星に憧れた石ころウマ娘の物語   作:ボ・クッコスキー

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メイクデビュー・いつの日かあなたに

 ――メイクデビュー当日。

 新潟レース場は燦々と照り付ける太陽の下、文句なしの晴れ、そして良バ場となった。

 

 出走者に欠けもなく、9人立てのフルゲート。

 きっと皆この日のために仕上げてきたんだろう。それは僕も変わらない。やる気も十分、身体のコンディションも万全だ。

 ここ数日はあまり多く走れなかったせいで脚がうずうずしている。本番のレースでぶちかましてやるにはちょうどいい具合だろう。

 

「緊張……は、してないみたいだな」

 

「そうだね、特には。……むしろ、僕としては君の方が気になるんだけど。大丈夫?」

 

 レース前の控室。体操服に着替えてストレッチを行っている僕に、トレーナーが話しかけてきた。

 

 彼の言うとおり、僕はさして緊張していない。しているのは明らかにトレーナーの方だった。

 見るからに顔が青いし、呼吸が荒いし、身体震えてるし。ミーティングではあんなに威勢のいいこと言ってたのによくこんなに緊張できるなってくらい緊張してる。

 僕が他人の緊張に引きずられない性質でよかったね。そうでなかったらえらいことだよこれは。

 

「大丈夫だ。ドラモンドが勝つってことは何も疑ってない。……疑ってないんだが、ごめん。なんか手が震える。あと視界も」

 

 呆れて問いかけた僕に対し、トレーナーはそのかっぴらいた瞳孔をぶるぶる震わせながら言った。怖いんだけど。

 

「……まあいいけど、レースが終わったらちゃんと出迎えてよ。勝って帰ってきたのにトレーナーがトイレに籠ってました、とか嫌だからね。あと倒れて病院送りになったりもしないでね。ホントに。頼むよ。……気を付けてね? いやホントに」

 

「はい……気を付けます」

 

 一応言質は取っておいて、僕はストレッチの仕上げに入った。一方トレーナーは椅子に腰掛けて相変わらずぶるぶる震えている。

 まったく情けないと思わないでもないが、それだけ僕のことを真剣に考えてくれている証拠だと思っておこう。

 

 僕に期待してくれているから、彼はこれだけ挙動不審になっているわけだ。

 そんな彼に対して今僕がやるべきことがあるとすれば、それは――

 

「じゃ、そろそろ行ってくるよ。……見といてね、勝ってくるから」

 

「……ああ。見てるよ、君が一着でゴール板を駆け抜けるところを」

 

「ん、それでよし」

 

 それが単なる杞憂だったのだと、この脚で証明してくることだ。

 

 

 

◇◇◇

 

 

 

 パドックへ移動すると、レースを待つ観客たちの騒めきが出迎えてくれた。

 メイクデビューにもかかわらず、客席には結構な人数の人々が詰まっている。この世界の人たちはトゥインクルシリーズに高い関心を寄せているので、G1や重賞みたいな大レースに限らず色んなレースを見てくれる人が多い。

 未来の名バのレースを一から追いかけていきたい! という熱意ある人も少なくないので、特にデビュー前から大きく話題になるような一部のウマ娘……要するにルドルフみたいなのが出る時は席が全部埋まったりもする。応援される側としてはありがたい話だ。

 

 順番を待ち、パドックのお立ち台へ上がると、数えきれないほどたくさんの人々の目が僕に集まった。期待や興味に輝くような視線だ。

 何だか変な感覚だった。前世の僕ならガチゴチに固まっていたと思うけど、今は特に気にならない。その期待に応えたいとは思うけど、それくらいだ。

 

『一番人気はこの娘、5番フロクスドラモンド』

 

『素晴らしい仕上がりですね。彼女は追込を得意とするとも聞いていますが、新潟レース場の長い直線でいい脚を見せてくれるでしょうか。期待したいところです。……しかし、随分落ち着いている様子ですね。デビュー戦とは思えないほどです』

 

 人気という評価、すなわち向けられた期待をありがたく受け取りつつ慣例に従って上着を脱ぎ去り体操服姿になると、途端に観客席からわっと歓声が湧き起こる。どうやら僕の身体の出来栄えは彼らのお眼鏡に適うものだったらしい。

 僕が一番人気なのは、トレセン学園で過去開催された模擬レースなんかの成績から来る評価だ。一応僕は同期の中だと頭一つか二つくらいは抜けた成績を残しているので、そこそこ注目はされている。ルドルフがさらにそこから頭五つか六つか、それ以上かくらい抜けているだけで。

 

 ……しかし、いつも不思議なんだけど、彼らは遠目からどうやって仕上がりなんて判断してるんだろうな。さっぱりわからないんだけど、彼らには普通に何かが見えているようなのだ。

 当たり前の話だけど、ウマ娘の筋肉とかは馬ほどバ体とかには表れない……というか人間基準で考えても実際の筋力に対して筋肉量が比例しない上見た目にも全然影響しないので、正直僕は外見で強そう弱そうという判断がいまだにできないのだが。

 めちゃくちゃ鍛えてるのに正直脚とかもそんなに硬そうには見えないし、力入れると鋼みたいな感触にはなるんだけど、外目にはそれもよくわからない。あまり意識したことはなかったけど、このあたりの感覚のずれは前世持ちの弊害か何かなのかもしれない。

 まあこの世界のヒト息子やヒト娘の特性と考えた方がいいのかも。異常に頑丈な人とか多いし。主に校舎の廊下とかでウマ娘と正面衝突して保健室送りになるトレーナーは結構いるけど、あれ普通に考えたら病院送りだと思うんだよな。それかあの世行きか。

 

 

 所定の時間のお披露目を終え、お立ち台から降りる。

 益体のない考え事を切り上げて、僕は今回の対戦相手たちの顔ぶれを見回した。

 

 全体的に、緊張が色濃く顔に出ている。見知った顔も幾つかあったが、声を掛けてくるような余裕は誰にもない様子だ。誰も彼もがひりつくような空気を纏っていて、このレースに懸ける想いの強さを窺わせる。

 当然だ。トゥインクルシリーズ第一戦、メイクデビュー――この場に立つために、皆一体どれほどの努力を重ねてきたのだろう。

 そんな中にあって、ただ一人僕だけが特別普段と変わりない心地でこの場に立っている。

 

 勿論、レースへの高揚はある。自分が勝つ、という気負いも心中には燃えている。

 しかし、不思議なくらい緊張はなかった。

 

 その理由が何であるかと言えば、それはきっと――今以上に遥かにずっと、緊張したレースがあったからだ。

 ルドルフに挑んだあの時の併走に感じたものを、あの時必死で噛み殺した震えを、このレースが超えることはないというだけ。

 

 敗戦の記憶が与えてくれる力に今は感謝して、僕は静かに息を吐いた。

 開戦はもうすぐだ。

 勝利の栄冠を、奪い取りに行くとしよう。

 

 

 

◇◇◇

 

 

 

『――青空広がる新潟レース場第五レース、メイクデビュー芝外回り1600m九人立て。バ場の発表は良となっております』

 

 場内に響く実況をぼんやり聞きながら、係の人に促されるままゲートに入る。

 格子に阻まれたこの窮屈な空間は、広々としたこのターフの上にしては随分硬質で冷たい印象を受ける。すぐ近くには同じく出走を待つライバルたちがいるはずなのに、外から聞こえる声や差し込んでくる光もどこか隔絶して思えて、一人きりになってしまったような寂しさを感じさせる場所だ。

 僕はそんなゲートの中も特別嫌いでも苦手でもないが、受け付けない娘がいるのも何となく理解はできた。本人の気構えなんかはもはや関係ない、単なる本能による拒否反応だ。

 

『全ウマ娘ゲートイン完了。出走の準備が整いました』

 

 とは言え、今回は幸いスムーズに終わったようだ。

 全員がゲート入りを終え、少しの間その時を待つ。

 

 観客席の騒めきが収まっていき、レース場を包み込む空気が鋭く研ぎ澄まされ、ゲートの中の冷たさは掻き消されてじんわりと熱を帯びていく。

 出走を待つウマ娘たちの呼吸の音を聞きながら、闘志が高まっていくのを感じる。

 他の誰でもない、自分が勝つのだという想いだけが、ゲートに納まりきらないほどに際限なく膨れ上がっていく。

 

 戦いへ向けた高揚に微かに高まる鼓動を聞きながら、係員の声で全員が態勢を整え、そして――

 

『――スタートしました!』

 

 ゲートが開くその瞬間、僕たちは一斉に駆け出した。

 

『ややばらついたスタートとなったか、6番グリーンアトリウム少し出遅れました。4番プレイスインヘヴンいいスタートを切って早くも先頭か、三番人気1番リトルトラットリアが二番手、8番ロイヤルマリーンがその後に続いて先行集団を形成しています。少し開いて四番手には二番人気3番スクイーズアウト、2番アクアガイザーに7番ミニコットンが並んでその後ろに9番リボンオペレッタ。6番グリーンアトリウム遅れを取り戻そうと喰らい付き、一番人気5番フロクスドラモンドが最後方。差はありません』

 

『フロクスドラモンドは自分から後方に下げましたね。前評判どおりの戦法ということでしょうか』

 

 別に多少出遅れたとしても気にはしないが、とは言えスタートそのものに手は抜かない。手応え的にはそれなりの好スタートを切りつつ、横目に周囲の様子を確認する。

 内枠側の隣から飛び出した娘が明らかに前を狙っている。おそらくは逃げを打ってくるものと事前に予想していた娘だ。レース開始直後から勢い込んでぐんぐん伸びていくその背中を大人しく見送る。

 他の娘たちも積極的に競りかける様子はなく、一人飛び出していった彼女に追随する形。ひとまずはおおよそ予想どおりになりそうか。

 

 隣で出遅れていたらしき娘は先行策が基本だったはずだが今は僕のすぐ傍で、必死に位置を上げようとしている様子。これは予想外と言えば予想外だが、彼女にとってどうかはともかく僕にとってはさほど問題はない。

 前方で位置取り争いが行われているのを尻目にいつもどおりのレースを開始する。僕は時期が来るまで後方で抑えていればいい。体格に劣る僕は位置取り争いに明確な不利がある。無意味にポジションを取りに行って体力を消耗するのは単なる愚策だ。

 

 集団の最後尾に取りついて前の背中を追う。それなりに鍛えてきたつもりの、しかし実戦で誤作動を起こさないかはまだ未知数の体内時計を含めた感覚は現状をスローペースだと判断している。

 スタート直後から3コーナーまでは直線。それぞれ位置を争い整えながら本番である後半に備えている構図。

 

 案の定というべきか、逃げの娘はそれほど積極的な手を打ってくる様子はない。単独逃げを活かしてペースを抑えつつ、そして他の先行集団もそれに従い纏まっている。中団はそれに続いて、僕はさらにその後ろ。想定どおりの展開と言っていい。

 追込である僕にとってスローペースは嬉しくはないが、バ群は広がらずに進んでいる。

 ならば悪い状況ではない。

 程々に力を抜きつつ、流れにそのまま追従することを決める。

 

『残り1000mを通過、第3コーナーのカーブです。先頭から後方までそれほど距離はありません』

 

『最後の直線を意識して、先行集団がペースを落としているようですね』

 

 ――緩い走りだ。正直なところ、走っていてそれほど苦しいとも感じない。

 積み重ねてきた練習の方が、そしてルドルフとのあの併走の方が、遥かに辛くて苦しくてしんどかった。

 そう思えるだけの余裕があることに、ひとまずは小さく安堵する。

 

 最終直線は約660m。あまりに長い最後の直線の存在を、誰も彼もが意識せざるを得ない。

 皆が皆最後の直線を意識しすぎて……あるいはその上に、ハイペース戦に持ち込んで僕の脚にしてやられるわけにはいかないと考えて、速度を落としている。

 

 僕とトレーナーが彼女たちの能力や戦法を可能な限り調べたのと同じように、彼女たちも僕のことを調べてきているはずだ。

 彼女たちがその目で見たかもしれない僕の練習風景や、併走での走り……はたまた、彼女たち自身の持つ、僕との対戦の記憶。

 そして、僕に与えられた“一番人気”という、第三者から与えられた能力への評価。この場にいる全員の中で僕が一番強いのだと、多くの人々が判断した証そのもの。

 それらが、彼女たちへ判断を強いる。一団の最後方を走る僕の存在を、彼女たちは意識せざるを得ない。

 あるいはそれらが警戒に値するものでないと思うのであれば、そう思っておいてくれても構わない。それが自負であるか慢心であるかは、レースの着順だけが語るだろう。

 

 いずれにせよ、後方脚質でもあり、中距離を走れることも知られている僕に対してスタミナを削りに行って勝負する選択肢は薄く、ならばスタミナは余らせて最後の末脚勝負を制する。それがおそらく出走者たち全体の共通認識だ。

 彼女たちの判断そのものは、決して間違っていない。

 

 ――しかし。その結果、バ群はむしろ極端な団子状態になってしまっている。

 

 それは僕に利する展開だ。

 レースの展開を気にする必要はない。

 このままでいい。

 

『先頭は依然4番プレイスインヘヴン、二番手には1番リトルトラットリア。800mを通過第4コーナーのカーブ、三番手は外から8番ロイヤルマリーン、その内側に3番スクイーズアウト並んでくる』

 

 メイクデビューは僕たちにとって初めての実戦だ。だから誰だってどうしても冷静に的確に走ることはできない。レース運びは必然的に粗の目立つものになる。

 そしてそれを、僕は後ろからずっと眺めている。

 

 レースにおいては前を走るのが絶対的な有利。“理想”の話をするのであれば、最初から最後まで徹頭徹尾一番前を走り続けることこそが最強の戦術。

 しかし、後ろを走ることにも多少の利点がないわけではない。

 レース展開の確認をするのは後方であればあるほど楽になるからだ。

 前を走っている娘たちは今僕がどのあたりの位置を走っているかなんて正確なことは把握できていないだろうが、カーブを曲がる最中、その背中がどの程度離れているのかなんて僕には一目見ただけでわかることに過ぎない。

 だから理解できる。

 

 

 この距離は、射程圏内。

 

 

『4コーナーから直線、各ウマ娘横に広がってリトルトラットリア先頭を狙っている、しかし横からはスクイーズアウト、ロイヤルマリーンも並びかける、外から7番ミニコットンも上がってくる!』

 

 最終直線に差し掛かり、周囲から熱気のように噴き上がる戦意を肌で感じる。

 バ群が解れるように開いていき、各々がスパートの体勢を整える。

 それは当然、僕も同じ。

 胸の中で滾るような熱に急かされて脚の回転を速めて加速を図る中、ふと見知った顔が一つ――決死の覚悟を浮かべる横顔が、目に入った。

 

 ――トゥインクルシリーズの第一歩目。

 このレースを勝つために、この場にいる全員が必死の努力を積み重ねてやってきた。

 例えどんな想いでゲートに入ったとしても、今はきっと皆自分の勝利しか見えていない。

 

 ここにいるのはみんな同期だ。

 だから同期とあればとりあえず併走を挑みに行く僕にとっては幾つか面識のある顔もあって、その夢について聞いたこともあったりする。

 

 例えばミニコットンはティアラ路線に挑んで女王の座を手にするのが夢。

 リトルトラットリアは天皇賞の盾が目標。

 スクイーズアウトはファンに選ばれてグランプリウマ娘になりたいって言ってたか。

 

 誰もが自分だけの夢を胸にトゥインクルシリーズを走りに来る。

 この学園に来るために無数のライバルたちを蹴落としてその席を奪い取り。

 このメイクデビューに出るために多くのライバルたちとの戦いを制してトレーナーを得て。

 

 そして今日、彼女たちが抱いた夢の幾つかは、たった一人の勝者によって無残に砕かれ失われるのかもしれない。

 

 

「――それでも」

 

 

 謝ることはしない。

 許してほしいとも言わない。

 恨んでくれて構わない。

 

 ただ、今日、僕は。

 誰かがこの日に抱いていたその夢を、その先に描いた夢を。

 

 踏み躙って、

 踏み潰して、

 蹴り砕いてでも、

 

 

「勝つのは、僕だ……ッッ!!」

 

 

 自分の夢のために走るって、決めてきた……!!

 

 

『先頭は4番プレイスインヘヴンまだ維持しているか、しかし3番スクイーズアウト迫っている、外から7番ミニコットンも来ている――だがここで内を突いてっ』

 

 新潟レース場の長い直線、スローペースの団子状態から、全員横並びのよーいドンで走るのなら、絶対的に有利なのは僕だ。

 それは身贔屓でも何でもない、純然たる事実に過ぎない。

 

 だって、そのための脚を鍛えてきたんだ。

 末脚が僕の武器なんだって言ってもらったんだ。

 

 これで負けたら、トレーナーに顔向けできない。

 

 全部纏めてぶち抜いてやれなきゃ、話にならないんだよ……ッ!!

 

『――5番フロクスドラモンドだ! 凄い脚で追い込んできているぞ!! 瞬く間に抜き去っていく!!』

 

 いっそ殺意にも似た闘争心を燃料に脚を回転させ、蹄鉄で芝を抉り、土を撥ね飛ばして、眼前に開いた隙間から一気に進出を開始する。

 荒い呼吸で必死に走っている横の娘たちを引き千切り、一瞬の内に置き去りにして先頭を捉え――そしてそれも、一息に突き放す。

 一歩を踏み出すごとに背後へと遠ざかっていく彼女たちの足音が、それを僕に教えてくれる。

 

「ぁ……っ」

 

 風を切る音の最中、ウマ娘の鋭敏な聴覚が、抜き去った誰かの溢した微かな悲嘆の吐息を拾った気がした。

 それでも脚は緩めなかった。

 

『グングン伸びるフロクスドラモンド! 突き抜けた勢いのままリードを広げている!! 後ろからは誰も付いてこれない独走態勢っ!!』

 

 前を見る。

 前だけを見て走る。

 全力で、ゴールだけを目指す。

 今はただ、そこにある勝利だけが欲しい。

 

『強い走りだ! 脚色は衰えないままっ――』

 

 目の前には誰もいない。

 行く手を阻むものは何もない。

 脚はいっそ軽かった。

 走れば走るだけどこまでも速くなれるような気さえした。

 本能の喚き立てるままに、ひたすらに力いっぱいターフを蹴り続け――

 

 

『――フロクスドラモンド、ゴールイン!!』

 

 

 ――そうして、ゴール板を走り抜けたしばらく後。

 観客席から湧き上がる歓声に迎えられて、僕はようやく、自分の勝利を自覚した。

 

『凄まじい直線一気を見せて実力を証明しました、5番フロクスドラモンド! 二着に六バ身差を付ける圧勝です――!!』

 

「……勝っ、た?」

 

 脚の回転を緩め、荒くなった呼吸を整えながら、レースを終えた後の高揚感と虚脱感に包まれたぼんやりとした意識のまま、観客席に目を向ける。

 

 拳を振り上げて何かを叫んでいる男性。

 友達と一緒に興奮して喋っている女性。

 控え目に拍手をしながら微笑んでいるお爺さん。

 母親に抱き上げられながら、瞳を輝かせている少女。

 

 色んな人がそこにいた。

 全てではないけれど、そこにいる多くの人が笑顔を浮かべていた。

 そして、僕の勝利を祝福していた。

 

 それは、どこか現実感のない光景に見えた。

 

「勝った……のか。僕、が……」

 

 目の前にある現実を呑み込めないままに、口の中で呟く。

 

 勝てるはずだと信じられるくらいの努力をしてきて、勝てるはずだと判断できるくらいの実力を身に付けて、勝てるはずだと思って挑んだレースだったにもかかわらず、その勝利を実際に手にした時、僕はいっそ困惑していた。

 

 呆然と観客席を見上げたまま、どうしてだろう、と纏まりのない思考の中で投げかけた問い。

 

「――ああ……そっか」

 

 その答えは、さほど間を置くことなく降りてくる。

 

 ――それはきっと、単に僕が負け続けてきたからだ。

 勝つということへの実感が、遥か過去のものへと押しやられてしまっていたからだ。

 

 初めてルドルフに挑み、そして完膚なきまでに敗北したあの日から。

 いつどこを走っていても、僕の前には常に彼女の姿があった。

 

 その影を追い続けていた。

 振り払ったと思っても、追い抜いたと思っても、いくら頑張っていくら速くなっても、その先には必ず見る度に洗練されていく本物の彼女がいて、その度にその背中が記憶に焼き付く新たな影になった。

 そうして幻影に敗れ続ける内に、僕はおそらく、知らない間に“勝利”というものを忘れていた。

 

「ああ、でも……今日は」

 

 ――けれど今、ゴール板を駆け抜けた僕の前には誰もいなかった。

 当然だ。

 同じゲートに入り、このレースを一緒に走って、ゴールの先にあるたった一つの勝利の栄冠を争ったのは、今僕が抜き去ってきた八人のウマ娘たち。

 断じてルドルフでもなければ、その幻影でもない。

 だから。

 

 ルドルフに勝てたわけではない。

 夢が叶ったわけではない。

 あの日から今日までの間に、憧れた背中に近付けたのかさえ今はまだわからない。

 

 

 それでも。

 それでも、今日は――

 

 

「――僕の、勝ちだ……っ!」

 

 

 電光掲示板に示された、僕の背負った5番の数字が、確かに僕の勝利を伝えてくれている。

 

 少し震えた手を強く握りしめ、拳を天に突き上げた。そうすると、客席から湧き上がる歓声はその仕草に応えるように大きくなった。

 降り注ぐ祝福を一身に受ける中で、その最前列に目を向ける。

 

 そこには、僕のトレーナーがいた。

 専用の応援うちわを振り乱し、これ以上ないくらいに全身で喜びを表現している彼の姿に思わず笑みが溢れる。少しだけ手を振ると、うちわをぶんぶんするその動作はさらに大きなものになった。

 普段であれば恥ずかしく思ったのかもしれない。けれど今は、そうして彼が喜んでくれることが、嬉しかった。

 

 ――これが、レースの勝者のみが見ることのできる景色。

 僕だけに許されたその光景を、しばらくの間じっくりと味わって。

 

 

 

 そうして最後に、僕は今しがた走ってきたばかりのコースへと振り返った。

 

 そこには、ターフの上に崩れ落ちる、この光景を見ることのできなかった……勝者の裏側に必ず存在する、敗者たちの姿があった。

 

 二着との間で、六バ身差。

 その着差を、彼女たちがどう感じたのかを知ることはできない。

 けれど決して心穏やかでなどいられないだろう。

 荒い呼吸を必死に押し殺しながら、唇を噛み締めながら、僕を見つめるその瞳たちが何よりも克明にそれを物語っている。

 

 ――もしもルドルフがここにいたら。

 僕の代わりにこのレースを全力で走っていたのなら、着差は六バ身ではなく大差になっていたのかもしれない。

 

 それでも、今はただこの勝利を誇り喜ぼう。

 それが、僕が打ち負かした彼女たちへの、せめてもの礼儀だと思うから。

 

 だから、芝の上に崩れ落ちながらも僕を睨みつけてくる彼女たちの視線を、僕はじっと見つめ返した。

 それはきっと、敗北に圧し折られて苦しんでばかりいた僕とは違う、強い瞳だと感じたから。

 

 そうして、何となく思う。

 なるほど確かに、今僕に負けたばかりの彼女たちを、僕は“弱者”などとは思えない。

 ……この感情が、あの日ルドルフが僕に感じたものだったのかもしれないな。

 

 

 

◇◇◇

 

 

 

「――ドラモンドっ!!」

 

「ああ、トレーナー。ただいま、勝ってきたよ」

 

 勝利の実感に緩む口元をそのままにして控室へと歩いていた僕に、その道中でトレーナーが駆け寄ってくる。

 部屋で待ってくれていてよかったのに、わざわざ迎えに来てくれたらしい。息を切らしながらも満面の笑みを湛えたその姿に、自らの笑みも深まったのを自覚する。

 

「それで……僕の走りはどうだった? 期待には応えられたかな」

 

「ああ……っ、本当に、素晴らしい走りだった!」

 

「そっか。……なら、よかったよ」

 

 答えなんてほとんどわかっていて投げかけた問いに返ってきた返事は、やはり期待通りのものだった。その事実に満足して、一つ頷く。それを聞きたくてわざわざ問いかけたのは、やり方としては卑怯だったかもしれないけど。

 

「さてと。レースは無事に勝てたわけだし、次はライブの準備をしないとね」

 

「そうだな! 応援の用意は大丈夫だ、シャツとハッピも作ってきたし、鉢巻きとタスキも持ってきた。うちわは十枚、ペンライトも合計ニ十本用意してある! 万全だ!!」

 

「万全すぎるでしょ……全然腕足りてないけど」

 

「君の初めての晴れ舞台だぞ!? 夢が叶ったわけじゃなくても、君の……君の努力が、ようやくっ、少しでも実を結んだんだ……っ、トレーナーの俺が、それを祝ってやれなくてどうする!?」

 

「……ま、やりすぎだとは思うけど、気持ちは嬉しいよ。せっかくのライブなんだし、全力で応援してね。僕もちゃんと見てるから」

 

「ああ、勿論だ!!」

 

 興奮のあまり圧の強まっているトレーナーをいなしながら笑う。

 デビュー戦を終えたばかりでそのライブすらまだだというのに、彼は既に感極まっている様子で、その目尻には涙さえ浮かんでいた。

 

 さすがに泣くにはちょっと早いでしょ、と思う気持ちもあったけど……

 そのいつだって明け透けな態度に、呆れたり、恥ずかしくなったり、まっすぐには受け止められなくてからかったりもするけど。

 

 

 ……本当は。

 君がそうして、何の衒いもなく全力で喜びを表してくれるから、僕も一緒に、夢へ向けたこの一歩を喜べるんだって。

 本当は、わかってる。

 

「……あのさ、トレーナー」

 

「ああ、なんだ?」

 

 だから、微かな逡巡を振り払って僕は口を開いた。

 

「ありがとね、勝たせてくれて」

 

 ――僕は、あまり素直に物事を表現できる性質ではない。

 感情を隠さず飾らずに表に出すのは酷く苦手だ。外面を程々に取り繕いながら、表に出しても構わない感情を理性で選び取りながらずっと生きてきたから。

 それはある種の防衛本能みたいなものだ。本音を出して、それを無碍にされて傷つくのが嫌だったから、いつしか一番大事な感情は隠すようになった。本心を誤魔化す癖がどこかで付いてしまった。

 

 けど、それでも、今は彼に伝えたかった。

 彼が僕に与えてくれた勝利に、ほんの少しでも報いたかった。

 

「君がいなければ、僕はきっとここにいなかった。夢を叶えることはおろか、そのための一歩を踏み出すことさえできなかった」

 

「……ドラモンド」

 

「今でもそうだ。君が支えててくれなかったら、僕はきっとルドルフに挑むこともできないまま。君が“勝てる”って言ってくれたから、君が本当にそう信じてくれているってわかるから、僕は今も走っていられる」

 

「そんなことは……っ」

 

「あるよ。僕が今日こうして勝てたのは、君のおかげ。自分が一番よくわかってる」

 

 否定しようとするトレーナーの声を遮って、首を横に振る。

 

 僕は弱い。

 肉体的な素養や実際の能力がどうとかの話ではなく、心が弱い。

 自分が追い求めた夢に向かって走ることに、今でも脚が震えてしまうくらい、弱い。

 

 それでも、彼は僕を信じてくれている。僕の“外付けの自信”でいてくれる。

 だから、僕は夢を追っていられる。

 その喜びを、彼自身にだって否定させたくはなかった。

 

「きっとこれからも、僕は何度も揺らぐと思う。怯えて、負けて、挫けて、それで……いつまで経っても追いつけない自分が嫌になって、後悔したり泣き喚いたりもするのかもしれない」

 

 それは想像しやすい未来だった。

 きっと現実になるであろう未来だった。

 

 僕にとって本当に苦しい日々は、きっと今に至る過去ではなく、今から続く未来のことだ。

 今日得たこの喜びも何もかも、繰り返される敗北の痛みと苦しみと嘆きで塗り潰される日々が、今から始まる。

 

 けれど。

 そんな未来が、必ずやってくるとわかっていても。

 

 それでも。

 

「――それでも、今、僕が……本当に、心の底から、君に感謝してるんだって、知っていてほしい」

 

「ドラ、モンド」

 

「今日を逃せば、次に伝えられる日はきっとずっと先のことになる。明日からはまた、ルドルフを追いかけ続けるだけの毎日だから。だから、今日だけは……君が初めて僕にくれたこの勝利を、ただ喜んで……それで、この気持ちを伝えるために使いたい」

 

 ――思えば彼と契約を結んだあの日、僕が感じた想いを、言葉にして彼に伝えたことはなかった気がする。

 あの時は散々泣いてしまったから、言葉にしなくとも伝わっていたかもしれないけど。

 それでも今、改めて伝えておきたかった。

 

「トレーナー。君がいるから、僕は夢を始められる。君がいるから、僕はトゥインクルシリーズを走り出せる」

 

 僕に“勝てる”と言ってくれたことが、

 僕を支えたいと言ってくれたことが、

 あの日僕に手を差し伸べてくれたことが――一体、どれだけ嬉しかったのか。

 

「……僕を」

 

 一度息を吐き出して、深く吸い直す。

 

 何かを飾ることはしない。

 その必要はない。

 ただ心の底から湧き上がってくるこの本心だけがあればいい。

 

 僕を見つめるトレーナーの泣きそうな瞳を見返して、詰め込めるだけの感情を言葉に詰め込んで、

 

 笑顔だけを満面に湛えて、僕は言った。

 

「――僕をスカウトしてくれて、ありがとう。あの日、あなたを信じてもいいって言ってくれたことが……言葉では表せないくらい、本当に嬉しかった」

 

「……っ」

 

「だから――」

 

 

「例えこれから何があっても。あなたに見つけてもらえたことが……あなたが僕のトレーナーになってくれたことが、きっと僕の、人生で一番の幸運だと、信じています」

 

 

 言葉にはとても詰め切れないこの想いが、少しでも多くあなたに届いたことを願う。

 

 そして、言葉にしてもなおいくらでも溢れてくるこの想いが、少しでも多くあなたに届くように――

 

「……感謝を込めて、今日のライブは精一杯頑張るから。ちゃんと見ててね」

 

「――ああ……ああっ、絶対に……絶対に、何一つ見逃さない。聞き逃さない。約束する……!」

 

「ん。……それでよし」

 

 

 

◇◇◇

 

 

 

 ――ウイニングライブ。

 レースに勝利したウマ娘が、自分を応援してくれた人に感謝を伝えるために、彼らに歌と踊りを届ける晴れ舞台。

 

 ……正直なところ、そんなライブに対して僕は全くと言っていいほど思い入れがなかった。

 勿論、ライブを見るのが嫌いなわけではない。応援していたウマ娘が勝ってくれれば嬉しかったし、実際にこういう会場で母に抱かれながらペンライトを振り乱したことだってある。楽しいものだとも思っている。

 でも、レースに対する想いが走るの大好きという感情から直結している僕にとって、レースに対する想いとライブに対する想いは全くの別物だ。

 レースは走ることを楽しみ、あるいは勝利を求めるための場所。ライブは応援していた娘の勝利を祝って、歌とダンスを楽しむための場所。それだけでしかなかった。

 だから、歌やダンスも真面目にこなしてきたのは、それが単に僕に要求されている能力で、恥を掻きたくもないから、言ってしまえば仕方なくやっていたことでしかなくて。

 

 

 でも。

 今は違う。

 

 僕の勝利を喜んでくれた人たちが、僕のイメージカラーである、葦毛の白と瞳の紫を混ぜ合わせた淡紫色のペンライトを振って喜んでくれているのが見える。

 歓声の中に、「おめでとう」だとか、「次も頑張れ」だとか、そんな言葉がいっぱい混じっているのが聞こえる。

 

 そして。

 そんな観客たちの最前列に――応援用のグッズを全身に着込み、レースの時にも持っていた応援うちわと、それから新しくペンライトをその手に大量に携えて、腕が折れそうなくらい必死に振り乱しているトレーナーがいる。

 

 この光景を見てもなお、感じるものがないなんて、口が裂けても言えはしない。

 

 頑張って練習してきたセンターの振付と歌。

 必ず踊ると決めていたから、特に念入りにやってきた。

 けれどそれをなぞるだけではとても満足できなくて、僕は身体から湧き出る熱の全てを歌声と指先とステップに込めて歌い踊った。

 今僕を満たしている何もかも全てを伝えたくてたまらなかった。

 

 ――これからルドルフを相手に戦い続けることになるであろう僕にとって、この光景を見られる……センターとして舞台に立てる機会は、決して多くないだろう。

 きっと、今日というこの日僕を応援してくれていた彼らも、負け続ける僕をやがて見限って、一人一人と消えていくのだろう。

 負けるとわかっていて挑み続ける僕は、その内人々に嘲われるようになるのかもしれない。

 

 ひょっとしたらいつか、その事実を恨む日が来るのかもしれない。

 ルドルフに対して振られるペンライトの色に苛立つ時が、センターに立てない自分に苛立つ時が来るのかもしれない。

 僕の心は決して強くない。だからその未来を否定することはできない。

 

 ただ、それでも。

 今日この日、この場所で見た光景を、永遠に忘れたくないと――きっと永遠に忘れることはないと、そう思った。

 

 ペンライトを振る人々へ、全力の笑顔を浮かべて踊り、歌う。

 それからその後に、ボロボロと涙を零しているトレーナーに視線を送り、彼だけに向けて笑顔を贈った。見逃さないと言っていたから、きっと気づいてくれただろう。

 

 

 ……頑張るから。

 何度負けても。何度挫けても。勝てるまでずっと。

 だからその時まで、僕を支えていてほしい。

 きっと僕は負け続けるけど、それでも。

 いつか僕がルドルフに勝利して。

 そうしてセンターで踊る、その時まで。

 

 その時の僕の喜びを、その時の僕の感謝を、今ここで僕の勝利を喜んでくれた人たちに。

 

 

 誰よりも――僕を支えてくれるあなたに、伝えたいんだ。

 

 

 願いを込めて、僕は強くステップを踏んだ。

 誰かの前で、誰かに向けて歌って踊るなんて、そんなことがこんなに楽しくて嬉しいなんて、初めて知ったんだ。

 

 

 ――この日、僕は“ライブ”というものが好きになった。

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