

 

「ならいいよ。十全の君に挑むからこそ意味がある。そして……十全の君から得る勝利だからこそ、価値がある。……僕のことを単なる格下の雑魚だと思ってるわけじゃないのなら、僕がそう考えてることは覚えといてほしいな」

 

「……ああ。覚えておこう。無論、君に勝利を譲るつもりは毛頭ないが」

 

「それでいいよ。君がそう在ってくれることこそが、僕の望みだから。……それじゃ、言いたいことは言い終わったし、僕はもう帰るよ」

 

 それだけ言って、僕は身を翻し――

 

「ドラモンド」

 

「ん?」

 

「デビュー戦、楽しみにしている。あの日のように同じコースを走るわけではないが――捲土重来たる走りを、見せてくれるとね」

 

「……そ。ま、君の期待に応えられるかはわからないけど……あんまり余裕かましてはいられないなって思わせられるよう頑張るよ」

 

 最後に一度だけ、その綺麗な紫紺の瞳を全力で睨みつけてからコースを去る。

 

 ――トゥインクルシリーズが始まろうとしている、春の終わりの一日のことだった。

 

 

 

◇◇◇

 

 

 

「改めてデビュー戦の条件を確認しておこう」

 

 いい加減すっかり慣れたトレーナー室。

 レース場の図と出走者の名前が描かれたホワイトボードを指示棒で示すトレーナーに対し、僕はパイプ椅子に腰かけその説明に傾聴の姿勢を取る。

 

「レースは新潟レース場での開催、芝1600m左回り、9人立てだ。君は5枠5番での出走になった。コースとしては坂を上りながら3コーナーに入り、下りながら4コーナーを出ていく形になる。硬くスピードを出しやすいバ場で、かつ最終直線が非常に長く、スパイラルカーブが採用されてるから横にばらけやすい。君の力を発揮しやすいレース場と言える」

 

「直線で全部ケリを付ければいい、ってことだよね」

 

「そういうことだな」

 

 トレーナーの説明に一つ頷く。

 

 新潟レース場――あの有名な芝直線1000m、いわゆる“千直”なんかも開催されるレース場だ。

 今回のレースなどではその1000m直線の一部を最終直線として走るわけだが、一部と言いつつこの距離は約660mもある。

 URA最長のこの最終直線は、短いことで有名な中山の直線――たったの約310mしかないあちらと比べると倍以上もの長さになる。今回であれば、ここだけでレース全体の三分の一以上……というか半分近くを占めているというとんでもない割合だ。

 僕のような最後の脚を武器にするウマ娘にとってはありがたい構成と言えるが、懸念点もある。

 

「代わりにというべきか、道中はスローペースが予想される。まあまず間違いなく全員最後の直線に備えるわけだから当然だな。その点で言えば君にとってはやや面倒かもしれないが……」

 

「展開次第では多少前に出るとかも考えるよ。多分直線だけで勝負することになるとは思うけど」

 

 実質的にはほぼ末脚の切れ味勝負になるため、必然的に前を行く娘たちのペースは遅くなりがちだ。脚を溜めておかないと後半の勝負に付いていけないからだ。

 そうしてスローペースの勝負になれば、体力を残しているのは前にいる娘も後ろにいる娘も同じこと。末脚には差が生まれ辛くなり、そうなれば当然前にいる方が有利になる。

 よって、この点では後方脚質に不利と言える。

 

 ただし、最終直線があまりにも長すぎるため、言い換えるとまぐれが少ない。僕の脚が他を圧倒してさえいれば、おかしな負け方をしなくて済むとも言える。

 

 だからこそここを選んだ。

 自らの実力で他の全てを捻じ伏せるって、そのつもりで。

 

「そうだな、俺もそう予想している。道中は程々に合わせつつ、最後に残った脚を使って走れば君は勝てるだろう」

 

 そして、トレーナーの言葉も僕のそんな自負を認めるように軽いものだった。

 

 いざメイクデビューに挑もうという新人トレーナーとデビュー前ウマ娘とは思えない会話だが、掲げた目標を考えればここで足踏みはしていられない。

 当たり前に踏み越えて、当たり前に次に行かなければならない。シンボリルドルフというウマ娘の背中は、それだけ遠いから。

 

「次は出走者についてだ。調べた限りでは、今回積極的に逃げを打ってきそうな相手は一人、プレイスインヘヴンだけ。他は先行が三人、差しが四人、追込は君一人。単独での逃げとなるとやはり道中は十中八九スローペースになるだろう。実戦で誰がどういう手を打ってくるかは何とも言えないが、特に奇策を好むような娘は見当たらなかった」

 

「一応、何人かは走ったことがあるね」

 

「なら想像しやすいかもな。直近のラップタイムも集められる限りは集めたし、レースの映像なんかもできる限り確認したが、この中で誰が特に……ということはなかった。全体的にそれほど実力は離れていないと思う。強いて言えば、プレイスインヘヴン、リトルトラットリア、スクイーズアウトの三名がやや抜けているかも、くらいだな」

 

「その中ならリトルトラットリアとスクイーズアウトは対戦済みだね」

 

「なるほど。……顔を見るに、どうやら戦績は悪くないらしい」

 

「一対一で何回か走ったけど、負けたことはないよ」

 

 僕は入学からしばらく目に付いた相手に無作為に併走を挑み続けていたため、その中で面識を持った娘が出走表にもいた。取り分け親しいわけではないが、走りの能力はある程度把握している。

 以前の印象で語るのであれば、油断できる相手ではないが負けるような相手でもない、という程度。

 本格化に合わせて最後に走った時からよほど成長しているならともかく、トレーナーの調査にも引っかからなかったのであれば特別意識する必要はないだろう。

 

 ……彼女たちには申し訳ないが、負けるつもりは一切ない。そう言えるだけのものは積み重ねてきたつもりでいる。

 ルドルフに挑もうというのなら、せめてそれくらいのことはできなければならないから。

 デビュー戦で他の娘たちと互角の接戦を演じているようでは、ルドルフの影を踏めるようになるまでさえ何十年掛かるかわからないから。

 そうでなければならないのだと、僕は僕自身に課している。

 

 ――しかし。例え勝利を既定路線として扱うとしても、それは油断していい理由にはならない。なるわけがない。

 メイクデビューに挑むウマ娘たちは、皆それぞれに夢や希望を抱いて、そのために必死で走ってきている。油断や慢心が原因で敗北するなんて、そんなの何の笑い話にもなりはしない。

 

 トゥインクルシリーズ第一戦目。そこで戦う相手はルドルフではない。他の八人の出走者たちだ。

 レースの間、僕の“敵”は、共に走る彼女たちだけ。

 その間だけは、ルドルフのことは関係ない。極めて単純な、僕と彼女たちとの力比べ。

 彼女たちを相手に、自らの夢のために、ただ十全に走り、勝つ。それだけが僕のすべきことだ。

 

「いよいよメイクデビュー本番だ。実力で言えば、間違いなく君が出走者の中で一番速い。……君は他の娘より遥かに厳しいトレーニングを積んできた。彼女たちと君とでは、今までに走ってきた量が違う。その成果を見せる時だ。トゥインクルシリーズに名乗りをあげよう。……勝つぞ。ドラモンド」

 

「わかってる。まずは一歩目……絶対にやってみせるよ、トレーナー」

 

 決意を胸にトレーナーと頷きを交わして、僕はぐっと拳を握りしめた。

 




明けましておめでとうございます。
ぼちぼち書き溜め作業を挟むことになりそうですが、今年も何とかかんとか細々とやってまいりますのでよろしくお願いいたします。
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。