それは二人が旅を初めて数ヶ月ほどたったある日こと。木枯らしが寂しく鳴く冬の季節。
「ううん……」
ある宿で、マーニャはひたいに手を当てながらつらそうに唸った。まだ朝日が昇り出して間もない頃だ。
「お姉さま?」
ふわふわと柔らかい栗毛に、可愛らしくついた寝癖を鏡台の前で直していた少女――フニは長い睫毛をぱちぱち揺らしてマーニャを見る。陽光を受ければ自信たっぷりに輝く豊かな黒髪も、どこかしょげたように艶がない。
「ごめんなさい。風邪ひいたみたい……」
「え!」
フニはびっくりして女をじっと見つめ直した。シミのない純白の頬は、かじかんだようにぼうっと赤い。熟れつつある林檎のようだ。
確かに、どこか弱々しい……。
「お姉様、額を」
自身の寝癖を直すのも忘れて、フニはベッドの端に腰掛けるマーニャの元に駆け寄った。マーニャのつるりとした額にそっと自身の手を当てる――。
「これは……熱、ですね」
フニは医療魔法にも精通している。手のひらであろうと詳細な検温も可能だ。そんなフニが言うのだからと、マーニャもやっぱりねとそんな顔をしていた。
「まさか旅の途中に風邪をひくなんてねえ。困ったわ」
「仕方ないことですから。さ、今日はゆっくり休みましょう」
風邪はひき始めが肝心なのだ。最新の医療魔法も、本人の治癒力は高められても風邪そのものを改善するには至っていない。
ベッドの中に戻るマーニャを見つめながら、フニはふんすと鼻息を荒くした。敬愛する彼女が風邪でダウンしているのだ。ここは自分が頑張らなければ……!
「今日はわたしがつきっきりで看病しますので!」
「うーん。それはいいんだけどフニ、とりあえず寝癖を直しちゃいなさい。ぴょんぴょんしてて可愛いことになってるわ」
慌ててフニはつむじあたりを抑え、ぱたぱたと鏡台に走りよった。
忙しない子だなあと横になりながらマーニャは微笑む。――こほ、と小さな咳をしながら。
さて、風邪と言ったら粥である。消化によくて病人も食べやすい――とフニは聞いている。
実を言うとフニはこれまで風邪らしい風邪をひいたこともない。物心ついた頃にはほとんどの魔法が扱えたフニからすれば、自己治癒を魔法で高めて寝れば大抵の風邪も治るからだ。
そんなフニが初めて看病するのが敬愛してやまないマーニャなのだから、少女の気合の入りようは中々なものだった。
宿の厨房を借りて簡単な粥を作り、部屋に戻る。大人しく布団の中にいるマーニャの姿に、フニは少しだけ嬉しくなった。
「お姉さま、お姉さま。お粥作りましたよ」
「ありがとう……。そこに置いてくれたら、あとで食べるわ」
ええっ、とフニは少ししょんぼりした。
マーニャが貸してくれる本にもよくある展開を期待していたのである。恋人を労わる少女が、粥をスプーンですくって「あーん」とするアレを。
フニはぶんぶんと首を横に振った。ここで退いてはいけない気がする。
「だめです! 風邪は引き始めが肝心なんですよ! 今、しっかり栄養を取らないと治るものも治りません!」
「うう……今日のフニは怖いわ……」
マーニャの眉がふにゃりと八の字を描いた。そういえば、心なしか先ほどよりも弱々しく見える。症状が悪化しているのだろうか。
ならば尚のこと自分が頑張らなければ。義憤三割
「さ、さあお姉さま、お口を……あ、あーんと」
「え、ええ? それやらないとダメ?」
力強く首肯した。今日のフニは押せ押せなのだ。
「まあ、いいか。……あーん」
マーニャは大人しく口を開けた。覗く白い歯と赤い舌。フニはスプーンを歯に当てないよう注意しながらそっと口内に差し込む。美女はぱくりと粥を食べ、こくんと喉を鳴らした。
その光景にフニの背筋がぞわぞわっと震えてしまう。
(かわいい……!)
いつも世話されてばかりの自分が、逆に彼女を世話している……。
倒錯的な光景にフニの胸がきゅんきゅんした。さながら気分はダメ男の看病をする系小説の主人公だ。きらきらと丸い瞳を輝かせるフニを、マーニャは不思議そうに、そしてどこか気だるげに見つめている。
「ひな鳥にでもなったみたいだわ」
「そ、そうですか? 体調を崩しているんです。今日くらいはわたしに甘えてくれても……」
「あら。いいこと聞いたわ。じゃあ甘えちゃおうかしらね」
その後もフニはマーニャの世話をしつづけた。具体的にはリンゴを剥いたり、ぐっすり眠れるよう絵本を読み聞かせようとした。絵本の読み聞かせは「子供じゃないんだから」と断られてしまったのが心残りではある……。
正午を回った頃にはマーニャも眠りにつき、フニはいつも美しい寝顔をたっぷりと拝ませてもらう幸せな午後を過ごす。旅を続ける中で、マーニャと共に様々な経験をするのも悪くはないが、たまにはこういうゆったりした時間も全然アリだとフニは思った。
だが、マーニャの体調は一向に優れなかった。
夜。マーニャの体温を測ったフニは驚愕した。――朝よりも熱い。
彼女の黒曜石のように澄んだ瞳はぼんやりととろけている。はあ、はあ、と吐息も荒く喉奥からは乾いた響きが聞こえてくる。頬とて薔薇のように赤い。
「あわわわ……ど、どうしましょう。どうすれば……?!」
フニは医療魔法の心得はあっても医者ではない。やはり医者を呼ぶべきだろうか、ああでもここはどことも知れない宿場町。どこに医者がいるかも、今日診てもらえるかもわからない。どうすればどうすればどうすれば……。
少女の思考が慌ただしくグルグルと回転する。
そんなフニを見たマーニャは横になりながら、宥めるように微笑んだ。
「大丈夫よ。私、2年に一回くらい大きな風邪を引くの」
いつものことだわ、とマーニャは平気そうに言う。だかその表情もいつもの気品が陰って見えてフニは心底落ち着けない。
「あ、明日もし良くなってなかったら、お医者様を呼びますっ。絶対良くなりますから……!」
「心配性なんだから……」
でもぉ、と涙目になるフニを元気づけるようにマーニャは笑う。ふらふらの手がフニの額や頬をさわさわと撫でた。大丈夫だと伝えるように。
「ごめんなさい。お夕飯はいらないわ。今は眠っていたいの」
「そう、ですか……」
「あ、でもごめんなさい。お湯と布を用意してもらえるかしら。汗が気持ち悪くって」
「はい! すぐにでも」
ぱたぱたとフニは部屋を出て、宿の主人に頼んで熱湯の入った桶と、柔らかい布をひとつ持って帰る。
「ありがとう」
体を起こしたマーニャは、少女の目線も気にせず綿のシャツを脱ぐ。黒の下着もさっさと外してしまった。汗でしっとりしている豊かな胸は外気に触れて心地好さそうだった。
窓から差し込む街灯の淡い光。薄く透けて見えるほど白い裸身は、天使像のように美しい。フニはつい彼女の鎖骨あたりに視線を向けてしまい、その真っ直ぐすぎる目線にマーニャがはにかんだ。
「そんなに見たいの? いつも一緒にお風呂入ってるじゃない」
旅の間は、の話だ。
「い、いえ、そういうわけでは……」
慌てて言い繕ってもマーニャはからかうように微笑んでいる。だけど何も言わないで、鼻歌交じりに湯に浸らせた布で体を拭きだした。手先から始まり、腕、胸、へそ辺り、そして腰……。
「あの……」
フニはいたたまれなくなって、つい彼女に声をかけていた。このまま、この静かな室内に立ち尽くしていては頭がおかしくなりそうだったのだ。
「お背中、拭きます……」
「? いいの? じゃあお願いしようかしらね」
丁度あらかた汗を拭き終えたのか、マーニャは体を回してフニに背中を見せる。街灯の陰に入った背中はそれでも滑らかだ。肩甲骨や背骨の線もほっそりと締まる腰つきも。
「お姉様はとても綺麗ですよね」
「そうでもないわよ」
そう謙遜するマーニャは、だけど上機嫌に「ありがとう」と言ってくれる。戸惑うことなく裸身を、それも背中を見せてくれるその信頼にこたえようとフニは汗汚れを丁寧に、だけど彼女の肌を傷つけないようゆっくりと背中を拭いていった。
そして拭けば拭くほど、フニの頭の中にはある考えが浮かんでくる。――そう、寝る前に誰もがする当たり前の行為を。
「あの………」
マーニャの背中を拭き終えたフニは、言い淀みつつも、背を向けるマーニャに一言。
「………歯磨き」
実はしっかりコップと歯ブラシは用意してある。コップの中には清潔な水も入っている周到さ。フニは服を着ているマーニャにコップと歯ブラシを差し出す。
「お姉さま、歯磨き……」
「ん? ああ、そうね……しなきゃね」
水の入ったカップと歯ブラシを手渡してからも、フニはじーっとマーニャを見つめていた。餌を待つ子犬みたいに。
その視線に気づいたマーニャが困ったように頬を緩める。
「さすがに歯磨きは自分でできるわよ?」
「で、ですよね」
フニは慌ててうなづいた。マーニャが歯磨きを始めるのを、どうしてか彼女の裸よりも直視できなくて目をそらすフニ。だが、
「――あら」
ぽろりと歯ブラシがマーニャの手から滑り落ちた。見れば、彼女のしなやかな手は小さく震えている。風邪のせい、だろうか。
「うーん……。今日はよっぽど良くないみたい」
なんにも集中できないわ、とぼんやりした熱い瞳でそう呟くマーニャ。落ちたままの歯ブラシを見つめていたフニはハッとなって立ち上がってしまった。
「わ、わたしっ! わたしがやります!」
「え? 歯磨きを?」
コクコクと少女はうなづく。
「でもさすがに……」
「だ、大丈夫ですよっ。お姉様だって歯磨きせずに寝るのは嫌ですよねっ、ねっ!」
「そうだけど……んー……――けほっ、ごほッ」
重い咳だ。マーニャも歯磨きをせずに寝るのは気持ちが悪いのだろう。腕を組んで暫く考えていたが、やがて諦めたように息を吐いた。
「じゃあ、お願いね?」
恥ずかしげにマーニャは笑顔を作る。フニの心臓がひときわ大きく飛び跳ねた。そっと身を近寄せて、歯ブラシを女の口へと伸ばす――と、
「あ、ちょっと待って」
マーニャがフニの細い腕を押しとどめた。彼女の顔を上目に見れば、マーニャは先ほどよりも赤い頬のまま目を逸らしている。
「あの……あんまり見ないでね?」
その、ほら、
「口の中って、裸を見られるより恥ずかしいから」
「は、はぃぃ……」
フニは消え入りそうな声でどうにか呟いた。もう少女の頭はそれどころではない。
自身の手に握られた歯ブラシと、あーんと恥じらいつつも口を開けるマーニャと、覗く赤い舌と白い歯列……。匂うのはマーニャの香り――それもいつもより濃い。吐息の熱すらフニには感じ取れた。
少女は、静かに、歯ブラシを美女の口に差し込む。
「ん……」
「……」
かしゅっ、かしゅっ、という歯ブラシの擦れる事がいやに響く。歯ブラシを動かすたびぴくぴくと震える舌。てらてらと濡れて光る唾液。この部屋は、こんなに、暑かったんだろうか。体が熱い、心が熱い……。
フニは思い出す。小さな頃、父に歯磨きをしてもらった時のことを。
自分は今、10歳も年上の、憧れの美女を幼児扱いしている……。
食事を手伝うのとはまったく別種であまりにも凄すぎる倒錯的な光景に目眩すら起きそうで、フニの首からじわりと汗が噴き出した。
「……ぁふ」
「……」
上の歯列を磨き、下の歯列も丁寧に丁寧に磨き終える。コップに入った水をそっと口に含ませて、吐き出させて――気づけばあっという間に歯磨きは終わっていた。
だけどフニはその場から身動きが取れない。歯ブラシとコップを手にしたままカチコチに固まっている。
「フニ?」
マーニャの声にも、なんにも反応できない。
美女の柔らかい手が自分の頬をそっと撫でるのもただ受け入れた。
「顔、りんごみたいね」
柔らかい。気持ちいい。心地いい。蕩けた心のまま手に顔を預けてしまえば、マーニャのくすくすと笑う声が遠くから聞こえる。
「フニ、変なの」
細く笑ってマーニャは少女の頬から手を離す。しっとりとした感触が解けていく。マーニャは小さく伸びをしてから、また布団の中に潜り込んだ。
フニは、かろうじて声をかけられた。
「お、やすみなさい……」
「おやすみ」
やがてすうすうと穏やかな吐息が聞こえてきて、冬の風が窓を叩く音だけが室内に響き出しても、フニはしばらく歯ブラシとコップを持ったまま身動きが取れなかった。
さて翌日。フニが目を覚ますと、鼻歌交じりにブラシで髪を梳かすマーニャがいた。布団の動く音に気付いたのか美女が振り向く。
「おはよう」
「おはようございます……」
「昨日は夜更かしでもしたの? 顔色悪いわよ。あっ、ひょっとして風邪がうつったとか……」
そう言うマーニャはすっかり体調がよくなったらしい。頬の赤みも消え、髪の艶もばっちり。いつもの美しさを取り戻している。そんな彼女はフニが風邪でもひいたと思ったらしい。髪を梳くのをやめて慌てて立ち上がる。フニはぶんぶん首を横に振った。
「だ、大丈夫です。大丈夫……」
「そう? ならまあ……いいけど」
マーニャはまた髪を梳かす作業に戻った。その滑らかな仕草を寝起きの頭でぼうっと見つめていると、
「昨日はありがと。何から何までしてもらっちゃって」
「いいんです。いつもお姉さまには頼りっぱなしですから」
「そんなことないわよ。でも、そうね――」
髪を梳かす動きが止まる。ふふふ、とマーニャは楽し気に笑い声をあげて、
「――今日は私がフニの歯磨きしてあげましょうか」
「ええっ」
その意地悪な笑みに、フニの眠気も一気に吹き飛んだ。体を起こして真っ直ぐに捉えたマーニャは、やっぱり意地悪そうに八重歯を見せている。
「な、なぜ……?」
「いい年して10も年下の娘に歯磨きされた私の身にもなってちょうだい」
いやそれはわからなくもないが。
だから、と同じ笑顔でマーニャはぱちりとウインクをひとつ。
「仕返しよ」
フニは一瞬想像してしまった。歯ブラシをもったマーニャに口を差し出し、自分の口内を自由にされるその光景を……。
――いいな、と思った自分を少女はすぐに消し飛ばした。
「い、いやです」
「だめよ。もう決めたから」
「そんなー!」
その後何度頼んでもマーニャは決して譲らず、そもそもフニが実力行使を擦ればあっさり拒絶できるのだが少女にそんな考えはまったく浮かばず、結局フニはマーニャに歯磨きをされることとなった。
正直、初めて一緒にお風呂に入った時より恥ずかしかった。