星に憧れた石ころウマ娘の物語   作:ボ・クッコスキー

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君に

 ――ざり、と。蹄鉄が芝を掻く音。

 

 中央トレセン学園内に幾つもあるコースの一つ。

 青々と晴れ渡る空の下、腰から伸びた尻尾をゆらりと払って、僕は無言のまま眦を決した。

 

 芝2000m、右回り。

 

 天気は晴れ、バ場は良。

 

 あの時と同じだ。

 

 やる気は最高潮。

 コンディションは人生で一番の記録を塗り替えた。

 

 今の僕は、過去いかなる時の僕よりも、速い。

 

 

 そして。

 

 そんな僕を待ち受けるように、美しい威容を湛えた一人のウマ娘が、僕と同じコースの上に立っている。

 

「……ルドルフ。今日は時間を割いてくれてどうもありがとう。感謝するよ」

 

「やあ、ドラモンド。礼には及ばないとも。私も今日を楽しみにしていたのでね」

 

 にこやかな笑みの裏にひりつくような気配を滲ませて、招かれた側であるはずのルドルフは、僕を出迎えるように鷹揚に振舞った。

 それはさながら、このターフの“皇帝”であるかのように。

 

 その雰囲気に呑まれてしまえば、僕は何もできないままに敗北を喫することになるだろう。

 けれど今日ばかりは、そんな無様を晒すわけにはいかない。

 

 その紫紺の眼をじっと見返す僕に対して、ルドルフは一つ頷いた。

 

「……ふむ。正に意気軒高、といった様子だな」

 

「そうじゃないと、僕は君に挑むことすらできないからね。今だけだよ」

 

「私としては、挑戦はいつでも受けるつもりだが……いや。今はただ、この一時を楽しむべきか。……君の望むとおり、私も全力でお相手しよう。レースの開始を待っているよ」

 

 その整った顔貌に、一瞬ゾッとするほどに獰猛な笑みを浮かべて、ルドルフは淡々とレースのスタート地点へと向かっていった。

 ……どうしてかは知らないが、彼女はかなり“やる気”のようだった。全力で来るよう求めたのはこちらなのだから、そうあってくれるのはありがたい話だが。

 

 足の震えは、ない。

 今この一時だけは、耐えられる。

 

 僕は準備運動をしているルドルフの背中から目を逸らして、この場にいるもう一人の――最後の一人に目を向けた。

 

「……やあ、ドラモンド」

 

「ふふ。……どうも、須藤さん。来てくれてありがとうございます」

 

 偶然ながら、ルドルフと同じ挨拶の一言。

 何でもないことなのに一瞬それがおかしく思えて、小さく笑みを零す。

 すると彼もまたそれに釣られるように、強張った表情を微かに和らげた。

 

「約束したからね。……調子はどうだい?」

 

「いいですよ。今の段階でこれ以上は望めないですね」

 

「それならよかった」

 

 いつもの人の好さそうな笑みを浮かべてから、須藤トレーナーはちらりとその視線をルドルフの方へと向ける。

 そうしてその視線を僕へと戻し、ぐっと表情を引き締めて、問うた。

 

「勝てそうかな」

 

「いいえ、全然」

 

「……あれ……?」

 

「どうかしましたか?」

 

「いや……またなんかちょっと、想像したのと違うなって……」

 

 リンゴと思って齧ったら梨だった、みたいな何とも言えない表情で、須藤トレーナーはむにゃむにゃと呟いた。

 いやそうは言っても、実際「勝てそうかな」と聞かれるとそうとしか答えようがない。

 

「さすがに僕もそこまで自惚れてませんよ。以前あれだけの完敗をして、それからたかだか一か月程度で、しかもその間にトレーナーを得た彼女に勝てるなんて考えるほど思い上がってはいません」

 

 その事実を悲しく思う自分はいるが、それでもそれは単なる事実にすぎない。

 僕が今の段階でどれほど意気込んだところで、彼女を相手に勝ち目はない。

 精神が肉体の限界を取り払うことがあろうとも、その限界を超えた先に進んでも、僕は彼女には勝てない。

 

 それでも、挑戦する。

 今はただ、それだけの話だから。

 

「……ルドルフもきっとそれは理解しています。だから僕は、彼女に全力で走るようにお願いしました。今の彼女と僕の力量差を考えれば、彼女は適当に流したって百回中百回僕に勝つでしょう。本来なら、全力を出してくれとお願いすることさえ烏滸がましいくらいの差があるんです」

 

「……そうか」

 

「でも、僕は彼女に挑みます。でないと僕は、夢を叶えることはおろか、それを追いかけることさえできないから」

 

「……」

 

 “勝ちたい”。

 

 須藤トレーナーと、タンジーの口からその言葉を聞いて、少し考えて、僕は久々にちょっとだけ自分のことを理解できた。

 

 僕は自分が“勝ちたい”と思っているのかがわからなくなった。

 より正確に言えば、“勝ちたい”という感情そのものが、僕にはわからなくなったのだ。

 須藤トレーナーが僕の中に見たはずの“勝ちたい”という感情を、僕自身が理解できなくなった。それが理解できた。

 

 あの日の敗北が。

 遠ざかるばかりの背中が。

 その幻影が。

 

 ――あの時。

 “永遠に勝てない”と理解してしまった僕自身が。

 

 多分、僕の感情をすっぽりと覆い隠してしまっている。

 

「……逆スカウトを掛けているのにこんなことを言うのも何ですが。僕はきっとこれから、酷く無様な負け方をします。きっとあなたの目に僕の勝ち目は全く映りません。最初から最後まで、ルドルフがずっとレースを支配し続けて、僕はその影を踏むことさえ叶わずに負けるでしょう」

 

「……」

 

「これから数年間、トゥインクルシリーズを支配する“皇帝”の足元に、たまたま転がっていたから蹴り飛ばされるだけの路傍の石ころ。それが僕です。このレースはレースであっても、勝負でも試合でもありません。……それでも、お願いします」

 

 だから僕はまず、僕の感情を呑み込んだ暗闇を振り払う必要がある。

 

 でなければ走れない。

 夢を追うことができない。

 

「今だけは、そんな石ころのことを見ていてください。あなたの目で僕の走りを見届けて、そして……僕が夢を叶えられるのかを。それをあなたが、支えたいと思うのかを、見定めてください。石ころが抱いた分不相応の夢に、一緒に走るだけの価値があるのかどうかを、見定めてください。……無謀な夢だと、わかっていても」

 

 

 

 

 なぜなら。

 

 

 

 

「僕の夢は――シンボリルドルフに勝つことだから」

 

 

 

「わかった。……見届けるよ。君の走りの、全てを」

 

 

 

 スターターピストルを手にした須藤トレーナーが、静かな瞳で、確認するように僕とルドルフを見た。

 そうして、二人とも頷きを返す。

 

 準備はもう終わっている。あとはもう、このレースを――僕の敗北と、彼女の勝利を確定させるだけだ。

 

 ……この場にいるのは、いっそ不自然なくらいに、僕と、ルドルフと、須藤トレーナーの三人だけだ。

 ルドルフの併走ともなれば、情報が出回れば野次馬が現れてもおかしくない。

 別に観客席に座っていたとしても問題はないが、レースだけに集中できるのは素直にありがたいことだった。

 

 そしてそれは多分、彼女の配慮によるものだろう。それを嬉しく思う。

 

 彼女にとってはきっと何の役にも立たない無駄な時間を――それでも彼女は、心の底から真剣に受け止めてくれたのだ。

 

 ……この日のために。

 この一か月ほどの時間を、僕はきっと、この日のためだけに費やしてきた。

 

 ルドルフの走りを研究し、

 あの日の幻影をひたすらに追い続け、

 その走りに対応するために一つ一つ自分を改善していって、

 彼女との、一対一のレースだけを見据えて、それに自身を最適化してきた。

 その経験が、きっと実際のレースで役立つことはないとわかっていたけど、それでも。

 

 あの日の幻影との着差は、二バ身まで近付いた。

 ただそれだけに最適化してもなお勝てず、それでも僕は今この場所に立っている。

 

 本物はきっと幻影よりも強いだろう。僕が一か月の間に練習を積み重ねてきたのと同じように、ルドルフもまた成長している。

 幻影相手に近付いたからと言って、本物相手に近付けるとは言えない。

 

 それでも。

 それでも僕は、その背中に近付けることを、証明しなければならない。

 僕の走りを見届けてくれる彼に、僕の走りを認めてもらわなければならない。

 

 でなければ、僕の夢は、始めることさえできないままだ。

 

 

 須藤トレーナーがゆっくりとピストルを構える。

 あらかじめ決められたスタートの合図に、位置について、とか、用意、とか、そういう文言はない。

 

 眼前で開くゲートだけを合図に走り出す僕らにとって、一瞬以上は必要ない。

 今は火薬の炸裂音だけが、ゲートの開く音と、そこから差し込んでくる光の代わり。

 

 

 戦いを前に零れる吐息の微かな音だけが響く静寂の中。

 

 それを切り裂くように、パアン、と音が鳴って。

 

 僕とルドルフは全くの同時に走り出した。

 

 

 

 いつもであれば、僕は多少スタートを遅らせても気にしないし、実際にそれが問題になることもない。

 僕の走りは追込だ。遅れすぎさえしなければ、あとはバ群の動きに合わせつつその最後尾に付いていて問題ない。

 

 けれど、これはレースであってレースでない。

 レースを想定した練習でもない。

 

 一対一の、両者の格付けを確定させるための、競走だ。

 ほんの一瞬の遅れでさえも、彼女を相手には命取りになる。

 

 

 先行を奪ったのはルドルフだった。

 僕もそれを取りに行ったわけではないが、後ろに付くために足を緩めたりはしていない。

 一瞬足を緩めれば、このレースはただの何の価値もない敗北に終わるから。

 

 だからこれは、ただただ彼女の方が僕よりも速度に優れ、体力に勝り、加速力に長けているから起きた現象にすぎない。

 

「……ッ、く」

 

 思うところがないわけではない。

 けれど今は余計なことを考えず、その背中に付くことだけを考える。

 

 スリップストリーム。

 僕と彼女の力量差を考えれば、彼女が一手に風の抵抗を受けていようが、僕がその一切を避けようが、結果にさしたる影響を与えることはない。

 それでも僕は、彼女に勝つための努力を、たった一つでも怠るわけにはいかない。

 

 例え負けるとわかっていても、僕は勝つために走らなければならないんだ。

 

「ふっ、ふっ、ふっ、ふっ、ふっ!」

 

 呼吸の音さえも聞かせてはくれない、腹立たしいほど余裕に満ちたルドルフの背中をひたすらに追い続ける。

 とにかくその背中を追う。それだけを考える。

 それだけが今僕のすべきことで、それだけが今僕にできること。

 

 さあ。

 第一の関門だ。

 

 一度目のコーナーが来る。

 

「う、くっ……!」

 

 体勢が歪まないように。

 頭は地面にまっすぐに。

 踏み込みの歩幅と角度を調整して。

 内ラチを意識し無駄を排する。

 

 あれだけ何度も練習したコーナリング。

 子供の頃から何度も何度も繰り返して練習してきた。

 ルドルフの幻影を追いかけ始めてからはなおのこと。

 何度も何度も何度も何度も繰り返し繰り返して身体に染みつけてきたにも関わらず。

 

 それでもなお、ルドルフのコーナーワークの方が、遥かに上手い。

 

 邪魔者のいない僕と彼女だけのこのコースで、その力量差はあまりにも鮮明に現実に描き出されていく。

 コーナーの中で微かに捉えた彼女の横顔は、ただ静かに前だけを見据えている。

 僕とは違って何一つ気負った様子なんて見せないくせに、彼女の走りはあまりにも速い。

 その美しい横顔が、その美しい走りが、今はただただ憎たらしい。

 

 

 離れていく。

 距離が開いていく。

 

 その背中が、遠ざかっていく。

 

 

 ――その背中に、

 

 瞼の裏に焼き付いた、あの時の幻影が重なって。

 

「う、あ、ぁぁああぁあああ……ッ!!」

 

「――ほう」

 

 僕は体力の消耗を呑み込んで、無理やりにその距離を詰めた。

 

 絶対に離されるわけにはいかない。離された距離を放置すれば、僕は二度とそれを埋められなくなる。

 とにもかくにも限界まで付いていく。それだけが僕に許された勝負の道だ。

 

 スタミナの消耗なんて考えない。

 考えたら絶対に勝てないからだ。

 配分がどうとか、限界がどうとか、そんなことを考えた時点で僕は勝負の場にすら立てない。

 

 付いていく。

 どこまででも付いていく。

 何が何でも付いていく。

 

 その背中に最後の最後まで喰らい付いて、末脚勝負に持ち込むことだけが、僕に許された唯一の勝利の可能性。

 それをむざむざ手放すことなどできるわけがない。

 

 でなければ、僕の走りを見てくれている人に、僕を応援してくれた人たちに、申し訳が立たない――!!

 

「はっ、はっ、はぁっ、はっ、はっ!」

 

 ――一度目のコーナーを乗り越える。

 

 ルドルフの背中はまだ変わらない距離を保っている。

 スタミナは消耗させられたが、それはもう最初から諦めている。

 彼女に勝とうと思うのならば、どうせ最後は、無策で根性に頼るしかないのだから。

 

 そんなものは、その背中を掴んで放さないためだけに、全部使い果たしたって構わないって、そのつもりで走るしかない!!

 

「……ふ」

 

 前方から零れ聞こえた吐息のような微かな音は、果たして彼女の呼吸によるものか、はたまた僕の幻聴だったか。

 いずれにせよ、彼女はただ、彼女が繰り返してきた幾つものレースと同じように、余裕を保ったまま理想的なフォームで淡々と走り続けている。

 

 ここまではいい。悲しいことだが大体は想定どおりだ。

 この直線を超えて、最後のコーナーにかかってから。そこから本当の勝負が始まる。

 

 そこまでに、何とかかんとか、全力で走って距離を保ちながら息を入れて整える必要がある。

 我ながら無茶苦茶だけど、それができなければ勝ち目なんて万に一つもないままだ。

 

「はあっ、はあっ!」

 

 とにかく呼吸を何とか整える。

 整えられているのかすら正直よくわからないし、これがスタミナの回復に繋がっているのかもよくわからないが何とかかんとか整える。

 そしてそれと同時に距離感を維持する。

 

 大丈夫だ。離されてはいない。

 離されてはいないが、やっぱり今の行動がスタミナに少しでも寄与してくれたのかはわからないままだった。

 

 ああ、くそ。

 ダメだ。

 スタミナはこれ以上どうにもできない。根性で無理やり何とかするしかない。

 

 言ってる間に。

 

 最後のコーナーが来る。

 

「――う、ぐ、うぅううう……っ」

 

 必死で保ってきたその背中との距離が、またじわりと離れていく。

 苦悶の表情を浮かべながら、それに何とか追随する。

 

 彼女の様子は先ほどと何も変わらない。

 僕がこれほど消耗しているにも関わらず。

 ただどこまでも涼しい顔で、僕との違いを見せつけてくる。

 

 脚が重い。

 肺が痛い。

 思考がぼやける。

 視界が狭まっていく。

 

 ダメだ。

 

 さっきみたいに振り絞れるだけのスタミナの余力がない。

 距離が離される。

 

 負ける。

 

 このままでは負ける。

 

 

 ――それを、

 

 

 そんな結末を、

 

 

 むざむざ認めて、たまるものか!!!

 

 

「ぐ、う、あ、ああ、あああ……!!」

 

「――ふ、はは」

 

 泣きたくなるような感情が、顔にまで上がってくる前に、僕はそれを口の中で粉々に噛み砕いた。

 そうしてまた一歩踏み込んだ。

 

 もういいんだ。どうだっていい。

 細かいことは何も考えなくていい。

 

 脚が重いから何なんだ。

 肺が痛いから何なんだ。

 思考がぼやけたからって何だって言うんだ。

 視界が狭まったって別に何も構いやしないんだ。

 

 だってそんなの、最初からわかりきってたことだ。

 

 僕の脚は最初から彼女より重い。

 僕の肺は最初から彼女より弱い。

 思考がどれだけぼやけたって目的だけは明瞭なままで。

 視界がいくら狭まったって、見なければならないものを見落とすことはない。

 

 そんなもの、何もかも問題になんてなりはしない!

 

 重い脚は引き摺ればいい!

 痛む肺には耐えてればいい!

 頭が回らなくたって、視界が霞んでいったって、

 あの日憧れたその背中を、僕が見落とすわけがないんだ!!

 

 

 

 ここで離されれば、僕は終わるなら。

 ここで離されないためだけに、僕の全てを注ぎ込む。

 

 その後のことなんて、その後になってから考えればいい――!!!

 

 

 

「――僕は」

 

 ――そうして、やっとわかった。

 

 自分の中から余計な感情の全てが拭い去られて、あの日僕の心を覆い隠した暗闇が晴れていく。

 

 この時になって、やっと僕は理解した。

 

 負けたくない。

 追いつきたい。

 追い抜きたい。

 

「僕は」

 

 誰の記憶にも残らなくたっていい。

 歴史の中に埋もれてしまう名前でいい。

 誰にも見てもらえない路傍の石ころのままでもいい。

 星のように輝くウマ娘になんかなれなくたっていい。

 

 ただ。

 

 君の視界に入ることもできないまま。

 君が導くべきウマ娘の一人でいるまま、終わりたくない。

 

 君の背中を追いかけるだけでいたくないんだ。

 

 

 君に、“敵”だとさえ思ってもらえないまま、終わりたくない!!!

 

 

「僕はッ」

 

 

 だから、

 

 僕は、

 

 君に――!!!

 

 

「勝ちたいんだ――ッッ!!!」

 

 

 心の底から喚き立てるその感情に従って、一歩を踏み出す。

 

 勝ちたいという感情が求めるままに、僕はあの日の幻影よりも早くスパートを掛けた。

 

 注ぎ込める僕の全てをこの脚に注ぎ込んで、

 

 

 僕は、ずっと追いかけてきた、幻影の背中を踏み越えた。

 

 

 そうしてやっと、

 

 本物の彼女を、この目に映した。

 

 

「う、う、あ、あああ、あああああああああ――ッッ!!!」

 

 

 幻影を超えてなお、その背中は前にある。

 当然だ。幻影が本物に勝るはずがない。

 僕の記憶に焼き付いただけのただの影ごときが、その輝きに勝るはずがない。

 

 僕が追いつきたかったのは幻影じゃない。

 

 その背中に追いつきたかった。

 その背中を追い抜きたかった。

 負けたくなかった。

 勝ちたかった。

 それが、僕の夢だった。

 

 あの日僕を置き去りにした彼女の姿が、あまりにも眩しくて、あまりにも美しかったから。

 

 その背中に、憧れたから。

 

 それが、僕の夢になった。

 

 

「シンボリッ、ルドルフ――ッッッ!!!!!」

 

 

 

 

 

 

 

 だから。

 

 

 

 

 

 

 

「――フロクスドラモンド」

 

 

 

 

 

 

 

 だから。

 

 

 

 

 

 

 

「約束だ」

 

 

 

 

 

 

 

 だから。

 

 

 

 

 

 

 

「全力で行くぞ」

 

 

 

 

 

 

 

 僕は。

 

 

 

 

 

 

 

 その時まで、自分を確かに満たしていたはずの、その感情が。

 吐息に吹かれた蝋燭の火のように、あっさりと掻き消されていくのがわかった。

 

「あ――」

 

 ドン、という、同じウマ娘が起こしたのだとは到底思えないような、地面を蹴る蹄鉄の力強い音。

 土と芝が抉れ飛び、追い続けてきた背中が急激に遠ざかる。

 

 コーナーの最中、一瞬だけチラリと僕に紫紺の眼差しを向けたルドルフが、スパートを開始した。

 

 忘我の内にその背中を追おうとして、そして瞬きの内に、それが叶わないことを悟る。

 

「あ……」

 

 僕はもうスパートをかけている。

 スタミナは確かに枯れかけていたけど、それでも残る全ての力を脚に注ぎ込んでいる。

 

 不思議と感触は悪くなかった。

 いっそ脚が軽い気さえもする。

 そう、多分、僕は今、絶好調さえ超えた絶好調で走っている。

 

 だから、これは。

 

 ただ、圧倒的に前を行く背中が速いだけで。

 

「あ」

 

 瞼の裏の幻影が消えていく。

 あの日から追い続けていた影が、彼女の巻き起こす風に吹かれて散っていく。

 そんなものは、自分には遠く及ばないと、今目の前で遠ざかっていく背中が告げている。

 

「あ、あ」

 

 幻影が本物に勝るわけがない。

 そんなこと最初からわかっていたはずなのに。

 

 

 

 ただ、その背中が、あの日より遠くにある事実が、受け入れられなくて。

 

 

 

 

 

 

 

 最終直線。

 

 

 

 

 

 

 

「――あ、あぁあ、あぁアアぁァアアァアアアァアアアア――ッッッ!!!!!」

 

 思考も。

 

 感情も。

 

 その背中以外の何もかもが、全てが真っ白に染まり上がる中で、

 

 僕は、がむしゃらに、一歩を踏み出して――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 僕は。

 大差での敗北を喫した。

 

 


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