女勇者のお供は僻み系少女   作:てりのとりやき

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旅人時代、初めて一緒にお風呂に入った時のこと

 

 町の中央に流れる川からは熱気と湯気が舞い上がっていた。もう季節は冬だというのにその街は全体が緩んだ熱に囲まれている。

 

「すごい! あちこちで湯気がもうもうと……!」

 

 フニは興奮した様子で長いまつ毛を揺らしている。その隣に立つマーニャも満足げに笑っていた。

 

「なんだか独特なにおいがするわね。これが硫黄の匂いかしら?」

「ちょっぴり変なにおいですね。でも、なんていうか別世界みたいで嫌いじゃないです!」

 

 道を行き交う人々は、そこら中にある温泉を屋台で買った軽食と共に楽しんでいる。フニの胸も期待で踊った。温泉があちこちで湧き上がるここは温泉街。丘の上に立つ古城に見守られた、不思議な匂いと湯気に包まれている王国一の観光名所だ。

 

「とりあえず宿にチェックインしましょう」

「はい!」

 

 二人は意気揚々と歩き出す。途中、人混みの中から「あっ! また居ない……!」と何処かで聞いたような女の声が聞こえてきたが、二人とも目先の期待にそんなことはすぐに忘れてしまった。

 さて温泉街の中心あたり。マーニャは手元の地図と目の前の宿を見比べて「よし」と満足げにうなづいた。隣のフニはというとその豪奢な造りの建物にびっくりしている。

 

「おおぉ……こ、こんなところに泊まるんですか?」

 

 これまでの旅で泊まってきたのは、決して優雅とはいえない『寝泊まりのための場所』だった。だがこの宿は違う。外装にヒビはなくシミもなく、見るからに格が違う『楽しむための場所』……つい、フニはマーニャを不安げに見上げてしまう。

 

「あ、あのっ、わたし全然手持ち少ないんですけど……」

「大丈夫。私これでも一応貴族の娘なんですから。まあ三流貴族だけど」

 

 マーニャは上機嫌にウインクまでしてみせる。

 とは言うが、本当にいいんだろうかとフニは不安になった。金とて無限ではない。だが、フニに出来ることも少ないのは明白だ。

 こんなところまで来て気落ちしてしまうのは自分が暗い性格だからなのか。僅かに肩を落とすフニの、やわらかい栗毛をマーニャが撫でた。

 

「いつも役に立ってくれてるじゃない」

 

 野宿の際、魔法を使えないマーニャの代わりに火を起こしたり食事を作ったりするのはフニの役目だった。マーニャとしてはこういうところでくらい大人らしい事をさせてほしいというのが素直な気持ちなのだろう。それが分からないフニではない。

 そうですか、と頷いてフニは心に湧いたもやもやを無理やり呑み込んだ。今は、自分に足りないものを嘆く時ではない。マーニャの笑顔を陰らせてはいけないのだ――絶対に。

 

「こんな素敵な宿、泊まれるんでしょうか……」

「大丈夫。予約は済ませてあるの」

 

 宿に入りながらそう胸を張るマーニャは実に美しい。その計画性の高さにフニの心がときめく。

 

「なんにせよ予定通り到着できてよかったわ」

 

 ほら、

 

「フニが、ウルだっけ……彼女にしばらく付きっ切りだったじゃない?」

「ああ……」

 

 少し前の話だ。

 ウル――悪い魔女の呪いで子犬になっていた魔物の女を、フニが助けて懐かれて。その呪いを解いたせいで好意を持たれたフニがウルに連れ去られた時の事を、マーニャは言っている。

 その時のことを思い出して、フニはつい頬を膨らませた。

 

「あれは誘拐と言うんです」

「でもすごく真っ直ぐな瞳をしてたわ」

「やり方が強引なのは嫌いですっ」

「あらら」

 

 前途多難ねーなどと口に手を当てて呟くマーニャはどこか楽しげだ。その、距離を置いた態度に少しフニは不満が募る。――もっと気にしてくれてもいいのになあ。と、唇を尖らせるフニに、カウンターでチェックインを済ませているマーニャは気づけない。

 チェックインも済ませた二人は荷物を宿の人に預けて、さっそく温泉街を散策に出かけた。道を行き交う人の数は多い。今日は天候にも恵まれたせいか、丘の上に建つ古城もくっきりと見える。

 ふとフニはある光景に目が行った。茶屋、だろうか? 軒先の長椅子に並んで腰かける旅人たちはこの寒さだというのに素足を晒していて、それを湯入りの桶に浸けて心地よさそうにしている。

 

「? あれはなんでしょうか?」

「足湯って言うらしいわ。あれもどうやら、水泉からくみ上げた湯を使ってるみたい」

 

 観光ガイド片手にマーニャはそう言う。その姿はばっちり観光目的のおのぼりさんだ。「せっかくだし行きましょうよ」といつになく少しだけ強引なマーニャに、フニもにこにこ笑顔で「はい!」と強く頷いた。

 茶屋で注文をした二人はさっそく開いている長椅子に腰掛け、旅向けのブーツを脱いで足湯に恐る恐る足先を触れる。――熱い。でも、心地よい。

 

「わ、わわ……! なんだか芯まであったかくなる感じがする……!」

 

 魔法を使えば一瞬で冷水を沸騰させられるフニにとって、入浴というのは身近な行為だ。野宿であろうと水源さえあれば湯水で体を洗うことに困ることはない。だけど足だけを湯に浸けるというのは中々珍しい。隣のマーニャはいつの間にか小さな酒瓶とグラスをふたつ手に持っていた。

 

「地酒ですって。飲みましょ」

 

 手のひらに収まるくらい小さなグラスにそっと注がれた透明な清酒。フニはそっと口に含み、その華やかな匂いと甘みにだらしなく頬を緩ませた。

 

「透明ですごく爽やかな味……おいしいです」

「本当ねー。あー、今すっごく幸せだわ」

「ふふふ。お姉さま、おばあちゃんみたいなことを言っています」

 

 酒と湯熱のせいか、ほんのりと頬を朱に染め上げるマーニャは、いつもよりも色気が数段増して見える。耳元の黒髪をかき上げる仕草に、近くを通った何人かの男性が目を奪われていた。フニはなぜか誇らしくなってどうだお姉さまは美人だろうと小さな胸を張っていた。

 ふんふんふんと鼻歌交じりに酒に舌鼓を打つマーニャとフニ。そうして楽しんでいると、向かいの長椅子に小柄な老人が腰掛けた。

 

「お嬢ちゃん。ちょいと失礼するよ」

 

 はっきりとした喋りと皺くちゃの笑顔。その笑顔はマーニャよりもこちらに――自分に向けられている。

 

「ここはええところじゃろー。儂も随分ここに通っとるがいつ来ても最高の風呂じゃ」

「あ、う、ええと、その……」

 

 見知らぬ人に話しかけられて、元々人づきあいが上手ではないフニのあごの筋肉は、かちかちになっている。心地よい酩酊感に包まれていたフニの心は急に現実に引き戻された感じがして、つい、隣のマーニャに身を寄せてしまう。

 

「あら」

「おろろ」

「ごめんなさいおじい様。この子、すごく良い子なんですけど緊張しやすいもので」

「すまんのうお嬢ちゃん。邪魔してしまったのう」

 

 笑顔を崩さない老人は、きっといい人なのだろう。フニの頭を撫でながらさらりと老人に微笑み返すマーニャも、人付き合いが上手な人だ。フニはひとり、握りつぶされたスポンジみたいな気持ちになった。

 頭上では二人の和やかな会話が繰り広げられている。

 

「――おすすめは西の方にある露天風呂じゃ。丁度丘にある古城を眺められる位置に風呂があっての、今日みたいに天気のいい日は最高の眺めじゃぞ」

「そうなんですか。ならぜひ行きたいですね」

「あとこれは儂からの謝罪の品じゃ。受け取ってくれい」

 

 そう言って老人は懐から飴玉をふたつ差し出す。紙に包まれた小粒の飴は、フニに向けて差し出されている。肩を縮めて小さくなっていたフニは、こくこく頷いて飴玉を受け取った。

 老人は手を振って足湯から去っていく。フニはしょんぼりとマーニャを上目に見つめた。

 

「ごめんなさいお姉さま。わたし、こんなので……」

「そう暗くならなくていいの。私は今のあなたが大好きよ」

「でも……」

「今のあなたも大好きだけど、笑顔のあなたはもっともっと大好きだわ」

 

 頬に触れる柔らかい片手。そこからこわばりが解けるみたいに溶けていくのが、フニには不思議だった。その熱に蕩けるように、フニはお酒をたくさん飲んだ。フニは酒で嫌な事を全て忘れられる女なのだ。

 そして見事に酔いつぶれた。

 

「おねえさま~」

「あらあら。飲みすぎよまったく」

 

 気付けば宿の室内で、マーニャに介抱されている。頭も視界もふにゃふにゃしているフニには状況の理解が追い付かない。

 

「フニ。酔いが冷めたらお風呂に入りましょっか。露天風呂ですって。楽しみね」

「ううー。露天風呂……おねえさまと、ふたりで……」

「ええそうよ。あ、そういえば一緒にお風呂に入るの初めてね」

「そう、ですね……ううーんきもちい……」

「もう。そんなに抱きつかれると動き辛いわよ」

 

 

 

 

 その日の夜の事である。

 ――ど、どうしてこんなことに。

 フニは、露天風呂にマーニャと仲良く並んで浸かっていた。

 日中老人が語っていた丘の古城が見える露天風呂だ。

 隣には、長い黒髪をアップにまとめた美女がひとり。やわらかな湯を通して見る初めての裸にフニの頭はヒートアップしていた。

 

「さっきからどうしたのよ」

 

 女が苦笑で目端を緩める。

 

「い、いえっ。なんでも……!」

 

 慌てて顔の向きを正した。この浴槽の先、小高い丘で美しい星空を背に建つ古城。ライトアップされた流麗な建築物にマーニャの瞳は酒に酔った時以上に輝いている。ちらちらと盗み見たその横顔に、フニは見惚れた。

 

「……そういえばお姉さまは、ああいう歴史のある建物が好きでしたね」

「ええ。大好きよ。やっぱりああいう古城なんかは、実物を見ないとそのすごさがわからないもの」

 

 あれはね、と湯に隠れていた右腕を上げて古城を指差すマーニャ。瑞々しい肌の上をすべる滴たちについフニは目が行く。

 

「あれは約500年前に建築された城なの。この辺りを治めている名家が数百年前まで使っていた城で、王族もあそこで舞踏会をしたことがあるそうよ。老朽化が原因で今は観光資源として利用されているけれど……今もあの城は、その景観を損なわないよう改修工事をずっと繰り返してるんですって」

「……」

「ねえ、すごく素敵だと思わない? あの城にはたくさんの人の思いが加わって折り重なって、あの形を維持してる。あれは城の形をした愛情そのものだわ」

 

 そう語るマーニャの、熱のこもった表情こそがフニにとっては何よりも素敵だった。心臓は強かに打ち響き、フニを息苦しくさせる。

 

「綺麗ね。とても綺麗」

「そうです、ね」

 

 吐く息は白いのに、体は熱い。心まで燃えてしまいそうだ。こんなにも心地よくて、こんなにも震える瞬間をフニは知らない。ただ服を脱いで湯に浸かって、同じように白い息を吐いているだけなのに。たったそれだけの瞬間を共有できることが体の奥底から熱い『何か』を沸き上がらせる。フニにはそれが不思議でたまらない。

 

「どうしてあなたは……」

 

 そんなに素敵なんですか、とは、どうしても言えそうにない。喉奥で変に言葉がつっかえてしまう自分が恨めしい。

 言えば、マーニャはどんな反応をしてくれるのだろうか。

 きっと笑顔を浮かべるのだろう。優しい言葉を紡いでくれるに違いない。物足りないだなんてことは決してないけれど、でも……。と、フニが一人懊悩に思考を乱していると、マーニャが「だいぶ暖まってきたわね」と赤い頬で呟いた。そして、少し小悪魔的な悪戯っぽい瞳をする。

 

「ね、体洗ってあげるわ」

「はい」

 

 条件反射的にフニは頷き、

 

「………………えぇっ!?」

 

 と、思わずマーニャを見上げた。マーニャはにっこり笑顔でフニの腕を既に掴んでいた。

 ずるずると浴槽近くの椅子まで引っ張られるフニ。いくら魔法の才の有無があろうとなかろうと、体格はマーニャの方が上なのだ。

 

「え、でも、ええっ、お姉さま……!」

「ほら、大人しくしなさいっ」

 

 がっちりとフニの小さな両肩を掴んで椅子に座らせるマーニャ。彼女の手が己の素肌に触れていると気づいた瞬間フニは何もできなくなった。頭の中がぐるぐる回る。まわる。

 

「ふふふ。ようやくその、ふわふわの栗毛に手を伸ばせるときがきたわね」

「わ、わー」

 

 マーニャはぺろりと舌なめずりをする。似合わない仕草なのにすごく映えるなあ、などとぼんやり思っていたフニの頭へと、桶に溜めた湯がぶちまけられ……! あっ、ちょっ、そんなところを……!?

 

 

 

 すごいことをされてしまった……。

 

 

 

 露天風呂を堪能したあと、茹った頬を赤く染めて、フニとマーニャは脱衣所を出る。そのまま歓談室に向かった。ほかほかの湯気を上げる二人は、片や非常に心地よさげで、もう片方はここではないどこかをぼんやり見つめていた。

 

「いやー、よかったわ」

「……」

「フニ、フニ。お風呂上りには牛乳を飲むのがここの慣わしらしいわ。ほらほら、飲みましょ飲みましょ」

「わかりました……。もう、お姉さまの言うとおりにします……」

「ちょっとフニ、のぼせてるの?」

 

 二人してガラス瓶入りの冷え冷えな牛乳を飲み一息つく。ゆったりとした音楽が流れる室内には他にも同じような観光客が風呂あがりの熱を冷ましていた。

 と、そんな室内に入ってくる老人が一人。

 

「あら」

「おや」

 

 その老人はよくよく思い返してみれば、昼に茶屋で出会った老人だった。風呂上りなのか二人と同様にさっぱりしている。

 

「また会ったのう。ここの露天風呂に?」

「ええ。おじいさまが教えてくれた通り素敵なお風呂でした」

「ほほほ。そう言ってくれると嬉しいのう……っとと」

 

 老人は部屋の中をぐるりと見回すと、慌てた様子でくるりと体を回す。おや、先ほど入ってきたばかりなのにもう出ていくのだろうか。もう少しゆっくりしてもいいだろうに。

 

「悪いの、お二人さん。儂は先に行かせてもらうわい」

「? え、ええどうぞごゆっくり」

 

 老人は忙しなく部屋を後にした。一体、なんだったんだろうか。2人は首をかしげるも、所詮は今日知り合っただけの間柄だ。今後の予定について話してるうちにすっかり忘れてしまった。

 そうしてどれだけの時間が経った事だろう。二人はそろそろ宿に戻るため、外に出ようとした。そんな時だ。

 ふと、遠くから悲鳴が聞こえてくる。それは室内にあっても聞こえるほど甲高い響きで、疑問に思った数人が窓に近寄り――小さな悲鳴をあげた。

 

「なにかしら」

 

 フニとマーニャも外を見る。

 窓の先――街道を無数の人々が逃げ惑っていた。フニは視力を強化し微細に見つめる。

 遠く、先の先。

 街の端か。

 そこに異形の人型が立っている。

 

「あれは……!」

 

 そこにいたのは、人外だった。

 背丈はおよそ10メートルを越す。皮膚を突き破るほど盛り上がった太い筋肉。獰猛な表情。肉体そのものが凶器――そう言われても納得するような怪物が、そこにはいた。

 名を、巨鬼(トロール)

 一匹で前線の兵士100人を屠るとまで言われている魔物だった。

 

「なんでこんなところに……!?」

「それよりもフニ」

 

 驚愕するフニに対してマーニャは恐ろしくなるほど冷静だった。彼女の目線は外ではなく内――この室内に向けられている。

 

「まずいわね」

 

 窓際に近寄っていた人々が騒ぎ立てるに従い、この室内にも動揺が広がりつつある。ここは戦争の最前線ではないし、彼らは一般人だ。魔物を初めて見る人もいるだろう。フニ達だってそうだ。室内を様々な憶測か飛び交う。不安に駆られた子供の泣き声が反響する。

 誰も、どうすればいいか分かっていないのだ。

 フニはふとあることを思い立った。

 

「あっ、あのっ、わたし、あの魔物を倒してきます!」

 

 いつになく強い言葉にマーニャの表情の深刻さが増す。だからこそフニは強く訴え出た。自分の力を使うべき時が来たのだと、マーニャにその存在価値を示したくて。でも、

 

「わたしの魔法ならきっと、絶対……!」

「――だめ」

 

 声は静かな湖面のようだった。

 

「絶対に、だめ」

「なんで……!」

 

 頑なな口調に、フニはどうしても引き下がれない。

 

「こういう時こそ、わたしの出番じゃないですか!」

 

 だって、わたしが役に立てたことなんてほとんどない。

 

「この力はきっとお姉さまを守るためにあるんです。この力を使えるのは、お姉さまが傍に居てくれるからなんです。だったらわたしは……!」

「だめよ、フニ……」

 

 なおも首を横に降るマーニャに、フニは無性に堪え切れない感情が湧き上がるのを感じる。

 それは、悔しさだ。

 

「あなたのことが、今は世界で一番大事なの」

「……っ」

 

 フニは悔しげに唇を噛み締めた。どうして、無理にでも窓の外に飛び出せないのかわからない。だってマーニャは魔法も使えない非力な女なのだ。

 フニが本気を出せば、マーニャなんて簡単に押し倒せる。彼女の腕を押さえつけて滅茶苦茶な事だってできるのたまり

 なのにどうしてだろう……彼女の泣きそうな顔を見ると、胸が苦しくなって何もできなくなる。

 

「じゃあ、どうすれば……」

「大丈夫」

 

 外からは悲鳴がより一層濃く聞こえてくる。重ねて強大な咆哮もひとつ。建物が倒壊するいびつな音。木霊し増殖していく恐怖の層。突き抜けた非日常の中でもマーニャはフニに微笑んだ。

 初めて出会った時となんら変わらない表情で。

 

「私に任せて」

 

 マーニャの言葉にかぶせるように、一際強い震動が街中を揺らした。――外で鬼が暴れている。その光景は、むしろ直視しない方が恐れを煽るのだろう。

 

「……ぁ」

 

 フニは見た。

 恐怖は伝播し焦りは視界を霞ませる。目先のことしか映らなくなった人々の理性が、たやすく吹き飛ぶ瞬間を。

 ただ温泉街を楽しく散策していたはずの人々の表情に生死を掛けた存亡の恐怖が貼りつき、群衆すべての感情が一つの巨大な“塊”となって膨れ上がり――そして、一気に弾けるその瞬間を。

 だけど。

 その声は鬨を告げるかのように。

 

「――みんな、落ち着いて!」

 

 凛とした、その一声。鼓膜を通り越して魂を揺さぶる響きに、弾けかけた恐慌が嘘みたいに静まった。そして全ての視線が一人の女にぶつかった。フニも、呆然と隣の女を――声を上げたマーニャを見上げる。

 

「魔物は一体だけ! 見た目からして種族は巨鬼(トロール)! 決して知能の高い魔物ではないわ!」

 

 彼女は。――マーニャは。

 衛兵でもない。騎士でもない。誰かを守る責務もない。彼女はただ、偶然今日ここへ立ち寄った旅人だ。そしてフニは知っている。

 彼女は、魔法を、使えない。

 この場の魔法を使える誰よりも弱い彼女は――彼女の背筋は、それでも尚曲がっていない。

 

「大丈夫! 恐れないで! 冷静に……!」

「――ふざけんな!」

 

 耐え切れないように一人の男が癇癪を起こした。ひとつに集中していた視線が二つに割れる。それにつられて誰もが不安定に揺れていく。フニはまた、理性が崩壊する瞬間を感じ取った。

 

「こんな状況で、そんな気楽な事……! だいたい戦争なんてもっと遠くの話だろ! なんでこんなところに……!」

「いいえ違うわ。あなたが思い描くようなことは絶対にありえない」

 

 強い強い断定の口調。男がたじろぎ、また群集の視線が一つになる。これまで見たどのマーニャよりも毅然とした横顔に、何か腹の奥底が痺れるような感覚にフニは陥った。

 

「なんでそんなこと……。だって、あんな魔物、どうすれば……」

「理由は決まってるわ」

 

 声は、美しく。その表情は誰よりも澄んだ知性を備えている。だから誰もが彼女の言葉に耳を傾けるのだろう。彼女に注目せざるをえないのだろう。

 フニはようやく理解した。

 学園で出会い、旅を始めて、ようやくこの時この瞬間に分かった。

 外見の美しさもある。笑顔の華やかさもある。蓄えた知恵の膨大さもある。それら全てはマーニャという女の魅力のひとつなのだ。――だけどそれ以上に、彼女は絶対的な才能をひとつ持っている。

 それは、つまりは。

 

「私は、私が、どうすればいいのかを知っている。だからあなたが震える必要なんてどこにもないわ」

「――」

 

 人を惹きつけてやまない、圧倒的な“自信”。

 それこそが、見る者すべての魂を震わせる……!

 彼女にならば騙されてもいい――フニは、先ほどまであった感情を全て忘れて、そう思った。

 

「フニ」

「はい」

 

 酔いはどこかに捨ててきた。

 呼気に酒の匂いは混じらない。

 何故なら彼女が見つめてくれているからだ。彼女を見上げているからだ。

 

「私に全てを任せて」

 

 見上げる黒い瞳はいつだって美しい。その輝きの一助になれるのならば何だってできる。

 そうとも。

 

「あなたを危険な目に遭わせない――だからお願い、力を貸して」

「ええもちろん。わたしの力を使ってください、お姉さま」

 

 望むなら、世界の裏に隠れた神様だって暴いて見せよう。

 

 

 

 

 魔物は何も望んでこの街に出現したわけではない。

 彼――巨鬼(トロール)はさしたる知能を持たない魔物だ。その血の性は土木作業や、それこそ戦争にこそ向いている。

 だからこそ、此度の実験(・・)には適任とされていた。

 さて、まあ……巨鬼(トロール)には難しいことがわからない。

 わからないなりに持つ知能は、目の前に広がる街並みの破壊にのみ注力した。その丸太の如き剛腕の一振りが美しい宿を粉々に吹き飛ばす。踏みしめた石畳を圧だけで蹴散らす。その被害に巻き込まれた人間が紙屑同然に命を損なう。

 

『――――!』

 

 鬼は吠えた。破壊への喜びであり、自らが戦果の証明であり、そして畏怖を呼び込む病理の震えでもある。死を知らせる声音に街から人気は失せて行く。

 だが、違和感がひとつ。

 雪崩のように去って行く人垣の中で唯一、女が静かに立っていた。

 

『……?』

 

 鬼は不思議に思った。どうして逃げないのだろう、と。

 だがその疑問もすぐに忘れる。女が真っ直ぐにこちらを見据えて、口を開いたからだ。

 

「【鉄針(ゲスト)】」

 

 魔物の目は魔力を捉える。

 可視化された魔力の霧は法則的な変質を加えられ、そして女の周囲に現れた。

 数は四。鋭利に尖った鉄槍が空に浮く。

 ――魔法使い!

 鬼の心が震えた。魔物とは往々にして戦いを求めている。その本能が脳を揺らし体を揺らし興奮を呼んだ。

 

「放て」

 

 女の言葉に従って鉄槍は驀進。鬼は雄叫びをあげ、気にせず突っ込んだ。腕に肩に胸に腰に槍が突き刺さる――が、それら全ては強靭な筋肉に阻まれ皮膚を貫くのみだ。

 

「文献通り、硬いわね……」

 

 鬼はニタリと笑って突き刺さる槍を抜き捨てた。奥歯まで剥き出しにするその笑みは高揚の証。決して女の言葉まではわからずとも、何を言っているかはわかる。

 女の魔法は己を貫くことは出来ない。ならば蹂躙するのみだ。

 

「【圧縮(ニーテ)】」

 

 二つめの魔法が放たれる。空間を強制的に握りつぶす不可視の拳――だが甘い。鬼がその剛腕を振るえば魔法を構成する魔力ごと不可視の拳は霧散する。強引な突破。鬼は更に踏み込む。

 女は既に次の一歩で手に届く。鬼は血潮を脳裏に描いて更に笑みを濃くする。

 そして。

 拳が、女を砕こうとして。

 

「――【火球(ブレス)】」

 

 言葉はあま(・・)りに(・・)稚拙(・・)()魔力を変質させ、炎を呼び寄せようとした。その様を確かに巨鬼(トロール)は見る――だが、熱球は現れなかった。

 確かに途中まで変質しつつあった魔力は、どうしてか途中でその形を霧散させた。何をするまでもなく。まる(・・)で女(・・)を嫌(・・)うか(・・)のよ(・・)うに(・・)

 巨鬼(トロール)は困惑のままに腕を振りかぶった。どのみちこの一撃が通れば人間など死に絶える。

 

 

 だが、腕は、動かない。

 

 

 何故か。それはとても簡単だ。炎へと変じようとしていた魔力とは別の魔力(・・・・)が、異常な速さで別の魔法を編んだからだ。そう、先ほどまで女を守護するかのように二つの魔法を編み出した魔力が――。

 現れたのは、氷河そのもの。

 鬼の四肢を拘束し、一切の行動を封じてしまう冷徹な楔。ただの氷ではない、明らかに魔法的強化を加えられた氷塊……!

 

『――!?』

 

 鬼の脳が混乱する。現状を理解できない。なぜ突然、魔力操作の流れが二重になったのか。高度な知性を持たない鬼には分からないのだ。四肢を氷塊で封じられた鬼は困惑で吼えるしかできない。そんな様子を女は静かに微笑んだ。

 

「あなたに良い事を教えてあげる」

 

 決して、鬼には理解できなかったことだろう。

 

「私、魔法が使えないのよ」

 

 『魔法』とは突き詰めれば魔力の変換と燃焼だ。その行為を視認可能な目を持っていたからこそ、余計鬼には想定すらできなかった。女――マーニャが魔法を使っているかのように演じ上げ、遥か先でフニがそれに合わせて魔法を使っていたことを。

 事前に打ち合わせることが出来たとはいえ、戦闘中に、それも練習ひとつせずに成し遂げてしまうフニの稀代の才と、死を目前にして震えすらしないマーニャの自信。

 並大抵の信頼と理解がなければ成し得ない二人の詐欺(・・)を、ついぞ鬼は見破れなかった。

 そして身動きを拘束された鬼を、数歩後ろに下がったマーニャは見やる。その視線の意味が分からない鬼ではない。

 

「――【撃音(フルヴェイド)】」

 

 そして微かに聞こえた声音と共に、

 

『――――』

 

 鋭利すぎる鉄槍は遥か遠方より飛来する。それは、先の四本が弾かれたことを糧により鋭く、より速く突き進む神槍の一突き――。

 音す(・・)らも(・・)ぶち(・・)抜いて(・・・)、槍は鬼の胸部に直撃した。全てを阻む筋肉も、異様な密度を誇る骨も、その全てをずたずたに引き裂いて心臓を破壊し、一瞬にして鬼を絶命させる。マーニャはその様子をしっかりと確認して、ようやく重いため息を吐く。

 

「ふう」

「――お姉さま!」

 

 槍の飛んできた方向より少女が駆けてくる。マーニャは黒髪を揺らしながら振り返った。心配そうな顔をするフニに、にこりと笑みを浮かべて見せる。その柔らかく上品な笑みに「――」と頬を震わせたフニは、今度は泣きそうな顔になってマーニャの胸に飛び込んだ。

 

「無事でよかった……! ずっと不安で、でも頑張らなきゃって……!」

「ありがとう。あなたはやっぱり凄いわフニ」

「そんな! そんなこと!」

 

 抱きつき、抱き支えて、二人は夜空の下でくるくると回る。ひしと回したフニの腕はマーニャを決して離そうとしない。二人は至近距離でくすぐったそうに微笑んだ。

 その瞬間だった。

 

 

 ――建物をぶち破ってもう一体の巨鬼(トロール)が現れる。

 

 

 吹き飛ぶ瓦礫と共に、けたたましく怨嗟の咆哮を上げる新たな鬼(・・・・)。二人は同時のその巨躯を見た。その頃には巨鬼(トロール)の腕が降り上がっていた。――マーニャとフニを圧し潰すために。

 

「――二体目!?」

 

 先に状況を理解したのはマーニャだった。抱えたままのフニを即座に突き飛ばし、ぎりぎり巨鬼(トロール)の腕から逃がそうとする。賢明な判断に、フニの思考は追いつかない。魔法を起動できるだけの余白が心にない。

 なんで、と少女の口元が動き。

 女が笑顔のまま目を閉じる。

 そして、フニの目の前で愛しい人が無残な形に変、

 

「――悪いがそれはさせねえよ」

 

 巨鬼の(・・)腕が(・・)根元(・・)から(・・)切断(・・)される(・・・)

 それはあまりにも滑らかな切り口だった。まるで、巨大な剣で斬り落とされたみたいに。驚愕に染まった鬼の目と、僅かに止まった巨体をマーニャは見逃さない。地を蹴り、もうすぐ背中から道を転がろうとしていたフニに飛びつく。それと同時にマーニャの元居た場所を切断された鬼の腕が圧し潰した。

 

『――――!?』

 

 鬼の激痛に苦しむ絶叫が夜空に響き渡る。二人して石畳の上を転がったマーニャとフニは、もはや理解の外にある光景に呆然とした。

 

「あ、あなたは……?」

「通りすがりの爺だよお嬢ちゃん」

 

 そこにいたのは痩せこけた老人だった。老いて色素を失った白髪の髪を後ろで雑に縛り、緩い格好をするその男。好戦的に、それこそ鬼同様に奥歯まで剥き出しにする笑顔は、あまりにも昼間の姿とはかけ離れている。

 

「お嬢ちゃんたち、よく頑張ったな。あとは本職に任せな」

 

 なぜ、どうして、ここに。

 巨鬼(トロール)ですら疑問と困惑で老人を見る。遥か頭上から突き刺さる魔物の視線に、老人は鬼へと視線を移す。皺くちゃの瞼に隠れた鋭い瞳は挑発的に鬼を見やった。

 

「たかが腕一本だ。まだまだやれんだろ」

『――――――――!!!!』

 

 煽られている。鬼は、仲間の死骸を目にした時以上の怨嗟で吼えた。獣に等しい殺意の表情を、老人は気にもしないで受け流す。

 傷口を、筋肉を隆起させて止血した鬼は、いきなり腕を失った重心のブレも気にせず老人へと突貫。同時に老人は右手を天へと掲げた。

 

「……!」

 

 今度こそ見えた。

 ――青く、突き抜けるほど蒼い刃。

 身の丈の三倍はあろうかという巨大な剣が老人の手の先から出現している。それは滑らかに、悠々と、鬼の隻腕を溶かすように斬り落とした。

 雲を裂くような軽々しさに重心を狂わされて、鬼の体は老人の横を転がっていく。重量物が地を転がる激震も気にせず、男は柳のように動いていなかった。

 

「あの強靭な魔物の腕をたったひと撫でで……。あれは、魔法の剣……?」

硬度無効の(・・・・・)法則(・・)貫通魔法(・・・・)……」

「――え?」

 

 フニが呆然と呟いた言葉に、マーニャは聞き返す。少女は老人の方を見ながら続けた。

 

「あれは、剣なんてものじゃないです。あれは……魔法の極域、その一歩手前にあるものです……」

「……聞いたことがあるわね。なんでも世の中にはある血筋の者でないと使えない特殊な魔法があるとか……」

 

 それは王国に住む誰もが子守歌として聞かされる英雄の血筋だ。

 強さと気高さと誇りを持ったその者たちの特殊な血は、魔法に疎いマーニャでさえも知っている。

 

「硬度無効。

 速度超過。

 距離跳躍。

 その三つを兼ね揃えた重奏剣性魔法。その祝福を継ぐ人類防衛の要、絶対の剣……」

 

 老人が、ゆっくりと体を回る。血を噴き出し続けながらも立ち上がる鬼へと、降り上がる細く老いた右腕。現出するのは20メートルを優に超す美しい蒼き魔剣。ただの脆い片腕だというのに、何故だろう。その背は、その腕は、誰よりも強固だ。

 

「――人類連合軍元帥、“軍神”ケド・カサルル・ホルル」

 

 そして蒼剣が振り下ろされる。残光を纏う美しい一撃は、鬼を両断。痛みすら与えず死へ導いた。

 二人がその背を見つめていると、ケドは苦笑と共に振り向く。

 

「さすがに三つも重ねたら命が幾つあっても足りないよお嬢ちゃん。儂に出来るのは“硬度無効”だけだ」

「そ、それでもあり得ないことです。物理法則を完全に無視した魔法なんて、一体どれだけの才能と努力が必要なのか……」

「そういう血筋なのさ。なあに儂より凄い奴なんていくらでもいる。儂はせいぜい、ちょっとだけ長生きしてるだけさ」

 

 三人はしばらく、三体目の鬼を警戒したが一向にやってくる気配はない。どうやら二体で終わりらしい。ほっと一息ついてようやく、辺りの損壊具合に気が向く。観光地として名をはせる温泉街は、多数の建築物を破壊され、そして幾人かの死者によって戦地そのものへと化していた。

 

「ずいぶんやられちまったなあ」

「でも、これだけで納まってよかった」

 

 鬼は単騎で100もの兵士を屠ると言う。戦争など知らない一般人なら一体どれだけの命が散っていたのか。それをこれだけの被害で納められたのなら、十分だろう。鬼の死骸をそのままに、三人は怪我人の捜索を開始した。

 

「それにしても、どうしてこんなところへ……?」

「いやなに、ちょっとした作戦じゃよ。丁度近いところで会議をしておったし、ほら、温泉街だし? でも結果的には来てよかったのう。ほほほ」

 

 鬼と対峙した頃とは打って変わって好々爺然と笑うケド。フニとしてはそんな風に笑いかけられてもまさか昼に出会った老人がとんでもない重鎮だったと分かると、どうにも落ち着かない。

 

「にしてもさっきのは見事だったのう。気骨ある戦いぶりじゃった。お姉さん、名は?」

「マーニャです。この子はフニ」

「ほほう。知らん名だ」

「ただの旅人ですから」

 

 マーニャは多くを語る気がないようだ。老人もその雰囲気を悟ったらしい、大人しく引き下がる。

 

「世界は広いのう」

 

 そうこう話して鬼の死臭が漂いだした頃になってようやく、体制を整えた衛兵が駆けつけてきて、彼らは慌てた様子でケドに敬礼していく。そんな衛兵の中にはどこかで見た記憶のある女も混じっていた。

 

「――元帥。また抜け出してまったく」

「げっ。ここまで追ってこなくてもいいじゃろ」

「私の仕事を勝手に増やさないでいただきたい」

 

 女は他の衛兵とは違い、ずいぶんケドに親し気な様子だ。

 涼しい瞳に涼しい声音。短い茶髪。両手につけた絶縁体のグローブと、腰に挿したひと振りの剣――。

 確か、名は。

 

「……また会ったな」

「久しぶり……ってほどでもないわね」

 

 名は、“魔法”殺し。本名は知らないが、以前第一王女と都を散策した時に相対している。驚異的な戦闘能力と神がかりな魔眼でフニの猛攻をもしのぐ、まさしく対魔法兵器とでも言うべき女に、フニは警戒を、マーニャは嫌味のない笑顔を浮かべた。

 

「ここには観光?」

「別に。軍事機密だ」

「王女様の護衛はどうしたのかしら」

「私はもともと軍属だ」

「つれないのね」

「お前たちは民間人だろう。協力には感謝するが、死に急ぐような真似は賞賛に値しない」

 

 ぶしつけな物言いに、フニがめいっぱい頬を膨らませる。

 

「お姉さまがいなければもっと被害が出てたのに……!」

「まあまあフニ。いいじゃない。事実私たちは民間人なんだもの。これ以上関わるべきではないわ」

「で、ですけども……!」

 

 マーニャの窘める口調にも納得しないフニに睨まれた“魔法”殺しは、ポリポリと頬を掻く。涼し気な目つきはなぜか少女とは目を合わせようとしない。

 

「まあ、なんだ。あまり無理をするな。特に女、お前が死ぬと王女様が悲しむ」

「あら。結構優しいのね」

「好きに言え」

 

 会話をする気はないらしい。とても老人に対する気遣いの感じられない仕草でケドの服の襟を掴むと、ずるずると遠くへと引きずっていく。ケドは暴れる様子もなくそのまま引っ張られていった。

 

「お嬢ちゃん、また会おうなあ――」

「え、あ、はい。また……」

 

 手を振りながらにこにこと笑うケドに、フニも恐る恐る手を振り返す。そうして二人が街を去れば、衛兵たちが慌ただしく救助作業をする中に二人は取り残されてしまう。観光名所としては物騒な喧騒の嵐の中で、これ以上ここにいても邪魔だろうと考え、二人はそっと通りから抜けた。

 

「なんだか、観光って感じじゃなくなっちゃったわね」

「そうですね……」

 

 あちこちから色んな声が聞こえてくる。子供の泣き声。大人たちの怒号。衛兵の拡声魔法を使った指示。自分たちが泊まっていた宿は被害を受けた場所からは幸い離れている。だけど、宿の居心地の良さを楽しむ気にはなれないだろう。

 

「ごめんなさいね。こんなことになって」

 

 ぽつりと、そうマーニャは呟く。騒々しさを背に並んで歩く二人を邪魔するものは何もない。静かにフニはマーニャの顔を見つめる。

 前だけを見ている女の横顔は、どこか悔しげに見えた。フニも同じように前を向く。

 

「わたしはよかったです」

「そうなの?」

「はい」

 

 思い出す。パニックに陥りかけた群衆を一喝し、押しとどめた彼女の姿を。一切の恐れも見せずに巨鬼(トロール)と対峙した後姿を。

 マーニャは美しい。

 そして――格好良かった。

 だから何度も何度も胸を打つ。

 どれだけ時が経とうと、瞼の裏には焼き付いている。離れてくれない。

 

「お姉さまがどれくらい凄いのか、とってもよくわかりましたから」

 

 なんで前線から離れた観光地で魔物が現れたのか、とか。そういう事はどうでもいい。深く考える必要のないことだ。フニにとって大事なことは、大事なものは、目の前にあるのだから。

 

 

 

 

 

 

 

「あの二人……」

「なんじゃ知り合いか」

「そういうわけでは。ただ、一度だけ手合わせをしたことが。やり手ですよあの女」

「マーニャと、フニ、のう……」

「……またよからぬことを考えてはいませんか」

「ほほほほ。まさか、まさかそんなこと。そんなことはないぞい」

「……。まあしかし、驚きましたね。まさか本当にこんなところに巨鬼(トロール)が跳んでくるとは」

「うむ。まさかアリ殿の予想通りの結果になるとはな」

「『魔王軍は転移魔法の実験段階を終えつつある』……ですか。戦争どころか世界が変わりますよ」

「学者の言うことは儂らにはわからん。所詮剣を振るうしか能がないなら、あるがままを受け入れるしかなかろうよ」

「……それが私たちの在り方? おじいちゃん」

「そういうことだ、孫よ」

 

 

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