フニとマーニャが出会って最初の年、桜がまだ散り切らない頃の事である。
「?」
陽光で透ける葉桜の煌びやかさを自室の窓を開けてぼうっと見つめていたフニは、部屋の扉をこんこんと叩く音に首を巡らせた。扉の奥からは「手紙よー」と寮母の声が。フニは扉を開ける。
「一人? マーニャさんはいない?」
「ええ。お姉さま宛ての手紙ですか?」
「そうなのよ。でも送り主の名前がなくて……」
困った様子で頬に手を当てる寮母から一通の手紙を受け取る。寮母はきょとんとした顔のフニを放っておいて「本人に渡しといてね~」と気楽な様子でその場を後にした。フニは同じ表情のまま部屋の扉を閉める。
日曜日。
春うららかな休日の昼下がりを、マーニャは図書館に籠ることで堪能中だ。フニも後で顔を見に行こうかなと思いながら、まだ桜色を残す葉桜の散り様をぼんやり眺めていたのだが――にしても。
「名無しの手紙……?」
手紙は跡ひとつない真っ直ぐな封筒に入っていて、文字は読めない。だが、あて名はしっかりと『マリアジュエ・イーニア・ベネティード=フィフス』――つまりマーニャの名前が書かれている。やや硬めの筆跡からは書いた者の緊張が滲んでいた。
うーんと唸りながらフニは考えた。そういえばマーニャが貸してくれた恋愛小説に、こんな感じの手紙を主人公が受け取るシーンがあったな。
「これはもしや……」
まさか、もしかすると、ひょっとしなくても、これはラブ……
「どーしったの? フニっ」
「びゃぁあっ」
背後から突然かけられた悪戯っぽい声に、フニの小さな両肩が心電図みたいに跳ねる。慌てて振り向けばそこには豊かな黒髪の下で目を丸くする美女がいた。
「ご、ごめんなさい。ちょっと驚かせようと思ったのよ。怪我とか、してない?」
「あ、はい……大丈夫です。お姉さま」
ならいいんだけど、と表情を柔らかく変えて微笑む彼女こそフニのルームメイトにして名無しの手紙を送られたマーニャ本人である。
「読書はもういいんですか?」
「ちょっと休憩。暇だったら一緒にお昼ごはんでもどうかなと思って」
ぐいーっと伸びをした彼女の、白い歯を見せた笑顔に誘われて頷かない者などいるのだろうか。もちろん大賛成のフニはこくこく頷く。そして彼女の視線が自身の胸元に――マーニャ宛の手紙に向けられていることに気付いた。
「? それ、私宛ての手紙?」
「そうみたい、なんですけど」
「あら。なんだか歯切れ悪いけど、もしかしてラブレターとか?」
「やっぱりそうですよね……」
フニは自分でも分からないうちに落ち込んだ声を上げていた。何となく――どう表現すればいいかもわからない『もやもや』が心を覆っていて、この手紙を知られたくないなと思う。だけどバレてしまったからには仕方がない。
「この手紙を読んだ明日の午後5時、学園中央広場南の桜が側で咲くベンチにて……ですって。ふーん」
フニが差し出した手紙を特に動じることなく受け取ったマーニャは、封筒の中身に目を通しだした。きっともっと沢山の愛情を込めた文言が綴ってあるのだろう。フニはつい上目遣いになりながら、マーニャの慣れた様子を疑問に思う。
「お姉さまってその、こういうのを沢山貰うんですか?」
「んーそうねえ、1ヶ月にひとつかふたつ……それくらいの頻度で来るかしらね。中には同じ講義で何回か話しただけの人からも貰ったりとか」
「そ、そんなに……!」
「冷やかしみたいなものよ。私が一期生の頃からそうだし、いちいちまともに相手してたら頭がおかしくなっちゃうわ」
いやでも、一か月に一つ二つということはだ。マーニャは十期生なのだから、単純計算でも120人以上から恋文をもらっているという事になるじゃないか!
目の前にいる10歳年上の女がいかに他者から惹かれやすいのか、考えるだけでフニはなんだか馬鹿らしくなってきた。
「にしても結構考えてるわねこれ」
食堂までの道のりをゆっくり並んで歩きながら、二人は送り主不明の恋文について語り合う。
「? 何がですか?」
「これを読んだ明日ってことは、待つ時間を私に与えるってことよね。それで色々考えさせられるわけじゃない? あの人ってこんなことするんだ、とか……こんな字を書くんだ、こんな表現を使うんだ……とかね。そうやってドキドキさせたらもう勝ちよ。あとは本番でうまく魅せればいいだけだもの」
「でも送り主の名前が……」
「そこよね。名前がないってことは誰か分からないって事なんだから、書かれてる内容しか判断材料がないわけだし、余計変なイメージを持っちゃうと思うのよ」
――などと自信に向けられた恋文を冷静に分析するマーニャは、なんだかいつも以上に大人びて見えた。
「お姉さまって恋愛上手、なんですか?」
「告白され慣れてるだけよ。そのうちパターンが見えて来るのよ。誰かと付き合ったことなんてないわ」
と、マーニャは苦笑。
「へ、へえ。そうなんですか」
フニはちょっと嬉しくなった。理由は本人にもわからない。
後ろで一つに結んだ栗毛をぴょこぴょこと子犬の尻尾みたいに揺らしながら歩くうちに、フニはふとある疑問にぶち当たる。――恐る恐る、マーニャを見上げた。
「い、行くんですか?」
「行かないわよ」
「付き合ったりとかは……――いやあの! お姉さまも素敵な女性ですし、火遊びの一つや二つ当たり前なんじゃないかなと――って行かないんですか?」
マーニャの意外な返答に、慌てふためいて口走ったフニを女はくすくすと笑う。
「火遊びって。結構おませさんな言葉を使うのねえ」
「う……」
余計フニは赤くなって縮こまってしまう。ひとしきり楽し気に目を細めていたマーニャは顔を前に向けて、整然と並ぶ街路樹を見つめながら口を開いた。
「私ね、こういう手紙で人目につかない所へ呼び出されたら行かないようにしてるの」
その理由がフニにはピンときた。だけどどうしてそんな結論に至ったのかまでは、フニにはマーニャの人生の歩み方を知らないから何とも言えない。
「――ひょっとして昔、乱暴されたとか」
自然、声は暗く硬くなる。まるで戦場を前にした魔法使いだ。長いまつ毛に縁取られた丸い瞳は曇天よりも歪みが深い。急に殺気を放ちだしたフニにマーニャは少し怖くなった。
「されてはないけど、私って魔法が使えないから、初めて恋文なんかを貰った時は嬉しいとかよりも先にすごく警戒したわ」
そうだ。マーニャは生まれた時から一度も魔法が使えないという非常に珍しい障害を持っている。そんな彼女が手紙の呼び出しを警戒するのは至極当然だろう。こと自衛力という点において、マーニャは赤子にすら劣るのだから。
「それでこっそり待ち合わせの場所を監視してみたの。そしたら――ガラの悪そうな生徒が3人いたのよ」
「……」
「ああフニそんなに重く構えないで。ここに来るまでだって魔法が使えないからって色々言われたり、扱われたりもしてるもの。平気なの、別に」
プロの暗殺者も小便を漏らすような目つきになったフニに、慌ててマーニャは言葉を重ねる。
「フニが想像してるようなことは何も起きてないわ」
「そ、想像って……!」
フニが頭の隅で想像していたのはマーニャが貸してくれた小説の中でも一番えっちなシーンの事である。あれはえっちすぎてドキドキした。
ってそうじゃない。
「そんなことは!」
ぱっと顔を上げると、そこにはにまにまの笑みをするマーニャがいた。まさにしてやったりと顔に書いてある程、はまり切った表情だった。
「……むー。からかいましたね?」
「ごめんなさい、ごめんなさい。つい面白くって。――でも本当の話よ」
「じゃ、じゃあそのあとは……」
「そのまま帰って寮母さんにその事を伝えたら、退学処分になったとか」
この学校自由恋愛には寛容だけど、暴力にとても厳しいのよ、とマーニャ。
「それにね、所詮――火遊びだもの」
それは先ほどフニが発したものとは別の言葉のように、冷たい。諦観と冷徹さが混じった口調だ。けど、マーニャはまだ笑っていた。
「この学園には貴族や大きな商会の跡取りなんかも多い。そんな人たちが、魔法を使えない――言ってしまえば
つまりは。
「跡継ぎに万が一なにかあったら困るじゃない?」
「そんなこと!」
反射的に鋭い声を上げてしまっても、マーニャは悲しむ素振りも見せない。
「そんなこと……ないですよ」
フニは悔しくなって、俯いた。ほぞを噛んでワンピースの裾を握りしめても解消しない胸のむかつきは、決してマーニャに向けてのものではない。これは自分に向けての悔しさだ。自分の好きなものを理解してもらえそうにない事への悔しさだ。
「お姉さまはとっても素敵な方ですっ。すれ違う人全員が振り向くし、誰でも好きになってしまうくらい凄い人ですっ」
「もー。そんなに泣かなくてもいいのに」
「な、泣いてませんっ」
あまりに普通過ぎるマーニャの態度に、フニの方が心をかき乱されてしまう。まだ出会って一月程度の付き合いだけど、フニにもマーニャの事が何となく分かってきていた。
「私、恋愛小説を読むのは好きだけど、自分が誰かと結婚するとか付き合うっていうのは全然しっくりこないのよね」
彼女は恋をしない。
性愛をもった情は誰にも向けない。
そういう自分で完結してしまっている。
だけど、そんな人生はとても悲しいものだとフニにも思えた。母の愛も知らないフニですらだ。
「お姉さま、わたし、手紙を書いた人と会うべきだと思います」
フニは恋文をマーニャに渡した頃とはまったく別の感情でそう言っていた。眉を立てた真剣な表情に、軽やかだったマーニャの足取りもそっと止まる。
彼女は本当に分からない様子で首を傾げていた。
「なぜ?」
「その……お姉さまは言いましたよね? あの手紙は、時間を与えることで相手のことを考えさせるのが狙いだって」
でも逆の視点から考えてみると、少し事情は違う気がするのだ。逆の視点――つまりは自身の名前を書かなかった送り主の考えを、フニは推理していく。
「お姉さまからすれば手紙を見てからの一夜だけ待てばいいけれど……この方にとってはお姉さまがいつ気づくかもわからない手紙を読むのを期待するしかないんですよね」
もちろん学園内で送る手紙なのだから、寮にさえ届けば数日のうちにマーニャが目を通すことになるだろう。けど、その数日が正確には何日かかるのかなんて送り主にはきっと分からない。もしかしたら寮母が雑な性格をしていて、手紙を溜めてしまう性格かもしれない。マーニャが手紙を忘れているかもしれない。
それでも待ち続けなければならないのは、きっと辛い事だろう。
「……」
「いつ来るかも分からないお姉さまを、桜が散っても待つというなら……」
そういう『かもしれない』を考えれば考えるほど、マーニャの想像するほど名無しの送り主が悪い人間とは思えなくなるのだ。
「それってとても真摯なことだと思います」
「……なるほどそんな見方もあるのね」
ふむふむと、何故だかマーニャは非常に深く頷いている。細いあごに添えた手も、どこか遠くを見つめる理知的な眼差しも、フニの言を真剣に捉えている証拠だ。
途端にフニの胸内には焦りが生じた。思い返してみるとすごく恥ずかしいことを口走ってしまった気がする……!
「ちょ、ちょっと推理小説の読みすぎかもしれないんですけど、もしかしたらそういう可能性もあるかなって……。あ、もちろんわたしも、いつでもお姉さまを守れるよう少し離れたところから見てますから。お姉さまが断ってもそうじゃなくても、一度会うくらいなら、」
「うん、いいわよ」
フニの早口も遮って、さっぱりとした顔でマーニャは頷いた。
「えっ」
「フニが珍しく張り切ってるもの。なら私も応えないとね」
開いたままの口でフニが固まっていると、マーニャはやはりいつもと変わらない上品な笑顔を浮かべる。だけど瞳の奥では小さな決意が燃えているのが分かって。
――もし本当にお姉さまが誰かと付き合うことになったらどうしよう。
今更になってフニは不安になってきていた。
そして翌日の夕焼けが美しい午後四時五十五分。――学園の時計塔が予鈴を鳴らす中、フニは生垣に隠れるようにしてマーニャの背中を見つめていた。
学園の中央には大きな広場があって、昼休みなどはよくベンチに座って仲良く昼食を摂る学生の姿がよく見られる。だがもうすぐ夜が来る頃となっては人気はなく、そして恋文の送り主が指定した『桜の木が傍にあるベンチ』というのは広場の外れにあった。
周囲には、やはり誰もいない。
手紙の送り主もまだ来ていない様子だった。マーニャは少しきょろきょろと辺りを見回してから、一人ベンチに腰掛ける。丁度フニからは彼女の横顔が見える位置だ。
「…………きれいだなあ」
そう、フニが自然と漏らしてしまう程に今日のマーニャは美しかった。いつもより丁寧に、時間をかけた化粧はしかし彼女が持つ生来の美しさを損なわないように自然で。『せっかくなんだしいつもより気合をいれるわ』と宣言した通りに、いつもはまっすぐに下ろしている黒髪は、編み込みをカチューシャのようにして綺麗に纏めている。
豊に波打つ長髪が夕焼けを反射して、まるで宝石でも纏っているみたいだ。
恋文の送り主も度肝を抜くに違いない。
ふふんお姉さまはすごいだろうと生垣に身を隠しつつ得意げになってから、思い出したようにフニはどんよりとした溜息を吐いた。
「どうしよう……もしお姉さまが誰かと付き合うなんてことになったら、どうしよう……」
と、一人頭を抱えるフニは、自身の位置をマーニャには知らせていない。そうした方が彼女が落ち着けると考えての事だった。フニの視線を意識していないからか、夕焼けを一身に浴びて燃えるように輝くマーニャの顔はひょっとするともしかするかもしれない――そうフニに思わせるには十分なほど、今日のマーニャは気合が入っている。
まあ、どのみち自分が蒔いた種である。今更後には引けない。下唇を噛みながらもフニが前を向いた時だった。
――来た。
ベンチに、小柄な人影が近づいていく。だけど丁度夕焼けが逆光になって姿がはっきりと見えない。
「……っ」
フニは魔法で視覚を強化し、瞬時にその人物を注視する。もしもマーニャに害を及ぼす者なら、彼女を全力で守らなければならない。
にしても――小さい。マーニャよりも年下なのは確実……自分と同い年くらい?
「――」
「――」
などと、フニが疑問に思った時だった。
フニの眼はやって来た人物を正確に捉える。そしてその正体に驚いた。
「えぇっ」
小柄な体躯。幼さの残るふたつ結びの長髪。細い髪。柔らかそうな頬の赤みは走ってきたからか。その
そう。
少女。
恋文の送り主はフニと同い年くらいの少女だった。
「――――」
少女が女を見つめたまま影を縫い付けられたみたいに身じろぎ一つできないでいる。見かねたマーニャがベンチから立ち上がって迎え入れ、その朱が引かれた唇を開いた瞬間、フニは聴覚を強化し二人の会話を盗み聞――こうとした。
「いや、だめだ、それは……」
あと瞬き一つもすれば魔法が起動するという寸前になって、フニは首を横に振る。魔法はそっと閉じられた。
それはあまりにも薄汚い魔法の使い方だ。そんな事をする人間が、マーニャの側にいてはいけないし、きっと彼女もそんな狡い人間からは離れるに違いない。
マーニャが今日まで無事に過ごせてきたのは、彼女が貴族の三女であり環境が恵まれていたことも十分にある。だけどそれ以上に大きいのは、彼女が常に警戒を忘れず生きてきたからだろう。
誰かから好意を向けられて、更に言えばそれを恋文という形で渡されて、それでも喜ばない人間はきっと居ない――とフニは思う。ましてや初めてマーニャが恋文をもらったのはフニと同じ一期生の頃だと言う。だというのに彼女は、まず送り主の警戒を考えた。
傷を負った狼よりも強い警戒心を持つマーニャが、自分が傍に居ることを認めてくれている――それだけでいい。それ以上に深いモノは何も要らない。
例え、自分と同じ年の少女がマーニャの隣に並んでもだ。
「……っ」
突然胸をちくりと刺した痛みに、フニはそっと目を伏せる。訳も分からない感情を放っておいて、静かに瞼を上げれば、既に二人の会話は終わっていた。
二人は手を繋いで、広場を後にする所だった。マーニャは一瞬だけ広場に視線を走らせる――自分を探してくれている。
だけど見つからなかったのだろう。
マーニャは少女と共に、陽が沈むようにその場から去っていった。
同日、二人の部屋にて。フニは今日出された課題を片付けようと机に向かってペンを走らせていた。マーニャは椅子の上で三角座りになって本を読んでいる。フニがペンを使うさらさらという音と、マーニャがページをめくる乾いた音。あとは二人の静かな息遣いだけが狭い世界で響いている。
マーニャはきっと読書に集中している。けど、自分はどうにも目の前にある課題に集中できていない。頭の中にあるのは先ほど、見知らぬ少女と手を繋いで去っていくマーニャの姿だ。
悪い想像ばかりが頭を過ぎる。息をするのも忘れてしまいそうになる。
「お姉さま……」
「どうしたの? フニ」
「あの、」
マーニャは平素と変わらない。何も変わらない。フニは戸惑う。言うべきなのか、どうなのか。本から顔を上げたマーニャはなあに? と目線だけで問うてくる。その視線に刺々しさはない。けど、何も言わないでいる。
女の、桜色のマニキュアが塗られた足の指。
足の指まで綺麗だ。
無言の間に堪え切れなくて、ついにフニは聞いてしまった。
「あの女の子と、付き合うことに……?」
「ちゃんと断ったわよ?」
「――へ」
呆けて口を開けたままになったフニに、不思議そうな顔を向けたマーニャはつらつらと言葉を並べていった。
「ちょっと前にね、図書館で迷子になってる女の子がいたの。ここの図書館ってすごく広いから、慣れるまでは大変なのよね。だから最初は寮の先輩に付き添って利用したりするんだけど……あの子はおませさんだったみたい。一人で課題のための資料を探そうとして、見つからなくて、そのうちどうやったら寮に帰れるかも分からなくなったって。そう泣きじゃくりながら教えてくれたわ」
実を言うと私も初めてあの図書館に入った時は迷子になったのよ。
そう、恥ずかし気に小さく笑うマーニャはなおも続ける。
「私はなんとか門限までに寮に帰れたけど……でも本音を言えば誰かに手を差し伸べて欲しかった。だから課題向きの資料探しを手伝ってあげて、寮まで送ってあげたのよ。――それだけ」
「そ――それだけ?」
「ええ。あの時のお礼と、もしよかったら同じ部屋になりたいって言ってくれたの。名前は聞いてなかったから、きっと書いてもわからないと思って名無しで送ったみたい」
「じゃ、じゃあ……」
フニは視線をあちこちにさ迷わせながら思考を巡らせる。ええと恋文は恋文のようであってそうじゃなく、つまり元々の前提からおかしくて……。
だから、そう、
「ラブレターではないってことですか?」
「うーん。どうなのかしらねえ」
マーニャはそう言っておかしそうに笑っている。よく笑うマーニャだが、今の笑顔はいつも以上に上機嫌そうだ。素敵なハッピーエンドの物語を読み終えたみたいに……。
「でもフニには感謝してるのよ」
「え……」
「てっきり私はいつもの冷やかしかと思って無視するつもりだったんだから」
機嫌がいい理由もなんとなく読めてきた。今日の出来事は、きっとマーニャ一人では起こり得なかった事。だから彼女はこんなにもとびっきり素敵な笑顔を、自分だけ(!)に見せてくれていて、それはつまりマーニャのためになったということでもある……。
「ありがと、フニ」
「……!!」
部屋には二人きりだ。
そしてここにあるのは、フニだけが得られたのは、マーニャという女性からの甘く優しい声。報酬としては十分すぎて、それだけでフニの腰の奥あたりがふにゃふにゃに溶けてしまう。頬が緩むのを我慢できず、ついフニは下を向いた。
「にしても」
そうやってフニがこそこそと得意げになっていると、マーニャが天邪鬼な声を出した。
「フニったらすごく慌てちゃって面白いのね。なあに? 自分と同い年の少女が告白するとは思わなかった?」
「そ、そんなことないです……!」
「言ったじゃない。私、同性からも好かれやすいのよ」
からかう口調には蜂蜜入りワインみたいな不思議な響きがある。マーニャはひょっとして上機嫌になると誰かに悪戯をしたくなる性格なのだろうか。だとしたら凄く可愛いと思う。その悪戯っぽさが自分に向けられているならもっともっと可愛いと思う。
フニはかあっと熱くなる頬を覚ますように首をぶんぶん振りつつ、でも、と小さな疑問が胸に浮かんだ。少し悩んで、この際だし、と口を開く。
「……あの」
「? なあにフニ」
「その、お姉さまって……」
確かにマーニャは同性異性関わらず好かれるらしい。それは十分に分かった。
でも、じゃあ、マーニャ本人は“どう”なのだろう。
「……付き合うならどっちがいいんですか?」
「んー」
と、マーニャは視線を宙に向けて少し考えたかと思うと、ぱたりと本を閉じて机に置く。
そしてにっこりと。
「ひみつ」
その、極上のチョコレートみたいに甘い笑顔は、すごくずるい。
フニはぷくーっと頬を膨らませて、今度こそ課題を片付けるため机に向き直る。そんなフニの耳には心地よい笑い声が少しの間聞こえていたが、やがて部屋には静かな物音だけが響くようになった。
だけどその後、とある小説の感想を言い合う二人の楽しげな声が部屋から漏れ出て、やがて灯りも消えれば静かな夜闇に葉桜が散るのみとなる。