星に憧れた石ころウマ娘の物語   作:ボ・クッコスキー

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夢の終わりと

 初めて彼女と会った日のことを、須藤公宏というトレーナーはよく覚えている。

 そして、生涯それを忘れることはないだろう。

 

 

 須藤に与えられたトレーナー室の窓からは、学園に幾つも存在するコースの内の一つがよく見える。

 だから彼は、まだ担当のいないトレーナーとして学園から割り当てられた書類仕事を片付けながら、そのコースの様子をよく眺めている。

 

 色々なウマ娘たちがそれぞれの夢のために努力する姿を眺めることは、彼にとって日常の喜びの一つだった。

 幼い頃に見たレースで走るウマ娘たちに憧れて、いつしかその夢を共に追いかけたいと思うようになり、その一念だけを貫き通して中央トレセン学園のトレーナー資格をもぎ取った彼にとっては、それだけでもトレーナーになるための努力をした価値があったと思えるくらい、輝いて見える光景だった。

 あんな風に共に未来へと励むウマ娘を見つけたい。そう思いながら仕事に励むのが彼の日常だったわけだ。

 

 

 その日は三か月に一度開催される学園内の選抜レースの日で、須藤はその全てのレースを見届けた後だった。

 今正にトゥインクルシリーズへ走り出さんとする、何人もの輝くような素質を持ったウマ娘たちがいたが、中でも取り分け頭一つ、そうと言わず三つ四つ、いやそれ以上も飛びぬけた素質を見せたのは、やはりシンボリルドルフだっただろう。

 彼女こそが未来の三冠バ――そんな噂に違わぬほど。あるいはそんな言葉すら彼女を賛美するには足りていないのではないかと思えるほどに、彼女の走りは美しく力強かった。

 他の全てのウマ娘と比較してなお物が違う。そう確信させるだけの力が彼女には既に備わっていた。

 

 須藤にしてもスカウトのために選抜レースを観戦しに行ったわけだし、できれば声を掛けたかったのは事実。

 しかしほんの僅かに出遅れた段階で既に彼女はトレーナーの群れの中に完全に取り囲まれていて、その様子を見れば、明らかに自分などに手が出せる相手でないことは明白だった。

 既に複数の担当にG1レースを勝たせた実績のあるような、超一流のトレーナーこそがきっと彼女のようなウマ娘には相応しい。そう思って、須藤は素直にそのスカウトを諦めた。

 

 結局その後、シンボリルドルフほどではないにせよ、光るモノを持っているように見えたウマ娘の一人に声を掛け、担当契約のお試し期間ということになって、わくわくと浮き立つ心のままにそのトレーニング内容を考えていた時のことだ。

 行き詰ったり悩んだりする度に、ちらちらと目を向けていたコースの中に、ずっと同じウマ娘の姿があることに気が付いた。

 

 少々遠目ではあったものの、黒髪の中に白髪の房が幾つか混じっているというその特徴的な頭髪が印象に残ったのだ。

 それは幾つか種類のある葦毛ウマ娘の髪色の変遷の一つで、他と同じように年を経るごとに黒い部分が白くなっていくのだという。

 あまり見られる現象ではないが、ともあれ黒い部分は黒、そこにまばらに白い部分は白、というのは非常によく目立つ。そんな頭がひたすらずーっと走っていたから違和感があった。

 心配してしばらく眺めていたが、そのウマ娘はやはりひたすらに走り続けていた。大したペースではなく精々ジョギング程度のものだったが、それでも全く休む様子がない。

 その姿を見て、嫌な予感が奔ったのを覚えている。

 

 熱心にトレーニングに打ち込むウマ娘など珍しいものではない。

 しかしその日には選抜レースがあって、そしてそこで結果を残せなかったウマ娘は、大体――

 

 結局須藤はその予感に従い、冷蔵庫から取り出したスポーツドリンクと氷を入れたビニール袋をクーラーボックスに乱雑に詰め込んで、トレーナー室を飛び出した。

 

 

 後になって思えば、その判断は間違いなく正解だった。

 コースに辿り着いた時、先ほどまで校舎から眺めていた特徴的な葦毛のウマ娘は既に疲労困憊の様子で、まともに腕を上げて走ることすらできていないのに、それでもなお走り続けようとしていた。

 新人とは言えトレーナーの端くれとして、そんな状態のウマ娘を見過ごせるわけがない。

 

 須藤は大慌てで彼女をコースから引き摺り出した――

 それが、須藤という新人トレーナーと、フロクスドラモンドというデビュー前のウマ娘の出会いだった。

 

 

 

 少し話してみれば、彼女は思いのほか冷静だった。

 

 先ほどまでの行動を考えればおそらくその精神状態は平常とは程遠く、そういう時のウマ娘は大概言葉ではまともに説得できない。

 練習を――例えそれが彼女にとって害にしかなっていなくとも――無理やりに中断させた須藤に対して食ってかかってくることを彼は想定していたが、しかしそうはならなかった。

 淡々と謝罪を述べ、淡々と反省を口にする。一端のアスリートとしての側面と、年頃の少女としての側面を併せ持つ彼女たち現役のウマ娘にしては、かなり珍しい対応だったと言えるだろう。

 

 小柄な少女だった。身長は150㎝ほど。顔立ちにもまだまだ幼さを残した、おそらくは中等部のウマ娘。

 特徴的なストレートの葦毛は肩に掛からない程度の長さですっぱりと切り揃えられていて、菫に似た色の瞳は少し冷たさを感じさせる。瞳と同系色の花飾りを右耳に付けていた。

 口調は礼儀正しくも、飄々としているようでもあり、淡々としていて、どこか年齢に見合わない理知的な雰囲気を感じさせる、不思議な少女だった。

 

 結局その日、彼女は須藤の予想に反して、彼の説得に従い粛々と自室へ帰っていった。

 心配ではあったが、放っておいてほしそうな彼女の雰囲気を考えて、それから理性的な彼女の振る舞いを信じて、その後を追うことはしなかった。

 

 

 

 ……彼女がその日の選抜レースで、シンボリルドルフの八バ身差の二着に終わったウマ娘であることに気づいたのは、後になってからのことだった。

 お試し担当をすることになっていた娘のレースを見返すついでに、ふと思ってシンボリルドルフのレースを見直した際、そこにあの特徴的な頭髪があるのを見て、その時になって初めてその存在に気が付いた。

 

 そのレースを、確かにこの目で見ていたはずにも関わらず、須藤の記憶の中に彼女の姿は残っていなかった。

 

 レースの後、観客席に笑顔を向けて手を振るシンボリルドルフの姿を、疲労困憊の状態になりながら、それでもなお膝を突かずに睨みつけていた彼女の。

 悔しそうで、悲しそうで、苦しそうで、辛そうな。

 あの理知的な振る舞いからは、全く想像できないような、その剥き出しの表情を見た時に。

 

 彼女の顔も。

 その名前も。

 覚えていなかったことに、愕然としたのを覚えている。

 

 

 

 それからも、彼女は夕日が地平線の彼方に沈みそうになる時間まで、毎日毎日コースを走っていた。

 そして須藤は、毎日そんな彼女の元を訪れ、その足のちょっとしたケアとちょっとした雑談をこなすようになった。

 

 最初にそうし始めた理由は、単に彼女が心配だったからだ。トレーナー室の窓からコースを眺めていると、そこには毎日必ず、あの特徴的な頭髪があったから。

 結局あれ以降は目立った無理をする様子は見せず、ただどこで休みを取っているのかというくらい練習を繰り返しているだけで、足の様子なんかも全く問題なさそうだったから、次第にそんな心配は薄れていったけど。

 彼女のことが心配だったのは事実であっても、単に真摯に練習に打ち込んでいるウマ娘の姿を見ていることが楽しかったから、そんな彼女と練習終わりに色々とレースについて雑談したりするのが楽しかったから、須藤は毎日彼女にタオルとスポーツドリンクを届けていた。

 

 

 そんな日々の中で。

 落ち着いていて、飄々としていて、淡々としていて、理知的に見える彼女が。

 あの日、あんなに泣きそうな顔をしていたことが。

 ただの勘違いなどではなかったのだと確信したのは、彼女が鬼気迫る様子でコースを駆けている姿を見た時だった。

 

 彼女はきっと、自分を置き去りにゴール板を駆け抜けたあのウマ娘を追っているのだと、一目見てわかった。

 自分がそのウマ娘に及ばないことを理解しながらも、彼女は必死にその背中だけを追っていた。

 悲しみや、痛みや、苦しみが滲んだその瞳は、それでもまっすぐに勝利だけを見据えているように思えた。

 それは、とても力強い目だった。

 

 

 八バ身差。

 それが、あの日の選抜レースでシンボリルドルフに敗れた彼女が背負った着差だ。

 

 大差には及んでいない。しかし一体、それが彼女にとって何の救いになっただろう。

 秒数に直せば一秒以上の差。

 それはレースにおいて、もはや勝負になっていない――そう言っても、間違いではないだけの大きな差なのだから。

 

 それを理解していながら。

 がむしゃらに走っていた彼女を見た時に。

 

 須藤は初めて、このウマ娘の夢を支えたいと、心の底からそう思った。

 

 

 

 ……どこか遠くを見ているようで、それでも力強い目を見せる少女だった。

 口調は礼儀正しくも飄々とした様子で、淡々としていてどこか年齢に見合わない理知的な雰囲気を感じさせる少女だった。

 けれど時折須藤のことをからかったりする時は、年相応に可愛らしい笑顔を見せてくれた少女だった。

 

 須藤の未熟さを諭し、そしてその上で、自分を支えてほしいと言ってくれた、ウマ娘だった。

 

 その夢を支えたいと、そう思った初めてのウマ娘だった。

 

 そんな彼女は、今。

 

 須藤の目の前で、昏く淀んだ瞳を、つい先ほどまで走っていた芝に向けたまま。

 ただぼんやりと、コースに座り込んでいる。

 

 

 

『……君が再び私の前に立つ日を、楽しみにしている』

 

 

 掛けられた言葉に何と返したかを、僕は覚えていない。

 あるいは、何も返せなかったのかもしれない。

 

 ただ、勝負が終わり、ルドルフがコースを立ち去って、荒くなった呼吸が落ち着くくらいの時間を経ても、なお。

 僕は、芝の上にへたり込んだまま、立ち上がることさえできずにいる。

 

「……僕、は……」

 

 呆然と吐き出された言葉は掠れ果てていた。

 

 遅々として回らない頭で、ゆるゆると現実を噛み締めて、呑み込んでいく。

 

 勝てないとわかっていた勝負だった。

 それでも挑んだのは、勝てないなりにも、いつか勝てるかもしれないという未来を、見つけたかったからだ。

 

 あの日付けられた八バ身。

 僕の積み重ねてきた過去の全てを粉々に砕いてしまったあの敗北。

 初めて心に刻み付けられた、絶望。

 

 あの日の幻影を振り払うために、僕はルドルフに挑んだ。

 

 そして、僕は確かにその幻影を振り払い――

 

 ――そんなものとは比べ物にならない、絶望を、知った。

 

「……あは」

 

 乗り越えられるかも、なんて思ってた。

 

 自分を支えてくれるトレーナーになってほしい、と思えた人と。

 これから何度も競い合うライバルになるのかもしれない、と思った娘に。

 

 言葉を貰って。

 立ち直ったつもりになって。

 強くなれたつもりで。

 

「我ながら……馬鹿だなぁ。わかってたはずなのに、いまだに……理解できて、なかったのか」

 

 ひょっとしたら。

 万に一つでも。

 砂漠に落ちた一粒の砂金を見つけるくらいの可能性でも。

 

 夢を追いかけられるかも、なんて。

 

「僕、なんかが」

 

 例え今は勝てなかったとしても。

 全力の彼女を相手に、あの日の八バ身差をほんの少しでも埋められたなら。

 少しは僕も、自分のことを信じられるかもしれないなんて。

 

「勝てるわけ、なかったのに、な……」

 

 思い上がって、このざまだ。

 

 

 

「――ドラモンド」

 

 

 

「……ああ。須藤さん」

 

 呼び掛けられて、ようやく思い出す。

 そうだった。今日は彼を呼んでいたんだった。

 

 立ち上がって、彼の方を向く。

 僕をじっと見つめる彼は、今まで見たことがないくらい、冷たい表情をしていた。

 

 ……そりゃそうだろうな。

 こんな、下らない茶番を見せられて。

 

「すみませんでした。わざわざ来ていただいたのに、こんな無様を晒してしまって。……事前に言っていたとおりになっちゃいましたね。そうするつもりで走っていたわけじゃ、なかったんですけど」

 

 笑顔を作って謝罪する。

 完全なる時間の無駄だった。きっとそれなりに忙しい彼の限られた時間を貰っておきながら、こんな有様で終わるなんて。いくら何でも申し訳なくなる。

 

 でも、須藤さんは何も言わなかった。

 だから僕は、軽い口をぺらぺらと回し続けた。

 

「わかってたんですよ、勝てないってことくらいは」

 

 気づいてはいたんだ。

 彼女が走った模擬レースも――僕の負けた選抜レースも。

 彼女は常に一着だったけど、そのタイムは常に特筆すべきものではなかった。

 

 きっと彼女はずっと周囲に遠慮しながら走っていた。

 自分が共に走るだけで勝手に圧し折れてしまう、彼女のライバルになれない弱い僕たちが、力の差を見せつけられて、心砕けてしまわないように。

 

 ウマ娘の幸せを願う彼女は、僕たちが二度と走れなくなってしまうような真似をしたくなかったんだ。

 今はまだ未熟でも、いつかは必ず自分と戦えるまでに成長してくれるって、彼女はきっと僕たちのことを信じているから、その未来を摘み取ってしまわないよう細心の注意を払っていた。

 

「あの時の彼女がきっと全力なんかじゃなかったってことも。その上で、今の彼女が、あの時よりずっと速くなっていることも。僕はわかっていました。わかった上で挑みました」

 

 だから僕は彼女に全力を望んだ。

 全力の彼女に、それでも追い縋れなければ、勝ち目なんてあるわけないから。

 彼女のライバルになんてなれるわけがないから。

 

 理解はしていた。

 

 していたつもりだった。

 

「でも」

 

 ようやく、真の意味で理解できた。

 

 星は星だ。

 石ころは石ころだ。

 

 石ころは星にはなれない。

 それは単なる自然の摂理だ。

 

 もう十分わかった。

 

「それ、でも」

 

 なのに。

 

「こんな、に、差が……ある、なんて。思いたく、なかった」

 

 どうしてか、その顔を見ていると、涙が止まらなくて。

 

 僕は、自分で思っていたよりもずっと、

 須藤さんと一緒に、夢を叶えに走り出したかったんだって、自覚した。

 

 

 僕は、あなたを、

 

 トレーナーって、呼びたかったんだ。

 

 

「今日は……ありがとう、ございました。結果は……わかりきって、ますけど。それでも……最後に、お願いします。せめて……あなたの口から、聞かせてください」

 

 涙を拭って、僕はきっと引き攣った笑みを浮かべた。

 そうして、沈黙を守る須藤さんに問いかけた。

 

 始まることさえなかったこの夢が終わるなら、せめて彼の言葉で終わらせてほしかった。

 

「僕は。フロクスドラモンドという、ウマ娘は」

 

 せめて、僕にとっての最善だと、心の底から信じられたあなたに、

 

「シンボリルドルフに、勝てますか?」

 

 僕は勝てないのだと、言ってほしい。

 

 

 そうすれば。

 

 あなたの口から、その言葉を聞けたら。

 

 僕はやっと、諦められる。

 

 

 

 

 

 

 

「ああ。君は必ず、シンボリルドルフに勝てる」

 

 

 

 

 

 

 

 そう、

 

 思っていたのに。

 

 

 

 

 

 

 

「――」

 

 ――その言葉に。

 一瞬、思考が固まった。

 

 じんわりと脳が回転を取り戻し、言葉の意味を理解した瞬間。

 

「――勝て、る」

 

 僕は、

 

「わけ」

 

 本気で、

 

「ないだろうが……ッッ!!!」 

 

 脳みその血管が、千切れるかと思った。

 

 

「何を、見てたら、そんな、セリフがッ、出てくるんだよッ!!」

 

 一対一の併走で、掲示板に出てこないのでは、一体最後に何バ身差あったのかなんて、走ってる側に正確なことはわかりはしないけど。

 追われる側だった彼女と違って、追う側だった僕には、一つだけ理解できたことがある。

 

「横から見てたんならわかっただろ!? 最後の瞬間、ゴールした時、僕は、ルドルフとっ」

 

 それは、

 

「――十バ身以上、離れてたんだぞ……ッ!!!」

 

 あの日見た背中より、今日の背中の方がずっと遠かったということだ。

 

「適当なこと言うなよ! 同情なんてするな! 僕は、そんなつもりで、言ったんじゃない……ッ!」

 

 みっともなくボロボロ涙を流しながら、眦を吊り上げて、吐き捨てるように叫ぶ。

 

 何もかも止まらなかった。

 涙も。

 怒りも。

 言葉も。

 何もかも止められなかった。

 

 情けなかった。

 惨めだった。

 

「絶対に叶わない夢をっ、追いたかったんじゃなくて、僕はっ……!」

 

 下らない慰めなんかを、彼に言わせてしまった自分自身が。

 そんな自分への怒りの矛先さえ、間違えてしまう自分自身が。

 そうとわかっているのに、それを制御することさえできずにいる自分自身が。

 

 夢の終わりさえ綺麗には飾れない、僕というウマ娘が、ただただ情けなくて、惨めで、悲しかった。

 

「僕は……っ」

 

 こんな終わり方にしたくなかった。

 

 僕はただ、君と、

 

「君と、一緒に、夢を」

 

 叶えたかった、だけで。

 

 

 

 

 

「ルドルフを追いかける君を見ていて、幾つか気づいたことがある」

 

 ――須藤さんは、静かに淡々と語り始めた。

 

「ルドルフのスパートを追いながら最終直線に入った時。君はあの時、自分が勝てないことを確かに理解していた。ルドルフとの差が埋まらないことを理解して、スパートをかけているのに離されていく自分を理解して、その感情が目に浮かんでいた」

 

 ……ああ、そうだ。

 彼の言うとおりだ。

 僕はあの時、確かに理解していた。

 

 幻影を踏み越えてなお先にあるその背中が、永遠に手の届かないものなのだと。

 

「正直あの時、俺は君の心が折れる音を聞いた気がした」

 

 心が折れた音が聞こえた――そんなわけがない。

 そんなものが物理的な音を伴うわけがない。

 

 でも、確かにそのとおりだった。何も間違っちゃいなかった。

 確かにあの時、辛うじて繋ぎ合わせていただけの僕の心は再び呆気なく圧し折れて、粉々に砕け散った。

 それは紛れもない事実だった。

 

「……俺も、新人とは言えトレーナーの端くれだ。ああいう顔をした娘がどうなるのかは知ってるつもりだった。そういう顔をさせないことが、俺たちトレーナーの役割だとも思ってた。でも、何もできなかった。当然だ。俺は君のトレーナーじゃない。君とルドルフのレースを横から見ていただけのただの観客で、君が一人ルドルフに挑む姿を、負けて倒れる姿を……君が、ルドルフに挑むために積み重ねていたあの時間を、ただ眺めていただけの、傍観者だった」

 

 たったの一か月にも満たない時間で、僕はあの日の八バ身を縮めるどころか、それがさらに広がってしまったことを知った。

 なら、今からデビューするまでの数か月で、一体その差はどれだけ広がっていくんだろう。

 デビューして以後、どれだけあの背中は離れていくんだろう。

 

「止めるべきだったと思った。最悪の失敗をしたと思った。俺がやらかしたせいで、才能あるウマ娘がむざむざ学園を去っていくところを見送る羽目になったと思った。コース上でバランスを崩して酷い怪我をしたり……最悪、死に至る可能性すら頭を過ぎった」

 

 彼女の同期である僕がトゥインクルシリーズを走っていれば、その前を彼女も走り続けているだろう。

 その中で。

 数年という時間。

 

「……あの時」

 

 

 どこまでも離れていく背中を、追い続けていかなければならないことを悟った時、僕は理解したんだ。

 

 

「あの時、君は」

 

 

 諦めるしかないんだってことを、

 

 

 

 

「一歩、足を踏み出していた」

 

 

 

 

 理解した、はずなのに。

 

 

 

 

「君はきっと気づいていなかっただろうな。あの時踏み出した一歩の後、君が確かに速くなっていたことになんて」

 

 呆然とする僕に小さく笑いかけて、

 

「ルドルフが持っていて、今の君が持っていないものは確かにある」

 

 彼は、静かに淡々と語り続けた。

 

「才能じゃない。努力でもない。精神力でもない」

 

 けれど、その目には、

 

「トレーナーだ」

 

 燃え盛る炎のような、熱があった。

 

「シンボリルドルフというウマ娘は、既に完成しつつある天に輝く一等星だ。だが一方、君はまだまだ磨けば光る原石にすぎない。今の君が勝てないのは当然だ」

 

 滔々と、それがまるで単なる事実であるかのように語る彼の言葉には、

 

「そしてその差を埋めるのは、断じて(ウマ娘)の仕事じゃない。(原石)を磨くのは(トレーナー)の仕事だ」

 

 僕というウマ娘に対する、無上の信頼があるように思えて。

 

「君は勝てる。圧し折られても、砕けても、今もなお勝ちたいと思っている君なら、いつか必ずルドルフに勝てる」

 

 僕は。

 

「俺が必ず、君を勝たせてみせる」

 

 僕は。

 

「俺が必ず、あの時の一歩に意味を持たせてみせる」

 

 僕は、

 

「だから」

 

 

 

 

「俺に、君を支えさせてくれ」

 

 

 

 

「――ぁ」

 

 一瞬。

 

 一も二もなく、ただ「はい」とだけ、頷きそうになった。

 

 

「ッ……僕は、信じられない。僕のことを信じられない。ルドルフに勝てるなんて思えない」

 

 ……けど。

 そんなことができるわけがない。

 

 だって、僕は今十バ身以上差を付けられて負けたんだ。

 どれだけ必死に追いかけたって、彼女の背中はどんどん遠ざかっていくばかりで。

 可能性があるのかないのかなんて、そんなこと自分が一番わかってる。

 

 勝てるわけないんだって。

 

「それでも、僕を支えてくれるのかな。こんなに弱いウマ娘を? 自分のことさえ信じられないようなウマ娘を? きっとずっと負けっぱなしだよ。君の努力なんて何一つ実らない。君のトレーナーとしての経歴に瑕を残すだけの僕を、それでも支えてくれるのかな」

「支える。例え君がどれだけ負け続けたって、支え続ける」

 

 勝てないに決まってる。

 

「きっと君には何も残らない。それでも支えてくれるのかな? シンボリルドルフという星の輝きに掻き消されて、誰の記憶にも残りはしない、僕というウマ娘を? 君がそうやって、支え続けて、それでも、どれだけ、頑張っても……」

 

 勝てないって、わかってるのに。

 

「永遠に、シンボリルドルフに勝てない、僕でも?」

「君は勝てる。俺が、勝たせる」

 

 

 今はただ、あなたの言葉を、信じたくてたまらない。

 

 

「……これが最後だよ。これが、最後だから……お願いだから、答えて」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「僕は……君を、信じても、いい?」

「ああ。信じてくれ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その言葉が。

 本当に。

 本当に。

 

 本当に、心の底から、嬉しくて――

 

 ――僕は、彼が差し出してくれた手を、縋りつくように握りしめて、泣いた。

 

 

 

 

「……これから、よろしくね。トレーナー」

「ああ。よろしく、ドラモンド」

 

 

 

 

 ――そうして確かに、一歩踏み出された夢を。

 遠くから静かに見守っていた人影があった。

 

 その紫紺の瞳に宿した微かな憂いの色を安堵に変えて、彼女は――シンボリルドルフは、小さく笑みを零した。

 

「……為虎傅翼、か」

 

「嬉しそうだね、ルドルフ」

 

「ああ、トレーナー君。来ていたのか」

 

 掛けられた声に彼女が頭だけで振り返る。そこにいたのは、数えきれないほどのトレーナーたちの中で、唯一彼女の信頼を勝ち得た彼女の杖だ。

 ご機嫌そうに揺られているその尻尾にちらりと視線をやり、それから彼女の視線の先に目をやって、皇帝の杖はルドルフに問いかけた。

 

「併走を頼まれたって話だったけど……」

 

「ああ。実に充実した時間を過ごせたよ。君には色々と手間を掛けさせてすまなかったね」

 

「いや、構わないさ。君の望みが俺の望みだ。それで相手は誰……ああ。あの髪色は、フロクスドラモンドか」

 

「そうだ。数日ほど前、“全力”の併走を頼まれてね」

 

「それは……」

 

 “全力”。

 その言葉に籠められた意味に、皇帝の杖は一瞬口を噤んだ。

 しかしそれも一瞬だった。自らの支える皇帝の望みを知る彼は、微笑を浮かべて首を振る。

 彼女が今嬉しそうにしているのなら、それが答えで十分だろう。

 

 なので、彼は喉から出かけた問いを別のものに変えて、口を開いた。

 

「いこふよく、って言ってたよね。どういう意味の言葉なんだい?」

 

「ああ。なに、簡単だよ。言い換えるなら――」

 

 その問いにルドルフは眼差しを細め、今日自らに挑み、そして完膚なきまでの敗北を喫した一人のウマ娘を眺めた。

 

 そうして、“皇帝”である彼女には似つかわしくない――さながら獣のような笑みを、ほんの瞬きの時間浮かべて、言った。

 

「虎に翼、だ」





(序章)完結です。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
本当にありがとうございます。
感想とか評価くださった方々もありがとうございました!

同期の立場から見ると会長って多分これくらいは絶望的な存在だと思うんですよね。もっとかな。
でも勝てないと内心わかりながらも、だからって諦めたくないから、みんな頑張って走ってるんじゃないかなぁと何となく思いまして、こういう話を書かせていただいた次第です。
そういうのって本当に凄いと思うんですよね。
そういう話でした。(日本語検定五級)

かなり衝動的に書いたので今後のことは全然頭にありません。汗顔の至りです。申し訳ございません。
方向性的には多分今後もそんな感じです。
ひたすらルドルフさんに負け続けつつもひたすらルドルフさんに勝とうと頑張るだけ。

お話し的にはここまででキャラストで言うところの4話です。長くね?
今までいささか暗かったかと思いますが今後は雰囲気も多少? 大分? 相当? 緩くなるものと思われます。
まあ戦えば戦うほど負け続けるでしょうから度々暗くもなるとは思いますが。
ウマ娘ちゃんたちもちらほら出てくるものかと。

ちょっぴりでも何か面白いとか思っていただけたなら幸いです。
つまらなかったら申し訳ありません、私の力不足です。今後頑張ります。それでもお時間割いていただきありがとうございました。

更新速度は大分落ちると思います。書き貯めがもう……大分……
ともあれちびちび続けてまいりますので、よろしければ今後もお付き合いください。

重ね重ねありがとうございました!

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