音楽上の現実と歴史上の出来事~ 両王朝期の音楽家のささやかな評伝   作:フォン・セテム

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「ハインリッヒ・フォン・ブルーメンタール小伝」

ハインリッヒ・フォン・ブルーメンタールは帝国暦413年に帝都オーディンの平民階級に生まれた。

 

長ずるに音楽家を志し、帝国学芸省高踏芸術音楽大学校入学、歌劇作曲家カール・エンゲルベルト・フォン・クランプハウゼン教授に作曲を、指揮者アルトゥール・フォン・フンクに指揮法を学ぶ。

 

オペラ作曲家フォン・クランプハウゼンのテキスト重視で器楽軽視の作曲法に反発し、当時シンフォニー作曲家であり作曲技法上の対位法の大家であり純器楽的な音楽語法を推し進めていたジーモン・ジェズアールに師事し、独自の器楽曲を作り始める。

習作「演奏会用序曲とフーガ」は当時の楽壇で称揚され、いわゆる「楽劇派」と称されるテキスト重視の劇的な音楽が主流であった帝国の音楽界に新風を吹き込んだ。

交響曲第1番は学校で書かれた対位法的な習作と酷評されながら、一部の純器楽楽派的な嗜好をもつ音楽家連中に注目された。

この交響曲は古典的な造形を保ちつつ、対位法的な立体感を縦横に張り巡らせた40分ほどの大曲であり、楽壇で注目された。

だが「楽劇派」はこの交響曲を無味乾燥な技術的習作にすぎないと批判したが、続く交響曲第2番、交響曲第3番でテキストによらず純器楽のみでの劇的でイマジネイション溢れる楽想から、ブルーメンタールの交響曲は注目された。

 

交響曲第6番において厳格かつ緻密な対位法的交響曲を書いたブルーメンタールは、師であるクランプハウゼンに強烈な批判受ける。

 

ブルーメンタールとクランプハウゼンの往復討論は当時注目されたが、我が父アルトゥール・フォン・ティールマンなどの後押しを受けブルーメンタールの純器楽音楽が帝国の楽壇において優勢になり、ティールマン家の後押しで一代貴族に叙されフォンの称号を名乗ることになった。

いわく、直接の事象を、直接的に表現するのは帝国貴族としてはしたなく、平民に分かり易いプロバガンダに堕す。帝国の貴族的教養では有り得ないと。ブルーメンタール楽士の作曲したる複雑な交響樂的作品は帝国貴族の寄って立つ基盤に立脚し気高く高貴な音楽だと。

 

以後、ブルーメンタール以下の純器楽的「絶対音楽楽派」は旧王朝期の高踏芸術音楽における孤高の地位を保ち隆盛を得る。

 

ブルーメンタール自身は帝国音楽院にて教鞭をとり数々の弟子と膨大な著作をものした。

 

代表的な弟子はオーディン交響楽団首席指揮者ゲオルグ・ブロウチェクだろう。

 

ゲオルグ・ブロウチェクは師のブルーメンタールにならい楽曲の抽象的な解釈と唯物的なまでに苛烈な楽譜の再現に尽力してゆく。

 

ハインリッヒ・フォン・ブルーメンタールは旧王朝期高踏芸術音楽の発展に独自の功績があったと評価せざるを得ない。

 

人格的には狷介な人物であったが。

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