勢いのまま特に考えもせず酒の勢い。書いたので、竜頭蛇尾。最後失速。
過去をふと思い出すことがある。大抵は同じで絵のことであった。その記憶は苦しく辛いものばかりだった。けれども、絵は喜怒哀楽を包括し、その先に光を見せた。責苦にもがく。その身へ煌々と射しこむ絵という事柄に私は翻弄された。出会わなければと思ったことも多い。けれども私は充足している。
大別して二つあった。人生の起点。生きる道しるべ。苦行の案内板。大仰な言い方は過分ではない。私にとって適当な物言いである。
絵という存在を認識したであろう幼年期。記憶でありながら、おぼろげに顔をのぞかせるときがある。幼いころ、今では写真を見なければ思い出せない両親がまだ健在だったとき。
あれはどこでみつけたのだろう。
風景画だった。そこに、私は幼いながら光を見た。屈折していて、様々な顔を見せる風景。今にして思えば、多分な情報が内包されていた。苦悩や絶望、渇望、願いや祈り。ただ、子供にはそれがまぶしい光に見えたのだろう。けれども、煌々と輝き続けてしまった。その光が射した先を私は歩んでいきたかった。
魔性の光。誘蛾灯。卑下するつもりはない。私はまさに駆り立てられた哀れな生き物になった。
行き着いた先に、私は何も用意することができなかった。勝手に期待し、勝手に増長した。そうして転がり落ちた。全てを敵にして、自己を守り、やがては絵を憎むほどになった。
大学をやめ、世話をしてくれた先輩を罵り、行きつけの蕎麦屋の女将さんに説教されて逃げ出していた日々。人生の終末は確実に訪れていたはずだった。
めぐり合わせは唐突なもので、理不尽なほどに圧倒的だった。
的確に殴打を貰った絵があった。それは自暴自棄の果てで出会った。罪を犯そうと画策した私を差し置いて、魔物を産み落としたおぞましいまでの才能の暴力。
横浜のある美術館の外壁に描かれた絵。引力をともなう黒い衝動に心を奪われた。そこにあった絵によって私は救われた。才能ある人であろうとももがき苦しみ、何かを欲し、妬むということを知った。単純なまでに安堵してしまった。慰めになってしまった。
勝手に解釈をして心を抉った。吐き気を覚えるほどの焦燥を胸に抱きながら眺めたその絵は、その黒は、多くの色彩を混ぜ合わせたものだった。その感情の総量を推察することなどできはしない。
絵を描くきっかけの光。
絵をやめるきっかけはその黒い衝動。
幸福なことに、私は再び出会うこととなった。
***
新入社員が一人入社。そのイベントにかこつけて飲み会があった。そうして、私は酔っ払いとなった。二次会まで都合をつける余裕もなく、酒が入るといつも気分が下がるものだから、早々に具合が悪いといって席を立った。そのまま憂鬱を負ぶって岐路についたものとばかりおもっていた。しかし、予定に反して私の足取りは別のところに向いた。
夜の九時を回るころ合いだった。去年の春からずっと出したままになっていた薄手のコートでは寒風は堪えた。どうしてだろうと考えて、暖かい食事をしたいという理由を作っていた。
見覚えしかない薄汚い道路が横たわっていた。人の往来は夜ということを差し引いても淋しいものだった。煌々と照る街灯も心もとない。飲み屋から喧噪が漏れて同類らがふらつきながら去っていった。
私は学生時代、蕎麦屋で飲食をしていた。社会に出てからも、お世話になっているお得意様で、私の健康を担っているというのも過言ではなかった。
その蕎麦屋は安くて量が多い。主に苦学生が食べにくるところだった。私がそうだったように、金に困って女将さんに頭を下げては蕎麦をいただいた。その見返りとして店の仕事を手伝う輩もそれなりにいたことを覚えている。もっとも今の時勢、苦学生自体が減っていることもあってか、私と同じようなサラリーマン御用達になって久しい店でもある。
その店を目指しているのはなぜだろうか。分からない。私は何を思ってその道を歩こうと考えたのだろうか。けれども下手な感傷に浸っていたことは確かである。
寒さに震える自分の身の上を哀れに思いながら、酒の余韻と退廃的な雰囲気に酔っていた。
酒を飲むのは好きだったが、どうしたって昔を振り返るばかり。今よりももっと未来に絶望をしていた頃合いがやけに自己主張をみせてしまった。後ろばかり振り返ったところで良い思い出などない。それでも、幾ばくか前を見るよりは安心した。それは確実に歩いてきたために、道が見えるからだった。わかっていることを振り返ることは容易く、けれども無意味でしかない。改善策を提示したところで、同じ様相をもたらす場面はもはやないのである。
私はとうに年を重ね、学生時代は堆積した人生の一部でしかなかった。
マイナスに思考が落ち込む。良くないという認識はある。けれども中々に中毒性もあってか治らない癖であった。
***
そのラクガキを見たのは、酔っ払いが道をふらふらと歩いているときだった。そこは目的だった。何のことはない。シャッターは降りていた。だからこそ、少年らが集まってスプレー缶を遊ばせていた。不思議と怒りはなかった。あったのは好奇心だ。今どきの若者がどのようなラクガキを行うのか知らなかった。三人組の少年は何か、テーマがあるのか、何かをまねていることだけはわかった。その姿に、私は心の休まりを覚えた。子供の遊ぶ姿を見るのは、心地が良い。ラクガキという犯罪行為を見逃しているという点に目をつむるのならば、ここで寝入っても良い気分になっていた。
彼らはひとしきり描き終えたのだろうか。ふと私と目があった。すると、それみたことかと慌てて逃げ去っていった。遠くに少年らの快活な笑い声がなった。逃げることもまた何かと楽しいのが子供時代だ。悪いことを誰かと協力してなすことも、不健全であるが、理解はできた。私は、立ち尽くしていたものだから、少し膝をまげて、それからラクガキの前にたって妙にかしこまってそれを眺めた。あいにくと絵と表するには値しないものであった。
ラクガキは模倣ではないかと予測がついた。瓶のようなものを持った白い人型。背景は真っ黒にされている。顔立ちは丸い。着ぐるみを着こんでいるのかもしれないと私は思った。このとき、私はまったく元となる作品を知らなかった。のちに、これがバンクシーの模倣だと知り、あの少年らの情報収集能力に舌を巻くことになる。とりわけインターネットの活用に興味を抱くきっかけになった。
とにかく、私はなんとも趣のないへたくそな絵だという身もふたもない感想しかなかった。しかし、少年らの顔が脳裏にきらめくものだから、この絵が段々と憎らしくもなった。彼らの娯楽が、私にとっての苦痛に置き換わる。彼らの若さが、もはや戻れぬ時の流れの残酷さを見せつけさせられている。酷い被害妄想にとらわれて、私は気が狂いそうになった。その時、脳内で光がまたたいだ。少年らの若き活力を押しのけて、あの絵が広がった。背景の暗がりからシミ出てくるかのように、横浜の絵が浮かぶ。あの絵はどうだったか。こんな感じだったか。こう描けばよいのか。あれこれと思案しては、足元に転がっているスプレーを物色した。黒がなかったことに苛立ち、けれどもやめることはなく重みのある缶を握りしめた。
私は少し不安と驚きを持っていた。身体と心が分離しているようで、ひどく実感を得ることが叶わない。
何年ぶりに絵を描こうという気になったのか。酔いが思い出を断る。その代わりに少年らの喧噪が耳ざわりに記憶を刺激した。新鮮な若気が嫉妬を呼び込んだ。どうしてそこまで少年らを憎たらしく思ったか。鬱憤がたまっていた。その発散に何のことはない。酒の力を借りたに過ぎない。
壮大に意気込んで、私は走らせた。見えるものは一つだけで、それだけは迫力をもって霞に染まる脳裏を照らす。
緊張で指が震えた。噴射をさせて、脳がはじけ飛んだ気がした。今まで張りつめていた糸が切れて、腕は重いのによどみなく動いていた。スプレーの勢いの弱さに舌打ちをして、カラカラと音を鳴らした。
冒涜に酔いしれることもなく、絵を描き始めて襲われた気配は、焦燥と後悔。この先にある結果など、とうにわかっていた。にもかかわらず、私は走ってしまった。あの絵に近づけるとどうしてだか、思った。怒りや悲しみや苦しみをもってそばにあったあの幻影に今度は自らがなり替わる。おごり高ぶりは理不尽なまでに無茶をけしかける。私は結局、絵から何も学ぶことはなかった。自分の虚栄心を満たす手段でしかなく、それを見透かされたことに腹を立てて、孤独になっただけにすぎない。その時に出会ったあの絵は私の最後の砦だった。私が私であることを認めてくれた。普通の人であることが当たり前で、自分は何者でもないことを慈悲深く告げた。苦しむ余地すらなく、あっさりと私の虚栄や自尊を縊り落した。私をただの無為に時間を浪費しただけだと改めた。
その絵を汚す。その行為に気づいたとき、私は泣いていた。抑えきれない何かが吐き出されていった。
私はあの絵にはなれない。全てを投げ捨てて没頭することができない。捨てるだけの価値などないと自分の人生をけなしておいて、才能のある人の全てを犠牲にしても絵にする異質さに恐怖し、模倣すらできずにいる。
目の前のラクガキはなんだろう。これは汚物のようでもあった。醜いという言葉が適当だった。
何もかもが中途半端だった。全てにおいて、私は思った。何をやっても、本気で取り組んでいないと指摘され、それを笑ってかわした気分に浸っていただけだ。
届かない。私は、普通ですら、普通にすら及ばない。私は一体、なんだ。
絵もどき。それを創作して、このとき、はっきりと自覚した。見るだけで満足している。他の誰よりも、同じではなく、私は見ることで知った気になり、成しえた気になっていた。
あの絵を見て、私は確かに寄り添われていると錯覚していた。そうすることで自分を慰めていた。私は結局、あの絵の本質すら見えていなかった。あの絵ですら都合良く利用したにすぎないのだ。
からっぽの自分になった今だから、あの絵は光があったと認めた。遠い昔に得たあの光と似ている。けれども、身を焼くほどの熱量は差があって、今でも私を焦がすほどにくすぶっている。
その熱がある。けれども、行動が伴っていなかった。億劫だった。臆病だった。現状維持を楽天と思い込み堕落していた。
***
ラクガキをしでかした時のことを改めて思う。ぞっとする。
もし、女将さんと出会うことがなかったら、もし彼女と出会うことがなかったのなら、私は、きっと、何者になれないまま、そう思い込んだまま、からっぽのままに、ただ生きている屍のような存在だったのだろう。
「うるさいよ」
声音は鋭く、すぐにそれが蕎麦屋の店主である女将さんだと察した。けれども嗚咽が引っ込むことはなかった。むしろあったのは解放感だった。女将さんに縋りつきたい気分ですらあった。誰かに慰めてほしいと図々しい自分が身体の奥底で寝ころんでいた。
これみよがしに嘆息が頭上から降り注いだ。
「酔ってるね。いつからそんな自棄になれるほど偉くなったんだ」
叱りつける低い声だった。
「あの絵は、こんなものじゃ、ないんです」
子供の言い訳を実演したところで、不思議と羞恥はなかった。
「絵じゃないね。これはラクガキだよ。うちの店に垂らした汚れなんだよ」
「この絵は私なんです。この汚物が、私なんです」
「女々しいね。お上を呼ぶかい。そんなに女々しいなら、描けばいいさ。人様の迷惑にならないところで、手慰みなら文句は出ないよ」
「結局、私は私を捨てたんです。勝手に一人になって、でも、それを人のせいにして裏切られた気になって、慰めていただけなんです」
「そんなこと知ったこっちゃないよ。まったく、酔っ払いはこれだから困る」
女将さんの言葉は途切れた。それから一呼吸をおいて声音を営業色に塗り替えていた。
「お嬢さん。ごめんなさいね。こんな男でも、あたしの顔見知りなのよ。だから心配しないでね。ありがとう」
その言葉に、私は怯えつつ振り向いた。今更になって往来で泣きべそを垂れ流す行為を自覚した。焦燥が身体から汗を滲ませた。
足先から目線をあげるとフードを被った少女が気まずそうに立ち尽くしていた。そうして、彼女と目線を合わせた。彼女は咄嗟のことであろうか、目線を切った。それから大げさにシャッターのラクガキを見据た。逡巡し、目を見張った。けれども途端に曇り空を浮き彫りにした。
彼女はもしや、苦痛を感じているようだった。思い込みではないだろうか。私は一瞬、疑いを抱いたけれど、すぐに霧散した。
呆けてしまった。
その姿が、私には美しく見えた。
多感の果てに染まった黒に見えた。
女将さんは私を立たせるようと腕を持った。意識がぶれた。酔いの周りはまだ残っており、すぐに女将さんに身を預けようとする駄々っ子が目を覚ましていた。女将さんは「しっかりしな」と叱咤する。私には程よい養分となって、足に力を入れた。
私はつられて立ち上がり、とっさに頭を下げた。みじめな気になった。頭を下げて、すみません。そういうときだけ、声の通りは良く、所作は流れた。
「お嬢さん。ウチは安くて量が多いをモットーにやっている蕎麦屋だから、食べに来てくださいな。お嬢さんにはおまけするよ。めいわくもかけてしまったからね」
少女はしどろもどろとしつつも、会釈をして足早に去った。そのとき、私は彼女と再び目を合わせる幸運にあった。その目の印象に不安を覚えた。そこにあったのは辛そう、という感情だった。寂寥に沈む表情が私の心を揺さぶった。
「ありがとう」
思わず言った言葉は、果たして彼女に届いていたのだろうか。
「ほら、明日も仕事だろうにまったく世話のかかる大人だよ。ウチの掃除やってもらうからね」
「でも、ラクガキは」
「そんなもん、いつだってかまいやしないよ」
私は女将さんにしょっぴかれて、店内に入り、結局のところ店の掃除を手伝うことになった。
***
彼女を思い浮かべる。するとどうやってか、横浜の絵に邪魔をされてしまう。鳥肌を立たせる佇まいが今でも身を震わせる。その感覚に、私は言い知れぬ興奮を味わった。彼女は何者なのか。
私の生活に色がついたのである。たった一人の少女。私の醜態を目の当たりにしながら、私に対して一切の興味が発生しえなかったのではないか。そう思わせる浮世離れした存在感があった。
私はいじらしいまでに蕎麦屋へ通うことになった。接点はそこにしかなかった。女将さんが頼みの綱であった。
女将さんは老婆、と表現できるくらいには年を召しているけれど、実のところ歳を知ることはなかった。聞くことも野暮なものだろうと妙な親切心を持ったことから機会を得ることはなかった。
女将さんの蕎麦は六割蕎麦が主力だった。駅そばのように小麦粉が八割ほど入っているものとは一線を画している。けれども二八蕎麦ほどにのど越しだとか、そういう通を呼び込むお高い商品ではない。拘りがあるわけではないと女将さんは語っていたこともある。
酒はあった。けれども酒に合う品はない。本当に、蕎麦を食うところだった。業務用の山菜だとか蕎麦湯だとかを提供する店。くたびれた食堂であり、チープなものと割り切って提供される食事が嫌いではなかった。
値段相応かと聞かれてしまえば、安いのだろうとあいまいに答えてしまう。私はこの店を贔屓しているのだから、悪いところには目を瞑るのである。
少女が来ていないか。その想いが私を動かしていた。これが恋であったのならば、随分と心が楽になっただろう。胸につかえがあった。気持ちに説明がつかないのでもどかしさに溺れそうなほどだった。
一個の少女が与えた人生の変化だった。
もう一度あって話をするべきだ。強い言葉を用いるくらいには気持ちが入っている。けれども、肝心の理由ははっきりとしない。けれどもそうしたほうが良いと思っていた。
女将さんにはどうしても会って話がしたいと相談をしてしまうほどに、私は他人に興味を得た。
「あの子なら、来てくれたよ」
女将さんはこう言った。
初夏の陽気は、しかしうだるような熱気を発散させながら襲い掛かってきた頃合いだった。
女将さんの発言に、私の好奇心は刺激を得た。これまで無為に過ごしたわけではないという言い訳を獲得して満足感を覚えた。
客の話は滅多にしない。客商売は信用が大事なものだから。けれども、私にだけは融通してくれた。それほどに私が入れ込んでいたことに気づいていた。
「今のお前さんは、隠し事をしている子供みたいに怯えて、焦っているみたいだよ。もう少し落ち着いたらどうだい」
そこに善意は含まれていないようだったが特に気にはならなかった。
「あの子のこと、何か知っているんじゃないかい?」
その問いかけに私は首を横に振った。女将さんも実のところは彼女のことが気になっていたことを知った。
「あれだけの美人を忘れるはずもないですよ」
女将さんは呆れたようだったが、たしかに美人だと頷いた。
少女は度々蕎麦屋を訪れていた。そこで女将さんは気をやって世間話をする仲になっていた。私は女将さんから話を聞いて、少女には女将さんを通じてそれとなく認知をしてもらっていると聞かされた。幸運なこととして捉えるならば、私の醜態は印象深いのだろう。笑いものにされていないことを願うしかない。
私は女将さんに少女と話し合う機会を設けてほしいと考えた。けれどもそれは店と客の領分を外れてしまっていると思い直した。
ここで私はおかしいことを自覚した。
会って、何を話すのか。会うことのみを考えていた。けれども会えば挨拶はする。そのまま流れで会話をうつことになる。楽観をするならば、そこから交流を深めることもできるのだろう。それからのことについて、驚くべきこであるが具体的に何をしたいのか、とんと出てこなかった。
私は一体全体、どうして彼女に会いたいと思っていたのか。
女将さんは、私に行動の提案をするほどお人よしではなかった。私は決断をしなければならない。
「居残るなら、片づけやっていきな」
「はい」
と私は愛想笑いを浮かべた。女将さんの心象一つで私はこの細い繋がりを失ってしまうものだから、余計と店の環境に配慮をした。女将さんは調子の良いことに私に色々と雑用を押し付けるものだけれど、そこはさすがに料理人なのだろう。調理場への立ち入りは求められておらず、もっぱら拭き掃除やごみ捨て、荷物運搬といった肉体労働であった。
私は手伝いの範囲を拡大させ、やがては食器洗いくらいは従事してみせようなどという仕様もない遊びに興じていた。
***
彼女に想いを馳せる。すると何か苦しい気持ちになる。その苦しみを理解できるという奇妙な自負があった。今まで捨て置いた苦い記憶であるから、仔細に浮かぶわけではない。けれどもたしかにそれは似ているようだった。
絵を捨てた頃合いに私は死を強く意識していた。苦痛を伴う過去。その事実に直面させたのは彼女であった。互いの身の上について、言葉を交わしたわけでもないのだから驚くしかない。彼女と出会ったことで、私は何か、得体のしれない衝動に身をさらしたのである。
初対面の顔持ちを脳裏に浮かべる。眉間にしわが寄っていた。口が尖っていた。それは不平不満というよりかは、曇り顔などと表現はできる。けれども人の内面などたやすく偽ることができるものだから、想像で心境を語るほかにない。
私は彼女の悩みに興味があるのだった。彼女は何に沈んでいたのか。どうして私を見て、何かを悟り、苦し気に顔をゆがめたのか。
私はそれが気になっていた。けれども受動的なままだから機会など降ってわいてくることもなかった。
私は怠惰にも仕事にかまける。普段はほとほとに興味のない作業に集中した素振りを打った。馬鹿みたいに私は妄想だけで満足していた。
私はこんなにも徒労を嫌う、惰性に浸る弱者だったのだと自覚することを拒もうとした。
蕎麦屋に女々しく通うことが、唯一の抵抗だった
いつもの私だと嘲笑する気すら起きなかった。
腰をあげることもなく日常は朽ちていく。そうして随分と時間が過ぎ去っていた。
気が付けば木々に暖色が輝き、しまいには来年の話がテレビを賑わしている。
大人になり、時間の流れはとてつもなく早くなった。まるで時間が早く死んでくれと願っているように思えて寂しくもあった。
そう思いながら、私の足は蕎麦屋と職場を行き来するくらいだった。
***
私は結局、誰彼の苦痛に興味を抱く物好きであるという結論だけを得たまま、一年を捨て去ろうとしていた。
仕事中も気になってしまって、けれども上の空で上司から小言を授かる下手をこくことはなかった。今の仕事は、別のことを考えていてもできるくらいに慣れてしまっていた。情熱もやりがいも意欲もない。金をもらい、時間を差し出す。単なる行為だった。
私は仕事が好きではない。ただ、生きていく上で必須だから、イヤイヤに行っている。新しい職を探せばいい。そう思っていたころは確かにあった。今では無駄に歳を食ったおかげで、新しい行動が億劫になり、あきらめる癖があった。そんな甘えた状況でも、人は生きていける。実のところ、社会はうまくできているのだと感じるようになった。
私は仕事が好きではないが、もっとも苦手なものは仕事で酒を飲むことだった。自らの意思を捨て去り、ただひたすらに時が過ぎ去るのを待つ。相槌を適宜に実行する。相手の顔色、声色を観察する。良い気分を提供して、かつ私への印象は最小限にとどめ、無駄な評価の一切をそぎ落とすよう心血を注ぐ。
人生でもっとも無駄な時間だと嘲笑してしまいたい。
キャバクラという謎の空間に私はいた。何度となく同伴したことはある。こういった店の酒はとても不味いと知っている。ただ、高級店に行ったことがないからだと私は信じている。
その苦行の合間、私はある女性と出会うことになった。その女性は口が回り、色があって、力があった。若いだけであの瑞々しい活力はわいてこない。彼女にとって、しゃべることは仕事以上の何かをさしているようで、私にはとても魅力的で、けれども羨ましいという気持ちが先行するほどの人物に見えていた。
彼女の存在が、私にとって救いだった。一手に世辞や駄洒落を背負いこんでなお果敢に立ちはだかるその姿は英雄の貫禄があった。
***
彼女の様子がおかしいと気づいたのは私だけだった。具合がよろしくないのならば誰かしら気づいたやもしれない。私は彼女のしゃべりが好きだったが、彼女の姿勢の美しさを見ていた。そこから顔色をうかがう形になってわかったことだが、上司の娘が絵に傾倒している。果ては画家になるかもしれない。そううそぶいて皆の笑い声を誘った。けれども彼女は先ほどまで見せていた流麗な笑みはなかった。なんとかこらえた。と私は感じた。彼女の中で、絵は耐え忍ぶ事柄なのだと察した。それは昔の私を美化したような姿が投影されているような気分に陥った。私は彼女ほどに背を伸ばして生きているわけではないものだから、けれども同情や懸想といった指向性のような感性はなかった。
私は、上司をヨイショすることにした。珍しく覚悟を伴って仕事に挑んだ。とにかく初めに娘さんを褒めた。酒の勢いで普段とは違う私に怪訝を呈する者は幸運なことに見当たらなかった。私は娘さんの話を飛躍させて、色恋を話した。娘さんは上司のあなたのように器量がいいのなら、いくら若いといっても男子は放っておかないのではないか。容姿を褒めたたえることはそこそこに、私はひたすら娘さんの背後にあるは上司である父親の偉大さを説いた。
上司は大仰な父親を身にはりつけて威張った。私は上司の自尊心をくすぐることに注力し、飲みたくもない酒を注がれようとも、正直に飲み干した。そうしてから、気分がすぐれないと席を立った。こうすると、あのような男には娘は靡かないだろう。そういった矛先を向けさせることには成功したようだった。私の背後から姦しい笑い声が届いた。
珍しく誰かのために仕事をした気分になった。酒に気分を害しているのは事実であるが、精神上、気分は落ち着いていた。この不可解な気持ちはなんだろかと考えたが答えは出なかった。ただ、彼女の姿は私の琴線に触れたのであった。
トイレで顔を洗った。随分と中年らしい行動をとるようになったと苦笑が漏れた。するとボーイがやってきて、先ほどの嬢が礼をしたいとついてきていた。
律義な女性であると感心した。何よりも目が良いのだと思った。初対面である私が庇ったものだとあたりをつけていたのだ。人間観察の妙味であろうか。こういったことが客商売で大事なのだろう。その仕事根性に尊敬する。
私はそこまで身を削る元気はなかった。
絵について貴女が少し苦しい気分になっていたように見えたので、差し出がましいと思うよりも言葉が滑っていた。
そう謙遜してみせたが、彼女の弱弱しい笑みを鬱陶しいと感じた。どういうわけか気に食わなかった。
「私は、昔に絵をやっていたのです」
私自身が今の言葉を聞いて驚いてしまった。まさか自らの経歴を軽くとはいえ口に出すなど、職場での面接以来だった。
彼女は少々面を食らったようだったが、相槌を丁寧にうった。そこから、彼女も何を血迷ったか、私に一瞥をくれるとその口を動かして、自分も絵をやっていることを告白したのである。
大学で絵を学んでいる。けれども、もうやめようとしていることを矢継ぎ早に放った。初対面の客によくもまぁ、それだけ重要なことを語る女性だと思ったが、そこは私が発端であり、なるほど傷のなめあいなのだと納得した。私の顔色は、さきほどの女性が崩したような、見ていられないものになっていたのだろう。
「すごい天才が現役でいるんです。何もかもを犠牲にして絵を描けて。でもそのことがまったく嬉しそうではなくて。むしろ、苦痛に顔を歪ませていて。それなのに描くことしかできないって泣いている子がいます。あたしは、その子を見て、無理だと悟りました。あたしはそこまで人生を犠牲にして絵に没頭できないと」
そのとき湧き上がる吐き気は酒の力だけではなかった。どうしてここにきて、私の古傷を無慈悲に広げる出来事がおこってしまうのだろうか。その恨みがましい想いは刹那のひとまたぎに消え去って、到達しうる衝撃は焦燥に変色をもたらす好奇心だった。
彼女は私に似ている。けれどもはっきりと違う。彼女は孤独に逃げていない。私のように屍とかしていない。その強さがまぶしい。
私は彼女に聞いた。
「その天才の名前を、教えてはくださいませんか」
彼女の顔色が変わる。瞳がろうそくのように揺らめいた気になった。ボーイの咳払い、早くしろといううんざりした顔色が女性の背後から見える。彼女は私を見据えた。覚悟を決めたようだった。名前を出すことで、何かが変わるのだろうか。彼女の中で何かを起こす気なのだろうか。聞いてはいけない気分になった。とっさに、いえ、良いです。と脳内で言葉が滑ったが、口からは零れ落ちなかった。
「ヤマギシエレン」
その名前を聞いて、頭から血の気が引いた。
二日酔いのように、頭がぐらぐらと揺れる。走馬灯のごとく映像が瞬きに散った。どこだ。記憶を呼び起こそうとして頭痛に顔をしかめた。わからない。けれどもはっきりと言える。私がその名前を聞くのは何度目かになるということだ。
私は過去、その天才を見ている。会話をしたことはあっただろうか。けれども確かに自慢なに話を先輩から聞かされた。
先輩。あのスキンヘッドのサングラスが見えてきた。忘れようとしていたのだと、思い出して知った。
私は先輩のことをすっかりと忘れていた。いや、私にとって古傷に至る絵という物事に対し、先輩は深く入り込んでいた。先輩を思い出すことは私の恥部をさらけ出すことになる。無意識のうちに選択肢から除外していた。恩人を絵と関わりがあるというだけで消し去っていたのである。
そうして視界がはじける。あの絵があった。あの光がそうだ。
私が絵を描こうという気にさせた絵は、山岸という人物が描いた作品であった。そういったのは私の父だ。私の父はその画家をえらく話題に出していた。山岸。その名字だけははっきりと思い出せた。
私が一人の女性を思い続けるようになった原因がはっきりとわかった。
私は、彼女に私の中に息づく絵を描いてほしいのだ。
***
私は彼について考えてみる。たいていのことに「先輩」と呼んでいることに気が付いた。これは紹介された当時、おじさんといって怒られたことがあるからだった。同じ大学生活を過ごしたわけではなかった。
中学生にあがったころから、絵の勉強をしようと漠然ながら考えていた。そこで両親が伝手を使い、美大生に絵の講習を依頼した。
そこで出会ったのが先輩であった。そのころの私はずいぶんと身勝手で傲慢な子供だった記憶がある。両親は私の性根を直す意味合いも含んでいた人選ではないかと疑っている。
先輩は二十代だった。大学生であるから当然あるが、しかしながらその風体は不良そのもので、もっと悪く言えばヤクザの下っ端みたいだった。その姿を見て、私は胡散臭いと思っていた。本当に絵をやっているのか疑っていた。当時の心持のほうがよほどに芯があったのだ。
私はまだ若く、さんづけに抵抗があった。けれども絵を勉強するという意欲に溢れていた。つまり、大学に行って絵を極めるという安直な人生設計があった。それは将来的には先輩になるのだから、今からそう呼んでも差しさわりはない。怒られて不貞腐れていた私がひねり出した屁理屈。その突飛な考えに、先輩も私を揶揄うときは後輩云々と煽ってきたものである。
私が大学受験に失敗し、浪人となっても先輩は私の先輩であり続けてくれた。私が同期の実力についていけず、励ましてくれた仲間を捨て、勝手に孤独になったときも軽口を叩いた。勝手に夢を膨らませて、それが現実的ではないことを突きつけられた時ですら、安直な慰めをよしとせず、ぶつかってきてくれた。
急速にしぼむ未来を想像し、勝手に周りから裏切られたと思い込んだ。私は私を助けるため、周囲を悪にするしかなかった。先輩は泣きながら、私が死にたいと言ったことを怒ってくれた。不確かながら、そうであったと自覚できる程度の記憶。欠片ぽっちに砕かれた過去において、映像は浮かんではこない。ただ、先輩に救われたという事実が横たわるのみだった。
先輩は、私の中で人として立ち直らせてもらった恩人だった。ただ、先輩を思い出すことは私にとって苦痛でしかなかった。忘れたい思い出の全てに先輩が出てくるものだから、自然と記憶の中に閉まっていた。意識的に目をそらしていた。
社会に出てからはその意識も薄れ、社会の素早さに足並みをそろえることに執心して勝手に忘れていた。忙しさが私を普通の人間に戻したともいえる。
素人に毛が生えた程度で学生時代を無為に過ごしていた私にとって、先輩の絵はレベルが違った。初めての挫折はそこだった。けれどもまだ反骨精神はあった。先輩から教えを乞うことが叶わなかったのならば、私は絵で苦しむこともなかった。けれどもどのような人間になっていたかはわからない。
***
どの面をさげて会えばいいのか。私はほとほとに困った。つまり、対面することを諦めた。
私の醜態をなるべく隠す必要がある。躍起になって取り繕ってボロを出すのが目に見えていた。
私は電話に逃げることにした。電話番号は変わっていなかった。私は過去を嫌っているものだから、てっきり削除してしまったと思っていたが、電話帳にはさも当然のように残っていた。仕事関連の連絡先に埋もれるような形であった。
削除する度胸がなかったのだ。そのくせ、目に留まらないよう群れの中に放り込んでいた。
せせこましい過去の私に、苦笑を禁じ得ない。
とはいえ、先輩と通話するにあたり、随分と気が滅入った。どうやって会話をするのか忘れてしまったかのように頭が回らない。
何度も練習をして、シミュレートを行った。
スキンヘッドのおじさんに電話をかけるだけで、随分と私の心は疲弊した。億劫に鞭を打ってようやくモチベーションの維持に終始取り組むことで、私はどもることもなく応対に挑むことに成功した。
「久しぶりだな」
快活な一声で、私の心が軽くなった。携帯電話の位置を確認して、声を入れる。
「ご無沙汰しております」
もう何年も会うことはおろか会話すらしていない。アトリエをやっているという話は伺っていた。そのときに、山岸エレンについて聞かされた気がする。
何をいまさらだという恥はなかった。
私は近況を報告した。絵をやめて、社会人として汗水をたらして生活していることを、なるべく平坦に述べた。
「俺は心配していなかったぜ。お前はなんだかんだ巧く立ち回れるやつだったからな」
喜色が浮かぶ。その幻影に私は自嘲をもらした。結局のところ、私は他者に期待されたいという願望を捨てることができなかった。
先輩を捨てたにも拘らず、必要になれば拾い直して接点を持とうとする。卑しいものであるけれど、そう穿って物事を考えて見たところで、私は体内でくすぶる欲望を鎮静させる術をもたなかった。
「絵はすみません」
「謝って何になるんだ。俺はお前に絵のことだけを教えたつもりはないぞ」
「はい。先輩に口うるさくしかられた経験が、社会経験に活きています」
「今じゃ叩くも無理だろうがな」
「無心で謝罪し、尾を引かない。これは精神上とても良い経験になりました」
「やっぱりか。お前、謝罪だけは真摯なのにすぐにケロっとおかしなことやりやがって。結局、その場限りじゃねぇか」
先輩の軽口には随分とお世話になった。この時もまた、私は都合良く穏やかな気持ちになった。
いくつか私の話をした。会社で先輩になったこと。仕事に慣れてきたこと。やりたいことが見つからず、グダグダしていること。行きつけの蕎麦屋の女将さんが昔の先輩のように叱ってくれていること。よく蕎麦屋で掃除片づけの手伝いをやらされていること。
「相変わらず、お前は叩かれてそこから曲がって変に伸びるやつだな」
先輩は愉快そうに笑った。例えはよくわからなかった。根性があるのかないのか。そんな類の話だった。
「それで、要件はなんだ」
先輩から水を向けてくれた。
私は自分が思った以上に心を許していたことに驚き、安心した。私はまだ誰かを信用できるのだという自信がわいた。
「山岸エレンについて。お話を聞きたいと思いました。少々、出会う機会があったのですが、その時の彼女の様子が気になり、人となりに興味を抱いたのです」
「絵、か」
先輩の言葉が広がっていく。波紋のように連なり次第に強烈な焦燥と恐怖を抱かせた。
「私は今でも、縋りついているようです」
払拭しよう。矢継ぎ早に出た言葉は卑下でしかなかった。
下に見せることは気楽過ぎて、もはや感覚的な位置づけで自分を貶めてしまっていた。
「別にそれが悪いわけじゃない。むしろ、俺は嬉しいもんさ」
私は彼女との出会いについて説明をした。そうして彼女がどうやら絵をやっているが、それを誰かにいうことを嫌がっている。ましてや絵を描くことをつらいと感じている素振りもある。
彼女は。そう声をあげてから、逡巡した。本当に正しい記憶なのか不安になった。私は私自身を信用していない。
「絵を、やめたと思っていました」
「知っていたか。俺が、言った気もするな」
彼女は小学生のときに絵から遠ざかった。
「私の両親が、山岸光輔、という方を気に入っていました」
先輩は、小さく、それはうめくようだった。けれども、そうか。と漏らした。重い空気が吐き出されたと私は察した。それからやや間があった。一つ、大きな深呼吸が耳に入った。
「まったく、縁というのは繋がっているもんだな」
「私が知っていることは、彼女の才能は本物であること。そして、幼少のころは、楽しんで絵を描いていた。そのくらいです」
「そいつは本当さ。ガキのころのあいつは生意気で、それは今もそうだが、とにかく元気があった。絵に命が宿っていくようでな。俺はあいつの絵を見るのが楽しかった。あいつに絵を教わり、新しい絵を描いて、ヘタクソって笑われることが嬉しくてな」
張りのある声音は、過去を愛撫するようになめらかで、心地良い語り口調だった。
私はその声を聞くに堪えないものだと断じた。過去は過去でしかない。私は惨めになった。私の思い出に喜色はない。他人を過去を羨む浅ましさだけが滲んでくる。
「今は、違うのですね」
お前の思っていることは正しい。
先輩は明るいままに放った。けれども、尾切れに音は途絶えた。
「あいつは、そうやって絵を描くんだ」
それから、少しばかり寂し気に言葉をもらした。
「命を刻みこんでいるように描く。そこに、本質的な変わりはない。ただ、期待や喜楽が重荷と感じるようになっちまった。絵を描くことは楽しいことだ。それを知っているからこそ、否定しようと躍起になって、そんな自分に嫌気がさしている。なのに、あいつは絵をやめない。絵はあいつにとって自分だからだ。だからこそ、あいつは絵に真剣なんだ。自分と向き合う。喧嘩しているようなもんさ」
その表現に私は言葉を詰まらせた。
彼女を少なからず知っている人物は似たような評価を下す。無論のこと、世間的に命を削って作品を仕上げる人がいたことを知っている。ただ、それだけだった。
あの少女を思い浮かべてみる。幼いころの姿はもう私の中には残っていない。
出てくる姿はあの夜に出会った苦悩する彼女だった。
華奢な風体に白磁の面が浮かぶ。それは生気を失った色合いを想起させた。なるほどたしかに命を削っている気もしてくる。私は身震いをした。変容に恐怖すら抱く。快活な少女が、肉親の死をきっかけに大好きなものを捨てようとした。その健気さに胸を打たれる。けれども、そこで終わりはなかった。地獄の日々だ。私には到底耐えることができないだろう。禁欲に身をささげる巡礼者のようであった。
創作活動にそこまで傾倒できない。才能のあるなしでここまで覚悟が変わるものなのだろうか。
絵を描くこと以外にやるべきことはあるだろう。不必要だと思いながらもなあなあと物事に集中することもある。
社会生活に身を置けば否応にも理解せざるを得ない。無駄であろうともやることは存外にある。
畏怖を抱くには十分だった。羨望すら届かない感情の震えが沸き起こった。
私にとって一番とは何かを考えたとき、息が詰まる。それがなければ生きてはいけない。それなしの人生など考えることができない。それほどまで、虜になったことがあっただろうか。その程度の人生しか持っていない。けれども、彼女はどうだ。おそらく、そこに絵という言葉が入るはずだと私は推測した。ともすれば、一番という意識すら欠落しているのではないか。当然のような態度をとるやもしれない。自分と絵は表裏である。何を当たり前なことを、と首をかしげるのではないか。私は彼女のビジョンを人ではない何かに投影させてしまった気分になった。
現実味のない妄想に囚われたのならば、笑って吹き飛ばすことができた。しかし、邪推と貶したところで、心は晴れない。
「怖くないのですか」
私には化け物に思えてならなかった。ひきつけを起こすほど、ぐるぐると彼女の恐ろしさを考えてしまい、やがては脳内に充満した。私はそれでも彼女を求めてしまう。絵を欲してしまっている。どうしようもなく利己的に、彼女とは相容れない姿勢をとっている。
「あいつは、大丈夫さ。疲れて休むこともある。当然さ。だが、あいつは描き続ける。あいつには見えているからな。描き続ける、その先にまだ絵があることをな」
的を外れている回答を、わざわざ訂正する気も起きなかった。
「それで、お前はどうしたいんだ。エレンのことを思い出して、俺から話を聞いて」
「正直にいうと困っています」
「困る?」
「彼女のことをずっと考えていて、彼女のことを恐ろしいと思いました。その才能が、私の想像を超えてしまっていて。それは未知との遭遇みたいなもので」
「だから怖い。知らないから怖い、だったら知れば良い。だからか」
「今では畏怖や畏敬という言葉を出してしまえるほどになりました」
「エレンを知って、その先にお前は何をやろうってんだ?」
「私は、期待をしてしまっているのです。彼女の絵を知ることで、私は変わることができるのではないかと」
「絵、をね」
「私はシャッターにラクガキをしました。そのラクガキを見て、彼女がどうして苦しんだのか。興味があります。こんな私でも天才の心を動かした何かをひねり出すことに成功した。その事実が、その認証がほしい」
「大事に物事を捉えすぎているぞ。エレンだってただの人だ。お前だって一般人だ。それくらいの分別はつくだろう。それとも何か、お前は妬ましいという思いだけで誰かを辱めようって気があるのか」
「彼女を妬んでいる心もあります。ただ、どうにも、もやもやがあって、それが苛立ちになっているのです。自分の胸が焦がれるようなもので、すっきりしたい。その解決が望みたいのです。私は、自分が楽になりたい」
「嫉妬以上に、心につかえる何か。そいつは色恋ってもんじゃないのか
まだまだ若いな、お前。と先輩はいった。
変わらず、私に接してくれる先輩の優しさに浸っていたかった。
私の粘着質で歪な感情をどうにか解きほぐそうとしてくれている。そう思い込めるほどに、私は先輩を尊敬していた。
今までの不誠実を飲み込んでくれている人情家に、私は今、全力で甘えていた。
確かに彼女は美人だった。けれども心を動かす衝動に欲目が絡んでいるとするならば、愛という崇高なものではない。もっと自分本位なものだという確信があった。
私は才能がない。その自覚が自分を貶めている。そのどろりとした薄暗い熱量が彼女の存在に刺激された。この気持ちを外に出したくはない。けれども吐き出してすっきりしたい。彼女の絵はその答えになるはずだという一心で活動している。
色恋と錯覚するのならばそれでも良いと思った。それはよほど健全な感情だからだ。
「学生展示があるだろう。それではダメなのか。あいつだって大学生だぞ」
「考えの一つです」
咄嗟に嘘をついた。
美大生であることがわかった時から、選択肢の一つにあった。けれども、私は行動していなかった。厭らしい私の願望が多分に含まれた結果、私の腰は重かった。
回り道をしている。だらだらとありきたりな正解に不満を漏らしている。
私は目的地に到達することを胡乱気に、しかし、切実に嫌がっていた。
乱高下する心情の拍動を感じていたい。
苦痛を受け、感じ取っている。だが、この痛みは我慢に強張るだけで良かった。許容できてしまった。
自覚してしまえば、彼女という存在を伴った苦痛は、私の世界を新調する手段になった。
どこまでいっても、私は身勝手で、他者を利用したくて仕方がない。それが届かない存在であるならば、よほどに気持ちが良く、自尊心が満たされてしまう。
その感情を知られたくはなかった。そう思ってしまった。馬鹿みたいに、私はやさしくされてしまえば、その人からの評価を落としたくない。必死に右往左往し、一喜一憂してしまう軟弱者でしかなかった。
「ーーーまぁ、教授連中と連絡がつけばそこまでお堅いことは言わないだろう。なんなら、俺が連絡つけてやろうか。俺の恩師はまだ現役だぞ。あいつ自体は携帯持ってないしな」
訝しいとしながらも先輩は流してくれたようだった。
「ありがとうございます。話だけでもしておいてもらえるとアポをとるなど楽になります」
「おうおう、人を使うことをようやく覚えたか」
「一応、後輩もいますからね。下手な大人を見せることもできず、息が詰まることもありますよ」
「頼れるときに頼るのは良いことだ。甘えを覚えるのはダメだがな」
「彼女は、どうだったんですか」
「あいつは。人に頼ることを怖がっているのかもな。自分が嫌なのさ。あいつは感性が鋭い。伺いたくもない人様の顔色を勝手に拾い上げちまう。自分とは違う人間ばかり。自分は変わっている。おかしい。そうやって、才能を邪魔に思っているところもあった。絵が好きでたまらないが、だからこそ抱えてしまった自己矛盾に苦しんでいた」
「想像したくもない話です」
自傷行為に及ぶ原因は察して余りある。彼女は、父親の死を自分の責任としたのだろう。驕り高ぶりと貶すことは簡単にできる。しかし、彼女の才能は容易く人を死に誘う魔風を吹かすものだと理解が追い付いてしまった。私にはそれ以上の想像は出来なかった。
筆舌しがたい苦悩の果てに、彼女は克服した。少なくとも絵を描いていることから推察はできた。その強靭な精神はどこから湧いてくるのか、ほとほとに疑問だった。
絵という自己と向き合うことで、それはもはや個ではなくなったということなのだろうか。
「だが、あいつは一人になることを望んでいるわけじゃない。一人になるべきだと思い込むことはあってもな。誰かに頼ることは悪いことじゃないことをあいつは知っている。だから余計に、あれこれ考えているんだろうな」
「甘えることが悪いことだと」
「かもしれない。子供が大人に頼るなんざ当たり前のことだ。お前さんはエレンの表情が浮かない顔だって言っていただろう。そいつはきっと、お前に何かを見たからじゃねぇか」
「何かを」
先輩の甘言は私を上気にさせた。彼女に私が関与した事実を客観的な言葉で表現されたものだから、とにかく私は思考が飛び散ってしまった。けれどもすぐに私の姿を思い起こす。たとえ、どんな姿であろうとも印象に刷り込みがあったのならば、それはやはり、嬉しいと感じた。
私は、相手にされていない淋しさがあったものだから、余計に喜色満面となった。
浮世に心が戦ぐ。縁を握りしめ、たゆたうことで自らを慰める元気を得た。
私は、あのとき心底絵を妬んでいた。あの横浜の絵を。救われていたはずの絵を恨み、僻み、そして自分を卑下していた。けれどもあの絵に縋りつきたいと願った。女々しく泣いてもいた。多くの感情をないまぜにして赤子のように泣くことで主張していた。
他人に縋りつき、甘えようとする惨めな大人。偽ることのなかった私が居たのである。
「お前が惚けていたかもしれんな」
「かも、しれません」
「まぁ、人の恋路にあれこれ首を突っ込むのも悪いだろうしな。これくらいで勘弁しといてやるよ」
「色恋ほどに、健全なら良かったのですがね」
私の苦言は先輩の一笑に付した。
「若いもんが浮足立っているのを見るのは、良いもんだよ。エレンが絵に向き合いだした頃もそうだった」
「また描き始めたことですか」
「おうよ。俺じゃ、ダメだったんだがな」
一人、あいつを怒らせたやつがいてよ。
と先輩は愉快に言った。遠く見上げている様が電話越しでもよく見えた。
「きっかけは何であれ、そいつのおかげで絵を描く道へと戻ったのさ」
続けざまに、そいつはムラっ気が強くてな。と言った。
それは独り言のようにも聞こえた。
「あいつは粘り強さがあった。愚直、というかひたむきさがあった。あいつは自意識過剰の気があったが、勢いだけは一丁前だ。昔のお前みたいに屁理屈こねたりはしなかったが、少しお前を見つけた気にもなったな」
私はそんな活力の湧いて出てくる男ではなかった。そう断じてしまいたい衝動を堪えた。先輩の思い出にいる私は、きっとそのような人だったのだろうと判った。
残念なことに、私はやはり思い出すことが叶わなかった。脳みその機能からして失われたわけでは決してあろうはずもない。けれども、何もない。残っていなかった。
「若いころはどこか、自分を中心に世界が回っていると思うものですから」
想像上の私を捏ね繰り回した。きっと私は尊大な人物だった。少なくとも中学生あたりの記憶はおぼろげにあるのだから、参考にした。
「お前は変に大人ぶっていたからな。まだあいつのほうがガキで良かったかもな。そいつも今、大学生さ。ろくに連絡もよこさねぇがよ」
「そういうところも、少し似ているかもしれませんね」
「だが、あいつは素直さ。聞くべきだ。と思えば、誰かの影響を吸収しようとする。良くも悪くも他人の色で染まるやつだった。それが良いほうに転がればいいんだがな」
「気に入っているようですね」
「ダメだな。年を取るとすぐに若いやつを褒めたくなっちまう。ただ、まぁ楽しかったよ。騒がしくて教え甲斐があった。自惚れて集中力が持たないくせに、すぐに満足して目移りしちまう。危なっかしいやつだった。浪人していれば、もう少し面倒見てやれたんだがな。運が良いやつだったよ」
私の中で、何かが切れた。その衝撃に不快感はない。ただ、張りつめていた焦燥感は失せた。
先輩とはご自愛くださいと言って、電話でのやりとりを終えた。最後まで明るいやりとりですますことができたと嘆息をいれた。
ぼんやりと今のやり取りを振り返った。私はふと気づく。本当に、絵を描いてほしいのか。そこまで他人の絵を見たいと思うのならば、それほどの情熱を持っているのならばすぐに行動できるはずだ。私はやはり、くどいことを楽しんでいるのではないか。いや、怖がっているのだろうか。巨大な壁に対してしがみ付くことを、よじ登ることを躊躇っている。
何故だろう。と傾げてみると、私は終わりを見たくはないのではないか。という酷く他人行儀な考えに至っていた。
滑稽なものである。だらだらと無気力に続けることに意味があるのか。そこに意味を持たせるのは他ならない私自身であるのだ。
絵以外で長く続いた趣味はない。私は熱いうちに叩かねばすぐに固くなってしまう性分だったのだろうか。
***
私は女将さんのもとで蕎麦を食べながら思案にふける日々を送っていた。女将さんは何も言わなかった。
熱をあげているというのは事実である。私はこれまで他人にこれだけ意識を奪われることはなかった。不健全であろうとも、彼女は魅力ある人物だ。
私にとって彼女は何だろう。
先輩に言われて絵を見ようと画策したが、ぴたりと食指が動かなくなっていた。のど元を過ぎ去ってしまったやもしれないと思ったが、思案する時間は伸びていた。
私は一体、何をしたいのか分からなくなっていた。ともすれば再び絵を描く気力でも沸いてきてくれれば良かったがそうでもない。
彼女は今、四年生にあがっているはずだ。卒業制作に没頭しているのだろうか。彼女が就職活動をするなど想像もできない。
三年生の夏から秋口にかけて案をとりまとめ、制作に勤しむようになっていくはずだ。四年生になると、制作と就職活動の両立で、心身を壊す者は多いと聞く。私は荒業をこなすまでもなくリタイアしたものだから、実体験はなかった。けれども、芸術の秋ということから多くの学生がテーマの選定やら何やらで浮足だっていた。そんな空気を浴びた気がした。
時の流れの速さを噛みしめながら私は無気力に苛まれていた。過ぎ去る時間の素早さに焦りを覚えるけれど、私はどうにも腰が重かった。
シャッターへのラクガキから三年も経っている。未だにラクガキはラクガキのままだった。女将さんは私に小言の一つも言ってはくれなかった。まるで私だけが後生大事にラクガキを人生だと抱え込んでいるようだった。
興味は失せていないのだ。けれどもどうにも気が乗らない。なぜだろうと考えてはまた彼女を思う。
「仕事。やめるのかい」
ある日、女将さんがそんなことを言った。閉店が近づいていて、客は私一人だった。食べ終えたかけそばはすでに湯気を失っている。何時からいたか思い出せなかった。酒を飲んだわけではない。ここへくると度々起こることだった。
「その気は、ありますけれど。する気はないといいますか」
「確かに、転職が決まってからやめる話を取り付けたほうがいいかもしれないけれどね。でもね。仕事が嫌で逃げ出したいから転職するわけじゃないだろう?」
「今の仕事は好きではないですが、毛嫌いして逃げ出したいとは、考えていないですね」
「気を抜いて、そりゃ彼女のことを思ってかい」
「そうですね。ただ、自分でもよくわからないから、うまく動けないままで」
「よくわからない、ねぇ?」
「絵を描いてほしい。最初はそう考えていたのです。今は、それも自信がない。いえ、怖いのかもしれない。このままのほうが、いいのではないか、と。面倒くさがっているというのも事実ですけれど」
「お前さん。うだうだ考えると動けなくなるタイプだったね」
「昔は、切り替えの早いタイプだった。と評価されていたのですが、大人になったものです」
「色々と、諦めすぎたのよ。お前さんは」
妙に熱のある言葉を女将さんは放っていた。私は女将さんを見た。そこには呆れている顔があったが、それは私だけに向けたものではないような気になった。
「生活に張り合いがないんだよ。お前さんは、今じゃ悪口を言われたところで特に傷つきもしないだろう」
「さすがに、それは反論したいと思いますが」
「そこなのよ。お前さん。昔を思ってみれば、こなくそって意固地になって見返してやろうとか思わなかったかい」
「それは若いころはそうでしたが、今は反骨するだけでは回っていきませんよ。子供に責任はありませんが、今はある。私が意固地になって仕事が滞ってしまえば不利益は会社だけではなくなってしまいます」
「小利口になったのよ。そうしないと生きていけないから」
「女将さんは何が言いたいのです。若い活力を持てということですか」
「嘘をつくことに慣れるんじゃないっていうことさ」
「痛い話ですね」
「そうやってうまくかわせるようになった。けれどね。内面は案外うまくいかないもんさ」
「珍しいですね」
「あたしでもそう思っているさ」
「あの子のことですか」
「まったく、変に頭が回る」
「興味のあることにはそれなりに。行動はできていませんけれど」
「お前さんが足踏みしているのもわかるのさ。あたしも少しばかり話をするようになった。お前さんみたいなくたびれた大人なら、イチコロなんだがね」
私はとりあえず、愛想笑いを浮かべておいた。事実女将さんの言葉は厳しくも心地よい時がある。理不尽な説教はしない人だ。吐き出された言葉には意味があって、考えるとじんわりと胸が熱くなる。男は年上から放たれるそういった言葉に弱い。
「去年あたりには、めっきり足が向かなくなったみたいだった。だけど、今年に入ってから、月に一度、くらいか。そんな決まってくるわけじゃないけどね。金に困っている様子を知っているからね。今でも割引しているよ。それが当たり前みたいになっている」
他人を頼ることを怖がっていると聞いた彼女の話から外れていると感じた。
「良いんですか。そんなこと言って」
「お前さん以外に誰もいないからさ。もちろん、後始末はやってもらうよ」
従業員のような扱いを受けていた。
「あの子にとって、この店には蕎麦を食べに来ているだけなんだよ。金を払っている事柄が重要じゃない。腹を膨らませることを優先しているだけ。それでも言われて食べるようになったらしいから、まったく集中力というよりも没頭に逃げ込んでいたのかもしれないね」
呆れている口ぶりではある。けれども女将さんの面は柔らかい。子を思う親のようだった。
他者からもっと食べろと言われたから食べるようになった。彼女が素直に誰かの言を受けて行動するというのも、中々に新鮮な話に思えた。
「あの子に、甘えているという考えすらないよ。常に何か考えてはいるだろうけれど。最近はあたしもわかってきてね。ここにいるときがわかる。だから少し話をするのさ」
彼女は、蕎麦を食べている。けれどもここにはいない。どこか遠い場所に想いを飛ばしている。女将さんはどこか面白そうに語った。商売としては不味い。分かっていても、女将さんにとっては接客しがいのある客ということだった。
「話せると分かったけれどね。あの子は気さく。子供っぽいし人並な冗談くらいは言えるし、世間に対する不満もため込んで、それを吐き出す勇気も持っている。ただスイッチが入っていないと何もできない。天才なんて簡単に表現はできるけれど、あの子は本物だね」
「全てを犠牲にできる」
「おや、誰かに言われたかい」
「同学生の女性と話す機会がありました。彼女は心が折れていましたが、めげない足腰の強さがありましたよ」
「あの子と同期は不幸だったろう。あの才能を見せつけられて、こなくそってなれたらそれだけで才能があるよ」
「私のときに居てくれたら。楽になれたかもしれません」
「だろうね。お前さんならすっぱりと切れたろうに」
女将さんはやさしく笑って、蕎麦湯を出した。蕎麦湯は百円だ。蕎麦湯入れと湯呑で嗜む。業務用の蕎麦湯粉。悪くないが、どこにでもあるのだろうと察する味。けれどもきちんと評価されている。業務用という響きは嫌いじゃない。
「ただ、人を引き付ける力はある。あの姿だけじゃないよ。スイッチが絵に入ると気配が変わるのさ。何か良いアイディアが浮かんだのだろうなってすぐにわかる。なのにあの子は苦しそうに顔を沈めて、何でもないように居直るのさ。そっからはずっと絵のことを思っているだろうね。気が抜けて、頭を揺らしたり、してね。それで髪の毛が口に入ってもおかまいなしよ」
「普通でいたい」
「普通。なるほどね。周りを見れば自分と同じ奴がいない。確かに心細いし、浮いちまう。けれど、そりゃずっと思い込んできたもんだろうに。おかしな話さ。今さら取り繕うのかね」
「きっかけがあったのではないですか」
「大学生活で初めての挫折。普通はそっちよ。でも、あの子のことだから」
「同類。と表していいのでしょうか。その可能性がありますか」
「お前さん。学校いってくれんかい」
「どうにも、元気がなくて」
「いやなに。あたしにも知り合いがいてね。そいつに連絡してみるよ」
「良いのですか。店と客ですが」
「あの子は、望んでいないだろうね。だから余計にかまいたくなってしまう。あの子の平穏を願うことは誰だってできるだろう。だけれどね、今のあたしは手をかけることもできる。嫌われるかもしれない。そうしたって、構いやしないよ。それで何かが変わるならあたしは誰かの人生に首を突っ込む方を選ぶ。もちろん、安全をとってだけれどね」
「元気ですね。羨ましいです」
「お前さんのためでもあるよ。あたしの知り合いは教授をやっているはずだから。あの人は喋りが静かでね。聞き上手だから」
「わかりました。これだけお膳立てされてしまえば、私も動きます」
「引力っていうのかね」
「はい?」
「気になってしまうのさ。どうにもこうにも。あの子にね。昔の女を思い出すよ」
「似てたんですか」
「いや、まったく。いうなれば対岸くらいの真逆さ」
「そうですか」
「ただ、才能は尖っていた。その才能は自分のもので自分はこの才能を伸ばすと決めてかかっていた」
「真逆ですね」
「でも似ている。負けん気が強くて頑固なところ。そのくせ、理を見ると認める素直さもある。可愛いもんさ」
***
大学教授は先輩の恩師でもあったようで、電話を繋げばすぐに時間を調整することになった。集中力に関して書籍を出している方だった。私も知っている名前である。読んだことはない。
久しぶりに有休を消費した。良い顔はされなかったが仕方がない。仕事人間と思われていたようだ。
教授の研究室にお邪魔させていただいた。研究者らしく乱雑に書類が置かれている。インクの香りが漂い、どこか古本屋を感じさせる居心地の良さがあった。
教授は穏やかな笑顔をもって迎えてくれた。先輩からの話を受けたこと。知り合いの女性から弟子が会いたいという旨を聞いたことを喋った。いつのまにか、何かの弟子にされていたのだけれど、とくに誤解を解く必要もないので黙っていた。
私は教授から好意的に扱われていることに戸惑った。初対面でここまで余裕をもって接することなどなかった。随分とこそばゆい気になった。
山岸エレンについて。事前に話は通っている。これはやはり彼女の人間関係はよろしくないのだと察した。
自己紹介を軽くすませる。名前をいい、仕事をいった。出版社ということで教授の出版物に関しての雑談を咲かせた。事前学習はすませてある。私にとって中々に難しい話であったが、活字で読むよりは教授の言葉で語る方が気味が良かった。そう伝えると、教授は少しばかり嬉しそうだった。けれども文字の稚拙さを指摘されたことを取り繕っているようにも見えた。私にはわからないが、読みやすく理解しやすい文章を心がけているが中々に難しいという。
教授はおだやかだった。その穏やかさが彼女にとって安らぎになったのではと感じた。老成した人格者の庇護のもとで、少しずつ絵と向き合う。それは普通のことのように思えた。
「彼女の絵を買った。ですか」
「えぇ。当時、エレンはお金に困っていると語ってくれた。ただの同情で購入したわけではもちろんありませんが」
そういって教授は小さな絵を出してきた。動物の絵だった。
「本当に、小さいですね」
巧いと素直に感想がこぼれた。けれどもそれ以外に何もなかった。月並みなもので心が動かなかった。何がたりないのか私には分からなかった。教授は別段、何を補足するわけでもなかった。
「これは一年のころに描いた絵」
この絵を購入するきっかけを聞いた。朗々と語る教授の懐かし気で嬉しい面が、彼女を大切に思っていることを感じさせた。
「エレンは、一度倒れている。元々寝食に対してルーズだったようです。あのときはたしか、二日の間、何も食べずに生活していたために意識を失ってしまった」
彼女は教授に助けられたという。空腹にさいなまれた彼女に、教授は自分の食べる予定だった弁当を食べさせた。
彼女は教授に言った。自分が如何に普通でないことを吐き出した。きっと、教授が食べさせたという愛妻弁当がきっかけになった。そこに一般的な家族像が浮かんでいたはずだから。彼女にとっての普通の家庭がそこにあったのだ。
彼女は晒した。教授は淡々と当時のことを語る。その誠実さに私は心を打たれた。脚色のない現実を映し出す鏡のように平坦で、美しい過去があった。
私には到底訪れることのない過去の映像だと思った。
彼女はやはり、苦悩していた。
父親の死。母親を残して絵の勉強をしていることへの負い目。不幸な境遇すら絵の題材になると考えてしまう自分自身。他人と違うことに悩み、絵に逃げている。
教授は諫め、励ました。ありきたりな言葉だと当人は謙遜したけれど、彼女にとってそのありきたりが心地よかったに違いない。
彼女は教授に信頼を得たのだ。つまり、教授こそが原因の一端を担っている。彼女の絵の変容。型に嵌った技巧の紹介をしているかのような絵。
彼女は教授の求める作品に自分を寄せていった。穿ちすぎな推察だろうか。けれども、私にはそう感じ取れた。悪いことではない。彼女にとってそういった行為が善行なのだ。
「それから、エレンの絵は魅力が増した」
彼女は決して、孤独を望んでいるわけではないことが判る。どうにも彼女にとって、他人と違うことがトラウマになっているようだった。その理由は教授も言っていたことだろう。父親の存在。彼女にとってとても大きい出来事だった。
先輩との会話の中で、彼女が己を殺し、一般人として必死になっていたことを知っている。
彼女の場合、高校生まで父親は自殺したのだと思い込んでいた。その原因は自分にである。そう自責に囚われた。幼い子が自分を押し殺して生きていくことを決めたのである。
そうして、後に間違いであると気づかされた。この自殺だと思い込んでいたことが、深く彼女の心を傷つけているのかもしれない。父親を信じることができなかった。悔恨や苦痛が混ざり合った今が、彼女を支えてしまっている。それは推測であったが、私には事実のように受け入れてしまっていた。まるで理解者になったような満足感を得てしまった。その推測は私にはひどく毒だったので、彼女の良いところをすぐに思い出した。
「素直な子なんですね。子供らしくもあって少し安心しました」
教授は私の言葉を意外そうに飲み込んだ。その相貌が興味を抱いたように光った。私はつづけた。
「人並に悩み、苦悩する。彼女は自分が思っているより十分に人並だと思いました」
「それには同意できるよ」
教授は満足そうに顔をゆがめた。私は及第点を得た気分になった。権威ある人物に認められることは実に自尊心を満たすものだった。
私は未だ、誰かの期待に応えることの喜びを欲していたのだ。気恥ずかしくも、この教授の前で良かった。教授もどこか生徒を扱っている気分になっているように感じた。若い心が蘇る。私は調子に乗って口を回した。
「願い。と表現したことは彼女にとっても救いだったのかもしれません」
教授は私の揚々な口ぶりに苦笑しつつも不快感を見せなかった。大人の態度とはこうなのだろうと姿勢を正した。軽く会釈をして反省の意を見せた。教授は指摘せずに話をつづけた。
「救い、か。エレンは感性の塊だ。色々と苦労したことは予想がつくよ」
彼女は周囲の期待に押しつぶされたことがあった。けれども馬鹿で無鉄砲な同級生のおかげで絵を捨てることはなかったのだ。
「いいね。私もその子に会ってみたいものだ」
教授は嬉しそうにいった。私は彼についてそこまで興味はない。きっと反発する自信がある。先輩の話をして、どこか似ている気がしていた。
私よりよほどに才能がある。凡才とは才能があるからこそ、そう呼ばれるものである。
***
最近の絵を見せてもらった。息を呑むとはまさに言葉通りだった。感想などない。圧倒的な技巧がそこに詰まっていた。
私は「凄い」とつぶやくにとどめた。それ以上口を出すことは批判にあたると思った。私はこの絵に淋しさを覚えた。孤独を見た。そうして先輩に泣かれていた時分を思い出した。私はどうにも接点をむりくり見つけようとしている気分になっていた。その滑稽な前のめりに、何を馬鹿なことを嘲笑が浮かんでしまった。
「私も絵をやっていましたから。もう笑うしかないですね」
そう誤魔化した。教授はとくに何も言わなかった。
私は何かとつけて、彼女に自分を重ねようとしていた。無謀にもと自覚していた。けれども同調したいという欲があった。それは才能あるものと同じ気持ちを共有したいという浅はかなものだ。下々と卑下しておきながら私は見上げるのではなく、真っすぐに目線を向けたかった。
残念のことである。彼女の描いた日本画には、私の入り込む余地があった。
私はその余地こそが違和ではないかと推察した。私の知っている本物は余地など与えなかった。何者も寄せ付けない拒絶。そして感情の発散。
横浜の絵を思い出す。あの絵に勝手ながら救われた。あの絵の意図と当時の精神状態が全く偶然ながら同期していた。その奇跡が強烈な体験となっている。何をするにも基準が定まってしまっている。だからこそあの絵には余地はなかったと断言できた。自分を慰める隙間がなかった。ただ、圧倒をぶつけられてこてんぱんにやられて、ぽっきりと折られた。悔しがることも許さずに。その圧巻が、私に潔さをもたらした。
比較するべきではないのだろうか。私は絵を見つめ幾ばくかわからないほどに黙っていた。黙読するかのように絵から何を吸い取ろうとした。私は無意識化に同一していたことに気づいた。全く違うものだというのに。けれども才能は同じであると疑っていなかった。
「卒業制作は何を?」
唐突な話題に教授は少し言葉に詰まったようだった。目線を回しそれから私を見た。
「ある女性の肖像画」
***
一途な気持ちを持っていた。その自覚に私の未熟さを恥じた。どこかで孤高の存在であってほしいという願いがあった。一人では居られないだろうと理解者を気取っておきながら、彼女が心を寄せる存在に巡り合えたことに不満を感じてしまっていた。
「意外そうだね」
「いえ、はい。そうですね」
「天才とて孤独は辛い。孤高は羨望を生むが、当人はそれを望んでいない。勝手に才能を一人にしてしまう。まるでのけ者のように」
「のぼせていました。私は深い接点があるわけではないのです。だから、偶像に仕立て上げてしまっていたかもしれません。アイドルに恋人が発覚した際の熱狂はこういう感情なのかもしれませんね」
「面白いね。それは確かに近いだろう。熱量の差はあっても心のどこかで拠り所としていたものが崩れてしまうのだから」
「心地よい情報だけを食べることは気持ちが良いことですね。覚めてしまえば滑稽なもので、面目もありません」
「いやいや。むしろ健全で安心したよ。君はずいぶんと私に近い性質だと思っていたから。老け込むには若すぎる」
その励ましが私には具合が悪い。ほとほとに惨めだった。勝手に期待して、勝手に裏切られた気分に陥って、その事実に自分自身を気持ち悪いものだと貶す。身を清めるかのように懺悔を秘めて私は新たに考え直した。
女性は一年生。モデルの仕事をしている。私でも名前を知っている人物であった。先走ったのはそれだけ彼女のことを神格化していたのだろう。モデルの女性は新進気鋭の才女というふれこみだったはずだ。それ以上のことで目につくものでは家族もまた有名で、一家全体を天才と評する者も多い。納得が降りてきた。
「エレンとは真逆の存在。だが、その才能は間違いなく似ている」
集中力が浅く、常にポッキーを食べているのが特徴の一つ。自分優位で他人のことなど後回し、どうでもいい。興味のないことには関わらない。
同類。という言葉は適当だと感心だ。
「彼女は今、のめり込んでいる。今までにない集中力でね」
絵を描いていることは素直に喜ばしい。計算外である。だが、卒業制作後ならば頼む余地はあると踏んだ。教授はそのことに対してフォローするという言質ももらった。
「シャッターのラクガキを上書きか」
「私欲ですが、私はそう願ってしまったので。無理ならば無理と本人とやりとりしたいです」
「中々面白いと思う。蕎麦屋の店主は私も知る人でもある。近年はシャッターに絵を描いて商店街の見栄えを良くしようという動きもある。悪い活動ではないよ。学生展示の観点からも面白い試みに思える」
思いのほか、私欲まみれの発案が好意的な解釈を得ていた。恐縮する相槌を打って話を流した。私の願いは通じない。ここは教授と知己を得たことを喜んだ。
彼女と会うことは遠慮することとなった。会ったところで話す内容は拒絶だということは察する。教授の口添えがあれば万が一はあろうかというが、それはダメだという諦観がある。最良がほしいという欲が渦巻いている。私だけが得ることのできる形を欲している。独占欲に身を焼かれる思いとともに、何を血迷ったことをと自制が働く。
***
構内を散策することで、学生時代を振り返ろうとした。あいにくと杞憂だったことに淋しさを抱いた。
学生時代を思い出そうとしてもうまくいかない。私はそれほどまでに青春を毒と思っていた。不甲斐ないものでどうやって今を生きているのか疑問すらわいた。私に大学生時代が本当にあったのだろうか。空想に溺れていたのかと思い込みそうになる。人々の流れ、姦しい声。そのどれもが現実味のないものだった。無味無臭に思えた。記録映像をうんざりしながら垂れ流しているようだった。
徒労に肩を落とし、若者の群れに肩身の狭い思いを抱え込んでいた。その喧噪の波に一つ、大きい穴が空いたことに気づいた。
演出かと疑わしいほどに、ぽっかりと間があった。
その中心を歩く姿に変化はない。けれども彼女の姿を見たときの私は、どれほどふしだらな面もちだっただろうか。
彼女は刃物だった。安直だと思うだろうが、触れることすら憚られるほどに澄んだ刀身に見えた。私の知っている彼女はたった二つ。悪ガキのような子供。必死に体裁を整えて、普通であろうと努力している苦し紛れの子供。
私は新たな境地を知った。周囲の煩さ、人の流れはまったくの意味をなさない。彼女はいま、孤独のうちにいると判った。自ら足を踏み入れ没頭している。歩いているだけで全てが絵に向かっている。問題を起こしていないことが奇跡といえた。周りの人間が嘯いた。口々に彼女をほめたたえている声が聞こえた。
世界が彼女を見ているようだった。彼女の全てを許容し、絵を描くことで許しているようだった。白昼夢のような非現実の中にいる錯覚にめまいがした。彼女が生きているのかすら自信が持てなくなった。彼女は化け物であるとすら思った。人の皮を被った何か。
私が欲した才能がひどく恐ろしいものになった。つまるところ私が思い描いた才能は私の理解の範疇でのみの天才であり、現実との乖離が顕著だった。私はどこまでいっても、追いつけない。彼女らの景色を見ることすら叶わない。出会いたくなかったと後ろを向いた。私はただ、何をしたかったのか砂塵のように判らなくなった。
勝手に舞い上がっていた。空虚な人形遊びの末路だった。私は何かに寄生してそのものと同化して自分はすごいと愉悦に浸りたかった。今の惨めさがようやく私の卑しい欲を表面に擦りつけてきた。
吐き気を我慢しながら私は逃げた。
***
彼女の出会いをへて、私は蕎麦屋への依存を強めていた。週に一度は女将さんの蕎麦屋に通い、多い時には週に三日、四日とつめては女将さんの呆れ顔を拝んだ。蕎麦が好きだからという安易な理由ではない。女将さんという存在が私の人生で有意義な存在だった。仕事で対面する人物らよりも、女将さんのほうがよほど達者に思えた。
酒を嗜み、ときに話題を振っては軽く問答をすることだってあった。いつだって女将さんは持論を持っていた。それはとても強い人の姿に見えた。私は応えに窮することが多かった。話をしておいて興味がない態度をとって女将さんに小言を言われることも増えた。結局、私は上の空だった。彼女のことが気になって仕方がなかった。だから蕎麦屋に入り浸っていた。女将さんはそんな私を煙たがっている節があった。
女将さんは誰に対しても距離を保つ人であったが、例外がここにきて生まれている。彼女の存在だった。女将さんは目にかけていた。話をふるといつもよりは幾分口か軽やかだった。私は少しの不満もなかった。女将さんもやはり誰かに期待するものだから、それが私でないことでもいじけることはなかった。
安心を覚える。希望を抱く。きっと彼女も一人ではいられまいとする決めつけが強くあった。
私は夢想する。彼女の絵を見たい。私欲よりも多分に崇高な絵になるだろう。その絵を拝むことができるならば、私は満足できる気がした。けれども不思議だった。何故、ここまでこだわるのか。見当もつかなかった。彼女を見ているわけだから、どうしてなおさらに見たいという欲が私を焦らすのか。絵という事柄において私はひたすらに後ろ向きであったけれど、彼女の存在が唐突な変化を生んでいるようだった。過去のつながりは確かにあった。彼女の名前を思い出したとき、世界が変わった感覚に興奮を覚えた。けれどもそれは杞憂であった。特段の変貌を迎える努力を怠った私が、その重い腰をあげずに這いずりまわる日常のままであった。
***
教授に見せてもらった絵がある。けれども私はこれほどまでに熱望しておきながら、その絵を思い出すことが難しいことに驚いていた。私は絵を描いてほしいと思っているけれど、それは本当に絵であるのか。絵とは何か、なんだかよくわからない怪物めいた妄想の産物に傾倒している。私はシラフであることを疑っていた。人生が進んでいることに揺らぎを覚えていた。私は生きているのか、少しばかり怖くもなった。
私には妄想癖があるのかもしれないと考えてもみた。
彼女の才能があの大学で披露する万人に向けた作品に収まるものかという言い知れぬ自信や焦燥を得ている。私はこう思った。
それからはどうにも高揚したようで落ち着きがなくなっていた。その先があるのだという漠然とした考えは願望であろうが、光は射したのだ。私は彼女に期待している。忘れていたことだった。いけないことだと目を背けていた。痛い、辛いことだと避けていた。
現金なもので私は自嘲に心を乱した。私は大人である。張りぼての大人は身軽で楽だった。
芯を入れて直立したいと思ってしまった。私は今、猛烈な苦しみに苛まれている。やっぱりやめた。なかったことにしたいと泣き叫んだところで、彼女を思い起こし、知ってしまった事実は立ち消えなかった。私は転げるよう蕎麦屋へとに逃げ込んでいたのだった。
蕎麦の暖かさ。女将さんの答弁の快活が私を認める。個はここにあると示す。過敏な臆病が神経を衰弱させているのかもしれない。私にとって蕎麦屋に赴くことはもはやカウンセリングのようであった。
私は閉店まで居座ることもあった。そういうときは女将さんに説教をもらいながら店じまいの手伝いをした。そうしてひと段落するとシャッターを下して、その姿を見た。道行く人々のことなどお構いなしに見入った。
下手くそなラクガキである。けれどもその下手なところに愛嬌を覚えた。私よりよほど無邪気に思えた。ともすればきっかけとなったあの少年らにすら見えてくる。
そうしてあれこれ、何かに似ているようだと思ってから、やはりこれは私なのだろうと着地をする。そのくせ、こんな往来に絵があることを羨ましがった。私の人生も誰か見てもらいたかったと惨めに思った。私はこの絵が何なのか知らない。もともとは黒い化け物のようなデザインだった。今は現場にあったスプレーで着色しただけで余計と化け物のように見える。横浜の絵を浮かべながら写生したつもりが、よくよく目をやれば私の習ってきた技法や盗もうとした誰々のデザインが散見された。つぎはぎだらけのラクガキ。私は一つの絵すらも描くことができないのだ。
それでもこれが私だった。良い思いをしたい。有名になりたい。凄い絵を描きたい。モテたい。チヤホヤされたい。そうした前向きな欲求が肥大した醜悪な物体。私は何者にもなれなかった。と思うことで傷を舐めていた。なろうとしなかったことを認めたくはない。心の中で懺悔したところで私の時は戻らない。だからこそ彼女の存在が眩しかったのだろう。もっと若いころに出会えていれば私は変われていた。そう都合よく考えてしまうほどの才能を見つけてしまった。どこまでいっても私欲まみれだ。けれどもこれが私だった。なんでもただの私なのだ。
この絵を見ると全てを理解できる気になり、少しだけ安らぐ。惨めさを許容できる。このひと時が悪くはなかった。
***
夢遊病のように揺れる白い姿があった。寒風に飛ばされぬよう肥えた服を身にまとうようになった矢先のことだった。
目を細めて凝視した。それから本物であると認識して、やはりおかしいと訝し気に様子を伺った。声をかける勇気をこのときはまだ持ち合わせてはいなかった。
私はただ静かに見ていた。何の冗談だろうかと傍観していた。店は閉まっている。そのシャッターを見やって、ただそれだけだった。他に何もない。彼女は立ち尽くしていた。けれども踵を返した。猫背のままに歩き出した。「山岸エレンさん」
声が少し震えたことを恥じた。身体が一気に沸騰して気持ちの悪いことになった。けれども、その熱はすぐに去っていった。
私の呼びかけに彼女は顔を向けた。その顔は至って普通の面で、その佇まいから酷く乖離しているようだった。何かボタンをかけ間違えたような酷い違和があった。
危ういのではないか。人として見過ごしてはいけないという善意を覚えた。そして、彼女の隙に興奮した。無防備な姿に私は好機だと張り切りが走った。ふしだらなもので、私は自分が都合良く気持ちの良い想いが達成されることを期待していた。
才能に溺れる快楽を幻視してしまった。私は一つ大きなため息を落とした。馬鹿なことに私は緊張していた。心配した善意が逡巡するまでもなく吹き飛んだことにショックを覚えていた。
「少し待っていてくれませんか」
私はこう言えたことにひとまずの安心を得た。未だ自我を喪失はしていなかった。言葉は吐いた。次に身体は反応した。節々の痛みにそれなりに棒立ちしていたのだと実感した。
私は、彼女の反応を見ることもなく店横から従業員の裏口を叩いた。
「エレンさん。来てますよ」
女将さんが胡乱な眼差しを持って店内から姿を見せた。私は女将さんを引っ張っていく。彼女は律義にも待っていてくれた。女将さんは呆れたように嘆息を入れた。
「おやおや、こんな遅い時間に」
彼女はその声にうつむいた。それから帰ろうとする。その子供らしい行動に女将さん相貌をくずした。
「エレン。蕎麦、食ってきてな」
彼女は立ち止った。女将さんが近寄ると肩を叩いた。すると彼女は素直に向き直って女将さんが店内に向かうことに追随していく。私は固唾をのんで見守っていた。
「あんたもきな」
女将さんの鋭い一声。私は女将さんの心意気を感じた。けれども一体どうすればよいのだろうか。私の知る彼女が今はいない。パーカーの彼女の後ろ姿に、大学で見た鋭さはない。あやふやなもので、けれどもこれも彼女なのだと関心した。奇妙なことになった。覚めていた心に熱が通った。
一変の期待に喉を鳴らした。
***
彼女の姿を描くとすると、まずフードが目立つ。次にどうしてだか、歩きにくそうな猫。で目線は下がっている。かといって内向的かと思えばじつのところは勝気で負けん気が強いとは女将さんの評価であった。
彼女には応答することを拒む姿勢があった。けれどもそこに孤独は見えない。穿った見え方かもしれないが、私にはその姿が彼女らしい。そう納得して安心していた。彼女が一人でいることを良いと思う。奇妙な独占欲。あるいは崇拝なのだろうか。けれども、このときの彼女は世俗から解き放たれたかのように軽い。私にはそう表現できるほどだった。何に対してもあたりが弱く上の空ににしては他人を意識している。少なくとも何かあったと断定できる挙動を見せつけていた。
大学生は本来、これくらい浮ついたものではないかと思った。私はどうであったか。痛みを伴う記憶を掘り起こす勇気はなかった。
カウンターに落ち着いて女将さんの蕎麦を待つ間。私は一言も語ることはなく、彼女もまた同じであった。そこには確かな気まずさがあった。心臓が気張っている。彼女はカウンターテーブルを凝視しているように微動だにしない。私は女将さんの所作を見つめ、彼女を覗いた。
私は心が弾んだ。彼女がしおらしくしていることに安堵していた。年下の女性であることを認識するに至った。矮小な自己満足に自尊心が満たされた。卑屈な考えだ。けれども私は自己を保つことができると確信した。
才能しかない者とて、人であることに変わりはない。まるで化け物のように扱っていた自分が馬鹿らしくなった。何を怯えていたのかとたちまちに開き直った。彼女の苦悩や苦痛に共感すら抱いた。私と同じであると勝手に決めつける。この同格になったという曲解がたまらく愉快だった。私は私の中であれこれと思案しては、私は彼女と肩を並べていることに満足していた。滑稽なものであろうが、私の精神はひどく安定した。すると彼女に対して積極的な態度をとるべきだという感情が芽生えた。
彼女は今、何を思うのか。気になりだした。私は年長者であるという自覚をいまさら持った。女将さんには色々と世話になり、相談したことも数えきれない。その立場になるのは勇気がいるけれど悪い気はしない。意気揚々と口を開けたものの、私は息を吐くだ気で何もできなかった。失望が全身を震わせる。私は結局思うだけで行動できない弱い人間だった。
途端に右往左往ということになり、視線を迷わせていると女将さんの呆れ顔が飛び込んできた。羞恥に顔が赤くなるを知覚した。本当に不甲斐ない馬鹿な人だと私は私を罵った。
女将さんが蕎麦を提供した。湯気のぼるかけそばをすする。その音だけが鳴った。
私はつづいて差し出されたかけそばを堪能する。
この蕎麦の代金はどうするのだろう。検討の違うことへ想いを馳せた。現実を逃避するには考えること。そして身体を目いっぱい酷使することが思い浮かぶ。
果たして彼女はただ漫然と歩いていたのだろうか。彼女のほどに才能があるのならば、その想いを絵に還元するものではないのだろうか。
先輩のことを思う。そうして教授を思う。そこから彼女の人となりを想像で造形をみる。すると彼女は絵に入り込むのではないかと考えついた。本来であるならば、辛い悲しい、苦しい怒り。そうした感情をため込み、爆発させた先に作品があるのではないか。しかし、ここまで考えて私は頭をひねる。教授の見せた絵の変貌である。それはやはり大学生活によって絵のスタイルが変化したと見るべきやもしれない。ところが、どうにも腑に落ちなかった。彼女の絵が今の姿と重なったのだ。冷たく静か。静謐と評するには重厚な圧がない。もどかしさを覚えた。
先ほどまで彼女を見て愉快。愉悦に浸っていたにも拘らず私は彼女が心配になっていた。心持は実に多忙を極め、ころころと色を変えた。私は気負っていた。年下の女性に対して平素慇懃な対応をとれたのは仕事という枠組みの中でしかなかったものだから、女学生にたいする免疫や対応マニュアルは白紙であった。
「ご馳走様。です」
畏まった声音を女将さんに向けた。私には一瞥もくれない姿勢に、むしろ清々しさを覚えた。私は彼女の孤独に関して一切の繋がりを立てていないことを知った。所詮私は部外者であることをようやく決心できた。
彼女はそれから女将さんと一言、二言時間を割いた。女将さんに対する義理人情というもので、けれども少女はどこか怯えているように見えた。女将さんはやさしく彼女の素行を許していた。そこに客商売という括りはない。人間の相手をしていた。
ありがとうございました。だとか殊勝なことを言い出して、女将さんは面を食らっていた。タイミングを見計らっていたのではなく、今になって思い出した。けれども女将さんはその言葉を受け取っていた。幾分彼女は救われたように溜飲を下げた。肩肘がやわらかくなった。そうして私にも顔を向けて小さく「どうも。ありがとうございました」と言った。これには私もおかしくなった。笑顔になった。彼女は私の何に対して感謝したのかまるで理解できなかった。私はこの感謝を何度となく続けてきていたものだから、余計に身の振りの不始末と対面した気分になった。とってつけた感謝にも取り繕って対応してくれた人々に尊敬を抱いた。私は今、きちんとした大人を演じているだろうか。肝の冷えた。私は「いえいえ、こちらこそありがとうございます」と返した。その返答がおかしかったのか彼女の顔が訝しげに歪んだ。
「あなたと出会ったことで私はずいぶんと楽しい日々を過ごせています。あなたという存在が彩をそえてくれているのです」
私は普段よりも興が乗ってなめらかなに言葉が紡がれていく気持ちよさを覚えた。彼女は不審さを隠そうともせず、また困惑もしていた。
私は先輩のことや教授のことを話でその不信感を拭い去る作業を行った。彼女は帰りたそうにしていたが、私の言葉に耳を傾ける気を起こしていた。共通の知人を持つということは安心感を与えた。という考えはなかった。彼女にあるのは義理であった。これがつまり、変化なのではないかと私は考えた。
「あなたの絵を見ました。今の絵も素晴らしいです」
「どうも」
「私は安心しました」
「安心、っすか」
「人並に苦悩することもまた、やはり人間様なのだと」
「はっ?」
面を食らった表情は随分と子供らしくほほえましく思えた。
「私はあなたのように才能がありませんが、あなたのように悩むものですから。悩みの内容なんて違うのは当たり前ですけれど。やはり悩んでいる姿は似ているものですよ」
私はその程度の共通点で女々しく傷をいやすことができた。それだけで私はすっきりと前を向けた。非常に単純な人間だった。彼女には理解できない話だった。彼女にあったのは怒りが見えた。その怒りをぶつけることもなく飲み込んだ。その姿はとても苦しそうで、けれども必死に耐えている。
「そう、ですか」
何に耐える必要がある。私は首をひねった。私との関係などあってないようなものである。いうなれば常連客というだけだ。会話らしい会話など今しがたが初めてであるのだから重視するというのも腑に落ちない。
「何を縮こまっているのかね。エレン」
「女将さん」
「お前さん。無理してもろくなことにならないよ。横着なんてやめな」
鋭い声音に私がすくみあがってしまった。身に覚えがあったから。社会は個人では渡ることが不可能。いかようにも集団を形成してこそ戦える。それゆえに縁は大事する。たとえフリーランスであっても個人では何もできないのだ。何をするにも誰かの助けを借り、時間を貰い、対価を支払う必要がある。
驚いた。彼女は社会説に馴染もうと努力していたのである。
「上辺だけの繋がりならそれ相応の対価をもってこそなんだよ。気持ちだけの上辺なんていいように利用されて捨てられるもんさ。エレン。あんたは、その上辺だけの苦しみをわかっているんじゃないのかい」
「上辺って私は」
「こんな男との繋がりを気にしているものが上辺でないと何でいえるのさ。そもそもエレンはこの男のことを知っているのかい。ただの常連客の酔っ払い。あたしが教えたこと以外に何か興味があるのかい。メリットだっていいよ」
「そんな、損得で人付き合いなんて」
「いいかい。損得勘定の付き合いなんだ。こんな男とはね。かかわりのない人間との交流なんて損得から始まるのが普通なのさ。仕事の付き合い。大学で友達と酒を飲む。みんな損得さ。得したいから得するような人を選ぶのよ。そういう付き合いをするから、信頼や信用を得よう、得られたいと繋がりを求め苦心してそれでもうまくいかなくてでも、諦めきれなくて何度も裏切られて心をすり減らしながらも、人との繋がりを持ったり、切ったり、繋ぎなおしたり色々と苦労するもんなの。こどもじゃないんだ。誰もが純真無垢じゃないんだよ」
まくしたてた言葉が私に風穴をあける。身を割かれた。全て逃げてきたこと、捨てたもの。私は上辺の繋がりを回しているに過ぎない。その上辺が楽だから。傷が浅いから、すぐに断ち切ることができるからという本意に基づいている。
「あたしはね。エレン。あんたとの繋がりを大事に思いたいのさ。なんだってあんたはそんなに落ち込んでいるのかわからないけれど。結局は自分の気の持ちようなんだからね。あんたは自分が思っているほど悪い子じゃないの。こっちのおじさんよりね。よっぽどまっとうな人間をやってるよ」
「それは、まぁ、確かにそうですね」
「あんたは反論しな。いつから期待されないことに慣れたのさ。張り合いのない人生に色塗ろうって気概をもちな」
「はい」
「すぐそうやって取り繕う」
流れる。
「あんたもあんたよ。大の大人が縮こまった子供を相手に悦に浸って自分の理想を押し付けようとしてんじゃないよ。あんたは自分で捨てたものをかき集めて瓦礫の山を作りな。それがあんたの人生だよ。この子みたいに苦悩しながらも前に進むこともできないならね。できるなりにやることやってから他人を巻き込むことだね。今のあんたは甘い汁を吸おうと群がる気持ちの悪い連中と同じだよ。エレンっていう才能はね。誘蛾灯じゃないんだよ。そんな甘ちょろい光なもんかね」
女将さんは声を荒げた。その怒りに私はすっかり参ってしまった。事実はこれほどまで痛いものだった。彼女もまた同じようにしていた。けれども今度は似ているなどと軽はずみな気持ちを抱く余裕はなかった。私は甘えたことを考えていた。女将さんにまた助けられてしまった。不甲斐ないが、私は縋っていたのだ。女将さんに手を差し伸べてもらえることを待っていた。
「まったく困った子たちだね」
「すみません。私はずっと女将さんに甘えてばかりで」
「甘え慣れて碌な大人にならなかったね。あたしも肩入れしすぎたと後悔してるよ。だからね、エレン。あんたはこのダメな大人を見て背筋をぴしゃっと伸ばしなよ。そうやって猫背で波風立たないでくれと祈ろうとね。あんたの才能がそれを許さないよ。あんたの性格も、下を向いて歩くなんて破綻するよ」
「う、うす」
「説教はこのくらいにしとくかね。エレン。好きにきな。そっちのダメ男もね。安く量が多いをモットーにやっているだけの店さ。客として来るんなら歓迎だからね。あと、今日は代金払いな」
「私が払います」
「よし。いいさね。エレンもお礼をいいな。こういうときは大人を立てておくと良い思いができる」
「あ、ありがとう、ございます」
「いえいえ。講演会としては格安ですから。女将さんは弁がたちますね。定期的に拝聴したいものです」
「あんたは私を随分と偉い人のように扱うけれどね。学校の先生だとか会社の上司なんかのほうが、よほどに勉強になるんだから。社会に出るなら余計に人を見なさいな。エレンは目が良いから辛いことも多いだろうけれど。だからこそエネルギーを貰えるはずさ。それとあんたは社会人なんだから、人との繋がりを一等大事にしないといけないんじゃないのかい。あんた営業はただ汗水たらすだけでいいと思ってない? 営業は対話。判っているかい。理解するために話し合うんだ。なんでもいいから話す。そこから縁が見えてくる。あんたはいい加減人付き合いを怖がるのをやめることさね」
「はい。善処します」
「そういう気味良い返事がダメだね。まぁいいさ。急に自分を変えるなんざできるはずもない。エレン。あんたも己を見つめなおすのはいいけれど、人は簡単に変われないし一人になるのは思っているよりも随分と楽なことだからね。楽なほうに流れるのが人だけれど、エレンはまだ楽になる必要はないよ。エレンにはまだ気にしてくれている人がいるんだから。甘えたっていいんだ。よく考えてみることさね」
「うっす」
「はい。今日の指導終わり。あんた、片づけやっていきな」
「はい」
***
蕎麦屋で人生について考える時間が与えられた。私は女将さん塾の塾生になった。女将さんに気をやることがますますに増えた。女将さんも嫌がることはなくなった。首根っこを掴んで私を矯正しようとする気概があって私もその熱にあやかっていた。
私が蕎麦屋に行くと彼女と出会うことが増えた。私は仕事が忙しい最中であっても蕎麦屋に来ることをやめなかった。彼女と知己を深めるためにますます通い詰めるようになった。けれども彼女は静かだった。会話をこなすわけでもない。ひっそりと客の途絶えた夜の蕎麦屋で蕎麦とか、天ぷらとか色々と食べるばかりで、私はただの同席者だった。挨拶をかわしただけで懇意になることもなかった。
「それで、なにがあったんだい。まぁあんたのことだからいつも通り何も変わったことなんてしなかったんだろうね」
私は愚痴をこぼすばかりだった。
「自分を持った気になっているだけさ。あんたは何者にもなっていない。そうだろ。そう思うなら自分の強みをみつけなきゃ。あんた仕事をもらったときなんて言って採用されたから思い出してみな。嘘吐いて今苦しんでいるなら、その嘘を本当にしちまうくらい必死になってみようって思わないのかい」
「すみません」
「謝ればいいと思っているうちには何もできないね。できることだけやって、できないことから逃げてたら一生そのままだよ。あんたはエレンとは違って縋りつく才能がないんだから。必死にガラクタ集めて大人を着飾るほかないよ」
女将さんが茶々をいれて私は否定して、しかし、女将さんは手を緩めてはくれない。私はしどろもどろになっては最後に負けを認めて楽になった。女将さんは辛辣だったが、正鵠を射るばかりでとても痛い。反論しようにも私には手札がないものだからやられ放題だった。
そんなやり取りを繰り広げているばかりだった。彼女はただただ静かに聞いているのかいないのかわからない状態だった。初めその存在に気恥ずかしくて色々と誇張したものだったが、女将さんに目ざとく指摘されてからは惜しむことをやめた。
けれども彼女は女将さんとは言い合いをする仲になっていた。私は彼女と女将さんのやりとりが好きになっていた。それは今の自分を見つめなおす良い切欠という殊勝な思いではない。彼女を知ることができたという欲望の発散が叶ったからだった。
若い者を諭すように女将さんは今日の出来事を求めた。彼女は少しばかり迷っていたけれど、なにをやったかだとか、どう思いどう感じたかを述べた。女将さんはあれでもない。こうでもない。ダメだ、良かった。はっきりと彼女に伝えた。彼女は女将さんをよく見るようになっていた。猫背ではあったけれども、目線はしっかりとぶつけていた。女将さんはその力が好きなようで、年長者らしい泰然な風貌から余裕を放っていた。彼女はそれを認めたのか、それからいよいよ自分の感情をぶつけるようになっていた。彼女は女将さんと対話をするたびに本来の姿をみせていくようだった。錆を落とすように次第とその潔で負けん気の強い素顔が見えてくるのである。
彼女は絵を描くことだけをやっていたいと強く思っている。その独善的な考えはむしろ好ましい。先輩の話を思い出しつつ二人の問答を聞いていると胸が熱を持つものであった。
私はのけ者にされているように感じつつもその疎外感を心地よいと思っていた。私はどこまでも舞台に上がることを恐れていた。女将さんは私の弱さを熟知しているようで、彼女との隙間に私を放り込んだ。私はろくに言葉も返せなかった。
「あなたの見ている世界が、私にはわからない。見たいと思ってみてもやはり、怖いという気持ちを抱きます。私は今を見ている世界だけしか知らないから。未知が怖いのです」
「これが、普通に生きようとした人間の末路だよ」
「あなたには理解しがたいかもしれません。けれども、誰かと同化するという実感はとても心を軽くするのです」
「エレン。あんたは普通を美化しすぎている。普通なんてもんはまやかしよ。平均的に表現したいからそんな言葉を作っただけで、実のところは普通な人間なんていやしないのさ。この男が良い見本だよ。これで社会では普通だって評価をもらっているんだからね。世の中の大人がみんなこいつだって思うかい」
「思わない、です。だけど、仕事をしていろんな人と話をして、飲み会とか食事とか色々人との交流があって、給料をもらっている。普通の社会生活ってそういうものじゃ」
「違うね。普通っていうのは決めつけじゃない。心の持ちようでいくらでも変わるもんだからね。あたしにすりゃ、この男は普通じゃない。異常者だよ」
「もう少し、手心をお願いします」
「あんたは悪口言われたくらいでへこたれやしないだろう。言われることをそういうものだと認識して飲み込んでいるくせに常人ぶるんじゃないよ」
「確かに、悪口に気分を害してもすぐに忘れますけれども」
「いいな、それ」
「えっ?」
「ほらみな。人によって違うもんさ。わかったかい。普通かどうかは自分の匙加減。他人の意見をうのみにしすぎると自分を無くすよ。他人から影響を受けることは自分をつぶす。周囲に適応できるのだって才能の一つ。エレン。あんたの授かったもんは絵だけ。絵を描くことだけを考えるのは当然さ。あんたにとってはそれが普通でいいの。あとは誰かがあんたを導いたり、手助けするの。一人になるのは簡単だけれどね、複数人の協力者を得るのは骨が折れるよ。エレンはその苦労をしなくちゃいけないよ」
***
私にとって彼女は不思議な存在だった。けれども女将さんの差配で対話を試みることに成功すると心境に変化があった。彼女には当たり前のようにいる知人でありたいという欲が芽生えていた。それはとても強い想いとなっていた。この思いを共有していたのは女将さんであり、私はその気配を察していたにすぎない。けれどもその気持ちに偽りはなく、私はそうありたいという感じを持った。
絵を愛している。愛せずにはいられない。にも拘らず絵に対して臆病でもあり、向き合うことを恐れている。絵を描く。その行為を酷く重い現象のように捉えているようでもあった。
彼女はそういった独特な感性を持つ。私の推察というだけだが、表現として私はおさまりが良いと思った。不器用と一言で片づけるにはいささか難解である。
落ち着きなく常に絵に考えを巡らせている。けれども時折、顔を曇らせる。あの夜と同じ顔をする。それに気づくのは私だけだった。
幾度かの対話をもった。私はようやく平常を委ねることができるようになっていた。私は年甲斐にもなく初々しくも惨めったららしくへりくだって、年下の女の子に接していた悪い癖なのだろう。他者を持ち上げる際、一番に適当なのは何かを下にすることで、手軽なのは自分なのである。彼女は私のぎこちなさを真に受けて、どうにもばつの悪そうな、居心地の悪さを覚えているようだった。それは女将さんの呆れ顔からみても明白であり、私はひどく苦心することになった。
ようやくシラフとなったときには、冬服に身を厚くしていた。
私の態度は彼女の心に働きかけることをやめたもので、非常に用心深くおっかなびっくり巡らせている言葉の糸を渡す作業だった。足繁く彼女のもとへ訪れるようなものであった。
***
ある日、突然のことがあった。
「なんで、わたしに構うんだ?」
と彼女は言った。私は考えてみた。なぜだろうか。やはり、絵という事柄に対して情念を抱いていたからだろうと思った。
「構いたいわけではないのです」
私ははぐらかした。明確な言葉に直すことが難しい問題と言い訳をした。
「美人だって言ってたじゃないか」
「それは、ありますけれど」
「なんで、わたしなんだ」
彼女はカウンターに置かれている調味料に目が座っているように思えた。けれども、その横顔はとても子供に見えて不釣り合いだった。彼女はどこか怖がっているのではないか。私は不思議な面もちに困惑する。
嫌なものを見てしまった。悪態を飲み込むまでに時間を有した。そして、私は昔を引っ張り出して場繋ぎをした。
「昔。絵に救われたことがありました」
と私は切り出していた。
「子供のころ、絵を描くきっかけを貰った絵がありました。そして、絵をきっぱりとやめる決心をさせてくれた絵があります」
「覚えているよ」
と女将さんは言った。
「人が変わった瞬間は、いくつかみてきたけれど。お前さんの顔は随分すっきりしていたよ。それがすぐに濁った顔になるもんだから世知辛いもんだと思ったさ」
女将さんの言葉に私は反論できなかった。ぽきりと折られたときはとても心地よかったけれど、社会に溶け込む作業は苦痛だった。
私を支えてくれていたのは、無慈悲に才能で思い切り殴りつけてきた絵だった。
「五年前。横浜の美術館の外壁に描かれたものです。あの絵を見て、私は救われた気分に浸れた」
苦しい経験とも言える。けれども、唯一といっていいほどに思い出すことに苦労しない記憶であった。沸騰するヤカンのように姦しく脚色された私の中で、一等輝く惨めで有難い、よくわからない思い出。
私はその記憶の熱で生きているようなものだった。
彼女は私の語りから顔をあげることが増えた。私に対して目線を向ける健気な努力をしているようだった。けれども遠慮があって以前よりも私は距離を置かれている気になっていた。会話は増えたが疎外感を得ていた。
よくわからないものだが、彼女の変貌に戸惑っていたのは確かだった。
何が彼女を変えたのか考えてみると、やはり最初からおかしいことばかりである。女将さんとの会話があってそれからどうしてこの蕎麦屋に通うようになったのか。女将さんは強制していないし、逃げたければ逃げればいい。彼女にとって私や女将さんは部外者のように軽い存在。少なくとも私自身はそう受け止めていた。
その考え方が間違っていたことに、私は多大な義憤を抱くことになってしまう。どうしてそう怒りに身をゆだねることになったのか。それは私が彼女に縋りついていたいという欲がこびりついて離れていなかったからだ。
***
女将さんという存在に繋がれて、私は彼女に熱を上げていた。気楽なもので今の関係を崩したくないとひ弱な考えに浸っていた。
何かを議論することは滅多にない。けれども、大学という空間で創作活動を続ける意義を見失っている彼女に対して、何か思いやる情念をかけてやりたいという気持ちはあった。
そこに善意という健全さはなかった。ただその才能に触れてみたいという好奇心があった。天才に存在を認知される事実に自尊心が大いにくすぐり、気持ちが良かったのである。
私は慎重に知見を得ていた。しかし、予想もしていないことに、彼女は情緒に不安を抱えていた。女将さんと私は懸念こそしていたが、露骨に踏み込む問題ではないと示し合わせていた。
彼女の変貌は、彼女の才能に起因するものであるとわかっていた。先輩や教授の助言をもとに、彼女の半生を垣間見ているからこそ、私は罪悪を多分に忍ばせる結果になっていた。
そのため、彼女の様子がおかしいことなど承知の上で半ば自然治癒を期待していたのである。私は結局のところ、才能に寄生したいという衝動を抱え込んでいた。彼女自身には苦手意識のようなものがあった。触れてしまえば私が怪我をするのだと、本能が叫んでいた。
私は未だ、彼女の才能に対して偏見と独断を持って誇張している節があったが、大学の作品に目を通したことで、ずいぶんと見当違いをしているようだと感づいていた。私はその疑問を解き明かそうという気分にはならなかった。彼女の全てを知りたいという欲はない。彼女の困る姿を見たいわけでもない。ただ、どうしてだろうか。という考えについて、やはり絵という単語こそが、肝であった。
私は、絵に何を期待しているのだろうか。そのような疑心暗鬼のように心を濁らせてしまっていた。
***
特別なものが好きではない。これがなければいけない、という想いを抱くことを嫌悪する。けれども、私は逃れることができなかった。思いとは裏腹に私は特別なものに心を寄せた。希少価値に近づくことで心を満たせることを忘れることができなかったのだ。
私は絵を手段としていて、それはとても芸術を愛する形ではないと思っている。私は利用しているのだ。
絵に出会ったからこそ、絵に付きまとう。私は実のところ、絵という希少価値を尊ぶ者に不可欠な存在なのではないか。そう夢想して気持ちよくなっていたかった。もちろんのことながら、幻想であった。滑稽な様であった。それでも私は惨め垂らしくしがみ付きたかった。何かが欲しかった。私は結局、子供のころを後生大事に抱えていた。
特別な何かになりたい。漠然としかしはっきりと願っているだけだった。
私が世界の中心にいないと察した時点で、私は無駄なあがきをして現実から目を背けていた。
絵以外にも色々と手出したことはあった。無性に何かをしなければならないという脅迫に駆られた。
大学を中退してから仕事を探す傍らに、自分探しを敢行したこともあった。
私には若さがあった。漠然とした自信。なんとかなるという楽観を描くことで心を保っていた。私は弱く、脆い存在であったにもかかわらず強い男でありたいという欲を貼り付けていた。ただ絵から逃げたいという気持ちがいつもまとわりついていた気がする。とにかく私の人生を狂わせたのは絵だと決めつけ、私は被害者という立場を貫いていた。そうしなければ何もかもが消えてしまう。
虚勢の下で怯えていた。忘れようと必死になった。本当は順風満帆の人生を謳歌している。これは悪い夢だ。
馬鹿になることで均衡を保っていた。当時の私は本当にそれくらい飛躍した考えを持たねば自己がなかっただろう。けれどもいずれだって長くはもたなかった。
唯一の救いは社会に身を置くことができたことだった。趣味に生きることはかなわず、ならば溶け込むしかなかったものだから。
女将さんは採用された時を思い出せと言ったことがある。けれども私は思い出せない。まるで覚えていない。怖気が走るほどに欠落している。
私は本当に仕事をしているのかわからなくなるほどに、けれども給料は出ているし他の従業員は何も言わない。私は個々人の群れに隠れて日々を過ごすことに安心していた
。結局、私は何か特別な存在であるけれど今はこれでいいと折り合いをつけていたにすぎない。惨めさから目を背けて社会の歯車であることを許容した。必要なことだと言い聞かせた。そうなるとあとは怠惰が身を重くする。仕事だけを続いている。作業と化した仕事に溺れている。疲れることもない時間を投げ売りすることに不感症を患った。作業することを覚えたことでラクになった。これはまずいという考えすら浮上することを諦め、このまま朽ちていくことを容認していたのだ。
***
私に対して、彼女は攻勢を突然しかけてきたのである。
彼女は取り繕っていた。私は嫌な気分になった。
彼女は突然に、絵を描いてもいいと言い出した。
どうしてそんなことを口走ったのか。
その姿はどこまでに似合わない。
彼女はどうしてそこまで変容したのか。
私はとにかく理由をしって納得したいので話を伺った。すると彼女はいった。
嬉しかったと。
一体なにをのたまうのか意味がわからなかった。何故なのか問えば、横浜の絵は彼女が描いたものだと白状したのである。
そこに不思議と驚きはない。あったのは空虚だった。穴が開いて風通しがよくなった。それから火種が風にあたって燃え上がった。焚火のように揺らめき始めたかと思えば、油をけしかけたかのように暴れだした。
私は「ふざけるな!」と声を出していた。出した私が驚いているくらいだったから、彼女は当然ながら身をすくませていた。大の大人が突然に気勢をあげたものだから仕方のないことで、申し訳ない気分も胸に滲んでいた。けれどもどうにも他人事のように心と身体がくっきりと別れたような錯覚に陥っていた。許せないという単純な憤りがあった。そういうものではないという言葉で表現できない理屈のような塊が詰まっていた。他人から言われたから、ならば仕方がない描いてみよう。その行いや心意気が悪いわけでは決してない。むしろ人情家として篤い人物であると感心もする。しかし、私にとってそれはないのだ。その存在ではない。彼女は今、私に媚びを売っている。どうしたことだ。そんな人ではなかった。私は汚された。理想を貶められた。そんな身勝手さを存分に振りかざしていた。大人の癇癪はまさに大人げないものだと心は冷めていた。けれども、頭に血も上っていた。寒いのか熱いのかあいまいでひどい酔いを覚えた。酒は飲んでいなかったと記憶しているのだけれど、自信もなかった。
私はとにかく、今の彼女が嫌いだった。どうしても昔が襲い掛かってくる。お前はくるなとのたうち回りたかった。惨めなものだ。私が媚びつへつらい、何者であろうともがく。その有様を、彼女は演じている。そう解釈しなければ私は気が狂いそうだった。解釈違いなどとのたまうつもりはなかった。けれども、彼女が無理をして道理を捨てて、普通を選んで、けれども自信がない。そんな曖昧な姿勢を見せて私に報いようする浅はかな善意に対して、虫図が走った。
気が付けば、胸中に息づく魔物は彼女と同化していた。そうでなければこれほどに憤ることはなかった。驚きがわかないことから、やはり納得してしまっているのだ。あの絵を、あの感情を、目の前で怯えている彼女が描いたものだと理解して、尚のこと、私は私を辱め、貶めている。
理不尽なものだった。どうしてこんなにも絵は、私に対して辛辣なのだろうか。
***
大学の知り合いや先輩らが、展示会を開くことを知ったとき、ほのかに傷を育むくらいの気概はあった。だからこそ私は行動したのだと思う。
横浜の美術館で催されるもので、過去との決別と息まいたものである。心のどこかで、有名人と知り合いだという卑屈な考えを巡らせて慰めようとしていたのだ。
私は、学生からプロのアーティストとなった者たちの作品を見た。
愕然とした。嘘だと叫びだしたかった。どうにもこうにも現実を受け止める余裕がなかった。あれだけ巧いと思っていた彼らは退化していた。そうとしか思えなかった。まったく熱量だとか、圧力だとかある種オカルトのようでもあるけれど、作品から漏れ出る空気というものがある。私はその力に魅入られ、絵という沼にはまってしまっていた。そう信じていた。哀れにも私は、プロフェッショナルには見るものを感嘆とさせる世界を織りなす才能が備わっていると夢想していた。そうして、私はただひたすらに才能のなさを他人のせいにして、才能がないからダメだと言い訳をしていた。私は授かることができなかったと、運がなかったと。そう思い込む道を進んでいた。
その道が頽れた。人生が消えてしまったかのように私は強烈な現実に殴りつけられた。
作品なのか。まったくわからない。自分は一体どうしてしまったのかという恐怖すら覚えた。周りは違う。そこはそれらの作品を評価する人々がいた。自分がおかしい。自分は間違っている。そう考えてじっくりと見て回った。他人が居たからこそ助かったのだとわかる。あのとき、一人であったのなら、私は何をしていただろうか。哄笑をもって作品を破壊しただろうか。おぞましい考えが走る。
その場を後にした。けれども、煮えたぎる釜のように震え、熱が身体を蒸しあげていく。気持ちは収まらなかった。
単なる怒りがあった。びっくりするくらい癇癪めいていた。勝手に期待して、裏切られた気分になっていた。挫折したことを恥じることになるとは夢にも思わなかった。こんなものにあこがれて絵を描いていたわけではないという言い訳が頭を駆け巡った。
ただただ悲しいものであった。私は怒りを覚えていたけれど、そこにあったのは自己保身だったからだ。絵を馬鹿にされたという怒りよりも、わずか安らぎと自分は違うと反論できる余地があることへの愉悦があった。
ただ、空しい。何をしていたのか。色々と考えてそれから私は何をしていたのか。今となってもはっきりとは思い出せない。ただ、私は絵を描こうという気になっていたことは確かだった。
反抗心だったのだろうか。私は自分を見つめ直すために絵と対話をする努力に目覚めたのだろうか。とにかく後先考えていなかったことは確かだった。私はとにかくあの美術館を汚してやろうという馬鹿を実行しようと画策していたのである。
何をするかは自分でもわからなかった。今にして思えば、やはり絵のことが原因だった。あれは、自分の見た光を否定されているようで我慢ならなかったんではないか。そう思いたい自分がいる。そして、私は狡猾に時を待っていたのだ。記憶の中にネオンの瞬きがほとばしる。夜のとばりだった。そうして私は美術館を訪れたのである。
違和に気づいたのはどうあってだったか。とにもかくにも外壁に移動したのだ。
レンガ調の壁には絵があった。命が爆発していたように感じた。腰を抜かすほどの圧力に屈し、私は簡単にさじを投げた。
嗚呼、才能とはこんなにも冒涜的なのだ。矮小な人の心など、粉みじんにしてしまう。何のためらいもなくそこにあるだけで人々は狂わされてしまう。
私はその時に一度、壊れていたのだ。
***
彼女の言葉は酷く薄っぺらく感じた。私はとにかく煮えくり返っていた。平静を装うべく彼女の真意を読み取ろうと息まいてみたが、うまくはいかなかった。思考回路が短絡してしまって思うよりに思案できなかった。けれども感情はえらいぐらいに豊で、私はまずその事実に置いていかれていた。
泣きそうだった。いや、もはや我慢していたものだから、実質的に泣きべそをかいていた。ぐずついた大人という醜悪な様をみせつけた。
そんな大人を目の当たりにして、当然のことながらひどく動揺しているようだった。仕方のないことである。
感情を抑えることができなかった。けれども不思議と身体は重かった。頭だけが沸騰している。気持ちが悪かった。
彼女は目線を切って言葉を紡いだ。その言葉の羅列は私に何ら影響を及ぼすことはなかった。つまりは言い訳ばかりで理由を言ってはくれなかった。少なくとも、私はそう断じた。
私はそれら、ああだこうだ。という言い訳を全て切って捨てた。
「つまりは、あなたは悪意があって述べたことでしょう」
そう詰めたのである。
憤りを鎮めようと間を置いたがうまくはいかなかった。息を吐き出すついでとばかりに言葉が割って入る。
「私は描いてもらわなくて結構です」
と言い切った。
それから、もったいないという忌々しい弱気な気持ちを怒りで隠した。悟られてしまうことを馬鹿みたいに恐れた。けれどもその気持ちは本物だった。
有難迷惑だった。本気で描いてもらえるだろうと楽観したところで、時がたてば不満は募り、描いてもらった絵は色を失い、私は渇きに苦しむことになる。そんな確信をもって、贅沢にも彼女の真髄を求めたに過ぎない。高望みといえばその通りだ。
これこそに私は言い訳もしようもなく顔を見上げて子供のようにはしゃいで傑作を拝みたいのだ。だからこそ、お伺いをたててお膳立てしてもらって描くという行為は何の魅力もなかった。描くという行動こそは嬉しいものであった。けれども、気持ちの乗っていない作品で満足できるほど私は清廉な大人ではなかった。もはや私こそが取り繕うことを往々にしてやめていたのであった。
私の欲に妥協はできなかった。欲張りな私には今の彼女は我慢ならなかった。私は彼女へ期待を向けていた。夢を見ていた。勝手にそれらの重石を押し付けていたのである。そんな軽い気持ちで、片手間に作業するように絵を描いてほしくなかった。私は恥を捨てていた。身体からほとばしる熱量に汗が流れた。羞恥に苛まれながらも私は吐いた。楽になりたかったし、今更飲み込むことは不可能だった。私が欲しいのは彼女の感情だった。大学で描いたものではない。彼女が本物だというのなら、苦しみぬいた先に怪物を生み出す。苦痛の果てに光を射す。
すると彼女も怒りに身をゆだねた。
素晴らしいことだった。そうであれと私は興奮した。焚きつけた甲斐があった。どこまでも私は才能しか見ていない醜悪な存在であることを今こそは感謝した。
彼女の熱量が私を潤す。私は彼女(横浜の絵)のことを愛していることに自覚を持った。あの絵が彼女である。あの世界こそ、私の情を満たすものだった。
彼女が発散する想いこそが正しい。私のような存在に媚びる必要などありはしない。
彼女はどうしてだか私を善良な大人だと思い込んでいたのだ。こんなにもおぞましい欲望を抱え込んでいるふしだらな男を、あろうことか善良で普通の大人であると信じてしまおうとしていたのだ。
実に不用なことだった。私のほうが困惑してしまうくらいに無垢な一面だった。私は隅々まで自己中心的に考えることで心の平静を保っている男でしかないのだ。
彼女は私の重石を外した。私が意気揚々と、実に安直かつ軽妙に乗せた身勝手な期待を、今になってようやく捨てた。大事にするものではないから早くに捨ててしまえば、彼女は苦しむこともなかっただろうか。
まとわりつくな、と明確に拒絶した。
うんざりだと吐き捨てた。
彼女は期待によって抑圧されてきた。その鬱憤はよほどに良識あるものだった。私はその経緯を知っていた。けれどもそれを承知の上で気をやっていた。
敵意が向かってきた。眼光の鋭さは冷淡といよりかは熱かった。
それは正しい行いだった。むしろようやく彼女らしさが息を吹き返したのだと安堵した。本当の彼女に出会えた気分になった。
追憶の果てに垣間見た少女を想起させる感情的な表情。その怒りの変化。歪む白い肌色に幼いころの笑顔が透けた。
山岸エレンという女性は、本来であるならば実に感情豊かで快活な性格をしていたはずなのだ。彼女はそれらを絵に向けることができる。全てを絵に閉じ込めてしまえる。その才能が彼女の歪さとなっていた。
天才。簡単に片づけてしまえるのだ。それほどに判りやすい存在だった。彼女の才能は、圧倒的な力を惜しげもなく振りまいている。私はその力に打ちのめされ、酔いしれてしまった哀れな凡人だった。いや、凡人などと卑下したつもりで安心しているくらいには、下卑た人である。下を見れば見るほどに、楽な気分に浸ってしまう。彼女はそんな私をわざわざ見下ろしているのだ。馬鹿なことだ。私はそんな対応に、狂喜してしまっている。
彼女の怒りが私に向かってきている。負の感情であろうとも、指向性のある感性が私を貫く。望外な満足を得るに至った。私はともすればあの絵に近い事柄を体験しているのではないかと興奮に身を震わせた。
私という存在によって、ついに彼女は前を向いて進んでしまうのではないか。そんなことが起こってよいのだろうか。
山岸エレンの本性は化け物である。人である必要はない。そも他者の評価を女々しく検討する暇を弄ぶこともしてほしくはない。ようやく、絵と対面が叶った。あのときの絵が目の前で爆発した。
先ほどまであった私のような惨めさはない。私と同じく他人の態度に一喜一憂するそぶりもない。
彼女は一人で生きていくことができる。孤独に逃げるわけではない。個として生きていける。たとえ身を割かれる苦痛に苛まれようとも、彼女は絵と一蓮托生であるから苦しみの先に射しこむ光を知ってしまっているものだから、歩みを止めることはもはやないはずである。けれども、彼女の才能は個であること果たして容認するのだろうか。不安はそこにあった。
一人になることはとても簡単なことであるけれど、彼女は真に孤独となれば容易に死へと向かってしまうのではないか。その不安によって途端に私は苦しむことになった。もはや目の前で私に罵詈雑言を吐きつける彼女が、割れやすい陶器を連想させて、思わずにたじろいだ。
彼女は尊いもので、信仰の対象にまで昇華させてしまっているようだった。
私はその才能に溺れてしまいたいとさえ感じた。殉教者とはこれほどに気持ちの良い感情に浸っていたのかと飛躍した夢想に打ち震えた。けれども、あいにくながらここには私と彼女だけではなかった。つまるところ女将さんは私の欲を随分と理解してくれていることだったのである。
女将さんは私の悦に浸るさまをほとほとに許してくれなかった。大人ならば大人らしく若人を導いてやれ。そう叱咤激励してくるのが女将さんだった。
音を立ててそれは置かれた。
カウンターに金属の高音が爆ぜた。ビニール袋が戦ぐように軽い音をかき鳴らした。
女将さんに目線を向ける。実にいぢらしい様を見ているような、たおやかに相貌を崩していた。私は見惚れてしまった。席に叩き置かれた物体を認識したくはなかった。私は囚われたつもりになって逃避に気が向いた。ここにきても、私の悪癖は発揮されていた。情けないことで、想定していない意図に対して理解を汲み取る察しの良さが皆無であった。
呆けているわけだから、当然のことに傍観者に落とし込められてしまっていた。
それから、どうしたものかと考えることもせず、ぼうっと彼女を見やった。そうすることしか私にはできなかった。思考回路が思うように電気信号を送ってくれなかった。
彼女の顔は歪み切っていた。嫌な顔である。それは、私にとってはひどく悪い顔をしていたものだから、これはよろしくないものだということだけは分かった。
やめろ。
と私は呟いた。けれどもその音は乱雑に持ち上がった袋の騒音に消されてしまった。
彼女は私の後ろを通って通用口に消えようとしている。
やめてるんだ。
と声を上げた。上げたつもりだったが、届いているのか不安になった。まるで耳栓をしているように音が籠っているようだった。
彼女は怒鳴った。
だったら止めてみろ。
そう言われた。
そう言われてからようやく私は席を立った。指図を受けてようやく行動に移した。ここからどうするべきか。混乱して身体がうまくいうことを聞かない。
ほらどうするんだい。
女将さんが焚きつけてくる。愉快な音色だった。心底おかしそうな声音に、しかし私は構っている余裕はなかった。
彼女の背を追うだけで一杯だった。またしても誰かの指図で身を動かすことしかできなかった。操り人形のように操作されているばかりで、けれども楽だからその通りに動いて見せただけだった。一体、私は何をしているのか。今になって未熟な精神が悲鳴をあげていた。一旦、落ち着いてくれと根を上げてしまいたくなっていた。
吐きそうになるほどに息が上がっていた。どうしてここまで苦しいのか見当もつかなかった。
シャッターの前に彼女が立つ。彼女は律義に私の到着を待ち構えているようにも思えた。
迷惑だ。
彼女はこう言った。
通行人の姿は幸いにしてなかった。そんなことを気にしていた。どこまでも私は軟弱な存在だった。
人生を勝手に押し付けてくるな。
彼女は正論を吐いた。
欲しいなら私が私から言ってやる。
欲しいから寄越せと叫んでやる。
私が私で生きるためだ。
だから縋りつくな。
私のために絵を描く。
誰のためでもない。
私は今、描きたい。
だから描く。
描いているだけだ。
あんたは関係ない。
これは私の問題だ。
彼女はしなやかだった。迷いがなかった。乱暴な所作のように見えて、それらすべては決められた動作を読み込んで実行しているだけのようにも感じられた。人の動きでありながら、人ならざる者の影を見た。そこには個が広がっていた。
引力を伴う衝動が私を押しつぶす。圧迫によって空気は枯れ、そこに集積した感性が創造を促す。
色が乗った。
あっけなく私の想いは叶った。
私はその色彩に溺れた。
苦しい。殺されてしまう。
私の人生は蹂躙された。
何も残らない。
私は泣いた。声をあげて泣いた。大人げなく泣いた。
これまでの全てを無慈悲なまでに否定された。
してもらった。
私は何者でもない。無へと還元された。私は一人の少女によって救助された。その優しさが、惨め垂らしく私を痛めつけた。正道を歩むままに現実へと眼を向けさせた。
足元に揺らぐ人生を、ただひたすらに歩むべしと肯定されてしまった。
彼女の所作が私の心を砕いた。ぼろぼろと涙となって外に排出されて、目の前の怪物に平伏する。
私は新生を余儀なくされる。
私は私であるけれど、また歩くことができるようだった。
絵によって存在を認められてしまった。こんなにも恥ずかしいものだったか。こんなにも暖かいものか。
気が吸い取られてしまったかのように腰が落ちた。むごたらしくへたり込んで、ただ見上げた。子供のころに見た絵は楽しかったことを思い出した。
ただただ、完成された別世界を眺めることに興奮した。世界を作ることができる事実に感動した。神様のようだった。
私にとって、絵とは、超常の現象だったのだ。
才能の爆発を拝み、私は感謝するしかなかった。
まだ、私は生きていたことを実感した。
どれくらい惚けていたのか。
彼女はただ、私を見下ろしていた。そうして、手にしていたスプレー缶を投げた。
私は咄嗟に抱きとめるよう大事に受け取った。
彼女は何も言わなかった。けれども、そのスプレー缶は恐ろしいくらいに重さを感じた。熱がじわじわをすり寄ってくる。
女将さんの笑いが声反響している。そこへ彼女の声が交じり合っていく。
どこかくぐもっていて、仔細はよくわからない。ただ、おだやかな音色に感じられた。豊かな面もちに身体は軽快さを宿していた。
私は作品を望む。
そこには化け物が顔をのぞかせている。私をにらみつけているようだった。
審判が下る。何をするべきか指針はない。
一つ、やるべきことは決めっている。
私は生きることを望んだ。
私はシャッターの化け物に誓いを立てた。
***
仕事をやめた。
それから女将さんに弟子入りした。
蕎麦屋を任せてもらえるよう頑張るようになった。
何かになれそうだと思った。
漠然としている。
けれど、気持ちはよかった。
転職は初めてでしかも飲食業だ。
それでも、嫌いになって仕事をかえるわけではないことが救いだった。
同僚たちも上司も、特に何も言わなかった。
それくらいの付き合いしかしてこなかったのだから当然だろう。
だけど、それで良いと思った。
それくらいの関係性で、今まで生きてきた。
それくらいが疲れなかった。
でも、今後は違うだろう。
緊張も恐怖も、不安もある。
だけど、光を見つけてしまった。
その先に何があるのかはわからない。
けれども、その光はつながっていると信じさせてくれる。
だから、前に進むことができた。
彼女が日本を離れる前に、自分の実力を披露した。
タダ食らいだった。
それでいい。ボロクロに言われた。だけど楽しかった。
そして、才能の繋がりを見て、嬉しくなった。
いつか、食べにきてください。
絶対においしい蕎麦を出しますから。
そう告げることができただけで、生きていけた。
***
二〇一〇年一二月二一日。
その日、横浜で騒動があった。
それが何を意味するのかは理解していた。
閉店後にもかかわらず、仕込みを行う。
女将さんは呆れていた。けれども、手伝ってくれた。
店に灯をともす。
それからじっとまった。
シャッターは降りている。
そこには真っ黒いラクガキがあった。
気に留める人はほとんどいない。
けれども、それでいい。
自分だけがわかっていればそれでいい。
そして、彼女はやってきた。
万感の想いをもって、対峙する。
蕎麦食ってくかい。
まずければタダ。
挑戦的に彼女は笑い、パートナーは呆れて、もう一人はよくわかっていない。
それがたまらなく楽しく、嬉しかった。
変わってない。
あのときの顔になっている。
言いたいことは言えたのか。
つぶやく。
彼女は静かにうなずいた。