痴漢から助けたぐらいでコロッといくチョロインが嫌いな一般チー牛 著
民明書房 刊
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※この作品はSS(小説)です※
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このエッセイはジェンダー論やフェミニズムなどからインスピレーションを得た論理が随所に見られます。また、不都合な事実を陳列する性質を持つものでもあります。論理や事実によって気分を害される特殊体質をお持ちの人にはお勧めできかねますので、ご了承の上、ご自身の責任で御覧ください。

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痴漢から助けただけで彼女ができるという幻想

 

 

0 プロローグ

 

俺はその日、いつも通り高校までの道のりを満員電車に揺られていた。車内では乗客がすし詰めにされ、人いきれが充満してむせるようだった。

だが、それはいつものことだ。不快だが、もう既に日常の一部と化した光景。

 

だが。今日は、いつもより面倒な事態に直面していた。

周囲に目もくれずソシャゲに興じていた俺の耳に、微かに何やら息を殺したような音が聞こえてきたのだ。

 

音のほうを見やると、とんでもなく美少女の女子高生が立っていた。

それこそ、そこんじょそこらのタレントが裸足で逃げ出すくらいの。

 

だが、その時はその女子高生の美しさにあまり意識が向くことはなかった。

何故なら、その女子高生の様子がどうにもおかしいのである。

彼女は美貌をこわばらせ、必死に目をつむり、つり革をギリギリと握りしめ、もう片方の手で自分の口を覆っている。小さな双肩はわなわなと震え、床を小刻みに踏み鳴らす音がする。膝がガタガタ震えているのが否応にも分かった。

始めは、急に体調が悪くなったのかと思った。人いきれの中で立ちっぱなしだと、どうしても気分が悪くなる時があるだろう。

だが、すぐに何かがおかしいと気づいた。

・・・・・・彼女は、今にも泣きそうだったから。

やがて、俺は彼女がわずかに言葉を発しているのを聞き取った。

 

 

 

 

 

 

 

 

落ち着いて。

 

 

摂政は耐えています。

 

 

アレクセイは生きています!

 

 

神聖ロシア帝国は耐えなくてはならない。

 

 

まだやるべきことがたくさんある。

 

 

 

 

 

 

 

 1 1 時 だ  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

1 はじめに ―このエッセイについて―

 

 

昨今のラブコメ系創作物において、非常に使い古された一連の流れがある。それは以下のような手順を経る:

1.ヒロインが性的な侵犯行為に晒される。

2.主人公が現れ、ヒロインを状況から救出。

3.ヒロインが主人公に恋愛的所感を抱く、もしくはその布石となる心情を抱く

 

殆どのラブコメ作品において、このような単純な図式によって両性の仲が発展することが多いが、果たしてこれは使い古すに足るものなのであろうか。

 

結論からいうなれば、このようなラブコメにおける恋愛関係の導入法は非常に腹立たしく、不快で、退廃的ですらあると私は考える。

 

 

2、フェミニズムで批判する、「痴漢から救出」系

 

 

まず指摘したいのはこれが性的役割意識に基づいた非常に差別的な表現であるにもかかわらず、さも主人公が善人・正義の味方であるかのように見えてしまう、あるいはそのように見せることが非常に容易であることだ。

 

このテンプレートにおける差別的な要素は以下の2つである。

 

1つは、このテンプレートは男性が守る側、女性が守られる側とする古典的な差別的ジェンダー意識を内包するものであることだ。この手の作品において、大抵の場合男性が女性を何かしらのアグレッションから守ることがプロットにおける重要なターニングポイントになることが多く、一方で女性が男性を守ることは、描写されるにしても結局男性が何らかの形でヒロインを助けている場合が多い。女性が男性を一方的に守る展開というものは殆ど存在しないが、男性が女性を一方的に守る展開は腐るほど存在する。

 

こうした風潮は男性中心主義社会における「女性は男性に守られるべき弱いもの」「男性は『強い』から女性を守らなければならない」という差別的価値観の写像である。

 

もう1つ、ヒロインがさらされる危機が多くの場合性的なニュアンスを含んでいることも特筆すべきであろう。これは物語上将来的にヒロインが主人公と恋愛関係になることに留意すれば、主人公がヒロインを「魔の手」から助けることは、「ほかの男に手を付けさせない」行動であるといえる。

 

そして重要なのは、ほとんどの場合ヒロインに対する性的侵犯は未然に終わるか、きわめて軽度の段階で阻止されることである。確かに、実際にレイプまたはそれに準ずる行為を受けた女性を主人公が助け、その結果その女性が主人公に恋心を抱く作品はそれなりに存在するが、果たして彼女らがメインヒロインになる作品は少なくとも私は(成人向けマンガを除けば)見たことはないし、実際問題そうした作品はラブコメ世界において少数派であることは間違いないだろう。ここには露骨な「処女至上主義」が存在すると考えられる。一度行為に及んだ女性は、例えそれが非合意のものであったとしてもスティグマ付きで見られることを余儀なくされるという、男尊女卑の社会において一般的な差別意識が反映されているのである。

 

 

3 何故「痴漢から救出」系は批判されないのか?

 

 

さて、このように当該テンプレートは非常に性差別的な価値観を内包している。にもかかわらず、ツイフェミなどがバッシングの雨を浴びせたり、訳の分からない左翼の大学教授が非難したりすることは少なかった。少なくとも、図画における「性的搾取」批判の激しさに比べれば、非常に微々たるものであるし、私個人はこうした展開を批判する声をフェミニズムの側から聞いたことはない。

 

その理由として考えられるのが、当該プロットが大抵の場合痴漢問題やセクシャルハラスメントなど、フェミニズムが頻繁に取り上げる女性の性に関する問題や、そこで語られる議論・論理と同調することが容易であるからだ。

 

性的虐待の問題はフェミニズムの主たる関心ごとの一つであり、ジェンダー論壇はしばしばこうした問題における被害女性の非責任性と加害男性の帰責性を論ずることに汲々としている。「露出の多い服を着る女が悪い」という、非常に陳腐化した論理を否定するために、フェミニスト達は加害男性がいかに差別的思考に基づいて女性の人権を侵害したかを証明することに躍起になっている。

 

ここに当該テンプレートがフェミニズム的レジティマシーを得る間隙が生じた。ヒロインを助けた主人公は作者が表現しうる限りの冷たく、怒りに満ちた様子で犯人に対しこのように言い放つのである。

「痴漢をする奴なんか人間以下の存在だ」

「暴力なんかで女とセックスしようとする奴なんて、本当に最低のクズ野郎だ」云々。

ここにおいて、主人公は未だ多くの「心無い言葉」に直面するフェミニストの気持ちを「力強く」代弁するのである。斯くて主人公および、彼のいる作品はフェミニスト「サイド」となり、「痴漢を正当化する女性差別主義者」という共通の敵への対抗勢力の一つとして位置づけられるのである。

 

こうして、極めて性差別的なロジックを内包していたはずの「痴漢から救出」系のラブコメ導入はフェミニストの好意的中立を得て、今日に至るまで批判されることなく使い回され続けてきたのだ。

 

 

4 チー牛の認知を蝕む「痴漢から救出」系

 

 

さて、ここまで痴漢からヒロインを助け出したことが恋愛フラグとなるテンプレートをフェミニズムに関連して批判したわけだが、話はこれでは終わらない。この展開においてもう一つ、指摘しなければならないことがある。

 

それは、このテンプレートが想定読者層たる「非モテ・男性・ヲタク」、若しくは「チー牛」(以下後者で統一)のおかれた残酷かつ差別的な現実から目を背けさせ、彼らを幻想の世界に閉じ込めていることである。そして、その結果チー牛達をして自らがあたかも女性への理解とアクセスのある「善良な」人間であると錯覚せしめていることである。

 

まず、前提として二つのことを知る必要がある。

 

一つ目は、言わずもがな、チー牛の置かれたジェンダー的苦境である。古来より所謂「オタク気質」の男性はそうでないマジョリティの男性に比べて、性的魅力に劣り、不潔で、価値の低い人間であると信仰されてきた。そうした差別意識を背景として、チー牛は恋愛の機会に殆んど恵まれなかった。マジョリティの世界においてスタンダードとされる恋愛から疎外されたチー牛は社会不適合者の烙印を押され、存在を否定され、周辺化されてきた。こうした状況下でチー牛は自己肯定感を喪失し、心の飢えや渇きに苛まされることを余儀なくされた。一方でマジョリティの社会は本質的に彼らの心の空白を埋めるものを提供する代わりに、彼らにコンテンツの濁流を浴びせた。チー牛は自らの心の隙間を忘れ続けるために、コンテンツ消費者としての立場に甘んじることを余儀無くされたのだ。

 

二つ目の前提は、ラブコメ作品において、一般的に読者は主人公に自分を当てはめることである。恋愛から疎外されたチー牛がコンテンツの消費に走ることは先に述べた通りだが、チー牛は恋愛が出来ない代わりに恋愛コンテンツの消費を通じて、マジョリティが恋愛によって得ている効用を自分たちも得ようとする。勿論そんなことが出来るはずも無いのだが、恋愛の効用を得ようとする以上、チー牛はコンテンツ内の世界において展開する恋愛の主体であると思い込もうとする。これを可能にするべく、男性向けラブコメの大半はチー牛が一方的にシンパシーを感じることの出来る男性キャラが主人公となっている。そのマーケティング戦略にチー牛はまんまと引っ掛かり、モテる主人公と自分を同一視するためにラブコメ作品を延々と消費し続けるのだ。

 

以上の前提を考慮すると、ラブコメ作品と読者たるチー牛は次のような過程を経ると考えられる。

STEP1: モテない現実において、現実の恋愛の代替措置としてラブコメを用いる

STEP2 : 主人公に自身を投影する

STEP3 :

・ラブコメ主人公はモテている

・主人公は自分自身である

→「自分はモテている」

という三段論法が成立する

 

このような過程を経ることで、チー牛は次のような2つの認知のズレを持つことになる。

 

1つは、ラブコメコンテンツの大量摂取によって知的判断能力を鈍化させたチー牛は、モテない現実、あるいは女性からプラスの評価をされていないという現実を忘れてしまい、あたかも自分は女性から好意的に見られている、少なくとも生理的嫌悪や無視の対象ではないと無意識に感じるようになってしまうのだ。

 

もう一つには、殊に痴漢からの救出を恋愛描写のトリガーとする風潮に関する議論においては、チー牛は助ける資格すらないはずなのに、あたかも自分は女性を守る側の人間であり、女性の味方であり仲間であると考えてしまうのだ。その結果、性的侵犯行為から女性を助け出せば、少しぐらいは女性と好意的な接触を持つことができると考えてしまうのだ。

 

実際にはマジョリティの男女にとってチー牛は痴漢魔とそう変わらない、性的に不潔な存在であると見なされているにも関わらず、である。

 

 

5 チー牛は何故「痴漢から救出」系に騙されるのか?

 

 

ここまで、ヒロイン救出系ラブコメがチー牛の認知に齎す歪みについて述べたが、このような稚拙なプロットをチー牛は何故受け入れてしまうのだろうか。

 

あくまで仮説の一つに過ぎないが、チー牛がこの世界が複雑系であり、直線的・一次的な因果関係によってのみ説明できるものではないことをよく理解できていないのではなかろうか?

 

チー牛は先述の通り女性に対して身の毛もよだつほど楽観的に考えている一方で、モテないという歴然たる現実の記憶は完全に消えたわけではない。現実の恋愛に対する不可避な無知も相まって、彼らは理由もなく女が男を好きになることなんてないと、一見ドライでリアリスト的に見えるが、場違いかつ的外れな考えを無意識に持っている。

 

即ち、彼らが作中の恋愛に没入するためには強烈かつ単純な(、しかもチー牛にとって都合のよい)理由が必要なのである。

 

複雑系であるこの世界は様々な要因が相互に影響し、様々な現象をもたらすが、人間の頭で作り出されたフィクションの世界は単純で直線的な論理でしか動かない。ラブコメの摂取において知的判断能力を鈍化させたチー牛は驚くほど単純で直線的な理由で恋愛フラグが立ったにも関わらず何の違和感も抱くことはないし、むしろそうでないと納得しないのだ。

 

 

6 おわりに―終わり無き妄想からチー牛が目覚めるために―

 

 

チー牛は社会から排除されたことで認知が歪んでしまい、故に非常に馬鹿馬鹿しい手法によってまんまとマジョリティに手玉にとられている。この度論じた、痴漢から救出系ラブコメはその氷山の一角に過ぎない。こうした隠蔽された搾取構造を一つ一つ暴く、知的偵察行動によってチー牛自身が何故自分たちは低い地位に甘んじざるを得ないのかを自覚することが、チー牛が尊厳を獲得するための戦略を構築する上で重要なことではないだろうか。

 


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