この国では、酒は日常的に誰もが飲む嗜好品だ。度数のきつくない酒ならば子供もよく飲むし、航海士の息子なんかは10にも満たないころからウイスキーが友達だったりする。天才的な研究者を父に持つフニも、徹夜の友として父がよく買いあさるワインボトルの余りを勝手に飲んで育ったし、気になる魔法理論の本を夜通し読み明かすために父と同じようにワインボトルにそのまま口をつけたこともある――。
(なんて言ったら、やっぱり幻滅されるんでしょうか……)
ずずず、とカップに入ったホットワインをゆっくり飲みながら、フニはそんなことを考えた。フニが魔法で刻んだ生姜と砂糖が溶けた暖かなワインは、少女の下腹から全身に行き渡って熱をくれるようだった。焚火の向こう側では同じようにカップを両手で持つ見目麗しい美女が美味しそうにホットワインを飲んでいる。
優雅に。淑女のように。
「……なに?」
じっと見られていることに気付いたのだろうか。焚火に照らされた豊かな黒髪をそっと撫でる美女――マーニャは、柔らかく微笑んだ。真正面から向けられた笑顔に慌ててフニは首を横に振る。
「美味しいですね。こうやってゆっくり飲むの、好きです」
お淑やかに酒を飲むマーニャには、まさかラッパ飲み常習犯だっただなんて言えるはずがない……。
「そうね。よく飲んでいたけど、なんだか今日のお酒は一味違うわ」
「寒いですしね……」
首を竦めて見せたフニをマーニャが声を出さずに笑えば、まるで代わりとでもいうかのようにびゅうと強い風があたりに拭いた。二人で囲んでいた焚火の炎が激しく踊り、より強い影を作った。
「本当に、寒いわね」
マフラーに分厚いコートにニット帽と、マーニャもフニも完全防備でいるがしかし――にしたって寒すぎるだろう。
夜。
空には無限の星々が天に瞬く。
そして空気は平野より薄く。吐き出す息はひたすらに白く。およそ生命と呼べるものが存在しない、絶世界。岩石と砂利ばかりの荒れた光景が悠々と辺り一面に広がっている。
地元住民たちが『神住まう地』と呼ぶその山の中腹に、フニとマーニャは二人で居た。
二人旅を始めてどれくらい経ったのかわからないが、ある時マーニャが突然言った。
「登山、しましょう」
「登山……ですか」
「ええ。登山よ」
むふー、と鼻息荒くマーニャは頷く。その喜色満面の表情にフニは頬をぽりぽり掻いた。いきなり何を言い出すんだこの人は。
「急にどうしたんですか」
「これを見て、フニ」
宿場町の安宿の一室で、ずずいっとフニに押し付けられた薄い雑誌。なんだろうとフニが開かれたページを見れば大きな見開きで『登山特集!』と書いてあった。
「これは……」
「この街の観光誌よ。ちょっと興味があったから買ってみたの」
「お姉さまは本当に本が好きですね」
ベッドの縁に足をぶらぶらさせながら座っているフニは、ちょっぴり呆れたようにそう言った。学生時代はあまりに本の虫なマーニャに小さな嫉妬心を感じて、彼女の読んでいた本を隠したこともあるフニだ。もはや諦めの境地に近い。
そんな栗毛の少女の嘆息も気にせず、マーニャは笑顔で聞いてきた。
「フニ、山に登ったことある?」
「ないですけど……」
元々この国は平地が多い。山と言えるほどのものはないし、せいぜいが小高い丘程度だ。
「私もないわ。でね、でね、ここを見て?」
先ほどから興奮具合がいつもの数倍と思われるマーニャは、そのままフニの隣にぴったりくっついて腰を下ろす。「――」と、歩きの旅をいくら続けても衰えないほのかな甘い香りにフニの胸が高鳴った。
「ほらここ。『山で夜空を見上げながら飲むコーヒーは最高の一言に尽きる』って、ほら、この写真! すごく素敵じゃないかしら?」
そう言ってマーニャは耳辺りの黒髪をかき分けながら少女の顔を覗き込んだ。頬を赤くして硬直しているフニは、正直女の話を聞いていない。
「は、はあ。それは、そうですね」
「でしょう? 私もそんな経験したことないわ。旅をしてるんだもの、してみなくちゃ絶対損よ」
――お姉さま、旅に出てから少し変わったな。
なんというか活発的になったというか、はしゃいでいるというか。病気がちの少女が野山を駆けまわっているみたいだ。にしたって近い。服越しの柔らかい肌の感触までわかりそうだ。
「ですね。損……ですね」
「そうよね? なら決まり。登山しましょう」
そういうわけで、気付けばフニはマーニャに連れられて登山グッズを買うことになり。まあ防寒具をマーニャと買ったりするのは楽しかったのだがそれはともかく。
数日後、地元住民が霊峰と崇める山へと挑戦することになった。
標高数千メートルにもなる世界的に見ても大きな山だが、中腹までは非常に緩やかな傾斜がひろがっていることも観光スポットとして有名な理由らしい。活火山なのだろう草葉ひとつない岩石と砂利の世界は確かに目新しいし、草色の平野ばかりな国では貴重な風景だ。
「お姉さまお姉さま、この温泉卵真っ黒ですね!」
「温泉で茹でるとこうなるのよ。でも実物を見るのは初めてだわ」
山のふもとで売っていた温泉卵を食べながら、二人は他の観光客と同じように登山コースを歩いていく。季節は冬に近い秋。どうやら登山に適したシーズンらしい。中にはフニやマーニャのような登山客の中でも身軽な格好ではなく、馬鹿みたいに大きなリュックを背負った者までいる。
過酷な自然の待つ頂上を目指すか、それとも気楽に楽しめる中腹までを目指すか。そういうことなのだろう。
「さー行くわよ。目指すは美しい夜空と孤独の山肌!」
そうして二人は意気揚々と登山を始め……。
そして30分後。
「……。……」
登山コースをから少し外れた獣道。そこに、ぜっぜっと荒い呼吸を繰り返しながらマーニャが蹲っている。
吐く息すら失ったかのようにマーニャは地面に膝をついていた。心配そうに寄り添うフニが女の背をゆっくり撫でている。
「あの、お姉さま。疲労回復の魔法を使いましょうか……?」
「だ、大丈夫。大丈夫よ」
「でもお姉さま、脚が生まれたての小鹿みたいにプルプルと……」
「私は生まれたての小鹿なんて見たことないわ……」
フニはマーニャに聞こえないよう、小さな小さなため息をついた。マーニャが登山などと言い出した時からこんな事になる予感がしていたのだ。
平野ならば歩き慣れているマーニャも、さすがにどこまでも続く傾斜を、それも砂利と岩石の悪路を歩き続けるのは体力がもたないだろう。フニはマーニャのペースを崩さないよう常に魔法を使っているから大して疲れてもいなかったが、今回はその差が顕著に出たようだった。
「これを。こんなこともあろうかと作っておきました」
そう言いながらフニは自身のリュックサックから水筒を取り出し、小さな器に淡い黄色の液体を注ぐ。フニのお手製レモネードだ。
ぷるぷると震える手でレモネードを受け取ったマーニャは、一口そのさわやかな甘さに触れると息をつく間も無く器の中身を飲み干した。
「ああ美味しい。フニのレモネードを作る腕は世界一ね」
「そ、そうですか?」
相変わらずマーニャはおだてるのが上手だ。気を良くしたフニはさらにリュックから籐で編んだバスケットを取り出す。
「あら。それは?」
「さ、サンドイッチです。こういう休憩の時にでも……と思って」
これも、作ったんです……けど。不安そうな伏し目がちの表情で、バスケットをマーニャに差し出す。人より長いまつ毛が憂いを帯びてカールしていた。
すると、頭上からはクスクスと忍び笑いの声が聞こえてくる。顔を上げればマーニャがホッとしたように白い歯を見せていた。
「?」
「いえね。私ばっかりはしゃいでるかと思ったら、フニも浮かれてるんだとわかって嬉しかったのよ」
「あ、う……」
冷めた目をして大人ぶって、そのくせ同じようにはしゃいでいる。
そんな風に見えていただろうか。だとしたらかなり恥ずかしい。いや、まったくもってその通りなのだが……。
「ごめんなさいお姉さま。わたし、ついはしゃいじゃって」
「いいのよ。単に私の体力がないだけなんだから」
ふうっ……と短く息を整えたマーニャは、登山道をすいすいと進んでいく観光客をじっと眺めた。遠く、羨望の混じる瞳で。
「そうよねえ……みんな、魔法があるものね……」
フニのようにとまでいかなくとも、誰もが疲労回復の魔法くらいなら普通に使う。そういう意味では、マーニャの体力はひょっとすると10歳の子供にすら負けるかもしれない。
フニは何を言えばいいのかわからず、口を閉ざすことしかできなかった。
「休憩終わり。さ、目的地まで行きましょう?」
と、フニが支えになれるようなことを言おうとまごついている内にマーニャは軽やかに立ち上がっている。フニも慌てて立ち上がり、彼女の後に続いた。
緩やかな傾斜と言えど、登るにつれて坂道は徐々に徐々に険しくなっていく。一合二合三合と進んでいくにつれて空気は薄くなり、それなりにいた観光客もめっきり減っていった。
「うー……頭痛い。気圧のせいね……」
「だ、大丈夫ですか? 休みますかっ?」
「平気よ、平気。そうなんども休んでいたら朝日を拝むことになるわ」
そう笑うマーニャの顔は登山前よりだいぶ青い。息切れも深く、疲労が目に見えていた。
だけどフニは何も言えない。マーニャが弱音を吐かないのなら、フニがお節介を焼くのはマーニャを侮辱するのと変わらないからだ。
魔法を使えない彼女を、魔法に関して天才的な実力を持つフニがサポートする。
それは少し、同じ旅をする仲間としてはおかしいとフニは思うのだ。
「……」
「もうちょっと、もうちょっとです……!」
どれくらいの時が経っただろうか。気づけば辺りは暗く、日はすでに落ちている。
錆びたように鈍る足をどうにか動かし続けるマーニャの背後から、祈るように声を絞り出すフニ。この厳しい道のりがどこまで続くのかと、そう心がくじけそうになった時――パッと、一気に視界がひらけた。
「わぁっ……!」
丁度、山の中腹あたりだろう。視界の右側には崖じみた角度を誇る山がそびえ、そして左側にはこれまでの疲労が吹き飛ぶような光景がそこにはあった。
「……すごいわ」
空が、地が、燃えていた。
それは星と文明の炎。天で瞬くすべての星と、地上に広がる灯の群れだ。
「お姉さま、お姉さまっ。すごいですね、すごいですねっ。ほら、あの小さな明かり、ひょっとして王都じゃないですか? あんなに小さいなんて……」
フニはこれまでの不安や焦燥もすべて忘れ、隣のマーニャに興奮する心のままに語りかけた。だが、見上げた先にある横顔は――珍しく、本当に珍しく――ぽかんと口を開けて、目に映るすべてを焼き付けている。
「お姉さま?」
「……………………」
マーニャは何も言わない。星と魔法の生み出す炎を静かに眺めている。
「世界はこんなに広かったのね」
やがてぽつりとそう言って、マーニャの細くしなやかな手がフニの左手にそっと重なる。
「あっ、手……」
「終わらない旅なんてないけれど」
フニの言葉をむりやり遮り、手のひらと同じように重なる言葉。さっと走る頬の朱色がマーニャには見えているのだろうか。
わからない。
わからないけど、見つめた先にある女の笑顔はこの上なく美しかった。
「でも、終わる時まで一緒がいいわ。あなたと二人。それがいい。それだけでいいの」
誰もいない岩石の砂利だけの世界。二人きりの空間に、その言葉は甘く響く。フニの耳の中で反響する。
「……」
フニは頬が蕩けるような微笑みを返して、重なる手のひらを握りしめた。指と指を絡めあわせて、決してほどけないように。
さて夜景に感動し終えた二人は、そのまま野宿の準備を始めた。旅を始めた頃こそ慣れていなかったフニも、この頃になるとずいぶんてきぱきとテントの組み立てが行えるようになった。
テントを組み立て、フニが持ってきたサンドイッチのあまりを夕食にし、さて寝るかとなった時だった。
「ちょっと一杯付き合って?」と悪戯を企てる子供のような表情で、マーニャがあるものを取り出した。
「お姉さま……そんなもの持って来たんですか?」
「いいでしょ? そんなに度数も強くないんだし」
ワインボトルである。赤ワインがちゃぷちゃぷと揺れるボトルを抱えたマーニャは、すでに組み立て終えている携帯コンロに小鍋をかざし出す。
そして小瓶に入っていた刻み生姜と蜂蜜を鍋に入れ、とぷとぷとぷとぷ――と、赤いぶどう酒を鍋に注いでいく。
「こうして、っと……」
そうしてふつふつと酒が湯だった頃を見計らい、コンロから小鍋を上げて温めたワインを二人のカップに移せば、即席ホットワインの完成である
「はい完成。とっても美味しいんだから、味わって飲みましょ」
差し出されたカップを受け取り、二人で頷きあってからそっと飲んで。その優しい味わいに舌鼓を打てば体とともに心まで熱を持つような気がした。
ワインボトルの中身が空になれば、やることもなくなった二人は早々にテントの中に潜り込むことにした。寝袋を縦に並べてそれぞれ横になる――のだが。
「フーニ」
突然、隣で寝ていたはずのマーニャが寝袋ごとフニを抱きしめた。分厚い寝袋に遮られてもわかる豊かな胸の感触――そう認識した瞬間、まるでマーニャの胸の触れる部分だけ焼けるように痺れて、ひゃ、とフニは小さな悲鳴を上げてしまった。
「お、お姉さま。そんな急に抱きつかれると、その、びっくりしますから……」
「こうするともっと暖かいじゃない」
「そうかも、ですけどぉ……」
もじもじと身じろぎしてもマーニャは逃がしてくれない。まるでいも虫を捉えた蜘蛛のよう。捕食されているみたいで変にドキドキする……。
そして耳元で聞こえる笑い声からは微かに酒乱の気を感じた。
「あの、お姉さま、酔ってますか」
「まさかあ。ちょおーっと、機嫌がいいだけよ」
それを酔ってると言うんじゃないのだろうか。
とは言えフニも知っている。マーニャはめったに酔わないが、時折酔うと誰彼構わず側にいるものを抱きしめるのだと。だからフニはマーニャが宴席に参加すると分かれば何が何でもマーニャの隣のポジションを死守してきた学生時代を過ごしたのだが、今この場にいるのは自分とマーニャの二人だけである。
「いいから今日は寝てください! もう! こんな山の中腹で怪我でもしたらどうするんですか!」
「フニ、こわいわー」
少し小鼻を膨らませながらそう叱っても、マーニャは笑うだけだ。もー、と頬を膨らませたフニはさすがにちゃんと寝かしつけないと危険だと考え少し残念に思いつつもマーニャを引き剥がした。
女の体はとても軽い。まるで雲のようで、手を放すとすぐどこかへ消えてしまいそうな脆さがある。
「ほら、寝袋で寝てください。明日は下山しないといけないんですよ」
「わかった。わかったから、もう、フニったら姉さんたちみたいなこと言うんだから……」
寝袋の中にマーニャを押し込み、フニはふうと一息ついてから自身も寝袋の中に潜り込んだ。不思議と、マーニャの甘く優しい香りを感じて無性に嬉しくなる。
「あなたと旅に出れて本当によかった」
僅かに聞こえた呟きは、寝言だろうか。フニは言葉を返すタイミングを失って「……」と口を開きかけたが、結局やめた。
これは確かに二人ともが感じていたこと。
幸福な孤独の証明を、わざわざ口に出す必要もないのだ。