【本編完結】慟哭の龍【挿絵有り】   作:ロウシ

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今更ですけど尊鷹が勇一郎に固執する理由はこれです
https://syosetu.org/novel/277810/


第三話:無辺の彼方へ

 

1.

 

 

 加藤清澄は逃げ出したかった。

 今、この場から、逃げ出したくてしょうがなかった。

 身体が、芯から震えているのを実感している。

 恐怖が、静かに、(はら)(うち)から滲み出て、全身を病ましていくのを自覚していた。

 目線の先、闘技場では、愚地独歩と宮沢尊鷹が向かい合っている。

 目前に広がるその世界が、遠くにあるように感じている。

 ただふたりだけの世界だ。

 こちらとは、違う世界だ。

 重力が違う。

 空気が違う。

 圧力が違う。

 法則も、おそらくは倫理観なども、違う。

 現代社会の一角に姿を現した、武士の一分──それに、加藤の意識も心も握られている。

 柵を隔てただけの向こう側が、決して、自分なんかじゃ辿り着けないほど遠い世界に見えていた。

  

 愚地独歩が動かない。

 宮沢尊鷹も動かない。

 中腰に構えて睨み合っている。

 しかし、ふたりの発する気が、密に絡み合って、空間を埋め尽くして歪めているのである。

 気と、気をぶつけ合って、互いの機微を探っている。

 ふたりは今なお戦っているのだ。

 その静かな闘争が、否応なく沈黙を引き起こしていた。 

 

 刀を握る武士の立ち合い──

 あるいは、銃をホルスターに収めたガンマンの立ち合いか。

 観客たちは、格闘士は、今、目の前にある光景に、古今東西の武に描かれる決死の佇まいを写し見ていた。

 刃圏が触れ合う。

 しかし、まだ動かない。

 阿吽の呼吸で、ふたりが間を詰めている。

 独歩が両腕を胸の前に揃えた。

 前羽の構え。

 守りに長けた構えだが、しかし、重心の位置が親指のさらに前にある。

 独歩の胸中に潜む攻撃性は、全く隠れていない。

 どちらが手を出すのか──

 全くワカらない。

 

 加藤は、刃牙さえも震えているのを感じていた。

 獅子尾龍刃の心が引き締まる音を聞いた。

 本部以蔵すらが、歯をカチカチと鳴らしているのを見た。

 愚地克巳が、柵を握りしめて、泣きそうな顔になっているのもワカった。

  

 尊鷹の身体が陽炎のように揺れていた。

 気のせいではない。

 観客の目にも、加藤たちの目にも、その姿が闘技場に溶け込むように揺らいでいる。

 

 ──来る。

 加藤は歯を食いしばった。

 来る。

 来る。

 来るッ。

 来るッッ……

 ───キタッッ!!

 

 動いた。

 尊鷹の肉体が、全く脱力した姿勢のまま、ゆるりと跳び上がろうとした。

 そこに、独歩の跳び足刀が飛んだ。

 尊鷹の左脛を貫いた。

 機先を制したのは、独歩だった。

 

「館長ォォォォォッッ!!」

 

 加藤が叫んだ。

 ぐっと、拳を握っていた。

 足が破壊された。

 機動力を奪った。

 この一手は大きい!

 刃牙が言った。

 

「まだだッッ!!」

 

 加藤がびく、と肩を震わせた。

 尊鷹は、蹴り足がめり込んだまま、独歩の攻撃など気にも止めず、さらに高く跳躍していた。

 独歩の蹴り足に右脚を乗せて、左脚で蹴った。

 正面蹴り──

 速いッッ!!

 蹴り足が見えないッッ!!

 鋭い量感を持った刃物だった。

 途端に、それが、独歩の鼻から入って、顔を両断するイメージが飛び込んでくる。

 

「親父ィィッッ!!」

 

 克巳が叫んだ。

 いつもの飄々とした口調ではない。

 父を案ずる子の、決死の叫びであった。

 

 尊鷹の蹴りを、独歩は頭突きで迎え撃った。

 避けられない。

 受けられない。

 だから、迎え撃つ。

 空手は五体が凶器なのだから──

 しかし、押し負けたのは独歩であった。

 独歩の顔が、大きく跳ね上げれる。

 衝撃を受け止めきれず、パックリと裂けた額から、弧を描いて血が吹き出した。

 

「館長ォォッッ!!!」

 

 加藤は叫んでいた。

 ずきりと、胸が痛んだ。

 愚地独歩が負ける──一瞬、その未来を見てしまった。

 範馬勇次郎に殺された時の姿が、脳裏に浮かんでしまったのだ。

 

「愚地さんッッ!!」

「独歩ォォッッ!!!」

 

 獅子尾龍刃も叫んでいた。

 本部以蔵も、叫んでいた。

 

 独歩が姿勢を整えた。

 退がらない。

 だから、一手分、尊鷹の攻撃が早い。

 首を捻って、それを躱す。

 頬肉がごり、と抉れていた。

 

 独歩が拳を返す。

 手首を打って、尊鷹が捌く。

 まだ、尊鷹は宙にいる。

 独歩は踏み込んだ。

 そこから尊鷹の着地まで、拳を打ち続けた。

 その全てが、宙空にある尊鷹の手にはたき落とされる。

 なんという体幹、なんという空間把握能力であろうか。

 着地して即座に踏み込んで打たれた尊鷹の掌底を、独歩は回し受けで流していく。

 しかし、尊鷹の軸がブレない。

 まるで手打ちの如く打たれる軽い拳が、死を実感させるほどの恐ろしい風切り音を奏でている。

 両者の拳は、クリーンヒットすれば即死は免れないだろう。

 両者ともに、拳や蹴りの破壊力が、人類に許された防御力を遥かに超えているからだ。

 

 しかし、なんという速度であるのか、宮沢尊鷹は。

 速い。 

 とにかく動き、速い。

 上下左右に縦横無尽、三次元的な動きの中から超速の拳や蹴りが飛んでくる。

 どれもこれも、空手のセオリーにはとてもじゃないが存在しない角度だ。

 かろうじてついていけているのは、愚地独歩が歩んだ武の五〇年のおかげであった。

 しかし、反撃がままならない。

 打ち終わると、尊鷹は全身が目の前から消えていくから、打ち終わりの隙を狙えない。

 しかも、徐々に正確さが増してきている。

 皮一枚であるが、尊鷹の攻撃が独歩を捉え始めていた。

 

 

3.

 

 

「館長ォッッ……」

 

 加藤の口から、弱々しい声が思わず漏れていた。

 それを笑う者も茶化す者もいない。

 優劣は明白だった。

 少しずつ、独歩の手が出なくなり、守勢に回らざるを得なくなっている。

 しかし、尊鷹の手足は独歩に匹敵する凶器性がある。

 防いでも、防ぎきれない。

 一打打たれるたびに、独歩の空手衣が真新しい血に染まっていった。

 

「独歩ォッッ! 手を出せ!! 受けに回ったら潰されるぞッッ!!」

 

 本部以蔵の口調に興奮が混ざっていた。

 本部には独歩の目的が読めていた。

 

 独歩は、急所だけは守っている。

 芯にだけは喰らわぬように立ち回っている。

 乱打を重ねれば、いつか、必ず尊鷹の打撃は雑になる瞬間がある。

 そこに、拳を打ち込むつもりだ。

 だから耐える。

 間違ってはいない。

 相手が凡夫ならば、正しい選択である。

 だが、今日の相手は宮沢尊鷹であった。

 

 独歩の顎が蹴られた。

 中足の回し蹴りだ。

 前羽の円動作の最中、独歩の腕と腕の隙間を、針の穴を通す精密さで、尊鷹の脚が割り込んでいた。

 ぐら、と独歩の腰が落ちた。

 そこに、尊鷹の回し蹴りが翔んだ。

 狙いは、独歩の側頭部。

 まともに入れば死ぬ場所であった。

 

「親父ィィイィィィイッッ!!!!!!」

 

 克巳が身を乗り出した。

 刃牙が、祈るように口を噛んだ。

 獅子尾龍刃は気づいた。

 

 愚地独歩が笑っている──

 

 待ってたぜと言わんばかりに、腰の落ちた姿勢から、独歩の正拳突きが放たれた。

 それは、尊鷹の蹴り足を掻い潜り、胸骨のど真ん中にぶち当たった。

 

 やった──ッッ!!

 

 加藤は跳び上がる気持ちだった。

 だが、盛り上がった気持ちは、すぐに消沈する。

 

 愚地独歩の拳が、尊鷹の胸から滑っていく。

 嵐の中の河川に巻き込まれたように、争い難い力によって、拳が逸れていく──

 

 灘神影流──『弾丸すべり』であった。

 

 この瞬間を狙っていたのは尊鷹であった。

 返しに放たれた前蹴りが、苦笑を浮かべた独歩の胸を撃ち抜いた。

 

 

4.

 

 

 つええ。

 独歩の感想は、それであった。 

 本当につええなあ、尊鷹さん。

 

 倒れ伏す自分の身体。

 打たれた胸が、その部分丸ごと消し飛んだように感じている。

 尊鷹の蹴りのパワーが背中から突き抜ける際に、内蔵も骨も、全てが巻き込まれて飛び散ったようだ。

 

 だが、意識ははっきりしていた。

 戦意はまだ消えていなかった。

 敬意があったからだ。

 戦う前から。

 

 ──それぐらいは、やるだろうな。

 

 心のどこかで、そういう気持ちがあったからだ。

 この、すごいやつと殴り合えている自分の人生は、無駄じゃなかったと感激しているからだ。

 空手に打ち込んだ五〇年──

 それ以外を捨てていた。

 神心会がでかくなるまで、ずっと、空手に打ち込んだ。

 あの時以来か、こんな気持ちは──

 自慢の女房を得て、誇れる後継に出会い、付き合いではなく自ら飲んだ酒は、たとえようもなく美味かった。

 その時、苦くて痛くてしょうがなかったおれの人生が、何かこう、解放されたと思った。

 愚地独歩という愚地独歩が、結実したと思っていた。

 だが、そうじゃなかったんだな。

 範馬勇一郎と別れて、

 力剛山が出てきて、

 範馬勇次郎が出てきて……

 いっぺん殺されてよう。

 また、おれはしょうこりもなく、地下に立っていて──

 

 まだ、先があったってわけだな。

 愚地独歩の五〇年はゴールじゃなくて、まだ、武の途上だったわけだ。

 まだまだ、『武の神様』から奪えるモンがあったってことだ。

 好敵手と出会い、己を高め合える──その幸福を、まだまだ味わえるわけだ。

 嬉しいねェ。

 生き返って、本当によかったぜ。

 

 まだ動けるさ。

 そうだろう、愚地独歩?

 ほら、手が、地面を押し返している。

 おれの武は、まだ、使い尽くしちゃいねえンだ。

 “もっとヤりてェ"。

 そう言ってる。

 ワガママな野郎だぜ。

 "五〇年も我慢したんだから、まだヤりてェよ"。

 ──そうか。

 そう言われりゃ、そうだ。

 せっかく、宮沢尊鷹ってェ、超一級の武人が、おれのために全力を出してくれているんだもんな。

 ありがとヨ、宮沢尊鷹。  

 アンタが愛しいよ。

 抱きしめてやりたい。

 ああ、そのためには、立ち上がらなきゃな。

 ほら、もうちょっとだ。 

 尊鷹さんが、せっかく、待ってくれてるンだからよ。

 待たせちゃ男がすたるぜ、愚地独歩よ?

 

 

5.

 

 

 全身の細胞が狂喜している。

 

 立ち上がった愚地独歩を見て、頭のてっぺんからつま先にいたるまで、興奮が駆け巡って総毛立つ。

 無辺の荒野に立っている。

 ここには、誰もいない。

 何もない。

 色も形も存在しない。

 わたしが力を自覚した瞬間に、わたしの身の(うち)に現れた、ただただ果てしなく広がる荒涼とした白地が()()だ。

 わたしはここにいる。

 戦いの時も、日常の時も、常にこの世界の片隅に身を預けねばならなかった。

 それに、抗うことはできない。

 おそらく()()は、この宇宙において、力を持ち過ぎた人間が神によって導かれ、追放される牢獄なのだろう。

 ただ『在る』だけで世を乱しかねない力を持つ存在が、人の社会を保つために押し込められる、不可逆にして孤独の世界なのだ。

 ここに、かつて、わたし以外にふたりの男がいたことがある。

 範馬勇一郎と、宮沢熹一だ。

 ふたりとも、わたしが全力を出して戦い、そして敗れた男だ。

 ふたりとも、今は遠くに行ってしまった。

 わたしはまた、ここに取り残された。

 しかし──今は違う。

 愚地独歩がここにいる。

 果てしなく白々とした荒野の中に、熱した鉄を塗り固めたような、熱く、黒く、恐ろしい塊が、どっしりと腰を落としている。

 

 わたしの意識は、愚地独歩に向いている。

 わたしの思考は、愚地独歩に向けられている。

 わたしの全知全能が、愚地独歩を捉えて離さない。

 範馬勇一郎が力剛山に敗れ、日本武道は地に堕ちた。

 力剛山を、わたしは憎んだ。

 その力剛山を倒した男が、愚地独歩──

 今、範馬勇一郎が日本武道を道連れに失墜させて、なお潰えなかった、日本武道の天凛がここにある。

 範馬勇一郎に失望しても、己の武の道を歩み続ける男がここにいる。

 感謝する──愚地独歩。

 もはや、勇一郎や力剛山は関係がない。

 想うことはただひとつッ。

 愚地独歩という、ここに立つに足る雄大な武人を、心を込めて殴り倒すことだけだッッ。

 

 

6

 

 

「笑っとるわ」

 

 宮沢熹一の背後から、その言葉は届いた。

 低く、渋みのある声に反し、その音は待ち侘びた幼さに弾んでいた。

 キー坊が振り返ると、いつも通りにばっちりスーツを着ている宮沢静虎が立っていた。

 

「おとん、何しとったんや」

「ちょっとな……」

 

 眼鏡を整えながらキー坊の隣に立ち、モニターの先にいる尊鷹を見る。

 キー坊にだけはわかった。

 いつもは過剰に引き締められている、静虎(ちち)の頬肉が緩んでいることに。

 

「鷹兄ィ、笑っとるわ」

「ああ、ワシも初めて見たわ。尊鷹のあんな砕けた顔はのォ……」

 

 かつて、宮沢熹一は宮沢尊鷹と真剣勝負を行なっている。

 互いに全力を尽くした戦いの果てに、キー坊は尊鷹に勝ってはいる。

 だが、今の尊鷹の表情は、その時に比べても初々しい悦びに満ちていた。

 愚地独歩には、その強さは別として、宮沢熹一とは違う魅力があるのだ。

 尊鷹が幼子のように笑っている。

 それが、静虎には嬉しかったし、同時に家族でありながら、あの表情を引き出せなかった己の無力を嘆いていた。

 

「熹一。灘の当主として、この戦いを、しっかり見るんや」

 

 たとえ、どんな結末を迎えたとしても──

 静虎の言葉は、そこまで含めて説いていた。

 キー坊は静かに頷いた。

 

「わかっとるわ、おとん」

 

 キー坊が改めてモニターを見る。

 その眼に、かつてないほど真摯な輝きが宿っていた。

 

 

7.

 

 

 よろよろと立ち上がって、愚地独歩は構えた。

 また、尊鷹が攻勢に出て、独歩が守勢に回っていた。

 本部が「攻めろ! 独歩!!」と呼びかけているが、独歩にはもはや、攻勢に代わる力がないことは明白であった。

 

「勝負ありだ……」

 

 ボソリと、刃牙が言った。

 加藤が刃牙の胸ぐらを掴んだ。

 

「テメェ……刃牙ィ……い、今、なんつったよ……?」

 

 声が震えていた。

 内心、加藤も理解している。

 このままじゃ、愚地独歩は負けると。

 そして、自分の知る限り、愚地独歩にはもはや逆転の手段がないことも……

 

 加藤の眼が虚勢で血走っている。

 それを、刃牙は冷徹な眼で見返していた。

 

「やめなさい」

 

 口を挟んだのは、獅子尾龍刃。

 加藤が振り向くと、龍刃の表情は巌のようであった。

 覚悟か何かで塗り固めたような表情で、じっ、と加藤を見ていた。

 

「加藤くん。しっかり見なさい」

 

 声も、岩のようだった。

 強く、硬く、重い感情が乗っている。

 加藤は刃牙から手を離した。

 それを見て、龍刃は言った。

 

「これから、愚地さんがどうなろうと、きみは愚地独歩の弟子として見届けなきゃいけない」

「〜ッッ! くそッ!!」

 

 加藤は虚空に怒りを吐き出した。

 刃牙が、ほっとした眼で龍刃を見た。

 龍刃は表情の硬さを解いて、微笑を浮かべていた。

 

 

8.

 

 

 反撃のタイミングは知っている。

 尊鷹の自負は確かなものだった。

 愚地独歩の拳の発射から着弾まで、尊鷹には全てが見えている。

 仮に、今この瞬間に、愚地独歩がやぶれかぶれに拳を打ち出しても、簡単にカウンターを合わせて撃ち落とす確信がある。

 そしてそれは、愚地独歩もわかっている。

 だから、まだ微かな余力を残しながらも、反撃の手を出そうとしないのだ。

 

 その微かな余力が独歩にある限り、尊鷹は手を抜かない。

 愚地独歩の育んだ武の歴史に、敬意を払っている。

 これほど満足のいく戦いをもたらしてくれた武人に対し、至上の喜びを持って全力で撃ち倒す。

 

 愚地独歩が背を丸めている。 

 体面積を小さくして、クリーンヒットを避けるためだ。

 だが、打撃に生ずるガードのわずかなズレ、できた隙間を尊鷹の眼は見逃さない。

 鳩尾に足先蹴りが刺さった。

 愚地独歩のお株を奪う一撃である。

 独歩が吐瀉物を吐いた。

 眼が激しくぶれて、視点が歪んでいた。

  

 好機────!!

 

 尊鷹の手が伸びた。

 拳が、気を纏っている。

 『塊貫拳』──

 体内部を移動する気の衝波。

 どこに当たっても、そこから脳を直接破壊できる一撃であった。

 

 瞬間、尊鷹の背筋を薄寒いものが走った。

 尊鷹の勘が、恐ろしい何かを感じ取っていた。

 

 思わず手のひらを顔の前に置いた。

 

 そこに、愚地独歩の拳が打ち込まれていた。

 

 

9.

 

 

 尊鷹は吹き飛ばされた。

 尻から地面について、転がっていく。

 ごろごろと転がって、勢いがなくなると体勢を立て直し、膝立ちになって、肩越しに独歩を睨んだ。

 

 見えなかった──

 

 今の、独歩の拳が、である。

 今の独歩の拳には、何もなかった。

 殺意も、敵意も、何もない。 

 ただ、拳が真っ直ぐに伸びてきて、当たっただけである。

 殺意の応酬、渦中において、不意に放たれた無我の拳であった。

 打たれた手のひらの感覚がない──

 左腕そのものが、肩から綺麗に吹き飛んだようだった。

 尊鷹には見覚えがある打撃であった。

 自分も、これと同種の拳を打てる。

 その技の名は──

 

「ぼ──『菩薩拳』やんけ!!」

 

 キー坊が言った。

 

「な、なんで愚地のおっちゃんが、『菩薩拳』を使えんねん!!?」

 

 キー坊の質問に、隣に立つ静虎が返す。

 

「熹一っ。辿り着く場所が同じとしても、武の道はひとつだけやない。愚地さんは愚地さんの武を歩んだ結果、たまたま灘神影流と同種の技を学ぶこともあるっちゅうことや」

「しゃあけど……片手打ちできる菩薩拳なんてワシは知らんでっ!」

「アホ、それは、お前もワシも未熟なだけや」

 

 

10.

 

 

 尊鷹が独歩の『菩薩拳』を防げたのは、単に同種の技を使えるからだけではない。

 宮沢尊鷹は灘神影流の秘中の秘を知り尽くす男。

 当然、心眼程度は持っていて元々なのである。

 その上で、『見えないものを見る』、『見えるものを見えなくする』という虚実を自在に操る幽玄真影流をも学んでいる。

 

 尊鷹の『見えないもの』に対する耐性の高さは、歴代の灘神影流の使い手の中でも飛び抜けていた。

 宮沢熹一が駆使した極限究極の虚術──『空眼の目付け』に対抗できたのは伊達ではないのだ。

 

 しかし、回避しきれなかった。

 左腕一本が消えた。

 払った代償が大きいのは事実だった。

 

 表情でダメージを悟らせないつもりだが、左腕が上がらないという視覚的事実は、愚地独歩に微かな力を与えていく。

 

 独歩が顔を上げた。  

 笑っていた。

 自分のワザが通じた喜びに。

 

 言葉にする必要はない。 

 もう、お互いに、そんな力すら無駄ときりすてねばならない地点にきている。

 

 尊鷹は頑と表情を引き締めた。

 愚地独歩は、笑っていた。

 

 最後の攻防が始まった。

 

 

11.

 

 

 ゆるりと、傍目からははっきり見える動きで、独歩が正拳を放った。

 それが、ゆるゆると尊鷹の目の前に迫って、これまたゆったりとした動きで尊鷹が払いのける。

 尊鷹が捌きに使った右腕を、そのまま滑らせて拳を握る。

 狙いは、独歩の胸。

 それをまた、ゆるりとした動きで独歩が回し受ける。

 

 組み手──?

 

 観客は戸惑っていた。

 死力を尽くした際の際。

 達人ふたりの、最後の、血みどろの攻防を予想していたのに、予定調和のようなのろのろとした組み手が始まるとは思っていなかったからだ。

 しかし、何人かの格闘士の私見は違う。

 特に、愚地独歩の側に立っているものたちにとって、独歩と尊鷹がやっていることは恐ろしい次元のやりとりだった。

 

「よ……よくやるぜ、ふたりとも……ッッ!」

 

 本部以蔵が、歯を鳴らしながら言った。

 刃牙は、額から大粒の汗を流していた。

 加藤は言葉もなかった。

 目尻を歪めて、苦心の表情であった。

 

 静寂の中、独歩と尊鷹はお互いの感触を確かめるように手を打ち合う。

 だんだん、動きが速くなっていく。

 だんだん、拳や蹴りに、『意』が乗っていく。

 

「一瞬だ」

 

 本部が言った。 

 

「瞬きするなよ」

 

 ごくりと、加藤はつばを飲み込んだ。

 

 

12.

 

 

 尊鷹が飛んだ。

 モーションもなく、脱力の姿勢から垂直に、独歩の頭を飛び越えるほどの高さであった。

 独歩が天地上下に構えていた。

 その眼が、どこを見ているのか、半眼に開かれていた。

 

 尊鷹が蹴りを打った。

 前に突き出すような蹴り。

 二打、三打、四打まで連続である。

 その全てを、独歩は避けなかった。

 力が入っていない。 

 倒すための蹴りじゃない、当ててはいるが、これは本命のためのフェイントだ。

 だが、そんなことすら、愚地独歩にはどうでも良かった。

 尊鷹もそれを承知していた。

 

 愚地独歩の狙いは、ただ、真っ直ぐ打つこと。

 

 『菩薩拳』による後の先。

 殺意なき拳による、回避不可能のカウンターだ。

 だがそれさえも『見』に徹すれば、尊鷹なら避けられるだろう。

 尊鷹が狙っているのは、『菩薩拳』に対するカウンターであった。

 『菩薩拳』を弾丸すべりで受け流し、その力をそのまま『菩薩返し』によって返すことで沈める。

 愚地独歩を、愚地独歩の研鑽によって倒す、尊鷹なりの意地悪──意趣返しであった。

 

 だから、そのための撒き餌を出す。

 しかし、そのどれもに独歩が反応を示さない。

 だから、五打目は強く打った。

 

 尊鷹の動きに合わせて、独歩の肩が微かに動いた。

 

 拳が見える。

 菩薩拳だ。

 だが、見えている。

 だから、違和感に気づいた。

 

 独歩の拳は、拳ではなかった。

 半開きに握られていた。

 菩薩の形ですらない。

 

 しまった──ッッ!!

 

 独歩の意図に気づいた時、すでに蹴り足が伸びていた。

 独歩の拳が開いていた。

 そのまま、尊鷹の脚首を掴んだ。

 独歩の手のひらの肉が、ざくりと切れる感触があった。

 しかし、五〇年の鍛錬を経て、仏の手のひらのごとき厚みとまろやかさを持った独歩の手のひらを切断するには至らない。

 

 独歩は、尊鷹を引っ張った。

 宙空である。

 さしもの尊鷹も踏ん張りが効かずにされるがままになった。

 地面と水平になるように、尊鷹は転がされた。

 視線の先で、独歩は己の右手を手刀の形にあつらえて振り上げている。

 まさか──

 

「カラテチョップ……?」

 

 龍刃が思わずこぼした。

 龍刃にとって、この構えは自らの師であり父であり、愚地独歩にとって不倶戴天の敵である力剛山の代名詞だった。

 実際、その意図も、独歩に多少はあったかもしれない。

 だがこの構えの真意は、神心会の人間にとって、特別極まりない意味をこそ孕んでいる。

 

 虎殺し──

 

 愚地独歩が、シベリアトラを殺したとされるワザ。

 神心会本部道場にデカデカと描かれている、愚地独歩を象徴するワザである。

 

 尊鷹は咄嗟に顔を庇った。

 愚地独歩に限らず、空手家の、渾身の振り落としの殺傷力は並ではない。 

 腕をクロスさせて力を入れる。

 腹筋と背筋も力で固める。

 

 どちらに当たるにせよ、直撃した瞬間に脱力させて力を流す。

 それで、反撃するぐらいの体力は残る。

 そういう算段であった。

 

 だが、尊鷹は気づいた。

 自分が、見当違いをしていることに。

 独歩の手刀に──微塵の殺意もこもっていないことにッッ!!

 

「けやあッッ!!!」

 

 気合い一閃。

 手刀が落ちた場所は、尊鷹の左脚の脛であった。

 あっけなく、尊鷹の脚は折れた。

 どん、と尊鷹の背が落ちた頃には、真逆に折れ曲がった左脚が天に伸びていた。

 

 愚地独歩は、鳳凰を殺すのではなく、鳳凰の羽をもいだのだった。

 

「ぐああっ……っ!!」

 

 尊鷹が左脚を引き寄せて抱えた。

 独歩は残心を解いていない。

 

 血だるまのまま、笑みを浮かべて、

 

「まだ、やるかい……?」

 

 いささか挑発気味に、言った。

 尊鷹は、

 

「……いや」

 

 悔しさに歪めた顔で、苦渋の声を吐いた。

 

「わたしの……負けだ」

 

 にこ、と独歩が笑った。

 構えたまま、尊鷹に背を向けず、ようやく間合いの外まで退がった。

 

「尊鷹さんよ」

 

 どかっとその場にあぐらをかいて座り、独歩は苦々しく口を開いた。

 

「あんた、最高だったぜ……」

 

 忌憚のない意見であった。

 ある意味、愚地独歩らしからぬ爽やかな声である。

 

「ヤりたくなったら、いつでも来な」

 

 また、連れてってやるからよ──

 

 尊鷹の眼が、心が、ゆっくりと開いていた。

 ごろんと、尊鷹は仰向けに寝転がった。  

 尊鷹らしからぬ、投げやりで、不真面目な態度であった。

 

「いい気持ちだ……」

 

 天を仰ぎながら、照明の眩しさに目を細めて、その先にあるものを見つめながら、尊鷹は言った。

 

 

 一回戦第十四試合:勝者、愚地独歩ッッ!!!

 

 




次回、一回戦第十五試合:渋川剛気vsビスケット・オリバ開始ィィッッ!!
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