異世界が存在する『かもしれない』。
それもかなりの確率で。
その事実は人と魔物双方にそれぞれの意味を持って衝撃を与えた。
まず、人は魔物相手の戦争に価値を失った。既に光速の情報伝達機構と自由転移魔法の有用性は魔物との戦争で十分に示されており、人はその気になれば太陽系からこの宇宙全域まで播種を可能とする領域に進化していたのだ。故に、たかだか惑星一個の超大陸の東端を求めて戦争をするほどの価値はないと人類統合軍は決定。新たな課題として、遥かに広大な量と質を誇るだろう敵性可能性存在への対策を求められることとなった。
次に、魔物は人類よりも遥かに強大『かもしれない』存在――異世界人との戦争に狂喜した。そして同時に、自身らも“人間”でありただ異世界から流れ着いた異世界人8種の成れの果てであると認知した。結果、戦争相手であった『人間』を、異種ではなく同種――偉大なる純血氏族が九、“
人は異世界間戦争のため。
魔物は新たな闘争のため。
双方の利害は一致し、驚異的な速度で融和措置を推し進めた。
マーニャとキサナドという、異世界人『かもしれない』存在が、世界中の生命体の共通認識になったことで、本人達の意図しない部分で世界はひとつなってしまっていた。
――だが、だからと、マーニャの罪が無かったことにはならなかった。
フニとの最後のひと時を過ごした後、人類魔物の連合軍に捕らえられた彼女はその処遇が決定するまで五感すべてを魔法で遮断されていた。魔法文明社会において、無期懲役に等しい重刑罰のひとつである。
何も見えず、何も感じられず、何も聞こえず。
そんな状況でもマーニャは発狂することなく思考を巡らせ――そしてついに時は来た。
「ん……」
マーニャは自身の感覚が賦活していくのを把握した。
ゆっくりと、虚無の泥沼から肉体が浮上する奇妙な感覚。最初は自分の瞼をあげる感触すらよくわからなかった。
視界に映るすべての色と形は鮮烈だった。荒地の土の色。青い空。太陽の眩しさ。風に混じる砂埃の乾いた匂い。
そして、人、魔物、人、人、人、魔物!
竜種の隣に人が並んで立っていた。悪魔のような姿をした魔物の肩に人間の子供が乗っていた。
――成したのだ。この世界は、異種との共存を。
「……マリアジュエ・イーニァ」
決して穏やかとは言えない、男の乾いた声音。呆然としていたマーニャが跳ねるように首を巡らせる。
側に立つ金髪の男は目元をサングラスで隠していた。若かったはずの顔は随分老けて見える。
一体どれだけの時間、五感を封印されていたのだろう。
「10年、20年、30年くらい? それとも1年も経っていない? 私の五感が魔法で絶たれてどれくらい経ったの?」
「君の質問に答える事は禁止されている」
かつてマーニャを勇者に仕立て上げた第一王子、“忌み子”グロリアスの声には積み重ねてきた苦労が滲んでいた。
全ての情報から断絶されていたマーニャは、正直自分が今何歳なのかもわからない。改めて周囲を見渡した。
どうやら、周囲より一段高い位置にいるらしい。そひて見下ろす人と魔物の数は地平線を埋め尽くすほどに多く、彼らの表情には複雑なものが垣間見えた。
憎しみ。悲しみ。怒り。喜び。懇願。ごちゃ混ぜになってひとつの形にならない感情が一斉に自分へと向けられている。
「……ああ、そうなの」
マーニャは自分が何を望まれているのか理解した。
第一王子は事務的な言葉を並べる。
「世界統治機構は世界憲章第17条3項に基づき、君の死刑を決定した」
ここは、かつての戦場最前線だ。数多の戦士が血を流し、マーニャが扇動したために死んだ者達が眠る荒れ野。
膝を着いて立つこの場所こそ断頭台だった。
――そしてたった今、自身の首に生成された魔法陣がどのような効果をもたらすかマーニャは知っている。
それは死刑執行に用いられる断首の魔法。
受刑者に痛みを感じさせる事なく絶命させる、かつては王侯貴族の中でも貴位ある者にしか適用されなかった魔法である。
死ぬのだ。
これから。
「……私は正当な手続きを踏んで家名を捨てている。家族は?」
マーニャは取り立てて騒ぐこともなく落ち着いた様子で隣の第一王子に尋ねた。
「僕等が保護している。軟禁と言って差し支えないかもしれないが、放置すれば確実に殺されているだろう」
「そう」
ならばいい。
家族に迷惑を掛けないために家名を捨てたのだから。
五感を封じられ何一つ抗議も許されないまま死刑が決定したというのに、マーニャは不思議なほど冷静だった。
群衆の中には彼女の醜い命乞いを期待した者もいたのだろう、罵声とともにいくつかの攻性魔法が飛んでくる。その全てはどこからともなく生成された赤い魔法剣によって阻まれた。
仕事熱心な、どこかにいる女軍人の顔を思い出してマーニャはくすりと笑った。穏やかな微笑みに、なぜか第一王子が苦しそうな顔色をしていた。
「……忘れないでくれ。君の助命嘆願に署名した者が2500万を超えていることを。今こうして君を処刑するまでにも、何回かの暴動があった」
第一王子は他にも様々な事を言葉短く語った。
異世界人の可能性があるマーニャをを解剖したいという研究申請が何度もあった事。けれど、マーニャに危害を与えようとした者は必ず
「私は救世主じゃないわ。許されたいとも思わない」
殺しは殺しだ。その価値観がマーニャの中で揺らぐことはない。
罪には相応の罰がいるだろう。自分の場合はそれが死刑に相当するだけの話だ。
殺されることに恐怖はなかった。ずっと昔から覚悟は決めていた。
「君が月を落とすと言った時、確かに世界は一つになれた。人も魔物も関係なく目の前の問題に対処できると君が気付かせてくれたんだ。そして、かの魔王が全生命を殺すと言った時、君が立ち向かったこと。あの時、どこかの街が恐慌に陥ったという報告は一件もなかった」
「……」
「君は世界を殺そうとして、同時に救いもした傑物だろう。それでも僕らはこうでもしないと古い時代に踏ん切りをつけられない。愚かだと、どうか笑ってくれないか」
「極刑と定めたなら、そんな顔をする必要はないでしょう」
毅然と前を向くマーニャに、第一王子は顔を背けた。決して表舞台に立たないはずの彼なりに葛藤があり、こうして処刑の場に立ち会っているのだと思えば、きっと第一王子は優しい人間なのだろうなと思えた。
「何か言い残すことはあるかい。僕への罵倒でも、世界へ向けてでもいい。何か……」
「貴方に送る言葉はひとつだけよ。私の仕事は終わった。あとは、貴方の番」
「……ああ。確かに承った」
もしも第一王子がただの一般人だったマーニャを勇者に押し上げた事実に苦しんでいるなら、今の言葉は呪縛に等しい。
大丈夫だとマーニャは思う。グロリアスは自分に課せられた役目を全うできる人間だ。
「それと、あとはこの世界の全ての者に」
――そう呟いた時だ。
唐突に、無数の魔法が展開された。上空に出現したのは幾つかの長方形。そこにマーニャの顔が映し出された。勿論マーニャが魔法を使ったわけではなく、この場の誰かによる魔法でもない。
第一王子はどこかと通信接続しているらしい。耳に手を当てるとポツリと呟く。
「全世界同時配信……かの神は健在か……」
その一言でマーニャはすべてを察する。
神はいつでも私を見守っている。そして、最後までマーニャという女を尊重してくれている。それが何よりも心強くて、背筋が震えた。
心臓から流れる暖かいものが全身を巡っていく感覚。間違いなく自分は幸福の中にいるという確信。
「誰もが誰でも簡単に殺せる時代になったわ。私が、そうさせたの」
――何を自分勝手な、という叫びが戦場跡地に響き渡った。
若い青年の遺影を胸に抱きしめた老婆が貧弱な魔法を振るうのを、衛兵が慌てて押さえつける光景。自分が生み出した地獄だった。けれど、その場で泣き崩れた老人を優しく抱きしめたのは魔物の子供だ。
「……疑問に思ったでしょう? 魔法なんてあまりにも危険な武器を持ち続ける生命が、どうして愛という不安定なもので繁栄できたのか」
魔法を通じて世界中の人と魔物が彼女の言葉を聞いていた。ただ魔法が使えないだけの女は、今や誰よりも発言力のある者にまでなっていた。
「それは最低限の法と理性を育むための土壌があったから。憎悪を殺意に繋げない道徳観念を培えたからに他ならない」
魔法という万能の力は生きることに余裕を与えた。その余裕を使って育んだ土壌こそ、道徳であり理性であり、法だ。
「けれど今、自由転移魔法は絶対の法と理性を全生命に要求している。そして要求された絶対的な法と理性を、あなた達は勝ち取ったのでしょう。だから人と魔物が共に居るのでしょう」
マーニャはあれからどれだけの苦労が人と魔物の間にあったのかを知らない。結局自分が成したのは、戦争の終結と講和会議の開催、その二つだけだ。
融和に際して起きただろう衝突は容易に想像できる。結局、人と魔物はあまりに別種なのだ。だがこうして人と魔物が並び立つ今こそが現実だ。
世界は一つになった。
そして一つになった世界がマーニャを殺すと決めた。
「法と理性が、私に死ねと言っている。
世界中の人が、私に死んで欲しいと願っている」
ならば甘んじて受け入れよう。
これは、価値のある死に方だから。マーニャ本人が望んで振るう、最後の武器に他ならないのだから。
勿論愛してくれた人がいた事は忘れない。それでもただの殺意ではなく世界中の理性と法が決めた事には価値があると、マーニャはそう思う。
「戦争は終わったわ。誰かに擦りつければ終わった問題を、これからは皆で解決しなければいけない」
マーニャは晴れ晴れとした笑顔を浮かべる。仕事をやり終えた充足の表情には人と魔物が歩む未来へ想いを馳せる、希望が満ちていた。
「でも、大丈夫。あなた達には宇宙が、異世界が……黄金の時代が待っているのだから。私は確信している。あまりに違う人と魔物が共存できたなら、きっと別世界の住人とだって手を取り合える」
だから、もう十分だと口を閉じた。
好きな事を語るだけ語ったマーニャは目を閉じる。瞼を降ろし死刑執行を待つだけになった彼女の意思を理解したのか、全世界同時配信の魔法は停止した。
空間はひどく凪いでいる。
戦場跡地に、そこに集う人と魔物に、言葉を発する者はいなかった。死の瞬間を穏やかに迎えられる事をマーニャは喜んだ。
ただ、まあ。
……心残りがあるとすれば。
せめて最後に家族と話をしたかった。
『マーニャ。俺だ』
比喩でもなく、呼吸が止まった。
懐かしい声音。恐らくは自由転移魔法の応用。若々しい男の声は少し嗄れたのではないだろうか。マーニャは何度も口を開いて、閉じて、ようやく喉から言葉を絞り出せた。
「父さん……。母さんも、側にいるの?」
『ああ』
家名を捨てた不義の娘だというのに、それでも最後にこうして会話することを許してくれる。
その事実がマーニャの胸中にこらえきれない震えを呼んだ。吐き出そうにも吐き出せない熱が喉を震わせた。涙は自然と瞳に溜まり、勝手に溢れ続けた。
「ごめんなさい。私は最低の娘ね」
『俺の自慢の娘だ』
「……っ」
初めて、死にたくないと思った。また家族に会いたいと。
どうしてこんな人生なのかと叫びたかった。なぜ自分ばかりが魔法を使えないのか怒りたかった。
そんな風にしか考えられない自分こそを蔑んだ。世界で一番だと胸を張って言える家族には相応しくないのだと、ずっと。
「貴方達の願いほど大した事は出来ないと思ってた。不安だったの。何にもできない私に、生きる価値があるんだろうかって、わからなくて……」
『それは違う。俺とアイラの我儘だった。俺達がお前を望んだ。自分勝手に願ってしまっただけだ。お前への罰は、本来俺が背負うべき罪なんだ』
子からの罪は親への罰。
マーニャの脳裏にふと浮かんだのは、父と母が首を吊る光景だった。二人ならば後追い自殺をする気がした。
死は死だろう。悲しいのは当然で、だけど必要以上に自分を責める必要はないはずだ。だからマーニャはあえて酷な言葉を選ぶ。
それはかつて父を傷つけるために使った言葉だ。
「父さん、私は先に死ぬわ」
『………………馬鹿を、言うな。馬鹿なことを、言うな!!』
初めて聴く父の怒声は、涙交じりの湿っぽさを感じた。マーニャは嬉しくなって泣きながら笑ってしまった。
「私は、貴方達がくれた名前に、ようやく恥じない私になれた気がする」
『……っ。何でだ。何故、そうまでして死に急いでしまった。残された者はどうなる。俺たちはお前の死をどう受け入れればいい……』
「生きているなら必ず死ぬわ。私の場合は、それが早かっただけ。それも自分で速めたのよ」
ねえ、父さん。
「私は私が思う中で最高の死に方をするの。私の首が落ちて、人と魔物は次の時代を迎えられるの。だったらこんなに有意義な死の使い方はないじゃない」
『……お前は、本当に…………』
ついにアマルツィアが言葉をなくした。頑固な娘に育ってしまって申し訳なく思う。けれど本心だ。
首輪のように浮かぶ魔法陣はついに回転を始める。だんだんと早く、徐々に加速していく不吉な不協和音がすべてを塗りつぶす。
そして金切り声に似た悲鳴をあげだした魔法陣が、フッ……と。
『お前がいれば……辛い事なんて何もなかった』
「……私はちゃんと幸せだったのよ」
拡大は一瞬。
魔法陣は一気に収縮する。
その時マーニャの世界から音は失せた。
そうしてマリアジュエ・イーニァの首が刎ね落ち、
フニ・フラ・フリペチーノは未来永劫姿を消した。
彼女の功績は人類と魔物に講和会議を開かせるという史上初の名誉と、そのために人も魔物も裏切り全世界の住民へ殺害脅迫までしてみせた不名誉の両方を併せ、歴史に刻まれることとなる。
マリアジュエ・イーニァ――マーニャは世界を詐欺にかけ、しかし世界を変えたのだと。
それから、五億年の月日が流れた。