女勇者のお供は僻み系少女   作:てりのとりやき

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旅人時代、賢い狼を拾った時のこと

 

 それは二人が旅を始めて、初夏のぬるい風が吹き始めた頃である。

 

「じゃあフニ。薪を割ってきてくれる?」

「はい!」

 

 場所はマーニャの実家――伯爵家が所有する山の中腹。手狭な山小屋である。山の中だけあってひんやりとした空気が流れており、なるほど、避暑地にマーニャが選ぶだけのことはある物件だとフニも感心していた。

 そう。避暑地。

 マーニャとフニの旅は徒歩での移動を主体としている。なので旅のし辛い夏場は避暑地でゆっくり過ごそうと二人で事前に決めていたのである。そんなこんなでマーニャが選んだのは、彼女が所有する山の管理小屋だ。山小屋の維持等を条件に夏の間だけ借りるよう実家と段取りをつけていたらしい。

 さてそんなわけで山小屋について初日。初夏といえど夜は冷えるということで暖炉用の薪割りを命じられたフニは意気揚々と山小屋の外に出た。

 フニのテンションはいつもより高い。ふんすと鼻息を荒げる彼女の脳内には、山小屋に到着して、埃をかぶった室内を見て苦笑したマーニャの一言が響き渡っている。

 

『寮での生活とはいろいろ勝手が違うかもしれないけど、二人で楽しく過ごしましょうね』

 

 ――静かな山の中。二人きり。マーニャの笑顔は独占状態。

 うん。

 うんうん……。実にいい。

 と、フニはつい上機嫌になって全力で薪割を終わらせてしまう。魔法によって一度に多数の薪を割ったのである。必要分をものの数秒で作り終えてしまったフニは、どうしようかと少し考える。

 やる気十分に外へ出た少女が、一分と経たずに薪割を終えて戻ってくるというのは、マーニャには微笑ましく映るかもしれない。そんなに山小屋での生活が楽しかったのか――なんて感じの笑顔を浮かべられたら、それはちょっと恥ずかしい。

 

「よし。時間つぶしに散歩しよう」

 

 なのでフニはその辺を散策することにした。マーニャを心配させてもいけないので、本当に山小屋の周囲を見て回る程度の散歩だ。

 マーニャの実家は、二人が今いるような山をいくつも所有しているらしい。山の裾野のはるか先を見渡せば、治めているという街が薄っすらと見えた。

 

「あそこにお姉さまのご家族が……」

 

 姉が二人いるという話だったが、会ったことはない。きっと素敵な人なのだろうと思う。彼女の母親もとても素敵な女性だった。マーニャはあまり、家族のことを話したがらないけど。

 などと遠くにある街へ思いを馳せている時だった。

 ――がさりと。茂みが揺れる。フニは反射的に振り向いた。

 尖った三角耳。

 縦長の瞳孔と太くやや長い尻尾。

 すらっとした四つ足の肢体に鋭い牙。

 野生の獣、それも肉食獣の類。かなり大型だ。

 

「……」

「……」

 

 じぃ……っと見つめ合うこと十秒弱。獣は弱々しく、きゅう、と鳴いてその場に伏せった。そのままぺろぺろと前脚を舐めだす獣を見るに、敵意はどうやらないようだ。フニも警戒を解いてその獣を観察する。

 

「犬? 狼……?」

 

 あまり詳しくないが体躯の大きさからして狼だろう。

 山の中なのだから野良の狼がいても不思議ではないが、狼とはそもそも集団で行動する合理的な生き物だったはずだ。こうやって一匹で行動する狼は珍しい気がする。

 それに、

 

「……? なんだろう、どこかで見た魔法が……」

 

 フニは目を擦る。狼の体を得体のしれない“もや”が覆っていた。この“もや”を、自分はどこかで見た気がする。そう思いながら注意深く狼を観察した。

 どうにもその狼は痩せ細って見えた。実際に野性の狼と言うものを見たことがないフニでは比較も出来ないが、目の前の狼の仕草は緩慢としていて鈍い。フニにはそれが空腹からくるものではないかと想像した。

 

「お腹、すいてるの?」

 

 と、そんな問いかける声音に狼の耳がぴくんと揺れ動く。顔を上げた狼が短く吠えた。――まるで「そうだ」と言っているみたいに。

 

「すごい。言葉が分かるんだ……!」

 

 実際に狼がフニの言葉を理解しているかは定かではないが、少女にはそんな事は関係なかった。先ほど通った道まで駆け足で戻り、木に成っていた果実をもぎ取りすぐ狼の元まで走り寄る。狼は同じように伏せったまま、恐る恐る少女が差し出した果物を怪訝そうに見つめていた。

 

「た、食べれるよ。わたしも食べたことあるし」

 

 魔法で半分に割り、一かけら口に含んで見せるフニ。瑞々しい甘さが口内に広がった。それでも狼は動こうとしないので果実を地面に置いて少し離れると、ようやく狼は果物を齧った。

 

「……!」

 

 ぶるる、と狼の太い尻尾が震えあがる。ぺろりと長い舌を垂らした狼はしゃくしゃくと果実にかぶりつきだした。その食いつきっぷりはよっぽど飢えていたんだなあとフニに思わせる気迫があった。

 あっという間に果物を平らげると、口周りをべとべとにした狼は、ばぅ、とひと吠え。尻尾をふりふり揺らしながら立ち上がる。しなやかな動きで狼はフニに近づいて、そのまま少女の脇腹あたりまである体を少女に擦り付けだした。

 

「わっ、わっ、もふもふしてる……」

 

 どうやら気に入ってくれた……らしい。頭を撫でれば気持ちよさそうに狼は目を伏せてされるがままだ。決してフニを噛んだりしない。

 すごい! とフニは丸い瞳を輝かせた。野良の獣を懐かせるなんていうのはフニがよく読む冒険小説でよくある展開だったが、まさか実際に体験できるとは思わなかった。

 しばらく狼を撫でまわして、意外にきれいな毛並みを堪能したフニ。ふと目に入った腕時計にハッとなって時間を見た。

 『ちょっと』散策をするつもりが、気付けば十分近く経過している……。未だにフニから離れない狼を名残惜しく思いつつも、フニは仕方ないかと立ち上がった。

 

「また会ったら撫でさせてね」

 

 わう? と狼は不思議そうにフニを見つめる。

 美しい琥珀色の瞳は、わかっているのかいないのか。

 フニは山小屋への帰路を駆け足で通っていった。強い日差しを遮る木陰に隠れながら小屋まで戻り、息を落ち着けながら扉を開けた。

 

「フニ。お帰り。薪、ありがと――」

 

 小屋の中で掃除をしていたマーニャが顔を上げる。鼻歌交じりの陽気な笑顔は、しかしこちらを見上げた瞬間固まった。

 朱色の唇は一言。

 

「狼?」

「――え」

 

 もふりと。

 フニの腰回りに感じた柔らかい毛皮の感触は、まぎれもなく獣のもので――そこに、先ほど別れたばかりの狼が居た。

 

「狼、よね?」

「み……みたいです」

 

 ばぅ、と狼がひと吠え。太ももに鼻頭をぶつけてくる狼にフニはおろおろしてしまう。

 

「あの、お腹……すいてるみたいで。果物、あげたんですけど、そしたらその、なつかれちゃった? みたいで……」

「ふーん」

 

 その「ふーん」に一体どんな意思が込められているのか。とてもマーニャを直視できないフニに対し、気楽な様子の彼女はバッグの中を漁っている。

 

「ちょっと待ってね~。携帯食料がまだ余ってたはずだから……と」

 

 マーニャが取り出したのは棒状に固めた栄養食だった。これ一本で人間が一日に必要な栄養素の八割を賄える素晴らしい一品で、軍用品が闇市で横流しにされたものをマーニャが値切って格安に得たものである。

 

「はいどうぞ」

 

 笑顔で包装紙を破って狼の前に差し出すと、狼は顔を近づけてくんくんと鼻を鳴らす。フニの時もそうだが、マーニャへ近づくことへも躊躇いなどは見えない。やがて狼が栄養食を齧りだすと、マーニャはその様子をにこにこと笑んで眺めながらつぶやいた。

 

「狼にしてはなんていうか、人に慣れてるのねえ」

「それにそれにっ、人の言葉もわかるみたいなんですっ」

「それは珍しい狼ねえ」

 

 やがて携帯食料を食べ終えると、狼は機嫌良さそうに尻尾をゆらゆらさせてフニの元にまた近寄った。喉をぐるぐる鳴らせてフニに体を擦りつける様は、誰がどう見ても少女に懐いているようにしか見えない。

 

「フニのことが大好きみたい」

「野生の狼なら普通は懐かないと思うんですけど……」

 

 フニとて詳しくは知らないが、野生の獣というのは警戒心が強いはずだ。餌を与えられたからとこうも懐くものなのだろうか。――などと困惑しつつも、フニは自分に体を撫でつける狼のふわふわな体を、そっと撫でまわしている。

 そんな栗毛の少女に、マーニャはにやにやと意地悪な笑みを浮かべた。

 

「一緒にいたいって顔してる」

「うぅ……」

 

 俯くフニのおでこをつーんと突くマーニャ。狼はきょとんとしている。

 

「別に反対はしないわよ。一匹くらいならどうとでもなるだろうし、元々野生の獣なら自分で狩りもできるでしょう」

 

 マーニャはこう見えて結構な金持ちだ。実家が伯爵家というのもあるが、彼女は家族から旅費の提供は受けていないらしい。

 収入源は彼女が考案した、魔法による資料整理運用法の特許――学園での卒論を転用したものだ。莫大ではないがそれなりの金額を細々と得られているため、倹約さえ心がければ二人旅は難しくない。そういう計画性の高さがマーニャの凄いところだとフニは思う。

 

「でもね、軽々しい気持ちで決めちゃ駄目だと思うの。責任を持つっていうこと。もちろん私も背負うけれど……フニ、出来る?」

「で、出来ます! 迷惑はかけないし、わたしが世話しますから!」

 

 そう言ってフニは狼をぎゅっと抱きしめた。狼は尻尾をふりふり揺らして嬉しそうに喉を鳴らす。

 賢い狼だ。こうして抱きしめても、暴れる素振りもない。興奮して噛みついてもこない。それに――ようやく思い出した。

 

「……それだけじゃないんです」

「というと?」

「なにか、呪いのようなものが掛けられているように見えるんです」

 

 そうだ。この狼の体を包んでいる“もや”は、かつてマーニャを襲った呪いと似ている。

 

「それは……前の私みたいに?」

「はい。あの時のお姉さまと関連があるかもしれません」

「私はそのときの事、結局思い出せないままだけど……」

「“犯人”が分かるかもしれません」

 

 そうだ。

 あの時の呪いは、結局『誰が』『なんの目的で』マーニャを呪ったのかが分からずじまいだった。

 この狼にかかった呪いを解析すれば、その在処にたどり着けるかもしれない。

 

「ならフニのお父様の所へ行きましょうか?」

「あ、いいえ。もうずいぶん離れてしまいましたし、わたし一人で頑張ってみます」

「そう。私も……魔法が使えたらいいんだけど」

 

 長距離を一瞬で移動可能な魔法――世界を点と点で結ぶ転移魔法や、地理を無視して移動可能な飛行魔法。それらさえあれば物理的な距離の制約など無意味になる。フニの父親によれば転移魔法は未だ研究段階にあるとのことだが、人類が究極の移動方法を得られるのもそう遠くないだろう。

 

「私は飛べないのよね」

 

 だけど、マーニャだけはそれが許されない。彼女は先天的な魔法障害を抱えている。非常に稀すぎる障害だ。一切の魔法が使えない彼女には、どんな風に世界が視えているのか。

 澄み切った黒い瞳をフニは不安そうに見つめた。

 

「飛行魔法はかなり難しい部類ですから、誰もが飛べるわけでは……」

「でもフニは出来るじゃない。ね、今度私を抱えて飛んでみましょう?」

「そ、それは……」

 

 目を横に逸らし、言われた光景を想像する。彼女の実に柔らかい女性的な肉体を抱えて飛ぶのは中々……、

 

「…………落としてしまうかもしれないので」

「そお? フニならきっと大丈夫よ」

「お姉さまは、わたしをちょっと信用しすぎです」

 

 そんなことないわよ、とマーニャは笑う。豊かな黒髪は窓から差し込む日差しで輝いている。こんなにも綺麗な人から信頼されているという、それだけの事でフニの胸は一杯になれた。

 

「さて。ならこの狼の名前を決めましょうか」

 

 ぱちりとマーニャが手を叩く。

 フニは腕組みをして考えた。狼はフニの隣で耳裏を後ろ脚で掻いている。狼。狼か……。

 

「ウル。ウルがいいと思います!」

「いい名前ね。ウルか……」

 

 よろしくね、とマーニャが狼――ウルの頭を撫でれば、ふしゅふしゅと鼻を鳴らしながら狼は撫でやすいように頭を下げた。

 さて、新たな仲間を加えた避暑地での長い休暇は悠々と過ぎていく。

 狼が発見したイノシシの頭骨をなぜかフニに献上したり、狼を風呂に入れようとしたら盛大に暴れられたり、狼が昼寝中のフニの顔を舐めてべたべたにしたり、狼の噛み癖が発揮してフニの体のあちこちに跡がついたり、マーニャが謎の対抗心を燃やしてフニを抱きしめて狼に威嚇されたり、なんやかんやあった。

 そして――。

 

「じゃあフニ。しばらく、よろしくね」

「はい……」

 

 マーニャは、大した装備も持たずにフニに別れの挨拶をした。フニは小さく俯き、隣の狼は欠伸をする。女はくすりと笑って少女の頭に手を置いた。

 

「大丈夫よ。すぐ帰ってくるから」

「……いつごろ、もどってこれそうですか?」

「三日後には」

 

 さらりと言葉を返し、マーニャは手を振りながら山小屋を後にした。

 静かになった室内でウルと二人きりになってしまったフニは、じゃれついてくるウルの『どうしてマーニャは出てったんだ?』と言っていそうな瞳に独り言を呟く。

 

「お姉さまは、ご実家でお見合いをするんですよー。それも何人もの男性と!」

 

 ――そう。お見合い。縁談。そういうやつ。

 マーニャが実家から山小屋を借り受ける際に言い渡された条件だそうだ。フニにとっては素晴らしい女性であろうと、マーニャの実家からすれば――特に彼女の姉からすると、『あちこちをふらふらしている放蕩妹』という風に見えるらしい。

 純粋に心配されているだけ、とマーニャは苦笑していた。

 

「お見合いかあ……」

 

 マーニャが笑うなら、フニとて笑顔以外の表情を浮かべることは出来ない。ウルの顔をぐにぐにと弄りながら、マーニャの縁談を想像する。

 どんな男性と会うのだろうか。

 マーニャはどんな言葉をかわし、笑顔を浮かべるのだろう。

 自分の知らない会話をする。それについてどう思うのが正しいのかは分からない。いかに稀代の天才であろうと、未だ13歳の少女には難しい。

 

「しばらく暇だし、ウルの呪いの研究でもしましょうか。ね、ウル」

 

 わぅっ、と狼は頷くようにひと吠えする。フニは嬉しくなって狼を抱きしめた。

 

「ウルは良い子ですね。わたしも良い子にならなきゃ……」

 

 ――フニは待ち続けた。

 なにかから逃げるようにウルの呪いを研究し続けて終わる日々を、フニはどうとも思わないで過ごせていた。

 一日目が過ぎ。

 二日目が終わり。

 三日目は当然のように去ってしまって。

 

 

 マーニャは、一週間経っても帰ってこなかった。

 

 

 フニはそれでも解呪の研究に没頭し続けた。少女は自身でも意外なことに、マーニャが約束の期限を過ぎても帰ってこないことをこれっぽちも気にしないでいられた。自分は鋼鉄なのだと思い込めた。

 

「これは……やっぱり……お姉さまにかけられていた呪いと同じ……」

 

 狼は、ひたすら研究に没頭する少女を、座った姿勢でじっと見つめている。まるでフニが何をしようとしているのか理解しているような静けさに、少女はぼんやりとした予測が的中しているという確信を得つつあった。

 

「いける。解呪は可能だ。なんだ――こんな簡単な方法なんだ」

 

 乱雑に結っただけの髪を指で梳く。マーニャがいなくなってあまり自分の事を気にしなくなったせいか、枝毛が増えたような気がする。自分は彼女のように自分を制することもできそうにない。

 出来るのは、こういう地味な作業だけ。『彼女のためになる』と言い聞かせて目の前の事に集中するしか出来ない。――それでいい。

 

「【縁を(サー)】」

 

 この解呪に、複雑な魔法言語は要らない。積層燃焼法も、魔力物質化も、粒子干渉も、求められてはいない。この解呪に必要なのは幼稚すぎるくらい単純な――単純な感情を乗せるだけ。

 フニは魔力や魔法を視認可能な瞳……“魔眼”を持たない。対魔戦闘に特化した魔装化歩兵の中には手術によって後天的に魔眼を得る者も中にはいるが、フニは必要とは思わない。

 そんなものがなくとも自分は間違いなく最強だからだ。

 

「【辿り(エトゥ)】」

 

 だが、いやだからこそか。

 ――魔法は、編んだ者の思想が乗るという。

 

「【紐解いて(クレラ)】」

 

 愛を説く者は愛情で魔力を燃やす。

 殺意で振るう攻性魔法は感覚的にはドス黒い。

 それら感情が振りまく魔法群を、魔力を可視出来る者達ははっきりと感じ取る……らしい。理論でしか魔法を使った事のないフニには分からない事だ。

 まあつまり。

 この呪いには――瞳を持たないフニにすらも強く感じられる感情が込められている。

 “闘争”だ。

 戦意。戦争への強い意思。戦いたいという純然たる感情。

 殺意ではないし愛情でもない。これはそういう激烈すぎる感情のみで編まれた魔法だ。

 

「【孵化(リイン)】」

 

 呪いを外す魔法が起動する。狼の体を縛り付けていた強制力が一気に溶けた。

 そして。

 四足歩行の肉体は、膨張を開始する。

 

「――」

 

 肉体から毛が抜け落ちた。

 前脚二本は長く、細く。後脚二本は柔らかく、強く。

 胴は肋骨と胸骨で支えられた雄々しく真っ直ぐな人のそれへと。――そして豊かな乳房がふたつ。性別は女。

 細長い獣の顔は、骨格ごと歪んで人のものへと変じていき。だけど凛々しい顔立ちで瞳を伏せる。

 唯一変化しなかったのは、頭頂に残った狼らしい獣耳二つと、臀部より生える太くて短い尻尾。獣耳と尻尾を有す亜人の女に、フニは直感から言葉を漏らした。

 

「――――魔物?」

 

 灰色の長髪を真っ直ぐ床に垂らした女は、ゆっくりと瞼を上げる。ぴくぴくと三角の獣耳が揺れていた。

 

「戻った? のか……?」

 

 動揺をあらわに自信の裸体のあちこちを触る狼女。尻尾はびたんびたんと床を叩く。そしてぽかんと口を開けたまま身動きが取れないでいるフニを真正面に見下ろす。

 女はフニよりもかなり背が高かった。それは、女が屈んだ姿勢を取っていてもフニを見下ろす形になるほど。

 

「……! ふ、フニかっ?」

「そ、そういうあなたはウルなんですか?」

「そう……そうだ、ウルだ」

 

 偶然かもしれないけど個名なんだ。

 

「母上があたしに与えたあたしの証明。あたしはウルだよ――血種覚醒(ミシンテス)000(ネーモ)=ウル!」

「え、え、え?」

「やっと喋れる! ずっとフニに言いたい事があったんだ!」

 

 裸体のまま。女は耳をぴんと立てて目を弧にする。蕩けたような笑みにあるのはマーニャが浮かべるよりも遥かに濃い“愛情”。ぬるりと近づく女の、マーニャとはまったく違うがっしりとした体格に――気づけばフニは抱きしめられてそのまま床に押し倒されていた。

 

「え、ちょ、あの」

「フニ! フニ! フニ! フニ!」

 

 女の骨ばった裸体がフニを覆う。大きな熱で包まれる感覚に、言い表しがたい不明瞭な感情が沸き起こる。

 なんだ。なんなんだ。

 一体何が、

 

「好きだ結婚してくれ――――!」

 

 ?

 

 

 

 

 

 

「――十日か。ずいぶん時間がかかっちゃったわね」

 

 やれやれとマーニャは首元のネクタイを緩めた。薄らと浮かんだ汗をハンカチでぱたぱたと扇ぐ。じいじいと鳴くセミの声は、山に入ることで余計に強くなったように思う。

 こういう時、魔法が使えれば冷却魔法で適度に体を冷やせるんだろう。

 

「手紙を出すのも許してくれないなんて……」

 

 実家――特に姉の事だ。十何年ぶりに実家へ帰れば、いっそ軟禁といってもいい扱いを受けていた。

 二人いる姉の内ひとり、長女のジーニャはやや偏愛がすぎる。心配されすぎるのは慣れていたが、今回は特にひどかった。やれ縁談だ、やれいい男を揃えたから自由に選べだと、さすがにマーニャも辟易とする時間だった。

 

「フニ、元気にしてるといいんだけど……」

 

 どうにか縁談をきっぱり断って、長女も説得して、ようやく山小屋に戻れたのがフニと別れてから十日目の今日。三日で帰ると言っておきながらこのザマだ。フニが心配なマーニャは早足で山小屋へと繋がる斜面を歩き出す。

 そして雑木林を抜けた先の道へ入った時だ。

 見た先、人影がひとつあった。

 

「――誰」

 

 そこにいたのは線の細い、細すぎる女。

 麦わら帽子に白のワンピースという、実に夏らしい格好をした女だった。

 黒くそして長い髪を携えたその女。マーニャとは違い起伏の薄い体つきをした女は、うろんげに帽子の奥からこちらを覗く。

 

「何か」

 

 氷のように冷涼で、女声にしては不思議な魅力をもった低い声音。初夏の透明な熱気とセミの鳴き声を貫くようなその一言に、マーニャは一瞬だけ体を硬直させてしまった。

 ――どこかで、聞いたことがある、気がする。

 

「ここは私有地なんだけど……」

「私有地」

 

 女がマーニャの言葉をなぞる。麦わら帽子の奥に隠れた表情は、微動だにしていない。

 硬質な黒髪の隙間から、ちろりと黒い眼がこちらを見つめている。

 

「それは、この山一帯をどこかの氏族が所有していると、そういうことか」

「え、ええ、まあ……」

「そうか。それは悪いな。それでも行かせてもらうが」

「えっあっ……ちょっ、ちょっと」

 

 女はずかずかと坂道を登っていく。枯れ枝のように細い体つきだが、その足取りは力強いものだった。何の迷いもない歩き方にマーニャの方が戸惑ってしまう。慌てて女に声をかけた。

 女が振り向く。針金のような黒髪は硬質に揺れた。

 

「何か……目的でも?」

「――はぐれた犬を探している」

「犬?」

「これくらいの大きさ……だったと思う。何週間か前、少し目を離した隙にどこかへ行ってしまった」

 

 女が手で表したのは、彼女の腰程度の高さだ。それはマーニャが十日前までよく見た動物と同じ高さでもある。

 

「その犬って毛色は灰色かしら?」

「ああ」

「尻尾はこう……太くて短い?」

「そうだが」

 

 だとすると、やはり……なのか?

 

「その犬……というか狼? 私が住んでるところで預かってるわ」

「……本当か」

 

 女は目を丸くした……ように見えた。麦わら帽子に隠れた表情はよく見えず、陰っているように感じてしまう。だけど悪い人には見えない。そう、マーニャの勘が告げていた。

 

「よかったら道案内でも」

「……」

 

 柔和な笑みでそう言えば、女はそっと細いあごに手を添えた。考え込む仕草のまま、麦わら帽子の隙間から上目遣いがこちらを覗く。

 

「出来れば頼みたいが。一体何を求めている?」

「求める、って?」

「今の私にはお前に差し出せる対価はない。払えるとしたらまあ……私の体くらいか」

 

 ――やれやれ。これが自由か。

 などと言いながら女はワンピースの肩紐を外す。質素な下着と、それに覆われた薄い胸が丸見えになった。

 初夏の、山中にあって尚強い日差しが女の白い肌を照らし出す。皮膚の下の青い血管すらも透けて見えるほどの病的な白だった。マーニャは突然の行動をついまじまじと見てしまって、女が無言のままワンピースを脱いでからようやく疑問を口に出来た。

 

「なんで脱ごうと……?」

「私に払える対価は、今のところこの身一つしかない。つまらない体だが一応は女だ。価値はあろう。――他に理由はないが」

「…………」

 

 変わった人だな。と、マーニャは心の中だけで呟いた。独特な価値観で生きていて、それを通す意思がある。こういう人は信用に値するのだとマーニャは経験論から知っていた。

 

「対価なんていらないわ。私がしたいからそうするのよ」

「……度し難いな、人間」

「どうする? 道案内は不要かしら」

「いや、そうだな。頼もう」

 

 そういうわけで、マーニャは女を連れていくことにした。木々の影が生む冷たさの中で、マーニャは興味心から女に問う。

 

「あなたは旅人?」

「そう見えるか」

 

 女はマーニャよりもやや背が低い。一体何歳なんだろう。同じくらいの歳に見えるが。

 ふいに吹いた強い風で麦わら帽子が飛ばないよう、両手でそっとつばを抑える女。自分の体を見下ろしてから、女は顔を上げた。冷たい横顔のまま言う。

 

「そうだな。旅みたいなものなんだろう。私はじきに、外出もままならない職に就く。その前に少し自由になってみたかったんだ。探している犬はその供にしていた」

「ならもっと素敵な場所へ行けばいいのに。こんな、何にもない場所なんてわざわざ選ばなくても」

 

 マーニャからすると、ここら一帯には何もない。著名な芸術品もなければ美しい城もない。文化的に価値あるものは何一つなく、あるのは自分の実家だけ。嫌いでもないが楽しいとは思えない土地だった。

 対し女は小首を傾げていた。

 

「そうか? ここには調和がある。自然とは循環だ。弱者も強者も等しく骸となって寄り添う何者かの糧になれる」

 

 道の傍らでは寿命の尽きたセミが地に落ちている。そこにアリが集っていて、そんな光景を実に興味深そうに女は見つめている。

 

「それは貴いことだろう。私には遠すぎる」

 

 何に対して『遠い』のか、女は語らない。不思議な人だなあとマーニャはしみじみ思った。しばらくそうやって彼女の独特な価値観について訊いていると、あっという間に山小屋の前に着いてしまう。

 

「ついたわ」

 

 小屋の外観に変化はなかった。しいて言えば、雑草がやや伸びているかな? 程度だ。

 

「これは……家、か?」

「ええ。まあ、山小屋だけどね」

 

 女はおっかなびっくりという風に山小屋の壁を撫でている。

 

「フニー。ただいまー。帰ったわよー」

 

 マーニャは気取って笑顔を浮かべながら玄関扉を開いた。きっと、不安そうなフニがそこには居るに違いないと思いながら。そんな少女を安心させるために。

 だが。

 

「フニ?」

 

 室内に、誰もいない。椅子。机。暖炉。キッチン。大きめのベッドが一つ。静かな空間だけがそこにはあった。

 

「おかしいわね。待っているようにと言ってあったのに。どこかへ出かけているのかしら」

「他に誰か住んでいたのか」

「ええ。女の子とね、旅をしているの。ここへは避暑のつもりで」

「……」

 

 女は室内をじっくりと見回した。やがて重い口を開く。

 

「どうやら酷く乱暴な出かけ方をしているようだな」

「え、そう? 私には何も変わらないようにしか……」

「――お前、素人か?」

 

 女が初めて声音に明確な感情を乗せた。呆れだ。無知を嘆く響きに、マーニャは目を瞠る。そんなマーニャを放っておいて、女は続ける。

 

「追うぞ。闘争の匂いがする――これは楽しい匂いだ」

 

 にへらと笑う女はさっさと踵を返して小屋を後にする。マーニャはその、実際以上に高く見える背中を追う他なかった。

 にしても、と思う。

 フニはどうしているのだろう。心配だ。

 

 

 

 

 

 一体何がどうしてこうなったのか……。

 フニは穴倉の中で首を傾げるばかりである。

 

「フニー!」

 

 と、穴倉に飛び込んでくる女が一人。獣耳と尻尾を有する灰色の髪をした女は、名をウルと言う――らしい。

 

「お、おかえりなさい」

「ただいま!」

 

 ウルはにこにこと、本当に嬉しそうな笑顔でフニを見つめる。愛情しかない笑顔はどうにも落ち着かない。マーニャの服を勝手に着ている女(というか裸だったのでフニが着せた)は、狩ってきた野兎も放ると、いきなりフニに抱きついてきた。

 

「苦しいんですけど……」

「ふへへ……」

 

 こうしてウルに抱きつかれるのにはいい加減に慣れた。大人の女の姿をしても、中身はすぐに近づいてくる狼と変わらないのだ。むしろ呪いを解いたことでより面倒くさくなっている気がする。

 フニは抱きしめられることを諦めつつも訊いてみた。

 

「あの、もうそろそろ帰してくれませんか?」

「だめだぞ」

「だめなんですか……」

 

 即答である。自分はどうやら監禁されているらしい。フニがこの穴倉から脱出を企てると、一体どういう力を使っているのかウルはすっ飛んでくるのだ。彼女の身体能力は高く、そしてあんなに懐いていた狼ということもありフニは強く出れないでいた。

 そうこうしているうちに三日もこの穴倉で生活している。食糧はウルが捉える鹿や兎で、それらを調理するのがフニの役目だった。

 

「お姉さま、元気かな……心配してないかな……」

 

 野兎の血抜きをしながらフニはそんな独り言をする。尻尾を揺らしながらウルが首を傾げた。

 

「フニはマーニャの方が好きなのか……?」

 

 ぅ、とフニはつい口ごもってしまう。頬が赤くなり血抜きの作業も止まる。

 ウルは事あるごとにそういう変な質問をしてきた。フニはもじもじ指と指をつつき合わせるばかりだ。

 

「す、好きとかそういうのじゃ、ない、です……けど……」

「それはおかしいっ」

 

 ウルが頬を膨らませる。尻尾がばたばた揺れた。

 

「私はフニのことが好きだし、ずっとそばに居たいと思うし、もちろんフニを抱きたいぞ」

「だ、抱くって……」

「そういう欲も含めて好きじゃないのか?」

 

 あけすけな物言いには何も言い返せない。顔を真っ赤にしてもごもご口を動かすだけのフニに、ウルはなおも続ける。

 

「愛は子を成してこそ意味があると母上は言っていた。それが本能だって」

「それはまあ好きにすればいいですけど……」

 

 て、ていうか。

 

「そもそもわたしとウルじゃ子供は作れないと思うんですけど」

「何を言っているんだフニは、馬鹿だなあ」

「ウルに馬鹿にされると無性に腹が立ちますね……犬ころのくせに……」

 

 むかっときたフニは穴倉で咲いていた猫じゃらしを手に持つ。するとウルの尻尾と獣耳がピンと跳ねた。

 

「!」

「……」

 

 ウルがじっと猫じゃらしを注視する。フニは無言でそれを素早くかつ機敏に動かした。シュバババババ! ウルは言葉にならない叫びと共に猫じゃらしを捉えようと拳を繰り出す。早い。しかしフニの手さばきはその上を行く。

 別にウルは猫ではないし狼女なのだが、フニの相手をしてもらえるとなると何でもいいらしい。数分間すさまじい動きを続けたウルは、額に汗を浮かべながら満足そうに笑っている。

 

「ふへへーフニと遊べたー」

「……」

 

 この人、何歳なんだろうな、とフニは半眼になりつつ思う。その骨太さと筋肉のせいで硬い感触の体も、高い身長も、幼い精神性も、まるでマーニャとは違う。真逆だ。

 そんなウルとの生活に嫌悪感が湧き起らない自分は一体どうしてしまったのだろうかと、フニは自分自身を疑問に思う。

 

「じゃあどうやって子供を作るのか教えてくださいよ」

 

 諦めがちに――ついでにちょっとした好奇心から――フニは、そんなことを訊いた。

 

「そりゃあ……魔力をより合わせるんだよ」

「魔力、を?」

「ほかに何があるんだ?」

 

 ――魔力に色があるのは知ってるだろ? え? 知らない? 人間ってのは本当に何も知らないんだなあ。いいぜ、ならあたしが教えてやる。あたし達が使う魔力ってのは使用者によって色が違うんだ。世に同じ色は一つとしてないと言われている。あたしなら灰色、フニなら漆黒、母上は虹色、マーニャは……無色透明かな。あれは魔力に嫌われてるんだろうなあきっと。

 でだ。

 この、万有不一致の魔力色を、あたし達は番同士でより合わせ新しい色にする。――そうして命を創る(・・)んだ。

 

「ま、待ってください」

 

 フニは頭痛を覚えて額を抑えた。あまりにも違う別次元の会話内容に、さすがに理解が追い付けない。

 

あなた達は(・・・・・)、魔力を合成することで子を作るんですか……!? 合成した魔力――いいえ、自己(・・)増殖(・・)する(・・)極小の(・・・)魔法(・・)を、子宮内で育てて……!?」

「フニって本当に何も知らないんだなあ。人間って、みんなそうなのか?」

 

 無知を呆れた様子で笑ったウルは、尻尾を揺らしながら尚も言った。

 

 

 

「あたし達は、母胎で子供を育てない」

 

 

 

 ――隔絶、している。

 フニは想像を絶して違い過ぎる生き方を、どう捉えればいいのかも分からない。

 

「それは……」

「あたし達の中に純血種はいない。全員が全員、雑種強勢により生き延びた雑多すぎる混血種。だから生まれる子が、親の性質を継ぐとは限らない。血に混じった古くそして強い遺伝に――八大純血種に覚醒する者もいる」

 

 鋼人(ハンナストリチウム)

 原鬼(ヒュッケンオゥガ)

 水母(ユークスタシア)

 翼竜(ドラゲリウヌ)

 騎馬(サジタリオ)

 霞幽(メフィス)

 淫魔(ザネクラア)

 死鳥(ネフティス)

 これら八つに覚醒した者は一際強く、それだけ価値がある、とウルは言った。

 

「中には母胎よりも巨大な赤子として産まれる場合もある。だからあたし達はもうずっと昔から子宮の外で妊娠から出産までを繰り返し続けているし、そういう技術と施設を持ってる。安全安心で清潔な空間で子供が出来るんだ。すごく効率的だと思うんだけど――フニ、何がおかしいんだ?」

 

 気づけば自分でも理解できない表情をしていたらしい。心底不思議そうにこちらを見つめるウルの顔に、疑問はない。

 彼女は、人間の生まれ方を、知らない――。

 フニは震えた。怖くなった。

 この、あまりにも違い過ぎる別種の存在が言う“愛”とは何なのか、それが恐ろしい。

 

「愛情とか――ないんですかっ」

「愛って……そりゃああるけど」

 

 なあフニ。

 

「愛っていうのは、より強い次世代を育てるための情だろ」

 

 フニは、ようやく彼女を、ひいては彼女たち(・・・・)を指すべき言葉を理解した。

 “効率化”だ。

 合理的と言ってもいいかもしれない。非効率を排し、より効率的に生きる。そのためには自身の感情すらも調整して文化にする。フニは恐ろしさで肌が泡立つのを止められない。こんな者達を相手にずっと戦争をしているのだ、人類は。

 非効率こそを是としている人間とはあまりにも違い過ぎて、フニは衝撃から抜け出せない。そんな少女を愛おしく抱きしめて、ウルはまたフニを押し倒す。

 

「だからフニなんだ」

 

 ウルがフニに頬ずりをする。触れあう頬と頬の熱。

 

「だからマーニャはだめ(・・)なんだ」

 

 見下ろしてくる、熱っぽい灰色の瞳。愛を塗した、けれど全く違う感情でこちらを見る狼女の眼差し。

 

「フニ。あたしと子――――」

「見つけたぞ」

 

 声は、突然。穴倉の入り口付近から。

 振り返る。そこには黒髪の細い女がいた。ウルの尻尾の毛が逆立つ。

 

「げぇっ! は、母上!?」

「えっお母さん!?」

 

 驚愕はまだ続く。黒い女の背から現れたのは見知った美女。十日ぶりに見る、ずっとずっと会いたかった人――。

 

「フニ!」

「お姉さま!」

 

 その瞬間フニの頭の中にはマーニャのことしかなくなった。

 覆い被さるウルを魔法で押しのけ、そのままマーニャの胸元に飛び込む。抱きしめ合う二人を見て、ウルがぐぬぬと顔を歪めた。

 

「ま、マーニャー! あたしからフニを奪うのかー!」

「元々わたしはお姉さまと一緒なんですー!」

「あんなにお風呂にも一緒に入ったのに……! あたしの体をあんなに撫でたのにー!」

「お前は黙っていろ。事態をややこしくするな」

 

 重い溜息を吐いた女。混迷を極める穴倉の中で唯一冷静な彼女に、ウルは決意の表情をした。

 

「母上! あたしは生きる意味を見つけました!」

「面白いことを言う。まだ10歳の小娘の癖に」

「えっわたしより年下なんですか!?」

 

 いっぺんに色んな事が起きるせいで、フニには何が何だかよくわからない。それはフニを抱きしめているマーニャも同じらしい。ウルと女が対峙するのを、二人で見守る他なかった。

 

「親に歯向かうか。それほど強くなったとでも?」

000(ネーモ)を……新種の可能性を舐めるなよ」

 

 ウルが、屈んだ姿勢のまま両足の筋肉を膨張させる。軋み、歪み、撓み、溜められた力は、空間が歪む錯覚を産むほどに凝縮され。

 爆ぜる。

 足元を砕き、穴倉中に破片を散らして、ウルが秒の隙間を縫う程に速く跳躍。それは瞬間的に視覚強化を施したフニの両眼でさえ補足不能な超人の速度。空気の層すらぶち抜くその速度のまま突き出された拳は、間違いなく女の体に風穴を作る――はずだった。

 

「【沈め】」

 

 言葉は、現象となって発現する。女が成したのはたったそれだけだ。たったそれだけで、ウルが失速。地面へと叩き落された。

 まるで……その部分だけ重力が増加でもしたかのような、異様な光景。

 ぴくりとも動かなくなったウルに目もくれず、女がフニとマーニャの方を向く。

 フニは悟った。

 ――来る(・・)

 

「私の娘が世話をかけたな――【少し眠るといい】」

「――」

 

 フニの全身に震えが走った。魔力、魔法に慣れ親しんだ肉体だからこそ走る、本能の警鐘。無数の防護魔法が一斉に組まれ起動する。

 させるものかとフニは思った。

 自分は別に構わない。どうなろうがどうでもいい。意味も分からないまま死ぬことへの恐怖はない。――だがマーニャだけは。彼女だけは、違う。生きる価値がある人だ。

 守らなければ、という強い感情が、強固な魔法を神業の域で編む。

 

「【境鏡(ネシス)】!」

 

 輻輳多重防護魔法――精神を害す魔法への絶対的な障壁は、マーニャの体を覆った。

 だがそれがフニの限界だった。

 急激な睡魔が少女の全身を襲う。立つ事すら不可能な眠気に抗うことも許されずに、フニは眉間に皺を寄せながらも目を瞑ってしまった。

 

「お姉さま……逃げ……」

 

 言葉はそこで止まってしまう。穏やか過ぎる寝息は、すぐに。

 少女の体を抱き支えながら、マーニャは悠々と立つ女を睨む。

 

「フニに何をしたの」

「眠らせただけだ。害はない。お前にも眠ってもらうつもりだったが、そこの小娘が随分と分厚い防護障壁を張ったようだな」

「…………」

 

 饒舌な喋りは、戦闘で高揚したからなのか。

 魔法ですらない強烈な“力”。

 異様な存在感。

 明らかに人外の女を娘と呼んだ事実。

 マーニャの脳裏には小さな疑問と、それを確信にまで結ぶ証拠が浮かんでいる。

 

「あまりそういう目をしない方がいい。安易に踏み込めば命はないと思え」

 

 女は怜悧な言葉を選んでいる。そうマーニャは感じた。

 分かりやすい脅し文句だ。振るうつもりのないナイフをかざしているのと何も変わらない。

 だから、一歩前に踏み込んだ時だ。

 

「おかしな生き方だな。お前、魔法が使えないんだろう」

 

 マーニャの動きを止めるには的確過ぎる一言だった。女は小さく唇を歪める――笑う。

 

「生き辛いか、その肉体は」

「……そうでもないわよ。息をするのも、楽しいもの」

「肺の膨張と収縮を自我で行うなら苦痛しかあるまい」

 

 鼻を鳴らす女は肩に担いだ狼女も気にせず、愉快そうに目を細める。

 

「弱者らしく振舞うつもりがないようだな。だが強者と粋がるわけでもなく、しかし易々と死線を潜ろうと歩を進める。飛べないのに、走れないのに、遠きを求める瞳をする」

「どこへも行けないわけじゃないわ。私には足がある。歩くことはだけは出来る」

「では自衛がために何を持つ? その命を守れる力はどこだ?」

 

 女が苛立っているのをマーニャは感じていた。いったい何が琴線に触れたのか分からない。だけど女は、間違いなく、マーニャという女の存在自体に苛立ちを覚えている。

 それはマーニャが触れる未知の感情だった。自分を視る奇異の視線には慣れた。愛情をぶつけられることにも慣れた。だけど、女が示すような単純すぎる感情は、知らない。

 

「その身ひとつで何を救える。何を守れる。何なら成せる――お前の生に一体どんな価値があると言う」

 

 だからだろうか。

 きっと目の前にいる女が、息をするのと同じくらい簡単に自分を殺せると理解しても尚、マーニャは恐怖を感じなかった。

 未だに直感は告げている。

 ――悪い人ではない。

 

「歩けるからと生きているつもりか。生の証明を? たかだか歩行で? ……くだらんな」

 

 饒舌に喋りながら女は気絶している狼女を路傍に捨て置く。視線はこちらを真っ直ぐ見据えたまま、ゆらりと。

 女の体が瞬間的に掻き消え。

 

「こんなにも――」

 

 気づけば。

 目の前に、女の人差指が。

 額に、

 

「――こんなにも脆い弱者が、どうして呼吸を許される」

 

 強い力は感じなかった。痛みもない。

 だけど気づけば自分は地面に転がっていて、目の前には女が一人覆い被さっている。麦わら帽子は勢いで外れていた。

 ――押し倒された。それもたった一本の指に。

 

「逝きたいなら戦場で()ね。雑兵だろうと英霊として敬われよう。それが善い生き方、善い死に様だ」

「……」

 

 間近で見つめる女の顔は、美しい。

 この世のどんな骨とう品よりも。芸術的な絵画よりも、宝石よりも。何よりも。

 黒と白だけで構成された色のない美にマーニャは自然と言葉を漏らしていた。

 

「あなたはふしぎな人ね。とても鋼鉄で、とても荒々しくて、なのにすごく冷たい目をしていて」

「価値観が違うだけだ。お前と私では相互理解など不可能だろうよ」

「そんなこと……」

 

 手を伸ばす。忘我のまま動かした手は女の頬に触れた。ひんやりと冷たい肌は、人よりもかなり体温が低い。だけど不思議な熱を孕んでいる。

 

「こんなに暖かい体をしているのに……」

「……」

 

 女はマーニャの手を拒まない。静かに、だけど明確な敵意でこちらを見下す。

 そのまま、どれくらいの時間が過ぎたのだろう。マーニャと女は見つめ合ったままで居続けた。やがて「ううん……」と狼女の呻き声が聞こえてきて、ようやく自分が居る場所を自覚する。

 女が体を起こせば、マーニャも合わせて立ち上がる。そうして狼女を再度担ぎ直し、無言のまま去ろうとする女に、マーニャは尋ねた。

 

「名を、教えてもらっても?」

「……」

 

 女は応えない。長い黒髪に隠れた背中を見せたまま身動きもしない。

 だが、首だけを巡らせて、こう言った。

 

「ハンナストリチウム・ヒュッケンオゥガ・ユークスタシア・ドラゲリウヌ・サジタリオ・メフィス・ザネクラア・ネフティス=血種覚醒(ミシンテス)103(チィ・ゼルツォ)=キサナド」

 

 今は亡き偉大なる純血八大氏族と、猥雑なる全氏族の血を受け継ぐ者。

 究極混血。

 個名を、キサナドと言う。

 

「長い名前だろう。そういう風習だ。私たちは、その身に顕れたより濃き純血氏族の名を得、混血数(ミシンテス)を誇りとする」

 

 知らない文化。

 知らない風習。

 知らない価値観。

 未知の存在が目の前にいる――。マーニャの心臓がどくんと跳ねる。

 言葉は興奮のまま溢れ出た。

 

「まさか――やっぱり、もしかして! あなたは……」

 

 だけどその時だった。

 鋭い頭痛がマーニャの頭を襲った。脳へ直接針を突き刺されたような痛みに、口が止まる。そして何かが流れ込んでくる。

 

「……!?」

 

 覚えのない笑顔。記憶にない言葉。

 聞いたこともない名前。

「私はゴミだ」と卑下するフニ。

 それでも超然と笑う自分。鋼鉄の魂を持った二人がそこには居て。

 

「違う。違うわ」

 

 ――ココデハナイ何処カ。

 ――ドコデモナイ遠ク。

 

「キサナドじゃない……あなたの名前を……あなたは…………あなたと……私は……どこかで、玉座で──?」

 

 強いられたのが自分。

 選ばせてしまったのはフニ。

 少女が見せた涙の温さを知っている。触れた唇の柔らかさを覚えている。奪ってしまった未来の重みも。選択には責任が伴う。失敗は許されない。人ひとりの人生をふいにしてまで選んだ道から転げ落ちることなど、決して、許さない。

 私は勇者で。

 あなたはそのお供で。

 世界は異種との戦争をしていて。

 であれば、

 ならば、

 未来には、

 あるべきは、

 

 

 

 

 比類なき栄光の極致――人と魔の共存。

 

 

 

 

 血を……交えるということ。

 文明を理解し合うということ。

 相互不理解を越えるための、

 

究極混血(パンネクウネ)……」

「【そこまでだ】」

 

 言葉は不思議な力を蓄えていて、マーニャの脳内に浮かんでいた光景が一気に霧散した。

 引き戻される。現実に。

 顔を上げれば、そこには忌々しそうにこちらを見つめるキサナドが居る。

 

「……それ以上を問うなら、空気ごとすり潰す」

 

 こちらへ向けた敵意ではないような気が、した。そして彼女が敵意を向ける“誰か”を、自分は知っている気がする。

 

「ねえ。私たち、どこかで会わなかった――?」

「知らんな。記憶違いだろう」

「でも……いいえ。絶対に会っているはずなのよ。変かもしれないけどそう確信できるの」

「少なくとも、私は(・・)知らん」

 

 言葉は硬質だ。拒絶の意を示す断定の口調。マーニャが口を開くよりも先にキサナドはなおも言う。

 

「私たちは出会わなかった。名乗らなかった。それでいいな」

 

 悔しいがその通りなのだろう。

 彼女達との対話は有史以来不可能だとされていた。そして、そんな者達の長がここにいて、そして出会った事実を忘れようと提案している。それだけの知性があるということ。――話したところで誰も信じないだろう。

 きっと、フニでさえ。

 

「……そうね。そういう事にした方が、いいんだと思うわ」

 

 でも、忘れないでほしいの。

 

「私は、不便さを悔やむことはあっても、『生まれなければよかった』なんて思ったことは一度としてない。――勝手にあなたの価値観で私を決めつけないで」

 

 だからね……とマーニャはそこで口を閉じなかった。

 思い出すのはつい先ほどのこと。簡単に押し倒されて、抵抗ひとつできなかった自身の弱さ。弱さこそが自分だとマーニャは考える。その弱さを許してくれる世界でなければ、きっと自分は死んでいる。

 キサナドのような生き方は出来ない。――けれど羨ましい。強すぎて、自分には出来ないからだ。

 

「あなたの生き方も、そう在り続けられるならとても素敵だと思う」

「――――本当に、度し難いな」

 

 女の口元に浮かぶのは明確な笑みで。だから彼女の問いにはすぐに答えていた。

 

「お前、名は」

「マーニャよ。マリアジュエ・イーニア・ベネティード=フィフス」

「マーニャ……か」

 

 ふん、とキサナドは鼻を鳴らした。笑みを消すと、やはり感情の乏しい表情でマーニャを見やる。

 

「その名前、響きは嫌いじゃない。良い名をもらったなマーニャ」

 

 誉め言葉として受け止めよう。

 女は長い黒髪を翻して、背を向ける。伸びている狼女を担ぎ直して、さっさと斜面を下っていった。

 初夏の日差しは鈍く、強い。山中の涼しい空気の中でもぐつぐつと煮えたぎる熱気にマーニャは脳奥まで揺らしながら、誰もいない下り坂をぼんやりと見つめる。

 

「キサナド……魔王、か……」

 

 またいつか、会う気がする。そう、なんとなく思った。

 

 

 

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