「”虫も殺さぬような”って言うけどさァ、」
ゴキリと首を鳴らしながら、ふと五条悟が言った。
呪霊の血と泥に塗れて、彼はひどい有様だった。
夏油傑は袖口で汗を拭ってから、「何?」とだけ返す。
二人は1級呪霊討伐の任務を終え、迎えの車を待っているところだった。
「人間が虫を殺すこと前提の言葉でウケる」
「……」
また変わったことを言うな、と傑は思う。
悟は時々、そういうところがあった。
普通なら素通りするところをピックアップして、子どもみたいな目で揚げ足を取るのだ。
性格が悪いとも思うし、同時に、若い哲学者のようでもある。
「虫なんて、動物でも殺すからだよ」
傑は靴についた泥を見ながら、どうでも良さそうに言った。悟はゆっくり瞬きをして、傑がハンカチで靴の泥を拭うのを見る。
「牛だって、そのしっぽで身体に止まったハエを殺すんだ。人間に限った話じゃない。だからこそ、虫を殺さない人間に価値を見出すんだよ。理性は人間の象徴だし」
「理性って人間の象徴なの?」
「エッ? そりゃそうだろ。不思議なこと言うなキミ」
「理屈は動物でも持ってるから」
「……。そう?」
「危険が来れば逃げる、腹が空けば食う。これって秩序だ。秩序は理だろ。そんで、ソレがないのが呪霊」
どうだろう?
傑はそんな顔をして、悟の方を見た。
呪霊を操る術式を持つ傑は、いまいち頷きがたいところであった。
呪霊にも性格があるし、好き嫌いくらいはあるだろうに。
「で。話戻すんだけどさ、」
「あ戻すんだ。その話まだ続くんだね」
「おお。俺思ったんだけど、」
「うん」
「今から虫殺さないようにすっから、一日一回俺のこと褒めろよ」
「嫌だけど」
「……エ!? 何で!?」
悟はまん丸に目を見開いて、びっくりしたように大口を開けた。
傑は「逆に何でだよ」と思って、こめかみの辺りを掻く。
「何でって……面倒くさいからだよ」
「面倒くさい……?(ポカン……)」
「面倒くさいって言葉を知らない人?」
「それは知ってる。何で褒めるのが面倒くさいの? ひとこと言うだけだぞオマエ。ふざけんなよグータラ前髪!」
「前髪は今関係ないだろ」
「オマエの前髪は何色だ!?」
「それ血の色を聞くところだね」
「何色なんだよ!!!」
「黒だよ。どう見ても前髪は黒じゃないか」
傑は半目になって悟を見た。
悟は傑が言うことを聞かなかったのが気に入らないようで、長い手足を使ってしっちゃかめっちゃかに暴れている。
高校生の駄々は大迫力であった。
死にかけの虫がもがいているようで、傑はちょっとだけ笑った。
「やめなって泥んこになるよ」
「もうなってる。俺を止めたいなら褒めてみろよ愚図!」
「あははは。動画撮っていい? 帰ったら硝子に見せる」
「アァ? このクズが!!」
「アッハッハッハ」
完全に駄々こね五条を見世物だと思っている傑は、カメラを向け続けた。
悟は大蜘蛛みたいにジタバタ暴れて、それから。
それからパチンと、腕に止まった蚊を叩いた。
「ウワッ硝子タバコ吸ってる!!!!!」
悟はガーン! と口元を手で覆って、高専寮の入り口で立ち止まる。
絶妙に邪魔な位置で止まったせいで、傑は悟の後頭部に鼻をぶつけた。
硝子は玄関の隅っこで、しゃがんでタバコを吸っていた。
白いTシャツを伸ばして足まで覆って、三角すわりで丸まっている。体育の学生がよくやるスタイルだった。
素足にゴムサンダルをつっかけて、前髪をピンでとめている。
白く不健康な蛍光灯はチカチカ光って、硝子の丸い頬を照らしていた。
「あ、クズども。お帰り。泥塗れじゃん。私の半径10キロに近づくな」
「もうそれ高専にも入れないね。ただいま」
「良いね。五条高専出禁で」
「んでだよ! 俺が最強のエースだろーが!」
「呪霊退治はスポーツじゃないんだよ」
「遊び半分でやられてもね」
「ただいまも言えない奴に用はない」
「ウゼェ! オマエら俺の母親か! ただいま!!」
カエルの鳴く高専に、ケラケラと笑い声が響いた。
玄関ライトには蛾が一匹止まっていて、時折羽がライトを叩く音がする。
夜風は湿って生ぬるく、硝子は不味そうに煙を吐きだした。
夏の夜である。爽やかで重たい、夏の夜。
硝子がタバコを吸って、焼けた先端が赤く光った。線香花火みたいな光だった。
五条は「イ」と犬歯を見せて、不機嫌そうな顔をする。
「タバコは成人してからじゃね?」
「ふうん。五条ってマトモなこと言えるんだ」
「ふざけんな。てかタバコなんかいつでも吸えんじゃん。成人までとっとけよ」
「いつでも吸えるのに成人までとっとくという矛盾」
「いつでも吸えっからだよ。煙を吸って肺を壊す遊びとか、年取ってからやりゃいいじゃんか」
「さとるって喫煙のことそういう遊びだと思ってるんだ」
「突然箱入り息子ムーブでもしてくんのかと思った。あぶな」
「急にね」
「そう。急に。ギャップ萌えかわいいねって言えばいい?」
「オ? 術式食らうか? 表出ろコラ馬鹿にしやがって」
「もう出てる」
「ここ表だから」
「じゃあ裏出ろや!!」
「わはははは」
「むり」
──パチン!
硝子は目の前を飛んだ羽虫を捕まえた。
猫がネズミを捕るような動作だった。
「だァーーーックソ!!!」
「ダクソ?」
「先生五条がうるさいでーす」
「クソだっつってんだよ。シットの方だわ」
「五条、授業中は騒ぐな。あと汚い言葉を使うな」
「今更な話すんなよ夜蛾セン」
「悟が騒いで言葉遣いが汚いのは生まれつきだもんね」
「たりめーだ何言ってやがんだ。赤ん坊はみんな泣いて騒いで生まれてくんだ常識だろーが。オ”? いい加減にしろ」
「態度が最悪すぎる……」
「デカすぎんだろ……(態度が)」
「デカすぎるよ(声が)」
夜蛾は諦めて授業中にぬいぐるみを作り始めた。
もう指導できるもんじゃないので、成績表にちゃんと「留年」と記載したから良いのである。
──窓の外から、蝉の声がうるさい。
空は作り物みたいに青くて、主張が激しい。
鬱蒼と緑生い茂る高専には、信じられないほど巨大な蝉しぐれが降り注いでいた。
傑は耳栓をしながら数学のドリルをやっていたが、悟がデカい声を出したので耳栓を外した。
つけていても意味がないことに気づいたからである。全くヤツは癇癪玉みたいな男だった。
「この点Pマジで許せねえよ。動くなっつってんだよ。俺が動くなっつったら動くんじゃねえ!」
「拳銃でも構えたらいいんじゃない?」
「警察にでもなれば?」
「おお。ヨシ動くな! 武器を捨てて手を頭の後ろへやれ!」
「その調子その調子」
「悟の警察ってアメリカ式なんだ」
「そのまま地面に伏せて三回回ってワンッ!!」
「違うものになっちゃった」
「警察じゃなくなった」
「点Pが一体何をしたって言うんだよ」
「公務執行妨害だよ動くんだから」
「どうでもよ」
聡明な硝子はとっととドリルを終えて、教科書のピタゴラスの絵に鼻毛を書いていた。
傑は時折答えを見ながら(解説を読むためだ)、自己流で数学の勉強を進めている。
悟だけが、真夏の空と同じ色の目を三角にしていた。
憎き点Pにいちゃもんをつけ、椅子から立ってシャドウ・ボクシングの動きをする。
「っつかさァ~~、何の意義があんの」
「……それは俺に聞いてるのか?」
「当然。センセーでしょ夜蛾」
「今集中してるんだ。話しかけるなら後にしてくれ」
「授業中ぬいぐるみ作りに集中する教師って何?」
「ウケた」
「写メとっていい?」
「女子高生かお前らは」
「一人本当に女子高生だけどね」
一人喋ればもう二人もしゃべり出す状況で、夜蛾は深い眉間の皺を揉んだ。
ゆっくりと縫い針を置いて、「意義って何の意義だ」と悟へ聞き返す。
「え。数学だけど。ベンキョーして何の意義があんの」
「意味のないことを教育機関でやらせると思うか?」
「ここ呪術師の養成学校じゃん。教育機関じゃねーよ」
「教育機関なんだここは。ふざけるな」
「そっちがふざけないでほしいんだけど」
「逆ギレをするな」
「表現の不自由だ! 言論統制だ! 人権侵害反対!」
「このクソガキャ……」
夜蛾は頭を抱えた。
無駄に頭の回る子供が一番扱いづらいのだ。特にこの男は、口を開けば揚げ足取りだから。
「いいか。学校の勉強というのはな、大人になった時の話のネタだ」
「ハ??」
「常識的なことを言ってもお前には響かないだろうから、持論を言うぞ」
「ああ。助かる」
「大人になるとな、友達を作りにくくなるんだ」
「今も別に作りやすくはねーよ。生徒3人しかいねえんだから」
「黙って聞け」
「オマエが黙れば?」
夜蛾は悟にヘッドロックをかけた。
この学校にモラルなんぞあったもんじゃないので、普通に生徒に暴力を振るった。
モラルのない学生ども二人も、「いいぞいいぞー」などと言いながら笑っている。
「私夜蛾が勝つにジュース1本」
「じゃあ悟が勝つにお茶をかけるよ」
「夏油趣味シブすぎ」
「お茶美味しいじゃないか」
「ちょマジ、ギブギブギブ!!! 夜蛾テメ、ガチだっつてんだよ!!」
「お前ら学校で賭け事をするな」
生徒に暴力を振るった夜蛾がいけしゃあしゃあと言った。
適当なところで悟を解放してやり、彼は咳ばらいを一つする。
「大人になると、人と腹を割って話す機会が減る。故に、知人は増えても友人が増えない。そういう時にだな、学生時代の思い出がいい材料になる」
「っじで痛かった今。賠償金請求できっかな」
「学生時代の体験は、貴重な共通点だ。誰もが『スイミー』を知っていて、『やまなし』を知っている。点Pに苦しみ、織田信長に髭を生やしている」
硝子が一瞬目を逸らし、数学のドリルを閉じた。
彼女のピタゴラスにも、立派な髭が生やされていたから。
「共通に知っていることがあると、話が通じるから盛り上がるんだ。そうして大人同士で打ち解けて、知人は友人に変わる。小難しいこと抜きにするとな、そういうことなんだよ。教育を受ける意義ってものは」
「え? あごめん。今六法全書見てて話聞いてなかった」
「……」
夜蛾は閉口した。
それから黙って、五条の持つ六法全書を取り上げる。
「オイ! 教師だからって何しても良いと思うな! おうコラ! 職権乱用じゃねーか!」
「あ~夜蛾セン私の携帯も返して」
「私の写経セットも返して」
「オマエそんなん持ってたの?」
「没収された経緯教えて」
夜蛾は長い長い溜息を吐いた。
それから教卓の上に蜘蛛が歩いてるのを見て、悟の六法全書で叩き潰した。
「──ところで夜蛾センさ、今度の沖縄遠征の話だけど」
「任務を遠征とか言うな、悟」
「おやつは何万円までオッケー?」
「待て待てケタが違うケタが」
「これだから金持ちは」
「万単位でおやつがいる五条何?」
「虫歯になるから、おやつは300円までにしておきなさい」
「ふーん。小学生のおやつの金額ってそういう理由で決められてるんだ」
「お前に限定された話だよ」
「歯ぐらい磨くわ」
「じゃあ私スタンプカード作るからキミ歯磨いたらハンコ押しな」
「嫌だけど???」
「え? 何で??」
傑は悟の目を見ながら、視界の端に影が横切るのが見えた。
小さな羽虫である。
羽虫はふよふよと空を漂って、円を描きながら傑の傍にいた。
「うわ、なんか虫いる」
「ハ? 潰せそんなもん」
「どこ? てか高専虫出すぎじゃない?」
「虫コナーズ経費で落ちねえの?」
「はあ。落ちてたまるかそんなもの。いいからお前ら、早く寮に戻れ」
「ケチ!」
傑は悟たちの会話に笑いながら、手で虫を軽く追い払った。