星に憧れた石ころウマ娘の物語   作:ボ・クッコスキー

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走り出すために

 

 教官による指導と勉強系の授業が終わって、ようやく訪れた放課後。

 普段であればいかに僕と言えども多少の雑談くらいは挟むところだが、今日は生憎用事がある。

 解放感からわいわい騒いでいる級友たちの間を縫って、僕はさっさと教室を抜け出した。

 

 廊下に出ると、既にそこは行き交うウマ娘たちで随分バタバタしている。いつ見ても、平気で走っている娘がいっぱいいる校舎の風景には違和感があるものだが。

 

 まあでも走るの楽しいし、仕方ないよね。

 僕は一つ頷いて、ぶつかったりしないよう曲がり角に注意しながら目的の場所へと足を進めた。

 走りたい、あるいはついつい走ってしまうというのはウマ娘の本能であって、それは個人差はあれども基本的にどうにもできないものなのである。

 

 

 あわや衝突という接触を何度か躱しつつしばらく歩くこと数分、ようやく目的の場所に辿り着く。

 場所くらいは知っていたし迷うことはないけど、普段はほとんど寄りつくことのない場所だ。

 優等生である僕からすると呼び出しを喰らうようなこともないし、それに……自分から近付くには、この部屋の主に対する苦手意識は強すぎた。

 

 ふるふると何度か首を振って、一度静かに深呼吸する。せめてちゃんと喋れるくらいには気合を入れておかなければ、僕は一言も発せずに退室することになるかもしれなかったから。

 

 そうして、こんこんこん、と軽くノック。中からは間を置かず「どうぞ」、という落ち着いた声が返ってくる。

 失礼します、と折り目正しく挨拶して、僕は丁寧に扉を開け放った。

 

「――君は」

 

 そこにいたのは。

 当たり前のことだが、”皇帝”シンボリルドルフだった。

 

 

 ところで、ここ中央トレセン学園の非常に面倒臭い点の一つに、トゥインクルシリーズ上の先輩・同期・後輩と、学園生活上の先輩・同期・後輩には全く関係がないというものがある。

 

 僕たちウマ娘はそれぞれに時期の違う本格化に備えるため早めにこの学園に入学し、そしてそこで本格化の兆しを待ちつつトレーニングを積みながら過ごすことになる。

 

 基本的には本格化が来た時がイコールでデビューの時期となるため、数年間デビュー待ちの状態で学園生活を送るウマ娘は少なくない。

 一方、入学してからそれほど間を置かず本格化を迎える娘も普通にいる。

 なので例えば、人間で言うところの中学生が既にデビューしていて高校生がデビューしていないとか、そういうことが当たり前に起こりうる。

 

 何が言いたいのかというと、つまり僕とシンボリルドルフはデビューの上では同期になるが、実年齢で言えば向こうの方が上なのだということだ。

 

「どうも、ルドルフ会長。僕はフロクスドラモンド。気軽にドラちゃんと呼んでくれて構わない。君に対して名乗る必要はないかもしれないけど、一応名乗っておくよ」

 

 それを承知の上で、僕は彼女にあえてタメ口を利いた。

 先輩であり、かつ生徒会長でもある彼女に対して実に失礼な態度と言えるだろう。

 

 ……この学園、そのあたりは元々大分緩いけど。

 全校生徒の前で副会長のブライアンが先輩で会長のルドルフに普通に「おい」とか言ってたりするし、僕が気にしてるだけむしろ無駄なのかもしれない。

 

 まあ、そのあたりは何だっていい。

 要するに僕が僕の意思で敬語を封印するということが、僕にとっては大事なのだ。

 

 そして、案の定とでも言うべきか、ルドルフは全くそんなことを気にした様子も見せず、それどころか笑みを浮かべて鷹揚に頷いてみせた。

 

「……ああ。勿論、知っているとも。では一応、私も名乗っておくとしよう。私はシンボリルドルフ。トゥインクルシリーズにおいては君の同期になるだろうな」

 

「正直、僕としては君の本格化はあと五年は後であってほしかったな。あるいは、僕の本格化が三年後くらいでもよかったんだけど」

 

「ふふ……しかし、君の目はそう言っていないように見えるが」

 

「そう? どうだろうね。僕は正直、この前君に負けてから、まともに寝るのも苦労する有様だったんだけど」

 

 辟易と溜息を吐く。

 最近になってようやく多少落ち着いたけど、授業の休憩時間に仮眠を挟んだり、トレーニングの合間にちょっとだけ転寝したりで結構しんどかったものだ。でもそうしないと最低限のパフォーマンスも維持できないので。

 

 ともあれ、僕は別に世間話をしに来たわけではない。

 僕はともかく、ルドルフは多忙だろうし。

 

 ……それに。今こうしているだけでも足が竦むのを必死に隠している身としては、この部屋になるべく長居はしたくないところだ。

 なので、僕はさっさと用件を伝えることにした。

 

「手っ取り早く本題に行こうか。ご多忙のところ申し訳ないけど、併走をお願いしたい。――一対一で。”全力”の、併走を」

 

「……ほう」

 

 僕の言葉に、威厳ある美しい笑顔、という不思議な表情を掻き消して、彼女はいよいよ威厳のみを身に纏う。

 鋭く細められたその紫紺の眼差しが、射抜くように見通すように僕を見つめた。

 

 まずい。

 ちびりそう。

 

 僕がちょっと内股になっていると、彼女はふっとその剣呑――に見えるだけかもしれないが――な表情を和らげて、口を開く。

 

「ふむ。条件はどうする?」

 

「芝2000m、右回り。日時はそっちの都合が付く時。いつでも構わない」

 

「なるほど。あの時と同じだな」

 

 光栄なことに、彼女はどうやらボコボコに叩きのめした相手のことを律義に覚えてくれていたらしい。

 たった一度敗北を突きつけただけの、自らの影も踏めずに、唇を噛み締めて睨みつけてくるのが精一杯だった、路傍の石ころのようなウマ娘を。

 

 ……当然だろうな、と思う。

 彼女はきっと、この学園で共に走り、自らに敗北していった無数の敗者たちに対して、一度たりとてそんな風に思ったことはないだろうから。

 

 知っている。

 

 全てのウマ娘の可能性を信じていて。

 その全てを守り、育み、それがいつか花を咲かせることを、心の底から望んでいて。

 そのために自らの身を捧げることさえも、当然とする彼女であれば。

 

「君なら、受けてくれるよね。――シンボリルドルフ」

 

「――ああ。勿論、受けて立つとも。フロクスドラモンド」

 

 この願いも、必ず受けてくれると、僕は知っていた。

 

 

 

「――じゃ、そっちで準備が整ったら連絡してね。待ってるよ」

 

「ああ、承知した。……そう長く待たせることはないだろう。君も、今の内から十分に英気を養っておいてくれ」

 

「ありがと、そうするよ。……それじゃ、失礼しました」

 

 挨拶とともにペコリと一度頭を下げる。

 これで今日の用事の一つ目は終わった。やるべきことはあと一つ。

 

 緊張に張り詰めていた吐息をそっと溢して、僕は生徒会室を出た。

 

 

 ……そうして、その扉が閉まる直前に。

 

「……どうも……ドラモンド……ふむ。どうもどらも……ううん。どうもらも、どうらもん……」

 

 会長の、何かしょうもないダジャレを思いつきそうで思いつかない悩ましい呟きが耳に届いた。

 ……まあ、頑張って。

 

 

 

 コースの芝を夕日の照らす茜色が染め上げて。

 その傍らで、地平線の彼方から夜の暗闇が迫ってくる。

 

 全力の走りをゆっくりと緩めていくその最中に。

 コースの脇から、歩み寄ってくる人影を捉える。

 

 どうやら、今日二つ目の用事をこなす時間がやってきたようだった。

 

「――やあ、お疲れ様。今日は随分……」

 

「須藤さん」

 

 柔らかな声音。

 ここ一月ほどの間に随分と聞き慣れた声だ。

 差し出されたタオルを受け取って、その気取らない笑顔に、その言葉が言い切られるより前に、呼びかける。

 

「うん?」

 

「今日は少し、お話したいことがあります」

 

「……ああ。わかった」

 

 何を話されるのかはわからなくとも、僕が真剣なのは見て取れたのだろう。

 彼はそっと表情を引き締めて、頷いた。

 

 

「話したいことというのは、須藤さんのスカウトが上手く行かないことについてです」

 

「……あれ?」

 

「どうかしましたか?」

 

「いや……なんか、想像してたのと、ちょっと違うかなって……」

 

「そうですか。では違ったついでにもう一つ言っておきますが、これから僕は結構色々遠慮なく言うつもりなので、覚悟をしておいてください」

 

「あっ、はい……」

 

 多分、僕の走りのどうこうの話だと思っていたのだろう。

 真剣な表情を、すんっと消沈させて、彼はいつものベンチの上で小さくなった。

 膝を揃え、両手をそこに置いて、肘を突っ張り、そして俯く。

 夕日に照らされた彼の纏う哀愁たるや、涙が出そうなほどである。

 でも加減はしません。

 

「須藤さん、自分の何がダメなのか、って以前仰ってましたよね」

 

「はい」

 

「あなたが今までお試し担当をした娘たちの想いを言い当てようというわけではないですが、今日はここ一か月ほどあなたを見ていた僕個人の見解として、その理由を述べようと思います。お世話になった身として申し訳なくはありますが、容赦はしません」

 

「はい、お願いします……」

 

 一回り年下の小娘にこんな言われ方をしても、彼は粛々とそれを受け止めている。

 その在り方に、僕はくすりと一つ笑みを漏らした。

 そして、口を開く。

 

「まず第一に。一人のウマ娘として今のあなたを見た時に、僕はあなたと契約を結んで”やっていける”とは思えません」

 

「ウッ」

 

 心停止した人みたいな声をあげて、須藤トレーナーは自分の心臓を押さえた。

 かわいそう。

 

 ……でも、今から言うことは、トレーナーとしてやっていくなら必要なことだと僕は思っている。

 彼のように、真摯にウマ娘と向き合おうとしている人間であれば、必ず。

 

 ひょっとしたら、こういうことは時間を掛けて気づいていくことだったりするのかもしれないけど。

 近道をして悪いことはないはずだ。そのためにこんなダメージまで受けてるんだし、まあそれでトントンにはなるだろう。

 

 そういうわけで今からあなたを殺しにかかるけど、どうか死なないでほしい。

 頑張って耐えてくれ。あなたに死んでほしくないんだ。

 

 なんだかひゅうひゅうと掠れた吐息を溢している須藤トレーナーに、僕は追い打ちをかけるように鋭い視線を向ける。

 

「能力的なところは、僕は評価できないので置いておきます。勉強していけば身に付くものだと思いますしそこは自力で頑張ってください。人柄の面では問題ないと思います。あなたは人としてはきっと信頼できる人だと僕は思います」

 

「ハァ……ハァ……」

 

 ダメージを受けた心が微妙に回復したらしく、須藤トレーナーは何とか掠れた吐息を荒い呼吸へと戻した。

 ……真面目に話してるのに相手の呼吸が荒いのちょっと嫌だな。

 まあいい。

 

「でも、そういう能力とかに関係のないところで、僕はあなたをトレーナーとしては信用できません」

「オッ」

 

 再び心停止。

 もう気にしないでおこう。

 

 言いたいことは、もうすぐだから。

 

「――だって」

 

 

「あなたを信じていれば僕は勝てるんだって、今のあなたを見ていても僕には思えない」

「――え」

 

 

 その言葉に、須藤トレーナーは愕然と目を見開いた。

 

 

「あなたにないのは能力でも人柄でもない。あるいは実績があればいいのかもしれませんけど、それもない今の段階で担当を作りたいのなら……あなたに足りないのはきっと、必ず自分が育てたウマ娘を勝たせてみせるっていう、自信です」

 

「……自信……」

 

「自分なんかより先輩トレーナーを頼った方がって、仰ってましたよね。あるいは優秀な同期でもいいですが。……客観的に見れば確かにそうかもしれませんけど、僕たちウマ娘にとってはそれじゃダメなんです。僕たちにとって必要なのは、今自分と契約しているトレーナーこそが、自分にとって最高のトレーナーなんだって確信です」

 

「確信……」

 

「そう、確信です。……だって」

 

 呟く須藤トレーナーの目を、正面からじっと見つめる。

 どうしても、それだけは、理解してほしかった。

 

「レースに生きるって決めた、僕たちウマ娘の”一生”は。たった一度の、今この時にしかないから」

 

「――」

 

「そのたった一度の挑戦を、僕たちは棒に振るわけにはいかないんです」

 

 無数に存在したライバルたちを蹴落として、この狭き門を潜り抜け中央トレセン学園にやってきたウマ娘たちの考えることなんて、大雑把に纏めてしまえば最後に辿り着くのはたった一つだけだ。

 

 ”勝ちたい”。

 

 ただそれだけなんだ。

 だから、この人に付いていけば勝てるって。

 この人に付いていけば夢を叶えられるって。

 そう信じられない相手には付いていけない。

 

「あなたがトレーナーを名乗るなら、僕たちに信じさせてください。あなたに付いていけば勝てるって。あなたに付いていけば夢を叶えられるって。そして、責任を取ってください。僕たちに、あなたを信じさせた責任を」

 

「責、任……」

 

「僕たちの夢は、ほとんどの場合叶いません。十年夢に見たレースがあったとしても、それに挑めるのは精々多くて二回か三回ですから。一度きりしか走れないレースに憧れてしまったならなおさらです。そしてそもそも、そのレースを走れる娘さえ一握りにすぎないんです」

 

 呆然と呟く須藤トレーナーに、畳みかけるように言葉を連ねる。

 

 勝ちたい。

 

 この学園の門を潜ったおよそ全てのウマ娘たちは、心の底からそう願いながらも、多くの場合は叶わずに終わる。

 

「それ、は」

 

「単純にG1に勝ちたいとか、重賞に勝ちたいとか、そんな簡単で大雑把に聞こえる夢だって、叶えるのがどれだけ難しいのかはトレーナーにはよくわかっているはずです。そこに辿り着くことさえできないまま、ほとんどの娘たちはここを去ることになります」

 

 才能が足りなかったのかもしれない。

 努力が足りなかったのかもしれない。

 思考が足りなかったのかもしれない。

 覚悟が足りなかったのかもしれない。

 運が足りなかったのかもしれない。

 

 ただ、いずれにせよ。

 何かがほんの少し欠けただけで、僕たちは人生を懸けた夢を呆気なく失うことになる。

 

「僕たちはきっと、あなたたちトレーナーが思う以上にそれを理解しています。だって、実際にレースを走るのは僕たちで、そこには勝敗と、着差という明確な差が生まれますから。自分の前を走る背中にどう足掻いても追いつけない苦しみをほとんどの娘が知っています。本当に夢を叶えてしまえる、ほんの一握りの娘たち以外のほとんど全ての娘たちが、自分がきっと勝てないことを理解していながら、届かないとわかっている夢を追いかけているんです」

 

 だから、

 

「だから」

 

 僕は、須藤トレーナーの胸倉を掴み寄せて、

 吐息の熱さえわかるくらいの距離で、言った。

 

「僕たちに、信じさせてください。あなたが僕たちにとって最高のトレーナーだったって――あなたと一緒に夢を追いかけたことを、例えその夢を叶えられなかったとしても、後悔せずに済むくらい、強く」

 

「……ッ」

 

 睨みつけるくらいに、彼の瞳を見つめる。

 それは弱々しいくらい、酷く揺らいで見えて。

 

「……須藤さんは凄くいい人だと僕は知っています。だから、一度理解してしまえばきっともう大丈夫だと思います。……だから、覚えていてください」

 

 でも、彼は決してその目を逸らそうとはしなかった。

 

「あなたというトレーナーが、これからきっと沢山出会うことになる”担当”の二文字の、その一つ一つには」

 

 

「僕たちウマ娘の、一生に一度だけの夢が詰まってるんだって」

 

 

「……俺は……」

 

 須藤トレーナーは、しばらくの間、何かを言葉にしようと口を開いたり閉じたりして。

 そうしてそれに失敗して、ぐっと唇を噛み締めた。

 

 強く握りしめた拳を振るわせて、眉間に皺を寄せる。

 

 自らを恥じたのか。自らに怒りを覚えたのか。自らを情けなく思ったのか。

 あるいは単に、僕の偉そうな言葉に憤ったのか。まあ、須藤トレーナーのことだからそれはないか。

 

 何でもいい。少しでも何か感じるものがあってくれたのならそれでよかった。

 そうすれば、僕の望みは十分に満たされる。

 

 

 彼の胸倉を掴んでいた手を放して、僕はベンチから立ち上がった。

 夕日に向けて数歩進み、立ち止まる。

 

 実のところ、僕は夕焼けというのが好きではなかった。

 それは夜の訪れを示すもので、走れる時間の終わりを告げるものだったからだ。

 

 優等生であるところの僕からすれば、両親に心配させたり、門限が来たりする前にちゃんと引き上げなければならない。仕方ないこととは言っても、嬉しくないのは当たり前。

 僕は僕を追いかけたり追い立てたりしてくるものがあまり好きではないのだ。だから追込戦法でやっているのだし。

 

 

 そのはずだったんだけど。

 最近、この光景が好きになったことに気づいた。

 

 

 振り返る。

 

「――須藤さん」

 

 投げかけられた言葉に、須藤トレーナーが顔を上げた。

 

 自分がそうさせたとは言え、中々に情けない顔をしている。具体的に言うと、自分の至らなさを延々自責し続けていた感じの顔。

 

 そういう感じの頼りない顔を見せるから振られるんじゃないかなぁとは思いつつも、個人的には嫌いではない。

 それはきっと、彼がそれだけウマ娘という存在に対して真摯でいてくれている証だと思うから。

 

「さっきは偉そうなことを言いましたが、実のところ、つい最近まで僕に明確な夢らしい夢というのはなかったんですよね。ここに入学するのは夢でしたし、いつかG1を走って、叶うならそのトロフィーを、というのも夢ではありましたけど、まあ走るの大好きの延長線上にあるものだったというか」

 

「ええ……?」

 

 無責任な僕の言葉に、須藤トレーナーは困惑したような音を漏らした。

 そりゃあれだけ言われたんだもんね。

 

 くすりと一つ笑みを溢して、言葉を続ける。

 

「勿論真剣にはやっていましたよ。まあこれくらいでいいんじゃない、なんて心構えでやってこれる場所でもないし、やっていける場所でもないですから。僕はこの学園を目指したウマ娘たちの99.9%より真面目に全力でやってきた自負があります。……けど」

 

「……」

 

「その程度じゃ足りなかったんだなって、この前思い知らされました」

 

 今になって思えば、僕はきっと思い上がっていた。

 地元じゃ負け知らずを完遂し、中央トレセン学園の入学試験でも手応えがあって、同期の中でも頭一つ抜けて速かった。

 挫折らしい挫折の一つもないままに今までやってきた僕は、僕より速いウマ娘がいることを頭では理解しながらも、多分、何とかはなるだろう、と思っていたのだと思う。

 負けるかもしれないけど、勝てなくはないはずだ、なんて。

 

 

 甘かった。

 真に歴史に名を残すウマ娘というものが、一体どれほどの強さを持つのかを、全くわかっていなかった。

 

 追えば追うほどに遠ざかっていく背中が、何よりも鮮明にその事実を突きつけてきた。

 

「――今、僕には夢があります。でもきっと、その夢は叶いません。僕の夢は、どんなG1レースを獲ることよりも難しい。でも」

 

 思えばあの日。

 僕は彼女に焦がれるほどに憧れて、だからこそ、勝てないのだと悟った。

 

 そして、勝てないと悟りながら、

 

「僕はこれから、その夢を追いに行きます」

 

 その背中が、夢になった。

 

「夢を、追いに……?」

 

「ええ、そうです。僕の夢って移動式なので、追いかけないと掴めないんですよね。でも何せめちゃくちゃ速いので、はっきり言って僕は諦めていました。と言うか今でも無理だろうなと思っています。どう考えても僕が追いつける相手ではないので」

 

 深いため息を一つ溢して、僕は首を振る。

 

 僕は今もなお、自分が本当に勝ちたいと思っているのか、そんなことさえわからないでいる。

 でも、それを当然のことだとも思う。

 

 だってそれは、夢への挑戦と例えるにはあまりに無意味な試みだ。

 人が自らの手を羽ばたかせても空を飛べないことと同じように、僕がどれほど努力したとしても彼女には追いつけない。

 それは単なる自然の摂理であって、どう足掻こうとも覆しようのない単なる事実だ。

 

 石ころが例えその身を丁寧に磨いたとしても。

 それは決して、星にはなれない。

 

 路傍の石ころが夜空を眺め、そこに輝く星に憧れて、自分も星になることを望んでいる。

 それが僕の夢だ。

 

 挑むという選択そのものが最も愚かな彼女の背中は、僕にとって憧れであり、夢であり、永遠に届くことのない天の星の輝きに他ならない。

 

 残念ながら僕は石ころでありつつもウマ娘でもあるので、その夢が叶わないことくらいは理解できる。

 

「ただ」

 

 ……できている、はずなんだけど。

 須藤トレーナーの言うところには、僕はそれでも勝ちたいと望んでいるそうなので。

 

「それでも試しに一度だけ、本気の本気の、全力の全力の全力で、追いかけに行ってみることにしました。叶わないなんて僕の思い込みで、ほんの僅かな可能性だったとしても、僕にはまだ残されているんだって、信じて」

 

「……そうか」

 

 いつの間にか、須藤トレーナーの顔は随分マシなものになっていた。

 夢に挑むウマ娘を見送るトレーナーの顔……なんて言ったら、所詮はただの知り合いにすぎない僕と彼には不適切だろうか。

 

 それでも、そうであってほしいと思ったのは本心だ。

 

「――そこで。そんな風に僕を焚きつけた張本人であるあなたに、最後に一つお願いがあります」

 

「うん……?」

 

 焚きつけたって何?

 みたいな訝しげな表情を浮かべる須藤トレーナーに笑いかける。

 

 まあ彼にはわからないだろう。

 

 ウマ娘が、勝ちたいと思いながら走っているなんて、そんな本来当たり前のことをただ指摘しただけのことが。

 一体、どれだけ強く、僕の背中を押してくれたのかなんて。

 その夢を支えたいと言ってくれたことが、どれだけ嬉しかったのかなんて。

 

 ちょっと恥ずかしいから、わかってくれなくていいけど。

 

「僕が夢を追いかけるのを、見ていてください。トレーナーとしてのあなたの目で、見届けてください」

 

 ――僕は確かに、今の彼を見ていて、彼をトレーナーとして信用できない。

 彼に付いていけば僕は勝てると、僕はまったく信じられない。

 二人三脚でやっていけると、口が裂けても言えはしない。

 

 でも。

 そんな”信用”ができる相手であれば、多分今までに僕が蹴ってきたトレーナーたちの中にもいたはずだ。

 

 G1勝利バを出した実績を残した一流トレーナーがいた。

 三代に亘って結果を残し続けている名門トレーナーがいた。

 

 彼らにはきっと自信があっただろう。

 僕を勝たせてみせるという自信が。

 

 でも、僕は彼らに差し出された手を払った。

 

「その時。あなたの目に、僕の夢が、僕と共に追いかけるに足るものだと映ったなら……俺がこいつを勝たせてやるって思えたなら、その時は」

 

 だって、僕が求めたのは。

 僕のことを、真剣に想ってくれるトレーナーだ。

 

 僕の夢を、僕と一緒に、それが例え叶わないかもしれない夢であっても。

 どこまででも、追いかけてくれるトレーナーだ。

 

 

 

 

 

「どうか僕の、一生に一度の夢を、あなたに託させてください」

 

 その点において、彼は間違いなく、今までの人生でたった一人。

 

「僕を支えてくれる杖があるのなら――それは、あなたであってほしい」

 

 心の底から、絶対に、”信頼”できる。

 

 

 

 

「……ドラモンド……」

 

「……なんて。一世一代の告白ですが、返事は後日にお願いします。色々決まったら連絡しますので、その日は必ず来てくださいね。……暇、なんですもんね?」

 

 本気の本心を他人に対して口にするのは、随分久しぶりだった気がする。

 

 何だか急に恥ずかしくなって、茶化すようにしてそう言った僕に、

 

「…………ああ。必ず行くよ。絶対に。約束する」

 

 彼は酷く真剣な顔をして、頷いてくれた。

 

 

 ――ああ、よかった。

 

 そう思って。

 

 僕はその時、心の底から笑ったと思う。

 

 

 

 

 これで、

 

 負け(死に)に行く、勇気が持てた。

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