フニとマーニャが出会って間もない頃の事である。
「飲み会……ですか」
「ええ」
夜。魔法灯で照らされた二人部屋で、フニはベッドに寝そべりながら小説を読み、マーニャは豊かに膨らむ黒髪をゆっくりと梳いていた。
橙色の灯りの中でマーニャの髪が光の粒を散らすのを、フニはぼんやりとした眼差しで見つめる。一昨日マーニャが貸してくれた恋愛小説が思いのほか面白くて、講義が終わるとつい読みふけってしまっていた。
「この寮のね、お世話になった先輩が今度卒業するのよ。お別れ会をみんなでしようって話になってるの。どう? いろんな種類のお酒とか、美味しい料理もたくさん出るわよ」
それは確かに魅力的な提案だ。天才的な学者である父と二人きりで暮らしてきたフニにとって、王都に隣接するこの学園での食事はどれをとっても美味しい。特にマーニャが作ってくれたオムレツは絶品で…………。
いやいや。
今はそういう話ではなく。
「わたしは別に……」
フニは枕元に広げた小説にそっと目を落とした。首の動きに釣られてふわふわと柔らかい栗毛が揺れる。重要なシーンのはずだが文字は頭に入ってこない。
「みんないい人よ?」
「……」
気軽にそう付け足すマーニャに、フニはなんと言えばいいのか迷った。何度か逡巡した後、やや硬い舌を動かす。
「わたし、知らない人と会うの、苦手です」
「なら飲み会の後で、飲みましょう? 二人きりで」
「二人きり……」
思い出すのは初めて出会ったときのことだ。彼女はテストで良い点数を取った祝いにと二人きりの、ささやかな酒宴を開いてくれた。彼女の作ったオムレツの味がすぐにでも思い出せる。あれは、心がじんと暖まる味だった。
「そ、それなら、まあ。いいですけど……」
「やった。なら飲み会の料理、少しもらってくるわね。お酒も欲しいものがあれば何本かもらってくるわ。何か飲みたいものとかあるかしら? この前はスパークリングワインだったし、今度はウイスキーとか……あ、でもフニには少しきついかしら……」
「……あの」
嬉しそうにつらつらと喋るマーニャの声を遮って、フニは顔を上げた。「?」と髪を編みこむ手の動きを止めて、こちらを不思議そうにマーニャが見つめている。混じり気のない瞳は美しい。フニは女のしなやかな指をじっと見つめた。
「無理とか……しなくていいですからね」
「……」
マーニャは何も言わない。図星というよりは、虚を突かれたといったような無言。フニの心音が僅かに跳ねる。
彼女の善意はとても嬉しい。ありがたいものだと思う。でも、マーニャとて自分の人生がある。目的があってこの学園に居る。なら欠片ひとつでも自分のために時間を割くような事はしてほしくない。それで被る不利益を考えれば、フニは身を引くことが最善だと考えた。
「わたしなんかのために飲み会を抜け出すとか、そういうのは……」
「えいっ」
ぱちん、と額を指で叩かれる。びっくりして顔を上げるといつの間にかベッドの縁にマーニャが座っていた。
「痛いです……」
「痛くしたのよ」
悪戯っぽく笑うマーニャに、ついぶすっと頬を膨らませてしまう。
「私がしたいのよ。フニ、あなたと一緒にお酒を飲みたいの。私のわがままを深く考える必要なんてないわ」
「わがままですか」
「そうよ。だから嫌なら嫌と言ってね。私たち、まだ出会って間もないんですから」
お姉さまは凄いな、とフニは素直に感じた。そうやって本人を前に堂々と言える時点で彼女は素晴らしい人格をしている。深く勘繰りすぎて口をきつく結んでしまう自分とは大違いだ。
そんなこんなで日は過ぎ。
フニが恋愛小説を読み終えた頃だ。
「……」
――階下からは幾つもの歓声が沸く。
喧しく、騒々しく、だけど楽し気な声だ。
フニは静かにベッドで横になりながら本を読んでいた。
「………………」
室内にはぺらりぺらりと紙をめくる音だけが響く。マーニャが新しく貸してくれたのは全三巻からなる冒険小説。森で出会った魔物の赤子と共に旅を続ける青年の、心温まる小説――とのことだ。
図書館の君とまで言われるマーニャが薦めるだけあって、なるほど確かに面白い。文を目で追うのが止まらない、が……。
「いや、別に気にならないけど」
階下から聞こえるきゃいきゃいという声。ついフニは呟いていた。
「気にならないけど……!」
ぱたん、と本を閉じる。体が起き上がる。フニはむずむずする胸のわだかまりを抑えきれず、部屋を出て、飲み会が行われているという階下の広場まで足を運び――。
そこで。
フニは。
マーニャが見知らぬ少女を抱きしめているのを見た……!
「あぁっ?!」
フニは胸をぶん殴られたみたいな衝撃に震えてしまった。周囲は既に出来上がった人がやいのやいのと酒宴に浸っていて、フニの叫びにも気づかない。人垣をかき分けてフニはマーニャの元へ直行した。
「お、おねっお姉さまっ!? その女は……その女は……!」
特徴的な艶めく黒髪が揺れる。少女を抱きしめながら振り向くマーニャの顔は見事に真っ赤だった。――酔っている。
以前、二人きりで小さな祝杯をあげた時とはまるで違う赤ら顔。笑顔もニコニコ具合が五割増しに見える。
「んん~?」
ややろれつの回っていない声を出すマーニャは、ぼうっとした瞳で自身を焦った表情で見上げる少女に焦点を合わせると。
「――あらっ! フニじゃない!」
抱きしめていた少女をぱっと離し、フニが反応するより速く両腕を広げ。
そして一瞬でフニを抱き上げた。
「――」
フニは11歳。マーニャは21歳だ。その身長差は頭ふたつ分はある。マーニャがフニを抱えてしまえば当然フニはマーニャの腕の中にすっぽりと収まる形になってしまい……。
むにゅりと頬に押し付けられるマーニャの胸の柔らかさや、抑え目な香水の甘い匂いや、女の体の熱、地に足がつかない不安が一気に襲い掛かりフニの頭がショートしかける。
「フニはふにふにしてて可愛いわ……」
「!? ――!? ……!?」
「理解できないって顔をしてる……」
フニは抱きしめられたまま身動きを取ることも許されず(意外とマーニャは力持ちだ)、飲み会に参加している仲間たちに「これが私のルームメイト。フニよ。かわいいでしょ?」と自慢げに紹介されていく。かわいい~かわいい~と年上の泥酔女たちにグールみたいに連呼されては柔らかい栗毛を撫でられまくるフニはたまったものではないし、もう何がなんだか分からない。
ただ少しは分かったこともあった。
「お姉さまには……抱きつきの酒癖がある……!?」
翌日。
「ううん……」
マーニャは鈍い頭痛で目を覚ます。もぞもぞと体を起こしたはいいものの、昨日はどうやってベッドに入ったかも覚えていなかった。
時刻は……すでに正午を回っているか。置き時計から自然と目線を滑らせてマーニャはルームメイトの少女を見た。椅子に座って本を読んでいるフニの背はまっすぐだ。
「フニ?」
声を掛ければ、少女はひとつ縛りの栗毛を子犬の尻尾みたいに揺らして椅子から立ち上がる。振り返るフニは満面の笑みだった。
「おはようございますっ」
「あらら。なんだかとても元気ね……」
ポットに入ったお茶をカップに入れて手渡してくれる。ありがとうと受け取って一口飲めば、頭痛も少し落ち着いた気がした。
「私は頭が痛いわ……昨日、飲み会があったと思うんだけど何も覚えていないし……」
「そうなんですか? 残念……いや、むしろラッキー……?」
「ああ、そういえばフニと一緒に飲もうって約束をしてたわね。ごめんなさい、破ってしまって。私ハメを外しすぎる癖があるみたいで」
「お姉さまは覚えていないようですが、昨日はとっても楽しんだんですよ」
「そうなの。ならいいんだけど」
フニは珍しくニコニコしている。それに精気に満ちているというか何というか。とにかくいつもより元気そうだ。
「お姉さま、お姉さま」
「なにかしら?」
「もし次、飲み会があるならぜひわたしも誘ってくださいね。わたしがしっかり隣に居ますからっ」
ぐっ、と小さな拳を作るフニ。マーニャには話の脈絡が分からないが、昨日の飲み会にフニも途中から参加したんだなというのはぼんやり把握できた。
「お姉さまの独占……いえ、死守……それがルームメイトとしての役割ですっ」
それか……。
「こ、これからはわたしとだけ飲みましょう。ね、ねっ」
何かを決意するような、期待を込めた上目使い。やっぱりよく分からない。
「???」
詳しく聞こうと思った頃には「では私は午後の講義がありますのでっ」と早口に言ってフニは部屋を出て行ってしまう。少女の顔は少し赤かったような気がしないでもないが。
「なんだかよくわからないけれど、フニが少し外向的になったってことで……いいのかな?」