季節は冬。
卒業を間近に控えたころのことである。
学園内にある巨大図書館の一室で、栗毛の少女――フニは無数の書物に囲まれていた。
「【
『抗精神魔法百解』という題の本を、首を捻りながら本の山に戻し、背を伸ばして別の本を手に取る。題名は……『魔眼全書』。
ぺらり。
冬季休み直前でがらんとした図書館に、古い紙をめくる音だけが響く。
「【
フニの父親の名を、アリ・アル・フリペチーノと呼ぶ。“聖上”の名を王より拝命されるほど世界的に有名な魔法使いである父は、自前の研究施設を持っていた。父の研究所で手伝いをしたこともあるフニは、魔眼施術用の設備も利用可能だ。
ふうむう、と少女は細い腕を組んで考える。ああでもないこうでもないと首を捻り頭を揺らすので、ひとつに結んだ柔らかい栗毛が子犬の尻尾みたいにふりふり揺れていた。
「魔法戦闘についてあまり詳しくないのもいけませんね。お姉さまを守るなら、強くならなければ」
なぜフニがそんな事でうんうん悩んでいるかというと、フニは学園卒業後マーニャと共に二人旅をする予定だからだ。旅の中では危険な場面にも出くわすだろう。そんな時、魔法不全のマーニャを守れるのはフニしかいない。だから、対抗用の魔法を調べているというわけだ。
「やはり火力よりも即応力、展開の速さが重要……であれば
がさがさと本の山に手を突っ込み手に取ったのは『
「【
旅の中では野宿をする場面もきっとある。そんな時、魔法で焚火をつけたら敬愛するお姉さまはきっと褒めれくれる……と思う。頭なんか撫でてくれるんじゃないだろうか。
マーニャの細くしなかやかな指が頭に触れて、爪がわずかに擦れるこそばゆさ。想像するだけでフニはワインひと瓶いける。
ふへへぇ、と彼女の笑顔を妄想もとい想像するだけで少女の口元は緩みっぱなしだった。
「はっ……いけないいけない、涎が……。よ、よーしがんばるぞー」
ピックアップした魔法書数冊を、更にじっくりと読みつくすために頬をぺちぺち叩いて集中し直すフニ。グッと拳を握ったところで、冷えた空気に体がブルリと震えた。本の保全を理由にこの図書館はあまり暖房が効いていないのだ。
「……冬だなあ」
窓の外では枯れ葉が舞っている。ぼーっと窓の外を眺めていると、フニはあることに気付いた。
凍える空気の中でも柔らかに揺れる黒髪と、淑女然としたロングスカートがとても似合う綺麗に伸びた長身。
ただ道を歩いているだけなのに、目が離せなくなる――米粒ほど小さく見えるくらい遠くだが、彼女とすれ違う者の大半が男女関係なく振り返るのがわかる。それだけ彼女が魅力的と思えばフニは我が事のように誇らしくなった。
「お姉さまだ」
自然、フニの表情は明るくなる。だがすぐにまた気づく。マーニャの隣を、見知らぬ男が歩いていたのだ。同じく米粒ほどに小さいためはっきりと見えないが。
「あの人、誰だろう……」
フニの両眼が、無意識のうちに魔法で視覚を強化。一瞬で視力が20を超えたフニはそのまま窓の外にいるマーニャへと意識を向け――。
「……」
マーニャはちらと横を見た。
隣を歩いているのは若い金髪碧眼の男だ。ジャケットにズボンにマフラー、どこにでもいる青年のいで立ち。だがやけに厳しい目つきが、年齢以上に老けた印象を感じさせる。――その姿は10年前に別れてから何も変わらない。
「どこへ向かっている」
「喫茶店。座って話したいでしょ」
「そんなものまであるのか」
「広いからね」
案内した先は、言った通り学園内にある喫茶店だ。学園の一般開放されているエリアにある喫茶店で、マーニャ達のように学生が家族や恋人との逢瀬に利用している姿がちらほら見えた。
「ここでいい?」
「構わん」
ぶっきらぼうな男の声に頷きながら室内の一席に座り、ひとまず注文を済ませる。マーニャがコーヒーを、男が紅茶を頼んだ。
「久しぶり。入学式の時に会って以来だから……10年ぶり? 突然来るから驚いたわ」
ウェイトレスが二人の側を離れてから、マーニャは男に話しかけた。女の顔はやや硬い。
「そうなるな」
鋭い意思を感じさせる柳眉の下で、青い瞳が真っ直ぐにマーニャを見つめている。男に見つめられると、心臓がいやに重い痛みで鼓動を刻むのはもうずっと昔から変わらない。
「お前はアイラに似てきたな」
「そう? ……そうかしら」
アイラとは、マーニャの母親のことだ。軽々しく親に似てきたと言う男に、マーニャは顔をそらす。頬杖をして外の乾いた並木景色を眺める彼女に、男はなおも続けた。
「綿菓子のように膨らむ髪も、宇宙のように混じり気のない瞳も、胸がすくくらい精緻な顔も、そっくりだ」
遠回しに美人だと言いたいようだった。
「詩的な事を言うのね。そうやって母さんも口説いたの?」
「口説いてなどいない。全て事実だ」
……それを口説くと言うんだけど。
「でも父さんには似てないわ。髪も黒いし」
「遺伝だろうよ」
そう。父。
目の前の男はマーニャの父であり、アイラ――つまりマーニャの母の結婚相手である。
男の名をアマツと呼ぶ。
マーニャは父の方を向き、じっとその顔を見つめた。男は目をそらしもしない。褪せた眼差しは、しかしマーニャよりも若々しい容姿を保っている。
「父さん、やっぱりあの時から老けてないわね」
父よりも歳上になった気分は複雑だった。こうして成人になってから向かい合うことで実感する。自分が父より先に死ぬのだと。
「今年で俺は324歳になるらしい。俺よりも、アイラの方が俺の歳を覚えている」
アマツ。
アマルツィア・アマルガム・ベネティード=フィフス。推定年齢324歳、世界最高齢記録を今なお更新し続ける者。
マーニャの父親は、遺伝子に刻印された再生魔法が常時発動する非常に希少な先天性魔法障害を持つ。希少度で言えばマーニャの魔法不全障害と同等かそれ以上。有用度で言えば最高クラスに近い。“賢人”アマルツィアと言えば、魔法研究史において少しは有名な人物である。
実年齢300歳を超すというのに、その見た目は20歳前後の青年と変わらないのだ。本人いわく『少しずつ老いている』とのことだが、このペースなら1000年は確実に生きられるだろう。そこまで行けば、同じように遺伝子刻印された魔法を常時発動させる、魔物に最も近い動物――“幻獣”と何ら変わらない。
そんな男が一体どうやって(田舎貴族といえど)貴族令嬢と愛し合うに至り、娘を三人設けたのか、マーニャは詳しく知らない。父も母も教えてくれなかった。
「……どうして来たの?」
「娘の卒業を、親が見るのはおかしいか」
「そんなことないけど」
どこかぎこちない会話に、マーニャは言葉にならないもどかしさを覚えた。ちょうど店員がコーヒーと紅茶、ケーキをひとつずつ運んでくる。
マーニャがコーヒーとケーキ、アマツが紅茶を受け取る。恐らく学園の生徒だろう店員は、マーニャの事を知っているのだろう。父は見た目だけならマーニャと近い年齢に見える。妙な勘違いでちらちらとこちらに期待の眼差しを向ける店員を彼女は無視した。
「学園では名の知れた生徒だと聞いたが、本当らしいな」
くだらんと言いたげな白けた顔には、娘の色恋沙汰など欠片も興味がないと書いてあった。
「みたいね。変な噂が流れないといいけど」
「噂?」
「父さんを恋人だと思われるかもねってこと」
「学生というのはそんな事にしか興味がないのか? 世界一の魔法研究機関といえど、程度が知れる」
普通の父娘らしい会話ではないなとマーニャは苦笑を心のうちだけで浮かべる。硬質な表情の『青年』は娘に、恋人はできたのか、などと聞かない。
彼の精神構造は恐らく人間から外れている。
「でも意外だわ。父さんは私に興味がないんだとばっかり」
「……そうでもないさ」
紅茶を舐めるように飲む父親。猫舌はまだ治らないらしい。そういうところも、10年前から変わっていない。
「とりあえず。卒業までよくやったな」
「どういたしまして」
慇懃に礼を言う。それでもマーニャは少しだけ嬉しい。実家にいた頃、父はいつもマーニャの行いを否定していたからだ。
「姉さん達は元気?」
「元気だ。ラナは、王都で商売をするつもりらしい。投資してくれと俺に頭を下げてきた」
「ラナ姉さんらしいわ。ジーニャ姉さんは?」
「あいつは……いつも通りさ。親の俺が言うのも何だが、少し愛が重いな。お前に会いたがってたよ」
「ふうん。父さんの仕事の調子はどう? ていうか、今は何をやってるの」
「ちょっとした魔法研究に協力している。なんでも、古い知識が役立つらしい」
「そう」
一応彼は戦争従事者だ。当時最新の魔装化歩兵として最前線を経験している。今よりも遥か昔に、戦力で劣る人類が魔物と拮抗するため無数の魔法を開発したとマーニャは本で読んだことがある。父は、そういった遺失した古代魔法の被験者でもあるのだ。そういう意味では貴重な生きた資料そのものだろう。
遺伝子による強制的な魔法以外にも、父アマルツィアの体には大量の改造が施されている――らしい。昔一緒に風呂に入った時、凄まじい量の刺青が背中を埋め尽くしていたことくらいしかマーニャには分からない。
「母さんとはうまくいってるの」
「あいつはまた美しくなった」
「もう母さん50近いでしょ」
「若いお前には老いることの良さが分からんだけだ」
仏頂面で惚気を吐くのだから相変わらず熱々らしい。父は愛妻家だ。
ふうんと相槌を打ったマーニャは、自分でも驚くほど落ち着いているのが意外だった。自分がいない世界でも変わらず元気な家族に感じるものがほとんどない。それは、恐らく……。
「アイラから聞いた。旅に出る、そうだな」
唐突な話題だった。
マーニャの心臓がどきりと跳ねる。小さな痛みを隠して、平静を装いながら父に尋ねた。
「父さんは反対?」
「別にお前の人生を邪魔はしない。必要なら援助もしよう」
……あら?
「意外ね。てっきりダメって言うんだとばかり」
「ただ」
マーニャの丸くなった瞳も放って、アマツは言葉を区切る。男の眼差しには硬質な鋼のような冷たさがあった。
「フニ・フラ・フリペチーノを連れていく事には反対だ」
瞬間、マーニャは崖から突き落とされたような寒気を感じた。穏やかな店内から急速に色が落ちていく。視界の端から崩れていく世界で、アマツだけがそこに居た。
「フニのこと、知ってるの」
「フニ・フラ・フリペチーノと言えばアリの娘だ。有名な天才親子だろう。アリとは知り合いだ。俺が参加している魔法研究もアリが主導している」
そんなことはどうでもいいと言いたげに片目を瞑り、なおも父は続ける。
「俺はアイラほど甘くない。二人旅などやめておけ」
「……」
ああ、と納得するマーニャ。
父は娘の卒業を祝いに来たのではなく、忠告をしに来ただけだ。
いつもいつも彼を前にするとマーニャは父に突きつけられている気がするのだ。
――自惚れるな、と。
にこりと女の口元に鮮やかな笑みが浮かぶ。
「懐かしいわ。私がこの学園に入りたいと言った時も、父さんはそうやって私を否定した」
「……」
「ねえ父さん。私、もう22歳になるわ。全て親の言うとおりになる歳じゃない。私は私の道を行く」
「お前だけが消費する時間じゃない。お前はあの少女の時間も食い潰す気でいる。お前は、誰かの人生を背負うということを、甘く見すぎだ」
「軽んじてなんかない」
気付けば即答していた。声にはいくつかの感情が混じっている。恐れ、震え、躊躇い。父に隙を見せてしまった気がして、体が少し硬くなった。
「私は、ちゃんと覚悟を持ってこの道を選んだのよ」
「全部自分一人でやりきれてるつもりか」
「そんなわけないでしょ。私の体質、知ってるくせに」
吊り上がる眦がマーニャの怒気を伝えていた。アマルツィアは一切怯まず、こう返した。
「お前はあの少女を不幸にするよ」
「……」
平行線だ。
この会話に終着点も妥協点も存在しない。
意地の悪さは間違いなく親子なのだろう。――マーニャはどれだけ否定されても諦めるつもりがない。父も引き下がるつもりがない。
「それは私の生き方が、こうだから?」
「違う。選んだ未来がそうさせる」
「……」
マーニャの障害を……不出来さを問題にしない父の言に、言い返す言葉が見つからなかった。
「なあ、どうしても旅をする必要があるのか」
「……わからない。でも、一人で冒険をしたいわけじゃないの。フニだからいいのよ」
「傲慢だな」
マーニャの悩みながらの言葉をそう断じて、父は紅茶をゆっくりと口に含む。老いたように鈍い喉の動きだったが続く言葉は饒舌な正論だ。
「人ひとりの生き方を、歪めるということ。人ひとりの人生、しばらく、借りるということ。深く考えての答えがそれなら、俺は失望しか感じない」
父の顔が一度横を向いた。喫茶店の外の景色を見つめる男の横顔は、マーニャがこの学園で過ごした時間のすべてを知っているようかのようで。
「10年だ」
言葉は零下よりも遥か下。
アマツは、10年ぶりに会う娘へと会いに来た理由を突きつける。
「10年かけてお前は一体ここで何を学んだ。何を得た。何を成す、何なら成せる気でいる」
「――っ」
父の言葉はいつもマーニャの面の皮を引き剥がす。彼女が保つ余裕も自信も、父の前では稚児のそれでしかない。その不快さに女の顔が小さく歪んだ。
「世には失敗してはいけない事の方が多い。本の中に答えはない。旅の中にもだ。ここではない何処かへ行きたくても、どこでもない遠くへ行きたくても、そんなものは元々ない」
「……まるで、知っているみたいに話すのね」
「そうなる。アイラの家に婿入りする前は、俺も各地を旅していた」
長い時間を放浪したのだろう。男の言葉には無数の感情が滲んでいる。
聞いて、マーニャの心にふと邪気が芽生えた。
「じゃあ、その時はどんな姓を名乗っていたのかしら」
それは明確な悪意ある言葉だった。
300年も生きれば恋人の一人や二人、妻が何人かいてもおかしくはないのだから。マーニャは過去の人間ではないし、マーニャの父はアマツで母はアイラしかいない。
「……20年しか生きていない小娘が馬鹿にするな。俺は誰にもなれん」
わずかだけ眉間を寄せる父。娘に不義を疑われることの不快さなど推して知るべくもない。
マーニャは、自分の邪悪さに小さな痛みを覚えた。一体いつから自分は、父をこうも邪推するような女になったのだろう。
体だけ不出来ならいい。心まで不出来になりたくはないのに。フニと共に居るのならば尚の事。
「俺だけが死ねない世界で、それでも添い遂げたい者などアイラしかいない」
「……ごめんなさい。酷いことを言ったわ」
「お前が、俺を嫌うこと自体はおかしくないだろうよ。父親として俺は不適格だ。ただこれだけは約束する。俺が俺の遺伝子を残したいと思えたのは、アイラだけだった」
「……」
父の言い分は押し付けがましくて、抑圧的で、我のみを通そうとするきらいがある。彼は300年生きる中で知り得た正論だけを娘に諭すのだ。
正しさだけの世界に、マーニャが生きる道はないのに――。
唐突に、マーニャの内に怒りが湧いた。
「歳を取ったら、それだけで偉いの?」
想起するのは、自分とフニのこと。
その間にある年齢差をだ。
いつだって自分は彼女の『お姉さま』らしく振る舞う。それはマーニャとアマルツィアの関係性と何ら変わらなかった。
「誰かの上に立って誰かの人生を無為にしていいの?」
全ての言葉が自分に跳ね返ってきていた。
それでも女は言葉にせざるを得なかった。
「私は……所有物じゃないのよ」
――フニは、マーニャの所有物ではない。
自罰の表情で伏せたまつ毛を震わせる娘に、アマツは何も尋ねない。温くなった紅茶に口をつけると、唐突に言った。
「アイラの、兄の、話だ」
「……え?」
「いいから聞け。あいつはお前にそっくりの目をしていた。いつも何かに挑戦して、何度も失敗して、それでも諦めない目。……だから死んだ」
母の親族について、マーニャは詳しく知らない。アイラは貴族家の生まれだというのに親戚付き合いをしない人だった。
母の兄……マーニャから見て叔父がいることすら初耳だ。『あいつ』などと呼ぶからには親しい仲だった、のだろうか。
そして墓すらどこにあるかも知らない叔父の話題を出されて、何を父が言いたいかなんて嫌でもわかる。
「いつか死ぬよ。マーニャ。お前」
「間違えていることの何が悪いの。私は後悔しない生き方をしたい」
「『私』『私は』『私が』――お前は我が強すぎる。まるで嵐そのものだ」
「……!」
嵐に立ち会う者がどうして幸せになれる。
父の的確な言葉は、今度こそマーニャの心を抉った。
「……親なのに」
呼吸すら、肺の収縮さえも、父には許されていない。
アマツはマーニャの細胞ひとつ増えることすら認めないのだろうか。そんなにも――娘が嫌いか。
父とは、親とは、こんなに息苦しいものなのか。いいや違う。アリは……フニの父親は彼なりの愛情を娘に向けていた。だからアマツもきっとそう。そのはずだ。
「どうして、親なのに、私を否定するだけなの?」
両手で胸を抑えるマーニャは毒を吐くように心情を言葉にする。
「私はそんなに多くを望んではいけないの……?」
「俺は業を背負い過ぎたんだ。それでも守りたいものがある、家族だ」
――またそうやって、娘には理解できない物言いをする。
父は自分なりに家族を大事にしようとしているのだろう。愛そうとしているのだ。それが分からないほど愚かな女ではない。だけど、愚かではないから、ただ自分を否定するだけの父親には絶望しかない。
否定は、愛ではないからだ。
「ああそう。私は父さんの家族じゃないのね」
比喩のつもりもなかった。いっそ、そうであればいいとすら願ってしまう。
こんな不出来な命は、不出来な命だからこそ愛されるに値しないのだと、その一言を言ってくれるだけでいい。それだけでマーニャは家族の全てを諦められる。
だというのに。
「マーニャ」
他人にはわからないくらい僅かな、優しさを含んだ声音が耳を打ち、ふと思い出す。
幼かった頃、ままならない世界に癇癪を起こすといつも頭を撫でてくれた事。
派手に転んで大声を上げて泣いた日に、両手で抱きかかえてくれた事。
父が連れて行ってくれた夜の山で見た満点の星空。一緒になって寝転んだことも忘れていない。
「お前の呪いはお前一人のものではないんだよ」
マーニャは咄嗟に口を開いていた。
「――じゃあ」
視界が、滲む。喉が震えて縮みあがる。
喉の奥から迫り上がる苦しみを、それでも無視してマーニャは言った。
「じゃあ、なんで産んだの」
父は何も言わない。
「殺せばよかったのよ。知ってるわ、私みたいな不出来な命を殺す親もいる。それが普通なのよ、だからこんな歳まで生きる魔法不全者はいない」
「嬰児殺しを成さなければいけないほどの罪ではないだろう。お前の罪ではないんだよ」
「――だったらどうして!」
不完全な生は父と母の罪。
罰を、二人が背負うというなら。マーニャが両親に望む咎はたったひとつだけ。
「私の生を許したのなら、私が私のやり方で死んで行くことも許してよ」
どこまでいっても我儘な言葉だとはわかっていた。父が問題だと言ったのはフニとの二人旅に関してだ。一人で死ぬことを父はきっと悲しまない。けれどフニを巻き込んで死ぬことは、決して認めない。
マーニャは結局、フニとの時間を諦められないから少女の人生を奪おうとしている――。
傲慢だ。そして強欲だった。
「……お前の出生に寓意はない。全ては、俺とアイラが始めた作為だ」
マーニャが声を荒げたせいか、店内の注目が二人に集まっていた。そこら中にある奇異の視線にマーニャは懐かしさを覚える。幼少の頃とそっくりな状況に何故だか心が踊った。
唇が不出来に歪む。
父と話すといつも思う。
この世は地獄だ。
「運命とでも言いたいの? ふふ……父さんはいつも難しい言葉を使うわ。不器用な人よね。あなたほど生きるのが下手な人も、きっといないわ」
そんな不器用さを母は愛したのだろう。自分よりも長く生きる男を、自分と違い永遠に若い姿を保てる男を愛す勇気が、マーニャにはわからない。わかりようがない。
「私は独りで死ぬわ、父さん」
あなたより先に。
あなたの知らないどこかで。
それが恐らく、唯一の親孝行だから。
その後すぐに父と別れたが、夜になっても部屋に帰る勇気がなかった。
騒がしい店内にもいたくなかったマーニャは喫茶店近くの酒場でワインをひと瓶買い、それを片手に誰もいない学園外れの公園で酒を煽っていた。
「……」
随分、飲み続けている。傾いだ視界に映る生垣や花壇は不安定に揺れていて、自分がひどく酔っているのがマーニャにはわかった。
自棄になっている。その自覚もある。
それでも部屋に戻ってフニの顔を見るくらいなら、ここで酔いつぶれたまま寝てしまったほうがマシだと思えた。防寒魔法を使えず凍え死ぬのならそこまでの人生だろう。
瓶をつかむ手に力を込め、グイッと一気に酒を胃へ押し流す――押し流そうとする。一滴もマーニャの口を潤すことはなかった。
見れば既に瓶の中は空っぽだ。
「……あーあ」
衝動的に空き瓶を放り投げようとした。しかし、放る前に空き瓶は手から滑り落ちてしまう。ベンチにコトリと落ちるだけで、望んだ結果を彼女に与えない。
空き瓶すら満足に掴めないなんて。マーニャの口元が皮肉げに歪む。
「だらしがない……」
こんな姿を見せたらきっとフニは失望する。少女の瞳に失意が混じるのを想像して、マーニャは喉の奥が灼けつくような苦しみに嘔吐きそうになった。
やはり嫌だ。
帰りたくない。こんな自分、『お姉さま』ではない。今日はどこか学園の外の安宿にでも泊まろう。そう思い立ち、体を起こそうとしたマーニャは。
「あ……」
見た。気づいた。
公園の外周。そこで蹲りながら頭を抱える栗毛の少女に。
「……っ」
自然と目が熱くなった。
そっと、出来る限り音を無くして歩み寄る。こちらに背中を向けてうんうん唸っている少女は「どんな顔で会えば……」とよくわからないことを言っていて。なんとなく、フニが自分のためにここに居てくれる気がした。
「フニ」
意識していつもの自分の声を出してみた。フニが好きな『お姉さま』の声を。
バッと顔を上げた少女が首を捻る。まん丸に瞠った少女の瞳に、赤い顔の自分が映っていた。
「お、お姉さまどうしてここに……」
「どうして、って。なんとなく一人になりたかったから、というか……フニこそどうしたの? こんな夜中に、そんなところで」
「あ、えと、その」
膝を伸ばしてこちらに向き直ったフニは、ワンピースの裾をきゅっと握って俯いてしまう。言葉に迷ったフニがよくする仕草だ。毎日見慣れた少女の仕草が今日はとても可愛く見える。
会いたくなかった。
無様な自分を知られたくなかった。
なのに、マーニャは泣きそうなくらいフニと共に居たかった。
「なにか用事? ひょっとして暇なのかしら? ねえ、よかったら私も一緒していい? 少しね、フニと一緒にいたいの」
詰め寄り矢継ぎ早に問いかけて、ハッと気づく。「ええと……」と目を合わせない少女の躊躇った様子に。
「……やっぱり駄目かしら。そうよね、フニにだって一人になりたい時くらい……」
「ご、ごめんなさいー!」
突然フニが頭を下げる。ぱちぱちと瞬きするマーニャの前で、頬を赤く染めたフニは口早に言う。
「お姉さまが若い男の人と話してるのが気になって、後を尾けてしまいました。あの、その、別に魔法で盗み聞きとかはしてないのでご安心を……」
「……もう」
ああ、なんだ。
父が言うほど世の中は残酷でもないじゃないか。
フニがいてくれるなら、それだけで十分世界は美しい。
「フニは、嫉妬深いのね」
「しっ――嫉妬!? そんなつもりじゃ……!」
赤い顔をさらに上気させるフニ。今のマーニャにはフニの爪すら可憐に感じられて。
「ひゃっ」
だから、余す事なく少女を感じたいから、マーニャはフニを抱きしめた。耳元で鳴った少女の掠れた悲鳴。心臓がドキドキしているのはどちらの鼓動だろう。
「あの人は私のお父さんよ」
「え……」
囁いて、フニの体から強張りが抜けていくのがわかって、マーニャはなんだか嬉しかった。
フニは嫉妬したのだろう。そしてその嫉妬が場違いなものだと安堵した。
マーニャはそれだけ愛されている事になる。愛してくれる少女に触れられる。
「お父さま、ですか?」
「そう。私の事が……好きではないの」
父には父の理論がある。
それを受け入れることはやはり難しい。
何故ならこんなにも想ってくれる少女を手放す事は、弱さばかりで構成されたマーニャには到底無理だからだ。
「ねえフニ。旅に出たら、一緒にすてきな思い出をたくさん作りましょうね。いっぱい、いーっぱい、二人だけの思い出を」
少女の柔らかい手を取って、頬に当てた。いつもなら近づかない距離にいる少女の、いつもなら感じられない感触。
マーニャの頬がしまりなく緩むのを、フニは小さく尖らせた唇をむずむず動かしながら、赤い顔で見つめている。
「む……お姉さま、だいぶ酔ってますね?」
吐息に混じる酒気か、赤い顔にか、フニがじとっとした半眼になった。
「ふふ。ばれちゃった?」
「ばれちゃったって、もう。お姉さま子供みたいです」
「今日は夜通し飲みたい気分なの。ね、フニ、部屋に帰って飲み直していーい?」
「……はい、お伴します」
少女がにっこりと笑うだけで、世界が色づいていく気がした。
きっと二人なら大丈夫だ。
旅も。これからのことも。
きっとうまくいく。
…………そう、信じてる。