マーニャ達が魔王領から帰ってきて半年が経った。
つまり、魔物との和平を提案したマーニャが、洗脳を疑われ幽閉されてから半年が経過したという事。濃密な生の匂いで満ちた夏が終わり、秋が過ぎ、誰もが吐く息を白くする冬が訪れていた。
石造りの狭い室内――監獄内に物は少ない。人ひとり横になるのがやっとの小さなベッドと、椅子ふたつと机がひとつ。無機質に冷え冷えとした空間には、小さな鉄格子の窓からしか外界の情報が得られない。
粉雪が静かに降り続けている。監獄周辺に音はない。時折吹くびゅうと冷たい風が女の――マーニャの体を震えさせた。ベッドの上で両腕を擦る。
「まさか暖房もかけてくれないなんて」
一人ごちる言葉を、凍えた石張りの壁が吸い込んでいく。
最近は審理官が来ることもまばらになった。もう、語るべき言葉は不要なのだろうか。
「今頃、私の処遇で会議中なのかしらね」
気楽そうに小さく鼻歌を歌いながら、ブラシで髪を梳くマーニャ。質素な白の長衣だけを着る彼女は半年でずいぶん髪を伸ばしていた。背中の中ほどまであった豊かな黒髪は、既に腰までを覆う綿菓子のようにやわらかく膨らんでいる。暇な時間を潰すため丹念に梳かれた黒髪は冬の乾燥した大気にあってなお、艶を増している気さえした。
何にせよ、だ。
女勇者は半年間の幽閉など気にせず過ごしていた。――今日までは。
こつこつと足音が近づいてくる。来訪を待つしかなかったマーニャは、さすがに足音から人数を割り出す術を身に着けていた。
一人。
それも男性が鳴らす硬い足音。
マーニャは厳重な鉄製の扉へと目を向ける。やがてゆっくりと扉は開き。そこに。
「……ああ、そう」
そこに居た若い男に、マーニャは醒めた目をして呟いた。
「情にでもすがらせないと駄目な局面まで来ているのね」
青い瞳。黄金の髪。
聡明さと知性を湛えた意志の強い眼差しも。枯れた表情も。何ひとつ、似る事のない男。いつまでも若い青年。娘より先に死ねない父親。子の老いた姿を若々しいまま見下ろすしか出来ない人。
推定年齢326歳、アマルツィア・アマルガム・ベネティード=フィフス。
マーニャの父親がそこには居た。
彼はただじっと自身の娘を見つめて、ぽつりと言う。
「すべて聞いた」
誰に、とも。何を、とも。
マーニャは父に問うべき言葉を持てない。
部屋の主の承諾なしに椅子へと座ったアマルツィアを、マーニャは向かい側の椅子に座ることも拒絶した。
ベッドの上に腰掛けたまま、邪悪に笑う。
「あなたの娘は大罪人よ。悲しいかしら」
「ああ、とてもな」
悲し気な顔ひとつ見せないで頷く男に、マーニャはつまらないと言いたげに笑顔を消す。
「何をしにきたの」
「古い軍部の知り合いに……まあ後輩だが……そいつに頭を下げられた」
「へえ。父さんにも後輩なんてものがいたのね」
嫌味を聞きにどこかも分からない監獄まで足を運ぶ父ではない。間違いなく、マーニャの真意を探るため、そして説得のために軍部から要請されてここまで来たはずだ。
軍部の、その後輩とやらは知らないのだろう。
マーニャとアマルツィアの関係は冷え込んでいる。
学生時代、フニとの旅を否定されて以降父に会ったのはたった一度きり。勇者として戴冠式に臨む前日だけだ。
「ならその後輩さんに聞いているんじゃない?」
何を。と、男の蒼い眼差しが言葉もなしに続きを促す。マーニャは肩を竦めてはっきりと言った。
「もうすぐ処刑されるんでしょ、私」
それも秘密裏に。
「……」
沈黙は肯定だった。
ままならない現実だけがここにはある。結局、マーニャがどれだけ言葉を重ねても、魔物へ寝返る可能性を人は否定しきれなかった。これだけ無力な女一人を恐れて、それでも魔物との戦争は続けるというのだから笑える話だ。
「私は……あなたの知らないところで死ぬわ」
毒のような言葉を、マーニャは父から顔を背けて呟いた。それはまだ学生だった彼女が、卒業間近の頃に会いに来た父へと言った言葉だ。
「ねえ、別に私は死んだっていいの。なにも成せずに無価値なまま死んだってどうでもいい。けど、フニだけはお願いだから助けてあげて。あの子はただ私に付いてきてくれただけよ」
「…………俺はお前の処遇に関してしか聞いていない」
重い口を開けば、父の言葉は端的な救いをもたらす。いつもそうだったな、と思いながらマーニャは頷いた。
「ならいいの。心残りはないから」
安堵の息を吐いて、半年間一度も顔を見ていない最愛の少女を想いながら目を閉じる。上半身をベッドへ放り倒せば、豊かなうねりを含む長い黒髪が、マーニャを包む繭のように形を変えた。
「なあ、マーニャ。お前は結局どこへ行きたかったんだ」
そうやって脱力したマーニャへと、父は問うた。
疑問の言葉を無視できるほどの雑音がこの監獄内には無かった。あるのは、雪の降る音すら聞こえそうな無音。
「学生の頃、卒業間近の時に父さん言ったわ」
どこでもない遠くも、ここではないどこかも、そんなもの何処にも無いと。
――その通りだった。マーニャは同じ姿勢で天井を眺めたまま浅く笑った。
「世界はただ私を弱者にするだけで、私には息をするのも難しい世界だった」
「お前はそれでも、旅をしたんだろう。あの少女と」
「ええ。我を押し通した。無茶もした。無理ばかりした。楽しい事ばかりではなかったけれど、それでも価値ある一年間だった……」
遠くへと思いを馳せる様子で呟くマーニャは、ゆっくりと体を起こす。そして自身の父に向ってはっきりと。
「私は望む未来がある」
だから今も生きているのだとマーニャは言った。寂しげな顔で微笑む彼女はなおも続ける。
「でも、父さんがここに来た事で少し自信をなくしたわ。私は結局……私自身の力では何も変えられなかった。だから最後にひとつだけ教えて欲しいの」
ねえ、父さん。
「母さんの兄は髪が黒かった?」
「それがなんだ」
「母さんには兄がいた。私からすれば叔父にあたるその人は、今から24年前――つまり私が生まれてすぐに死んでいる。そう、2年前に言ったわね」
そうよね? とマーニャはにこりと唇を曲げながら確認した。アマルツィアは淡々とうなづく。マーニャは喜悦の声をあげた。
「ああ、そう。でね、私少しだけ調べたの」
縁談を組まれた際の話だ。実家の別荘を夏の間借りるために、フニと別れて実家で過ごした一週間。その間にマーニャは実家の書斎を調べていた。そこには叔父の写真も残っていて。
「叔父さんの髪は黒くて、瞳も真っ黒だった……私に目元が似ていた」
マーニャは笑う。心臓から溢れだす毒じみた重い脈動に気が狂いかけながら。
胸元の衣服をかき集めるように握りしめて、それでも笑顔だけは崩したくなかった。
――言おう。言うのだ。
生のすべての不幸に起点を置きたいだけだ。
この世の地獄全てに言い訳をしたいだけだ。
「近親相姦」
確証はない。確信も持てない。自信なんてあるはずもない。けれどマーニャは、叔父の写真を見た時に理解してしまったのだ。
「罪よね。ええ、魔力不全なんて遺伝子疾患を起こすには十分すぎる」
愛されて産まれた訳では無かったのだと。
アマルツィアという男と、アイラという女が、愛を育んだ末に望み、願い、祈った“かたち”は三つ。
長女ジーニャは愛で人を溺れさせるほどに美しい。
次女ラナは苛烈な炎に知性を宿せる貴位ある人。
三女のマーニャだけがこんなにも不出来なものであるはずがないと――そう納得してしまった。
「どうして、私を生んだの」
父は何も言わない。目を閉じてただ静かにじっと座るだけ。
無言は、肯定だ。
「あなた達の愛ではない私を、どうして生かしたの?」
否定してほしいわけではなかった。むしろ、肯定だけをマーニャは求めていた。
父の血を継いでいないという事実だけで良い。叔父と母が罪の上に作った命であれば尚良い。不幸の始まりは
自身の境遇に踏ん切りをつけて、マーニャは死ねる。
「22年前に、事故があった」
……だが、父がようやく開いたその口で語りだしたのは、マーニャが想像もしていなかった過去の事。
「基幹インフラを担う魔法の大暴走……ひどい事故だった。街のあちこちで歪な炎や、誘発された魔法群によって破壊されて……」
そして、
「アイラの兄は、アイラを庇って死んだ。アイラはそれでも、腹部に傷を……腹が抉れるほどの傷を負った」
「――――」
言葉が、出なかった。
「……3人目を懐妊して、誰もが浮かれていたんだ。だからアイラが旅行をしようと提案したのを、俺は無碍に出来なかった。しばらくは出来ないからと、今でなければできないことだから……と」
「……」
「そこにお前が……小指にも満たない、お前になるはずだったお前がいた。アイラの兄も、ゆっくりと、死んでいった。満足そうな笑みをしていたがな」
マーニャは聡明で、因果関係の点と点を一瞬でひとつの線に結ぶことが出来る。だから父がどうやってマーニャという存在を作ったのか察してしまった。
「死ぬしかなかったお前を、生かしたいと、どんな形でもいいからこの世界で笑ってほしいと、そう思った俺たちは業そのものだ」
そして、その通りなのだろう。
マーニャへと青い瞳を向けた男は――――。
「マーニャとして産まれるはずだった受精卵は既に死んでいる。だから俺は、アイラと俺の魔力を混ぜ合わせて、お前を作った」
ふいに、ひどく優しい微笑みを浮かべる。
「お前は、人間であって、人間でない。それを不出来さだと罰するのなら俺を憎め」
「……この世で恐らく唯一の、人とは起源を分かつ生まれ方をした、魔物に最も近い“人間”。それが私?」
「そうだ。お前の肉体は魔法を始まりとしている。だから……お前が魔法を使えないと分かった時、神様の罰なんだと思った。お前の罰はすべて俺達の罪だ。背負うべきは、俺達だ」
今なら父の思考の全てが分かる気がした。
アマルツィアは魔物との戦争の最前線すら経験している。そしてあまりにも長く生きすぎた。ただそこに居るだけで魔法研究者から注目される男が、禁忌によって生まれた娘の真実が明かされた時どうなるかを考えた場合、きっと……。
父は、常にマーニャを『愛せない』と言った。
だが『愛さない』とは言わなかった。
それが答えだ。
「俺がお前を絶対に愛せないのは――――」
「いいのよ、もう」
小さく溜息を吐いて、アマルツィアの言葉を止める。微かに揺れた父の体に、マーニャはくすりと笑ってしまった。
「父さんはやっぱり不器用な人ね。だから、そんな父さんのことが好きだった」
生の全てに幸福を置くなら。
それは目の前にいる父親が、マーニャという女へと祈った22年前の『その日』こそ。
「……てっきり、嫌われていると」
「これでも母さんの娘よ」
小さく眉を歪めた表情から困惑を感じ取った。実の娘から嫌われてでも守りたかった家族なのだと思えば、胸には暖かな喜びが満ちていく。
「そっか。私は……“マーニャ”ではないのね」
冷静に抑えなければ泣きそうになる程の甘い喜びを、美しい笑顔にしたまま瞼を下ろす。
「だから魔法が使えなくて。私は人でありながら、魔物でもある――それでも人間だから生を許された」
弱者を許容しない魔物の社会で生まれたなら、例え魔法による受肉だろうと関係なくマーニャは死んでいる。
弱者を許せる人間だから。
弱いだけの者でも、祈りと願いを込めて受け入れる人間だから、マーニャは今ここにいる。
「ああ……。呼吸を許すことは、愛だった……!」
マーニャは、
確かな愛を噛みしめながら笑顔を浮かべ、そして嘯く。
「マリアージュ」
酒と肴、美しい調和、架け橋そのもの。
マリアジュエという名の価値を今こそ示そう。
世界を……変えるのだ。
「貴方達が赤子の私に祈ったその意味を、証明するわ」
甘んじて自身の無力を受け入れていた彼女は既に無い。
笑顔はなく。しかし強い意思の灯る眼差しで――父たるアマルツィアと同じ目で、マーニャはその場に立ち上がり。
「
――男の声が、空間に反響する。
『へえ。じゃあいいのかい。契約を結ぶと?』
「私が死んだらこの体を解剖するなり弄るなり、好きにすればいいわ」
『クク。いいね、契約はここに成った。じゃあ始めようか』
楽し気な声が監獄内に響き渡る。父が警戒を表情に浮かべて口を開き、娘へ『何を』と問おうとした矢先。
『よう人類。俺が見えてるか?』
突如、薄ぼんやりした人型が宙に現れた。
半透明の肉体。人と似た四肢、図体。曖昧な顔立ちに曖昧な笑顔――人を真似るように恭しく会釈までするソレを、マーニャは父に紹介した。
「メフィス・ネフティス=
『四天王、『知性』のヘイズ――俺はただの研究者さ』
口許を半月の弧にする煙じみたソレが、一体どういう存在なのか。アマルツィアは一瞬で理解した。
「
『ご明察。今はお嬢と契約中でな。お嬢が死んだら臓器も肉も神経も徹底的に調べ尽くしたいんでね。自然死を待つに足る』
「マーニャ。お前は、なにを」
「戦争の段階を引き上げるの。やって、ヘイズバイス」
『おうよ。各々用事はあるだろうが、付き合ってもらうぜ? ――って言いたいが、ちとここじゃ狭えな』
ヘイズバイスが腕を振るう。煙となって辺りに溶けたその動きに、アマルツィアが瞬きをした。
直後。
『ここらで良いか』
そこに剥き出しの石張りで出来た狭い監獄はなく。
ただ静かな雪原が広がっていた。
「――転移魔法、だと」
『来な! 魔物が誇る最高戦力達!』
もはや現実は超越されている。
「あたし、参上!」
「ちょ、今いいところだったのに……!」
「む。今日なのか」
そこに獣耳と尻尾を持った魔物が。
そこに腰から蝙蝠羽を生やす女型の魔物が。
そこに灰色の巨躯を隆々と鍛え上げた魔物が。
3体の魔物が、マーニャを囲うように立っている。
「あらっ! マーニャさん御髪がずいぶん伸びましたね! それくらい長く伸ばしても似合いますわ素敵ですわ~」
「すげえ、もしゃもしゃだ! うへへへ……」
「他人の髪に顔を突っ込むな」
そして、魔物達だけではない。
呆然としたままのアマルツィアの横に、無数の人々が出現した。現れた彼らの顔を見てアマルツィアの眉がぴくりと動く。実の娘でないと分からないほど小さく、しかし確実に、アマルツィアは驚いていた。
何故ならそこに居たのは、各国の最高権力者達だ。
「おいおいお嬢ちゃん、これは洒落にならんだろう」
「マーニャ。君が、僕らを呼んだのか――? いや、だとしても一体どうやって……!」
困惑と疑念と、小さな殺意と。
そして少女が女に向ける揺らぐ眼差し。
マーニャは全て無視して、隣で浮いているヘイズバイスへと問う。
「……パンネクウネは?」
『魔王サマには招集を拒否られちまったぜ』
「そう。見せたかったんだけど、まあいいわ」
人と魔物。
静かな雪原で相対する異種同士の中で、人でありながら魔物達に囲われているマーニャは、向かい合う人々の顔をゆっくりと見渡す。
ある国の議長がいた。
ある国の王も。
ある国の第一王子も。
ある国の最高権力者、ある国の元帥、ある国の兵、ある国の……。
「お姉さま……?」
どこにでもいる、小さな小さな女の子。
全てを眺め、呼吸をひとつ。ふたつと。
そして彼らへと、一歩、足を進めた。
たったそれだけだ。
魔法を何ら使えない女のたった一歩だ。
――それだけで、誰もが臨戦態勢を取った。フニ一人を除いて。
「もう、分かったでしょう」
言葉は朗々と。
その場の全員へと新時代の始まりを口にする。
「魔物は生命・非生命問わず自由転移可能な魔法を実用化させた」
女の声は雪原に吸い込まれていく――それほどの静寂があった。
「……まさか、魔物全員がこれを扱えると?」
男の一人がそう尋ねた。30代は続く高潔な騎士の家系の男だ。理解の早さはさすが統合軍の元帥を務めるだけはあるか。マーニャは頷く。
「魔法研究における実用化とは、そういう意味よ」
「……」
人類の面々に驚嘆の反応は極々僅か。
突如、拒絶すら許されずにだだっ広い雪原まで跳ばされたにしては冷静すぎる。国を束ねる才ある者達だ。
「わかるでしょう。世界中を物質も生命も情報も何もかもが時間の誤差なく繋がるのよ」
恐らく、予想はしていたのだろう。
一年前のことだ。最前線から遠く離れた温泉街に、なんの前触れもなく魔物が二体出現した事がある。巧妙に情報統制が成されたあの事件で、マーニャとフニは当事者だった。あれは自由転移魔法の実証実験だったのだろうと今ならわかる。マーニャですら予想出来ることをここにいる王者達が出来ないはずがない。
だからマーニャは更に一歩、人類へと詰め寄った。
「既存文明全ては今この時より革命を迎える。
変わりましょう。人も、そろそろ形を変えるべきよ」
言葉に、先の男が無機質な眼差しを向けてくる。
そして唐突に、
「――――殺せ。奴は既に人間ではない」
応じる声はない。
しかし動く物体はひとつ。
ソレは、一瞬でマーニャの動体視力を振り切った超速の跳躍を行い、大きな川ほどもある彼我の距離を僅か2歩で詰め、腰に挿した直剣を抜き放つ――同時に赤い剣はマーニャの背を貫くために現出。
実体剣の袈裟懸けと、魔法剣による急襲。
マーニャは瞬きすらしなかった。する必要がなかったのだ。
「あら。我々の
何故ならマーニャの側に立つのは魔物達の中で最強の四つ。
「ちょっと舐めすぎじゃねーのか?」
桃色の髪をした女が背を刺す魔法剣に対して障壁を張り、銀色の髪をした獣人女が実体剣を掴んでいる。
明確な殺意でマーニャを斬ろうとした短髪女……“魔法殺し”の目が見開かれる。――直後、獣人女の足がブレ、“魔法殺し”の体がくの字に折れ曲がって吹き飛んだ。
僅か3秒足らずの出来事に、呆然としたまま固まっていたサングラスの男――第一王子がようやく状況を呑み込み、吠えた。
「ディーバァッッッ! 彼女は勇者だぞ!」
「王族なら吠えるなよ。忌み子が」
ディーバと呼ばれた男――マーニャ殺害の命を下した統合軍元帥の一人は冷たく笑った。
壮年の男の酷な表情に、サングラスの男は眉間に皺を寄せながら舌打ち。次いで地を転がって血反吐を吐く女を睨む。
「魔法殺し……! 君はケドの部下だろう!」
「軍閥など関係ない……っ! この女は、人の世界を、壊そうとしている!」
獣人女――ウルの蹴りで内臓でも破裂したか。腹部に手を当て回復魔法を施しながら、“魔法殺し”は憎々しげにマーニャを睨め付け、口端から血をこぼしながらも叫んだ。
「第一王子、貴方なら分かるはずだ。自由転移魔法なんてものを与えられれば、人の憎悪は歯止めが効かなくなる!! 待っているのは革新でなく衰退だッ!」
それが、人類の総意なのだろう。
魔物達の側に立つマーニャは冷めた眼差しで地に膝をつく女を見やる。と、隣の桃色の髪をした女――アスモが笑顔でコートを広げてマーニャの肩にそっと掛けた。
「マーニャさん。これを」
「ありがとうアスモ」
親愛の表情をする魔物の女に、そして同じように笑顔を返すマーニャに、フニが「――」と言葉にできない感情で息を呑んだ。第一王子も、マーニャの父であるアマルツィアもだ。
「ねえ聞いて」
そんな彼らに向けて、改めてマーニャは声を上げる。
いつもの彼女らしくない冷たい響きで。
「私は魔物との和平を望んでいるのよ」
「ならば今の貴様をどう説明する!」
「彼らはあまりに人と在り方が違い過ぎて、私は和平の基準点すら見いだせなかったの。だから考えたわ」
“魔法殺し”の言葉を無視するマーニャは、片手を前に。手のひらを人々へ。
そして友愛の微笑みと共に、明確な離反を言葉にした。
「戦争は終わらせない。
けれど一度、人の敗北という形で幕を引きましょう。
その上で人と魔物には共存の道を歩んでもらうわ」
――忍び笑いが、無音の雪原に上がる。
今まで黙っていた初老の男から漏れ出た声だった。とある大国の連邦議長を務める老人は両手で杖をつきながら、下らない芸でも眺めるように嘲笑を顔に貼り付けている。
「狂ったか勇者、
それは人類の強さ、力を信じている者が見せる顔だ。実際この場には人類最高峰の戦力が二人――いいや3人はいる。
四天王相手であろうと劣らない戦力と判断しているのだ。
「……そう。結局、最初は力を示さないといけないのね」
だからマーニャは早々に
そして命じる。――自分に手を貸してくれる魔物に。
「アスモ」
「ええ!」
たった一言でいい。
それだけで彼女は頷いてくれる。理解してくれる。
「本気を出すのは久々の事――さぁ、耐えてみせなさい」
桃色の髪をした女魔物の名を、ザネクラア=
得意とする魔法は風の系統。
最高火力をもって全てを灰塵に帰す火炎の系統よりも、遥かに面制圧力に優れたその力――彼女は対集団戦闘において最強の名を欲しいままにした魔物である。
「【
それは、星の表皮を剥がす暴風。
暴力そのものが泥色の竜巻となって雪原の全てを抉る。アスモが同時に張った魔法障壁の中でなければ物体など粉々にしてしまうほどの超巨大竜巻に、誰かが呟いた。
「――桁が違う」
人の心を折るには十分すぎるほどの圧力。呼吸すら満足に行えない程の暴風の中で、誰かがその場に膝をついた、その時。“魔法殺し”と呼ばれる女が呻くように吠えた。
「貴様達と戦争を始めて数百年だ……!」
“魔法殺し”の眼前で出現したのは、赤色の魔法剣。距離無効の力を持った世界の裏にすら届く刃。
しかし魔法とて所詮は現象だ。強大な力を前にすれば魔法核など貫かれなくとも破壊されるしかない。現に、赤い剣は出現と同時に破壊されていく――しかし。
「人を……舐めるな……ッ!」
砕かれる前に魔法剣が更なる魔法剣を生む。強大な風圧に壊れそうになる魔法から、更に魔法剣を生んでいく荒業。砕き、作り、砕き、作られていく茨じみて連鎖する剣の“嵐”は、発動者である女の意地とプライドによって強引に突き進み――そうして、精神こそが結果を生む。
紅き剣の欠片が風に乗って吹雪の如く降り落ちる中、辺りには静寂がようやく戻った。アスモの生んだ竜巻は、その核を破壊されたのである。
「驚いた。この規模の魔法核を的確に貫くなんて!」
「決して我々が劣るなどと思うなよ……!」
「そうね。ホルル家の魔法は確かに脅威よ。けれど、だから何?」
言葉は冷徹。殺意の渦中にあって一切震えることのない声音は尚も命じる。
今度は銀髪の獣人女へと。
「ウル、真似て」
「面白い魔法だな――こうやって使うのか?」
ウルと呼ばれた魔物が笑い、何らかの魔法を自身に打ち込んだ直後。
――何か、来る。
本能的な予知に従って“魔法殺し”は魔法障壁を生成。背後の王者達を守る兵としての役に全てを割り振る。
そうして障壁越しに“魔法殺し”が見たのは、自身が生み出すものと相似の銀剣。
ありとあらゆる虚空より現出せし、
「――馬鹿なッ!」
“魔法殺し”が喉から隠しきれない恐怖を絞り出した。
瞠目した淡い色素の瞳は、銀髪の魔物を不安定に捉えている。
「それは我々ホルル家が編み出した遺伝子の魔法! 複製するなど決して……!」
「遺伝子に魔法を刻印する技術はちょっと前に完成したんだぜ? ゴルほど精度が高いんじゃなけりゃ、多少特殊な魔法くらいなんだってねえよ」
「――」
――桁が、違いすぎる。
文化の成熟も、技術の飛躍も、その応用ですら。
まるで稚児をあやすかの如く。
赤子の振るう下手な魔法をかき消す大人そのもの。
「これが……魔物……」
そして呆然としたまま固まっていた“魔法殺し”の横を、風の塊が過ぎ去った――それは彼女の祖父であり、未だ老いを知らぬ“軍神”である。
地に伏すほどに腰を落とした走狗。両の腕が構えを作り、即座に蒼き魔法剣は生まれ――。
「ゴル、止めて」
「承知した」
しかし、硬度無効の魔法剣が魔物達の体を切断することはなかった。何故なら“軍神”ケド・カサルル・ホルルの動きを読んでいたマーニャの指示一つで、最高の肉体を持つ魔物が音よりも速く動いたからだ。
たった一挙。
灰色の巨躯を音速の10倍まで加速させた魔物――ゴルが瞬間的に放った拳を、“軍神”は知覚するより先に蒼の魔法剣で受け流していた。
当たるだけで物質を粉々にする拳を避けて尚、老人の顔には冷や汗が無数に浮かんでいる。
「――年寄りが相手するにはきつすぎねえか……?」
「今のを耐えるか。だが俺の身体能力は、魔法の展開速度よりも速い音の領域。挑むならば未来を予測して見せろ」
「なるほどねえ」
ゴルは“軍神”の道を阻むだけで、命までは獲ろうとしない。会話を許す余裕があった。――恐らくそれも女勇者の指示なのだろうと軍神は予想する。
視線は、灰色の魔物越しにマーニャへと動いた。
「お嬢ちゃん。俺たちは魔物に遊ばれてただけってことかい」
「だからこそ、生きる事を許されているわ。……ここに魔物の全軍を呼んだっていいけど、する必要あるかしら」
「へっ。飴もいらねえって顔してるぜ」
“軍神”は既に構えすら取っていない。そして相対するゴルも無手を上げる事もない。――老人には眼前の巨躯をした魔物が王に忠実な近衛に見える。
状況を完全に掌握しているのは、マーニャだ。“軍神”は乾いた笑いて両手を上げた。
「こりゃ勝てねえわ」
「なっ……ケド貴様ッ、元帥ともあろう者が早々に白旗を上げるのか!」
先ほどマーニャを高々に嘲笑った老人が、顔を赤くして叫ぶ。「ですがねえ」とケドは首を巡らせた。
そして老人が口に出した言葉は、いっそ魔法剣よりも鋭い切れ味を誇る。
「俺らがあの自由転移魔法を実用段階まで持ってくのに、
「――ほう」
ゴルが素直に笑った。ウルも獣耳をぴんと立て、アスモは腰の蝙蝠羽をぱたぱた揺らした。
対し連邦議長含む各国首脳人の顔は蒼白に染まった。恐らく最高クラスの機密事項だったのだろう。
人類とて魔物と近い領域に立ちつつあるという事。だからこそ連邦議長の老人が発した嘲笑には、揺るぎない自信があったのだ。つまりは、人を舐めるな、という意志が。
人々の驚愕と、魔物達の関心――僅かに生まれた静寂はしかし、絶妙な間をもって女声に引き裂かれる。
「
「……ッ!」
誰かの息を呑む音が明確に響き渡った。誰もが、未来にまで行き渡る競争に意識を向けつつあった瞬間を縫う発声のタイミング。それは視線誘導に長けた詐欺師の技能である。
マーニャはにこりとも笑わない。
「魔物は私達が敵と認識できる程度には強く、強かだから、戦争をしているの。その気になれば根絶やしに出来るのに、私達の生存を許しているのよ」
女勇者の言葉を、その場の誰もが聞く他になかった。彼女の語る未来を戯言だと一蹴できる者は、この場に列強国の首脳陣が揃っていようと存在しない。
――彼女に力はないはずだった。
だと言うのに、この場で誰よりも“最強”なのは、力を利用できるマーニャだった。
「魔王……」
誰かがそう呟いた。まさしくその通りだった。
人間でありながら、四天王に座す魔物すらも使役する。自らの望みがために同種すら裏切る。――魔王と言わずして、どう呼べばいい。
「その企みで一体どれだけの死者が出ると思っている――!」
圧倒的な力量差に魔法障壁を張ることしか出来ない“魔法殺し”が吠えた。憎々しさを前面に押し出した殺意の表情にマーニャは眉ひとつ揺らさない。
「何人殺した上に成り立つ未来だ! 貴様の妄想はッ!!!!」
「10人よ」
「――」
もはや彼女の言葉は神の光背に等しい。
戦闘痕が生々しい戦場にマーニャ以外が生み出す音は無かった。それほどの無音の中で尚、女勇者は和平へ至る計画の初期段階を語る。
「世の主要国家、その絶対権力者。それらを同日同時刻、自由転移魔法を使って一斉に殺す。たったそれだけで世界は簡単に変えられる」
――それは、ただの暴力ではなく。
「線でも面でもない、点による殺戮に、人類はこの国を防壁として得られた平穏が無価値だと気づく。そうしてようやく人は自身の脆さと弱さを、隣にい続けた異種に許されていることまで理解できるのよ」
第一に『気付き』を。
第二に『豊穣』を。
第三に『栄華の極致』を。
そうして試算する事およそ3年――3年で魔物との共存世界を作り出す。
「物量ではない。
進軍速度ではない。
制圧ではない。
――虐殺なんか断じてさせない」
むやみやたらに人命を屠るわけではない。
だから分かるはずだった。この場に居る絶対権力者達には、一体どうして自分達が召喚されたのかが。
「世界変革のため、俺達に死ねと言うのか」
「ええ。それが王の責務よ」
少女ひとりを慈しんだ愛情の眼差しを、マーニャは一切灯さなかった。
「マーニャ。君は……どうしてそこまで遠くへ行ってしまったんだい」
「私は、強者による弱者の存在承諾こそが愛だと考える」
第一王子の言葉をマーニャはあえて無視した。語る必要がないのだと、女は人へと進む足に力を込める。
「私達と魔物の間に横たわっているのは、数百年と続き過ぎた戦争だけ。価値観の何もかもを擦り合わせられなかった異種同士が育んだ唯一の文化なのよ、戦争は」
言葉は通じる。だが殺し合いだけを繰り返した。
愛という言葉がある。けれど持つべき意味が違う。
心がある。感情がある。だとしても弱者を殺し、生かす。
殺し合いでしか通じ合えない魔物と人の在り方を変えるには、この戦争という概念を根本から変えるしかない。だからマーニャは戦争を終わらせるつもりが無い。ただ、その“かたち”を変える。
「私は戦争によって消費される全てを極限まで低くしたいの」
命も。
道具も。
その価値も。
「戦争を終わらせるのではなく、人と魔物が永遠に続けられる『優しい戦争』に進化させたいのよ」
――理想を言うなら娯楽として誰もが楽しめる戦争。それをマーニャは実現する気でいる。
自信はあった。
力も備えた。
舞台を整え、そこに座らせるべき人々も選び終えた。着席を拒否できるだけの選択権は既に奪い取った。
故に、今のマーニャは何者よりも無敵に近い。
「そうして娯楽にまで落ちた優しい戦争を基盤に、人と魔物は理解し合う余力を得るわ。そういう風に人と魔の橋渡しを私が成してみせましょう」
世界は、変わる。
大量消費の戦争から、超少量消費の戦争へと彼女が変える。
「神にでも、なるつもりかい」
「人と魔の管理者を神と呼ぶなら、その名は私が継ぐ」
あまりに傲慢な物言いを、今度こそ人々は笑えない。
「君が成すのは……この国の価値を崩すのと同義だ」
第一王子の言葉は呻き声そのものだ。
「分かるだろう。この国の主要な価値は、魔物の進行を瀬戸際で食い止めると言う部分による。それを失えば……勇者の発言権など塵に等しくなる。勇者の座を保証していたのはこの国だ。それに、ここにいるのは、強烈な発言権を持った者達だ。君はそんな者の前で宣言してしまった。『人を裏切ります』と……」
一度でも裏切った者を、人は信用しない。例え素晴らしい未来にたどり着いても。
そういう生き物なのだと第一王子は知っている。聡いマーニャであれば分かっているはずだった。だというのに彼女の表情に一分の後悔すら伺えないことが、ただひたすらに――恐ろしい。
「君は二度と人間社会に復帰できないんだぞ……!」
「あら」
第一王子の震えた声を、むしろマーニャは美しく笑って見せる。
「フニの未来を捻じ曲げた張本人が一体何を言うのかしら」
「あの日の事を恨んでいるなら僕だけを殺せばいい。僕は、君になら、いつだって殺されていい。感情で納まる問題を世界全体にすり替えるような真似を、君だけはしないと信じていた」
「ごめんなさい。私、我儘な女なの」
でもね……と。マーニャはフニへとようやく目を向ける。
栗色の柔らかい髪も。可愛らしい丸々とした瞳も。その全てを半年ぶりに見つめて、少女の表情が愕然としたまま動かないことを知って、
「フニ。ねえ、フニ。あなたにこの計画を一度も話さなかった事、謝るわ」
「…………そんなの」
少女の眉が歪む。辛そうな顔をするフニに、あえて女は笑顔を選んだ。
――フニはマーニャの計画を何も知らない。
それは事実だ。だが、人はいつでも証拠を求める。
マーニャの計画を完遂するためには、今ここで最強の魔法使いが女勇者の共謀者ではないと証明する必要があった。そのために張りつけた笑顔はどこまでいっても邪悪に感じられた。
「私を止めたい?」
「え……?」
マーニャの言葉の意味が分からないと、フニの視線が語っている。少女から、親愛以外の視線を受けたのは一年と半年ぶりだ――あの日、二人の間に亀裂が入りより強固な関係になれた旅の途中からずっと、マーニャはフニの愛に触れられた。
だから息をしている。
だから今、フニの視線に心臓は痛む。
「こんな私は……あなたの尊敬する『お姉さま』?」
邪悪だろう。
醜悪だろう。
巨悪になろうとしている。
「でもね、今も私の呼吸を許すのはフニだけよ」
あなただけが殺していい。
あなた以外に生かされるこの身は無い。
「――おねえ、さま」
「あなたが私の未来を望まないなら、今すぐ殺しなさい」
酷な言葉だとは分かっていた。
試すようなことを言うのが、どれだけフニを傷つけているのかなんて、知っている。それでも呑み込んでほしかった。フニは人の側に立つ必要がある――そしてそれ以上に、妄信的に『お姉さま』ばかりを選ぶ彼女になってはいけないと考えていた。
「…………」
何秒か、フニはもごもごと口を閉ざしたまま動かした。言葉を選ぼうとしている。そして少女と女の対話が、この先の人と魔物の未来を決するのだとその場の全員が理解していた。
全ての視線がフニへと集う。
だからこその静寂を、フニはゆっくりと顔を上げて、破った。
「……お姉さまは、人を殺せと命じるんですか?」
「ええ」
「……お姉さまは、一人で行ってしまうのですか?」
「ええ」
「……お姉さまは、わたしを捨てるんですね?」
「ええ」
短い言葉以上の会話を交わす必要は、もうないのだとマーニャの凍えた表情が伝えていた。
虚ろに濁った瞳の少女も、冷えた眼差しの女も。かつて春の暖かさに頬を緩められた。出会いを悦び、二人で飲み明かす夜に熱を感じられた。
それでもここにある
雪すら吹き飛んだ冷たい大地の上で、マーニャは感情味のない言葉を紡ぐ。
「それでもフニ。あなたを愛している」
「――」
もはやどれだけの言葉を重ねても埋まらない溝があった。少女と女の間に広がる彼我の距離こそ、二人の“今”で、何もかもだ。
冷たい風がびゅうと鳴り響く。少女が息を呑む音は掻き消え、だが――ぽろぽろと。
「愛、なんか、より、も」
フニの頬を滴が滑った。あどけない可愛らしさから落ちる液体は地に触れる。少女は一人で泣いていた。
「愛なんかよりも、お姉さまの側にいたかった……」
一歩でいい。
この小さな体を抱きしめるために近寄ってくれさえすればそれでいい。たったそれだけで、フニはマーニャのために人類だって裏切れる。魔物と共に人と戦争だって出来るのに。
けれど、最愛の
「………………【魂を捧げましょう】」
もう、いいのだと、思えた。
我慢はやめよう。
彼女の許可を求めるのは、やめよう。
「フニが、詠唱をするなんて……」
「! 止めるぞ、ウル、アスモ、ヘイズ。あの娘、この星ごと砕く気でいる!」
身構えるのは四天王が魔物四体。
ゴルが瞬時に音速を突破し邁進するのをフニは“視た”。
アスモが驚異的な速度で天災を生み出すのをフニは“視た”。
ウルが先ほど獲得した距離無効の銀魔剣でこちらを串刺しにしようとするのをフニは“視た”。
ヘイズバイスが超重量構造体を頭上に転移させ、圧し潰そうとするのをフニは“視た”。
光速視認の魔眼を持つ少女には、0.001秒ほどの猶予さえあれば十分だった。
【
【
発声による起動すら必要としないで、音より速く編まれた魔法は二つ。星を殺す風の魔法に、恒星級の火炎魔法。
だがそこでフニは留まらない。
【――魔法融合開始】
現れた暴風を。生み出した炎を。二つをフニは混ぜ合わせ、まったく異質な魔力をひとつの力にして見せた。
【完成:
紅蓮の竜巻がフニを中心に具現した。
それは熱を持った風。
余波だけで全てを炭化させる、フニ考案の
他の魔物より速くフニへと肉薄しかけていたゴルの肉体が瞬間的に崩壊。ウルの生み出した魔法剣はその構築理論がズタズタに引き裂かれ、ヘイズバイスの呼んだ構造体は塵と化す。アスモの生んだ竜巻は一瞬で掻き消えた。
――1秒も要さずに四天王の敗北が決定する。
遥か格上の強者に相まみえ、ウルが尻尾を逆立てながらまくしたてた。
「魔法融合?! 聞いたことねーぞフニ!」
「獄中で暇なので思いつきました。こちらの方が
「詠唱中に別の魔法を、しかもこんな高度な術式を組むなんて……!」
「フニ。お前、脳をいったい幾つ重ねたんだ?」
【わたしは既に、全神経を魔法補助脳へ改造しています】
言葉の代わりに魔力がフニの意思を代弁していた。非言語の会話方法は、とっくの昔にフニが人間を辞めていると示唆している。
「……最前線を生きる魔装化歩兵ですらそこまでタガの外れた施術は受けない。フニ、君はどこまで行く。その力で……なにを……」
「【小さな欠片を砕くための槌になりましょう】」
もはや魔物ですら止められない領域にあるフニを、止められる者はどこにもいない。少女の詠唱は続く。
「【ただの一度も貫かない槍となりましょう】」
先の、異星間戦争を想定して生み出した魔法をも超える、強大すぎる“何か”を発動するために。
「【
そうして計八つの円環が少女の背後に現れた。丁度正八角形の位置に留まる円環八つは、それぞれが独自の規則性をもって回転と停止を繰り返していて。
まるで、ひとつひとつが生きているかのような脈動だった。
「拘束魔法四式完成、同時に抑圧魔法四式完成。
思考と自我を封じられた者達よ、ここへ」
魔力を可視可能な魔物達は、もはや抗う事も忘れて眼前の円環八つを背負う少女をただただ見つめるのみだ。彼ら彼女らの眼差しには畏敬の念しか残っていなかった。
見えてしまうからだろう。
少女が八つの魔法に費やした魔力量は、惑星数十個分に等しいだけの質量だと。
「これが、たった一人で、宇宙をひとつ終わらせられる者……魔神とさえ呼ばれ、無数の史実の中で恐れられ崇められた偶像存在」
ふわりと。
唐突に、少女の体が柔らかく地から離れる。浮遊する小さな体躯は人より少し高い位置まで上がり、そして虚ろな眼差しが全てを睥睨するように見下ろした。
フニの身に起きている現象はただの飛行魔法ではない。――魔物ですら観測不能な量の魔力捻出に、星の重力から逸脱しつつあるのだ。
“何か”を起こす気でいる。大量の惑星相当数の魔力量を費やした魔法八つを用いて、尚も強大な何かを。
そこまでを、その場の誰もが理解できた。
だがそれ以上を理解する事が誰にも出来なかった。
「“存在しないはずの神”……」
少女が呟いた、既知の理論や術式を遥かに超えた異様な魔法の全てはもはや、神のみぞ知る領域にある。
「【
其は十三次元掌握の猛禽。
複数次元干渉のゆらぎ計測に特化した、神の脳。
「【
其は時間軸崩壊の先で待つ王。
時間流計測に特化した、神の脳。
「【
其は因果概念物質精神すべてを蝕む非生命。
宇宙包括総量の計測に特化した、神の脳。
「【
其は構成された世界に落ちるおぞましい穴。
ゼロ事象計測に特化した、神の脳。
八つの円環に閉じ込められる形で、フニの背に四重の円環術式が生成される。複雑かつ奇怪な魔力構成が成されたそれらがどんな効力を持つか、何故八つの円環に抑制されているのか、分かるのは恐らくフニだけだ。
「これは、何なんだ……」
「脳ですよ。四つの拘束術式で自律思考を、更に四つの抑圧術式で自己進化を封じられた、
言うなれば魔法脳の創造――それを成したのだとフニは言った。それも生命体の脳ではなく、存在が否定された『神』の脳と。
「神など、世には居ないはずだ」
「ええ。神の存在は既に否定されています。それでも人は、神を心の内に描いてしまう。では神とは何か? わたしは一つの仮定を立てました。――『神』とは、生命を超越した処理能力であると」
「……」
「人では出来ないこと。生命がなしえない思考を。それらを担うに足る高次計算処理能力。未来と過去を純粋な演算により捉える力こそが神だとわたしは定義し、そして」
四重の魔法陣――否、魔法脳は一定の速度で回転を続けている。まるで生命活動以外を成せない植物人間のようにも見える回転。
「わたしはわたしの神を作ることにしました」
「――クハッ! やるな娘!」
哄笑を上げたのは灰色の巨躯の魔物、ゴルだった。先ほど脳の一片以外燃え尽きた彼は、いつの間にかその全身を再生させている。
ようやく理解できたという顔で、ゴルが吠えた。
「貴様、空想の神を奴隷とするか!!!!」
回答の代わりにか、フニの背にある計12の円陣が一斉に加速を始める。ギアを急速に上げるように。
“何か”を成すために、その計算能力を駆使しているのだとすれば――これからフニが起こそうとする力の発現こそが、彼女が求めたもの。究極無比にして絶対の力、誰にも捻じ曲げる事の出来ない“最強”そのものということ。
「その力で何を成す! 何なら成せる! 貴様は一体、それほどの高みに昇って何を望んだ――!!」
――“存在しないはずの神”とは。
魔法研究の途上で理論的に否定された神の存在を、それでも心持つ生命が信仰対象として自我の内に描いてしまうその現象そのものを指す。
それは、太陽であり。
それは、聖人であり。
それは、救済であり。
形や色や性質によらない“祈り”と“救い”をもたらすものへの無窮の感情――“存在しないはずの神”と呼ばれる超寓意的因果律。それこそ人が時に縋り、祈り、逃れ得ぬ事象として名付けた、運命と呼ばれるものである。
「わたしは神すら超えて最強のわたしになります。
そして、その力でお姉さまを全てから守るのです」
金切り声で咆哮を上げても尚回転を強める円陣。悲鳴を発する12の魔法によってフニが獲得したのは、生命限界を超えた演算能力だった。
それはつまり、全ての可能性を光より速く試算可能な“力のための力”。
そうしてフニが無限の魔力を持って練り上げたのは、少女の掌に納まるほど小さな、ただただ純粋な“熱”だった。
「【
そして。
生命の観測限界を超えてしまった超々高密度且つ超々高温質量体があるとすれば。
創造する熱。そんなものを計測し創ることが可能な存在がいるとすれば。
「わたしは…………」
それは世の物理法則すべての上位存在として君臨する法則の王、“運命の掌握者”足りうる。
つまりは。
「――わたしは、神に等しいものになりました」
その日、現人神が降臨した。
小さな小さな少女だった。
正八角形の位置に座す円環と四重の円環を……神四柱を従え、およそ人を越え高次生命体にまで至ったフニは、宙より言葉を投げかける。
「この超高温超高密度熱量を膨張させて、新たな宇宙を作ることだって今ならできます。もちろん、これを単純な砲撃として利用することだって」
新世界創造すらも造作なく行える。その領域から見下ろす人類と魔物がどれだけ矮小に見えるかなど想像もできない。
“存在しないはずの神”は、マーニャだけを見つめていた。
「お姉さま。それでもわたしを連れて行っては、くれないのですね」
「そうね」
あっさりと。
ただの人よりも弱い、本当にどこにでもいる女は、万能の神を前にその誘惑を断ち切った。
「フニ。あなたはきっと、人とか魔物とか、そういう括りに囚われない。だからこそ、私が差し出した手を簡単に握ってしまう。……でもそれじゃダメなの。フニには、人の側に立ってほしい」
「わたしはお姉さまの側がいいです」
「私は世界を征服したいわけじゃない」
フニの求めを、マーニャはきっぱりと拒絶した。頑なな精神に神を従える少女は動揺を露わにする。
「……」
「……」
無言は数秒。
考え込むように俯くフニは、やがてぽつりと呟いた。
「………………この世界に、わたしと、お姉さま以外に命の価値はないと思います」
少女らしい突飛な発想ではあった。
しかし何より厄介なのは、そんな思考を現実にしてしまうだけの、フニという少女が持つ天才性だ。
「壊しましょう。
作りましょう」
それこそが正しいはずだと。
それ以外は間違っていると。
フニは淡々としたまま、その手に掴む宇宙創成の炎を変質させていく。ゆっくりと……しかし着実に、一かけらでしかない灯火は膨張していく。
内包する新たな宇宙が、新たな世界が、構築されていく。
「無限の命を与えられる世界です。望めばなんだってお姉さまの欲を叶えられる世界にします。二人で完結できる世界を。わたしとお姉さまだけで因果が循環する世界に、わたしが変えます」
人にも魔物にも抗う術はなかった。
絶対の神はもはや時間という概念を無視できる。
空気の微粒すぎる変動を神の脳たちは捉え、尋常ではない演算能力を以てすべての思惑をフニに理解させられるのだ。それは読心能力などと呼ぶのも畏れ多き、神意の発露に等しい。
生命が隠し持つ心すら現象からくみ取れるフニには、不意打ちや奇襲といった行いの全てが無意味だ。
「お姉さま?」
「なあに、フニ」
超越者を前にしても、マーニャの言葉に畏れは無かった。
フニがどれだけの怪物に成り果ててもきっと彼女の心は揺らがないのだろう――事実、神四柱の脳がはじき出した演算結果が“そうだ”と告げている。
「“運命”がきっと、わたし達を引き寄せ合ったんです。わたしが振るう何よりも強靭な力がきっと……二年半前のあの日に、お姉さまとわたしを」
あの日、桜が咲いていた。美しい桜だった。だから次に生まれる宇宙では、春だけが続く星にしよう。桜が一年中咲き続ける世界にしよう。
冬はいらない。
夏も、秋も求めていない。
寒さや死しか与えられない世界は必要ないのだ。
「……こんな事で世界が終わるのか」
誰か、どうでもいい老人の呟きがフニの耳に届いた。
「悲しいな……神様に、人などいらないと言われてしまうのは」
金髪の男がそう漏らす。確か……魔女に呪われた王子だったと思う。フニはぼんやりとした目で男を見据えようとした。けれど、その姿はどうしてか霞んでいて、何もわからなかった。
視えるのは、マーニャという女だけだ。彼女だけが明確な形をしている。美しい顔も、艶やかで豊かな黒髪も。
彼女だけがフニの世界にある“色”だった。だからマーニャさえいればフニは十分満たされる。
そうして、炎が、新たな世界へと孵化を始め――――。
「ねえ、聞いて、フニ」
景色はない。
形はない。
現宇宙を塗り替えようとする新世界の浸食、その瀬戸際で、大事な人の言葉が響いた。
「二人だけでいられる世界、きっと素敵だと思う。けれど私はね、フニしか選べない世界でフニだけを選ぶのは違うと思うのよ」
「運命が……そうさせたのだとしてもですか?」
ええ、と。
頷く女はなおも続けた。
「世界中に人がいるわ。魔物がいる。戦争をしている。誰かが誰かを殺している。欠陥ある赤子が死んでいく。
誰かと誰かが、毎日、道を歩く最中にその横を通り過ぎて、遠のいていくのがこの世界。そこには交わし合う言葉もない、命は究極的には他人に興味がないのね。だから……無数に命がある世界では、きっと私たちは“出会えなかった”――はずだった」
それでも、選べたのだ。
武闘大会があった日の夜。マーニャが旅をしたいと言って、誘ってくれたこと。途方もなく嬉しかったこと。
きっとマーニャも同じ気持ちだと思っていた。あの時から、彼女も自分も、世界には二人だけでいいはずだと。
――なのに、マーニャは希望に満ちた声音をする。
「それでも二人だけではない世界で、あなたと出会えた奇跡をくれた、この世界がいい」
「なら、お姉さまに何が出来るのですか」
神にさえ成った。
運命を掌握すらしてみせた。
これだけの力を振るうに至ったフニ・フラ・フリペチーノという存在に、魔法すら使えないマーニャは何が出来るのだろう。
「何にも出来ないわ。私は、呼吸すら誰かに託して生きていく。それでもね、愛されて産まれたの。だから今まで通り誰かに祈るわ。今日も、これからも」
マーニャはあっさりと自身の無力さを認めてみせた。
そうして目を閉じ、両の手を組んで祈りを捧げるように俯く女が求めたのは、未だに姿を現さない人類の敵対者――その頂点に座す者。
「来て、パンネクウネ」
「――仕方のない女だ」
瞬間。マーニャの隣に、病的に痩せた女が一人現れる。
黒い髪。
細い肢体。
白い肌。
自由転移魔法を使ったその女の出で立ちに、誰かが声音を震わせた。
「――――魔王、だと」
「ふん。現人神とはな。だが、所詮は魔法による空想だ」
さめざめとした言葉と共に、女……パンネクウネは笑って見せた。神を前にしても揺るがない精神はマーニャに相似している。
女の枯れ枝の如く細い右腕が水平に上がる。フニは何もしなかった。
そんな少女の、神の慢心を嘲笑うため唇を歪め、魔王はぽつりと。
「【
そして振るわれた力に、神四柱全てが殺された。
一斉に機能を失う魔法脳たち。消失する12の円環魔法。フニの全身から全能感が根こそぎ奪われ、宙に浮いていた体は地に落ちていく。
「な――」
あの、圧倒的なまでの支配力を。運命を掌握するほどの力を、女のたった一つの魔法によって破壊された事実。フニは驚愕で目を見開き、パンネクウネを見た。
「
「この力が、私の宇宙を崩壊させた。決して使いたくなどなかったんだがな」
溜息を吐く女の姿に、顔を蒼白に染めた人間がいた。歪な虹彩を持つ男はガタガタと震える体を放って、パンネクウネに怨嗟の声を吐く。
「君は、まさか――魔女パンネクウネ……!」
「うん? ああ、お前か王子。24年ぶりか。クク、いい眼をしているな?」
歯ぎしりを鳴らす第一王子を無視して、パンネクウネは横に立つマーニャを見た。
「お前はこの世界が好きなのか」
問いはマーニャを試すように、重い。
「ええ。だから、力を貸してほしい」
「クク……愚かな女だと常々思っていたが、まさかここまで愚か者だとはな。
パンネクウネが漏らした呆れ声に、魔物達が眉をひそめる。戦闘こそを至上とする彼ら魔物とは相いれない思考への疑問だった。
しかし、パンネクウネは部下たちの疑念も無視して、宣言した。
「マーニャ、貴様に魔物すべての生殺与奪権を譲渡する」
「――マジか!?」
ウルが驚愕のまま声を上げた。アスモも、ゴルも、ヘイズバイスも、その場にいる魔物達全員が信じられないと
気にせずにパンネクウネは笑う。
「今からお前が魔王を
「……ありがとう」
一体誰が、今この時を想像出来ただろう。
魔法が使えない、ただの女だった。
だが、勇者になった。
そして魔王を継いだ。
今やマーニャは魔物全てを自由に出来る立場にある。神を殺せる魔女も。あらゆる魔法を模倣できる人狼も。対星の暴風を操る淫魔も。音を超えた灰の巨人も。自由転移魔法を開発した霞の研究者も。
「フニ。私は、あなたと共にいられる世界を作りたい。何があっても離れないですむ世界を、私がこの手で掴むのよ」
今この場に、魔法を使える者は誰もいない。
フニも、人も、魔物も。全てが等しくマーニャと同じ存在だった。
それでも女勇者に――魔王の瞳に、蔑みの色は無い。彼女にあるのはただただ憂う感情のみだ。
「二か月、待つ。その後人が10人だけ死ぬ。そうして変わりましょう」
パンネクウネが魔力消滅魔法を停止する。
同時にヘイスバイスが自由転移魔法を起動、瞬間的に魔物達とマーニャの姿は消えた。
「――玉座で待ってる」
最後に無力な人々が聞いたのは、女のたった一言だけだ。