星に憧れた石ころウマ娘の物語   作:ボ・クッコスキー

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“特別”とそうでないもの

 ――大御所。

 エリート。

 中堅。

 新人。

 関係なく。

 

 のべつ幕なし、数えきれないほどのトレーナーたちが、押し寄せる波のように一人のウマ娘の元に殺到している。

 

「素晴らしい走りだった! 噂さえ超えるほどの実力を感じたよ!」

 

「君ならば必ずや三冠を成し遂げられる! 是非、私にその手伝いをさせてくれないか!?」

 

「いいえ、私なら三冠を超えて五冠でも、七冠でも取らせてみせる! だからお願い、私の手を取って!」

 

 ……エトセトラ、エトセトラ。

 話題の中心となっているはずの人物は、もはやここからでは目にすることもできはしない。ただきっと、あの自信に満ちた微笑みを浮かべているのだろう。

 

 

 当然だな、と何となく思った。

 

 前世で彼女の目標――理想を知っていて、そのためにどんな覚悟を決めていて、そしてどんな未来を歩いていくのかも、ある程度知っている僕という人間から見て。

 そして今、完膚なきまでに叩きのめされた、正直なところ結構あったプライドを、真正面から粉々に砕かれた、今世を生きてきた僕というウマ娘から見て。

 

 彼女という一人の主役を取り囲む世界。

 その中にいるはずなのに、今彼女と確かに戦ったばかりのはずなのに――誰の目にも映らずに、荒い呼吸も整えられないまま、こうしてぽつんと一人で佇んでいる……僕という、負け犬から見て。

 

 

 せめてそうであってくれなければ、報われない。

 

 

「……ッ」

 

 力任せに剥ぎ取られた虚飾の仮面の裏側から、弱気な自分が顔を出す。

 それを無理やり噛み殺すように、僕は震える手を膝から離して、ふらつく足を引き摺るように、その光景に背中を向けた。

 これ以上見ていたら、崩れ落ちてしまいそうだった。

 

 

 よろよろと歩き始めた僕に気づく人なんて誰もいない。みんながみんな、シンボリルドルフという一人のウマ娘に夢中になっている。

 スタートの前に思ったとおりだった。僕というウマ娘は、彼女の放つ輝きを前にしては路傍の石ころと相違ない。

 

 だから、この敗北はもはや屈辱ですらない。

 

 明日を待つまでもない。

 今この時。

 この場にいる誰も、彼女の勝利しか見えていない。

 

 きっと誰も、

 必死の必死の全力の全力の全力で、

 追い縋ったのに引き千切られて、

 八バ身差を付けられて大敗を喫した、

 

 僕の名前なんて、覚えていないんだ。

 

 

 

 ――そうして、コースを立ち去り屋内に引っ込むまで。僕は結局、誰にも声を掛けられることはなかった。

 牛歩並の遅さで、人間の足でだって一瞬で追いつけるくらいの速度しか出ていなかったのに。

 

「ぐ……ぅ……ッ」

 

 それが当然だとわかっていながら、吐き出せもしない、形にもなり切っていない胸中を渦巻く感情の塊が、ただ呻きになって微かに漏れた。

 

 冷たい壁にもたれかかって、そのままずるずると崩れ落ちる。

 芝の上で膝を突かなかったのはただの意地だ。けれどそんなもの、本当に誰の目にも映らないこんな場所では何の意味もない。

 シンボリルドルフが走ったレースの会場から立ち去れば、僕はただの、名もなきウマ娘の一人に過ぎないのだから。

 今しがたレースを走ってきて、そこで完膚なきまでに負けてきたのだということすら誰の記憶にも残っていない。

 

 ならばもう、意地を張る必要などどこにもない。

 

「……く、そ……っ」

 

 零れた言葉の由来がどこにあるのか、それすら僕にはわからなかった。

 

 悔しかったのか? 悲しかったのか? 苦しかったのか? 辛かったのか?

 

 おそらくそのいずれかが正解なのだろうとは思う。あるいはそれらが混じりあったものなのかもしれない。

 けれど、その感情に正しい名前が与えられることはないだろう。

 

 だって、それらの感情が湧き上がってくる前に。

 彼女の背中を追って走っていたあの時。

 

 僕はただ、“勝てない”とだけ思ったのだ。

 

「くそ、くそっ、くそッ、くそぉ……ッ!」

 

 それが何であるかさえわからない激情に振り回されるまま。

 きっと嘆いているはずなのに、歪められた目元からは涙が零れることさえなかった。

 

 

 寮の自室に戻り、汗を拭いて、着替えを済ませて、自分のベッドに寝転がる。

 シャワーを浴びたい気持ちもあったけど、そのための気力も奮い起こせずに、僕はただぼーっと天井を眺めていた。

 

「……ドラちゃん、大丈夫? 元気なさそうだけど」

 

「ん……ああ、大丈夫だよ。レースでちょっと疲れただけ。心配かけてごめんね」

 

「そお? ならいいんだけど……」

 

 ぼんやりしていた僕に心配そうに声を掛けてくれたのは、同室のミニマムタンジーちゃんだ。

 ふわふわ髪質の長い栗毛を二つ結びにして両肩に流した、タンポポみたいな色をした垂れ目の可愛らしい少女である。

 ウマ耳はちょっぴり大き目で、尻尾は癖毛がち。毎朝悪戦苦闘している。黄色の花飾りは左耳に付いているので、ウマソウル的には牝馬なのだろうか。

 

 垂れ目の印象そのままにおっとりした性格で、物腰柔らかな気配り屋。お菓子を作るのと食べるのが趣味だそう。

 原作のゲームやら何やらで見かけた覚えはないので、言い方は悪いが端的に表現するとおそらくはモブキャラなのだと思う。それか、僕の知らない競走馬のウマソウルを引き継いできた娘なのかもしれない。

 まあどちらにせよ、この世界が現実のものである以上は、速いも遅いも関係ない一人のウマ娘であることに変わりはないのだが。

 僕にとっては同室であると同時に同期であり、そして当然だが普通に速いので、併走をしていると時々逃げ切られることがあるライバルでもある。

 

 ちなみにミニマムとは名ばかりで身長は173㎝。体形もかなりのダイナマイトぶりだ。正面から抱きしめられたら僕はおそらく窒息死するだろう。ドラちゃんみたいに可愛い方がよかったなあ、とは本人談。

 そういう僕は身長150㎝、スリーサイズはストン、キュッ、ストンとなっている。重そうだし別に胸やら尻やらはいらないが、身長はちょっと分けてほしい。20㎝、いや30㎝でいい。

 

 

 

 

 

 なんて。

 普段はそんなことを考えながら、彼女を見ている。

 

「……今日の選抜レース、会長さんと一緒だったんだよねえ? やっぱり速かった?」

 

「ん、そうだね……凄く速かったよ。本気で走ったけど、八バ身差付けられた。向こうはまだ余裕そうだったから、全力だったら大差になってたかもしれないけどね」

 

「……そっかあ……やっぱり、会長さんって凄いねえ。ドラちゃんもあんなに速いのに」

 

 

 ――大丈夫などと言いつつも、それが誰かに信じてもらえるなんて、正直全く思えなかった。

 案の定、雑な誤魔化しなど何の意味もなさない。

 何ゆえ僕が落ち込んでいるのかなど、今日僕が何をしていたのかを考えればすぐに気が付く話だ。柔らかく差し込まれた質問に努めて淡々と返すと、彼女はしょんぼりとした様子でそう呟いた。

 

 

 ……僕は速い。そのとおりだ。

 少なくとも今はまだ。それは一応、疑う余地のない事実だ。

 

 シンボリルドルフという規格外に格の違いを示されたとしても、今回のレースでも一応は二位だった。

 同期と勝負すれば勝つことの方が明らかに多いし、先輩に挑んでもある程度は勝負になる。本格化がもう少し進めば、おそらく大体の相手には勝てる地力は付くとも思う。

 そして、今僕が競い合っているそんなウマ娘たちは、みんな中央トレセン学園の門を潜り抜けた一握りの天才たちなのだ。僕は間違いなく上澄みの、さらにその中でも上澄みの部類に入っていると言えるだろう。

 

 だから多分、例え今日がダメだったとしても、どこかでトレーナーを探しさえすれば、やがては重賞だって勝てるウマ娘になれるはずだ。

 そうすれば、学園を卒業した後はもはや凱旋になるだろう。親戚一同集まってきっと胴上げだってしてもらえる。

 上の世代とも殴り合うことになるシニア以降はともかくとしても、クラシックまでなら僕が“勝てる”ウマ娘であることは現状が示している。

 

 

 そう。

 シンボリルドルフと同じレースを走りさえしなければ、きっとある程度は勝てるはずだ。

 

 

「……」

 

「ドラちゃん?」

 

 彼女は三冠を走る。

 そして他のG1にも、おそらく走れる限りは出てくるだろう。

 

 その裏で開催される重賞に的を絞れば、僕はきっとそこそこ勝てる。

 彼女が出てくるであろうレースだけ避けていれば、そこで同世代の他のライバルたちと鎬を削り、勝ったり負けたりしながら、それでも幾つかは獲れるという――獲ってみせるという、自負がある。

 

 そんな自負に、何の価値があるのかはわからなくても。

 

「……ごめん、タンジー。やっぱりちょっと走ってくるよ」

 

「……ん、そっか。行ってらっしゃい。あんまり遅くならないように気を付けるんだよお」

 

 何となく、ただぼんやりと寝転がったままではいたくなくて。

 僕は重たい身体を起こして立ち上がった。

 

 

 

 酷くのろのろとした速度だった。

 そろそろ日が落ち始める時間帯。ぽつぽつと確認できるトレーニング中の娘たちに混じって、単調にコースを回る。

 

 夕暮れに赤く染まる芝を踏みしめながら、僕はぼんやりと考え事をしていた。

 

 

 僕は走るのが好きだった。

 この世界に生まれ変わってから、僕は『走る』ということの魅力に憑りつかれた。

 どこを走っても、どれだけ走っても、どんな風に走っても、満ち足りるということがないくらい楽しかったから。

 

 それはウマ娘としての本能なのだと思うけど、あるいはそんな、無制限にどこまでも入れ込める趣味なんてなかった前世との対比こそが、その感情を引き立てて強めたのかもしれない。

 ウマ娘という括りの中で見ても、ちょっと特殊なくらいには走っていたと思う。両親に心配されたこともあるし、友達にびっくりされたこともある。

 

 何せ僕は、生まれ変わって以降、何かのゲームのハードを買い求めたこともない。

 爆発的ヒットを収めた話題沸騰の漫画のあらすじさえよく知らない。

 女の子らしいお人形遊びなんかにも当然全く興味を示さなかったし。

 少々ボリュームに欠けるとは言ってもこれだけ可愛らしい僕という逸材を、飾り立てたいとも思わなかった。

 前世では、あれやこれやと区別なく手を出していたにも関わらず。

 

 別に何かを我慢していたわけじゃない。

 走る以外のことなんて正直どうでもよかったからだ。

 走ること以上にそれらが僕の興味を惹くことなんてなかったからだ。

 

 勉強する時間は勉強する。ご飯を食べる時はご飯を食べる。お風呂に入る時はお風呂に入って、寝る時は寝る。

 

 そしてそれ以外の時間は全部、走っているか、走るための勉強をしている。

 友達と遊ぶ時間さえ全部走る時間にしようとしてばかりで、同じ走るの大好きのウマ娘にさえちょっと嫌がられたりしたのが、僕というウマ娘だった。友達に何回「む~り~」って言わせたかはもう数えきれない。

 

 想像だけど、僕は多分かの先頭民族であるスズカさんに追随するくらいにはひたすら走るばかりで生きてきた。

 それは単に走るのが好きだったからで、自分の強靭な意思によって成り立つものとかでは決してなかったけど、努力には違いない。

 

 僕はここに来るまで負けたことすらなかった。

 ここに来てからも、未来の優駿たちを相手に十二分に渡り合えた。

 

 その事実は、間違いなく、僕の走ってきた今までを証明していた。

 そのはずだった。

 

 

「ふっ……ふっ……ふっ」

 

 規則的に浅い呼吸を繰り返し、何の目的もなくただ動き続けることにだけ終始する。ウマ娘の本来備える速度からすれば亀にも等しいようなペースで、時間をかけてぐるぐるぐるぐると何周もコースを回り続ける。

 

 頭の中でこんがらがった感情の糸は時間を経てもなお解ける様子はなくて、むしろより絡み合って複雑になり、僕の脳を蝕むようにじわりじわりと広がっていく。

 

 考え事をしながら走っているなんて僕にしてはとても珍しいことだ。いつもは大体、走っている最中は走りに関することだけで頭の中は埋め尽くされている。

 より速く走る方法とか、より効率的に走る方法とか、そういうものを考えながら走ることはあるけど、それ以外の考え事なんて頭を過ぎることさえ滅多にない。

 

 その滅多にない余分な思考が、今日の敗戦に端を発するものであることくらいは自覚している。

 でも、なぜそれが頭を支配し続けているのかはわからなかった。

 

 僕は誰かに負けることそのものはあまり気にしない性質だ。

 勿論負けたいわけじゃないし、勝ちたいという気持ちも普通にある。先輩方との併走で追いつけないのは悔しいし、同期との勝負で負けた時には次は必ず勝つと意気込みもする。後輩には追いつかせてたまるものかとも思う。

 でもそれくらいだ。それはレースに生きるウマ娘であればほとんど誰でも持っているような当たり前の感情の発露にすぎず、仮に負けたとしても、昨日と明日の間にある今日という一日でしかない。

 今日負けたのであれば、明日勝てばいい。それだけの話だ。

 

 

 なのに僕は今、その明日への踏み出し方さえわからなくなっている。

 たった一度、手強いとわかっていた相手に負けただけのことで、僕は何をしていいのかも、何をするべきなのかも、何がしたいのかさえも、わからなくなっている。

 

 

「はっ…………はっ…………」

 

 しばらくの休憩を挟んだとは言え、今日は全力で……全力というにも生温いような死力を尽くして走ってきた後だ。身体には酷く疲れが溜まっていて、いつもとは比べ物にならないくらい重く感じられる。

 段々呼吸もしんどくなってきて、ただでさえ遅かったペースがさらに遅くなった。

 

 ゆるゆると流れていく景色の中から、一つ一つウマ娘たちの姿が減っていく。

 夕日は段々と落ちていって、夜の闇がじんわりと近寄ってくる。

 今日という一日が終わりつつあるこの時間になっても、僕はずっと走り続けている。

 

 走りの中に答えを見つけようとしたのか。

 それとも走ることで何もかも塗り潰して忘れてしまおうとしていたのか。

 それすらもわからないまま、僕はただ走っている。

 

 

「はぁっ…………は…………」

 

 明けても暮れても走り続けたこの足は、その凄まじい頑健さで今まで僕を支え続けてきてくれた。足の丈夫さだけなら世界一だって目指せると、僕は根拠もなくそう確信している。

 とは言え、例えこの足が怪我に対して無敵の存在であったとしても、疲労に対してはそうではない。

 速度はいよいよ落ちに落ち切ってしまって、僕はもうただ歩くよりも遅いスピードで、力が入らなくて下ろしてしまった腕をぶらぶらと振りながら、走る真似事を続けていた。

 

 

 ――この行為に、何の意味があるのだろうか。僕には正直わからなかった。

 トレーニングにもなっていない。無意味に身体を虐めているだけだ。何の得にもなりはしない。

 本当は、寮に戻って、シャワーを浴びて、布団を被って寝た方がいい。

 そんなことはわかってた。

 

 それでも、止まりたくなかった。

 

 理由はわからなかった。

 けど今はただ、自分の意思で足を止めたくなかった。

 

 歩きたくなかった。

 僕は、まだ――

 

 

 

 

「精が出るね。でも、今日はここまでにした方がいい」

 

「は……え……?」

 

 ぼやけた意識のまま動き続けていた僕に、ふと声が投げかけられた。

 そっと両肩を掴まれて、そのままゆっくりとコースの外へ誘導される。咄嗟に抵抗しようとしたけど全く力が入らなくて、僕はそのままコースの脇にぽつんと置かれた休憩用のベンチに連行された。強制的に着席の姿勢に変更させられて、ベンチに押し込まれる。

 

 そうしてようやく、僕に身動ぎするための余力さえほとんど残っていないことを自覚した。

 走るどころの話ではない。一度座ってしまったら、もう歩くことはおろか立ち上がることさえできそうになかった。

 

「とりあえず飲んでおいてくれ。あまり一気に、大量には飲まないように。あとタオルも」

 

「え、あ…………どうも……」

 

「少し足に触るからね。ちょっとでも痛かったりしたら言ってくれ」

 

 ベンチの脇に置かれたクーラーボックスから取り出したペットボトルをタオルと一緒に僕に押し付けて、その人はすぐさま僕の足元に膝立ちの姿勢でしゃがみ込んだ。そうして僕の足を手に取って、ゆっくりと伸ばしたり曲げたりしつつ何かを確認している。怪我をしていないかどうかと、それからついでに運動後のクールダウンだろうか。

 

 少しの間ぼけっとそれを眺めて、手のひらの冷たさで手渡されたペットボトルがあったことを思い出した。そう言えば、当たり前の話だが喉が渇いている。あと汗も酷い。

 

 ……どれだけ参ってるんだか。

 自嘲混じりに小さな笑いと吐息を溢して、ひとまず首筋や顔に滴る汗を受け取ったタオルで拭い、そのまま首にかける。それから指示通りちびちびペットボトルを傾けて、そうして僕は僕の愚行を中断させた人に目を向けた。

 

 今は座っているからよくわからないが、さっき見た感じではそこそこ背は高かった気がする。

 体形は痩身で、馴染みのある黒髪黒目。日本人だろう。年齢は多分、二十代前半から半ばくらい。

 顔立ちにはまあ、特徴がない。髪型を整えたりしたらいわゆる雰囲気イケメンとかにはなれそうだな、というレベル。髭はきっちり剃られていて、髪も短めに切っているので清潔感があり好印象ではある。

 服装は上はシャツだが、下はスーツのようだった。汚させてしまったな、とぼんやり思った。

 

 そして、その胸元にはトレーナーバッジが輝いていた。

 年齢を考えれば、新人だろうか。

 

「……ひとまず、大丈夫そうか。どうだろう、痛みはないかい? 何か違和感があったりとかは?」

 

「……はい、問題ありません。心配おかけしてすみません。ただ、僕の足は頑丈なので。怪我をしたこともないですし、痛んだことも少ないです。何かあればすぐにわかりますから」

 

「……そうか。ならいいんだが。ただ、一応アイシングくらいはしておこう。ちゃんとした氷嚢じゃなくて悪いけど」

 

 触診その他を終えた彼は、そう言ってクーラーボックスからビニール袋を取り出した。よく見るコンビニのロゴが入っている。中身は氷か何かだろう。

 指示に頷いて、僕は受け取ったビニール袋をそのまま両足の上に転がした。怪我なんかがなくてもアイシングは疲労回復にも効果的らしいし、断る理由もない。

 こちらに砂が飛ばないよう少し離れてから膝を払った青年は、その後クーラーボックスからもう一本ペットボトルを取り出して、足の上で氷を弄んでいる僕の隣に腰を下ろした。

 

 お互いに無言のまま、ベンチに並んで夕暮れに沈んだコースを眺める。

 僕はあまり社交的な性質じゃないから、初対面の目上の人間にどうやって話しかければいいかなんてよくわからないし、その気力もなかった。彼も彼で明らかに様子のおかしい僕に対してどう声を掛ければいいかは困るところだろう。

 

 ……ただそれでも、こんな無意味で無駄で無軌道で無思慮な行動を取るウマ娘が一体どういう気分でいるかなんて、きっとトレーナーの教育課程か何かで嫌というほど教え込まれるんじゃないだろうか。

 だからかは知らないけど、数分ほどの沈黙を破って、彼は静かに口を開いた。

 

「俺は須藤公宏(すどうきみひろ)。バッジを見ればわかると思うけど、一応トレーナーをしてる。……まあ、まだ一人もちゃんと担当したことのない新人だけどね」

 

 そう言って、彼――須藤さんは乾いた笑い声をあげた。

 案の定新人トレーナーらしい。こちらに気を使っているのが丸わかりなのは、担当経験の薄さによるものだろうか。

 

 ともあれ、人の厚意を無駄にするのは気が引ける。あまり話をしたい気分ではなかったけど、僕は億劫な口を開いて返事をすることにした。

 

「……どうも。僕は……フロクスドラモンドです。気軽にドラちゃんと呼んでください」

 

「いや、それはちょっと遠慮したいけど……それじゃあまあ、ドラモンドって呼ばせてもらおうかな」

 

「残念です。それなら呼び方はご自由にどうぞ」

 

 ……最低限の挨拶を交わすと、再びその場を静寂が包み込んだ。これ以上僕から話すようなことは何もない。

 頭も多少冷えたから今日はもうこれ以上無理をするつもりもないけど、彼からしたらそう言われたって信じられないだろうし。

 実際、僕も今はそのつもりがないというだけで、部屋に帰ってしばらく休憩した後でどんな気分になるかは自分でもわからなかった。門限破りを承知の上で抜け出して何かしないとは言い切れない。

 唐突に噴き上がる本能の熱と、それを冷めた目で見つめている理性がごちゃごちゃに入り混じっていて、自分のことさえ理解できずにいる。

 

 夕日を眺めていたはずの目はいつの間にか下を向いて、気づけば僕は自分の足をぼうっと眺めていた。

 

 ……自慢の足だ。少なくとも今はまだ、自慢するに値する足だ。

 長く走ってもそうそうパフォーマンスを落とさない持久力。ここに来るまでは誰にも負けなかった速さ。コーナリングでも負荷に耐えてくれる力強さ。

 そして、軽度の故障さえ経験したことのない強靭さ。

 この足が欲しいかと聞けば、欲しいと答えるウマ娘はいくらでも現れるだろう。

 

 ……そんな自慢の足のはずなのに、今はそれを見ていると、酷く鬱々とした感情ばかりが鎌首をもたげる。

 

「……なあ、ドラモンド。何があったかは聞かないが、ああいう無茶は無意味に君を傷つけるだけだ。何の実りにもならないどころか有害ですらある。例え君の足が丈夫だとしても、あんなことを繰り返していたらすぐに壊れるぞ。そうなったら、君は二度と走れなくなるかもしれないんだ」

 

 そんなことを考えていたから、顔にでも出ていたのかもしれない。

 沈黙を割って投げかけられた言葉は厳しい響きを取り繕った優しさに満ちていて、そしてどこまでも正論だった。

 

 反論すべきことは何もない。

 僕だって自分の足のことは考えている。走るのが好きだからこそ走れなくなるようなことは絶対にしたくない。だからこそ、僕の足の頑丈さを踏まえた基準とは言えオーバーワークには気を付けているし、足のケアを怠ったこともない。

 そして、今日のそれは完全にそのルールから逸脱していた。さすがにそれくらいのことは理解している。

 

「俺みたいな新人トレーナーに偉そうに言われるのは癪かもしれないが、今の君に必要なのは間違いなく休養だ。まずゆっくり休んで、それからまた走ればいい。その方が、君が速くなるためにはずっと役に立つ」

 

「……そうですね。仰るとおりだとわかってはいるつもりです。……すみません、今後は気を付けます」

 

 淡々と反省を口にして、僕はベンチから立ち上がった。

 アイシングもそろそろいいだろう。とりあえず歩けるくらいには体力も回復したし、寮に帰るだけならこれで十分だ。

 

「ご助言どおり、今日はもう帰って休むことにします。……今日はお世話になりました」

 

「いや、気にしなくていい。こういうのも俺たちトレーナーの仕事だよ。それより、帰るなら寮まで付き添おう」

 

「いえ、結構です。これ以上ご迷惑になるのも申し訳ないので。……それでは、失礼します。ありがとうございました」

 

 一方的に頭を下げて、僕はそのまま踵を返した。

 

 ……追ってくる気配はない。その事実にほっと息を吐く。

 厚意は嬉しいし、ありがたいとも思う。

 けど、今は放っておいてほしかった。

 

 

「あっ、ドラちゃんおかえりい。……何かあった?」

 

「ん……いや。無心でずっと走ってたら、親切な人に諫められちゃって」

 

「そっかあ。……うんうん、でも、その方がいいと思うよお。ドラちゃんも今日は疲れちゃってるみたいだから。今日は早めに寝ちゃおう?」

 

「……そうだね。そうしようかな」

 

 ニコニコと笑顔を浮かべるタンジーに促されて、僕はさっさとシャワーを済ませ、ベッドに横になった。

 そうしてタンジーと少し話をして、身体を休める。

 

 

 何があろうとなかろうと、僕のやるべきことなんて結局何一つ変わりはしない。

 トレーニングだ。ただそれだけだ。

 

 選抜レースは確か年に四回ほど開催される。次のデビュー戦の時期を考えてもまだ一回ある。

 その時にこそ走りを見せて、トレーナーを見つける。それが現段階の目標だ。それ以外には何もない。

 あるいは選抜レースでない模擬レースでも、あるいは単なる併走でも、僕の要求に沿ってくれるトレーナーが手に入りさえすれば何でも構わないが、ともかく今はそれだけを目指していればいい。

 

 思索を打ち切って、ごろん、と一つ寝返りを打つ。

 

 部屋の反対にあるベッドから静かな寝息が聞こえ始めてもうそれなりに経つ。

 酷く疲れているはずなのに、どうしてか僕は寝付けずにいた。

 

 結局その日、僕は長いこと寝返りを打ち続けた。

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