それは二人が旅を始めて一年ほど経った時のこと。
数々の出会いと別れと経験を、二人が二人だけで積み重ねていた頃。
冬。
「わあー……」
フニが眩しそうにその街の外観を見上げている。
くすみない白の煉瓦で建てられた家々。丁寧に磨かれた凹凸のない石畳の道は活気で溢れ、無数の人が商いに声を張り上げている。丁度門から入ったばかりの二人は、期待に顔を輝かせていた。
「ここはどんな街なんでしょうかねっ」
「明日、お祭りがあるそうよ。結構大きなお祭りみたい」
「お祭り……」
フニ達の横を大人たちが丸太を抱えて通り過ぎていく。広場で大きな営火を起こすためらしい。マーニャの持つパンフレットによると、明日の夜には街を彩る大火が上がるという。燃え移ろう炎を見ながら二人でお酒でも飲めたら美味しいに違いない。
「楽しみです」
「私も」
二人で笑い合う。マーニャがぐいっと伸びをすると、彼女の背中にある重たげなリュックがゆさゆさ揺れた。この街に着くまで、それなりの日数を歩いている。魔法が使えない彼女にとってはそれなりの疲労が溜まる行程だ。
「さあ、今日は宿をとってゆっくりしましょうか。明日はお祭りだしぐるっと街を回って……」
宿にも目星をつけてあるのだろう。さすがお姉さまである。フニのまんまるの瞳がきらきら輝いた。
と。
「あら」
歩きながら話していたマーニャがふいに足を止めた。じっと一点を見つめる黒い瞳にならって、フニも視線の先を辿ると。
そこには、ぴいぴいと泣く幼女がいる。街道の真ん中で立ち止まって大声を上げる幼女を、周りは少し腫れ物に触るような雰囲気で避けていく。フニが何か言う前に、マーニャは躊躇いのない足取りでその幼女へと歩いていった。
「なにか困っているの?」
優しい声音だ。
マーニャは人に、更に言えば幼子に警戒心を抱かせない術を熟知している。
「おざいふ、どられぢゃっだあ」
「そう。お財布を盗まれたの」
こういう時、お姉さまはすごいな、とフニは思う。フニならば泣き喚く幼女を素通りしていた。マーニャは未知を恐れない。
「おねーちゃんに、ぷれ、ぷれぜんとっ、」
「お姉さんに贈り物がしたかったのね」
大粒の涙を目に溜めてこくこく頷く幼女。小さな顔をハンカチで拭いてやりながら、マーニャは隣で手持ち無沙汰に突っ立っているフニへと振り返った。
フニは、うう、と喉奥で怯み声を上げてしまう。
彼女の瞳が自信満々に光り輝いていたからだ。
「フニ、助けてあげましょう!」
そう言うだろうという気がした。フニはつい、唇を尖らせてしまう。
――せっかく二人だけで旅をしているのに……。
少しむくれているフニと静かになった幼女に見上げられる大人の女は、うーむと細いあごに手を当てている。
「とはいえ手がかりもないのはどうしましょうね」
「……あっちだと思います」
フニがのそのそと家と家の間、裏路地の方を指差す。マーニャが同じポーズのまま目を丸くした。
「わかるの?」
「魔法の残り香……のようなものを魔眼が検知しました」
フニの両眼は既に魔眼の施術を受けている。魔法検知の魔眼だ。
「恐らくは無色無形の腕を作って、財布を盗んだのかと」
「悪いことをする人もいるのね」
「世の中いい人ばかりではないのです」
魔法を悪用する人間もいるということ。
魔法を起動するのに必要な『魔力』と呼ばれる透明な物質は、宇宙全域に存在している事が既に判明している。そしてこの世界の生命体は、魔力を操作することで――これはあくまで机上の空論でしかないが――
つまりだ。
人が最も恐れているのは、魔物ではなく倫理と道徳を失った同胞である。故に徹底した道徳教育が幼少時に行われるし、攻性魔法への対処も徹底して叩き込まれる。それでも癌細胞のように悪事を働く人間は絶えないのだから、個人が力を持ちすぎるのはいけないことなのだろう。
「おねーちゃん、すごーい」
「ほんとね」
などと小難しいことをフニが考えている内に、幼女とマーニャが尊敬の眼差しをしている。幼女はともかくマーニャからいつも以上に見つめられて、フニの頬が紅潮した。
「こんなに綺麗な瞳が、人のためにもなるなんて」
「わ、ひゃっ、ひゃ」
背を曲げたマーニャが、少女の額に掛かる栗毛を払って嬉しそうに瞳を覗き込む。至近距離の美女から、甘い吐息すら感じられて、びゃ、と変な声が喉奥から漏れた。美人の顔が近い……!
「あなたがね、私との旅のために眼を改造したって聞いた時は卒倒しそうになったのよ」
眉を曲げて憂う顔も、自分のいじけた様子とは全く違って絵になるのだから美人はずるい。さっきからフニの心臓はバクバクと音を鳴らし続けている。
「そそれはお姉さまを守るためで……!」
「でも痛くなかった? 旅のためとはいえ……」
「い、いいえっ! 全然! そんなことは! そ、それにこの眼、とっても便利なんですよ! 魔力保存空間も増えたことで追加で魔法を付与することも可能です! いざとなったら目からビームとか……!」
外科手術による魔法移植――『魔装化』とは二種類に分類される。魔法的改造と、肉体的改造のふたつだ。基本的に魔法的改造の方が人体への負担は少ない。魔法的改造とは、つまるところ魔法を幾つかの細胞に植え付ける作業であって、肉体変異をもたらすような大がかりな代物ではないからだ。
肉体的改造はその真逆、物質的構築・配置・系列を改造することによって人体の一部を魔法理論そのものへ変質させる。究極的には人間であることを捨てる。
フニの両眼は魔法的改造手術を受けているに過ぎないので、肉体的に『人外』というわけでもない。
数百年続く魔物との戦争で、未だに防衛線を一度も下げたことのない最前線の魔装化歩兵はフニの比ではないほどの魔法的・肉体的改造も施されているらしいが……。
「まあ、フニがいいならいいけれど……」
マーニャはあんまり納得していない様子でそう言う。肩にかかる髪を撫でつけるのは、彼女が落ち着かない時にする仕草だ。
……やっぱり、魔眼にする事を言うべきだったのだろうか。
フニは自分の身がどうなろうが興味がない。大事なのは、敬愛するマーニャを守れるかどうかなのだから。そのためならフニは何にだってなれるのだ。
――さて、幼女の財布を探して歩くこと十数分。3人は曲がり角から顔だけ出して、フニによれば犯人がいると言うその建物を見つめた。
「あれですね」
「思いっきりガラの悪そうなところだわ」
どこの街でもそうだが、やはり外周部というのはならず者が住み着くようだ。街の外れに位置するその建物は、補修もろくにされてないのか外壁はあちこちが剥がれており、ヒビだらけだった。更には蔓があちこちに絡みついていて余計に鬱蒼としている。乾いた冬だというのに、周りの空気もなんだかじめついている気がした。
「テーブルの上に財布らしきものが大量にあります。その中に、猫さんの顔を可愛くした感じの財布がありますが……」
「それ! それー! ねこさんねこさん、わたしのおさいふー!」
「なるほど、他にも財布を盗んでたのね」
物質透過の視覚魔法で建物内を見たフニは、いつもより険しい顔で続けた。
「お姉さま、ここはわたしに任せてください。非殺傷の攻性魔法で室内を一気に制圧します」
どこぞの特殊部隊じみた発言をするフニは、既に臨戦態勢を整え終えている。魔法が使えない=戦闘能力皆無なマーニャよりも、フニはこういう荒事は自分が適任だと考えていた。賢者の血を継ぐ稀代の天才少女は、その戦闘能力もずば抜けて高いのだ。
だが、丸くて大きな瞳を剣呑に尖らせるフニの頭に、そっと柔らかな熱が触れる。――マーニャの手だ。
「そんな荒っぽいことしなくても大丈夫」
自信に満ちた様子でウインクまでするマーニャに、フニは狼狽してしまった。
「で、でも一体なにを……」
「えー、こんな時のためにー、私は文庫本サイズの聖書を常に持ち歩いていたりします」
えへんと胸を張るマーニャの意図が読めず、フニも幼女もきょとんと年上の女を見上げるだけ。マーニャは少し頬を赤く染めつつ「こほん」と咳をひとつ。
「任せて。私、学園にいた頃は助っ人で演劇部の手伝いもしてたわ」
マーニャは聖書を片手に完璧な笑顔をした。
彼女が時折、劇に参加して役にのめり込むような演技をしていた事は、フニも承知だ。というか彼女が飛び入りで出演した劇は全て記憶している。だから彼女に役者の才があることも分かる。
けれど……。
だからといって自ら危険を冒す必要なんてないのに。
「ね。信じて」
面白くないと顔に書いてあったのかもしれない。頭を撫でるマーニャの手つきは、子供をあやす動きをしている。
フニは13歳だ。マーニャはもうすぐ23歳になる。
10歳年上の彼女に子供扱いされるのは当然のことで、仕方がない。だけど本音を言うなら――わがままを許されるなら、フニはもっとマーニャに頼ってほしかった。自分を必要としてほしかった。
二人は二人だけで旅をしている。
「……わかり、ました。でも、危ないと判断したらすぐ飛んでいきます」
「ん。ありがとう」
最後にフニのふわふわした栗毛をひと撫でして、マーニャはすえた臭いのする建物へと近づいていく。幼女がごくんと喉を鳴らした。
「……」
「……」
玄関扉の前に立つマーニャ。彼女は落ち着いた様子で呼び鈴を鳴らす。しばらくして扉が開き、怪訝そうな顔の男が現れ……。
「――こんにちは。突然ですけど、主の導きに興味はありませんか?」
マーニャはこの時、宗教勧誘の女であった。
ニコニコとやけに明るい笑顔と、聖書を差し出す形の両手。豊かな胸が腕に押されて形を変えるのを、男は直視することになる。
「あ。ああいうひと、わたしの家にもくるー」
「そ、そうですか」
フニは気が気でない。無防備に聖書を開いて信仰の尊さを説くマーニャは立派な宗教勧誘の女になりきっているし、彼女の類稀な美貌に男が鼻の下を伸ばしまくっているのも見えるのだ。
「どうでしょう? よければもっと詳しい話をしたいのですけれど」
マーニャの上目遣いは体に悪い。フニは自分に向けられた眼差しでもないのに、彼女の横顔を見るだけで体中が沸騰しそうになっていた。
男は二つ返事で頷いて、マーニャを屋内へと誘う。フニはいつでも魔法で男を吹っ飛ばせるように、複雑な魔法理論を構造していく。
そうして無限のように長い10分が経過し――マーニャが笑顔で建物から出てきた。当然のように玄関からだ。その手には子供らしい猫さん財布が。
幼女が諸手を上げて大喜びしている。マーニャも機嫌良さそうにニコニコと目を弧にしている。フニだけがおろおろと顔を青くしていた。
「ど、どうやって財布を?」
「こそっと盗んだわ」
「魔法も使わずにそんなことができるんですか……」
「手品の本を読んだことがあるの。視線誘導の仕方とかね。真似てみたら案外うまくいくものね」
この時既に、マーニャは人を騙す才覚に目覚めつつあったのだろう。彼女には「やろう」と決めた事を「やれる」才能があり、そして何より圧倒的な自信があった。それは決して誰もが持つ力ではないし、勿論フニには欠片もないモノだ。
そして、彼女はそんな素晴らしい力を、フニのためだけでなくあらゆる人へと振りまける。
マーニャは誰にだって平等だ。
「お姉さまは……すごいです」
そんな言葉が勝手に口から出た。今自分が感じている、お腹の奥で鉄球が沈んでいくような重苦しさが何なのかも分からないまま。
「あなたがいなければ財布のありかも分からなかったのよ。誇るべきはフニの方よ」
あくまでフニの手柄だと笑う彼女は、見上げると逆光で眩しくて、ステキな顔はよく見えなかった。
大喜びの幼女を連れて表通りまで戻ると、緩みきった笑顔の幼女を見つけて近寄ってくる女がいた。
「あっ! いたいた! 全くこんな時間まで遊ぶなっていつも言ってるだろう?」
「あー! おねーちゃん!」
幼女は二人の下を離れ、女のお腹に突進する勢いで抱きついた。短く切った髪に、さっぱりした笑顔と少し荒れた指、素の爪色。水仕事で手が荒れた主婦というよりは、商売人の手に見える。あれが姉だろうか。
「まったくこの子は……」
「あのねあのね、わたしのお財布、おねーちゃん達がとりかえしてくれたのー!」
「うん?」
幼子特有の要領を得ない喋りに、首を傾げた女がこちらを見やる。見知らぬ女に見つめられて、フニの体が強張った。不安げに隣のマーニャを見上げて――あれ。
「妹の世話をしていてくれたのですか? よければお礼に……って、おおお?」
「嘘……まさかこんな所で会えるなんて……」
信じられないと目を瞠るマーニャ。パチパチと何度も瞬きをする女。二人は同時に口元を綻ばせる。
「先輩、先輩じゃないですか!」
「マーニャか? おおマーニャじゃねえか!」
――フニは、少し、嫌な予感がしたのだ。
「いやーははは、まさかマーニャと地元で会えるなんてな。なんだお前、旅してんのか?」
「ええ」
「ちゃんと卒業したか?」
「そこはしっかりと」
「うむ、よろしい」
大人の女二人の会話が続いている。
フニはそれを聞いていることしか出来ない自分が歯がゆかった。
「で、その子は旅の仲間ってとこか」
「はい先輩。フニと言う子で……」
「へー。利発そうな子じゃないか。うちの妹にも爪の垢を飲ませたいね」
女の話題が自分に向いたのをきっかけに、ようやくフニは硬い言葉を口に出来た。
「お知り合い、ですか」
「フニと出会う一年前まで、一緒の部屋だったのよ」
「……」
それは、フニが知らないマーニャの“かつて”だ。
フニの目には歯を見せて笑う女が卑しく見える。
「自己紹介が遅れたな。アズゥラトリクス・ピスト・サバーニャだ。アズルでいいよ」
知らない名前。
知らない女。
マーニャは親しげにアズルへと一歩近寄る。遠のいていく。
「先輩、卒業してから実家で商売を?」
「小さな花屋をね。ほら、あたし専攻が冷却系の魔法だったろ? その知識を活かしていつでも新鮮な生花を配達できるのがうちの強みってわけ!」
「上手にやってるんですね」
マーニャの、目上の者にする敬語よりも砕けた口調に、心がチリチリと焦げ付くように痛んだ。
少女の瞳は何かを期待するようにじっと彼女だけを見上げている。逆光の夕焼けがどれだけ眩しくても、女の笑顔が今は別の誰かに向けられていても。
「なあなあ、今日はどこかに泊まるんだろ? うちに来なよ。色々話したいし」
「いいですね。……あ、でも」
ふいにマーニャの顔がこちらを向いた。ずっと彼女の横顔を見ていたフニは慌てて俯く。ちいさな両手が自然とワンピースの裾を握った。
「ごめんなさい。フニのことを考えてなかったわ……フニ? 体調、悪いの?」
「な、なんでもないのです。なんでも……」
――気取られたくない。
フニの知らない、共有できない時間を過ごした女と、マーニャが一緒にいることが面白くないなんて。
とっさに浮かべた微笑みが思ってもないことを口に出していた。
「お姉さまの大事なご友人なら、わたしもお話したいですから」
「そう! よかった」
マーニャの笑みに邪気はない。旧知の友人に会えた喜びだけで輝く表情に、フニは思わず下唇を噛んだ。心臓が重い……。
アズルの家は、一階を花屋として改装した3階建ての建物だった。
「ふふふ、知ってるかなフニちゃん」
二階のリビングでは空の酒瓶がすでに3本転がっていた。
アズルとマーニャの頬を、魔法の白熱照明が朱色に染めている。
気さくに話しかけられたフニは、しまりのない笑みを浮かべるアズルを見る。
「マーニャはねー、それはもう昔はやさぐれた生意気娘だったんだぜ?」
「ちょっと先輩。昔の話ですよ」
マーニャが口を尖らせる。フニがめったに見ることのない、彼女の幼げな拗ねた表情だった。
「……そうなのですか」
フニは両手で持っているカップの中身を一気に煽った。葡萄酒の渋みが喉を焼いて胃に流れ込む。
「本当に昔の話だからね? フニと同じくらいの頃よ」
「そんなに昔から……ずっと……」
口がひとりでに動きを止めた。その先に続く言葉が浮かばないのだ。フニをにこにこと見つめる女二人の眼差しから逃げたくて、カップに酒を注ぎまた煽る。
「あの頃からマーニャは綺麗な子で、めちゃくちゃモテてたよなあ。女子にも告白されてたろ」
「そんなこともありましたね」
2人の楽しげな会話を聞いていると、揚げた芋にチーズを乗せて胡椒を振りかけた酒の肴に手をつける気にはなれない。アズルが作ったものだからだ。
「……」
「じーっ」
と、フニが黙々と酒を飲み続けていると、いつのまにか隣にいたアズルの妹がフニを羨ましそうに見上げていた。
「な、なんですか」
「お酒、おいしそうー……」
「まだメルクルにははやいなー」
「わたしだってもう、浄化まほー使えるもん!」
今更だが、この幼女はメルクルと言うらしい。
どうでもいい。
「酒と浄化魔法といえば、マーニャは酒飲むのが随分遅かったよな」
「先輩にはよく飲まされそうになってましたね」
「へへ、悪い悪い。マーニャ魔法使えないもんな」
アズルは気安くそう言う。フニの眉間に力がこもった。マーニャが魔法不全だということは、おいそれと口に出せるものではないのだ。少なくともフニはそう考えている。
「仲がいいんですね」
つい、棘のある言葉が出た。出してから雰囲気を悪くするような言葉だったことに気づき、どうすればわからなくなった。マーニャにだけは嫌われたくないのに。
フニは恐る恐る隣の彼女を上目に見やる。マーニャは、笑っていた。アズルに笑いかけていた。
「腐れ縁ですよね」
「つめてー女」
二人の言葉に、フニは、自分には向けられたことのない艶があるのを感じた。錯覚した。喉から溢れそうになった感情を、少女は酒で誤魔化す。無理やり喉奥に押し流す葡萄酒の味はもうわからなかった。
気づけば視界はふらついていて、フニの顔は茹でられたように真っ赤になっている。のぼせた顔で隣を見れば、マーニャはアズルと楽し気にしていて、フニはもう寝てしまおうと考えた。
「お姉さま、わたし、ちょっと飲み過ぎたみたいで……」
「珍しいのね。フニが酔うまで魔法を使わないなんて。――じゃあ私がおんぶしてあげましょうか」
「…………え」
魅力的すぎる提案だった。
酔いの混じる微笑みに、フニの暗い気持ちが溶けるようにほぐれていく。我ながら簡単すぎる心に恥じることも忘れてコクコクと頷いた。
「し、していただけるのなら、ぜひにでも」
「あら。今日は珍しく甘えん坊ね」
そう、なのだろうか。
自分は、もっと彼女に甘えてもいいのだろうか。
変な酔い方をしたフニの脳内をぐるぐると答えのない疑問が巡り巡る。気づけば目の前に、背中を見せて屈むマーニャがいた。
「あ、あの。重かったらすみません……」
「任せて」
細い背中にフニはどきどきした。こんな、フニの両腕でも輪を作れるような細身で魔法も使わずに旅をしているのだから、やはりマーニャはすごい人なのだ。
ぎしぎしと軋む階段を、一段一段二人で登る。薄暗い登り道の中では、二人の吐息も混じるようだった。
「フニ。ごめんなさい」
「うぇっ? な、なにがですか?」
階段を登る途中。唐突に言われ、ドキリとした。
「先輩のこと。フニにはあんまり楽しくなかったでしょ」
「……そんなことは」
フニは嘘をついた。下手な嘘をマーニャは笑わない。
「フニが私の事をすごく大事にしてくれてるのは、身に染みて分かってる。ありきたりな言葉ではきっと足りないくらい感謝してるわ」
「……嬉しいです。そんな、わたしなんかにはもったいない言葉を」
3階までの階段は長いようであっという間に登り終えてしまった。マーニャが扉を開けるとこじんまりとした寝室が。おそらく客人用だろうその部屋は狭く、同じようにベッドも小さい。
2人で横になればきっと肌が触れ合うだろう窮屈なベッドで眠るのだと考えたら、かあっと顔が熱くなった。
「先輩はフニとは違うタイプの人だから、きっと少し納得がいかないでしょうけど、いい人なの」
マーニャがベッドに背を向けて腰を下ろす。フニは名残惜しく感じながら彼女の背中から離れ、ベッドの縁に座り直した。
「わたしはお姉さまといられるならそれだけで十分です」
「私もよ」
マーニャもずいぶん酔っているのだろう。赤い顔でフニの前に座り込むと、そのまま太ももに額を押し当ててきた。甘い花の香りがほんのりと漂ってきて、そして何よりいつも以上に無防備に距離を詰めてくるマーニャに心臓の鼓動が跳ね上がる。
「お、お姉さまも、今日は甘えん坊ですね?」
甘ったるい空気に耐えられなくなって出た、茶化す言葉を、マーニャはくすりと笑ってくれる。彼女のうねり輝く黒髪が微かに揺れて、フニの体をこそばゆく撫でた。
「明日のお祭り、一緒に回りましょうね」
「は、はい」
あのね、と、顔を伏せたままマーニャが言葉を区切る。そうやってはきはきと喋らない時は、彼女なりに恥ずかしいことを言おうとしている時だ。
何か大事なことを言おうとしている。肩に自然と力がこもった。――そうして聞こえたのは。
「今はあなたが私の大事な人だから」
……………………今は?
「わたしは……わたしじゃ……だめですか?」
「フニ?」
マーニャが顔を上げる。自分が見下ろす彼女の顔には疑問の表情だけだ。――マーニャは、何も分かっていない。
「わたしは根が暗くて、すぐうじうじして、お姉さまを見上げるしかできなくて。そんなわたしではだめですか?」
「あなたが居たから、ここまで来れたのよ」
フニはマーニャさえいてくれればいいのだ。本当に、たったそれだけで良かった。金も、名誉も、地位も、何も必要ない。山奥の家で過ごした今年の夏のような生活でいい。
「わたしは…………お姉さまと二人だけでいいのに」
……旅なんて、いらなかった。
「どうしてお姉さまは、こんなに……」
――こんなに?
何だというのだろう。
こんなにも尽くす自分を見てくれないのか、とでも言いたいのか。
頭がぐらぐらする。吐きそうになる。気持ちが悪い。
「…………う、う」
「フニ?」
甘い、焼いた砂糖菓子のような素敵な声。いつも勇気をくれる大好きな人。
目の前に美女がいた。
フニ・フラ・フリペチーノを選んでくれたはずの美女が、その柔らかい手で頬を撫でてくれる。
「吐きそうなの?」
彼女は素晴らしい人で、フニかどれだけ鬱屈した性格かなんて分からない。フニだって分からなかった。唐突に湧いたドス黒い感情がこんなにも凶暴だなんて。
マーニャは、きっと拒絶しない――。
「……!」
魔法でマーニャを拘束した。瞬間的に編まれた魔法は即座に女から行動の自由を奪い、そのままベッドに投げ飛ばして。
「きゃっ」
投げ出された美女はそのままフニに覆い被され、簡単に組み敷かれてしまう。
肌蹴た胸元。ほっそりした色白の首筋。
なめらかな鎖骨と、ずれて肩から浮いた下着の肩紐。
何もかもが美しくて。
何もかもが無防備で。
ああ――こんなに綺麗な人が、こんなに弱いなんて!
10歳も年下の小娘にすら、マーニャは抵抗できない。
魔法不全、なんて甘美な響きだろう。
「フニ……辛いの?」
「……え?」
しかしマーニャはフニを恐れない。魔法で身動きが取れなくても、自身を押し倒した少女が荒い吐息をしていても、何一つ疑わない。
女は悲壮な顔で、自分を責めるのだ。
「私が、なにか、酷いことをしたのね?」
「――ち、がっ。わたし、わたしっ、お姉さまが……お姉さま……!」
「いいの。あなたが自分を罰する必要なんかないのよ」
魔法で強化された膂力は、いつの間にかもとに戻っている。マーニャを抑えていた小さな手を、その強張りを、彼女はそっと解きほぐして抱きしめた。
「私にできることなら何でも言って」
あまりの善性。聖母のよう。
フニは自分がどれだけ醜い存在かを突きつけられたような気がした。
「――ひぐ」
醜い自分。釣り合わない自分。選ばれるべきではなかった自分。それでも、彼女を独占したい自分。――全て許されることではない気がした。彼女が笑顔を向けるべき相手ではないのだと。
喉が、震える。
心臓がきゅうと縮み、背骨がおかしく曲がりだす。フニの丸い瞳から大粒の滴が溢れだした。
「あああああぁぁぁぁあああ……ああぁぁぁああ……」
そうしてフニが初めて、マーニャの前で泣いた。ぐちゃぐちゃになった感情が呼ぶ泣き声は、少女自身止め方を忘れたように零れ続ける。
「――――」
マーニャは呆然とそれを見るしかなかった。頬に落ちる少女の雫を、瞠ったまま震える眼で、ただただ。
――その時、マーニャはある言葉を思い出していた。
『お前はあの少女を不幸にするよ』
フニが、泣いている。
きっと自分が泣かせている。
「やっぱり」
……父は、正しかったのだろうか。
「――楽しくなかった?」
フニには知らないマーニャの時間がある。マーニャが知らないフニもいる。父に言われた言葉をフニは知らない。マーニャも言うつもりはなかった。
だとしてもその一言だけは、決して言ってはいけなかったのだ。
「――――!」
フニが姿を掻き消した。
直後に怒号じみた爆音と衝撃――マーニャには反応できない速度で、魔法を使ったフニが外へと飛び出たのだと気づいたのは、部屋の窓が開いているのを見てからだった。
「フニ! 待って! 違うの! そんなつもりじゃなかった!」
叫んでも、帰ってくる言葉はない。マーニャは窓際に飛びつく。恐らく飛行魔法を使った少女を暗夜の中から探すのは至難の業だ。
あの柔らかな栗毛はどこにも見当たらない。
全て黒雲の中に消えてしまった。