それは二人が魔王領への潜入を終えてから、すぐの事。二人は久々に王都に――王城に居た。
「お姉さまーっ!」
赤く艶やかな毛並みの絨毯。豪奢な調度品の数々。しつこくない明るさのシャンデリア。空間どころか空気まで荘厳なそこは、王族への謁見を求めた者が、王族に許可されてようやく入室可能な特別応接室である。
そんな応接室に響き渡る喜色に富んだ声。マーニャは扉を開けた金髪の少女に微笑みかけた。隣に座るフニの目はやや暗い。
「あ、今は勇者さまとお呼びすればいいのかしら……っ」
マーニャの完璧な表情に少女は恥じらいを感じたのか口元を手で隠してしまう。少女が、こほんと一つ咳払い。
「お久しぶりですね!
「ええもちろん、プリンセス・アリア。また一段と素敵になられましたね」
「えへへぇ……」
この国の第一王女、アリアンデート・アル・マグナ・フュッケスーーアリアは横髪の房をくしゃくしゃにいじりながら、王族らしからぬ蕩けたような笑みになった。
アリアとの出会いは一年ほど前だ。学園を卒業し二人で旅を始めた頃、王都で出会い、これまでもその縁は続いている。
にこにこ笑顔のまま応接室に入ってくると、二人の向かいの席にそっと座る。そういう仕草は上品で、何もしゃべらなければ確かに王女様だ。
「フニさんも! お久しぶりですっ」
「……どうも」
愛想良い笑みにも栗毛の少女は小さく会釈するだけ。溌剌とした王女様とは対照的な、どんよりした丸い瞳。そんな二人の違いをけらけらと笑うのは、アリアの後から部屋に入ってきた初老の男性だった。
「お嬢ちゃんたち、飴ちゃんいるかいー?」
軍服に身を包み、大量の勲章を煌びやかに付けた老人の名を、ケド・カサルル・ホルルと呼ぶ。魔物と数百年戦争をしている人類の英雄、“軍神”その人である。――彼とは温泉街で知り合った。こちらも軍での会議などでたまに顔を合わせる知り合いだ。
「ケド元帥。お元気そうですね」
「あっはっは。いやあお嬢ちゃんに言われると若返るなあ」
「――それに、あなたも」
「……ふん」
次いで入ってきた三人目は若い女だった。同じように軍服を着ているのは正式な場だからか。“魔法殺し”の異名で呼ばれる茶髪の女は、ケドの孫娘であり第一王女の護衛役でもある。アリアと出会った際に初めて知り合い、不思議なことにそれからも何度か話す機会がある。ちなみにマーニャにはやや冷たい。
「こんにちは」
第一王女の後ろに並んだ二人に、フニはそう言う。“魔法殺し”は困惑した様子で頬を掻き、フニから目を逸らした。
「……こんにちは。君が無事でよかった」
「ええ。あなたも」
「まあな」
なんで私には冷たいのかしら……。などとマーニャは不思議そうに首を傾げるが、“魔法殺し”は相変わらずフニにだけ優しい。自分の知らないところで何かあったのだろうか、過去に。
彼らは少しの時間を和やかに過ごした。近況の報告や、面白い出来事など、話題には事欠かない。やがて……。
「――やあ」
声はしばらくしてから。声の主を見たフニの目が明確な憎悪を見せ、マーニャの笑みは更に美しくなる。
その、サングラスで目元を隠す若い男。
第一王子は今日も意図の読めない笑みをしている。妹のアリアの隣に座った彼はマーニャに向けて変わらず笑顔を向けた。
「久しぶりだね。式典以来かな。その宝剣、使ってたりする?」
その宝剣、というのはマーニャの横に立てかけてある無数の宝石が散りばめられた鞘入りの長剣である。代々の勇者の証だが、刃は潰されており剣としての機能はない。本来は非常に高い切れ味を誇っていた名剣だが、マーニャが式典の場でただの骨董品にしたのだ。
「ええたまに。一度盗まれたりもしましたけど」
「ははは。楽しそうに勇者やってるみたいだね」
「おかげさまで」
「……それで? 僕に用事があるって?」
「ええ」
マーニャは完璧な笑顔で頷いた。サングラス越しに王子の瞳が「ああ」と納得の意思を灯す。
「なるほどね。――アリア。ここからは大人の話だから」
穏やかな声音で第一王子は自身の妹にそう諭した。だいたい予想はできていたのだろう、アリアはぷくぅっと頬を膨らませる。
「お兄様はいつもそうやって私を邪魔者扱いするんだからっ」
「仕方ないだろう? 不満があるなら、城から抜け出さず勉強に精を出しなさい」
お兄様のことなんか嫌いだわっ、と言い残してアリアは席を立つ。ケドも、“魔法殺し”でさえ、その後を追おうとしなかった。――誰も、その事実を気に留めない。
「お姉さまっ、フニさんっ、ぜひ後でお庭でお茶でも飲みましょうねー!」
部屋の外で待機していたメイドと共にアリアは早々に部屋から去った。後に残るのは勇者と第一王子と、あとは殺しの術を身に着けた者達だけだ。
「さて、さっそく本題に入ろうか。それで? 僕に何を?」
「魔物との和平を提案します。その助力を頂きたく」
「それはまたいきなりだね。ははは――本気?」
「ええ」
「……」
「……」
「………………ふぁ……あふ……」
フニの、欠伸を噛み殺そうとして失敗する音すらよく聞こえるほどの静寂。
マーニャはにこりと笑って男を正視する。
第一王子も笑顔しか浮かべない。軍人二人は静かに起立を維持している。
「うん、いいよ。僕が君に力を貸そう」
存外、懊悩の時間もかけずに第一王子は頷いた。ちろりと背後の二人の視線が王子に動く。フニは唇を引き結んだままその小さな仕草をじっと見つめた。
「だが問題は幾つか――そうだね、三つほど。解決しなければならない課題がある」
王子が右手を上げて、指を三つ伸ばして見せる。
「ひとつ。和平論を望む人間は少数派だ」
「ですが後援国の中には終わらない戦争に不満を抱く者もいます。既に支援撤廃を宣言する国もあるとか」
「だが現実に戦争は終わっていないから仕方がない。この国は昔から、立地的にも魔物との最前線の立場にいた」
応接室の壁には世界地図が額縁に入れられて飾ってある。ひとつの大陸に納まる『世界』で、魔王領と呼ばれる地域はその右下の極々一部。一割にも満たない地域を人は魔王領と呼び、そこに住まう魔物と戦争を続けている――そして魔王領を覆うように存在する国家こそが、この王国である。
「だから人類のために壁となり盾となっている。そのための『学園』だし、そのための人類統合軍で、そのための後方支援という在り方だ。――君の行動にほとんど縛りがないのも、だからだよ」
戦争は必然的に技術を成長させるし、成長を必要とする。この国はそうして大国の座を維持してきた。勇者という座に自由な権利が与えられているのもこうして王族との謁見がスムーズに許されるのも、そういう理由から成る。
「ですが達成不可能な課題ではないはずです。同じ人間なら対話可能でしょう」
「まあそうなんだけどね。時間さえかければ難しくないのは確かだ。じゃあこれについてはそのうち何とかなるってことで」
第一王子の言葉は軽い。口元に浮かんだ軽薄な笑みにフニが「ぺっ」と唾棄の真似をした。こらフニ、とマーニャが栗毛の柔らかい頭を撫でる。少女は頬を膨らませてそっぽを向いた。
なんか嫌われてるみたいだなあ、などと呟いて、第一王子は指を一本曲げる。
「次。ふたつ。――果たして魔物が和平を望むだろうか」
果たして終戦を望むだけの知性があるのかと、彼は行っている。こんな、何百年と続いている戦争の終わらせ方を、知っているのだろうかと。
「知ってるかい。この国には世界で最大規模の図書館が、『学園』にある。そこにはもちろん禁書指定の誰にも知られてはいけない史書なんかがあるんだけどね……」
マーニャは静かに頷いた。知っている。勇者の座に就いてから彼女は何度か『学園』の図書館の最深部に――禁書管理室に通っていた。そこで眠っていた智慧は等しく禁書指定されるに足る理由があり、人と、世界の、闇が満ちていて――。
そして、
「魔物との戦争理由を示した書物は、どこにも無かった」
「そう。僕らは戦争の理由すら知らずに、生存競争を続けている」
そうとも。
魔物がいつの時代に現れて、いつからそこに居たのかも、記されてはいない。気づけば『世界』の端に存在していて、何故だか人と魔物は戦争をしている。そこに疑問はあっても、解決できない疑問と、確かに存在する殺し合いの現実では、どちらが先送りにされるかなんて明白だ。
「人類は未だ彼らの築いた防護障壁への集団侵入を果たせていない。だからこそ君たちの魔王領潜入は作戦として認可されたし、君たちには詳細な報告書を要求した。どこに何があってどんな世界があるのかを」
「ええ理解しています。だから私とフニは嘘偽りなく全てを伝えました。有益で、対話の可能性ある種族だと報告したはずですが」
「そうだねえ、それが問題なんだけどね」
ふうと息を吐いて、第一王子はソファーの背もたれに体を預けた。気障に組んだ足と共に、王子は再度右手を上げる。
「そして三つ目だが……」
滑らかに伸びた一本の指。男の空いた片手が膝を叩く。とんとんとん――と、三度。
フニの両眼が第一王子の指に注視する。
無言で起立する軍人二人が頬の筋肉を僅かに動かす。
マーニャは笑顔を崩さない。
「君は、魔物に洗脳でもされたのか?」
最初に動いたのはフニだった。
少女の丸い瞳がぐるりと動く――王子の背後にいる軍人二人へと。ぞわりと、魔力の膨張と共に無詠唱の魔法が起動。無色無形無臭な空間圧縮の拳が“軍神”と“魔法殺し”を叩き潰そうとし、
「――」
「――お嬢ちゃん、殺気を放ちすぎだぜ」
抜刀。
音は無い。
蒼く薄い刃が老人の腕の先から現出し、決して捉えられない拳を横薙ぎに切断した。その動きは滑らかで、確かに動いたはずなのに、誰も知覚することができなかった。
死角外にあって死角の一撃。
精神喚起の間隙を縫うということ。
対魔戦闘の究極剣術――古き技術を、少女は忌々しそうに眉をひそめて睨む。
「魔王領から帰ってきたその足で軍に和平論を唱えるなんて、面白いくらいに、危うい」
ケドの蒼い剣の切っ先は、ゆっくりとフニとマーニャへと向けられた。それでも二人は椅子から立ち上がろうとはしない。
自身の立場を理解しても尚、マーニャは気にも留めずに王子だけを見つめていた。
「あら。まさか魔女に呪われたとまで言われる王子様が、無能な私を恐れると?」
「君じゃあない。君に絆されたそこの少女さ」
くいと第一王子が顎で示す先。それはフニが睨みつける蒼剣があった。半透明な絶対切断の魔剣は、気付けば溶けるように切っ先から姿を消しつつある。
「魔法対消滅……! こんな短時間で構造解析を済ませたってか!」
「たかだか『硬度無効』程度でなんだと言うのです。一年前までのわたしと同じにしないでください」
「――これだから天才は……!」
ケドは一度魔剣を消す。そして一瞬で魔法構造を組み替え、瞬き一つしないうちに再度フニへと剣を刺突する。今度は殺すつもりで突き出した。外しはしない。一秒以下の速さで
だが。
「無意味なことを」
薄らとフニが吐いた呟きは、魔法の詠唱ですらなく。
硬度無効という確実に究極の一にある力は、根元から消滅する――ケドは乾いた舌の感触も忘れて呻いた。
「お嬢ちゃん……」
この。少女は、既に。
「一体魔王領で何を得た……!?」
自分よりも遥か高みに居る――!
「あなたが知る必要のないことです」
「そこまでだ」
声は涼し気。また、その抜刀にも音はない。
出現した紅い刃はフニとマーニャの背後に発生した。視覚外からの唐突な魔法発動に、いかな自動検知の魔眼を持っているフニだろうと反応は遅れる。
女と少女の頸椎に突き付けられた赤い刃の発動者――“魔法殺し”は呆れたように息を吐いた。
「私に“二重”まで使わせるなんてな」
「硬度無効に、距離無効……速度無効は使わないんですか?」
「“三重”なら既に死んでいたさ、私も君もな」
“魔法殺し”の目は指一本動かすことも許していない。魔力の極わずかな変化でさえも見逃さないつもりだろう。フニは心の中だけで舌打ちをして、瞬時に次の策を練った――が、それをも“魔法殺し”は認めない。
「逃げられるとは思わないことだ。距離無効まで解放した私の剣は、世界の裏にすら届きうる――そこの女を殺すなど、易すぎる」
「……」
その言葉に偽りはないとフニも理解している。“魔法殺し”――ひいてはホルルという血族が持つ特殊な魔法は、三段階に分かれている。
絶対切断の硬度無効。
絶対到達の距離無効。
絶対発動の速度無効。
三重にまで重ねればどこにも存在しない神すら殺すと言われるそれこそ、魔法という技術の究極系。
さすがのフニも今度ばかりは何もできない。魔法対消滅がための構造解析すらも許されないのでは、フニに出来る事はない。
「皆さん少し冷静になりましょう」
しばらく続いた睨み合いの静寂を破ったのは、マーニャの一声だった。彼女にしては珍しく剣呑な言葉に視線は集中する。首を1センチ前に揺らすだけで喉が裂けるというのに、彼女には恐れる様子がない。
「私は対話を求めてこの場にいる。無益な行いに興味はない」
視線は、未だ、第一王子だけに向いている。それは魔法使いたちが瞬間の攻防を繰り広げている間でもだ。
「こうなることを予測していたのですか? 私達が寝返ると?」
「まあ、そりゃあね。でなきゃ人類が誇る最高戦力をふたつも用意しない……そこの子の強さはちょっと予想外だったけどね」
「……」
「悪いけど、拘束させてもらうよ。入念な思想調査をさせてもらう。異存はないね」
「ええ。特には」
マーニャはこくりと頷く。フニの肩眉がぴくりと揺れた。
「ですがその前に――フニ」
「はい」
「少しだけ時間を稼いで。一分でいい。私は彼と少しだけ二人きりで話をしなくちゃいけない」
「わかりました」
即答。フニは無理だと言わなかった。赤い魔剣によって行動を制限されている状況であろうとマーニャから頼まれたのなら何があろうと遂行する。
それが少女が自身に刻んだ、存在理由だ。
「本当にわかっているのか。これは明確な人類への敵対行為だ。極刑は免れん」
「……」
フニは応えない。
ただそこにあり続ける。
「何をしなくとも最強だというのに、更にその上を目指そうとする。嫌な目だなあお嬢ちゃん。そこまでして力を求めて、何がしたいんだ?」
「……」
フニは目を閉じる。
ただそこで、勇者のお側付きとしてい続ける。
「言葉は不要か。残念だな。その才能、ここで見納めとは」
「――どうでもいい」
言葉は冷酷。摂氏以下の感情は刃じみて空気に触れた。
「どうでもいい。くだらない。興味ない。人とか魔物とか平和とか戦争とかぜんぶ心底どうでもいいのです」
フニはゆっくりと、閉じていた瞼を上げていく。
そして開眼した少女の眼。左右の丸い瞳は。
右は灰色に。
左は縦長の瞳孔を。
それは少女が、最強を越えて無敵に等しくなるために得た、魔なる眼。その発動状態。
左右別個の魔眼を、特異を、二人の強者に見せつけた。
「わたしはどうしようもないゴミだけど……お姉さまは、違うので」
――だから見せてあげましょう。
――両眼を開いたわたしに、勝てるなどと思わないことです。
「【
それは純黒の言葉。
当代の魔王キサナドが操るものと同等の、魔法ではなく魔力そのものへと働きかける、原始的な効力をもった『法則』である。
故に。
魔法ですらない力に“魔法殺し”は反応できない。
「【わたし以外が行使する魔法の一切を禁じます】」
空間は、薄く、黒く……歪む。そして赤い魔剣は一瞬で消滅した。
魔力に宿る色彩を知覚できるものが見たなら、フニの全身から吹き荒れる死臭じみた黒い魔力に恐れおののいただろう。そして、魔力による魔力への浸食と支配という、魔法の上を行く力に気付けたかもしれない。
だが、この場にそんな瞳を持つものはいない。フニほど純度の高い瞳を持つ者は。
「二人でどうぞ」
剣を生み出し、空に浮かせたフニを武人二人は静かに見つめる。
確かに魔法を振るおうとしてもまるで起動しない。魔力自体が全てを拒んでいる感覚――尋常ならざる力の発動に、ケドは唇を舐めた。
「……常識では測れない事態が起こったとしても、剣を握る手から力を抜いてはいけない」
それはホルルという血族の家訓だった。
言葉は隣の孫娘から。横目にこちらを見やる彼女は自分よりも幼いのに、その眼差しは冷えている。老人はその、情のない眼につい頬を歪めてしまう。
間違いない。
ホルル家の最高傑作は自分ではなく、この女だ。
「でしょ、お爺ちゃん」
「……ああ。それがホルル家だ」
二人の足がソファーに掛かる。二人の腰に挿された実剣がすらりと抜かれる。フニがゆっくりと立ち上がり、同時に少女の座っていた部分が消し飛んで。
「“軍神”ケド・カサルル・ホルル」
「“魔法殺し”アニー・アララト・ホルル」
フニは後ろへ。二人は前へ。
三者は一斉に足を動かし。
背後では超人達の戦闘が繰り広げられている。連撃の音を聞きながら、マーニャは肺に溜まった重い空気を吐き出して、気持ちよさそうに微笑んだ。
「――さて。監視の目もなくなったわよ、王子様」
完璧とは程遠い笑み。だけど実に人らしい感情のこもった笑みだった。
同時に堅苦しさのない言葉をぶつけられた第一王子も諦めた様子でため息をした。
「やだなあ。これが狙いかい?」
「ええ。どうしても私はあなたと二人きりで話す必要があった――本音でね」
「怖い人だ。でも、まあ、それだけの覚悟なら応えないといけないね」
ずれたサングラスのつるを押さえると、第一王子は声の調子をがくりと落とす。それまで背もたれていた体を前に倒して、マーニャへと顔を近づける。
「魔王領へ潜入した際の報告書を読んだよ。――末恐ろしくなったね」
まさか本当にありのままを伝えるなんて。
「もしもあの報告書を各国の首脳陣に公開すれば、非戦派に人は傾く。……笑えるだろ。勝つつもりでいたんだ、あんな化け物の集団に。どうにか一つにまとまっている統合軍すら瓦解しかねない」
――くすくすと。第一王子の言葉を遮る笑い声が二人の耳にだけ響く。
王子はサングラス越しに怪訝な目つきをして、マーニャを見た。女は弧を描く口元を慌てた様子で隠す。
「あら失礼。……存外、慎重なのね」
感心したような目つきに第一王子も複雑な表情をした。
「……。……はっきり言えば、僕はあなたが洗脳されていないという確信が得られない。確信できない以上は協力できない」
「なら拷問にでもかければいい。どんな責め苦にも耐えてみせるわ」
「よしてくれ。そんなことで真意が分かると思うのは愚か者の考えだ」
「では、どうしろと? あなたと私の思惑は同じ方向を向いているはずよ」
「……だとしても、信頼には値しない」
彼の声は暗い。心の底から、目の前の美女を疑っているらしい声音には取り付く島もない。マーニャはついといった様子で肩を竦めてしまった。そんな嘲りの仕草も王子は笑わずに続ける。
「わかるだろう、僕は呪われている。王族としては期待されていない。求められている力を持っていない僕に、一体なにを期待しているんだい」
「――それを言う必要がありますか?」
わざとらしい敬語。悪戯っぽい黒い瞳は語っている。『嘘つき』と。つい王子も口元を歪めてしまう。
「あなたには力があるわ。私にないものがね」
「……」
「……私に力はない。何かを成すには結局誰かの手を借りないといけない弱い生き物よ。でもね、王子様」
マーニャはそっと首を巡らせて、後ろの戦闘に目を向ける。フニは戦っていた。英雄二人を相手に何の遅れも取らず。それどころか、フニは圧倒的な優位性を確立していた。そんな少女を見つめるマーニャの眼差しは、どこか遠くて、曖昧だ。
「私はそれでも……勇者になったわ。この覚悟だけは、誰にだって捻じ曲げられない」
「……なら、最後にひとつだけ教えてくれないか」
第一王子は真剣な表情で問う。マーニャは首の向きを正して、聴いた。
「君は、一体、何を見た?」
「彼らの王――魔女を」
パンネクウネに会ってきたわ。
その一言に、王子の頬は表情を失った。彼の体を真っ直ぐに言葉が突き抜けていって、やがて何かを恐れるように男の体が震えだす。
「……皮肉な、話だね」
僕はこれでも結構才能があってさ。そう、呻くように続けて、彼は腕の震えを逆の手で抑え込む。自身の腕を見下ろす彼の目は隠れている。だけど感情はにじみ出ていた――悔しさが。
「何でもできたし、何でもやれると思う。地位も力もあるっていうのに、たかが眼ひとつおかしいだけでこうも苦労するなんて」
「……」
「あの魔女は、望まない未来を摘む。僕が作るはずだった未来はよほど気に喰わなかったらしい――だから僕の眼は呪われた」
彼はそっとサングラスを外す。隠していた両眼は露になり――そこには眩しい黄金の光がふたつ。
瞳孔は円形ではなく。歪な形の六角形。
魔眼と呼ぶにしてはあまりにおぞましい、黄金の瞳だった。
「もしも君が魔物に洗脳されたのではなく……心から和平を望むなら……敗戦以外の方法でこの戦争を終わらせたいと思うなら」
一度、王子は口を閉じる。
「人の総意が君に味方すると誓おう。僕にはその力がある」
「その言葉、お忘れなく」
マーニャは立ち上がる。そして未だに戦闘を続けていた少女の名を呼んだ。
「――フニ」
戦闘は苛烈を極めていた。応接室の一角は絨毯の欠片すら残っていない。さすがに無傷で、というわけにはいかなかったのだろう。床に跪くケドも“魔法殺し”も、肩で息をするフニも、浅い流血が体中にある。
マーニャは誰にも悟られないように一瞬だけ表情を歪めた。けれどすぐに微笑みを浮かべる。そうして中断された戦闘空間に、臆することなく踏み入れた。
「終わりましたか?」
ケドと“魔法殺し”の尋常ではない敵意も無視して、マーニャはフニだけを見つめた。頬を浅く切り裂いた傷を、指の腹でそっと撫でる。指先に触れる少々の血潮――痛痒の感覚に少女の頬がうごめく。
「ええ。ありがと。やっぱりフニは強いのね」
「お姉さまほどではないのです」
「またそんなこと言って」
おどけたようにマーニャはフニに笑いかけた。暗い上目遣いの少女は、その笑みにもごもごと口内を動かして、やがて女から顔を背けてぽつりと言う。
「……何なら、今すぐにでもここから脱出は可能ですよ」
唐突に、どうしたのだろう。マーニャはきょとんとして少女の頭に手を置いた。
少女特有の、柔らかい体温と、柔らかい髪質。癖になる感触。フニはむず痒そうに目を細めて、女の手を受け入れる。
「お姉さまが望むなら、勇者なんて重い役職は捨てて、また二人で……」
「……ねえ、フニ」
マーニャはそっとフニを抱きしめた。
自身の胸に埋まる少女の小さな頭を、彼女は愛おしそうに撫でつける。
「覚えてる? 私があなたにキスをした時のこと」
「ええ。もちろんです」
「色んな事を決めたわ。あの時に、あの一夜に」
力だけでは示せない覚悟を提示する時が来たのだ。
ずっと考えてきた。フニにも深くは言わなかった――ねえ、フニ、私は残酷? と聞ければいいけど。それは許されないことだろう。
フニに隠していることが沢山ある。フニに言えないような秘密もいくつかある。
「貴女と歩む未来は、貴女と共にあるのなら、素晴らしいものでないといけない。それが私の決めたこと」
もう自由な旅人には戻れない。二人きりで完結できた学生の頃にも。
時間と言うものは残酷で、決して逆向きには進まない。眼を閉じればいつも素敵な過去が浮かんできて、後悔ばかりが押し寄せるけど。
「忘れないで。私はありえないくらい弱いのよ」
でも、ここにある熱は本物だ。これだけは変わらない現実なのだ。
マーニャは少女の両肩に手を置いた。フニは顔を近寄せる女をただ見つめた。
二人の顔は、徐々に徐々に近づいて、
「貴女がいないと息もできない」
――愛してる。
――わたしもです。
そうして、勇者は極秘裏に拘束され、最強の魔法使いと分断された。
朝。
そこはいわゆる監獄である。外界と遮断された空間で、独房に一人たたずむ女は鉄格子の先にある青空を楽しそうに見つめている。彼女の格好はかなり質素だ。白の長衣に後頭部で結っただけの黒髪。それでも彼女は自信に満ちた表情をしていた。
やがて独房に唯一ある扉が重々しい音を響かせて開く。女は振り向き、部屋に入ってきた男に清々しく笑いかける。
「おはよう。今日も元気そうね」
「……」
「つれないのね。もう一か月も顔を突き合わせているのに」
「……学生時代の話はおおむね聞けたわけだが。今日はもう少し先の時代の話を聞こう」
「ええいいわ。納得のいくまで話しましょう。私たちにはそれしかないのだから」
質素な椅子に座った男に次いで、彼女も向かいの席にいそいそと座る。そうして小さな机に肘をついて、男に――審理官に挑発的な目を向けた。
「そうね。じゃあ、旅を始めてしばらく経った頃のことでも話そうかしら。あれは……私が旅先で知り合った女の子を助けた事から起きた出来事よ」
あの時の私は有頂天になっていたわ。
本では得られない世界。そこへ確かに踏み入れている高揚感。
何でもできると思っていたし、それは未来でも変わらないって過信していて……。
「傲慢になっていた私は、ちょっとした行き違いからフニと喧嘩をしたわ。そうして少しの間、一人になって――」
未来がねじ曲がった瞬間を、運命と呼ぶのなら。
それは小さな出来事の積み重ねで起こるのだろう。突然起きたように見えてもその兆候は幾つもあったはずだ。だから彼女は今の自分を受け入れる。
思想調査の結果、死が待っていたとしても。今後一生フニと再会できなくとも。
勇者は笑い続ける。今日も、明日も。
「私は、私を勇者にする男と出会ったのよ」