アスモ。それが彼女の名である。
趣味は百合小説を読む事。職業・四天王(都市計画最高責任者)。通称は『色欲』の。いくつかの孤児院の経営者でもある。
覚醒している純血種は
得意とする魔法は風を生む系統。
本気を出せば最大風速にして時速10000キロを超す惑星級竜巻すらも作り上げる。それは一般的な竜巻を遥かに凌駕した数値であり、彼女が1分と経たずに人類との戦争を終わらせられる事実を指す。
そのあまりに桁違いな力から、彼女は戦争への参加を禁じられている。敵も味方も関係なく皆殺しにしてしまうからだ。なんだかんだで都市計画の管理者という職についてはいるが、対集団戦闘能力としては恐らく魔物内では最強を誇る――それが淫魔さんであった。
「はあ……」
さて、そんな彼女であるが、目下仕事もままならないほど気になっていることがある。
それは――恋。
愛からなるきゅっと苦しい鼓動である。
「マニマさん……」
マーニャの偽名である。彼女は知る由もないが、マーニャとフニが人類未踏の魔王領へ潜入して数日が経過していた。その間アスモの脳裏を埋め尽くしていたのは美しい笑顔をする女の事ばかりであった。
「アスモさん、またッスか」
やれやれと溜息を吐いたのはアスモの部下だ。竜と人が混じったような姿をした部下の魔物は長い舌をしゅるしゅる揺らして呆れの感情を瞳に浮かべている。
「で、そのマニマさんってのはクラブの女の子ッスか」
「そんなわけないでしょ! いや……そうだったら嬉しいけど! 毎日通うけど!」
彼女専用の執務室に、桜色の髪を揺らす女の叫び声が響き渡る。書類整理をしていた部下の魔物がうるさそうに目を細めていた。
「最近、またどっかのクラブから出禁にされてたじゃないスか。セクハラしすぎッスよ」
「い、いいじゃない! きーっ! なによなによ意味深に太ももが目の前でちらちらしてたら触りたくなっちゃうでしょ!? ムラムラするでしょう!?」
「いやしねえッス」
淫魔さんが毎日のようにクラブへ通っているのは、ここ魔王城で働く魔物達には知れ渡っている事だった。そして首都にも数あるクラブの幾つかからセクハラが理由で出禁になっていることもだ。
並々ならぬピンク色の邪念を持つ淫魔さんは、恋に恋する乙女のような蕩けた瞳で両手を組み合わせていた。
「きょ、今日マニマさんと会う事になっているんですの。はあーどうしましょうどうしましょう、どんな服を着ていけば……」
「いつものえっちな格好でいいじゃないッスか。あの、ほら、胸がバイーン! って露出してて下着みたいな恰好の……」
「民族衣装とお言いッ! あれは淫魔のれっきとした正装でしてよ!?」
「魔物は民族多すぎるんでそんなこと言われても知らねえッス。え、てか、じゃあれッスか。実はアスモさんって痴女じゃないんスか」
「あなた、私をどういう目で見ているの?」
部下(性別:メス)の無遠慮な視線が淫魔さんに突き刺さる。今日の淫魔さんの装いは、部下が言うような痴女みたいな恰好ではなくパンツルックのスーツ姿である。ジャケットの裾からはみ出た小さな蝙蝠羽がひょこひょこ揺れていた。
そういう意味では、アスモは少々変わった魔物だった。
「アスモさんて変わってるッスよねー」
「そんなことはないはずですわ」
「いやぁ、人間の書物を好んで読む変わり者なんてアスモさんくらいッスよ」
淫魔さんの趣味は百合小説を読むことである。魔物はあまり物語を作らない。幻想の中に強さを求めないからだ。結果、彼女は人間の作った書物をよく読んでいた。
「意外と面白いわよ? 彼らの価値観って」
「ふーん。まああたしはそういうの良いんで、別に」
「模範的ねえ……」
魔物にとって人類は、戦争相手である以上の価値がない。知能から複雑な思考を持てない魔物もいる。高い知性があっても合理的な思考を持つ魔物もいる。
アスモはというと、そこまではっきりとした存在にはなれない魔物だった。
さて仕事も早めに切り上げた淫魔さんは、うきうきした心持ちで約束の場所に向かっていった。夕焼けが輝く街中の広場。そこに、待ち焦がれた羊角の女が静かに立っている。美しく膨らむ黒髪のうねりを茜色の光が反射して、そこにあるだけでマニマは宝石のようだった。
と、その美貌に見入っていると、こちらに気付いたマニマがニコリと笑って手を振る。頬の赤みを払うように淫魔さんは駆け寄った。
「こ、こんにちはッ!」
「こんにちは」
緊張しながらの挨拶にも柔和に応えてくれるのが無性にうれしい。アスモの蝙蝠羽が子犬の尻尾のようにぶんぶん上下した。ついにやけてしまう口元を引き締めながら、アスモは彼女の周囲を見渡す。
「あの、フヌさんは?」
数日前に出会った狸耳と尻尾の少女はいない。ちなみに淫魔さんは知らないがフニの偽名である。
「妹は別件で少し離れているんです。何か用事でもありましたか?」
「い、いえその、むしろ二人きりになれるならとても嬉しいことですわ……!」
まあ、と驚いた様子のマニマが上品に口元に手を当てる。目を瞠った表情から、流れるように慈愛の笑みへと切り替わっていく彼女の顔。柔らかな表情にアスモは脳奥が眩むような錯覚がした。マニマは、激烈に、顔が良い。
「んんん……――好き!」
「え?」
「あ、えっと、その、ええと、今日はマニマさんにもっともっとこの都市を好きになってもらいますわ! なにせ都市開発の責任者ですもの!」
慌てて取り繕うとマニマは「楽しみです」と同じ笑顔でそう言ってくれる。淫魔さんは心がふわふわして幸せな気持ちになった。
「こんなことって……! クラブじゃないのにこんな事って……!」
「クラブ?」
「こっちの話ですわ」
こんなに綺麗な女とクラブ以外で話せている現実に、酒が入れば間違いなくセクハラをしてしまいそうな自分をグッと堪えてアスモは思考を回す。落ち着け自分。ここで突然セクハラをすれば嫌われるのは必定。であればマニマの好感度をじっくりと高め、自然とセクハラしても許される関係になればいい……。
アスモは『色欲』とあだ名されるだけあって精神がピンク色をしていた。
「さあ行きましょうマニマさん! 夜は長いのですわ」
「そうですね。アスモさんは、この街の事をお詳しいんでしたよね?」
「ええもちろん! 私、首都の事であれば誰より詳しい自信がありますの!」
マニマの自尊心をくすぐる喋り方は実に巧みだ。彼女にならどんな機密もぺらぺら話してしまいそうになる。
二人は雑談を交わしながら、まずは美術館に向かうことにした。それは魔物の歴史を綴った展示で、マニマは過去の史実を知らなかったのだろう。興味津々な様子で、微笑ましかった。
その後、アスモ行きつけのレストランに二人は到着する。それなりの地位と金銭がなければ入れない格式ある店で、アスモは顔の良い女に馳走を驕った。クラブで出会った女と話すよりも万倍心は昂っていた。
「アスモさんって何か趣味はあるんですか?」
と、酒もほどよく回ってきたころ、マニマがそんな事を聞いてきた。
「趣味……ですか」
こくんとマニマが頷く。
――人間の書いた物語を読むのが趣味なのですわ。
などと言えるわけもなく、アスモは困った様子で笑って誤魔化そうとした。だが、彼女の知的な眼差しは不思議な力を湛えていた。
「アスモさん。隠そうとしたって無駄ですよ」
「ううぅ……。じ、実は、人間の本を読むのが好きなんです」
「へえ……」
マニマはそう言うだけで、笑わなかった。その不思議な表情に潜む意味がアスモは分からない。赤面した顔を手で覆ってしまった。
「や、やっぱり変でしょう? だから言いたくなかったんですのー!」
「そんなことないですよ。すごく良い趣味だと思います」
彼女の言葉は真摯さで満ちていた。つい、顔を上げてしまう。マニマはアスモの全存在を許す勢いで穏やかな表情をしていた。アスモは、恥も忘れて嬉しくなった。
彼女なら、もしくは。
その後は人間の書物で話題が盛り上がった。アスモが最近興味がある書物の名を挙げれば、どんな話なのかをマニマは聞きたがった。酒で鈍くなった舌でアスモがざっくり説明すれば、彼女はわくわくと瞳を輝かせた。
やがて楽しいひと時も終わってしまう。
すっかり魔物達の往来も失せた道を、二人で歩く。程よく酒に酔ったアスモには下心もなくマニマを宿まで送りたい気分だった。
「今日は、楽しかったです」
「マニマさんに楽しんでもらえたなら淫魔冥利に尽きるというものですわ」
ゆっくりと二人で歩く。この時間が永遠に続けばいいのにとアスモは思った。表通りを突っ切って入った広場には、噴水の静かな音と街灯の明かりだけが存在している。そんな暗がりの中で、酒精の朱色に染まった頬を熱く緩めたマニマの表情はドキリとするほど華やかだ。
「この街が好きなんですね」
「でなければ仕事にはしていませんもの」
ふふんと得意げに胸を張る。そんな自分をマニマがくすくすと笑う。心地よい関係に溶けてしまいそうになる。そうしてひとしきり笑った彼女が、真っすぐに見つめてきて、ふいにアスモの心臓が跳ねた。
「ねえ、アスモさん」
その視線に酔いはない。真剣な表情にアスモも向かい合った。
「私のこと……好きですか」
言葉の意味を、一瞬だけ理解しかねた。だけどすぐにアスモの脳内を彼女の問いが駆け巡る。胸から巡っていく血液が急に熱をもったように体が暑くなった。え、え、と困惑するアスモに女が一歩、近寄って。
「――」
「目を逸らさないで。私をしっかりと見つめていて」
目の前に、激烈に顔の良い女が居て、アスモはどうしようもなくなった。分かったのはただ一つ、マニマの方が身長が高いということ。まるで自分が捕食されるかのように、黒い眼に見下ろされてどうしようもなくなる。崖に追い込まれたみたいに答えていた。
「答えて、ねえ」
「ひゃ、ひゃい。好き……」
女が、にこりと笑った。
「ならこれでも?」
マニマの頭上にあった羊角がスポッ―ーと音を立てて引っこ抜かれた。
「え」
「これ、作り物なのよ」
「んんん?」
「ねえ、私のこと、まだ分からない?」
女の笑みが切り替わる。笑顔の裏に狡猾さを忍ばせる不遜な表情を、アスモは知っている。忘れたはずがない。
この、女の、名はマニマなどではなく――!
「まっ、ま、ままままさかあなた――女勇者マーニャ!」
「シッ。声が大きい」
口を彼女の手に抑えつけられる。急なことにアスモは目を白黒させた。そして驚きの中にあっても、彼女のしっとりと柔らかい掌が唇に触れる甘やかさに体から力が抜けかけて。
「~! さ、触らないでくださいまし! どきどきで心臓が張り裂けてしまいます!」
寸でのところでマニマ……マーニャの手を払いのけた。数歩よろめき、それでもアスモは自分の足で立つ。キッと女をねめつけた。
「どうして……なんですの? 私の事がそんなに好きなんですのっ? だからこんなとこまで追っかけて……!」
街灯に照らされた笑みは、先ほどまで同じ女だと言うのに印象がひっくり返って目に映った。あんなに素敵だと思った女を、今どう想えばいいのかわからない。
「あなたは一体何を考えて、こんな……こんなことを……っ」
「私は、戦争を終わらせたい。どちらが勝つかで終わるのではなく、どちらも勝たずに終わらせたい」
「そのために……たった二人で、敵地の中に……」
分からない。マーニャの考えていることが魔物であるアスモにはまったく理解できなかった。彼女がしている事はただの自殺行為だ。合理的でなくまったくの無価値な行いに、思わずアスモは問うていた。
「わ、私があなたのことを軍に漏らせば、あなたの命はないのに」
「……あなたは、今この場で私を殺さないのね」
「――」
暖かな微笑みに混じった喜びに、アスモの喉が震えた。その通りだった。どれだけ困惑を来していようと、そんな考えに至らなかったのだ。
現実は目の前の人間の生存を、許してしまっている。
そんな思考も体も硬直しているアスモへと、マーニャは真摯な言葉を投げかける。
「協力しろなんて言わない。けれど、私はあなたが信用に足ると踏んだ。だから人であると明かしたわ。それにね、この街は素敵だと思ったことに、偽りはないの」
「……っ」
「私はこの街が好きよ。この街を作ったあなたの事も好き」
だから、と、マーニャは言った。
「魔王に――会わせてくれないかしら」
アスモが初めて人類の作った小説を読んだのは、もう何年も前の事になる。
あれはまだ兵士として前線に出ていた頃だ。作った暴風で街を一つ滅ぼして、残存兵を片付けるため哨戒に出ていたアスモがふと興味を抱いたのは、倒壊した本屋だった。
魔物と人間は、
ぐしゃぐしゃになった無数の本の中から、なんとなく選んだ本を開いて、そして自分の知らない世界に出会った。
衝撃だった。
――
この力は、血に拠った力。
純血種に覚醒した自分を誇りに思っている。だから痴女と言われようと過去の文献にある通り、淫魔らしい格好をする。その性の通りに生きる事はきっと正しい事だ。けれど、アスモは、知ってしまった。
魔物が種としての多様性を許すように、人間は個の多様性を許すのだと。
「もう、いいんですの?」
「……ええ。話は済んだわ」
結局――アスモはマーニャの正体を知りながら、翌日には魔王への謁見を許可していた。他の四天王にはもちろん、部下にも魔王城の誰にもマーニャの正体を明かさずにだ。背信行為と取られても仕方がない行為をして心は晴れない。自分は一体何がしたいのだろう。
そうして魔王の私室から出てきた彼女に、アスモは不安げな顔を向けてしまう。
マーニャがひどく疲れた顔をしていた。
「あなた達の生活を見て、触れて、感じられて、それはすごく素敵な事だったわ」
一体、魔王と何を話したのだろう。
聞きたいが、マーニャの表情がそれを許してくれない気がした。そんな思案の流れにアスモは疑問を覚えてしまう。どうしてマーニャの気持ちを優先してしまうのか、自分の心がわからない。
「望んでこんな生き方をしているわけじゃないもの。私はただ……フニとずっと一緒に居られたらそれでいいのに」
なにか、鬱憤を晴らそうとしている言葉遣いだった。アスモはマーニャという女勇者の人生を深くは知らない。だから今この場に居ない少女のことを語るマーニャを、とりあえず自分の執務室に連れて行った。応接用のソファーに座らせて、向かいの椅子に自分も座る。
「中で、何があったんですの?」
「……」
部下は出払っていてこの空間には二人きりだ。だから、アスモの問いにマーニャが黙ってしまうと、痛い沈黙が室内を満たしてしまう。
耐え切れなくなったアスモはお茶を湧かすことにした。魔法で湯を沸かす途中、マーニャが小さく漏らす。
「パンネクウネと、キサナド、ね」
――その一言に、アスモは全てを把握した。
そうか。全て、訊いたのか、と。
魔王は二律背反の人格をその身に宿す。
つまりは、言ってしまえば二重人格者だ。その歪さは、魔王――キサナドという肉体が全種族の混血であることに起因する。
「パンネクウネが魔物という総体の意思そのものなら、その存在自体が相互理解の果てにある歪さだったとしても……私はキサナドを愛さなければならない。私の想像を超えて、あなた達は複雑ね」
「愛?」
「あなた達は強さこそが愛なのよね。精神が、肉体が、強靭であること。そうあろうとする在り方を愛と呼ぶ。それはとても素敵な感情よ。だから私は否定しないし、したくない」
湯が沸騰する。アスモはポットに茶葉を詰め、そこに熱湯を注いだ。湯気に混じって華やかな香りが部屋を満たす。カップを二つ用意して、一つを彼女の前に静かに置いた。マーニャは「ありがとう」と言ってから続けた。
「けれど人は、魔物からすればあまりに弱いわ」
「……」
「忘れないで。人の言う愛とは、弱さも醜さも脆さも認める事。あなたが、あなたよりも弱いモノの呼吸を……許す、ということ」
存在の承諾をマーニャは愛だと言う。アスモには、彼女の言いたい事が理解できない。
人の言う愛が、アスモ達の言う愛と形が異なることは知っている。人間の記す物語に必ずといっていいほど現れる“愛”の形は、魔物のそれとはまったく異質だ。そこまで解っても、そこから先へと踏み込んで答えを出すことが、アスモには出来なかった。
魔物にとっての“愛”とは、すなわち強者への崇拝だ。次代の強者へと投資したがる感情のことだ。故に、人へと問うた。
「あなた達の言う愛とは何なんですの?」
マーニャは浅く笑う。カップに注がれた紅い液体を、なんの疑いもなく口につけて。毒の心配もしていない様子の女は唐突に話題を変えた。
「どうして、赤子が愛しいと感じるか知ってる?」
「?」
「赤子自身が、守られるためにそう感じさせる形状をしているからよ。そして、そういう進化を許容できる社会を、かつて胎児であった大人たちが作り上げてきたからでもある」
魔物は生殖を魔法によって行う。そして、出産に至るまでをも代替施設によって効率的に行ってきていた。そういう進化をしてきたのが魔物という種だ。
そここそが、あまりにも違うと、マーニャは言っている。
「人とて体外受精、妊娠、出産までの方法は過去に確立させていて、そちらの方が効率的なことも判明している。それでも普及せず、不妊の人達に提示する代替案としてのみ存在するのは、――ねぇ、何故だと思う?」
「……」
ふいに、違和感をアスモは覚えた。昨日までのマーニャにあった余裕さが今はまったく感じられない。魔王との会談を目前にしても自信に満ちた顔をしていた美女からは、一切の誇りも剥がれ落ちていた。
「選択したの。あなた達とは違う生を」
「自ら、弱くあろうとする……そう言いたいんですの?」
「ええ。私達は弱さこそを是とする生き物なんだと思う。そういう文化で、社会なのよ」
「なぜそう言い切れるのです? その根拠は」
「でなければ私が生きていない。不出来な私を受け入れる世界でないと」
遠回しな言葉を使うマーニャは、揃えた両ひざに置いた拳をきゅっと握った。
「私は魔法が使えない。何一つ」
「――」
アスモの全身を衝撃が駆け巡る。だが、辻褄は合うのだ。
勇者という座を魔物はそれなりに重く見ている。これまでの歴史で、必ず彼らは人を導き魔物に手痛い損害を産んでいたからだ。だからこそ当代の勇者であるマーニャを警戒して、アスモは自ら彼女を捕縛した。抵抗されると踏んでいた。だが、拍子抜けするほどマーニャは弱かった。
「そんなはずはない、ですわ。だって、なら、
魔法が使えない存在など、魔物の中には居ない。そう断言できる理由がアスモにはある。
その、愕然とした表情に確信したのだろう。マーニャは笑みを消して真っ直ぐな視線をぶつけてきた。
「できる? 弱者など存在しないあなた達に、私達の在り方が可能? 効率がいいからと、0も1も知らない無知なものをどうしてあなた達はそういう扱いが出来るの? 私はそれが許せない、受け入れがたい――そういう風に思う自分がとても悲しい」
合理的な妊娠と出産。
管理された育児と教育。
徹底した非合理の排除。それは、生命が産声を上げた瞬間から始まっている。
つまりは。
「嬰児殺しを、どうして文化にするの」
魔物は、弱者の呼吸を認めない。そんな非効率な存在に割くコストは無いから。
身体の欠陥をもって生まれた赤子を殺している。失敗した赤子を遺棄している。そして、魔物達は、それを肯定している。子を潰されて絶望する母親はいない。なぜなら母胎で我が子を育てない――産んだ子を抱き上げることもしない。出来ない。
だからだろう。そういう生の在り方に、人間が言う“愛”はない。
それが魔王から言われた事実の一つだった。
「人間に決してない行為とは、言わない。飢饉や疫病が弱者の……生まれたばかりの命を認めてくれない時はあった。命は結局孤独なものだから、自身を優先するのは本能よ。でも、あなた達が行うそれは、あまりにも人とは別種」
文化とは、個が集団を形成して巨大な価値を生み出す総体――つまり社会と呼べる概念を、運営する為のオイルのようなものだとマーニャは考える。
魔物達が行う嬰児殺しは、生命の困窮から行う人類のそれよりも遥かに体系化された行為だ。工場で不良品がより分けられ廃棄されるのとまったく同じことを、魔物は自らが同種に施している。
選定基準はただ一つ。愛を注ぐに値する命かどうか。
「もしも私が魔物として生まれたなら、きっとすぐに殺されていた」
それが悲しいのだとマーニャは言う。傲慢でしょう? と自嘲の笑みを吊り上げながら。
「あなた達は戦争を終わらせる気がない」
「――どうして、それを」
言ってから気付く。魔王に、言われたのだろう。
「戦うことを基盤とした文明社会から、闘争を抜いては何も成り立たない事くらい、私でもわかるわ」
そうだ。魔物は、どうしようもなく争いが好きな生き物だった。混血が横行するのもそれが理由だ。だから、魔物は人類との戦争を、言ってしまえば呼吸と同じくらい当たり前のものとして扱っている。
「あなた達は戦う事を前提にして、そのために生きていて、そのために子を産む――全ての根源に“戦い”を置いている。自分たちの間で戦争を行わないのは、魔物という種を滅ぼさないため。だから丁度いい仮想敵として人類を選んだ。同じくらいの知能があって、同じくらいの進化速度を持つから」
自分で全てを説明してから、マーニャは皮肉そうに口端を歪めてみせた。自嘲の笑みだと気づいたのは彼女が次に口を開いてからだ。
「私の望む未来はあまりにも遠い。だって、誰も望んでいないもの」
人間は勝利を求めている。魔物はそもそも終わりを求めていない。
敗戦がそのまま生存競争からの脱落を意味する人類と、出来る限り人類との戦争を味わって、滓すら残らない程絞りつくそうとする魔物達。
不毛で無意味な戦争だった。
一体何人死ねば終わる戦争なのかもわからない。魔物は、適度に人を殺して適度に生かすつもりでいる。それは戦争行為を通じて人類を管理されているのと同じだ。――そして最悪なことに、未だ魔王領への集団潜入を果たせずにいる人類は、魔物達の実情を知らない。駆逐可能な敵性種族と断じて未だに殺し合いをしている、つもりなのだ。
故に人間は勝利以外の終わり方を求めていない。未知だからこそ黄金が隠れていると信じている。およそ対等と言える敵に対して、敗北の先にあるものが分からないほど愚かでもない。
和平論が統合軍の議題にすらならないのがいい例だ。
「あなたがね、人の書いた本を読むのが好きだと言ったとき、すごく嬉しくなったの。『マニマ』として人の書いた名作を薦めることは出来なかったけど、おすすめしたい沢山の物語があったわ」
アスモには、彼女の言葉が真実なのだと分かった。思い出す。ワインを片手に語った趣味を、彼女は笑わなかった。他の魔物のように『変わってる』などと言わなかった。それはもちろん彼女が人間だから、というのが今なら分かるが、それでも――マーニャは嬉しそうだった。
「恋や、冒険や、哲学や、思想の言葉をあなたに伝えたかった。あなたに読んでもらって、あなたの言葉であなたの考えを聞いてみたかった」
ねえ、本の感想を語り合ったこと、ある?
「私はある。とても素敵な時間よ。私達はきっと良い関係になれるんだって信じていた」
だが、今は違うとマーニャは告げる。アスモが見つめる黒い瞳は気づけばゆっくりと涙を溜めつつあった。
女勇者の背筋は曲がらない。
気品をもって正しく座る彼女は、頬を震わせることもなく、一粒だけ涙を零した。
「私達は……こんなに似た形をしているのに、分かり合うにはあまりにズレている」
沈黙は痛いほどだった。
マーニャが、自分の言葉を待っている気がした。だからアスモは考える。思い出すのは昨晩の事だ。彼女は正体を偽って接近してきて、でも、きっと言葉に偽りはなかったのだ。
「わ、私は……貴女たちの文化には多少なりとも理解があります。合理的でない選択を好んで行うことをロマンだと謳うその思想を、納得出来なくとも許容はできる。そんな私だから、貴女は私に正体を明かしたのでしょう?」
いや違う。
そういう事を言いたいんじゃない。
ただ、惹かれたのだ。
「……あなたの顔が好きですわ」
人間の言う“愛”は分からない。
けれど、隣人と親しくなりたいという思いは、魔物も人も同じはずだ。
「綺麗なものを綺麗だと思う心は、あなた達と変わらないのではなくて?」
「そう、ね。同じだと思うわ」
決定的に違い過ぎるたった一つの事実があって、戦争をしていて、アスモは別に戦争行為自体を否定するつもりはない。けれど、間近にいるたった一人へ笑顔を向けることは難しくない。
「思考の土台が違う事を嘆いても仕方がないじゃありませんか。私は私で、あなたはあなたですわ」
時間はいくらでも必要だろう。
たった一朝一夕で通じ合える二人ではないだろう。
それでもこの現実が全てだ。そして、未来も、この現実から地続きなだけの、大したものではないのだ。
「ザネクラア=
そうしてアスモは一つ、ちょっとした選択をしてみることにした。
「え……?」
「それが私の名前です」
魔物としては間違った行為かもしれない。けれど、“間違い”が間違った世界しか作らないとは、彼女にはどうしても考えられない。
「マーニャさん。良かったら、しばらく、私の家で暮らしませんこと?」
穏やかな心でそう笑えば、とても上手な表情が出来た気がした。
「私はあなたを知りたいのですわ」
「……」
マーニャはしばらく何も言おうとしなかった。口を開いて、閉じて、また開いて、噤んで。きっと唐突な展開に慌てているのだろう。その様子に暖かいものを感じた。
やがて、彼女はそっと一言を紡ぐ。
「マリアジュエ・イーニア・ベネティード=フィフス」
詳しく聞く必要も無かった。
きっと彼女は魔物の文化の全てを知らない。だから、正式な名を明かすことが魔物にとっては裸を見せるよりも恥ずかしい行為だと理解せずに、正しい名を教えてくれた。
それを信頼と呼ぶことを、魔物も人間も関係なく理解している。そう願う。
彼女が明かしてくれた、本当の名に、異文化や異種族なんて壁はクソくらえだった。