星に憧れた石ころウマ娘の物語   作:ボ・クッコスキー

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遠い背中を追いかけて

 僕以外には人影もないコースを疾走する。

 ゴールまでの距離を考えてスタミナの配分を見ながらも、元々人間だった僕の意識がちょっと悲鳴をあげるくらいの高速度。

 瞬く間に流れて背後へと消え去っていく内ラチを視界の隅で捉えながら、前方だけに意識を集中する。

 

 誰もいないその場所を、僕にだけ見える幻影が走っている。

 その横顔には、僕にはない余裕が浮かんで見えた。

 

「――ッ!」

 

 まだスパートも遠いこんなところで置いていかれるわけにはいかない。

 確かに全力は出していないはずなのに、一切の余裕が存在しない不可思議な感覚を胸の中に抱え込んで、僕は鋭い呼吸を繰り返しながら意識を切り替える。

 

 二度目のコーナーが来る。

 ここが、勝負の肝だ。

 

 速度を上手く緩められなければ、大きく外側に膨らんで事実上勝負から脱落することになる。

 しかし速度を落としすぎれば、僕はもう二度と前を行く彼女の影すら踏むことはできない。

 

 あの日、僕は二度のコーナーで大きくルドルフに差を付けられた。

 レース展開上の問題もあったかもしれないが、そのほとんどは単に、僕とルドルフのコーナーワークの技量の差によるものだ。

 

 体力への影響を的確に調整しつつ直線を速く走ることに必要とされる技術は決して簡単なものではないが、それでも僕だってちゃんと努力を積み重ねてきた。

 確かにルドルフには及ばないかもしれないが、それでも勝負にならないほどではない。

 

 問題はコーナーだ。ここを速く、ロスなく、体力を温存しながら走るというのは、筆舌に尽くし難いほどに難しい。ウマ娘の速度が、ここではそのまま敵になる。

 それでもそれをやり遂げなければ、彼女には届かない。

 速さという敵を味方にできなければ、彼女の背中はただ離れていくばかりだ。

 

 極限までロスを少なくした理想的なカーブの曲がり方――残念ながら、そんなものは今までずっと走ってきてもいまだに全くわからない。

 僕にできるのは、自分が考えて走って少しずつ調整しながら作り上げてきた自分の走り方を、今だけは最適解だと信じ込んで走ることだけ。

 

 体勢が歪まないよう気を付けながら身体を斜めに傾けて、一方で頭だけは地面に対してまっすぐになるよう維持する。

 踏み込みの歩幅と角度の調整は既に済んでいる。

 視界から逃げるように伸びていく内ラチを意識して、限界ギリギリまでそれに沿うように。

 速度において敵わないのなら、せめて走行距離を以ってその差を縮めるしかない。

 

 身体が外側に吹き飛んでいきそうなくらいの遠心力をいっぱいいっぱいで制御しつつ、速度を殺すことなく幻影を追う。

 その背中はまだ、頑張れば手が届きそうな位置にある。

 

 けれど。

 

 長いカーブを走破する、その最中。

 

「コーナーを……抜ける前に……ッ」

 

 あの時、彼女は仕掛けてきた。

 

「――スパート……ッ!」

 

 ぐん、と幻影が伸びていく。

 そしてそれに、僕も追随する。

 

 スタミナにもそれなりの自負はあった僕だけど、彼女のそれには勝てない。

 だから、彼女に先んじて勝負を仕掛けることはできない。

 けれど、少しでも後れを取ればただ置いていかれるだけだ。

 その限界を追求した、消去法的な、ただ全力で彼女に付いていくだけのスパート。

 

 苦痛ばかりが降り積もるコーナーを抜けて、最後の直線が来る。

 

 ここから先は、末脚の切れ味勝負だ。

 

「――は、ァ……ッ!!」

 

 掛け値なしの全力。

 後先考えない本気の本気。

 

 ただ必死で、前だけを見て、走るだけ。

 

 呼吸すらままならない風の壁を掻き分けて、血走った目を打つそれに痛みさえ感じながら、両腕を振りたくってひたすらに走る。

 

 幻影の影を。

 その先にいる幻影そのものを。

 

 ――さらにその先にいるのであろう、幻影の生みの親を。

 

 

 追いかけて。

 

 

 追いかけて。

 

 

 追いかけて――

 

 

 

「――四、バ身……」

 

 

 

 

「……今日は、こんなところかな」

 

 足に注ぎ込んでいた気力を緩め、そう呟く。

 

 虚脱感にも似た疲労を噛み殺しながら、じっと先ほどの走りを反芻する。

 あの日の幻影を追って走っていると、いまだに吐き気にも似た苦い味が喉の奥から這い上がってくる。

 

 追いついたとしても何の意味もない記憶の中の影。正確に再現できているのかさえわからないものに、挑んでは敗北する。

 そうする理由さえわからないまま、僕はそれを繰り返している。

 その背中がほんの僅かに近づいたとしても、嬉しいとさえ思えないのに。

 

「……く」

 

 俯いて奥歯を噛み締め、僕はその幻影を強く意識して追い払った。

 どの道今日はもう終わりだ。

 それに、近付いてくる足音の主に、こんな苦り切った顔を見せるわけにもいかない。

 

「今日もお疲れ様。いい走りだった」

 

「……どうも。すみません、毎日ありがとうございます」

 

「ははは……ちょうど時間が空いたからね。休憩がてらだよ」

 

 練習が終わったことを見て取ってコース脇から歩いてきた須藤トレーナーからタオルを受け取って、僕は小さく頭を下げた。

 いまだにこうして様子を見に来てくれる彼の前で、心配させるような真似をするわけにはいかない。

 いい加減そんなに気を使ってくれなくてもいいとは言ったけど、彼はどうせ暇だからと笑うだけだった。

 

 ……わかりやすい嘘だった。

 担当がいなくたって仕事はあるはずだし、そもそも担当がいないならその担当するウマ娘自体を探す時間も必要だ。

 彼はスカウトのために色々と準備をするタイプみたいだし、振られて数日の今この時に暇であるわけがない。

 

 そうとわかっていたけど、僕は今日までそれを指摘することはしなかった。

 気持ちとして嬉しかったのも事実だし、ありがたかったのも事実だから。

 

「しかし、それにしても随分鬼気迫る様子だったね。イメージトレーニングかな?」

 

「……そうですね。この前走ったレースを思い出しながら走りました」

 

「それは……ひょっとして、あの日の?」

 

「……ご想像にお任せします」

 

 僕の足を丁寧に診てくれている須藤さんとの、最近日課になった主にトレーニング関係の世間話。

 ただ今回はその内容が好ましくない方に向いたから、僕はそう誤魔化しを口にした。

 それはもう答えを言い表していたけど、彼は小さく、そうか、とだけ呟いて口を閉じる。

 僕を心配してくれていながらも、彼は僕が踏み込んできてほしくない場所には踏み込まない配慮を見せてくれている。

 

 彼はぺしりと軽く僕の膝を叩くと、笑みを浮かべて立ち上がった。

 

「よし、今日も大丈夫そうだね。君の言うとおり、君の足は頑丈みたいだな」

 

「ありがとうございました。……足の丈夫さなら世界一を狙えると思ってますから」

 

「ははは、それは素晴らしいな。無事是名バだ」

 

 検診が終わったら雑談の時間。いつものベンチに二人並んで、共に沈みゆく夕日を眺める。

 それは今日も変わらないようで、須藤さんは僕の横に腰を下ろして背凭れに体重を預けた。

 

 ぼんやり眺めたその喉に、僕にはもう存在しない喉仏の突起を見つけて微妙に複雑な気分になる。

 

 前世の記憶も朧気で、その上十何年も女の子として生きているとなれば性自認も曖昧になるものだけど、いまだに曖昧止まりなのも事実だった。別に興奮したりするわけではないけど、着替えの時とかは今でも若干申し訳なくなる。

 見たからと言って嬉しくもならないのに困りはするという、ただ損するだけの精神状態を僕はずっと続けているのだ。その内、この面倒な性質も消えてくれるのだろうか。

 

 そんな益体もない物思いに浸っていると、ふと視線の先の喉仏が動き始めた。

 

「にしてもやっぱり、さっきの走りは凄かったな。デビュー前の娘とはちょっと思えなかった」

 

「……どうも。本格化も始まっているみたいなので、まあ、トレーナーの方のお眼鏡に適うくらいはあるのなら嬉しいです」

 

「いやいやとんでもない、君の走りは今の時点でもデビュー後の子に通用するレベルだと思うぞ。将来有望だな」

 

「……ありがとうございます」

 

 お世辞、というわけではないだろう。

 実際僕は先輩方ともそこそこ戦えるし、僕だってトレーナーも決まっていない段階で僕と互角くらいの娘が同期にいたら将来有望だな、と思う。

 

 デビューするということ自体には特別不安もないし、そこで全く勝てないかもしれないという心配もしていない。

 メイクデビューを一発勝利で抜けられるかはわからないが、ダメでも何回か未勝利戦に挑めば勝てるのは間違いないと思っている。

 デビュー関連で不安があるとすれば、それは僕の求めるようなトレーナーが見つかってくれるかどうかということだけだ。

 

 そしてそれは、いわゆる”選ばれた”側のウマ娘にしか許されない思考に違いない。

 

「トレーナーはまだ決まってないのかい? スカウトはあったんじゃないか?」

 

「そうですね、幾つかお話は貰いました。ただちょっと個人的な事情で、一度全てお断りさせてもらいましたけど。次の選抜レースまでには、決めるつもりでいます」

 

「……そうか。まあ、君ならそんなに心配する必要もなさそうだ。走ってみせれば引く手数多になるさ。今のうちにサインでも貰っておいた方がいいかもな」

 

「じゃあ今度持ってきますね」

 

「おお、そいつは嬉しいな。それじゃあ家族の分も合わせて五枚くらいお願いするよ」

 

「わかりました。色紙とか用意してないので、着用済みの体操服でいいですか?」

 

「……ごめん。捕まりそうだから止めてくれ」

 

 下らない冗談で笑ったりしながら、夕日を眺めてぼんやり過ごすこの時間。

 幻影を追いかけてささくれ立った心が、少しだけ穏やかになるのを感じる。

 

 ……そして同時に、思う。

 彼はきっと、そのためにここにいるのだろう、とも。

 

 

 あの日以来、僕の精神状態はいまだにずっと不安定なままだ。

 何がしたいのかも、何をしようとしているのかもわからないのに、何かをしていないとただ不安ばかりが心を黒く塗り潰していく。

 とにかく走って、とにかく研究して、瞼の裏に焼き付いて離れないあの背中を追いかけて。

 疲れ果てて眠り、そうして夢の中であの大敗を繰り返して、ブランケットを蹴り飛ばして起き上がったりする。

 寝ても、覚めても、それだけを繰り返している。

 

 ……多分。

 僕は今、疲れているのだと思う。

 

 一日に数分のこの時間だけが、その疲れをほんの少し癒してくれる。

 

 

「……あの日」

 

「うん?」

 

「実を言うと、散々な負け方をしまして」

 

「……」

 

 話したくないと思っていたはずなのに、気付いたらそう呟いていた。

 ぽつりと溢された言葉に、須藤さんは背凭れから身体を起こして、膝に腕を置いて前かがみの姿勢になった。その視線は、まだ夕日を眺め続けている。

 

「ここに来るような娘は大体似たようなものかもしれませんけど、僕も一応、地元じゃ負け知らずだったわけですよ。僕の場合特に結構凄いと思うんですけど、比喩抜きで一回も負けたことがなかったんですよね。子供の頃から、覚えてる限りずっと」

 

「……」

 

「ここに来てからはさすがにそうも行きませんでしたけど、同期同士ならかなり勝率は高かったですし、先輩方は強かったですけど喰らい付くことくらいはできましたし。これならトゥインクルシリーズでも勝てるかもなって、そこそこ自負もあったんですが」

 

「……」

 

「正直勝てないかもとは思ってて勝負を避けてた、同期で一番強い娘と、この前の選抜レースでぶつかりまして。やるからには仕方ないって本気も本気で走ったんですが。まあ、全く太刀打ちできなかったわけですよ」

 

 言葉に詰まるようなことはなかった。

 

 今になってなお、悔しかったとか、悲しかったとか、そういう感情は、それ以上の納得に黒々と塗り潰されてしまっていて、何一つ湧き出てはこなかったから。

 心の奥底ではずっとわかっていた現実が、ただそのまま形になっただけのあの光景を思い出して、語る。

 

 ――そして。

 

「……八バ身差、だったな」

 

「ご存じですよね。トレーナーさんですし」

 

 わかっていたことだが、それは須藤さんにとっても、自分の目で見た光景だっただろう。

 

 現地に足を運んでいたか、それとも後から録画なり何なりで確認したかは知らないけど。

 かのシンボリルドルフの走りを見もしないのであれば、このトレセン学園でトレーナーをしている意味などきっとない。

 

「色々なものの差を見せつけられた気はしましたね。才能の差、努力の差、思考の差、あるいは覚悟の差……小さい頃から、色々考えながら、弛まず走ってきたつもりではありましたけど。何もかもが違いすぎて、何がどれだけ足りないのかもわからなかった」

 

「……」

 

「あのレース、勝てないかもしれないとは確かに思ってましたけど、僕は本気で走りました。そしてその上であの負け方をしました。どんどん離れていく背中に”勝てない”って思わされて、負けた後にも涙さえ出ませんでした」

 

「……」

 

「で、あんな無意味なことをやってたわけですね」

 

 あの日晒した無様な姿の理由を知りながら、今日までそこに触れずにいてくれた彼の配慮に心の中で感謝する。

 結局、その優しさに甘えていたわけだ。内心そうとわかってはいたけど、自分が情けない気持ちは拭えない。

 

 自嘲の笑みを溢してから、僕は静かに立ち上がった。そうして数歩だけ前に進む。

 涙を見せたくなかった、わけではない。それはあの時にさえ流れなかった。

 

 ただ、何となくそうしたかっただけだ。

 

「……自分自身、正直自分の感情がよくわかっていなくて。あの日以来、勝てないとわかっているのに、彼女の幻影を追ってばかりいます。本物の彼女はそのさらに先にいるってわかっているのに、彼女に挑むのでもなく幻影に挑み続けている。あの日の着差を、ほんの僅かにでも埋めるためだけに走っている。そんなものを埋められたって、何一つ嬉しくもないのに」

 

「……」

 

「……僕は、結構、走るのが好きな方で。でも今は……走っていても、楽しくなくて」

 

「……」

 

「だから、思っちゃうんですよね。勝てなくて、楽しくもないなら……僕は一体、何のために走ってるのかなって」

 

 

「勝ちたいからだろう」

 

 静かな声だった。

 静かで、淡々としていて、

 そして、確信に満ちていた。

 

 まるでそれが、単なる当たり前の事実であるかのように。

 

「……どうでしょう。僕は勝ちたいんですかね」

 

「そうじゃなかったとしたら、君はどうして今も走ってるんだ?」

 

「……」

 

「さっき、君の言うところの幻影を追っていた君は……間違いなく、勝利だけを望んでいたように見えたよ」

 

「……そうですか。本職のトレーナーさんが言うのなら、そうなのかもしれませんね」

 

 勝ちたい。

 ……どうなのだろうか。

 そう言われてもなお、僕はいまいち自分の心がわからないままだ。

 

 だって、勝てないことはもう十分に理解している。

 勝てないものに勝とうとすることは、あまりにも無意味だ。

 

 他のウマ娘と走っている時は、確かに僕も勝ちたいと思う。

 負けたら悔しいとも思う。

 次は勝ちたいとも思う。

 

 

 でも、僕は新幹線に勝ちたいとは思わない。

 F1カーに勝ちたいとは思わない。

 チーターに、ハヤブサに、ハリオアマツバメに勝ちたいとは思わない。

 

 比べても意味がないからだ。

 僕にとって、シンボリルドルフというウマ娘は、それらと同じ存在だ。

 

 ただ同じウマ娘であるというだけの。

 最初から、勝てないとわかっている相手にすぎない。

 

「本当さ。慰めなんかじゃない。君は本当に、凄くまっすぐに、それだけを見つめている目をしていた。だから、正直」

 

 ……ああ。

 でも。

 

「君の夢を、支えてみたいと思ったよ。……ま、どうやら残念ながら、新人の俺には荷が重すぎるみたいだけどな」

 

 シンボリルドルフに、挑めないまま終わるのは嫌だと。

 走ることすらせずに負けるのは嫌だと。

 

 そう思ったのは、確かだったかもしれない。

 

 

 

 

 

 振り返って、僕は言った。

 

「連絡先、教えてくれません?」

 

「ん? ああ……勿論、構わないけど」

 

 

 

 

 

 僕は今日何本目かのタンジーとの併走の中で、その背中を追いかけていた。

 

 彼女の得意とする走りは、いわゆる優等生型とでもいうべき先行が基本形。好位置に付けて控えつつ、勝負所から長めのスパートを掛けていくお手本のような走りをする。

 本人曰く逃げも嫌いではないそうだが、対抗がいれば番手以降に下がることが多い。器用で柔軟で、一番厄介なタイプだ。

 

 一方僕は追込を好む。終盤やそれ近くまで極力足をため、展開を見ながら上がるか否かを判断しつつ位置を調整して、最終的には直線で他を抜き去るのがいつものパターン。差しもできなくはないが、どうせなら最初の内は最後方に位置した方がやりやすかった。

 試してみたことはあるが、前方を維持するのは得意ではない。

 自分が追い抜いた後ならばともかく、後ろから追ってくる足音を聞くのが、僕は特に大嫌いだった。

 

 今このコースを走っているのは僕とタンジーの二人だけ。

 ただ、僕は彼女との間にウマがいることを想定してある程度距離を空けつつ走っているし、タンジーも自分の前に逃げウマがいることを想定して抑え気味の走りをしている。

 実戦の環境を想像上で再現できるわけはないが、何も考えずに走っても得にならない。

 僕も彼女も、ただお互いの格付けをするために走っているわけではないのだから。

 

 中盤も終わりに近づき、コーナーが迫ってくる。

 前方に壁が存在する僕は、このまま突っ込んでも垂れてくるウマに引っかかって加速できない。

 本番であれば抜け道が見える場合もあるし、単純に展開上前に上がっている場合もあるが、今は前方ではバ群がぎちぎちに詰まっていて、とてもではないが通ることはできない。

 そういう想定。

 

 ならば、今回は不利を負ってでも外を回る。

 早めになるが位置を上げてプレッシャーを掛けに行く。ラストスパートへの影響は否めないが、スタミナはこれまでにある程度温存できた。

 

「――そろそろ、行くよ……ッ」

 

「く……っ」

 

 そんなに大きな声ではなかったが、他に走っている娘がいなければウマ娘の聴力には問題なく聞き取れただろう。微かな苦悶の呻きとともに、タンジーも姿勢を変化させる。

 

 最高速度、持久力、加速力、彼女はどれをとっても高水準でバランスがいい。

 長めのスパートを掛けつつ前方の逃げを捉え、後方の差しや追い込みのウマを抑えきるだけの能力がある。才気に溢れたこの中央トレセン学園のウマ娘たちの中においても、その輝きが埋もれることはない。

 

 けど。

 末脚の切れ味は、僕の方が上。

 

 互いにコーナーを曲がる中、加速し始めたタンジーの背中へ、じわじわと距離を詰めていく。

 外回りの選択を採った僕はそれなりに距離的なロスを生じているけど、逃げを避ける動作を意識した彼女にも多少のロスはある。

 

 体力的な余裕ではより控えてきたこちらの方が上。彼女は既に、いかにして今のリードをキープするかの段階にいる。

 そして、この段階で彼女が今ある距離をキープできないのであれば。

 勝つのは、僕だ。

 

 

 最終直線。

 

 

 逃げる彼女を捕まえてそのまま引き千切った僕は、三バ身の差を付けて勝利した。

 

 

 

「くう~……負けたあ」

 

「ふう……勝ちました」

 

「んああああ」

 

 芝の上に大の字になってぜえぜえと荒い呼吸を繰り返すタンジーに、口角を吊り上げてみせる。すると彼女は普段のぼやーっとした雰囲気を掻き消して、べしべしと拳で地面を叩き駄々っ子のように悔しさをあらわにした。

 どうでもいいけど、そういう動きをすると僕には備わっていないものが凄い揺れ方をする。大した迫力だ。

 

「う~ん……仕掛けるのが遅かったかなあ」

 

「どうだろ。今回は僕も早めに仕掛けた方だと思うから、どっちかって言うとリードの距離が問題だったかもね」

 

「追込の位置を目で確認するのは辛いよお……むう、でも、逃げの後ろを意識しすぎたかなあ。もうちょっと強気に行った方がよかったかあ。んんん~~~……くそお」

 

 併走の後には恒例のちょっとした反省会をして、その後は休憩。

 今日はこれで上がる予定なので、お互いに手伝いながらストレッチを行う。

 

「いつも思うけど、ドラちゃんは身体柔らかいねえ」

 

「柔軟は結構気を付けてるからね。硬いより柔らかい方がいいでしょ」

 

「むむむ、これもドラちゃんの強さの秘訣か……」

 

 足を広げつつぐにー、っと身体を倒す僕に対し、その補助をしながらタンジーは悩ましげに呟いた。

 そういう彼女も柔軟を頑張っていることは知っている。入学当初は相当ガチガチだったし、今も結構カチカチだけど。

 

 

 ……いつもはぽやぽやしていて、レースを走っているよりも原っぱで日向ぼっこしている方がよく似合いそうな彼女ではあるけど。彼女のレースに懸ける思いは本物だ。

 僕の方から持ちかけることも多いけど、彼女の方から僕に併走を頼んでくることも多い。

 ある程度ちゃんとした勝負としての併走だけでも、入学してからこっち、走った回数は既に数えきれないほどになった。

 

 ……そして。

 付け加えるならば、その内の大体は僕が勝つ。

 逃げ切られることもたまにあるけど、大体は今日のように、そこそこの差を付けて僕が勝つ。

 それでも彼女は僕からの併走のお願いを断らないし、僕へお願いしてくる頻度も変わらない。

 

「……ねえ」

 

「んん~?」

 

「負けるのってさ、きついよね」

 

「…………んん~……そうだねえ」

 

 背中を押してもらった状態のまま、僕は呟いた。

 雰囲気の変化を感じ取ったらしい。彼女は僕の背中から手を離して、その場にぺたんと座り込む。

 彼女に目を向けることはせず、僕は問いかけた。

 

「なのにどうして、君は僕と走ってくれるのかな」

 

「……んん~……」

 

 それは明らかに、勝った僕が負けた彼女に聞くべきことではなかった。

 あまりに礼を失した問いだ。彼女が怒り狂ったとしても、僕には何も口にする権利はない。

 けれど彼女は、ただ和やかな様子で言葉を探してから、口を開いた。

 

 

 

 

 

 

「それってさあ、すっっっごく、腹立つ質問だよねえ」

 

「……ご、ごめん」

 

 訂正。

 めちゃくちゃイラっとしたようだった。

 

「……まあ、ドラちゃんも悩んでるみたいだから、いいけどお。……どうして。どうしてかあ」

 

 はあ。と溜息を一つ溢して、それだけで怒りを引っ込めてくれた彼女は、今度こそ言葉を探している様子だった。

 けれど、そうして最後に出てきた言葉は、酷く単純なものだった。

 

「勝ちたいから」

 

「……」

 

「ドラちゃんに勝ちたいから、一緒に走るの。それだけ。……まあ確かに、あんまり勝てないけどねえ」

 

「……それは」

 

 それはきっと。

 本当の、本当の、本当に。

 最悪の一言だったと思うけど。

 

 どうしても、聞かずにはいられなかった。

 

 

 

「もし、永遠に、勝てないままだったとしても?」

「うん、走るよ」

 

 

 

 声はいっそ穏やかでさえあった。

 けれど、その声は今まで聞いたどんな彼女の声よりも、ずっとずっと真剣だった。

 

「だって、走らないと何にもならないからねえ。今日も負けて、明日も負けて、一年後にも負けるとしても……わたしは、ドラちゃんに勝ちたいから。だから、例え永遠に勝てないとしても、わたしは走るよ」

 

「……」

 

「それに、ドラちゃんはひょっとしたら知らないのかもしれないけどね」

 

 その柔らかな声音には、

 

「わたし、ドラちゃんのこと、ライバルだと思ってるから」

「――」

 

 レースに生きると決めたウマ娘の、強さがあった。

 

「だから絶対、勝つまで止めない。……まあわたしの場合だと、今のところ全く勝てないわけじゃないから、そうだねえ。今の勝率が一割だったなら、五割に戻すまでやる。ううん、九割になるまでやる」

 

「……それはちょっと、僕が辛いなぁ」

 

「そしたら、今度はドラちゃんが挑戦者だからね。挑戦はいつでも受けてあげるから、安心してねえ」

 

「……そっか。じゃ、その時はまた、僕が九割に戻すまで付き合ってあげるよ」

 

 僕の背中に、相変わらずのほほんとしたタンジーの声が投げかけられる。

 変わらない声が、僕の耳を打った。

 

「わたしもね。勝てなくて辛いなあって思ったことは、あるよ。いっぱいある」

 

「……」

 

「その感情をね。本当の意味で教えてくれたのは、ドラちゃんだよ」

 

「……」

 

「すっごく速くて。どうやっても逃げ切れる気がしなくて。どう頑張っても追いつかれて、追い抜かれて。たまーに勝てたと思って喜んだら、またすぐ負けちゃって」

 

「……」

 

「だから」

 

「……」

 

「そんなあなたに憧れたから。わたしは、あなたに勝ちたいって思った。あなたのライバルになりたいって、思ったんだ」

 

 彼女に顔を向けないまま、僕は立ち上がった。

 

「ドラちゃん」

 

「ん」

 

「頑張ってねえ。応援してるから」

 

「……ん。まあ、頑張ってみるよ。僕にできる限りは」

 

 ……もういいだろう。

 

 無意味に悩んで苦しむのには、いい加減疲れてきた頃だ。

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