けれどその夢、一点の曇りなし。脱童貞の定義を述べよ   作:とやる

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全乳胸の呼吸!見えた!胸の頂!

 どうもー。プランクトンぼっきでーす……。

 

 股間のサイズの話ではない。クリオネぐらいはあるわ。

 

 命懸けで女の子を助けてもおっぱいすら揉めない負け組の童貞……それが俺。

 涙が出ますよ。

 

 何年もの棒シゴき。

 女とヤれず、何も得ず。

 終いにゃ終いにゃエレクトロ。

 手を握っただけでテント張る。

 実に童貞臭くありゃせんか? 

 

 童貞童貞敗北者! 

 1人でオナニー敗北者! 

 

 今はその自慰すらできねえんだよボッケナスぅ!! 

 

 どんなに辛いときだって、股間をシコればその辛さを忘れることができた。

 オナニーは俺にイき場所くれた。性行為の気持ちよさを教えてくれた。

 俺を救ってくれたオナニーを馬鹿にするんじゃねえ! 

 

 ハァ……ハァ……! 

 許さねえ……! 茅場晶彦……ッ!!! 

 

 まあいいでしょう。

 いや全然良くはないんだけど、無理矢理にでも納得しないと次にいけない。

 

 俺はトライのできる男だ。

 自慰も一度では終わらないように、再度おっぱいチャンスを得るべくアインクラッドを駆けまわったさ。

 

 でもね、そもそもの話ね、SAOって全然女の子いないのよ。

 

 SAOはMMORPGだ。古来よりネトゲを嗜む男の巣窟だったこのジャンルで、女の子はマジの希少性を持っている。

 これは俺の所感だが、プレイヤー人口の偏りは結構エグいことになってると思う。割とマジで9:1ぐらいじゃないか? 

 窮地の女の子を求めて昼も夜もなく駆けずり回っても、人口の問題から窮地に陥ってるのは男、男、男! 

 この前のアスナさんとミトさんは、さながらスマホのセーフサーチをオンにされた中学生男子がウィキペディアで見つけたエロ画像のようなものだったのだ。

 

 実際、それ以前に何人か窮地の男とミスマッチングしてるしね。

 おっぱいを期待して命張ったら男だった時の絶望感よ。でも期待の名残か股間はイキリ立っているんだわ。

 いつだったかな……リトルネペントに襲われてる男2人を助けた時があったんだが、終わった後、片方の男が視線を下に向けてじっとしてんの。

 というか、俺の股間を見てたの。あの時はヒュンっとしたね。玉が。

 よく見たら凄い顔してたし、あれは絶対俺のことを狙っていた。確実にホモだった。冗談じゃない、俺はおっぱいが揉みたいんだ。

 ホモに狙われている恐怖ってやばい。もうマジで速攻逃げたよね。

 でも、エレクトした俺の股間を見られたってことは、俺が同類だと思われている可能性がある。しかし、今更勃起を隠すのは不可能。だから、恐怖でガチビビりしながら、誤解しないように俺は言った。

 

『追い詰められた時に見えるのは、追い詰められた姿だ』

 

 追い詰められ死に晒された生存本能は、子孫を残す可能性を上げるために吐精の準備を行うという。

 つまり、俺のこれは別にホモだからじゃない! 戦闘の興奮とかそういうやつだ! い、一緒にしないでくださいね!!? そっちの趣味ないんで! 

 

 それはさておき、窮地の圧倒的な男率には流石にげんなりもする。もうここまで男ばっかだとアインクラッドがイカ臭くてしょうがない。一瞬自分の部屋かと思ってホームシックになりかけたわ。

 ちなみにほぼ寝てないので朝勃ちもない。いいぞ、このままおとなしくしておいてくれ……! SAOでお前は存在感を出すな……!! 

 

 ……まあ、それでも全く女の子がいないわけではないので、始まりの街に行けば女性プレイヤーを目にすることはある。

 

 というわけでおっぱいを揉みにきました始まりの街。

 しかし空気が死んでいた。俺の朕もシュンとしている。

 まあ、だろうなとは考えてたけどさ。

 

 デスゲーム化しているSAOで、本当の意味での命の危険を犯してまでゲームクリアに踏み出した人は、かなり少ない。

 日夜アインクラッドを駆け回ってる俺の印象だが、そう外れていると言うことはないだろう。

 なら、大部分のゲームクリアに踏み出さなかった人たちはどうしているかというと……始まりの街に引きこもってんのね。

 

 そこには死への恐怖、未来への不安、そして現状の絶望が泥のように重く沈澱していた。

 当然、びっちな女の子がおっぱいブルンブルンさせて練り歩く気配もない。

 人もいないのに店を出し、客の呼び込みをしているNPCの溌剌とした声が不気味に木霊していた。

 

 もう空気が重いのなんの。おっぱいを揉みに来ました! なんてとても言える雰囲気ではなかった。

 しかも、宿に引き篭もるためにもコルが必要だから、コルがつきたプレイヤーからホームレスを余儀なくされる。

 始まりの街に引きこもってるってことは、一歩でも死の危険がある圏外に出ることを恐れたってことだ。フィールドでモンスターを狩って稼ぐなんてできないし、かといって始まりの街でコルを稼ごうと思っても、雀の涙ほどもない。

 

 死への恐怖、明日の不安、現状への鬱憤。

 極度のストレスに晒された人間の精神状態がどれほど脆いか、俺はよく知っている。

 裏路地の方に目を向ければ、金のない人間が、金のない自分より弱い人間に恐喝をしていた。

 まだ爆発していないだけの、いつか爆ぜる爆弾。

 始まりの街はそういう状況だった。

 

 ふざけんなよ! と思ったね。

 SAOの女性プレイヤーの大半がいる始まりの街がこんな空気なら、女の子がずっと震えて引きこもっていたら、いつまで経っても俺がおっぱいを揉めないじゃないか! 

 母数は多い方がいいに決まっている。ただでさえ女性プレイヤーが少ないんだ。よこせよ! 俺に! 出会いの場を!! 

 

 それに、こんな恐慌状態から犯罪行為を行う人たちも見てられなかった。

 犯罪はだめだよ、犯罪は。牢獄入っちゃうよ。

 

 そんでまあ、幸いにも俺には解決手段があった。

 人間、いつの時代も金に余裕がなければ心にも余裕がない。

 金が尽きて住む場所も食べるものもないような状況で、まともな精神状態を維持しろといっても無理があるだろう。

 つまり、金がいる。

 そして、俺は金を持っていた。

 

 伊達に女の子とのワンチャンを期待して他人の窮地に飛び込みまくってない。

 SAOの窮地なんてほぼ全てモンスター絡みだ。男ばっかいるせいでモンスターを狩りまくっている俺の財産はちょっとしたものだった。

 俺自身は食ってもないし寝てもないしで、装備のメンテにしか使わない。どうせ必要のないものだったってのもある。

 

 だから、俺はNPCショップで装備以外のアイテムを全てコルに換金して始まりの街に置いてきた。

 流石に全てのプレイヤーに行き渡るほどの量ではないが、オブジェクト化したときにちょっとした山みたいになったから、ある程度はなんとかなると思いたい。

 これで始まりの街の空気が良くなって、雰囲気も明るく開放的に、女の子の胸元も解放されたら万々歳ですね、デュフw

 

 あと、もう一つ。

 

「やるべきことは見えた」

 

 コルを配る、これはその場凌ぎだ。

 始まりの街を覆う絶望を打ち砕き、望む未来を掴むためには……プレイヤーの心を救わないといけない。

 

 今、彼らの心を犯している恐怖は、死だ。

 そして、その恐怖はデスゲームという壁によって生まれている。

 

 だから、その壁を壊す。

 デスゲームでもクリアできると示し、希望を灯さなければならない。

 そうすれば、心に救う恐怖も和らいで、やがて各々がこの世界での生き方を見つけていくだろう。

 

 そして、プレイヤーが活動的になれば女の子との遭遇率も上がっておっぱいを揉める!! 

 完璧だ……! これでノーベルパイオツ賞は俺のモンだぜ! 

 

 詰まるところ、俺が俺の欲望のために早急にやらなければならないことが……! 

 

「──フロアボスを、斬る」

 

 悪いな、おっぱいのためにお前には死んでもらう。

 

 

 

 

 ほら、お金いっぱい使ったあとってなんか気分がハイになるじゃん。

 全能感っていうのかな……自分が最強になったような感覚があるんだよね。

 それに、おっぱいを揉みしだく構想を練ってたら……なんか……止まれなくなった。

 フロアボスを倒し、アインクラッド解放の旗をぶち上げた英雄、俺! 

 英雄に走り寄る美女……! 彼女は赤面しながらも嫋やかに己の胸元をはだけさせて言うのです。「私のおっぱい……英雄様なら好きにしてもいいわ。いいえ、めちゃくちゃにされたいの!」デュフ、デュフフ! 

 

 こうしちゃいられねえ! 英雄となって女の子のおっぱいを揉むのは俺の権利だ! 誰にも渡さねえ!! 

 先走りには定評があります。シコっ! 

 

 もう興奮で目がギンギンになっていた。もちろん股間もギンギンだ。

 かつてない速度で迷宮区を邁進して、マッピングはしていたボス部屋に……あれ。え。嘘、なんか扉が開いてるんですけど? 

 

 え? もしかしてフロアボス攻略戦してる? 俺それ知らないんだけどぉ!! 

 

 焦って中を確認すれば、ラストゲージまで削れた瀕死のフロアボスへ、攻撃を仕掛ける、青い髪をしたイケメンが目に映った。

 

 青い髪の……? 

 イケメン……? 

 そんなの100%ヤリチンじゃねえか……!! 

 

 ヤリチンが欲張ってんじゃねえ! お前らは英雄の称号なんかなくてもおっぱい揉めるだろう!! 

 俺みたいな童貞はなぁ! 外付けのブースト要素がないと無理なんだよ! なんのために命懸けてると思ってんだ! 

 お前らはいつもそうだ! そうやっていつも童貞をおちょくりやがる! 

 クソが! 許せねえ……! そうやってお前らにばかりいつもいつもおっぱいを揉まれてばかりだと思うなよ……! 

 ヤリチンばっかり女の子と──

 

「ヤらせるかぁぁあああッッッ!!」

 

 英雄となっておっぱいをこの手に掴むのは俺だ! そこをどけぇ!! 

 

 在らん限りの力を持って、俺は大地を蹴り上げた! 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ダメだッ!!! 全力で後ろに跳べ、ディアベル!!」

 

 ミトの近くで、パーティーを組んだ少年、キリトが叫ぶ声が聞こえた。

 

「あれは……野太刀……!? 曲刀じゃない!?」

 

 キリト共にフロアボスの取り巻きと戦っていた少年、コペルが悲鳴のように叫んだ。

 

「──ぁ」

 

 ソードスキルの赤い燐光を放つボスにたった独りで駆けていくディアベルの青い背中を見たアスナが、乾いた吐息を漏らした。

 

 ──あの人は、死んだ。

 

 ミトはそう確信した。

 

 走れば、間に合うだろう。

 ボスとディアベルの間に割って入ることができる。他のプレイヤーはわからないが、自分のレベルとAGIならそれができるとミトは確信している。

 

 けれど、それは自ら死にに……それも、犬死にをしに行くのと同義だ。

 ボスが奥の手として秘匿していた野太刀による、ソードスキル。

 あの構えはカタナ専用ソードスキル、重範囲攻撃技《旋車》で間違いない。

 プレイヤーが使用するそれとは訳が違う。

 モロにその一撃をくらえば、相対する相手を確殺する破壊力を秘めた、正しく絶殺の2連撃だ。

 

 ボスが使うソードスキルを知らなくても、ボスが発する“死“の気配を感じ取ったプレイヤーたちが足を竦ませていた。

 無理もない。

 意志を持ったトラックがディアベルを轢きにくる、さあ助けろ。と言われて、一体誰が動けようか。

 まとめて轢かれて、死ぬだけなのだから。

 

「ぁ、ぅ」

 

 ミトも、動けない。

 

 リトルネペントの時とは違う、必殺を携えた強敵が殺しにくるという恐怖が、生物としてミトを震えさせる。

 

 その瞬間にも、ボスは振り上げたカタナをディアベルに叩きつけようとしている。

 くらえばHPを削り斬るほどの……人を殺してしまう、それを。

 

 ミトの中を巡る記憶があった。

 

 ミトはディアベルのことをよくは知らないが、少なくともディアベルに対して悪感情を抱いていたわけではない。

 

 ボス部屋までの道中、キリトが言っていたことを思い出した。

 

『あの日、βテスターの多くは他のプレイヤーを見捨てた。自分が生き残ることを優先して、リソースの独占に走ったんだ。……俺も、そうだ』

 

『僕も、だよ。いいや、僕はもっと酷い。自分が生き残ることしか考えてなくて……挙げ句の果てには、故意にリトルネペントの実を割って、キリトを殺そうとさえしてしまった。言い訳もできない。僕は最低の人間だ。……因果応報だったんだと思う。結局、僕はリトルネペントの群れを捌ききれなくて、死にそうになった。……そして、彼がきた』

 

『リトルネペントの群れの中心に躊躇いなく現れて、そいつは無言で剣を構えた。まるで、そうすることが当たり前のことだとばかりに。実際、あいつの中ではそれが当たり前だったんだ。“人を助ける“。あいつは、デスゲーム化した地獄にいても、大切なことを見失なっていなかった。……俺とは違ってな』

 

『彼はすべてのリトルネペントを倒した後、項垂れる僕にこう言ったんだ。“追い詰められた状態で見えるのは、追い詰められた姿だ“と。……少しだけ、心が救われたような気持ちになった。そして、後悔した。僕は、なんということをしてしまったんだって』

 

『……いいさ。俺は気にしてない。コペルの気持ちだってわかってる。……ああいや、何が言いたいかというと、そうだな……ディアベルを見て、あいつに似ていると思ったんだ。ディアベルも、他のプレイヤーを見捨てずに、率いて、鼓舞して、このゲームをクリアしようとしている。強くなるだけなら、この世界で死なないようにするだけなら、自分1人でスタートダッシュを決める方がずっと効率がよかったのに、だ。俺たちのようなβテスターが出来なかったことを、ディアベルはやってるんだと思う。……凄いと思うよ』

 

 それは、ミトも出来なかったことだ。

 だから、ミトは心の片隅でディアベルのことを認めていた。

 ……あの日、ミトはアスナとそれ以外を明確に分けた。

 それだけではなく、自身とアスナというラベリングもしてしまったから。

 

 ミトが決定的に自分を許せなくなってしまう、最悪の最悪が起こってしまう。

 そんな時に、彼は現れた。

 

 誰も死なせずにゲームをクリアすると、拳を握った男が。

 

 ミトとアスナの窮地を救った後、彼はすぐに去っていった。

 お礼すら、受け取らなかったのだ。きっと、また別の人を助けに言ったのだ。感謝や賛辞よりも、彼は1人でも多くの命を助けることを選んだ。

 モンスターへ立ち向かう恐怖、命を繋いだ安堵を押し殺して、それでも抑えきれなくて、そんな顔を見られたくなかったのだろう。彼はずっと俯いて顔を隠していた。

 そんな彼に救われた自分には、一体どれだけの価値があって、何ができるだろう。

 ミトにしか答えられない問いが、今、目の前にある。

 

「──もし、彼がここにいたなら」

 

 ミトの中を記憶が駆け巡る。

 

 ボス攻略会議にはなかった、彼の背中。

 怖気付いた、とは一瞬も考えなかった。きっと、彼は今もどこかで誰かを助けている。

 そんな彼が、もし、ここにいたのなら。

 そんなの、考えるまでもない。

 

「きっと、こうするッ!!」

 

 強く、強く己の武器を握りしめて、大地を蹴って駆け出した。

 

「え、ミト!?」

 

 鍛え上げたAGIによる疾走がアスナの声を一瞬で振り切った。

 

 ミトのビルドはAGI寄りのアタッカー。当然軽装備だ。ボスの攻撃を受け止めるようなタンクの仕事はできない。

 ボスの凶刃から、ディアベルを守ることはできない。

 

「でも、一撃なら──ッ!」

 

 菫色の燐光が軌跡を描く。

 発動したミトのソードスキルと、遂に始動した、ボスの絶殺の2連撃が激突した。

 

「──ぉ、も」

 

 拮抗すらしない。

 ディアベルとボスの間に割って入るという窮屈な姿勢から無理やり発動させたソードスキルは、あっけなく弾かれ、そのままミトごとディアベルを切り裂いた。

 

 吹き飛ぶ体。

 消し飛ぶ寸前で止まった、赤いHP。

 揺れる頭に、硬直で止まる手足。

 

 そして、震える殺意を叩きつけ絶死の2撃目を放とうとするボス。

 

「君は──く、うおおおおおッ!!」

 

 ミトが盾になったことで、ダメージは負ったものの硬直を免れたディアベルが立ち上がり、ソードスキルのモーションに入ろうとした。

 けれど、間に合わない。

 ボスのカタナが2人の命を刈り取るほうが遥かに早い。

 

 ここに盤面は完成した。

 最初の確信の通り、ミトの行いは犬死にでしかなかった。

 

 けれど。

 

 ミトは、穏やかな気持ちで自身の命を斬るカタナを見ていた。

 

「(どうしてだろう……。怖いのに、後悔だってしてるのに、そんなことないって分かってるのに──)」

 

 理由は、ただ一つ。

 

「──あの人が来てくれるって、私、信じちゃってる」

 

 刹那、男の雄叫びがフロアを貫いた。

 

「殺らせるかぁぁあああッッッ!!!」

 

 高速で振るわれた鉄と鉄が火花を散らし、衝撃が空気を叩く。

 あまりの威力に目を瞑ったミトが目を開けると、そこには記憶の中の、あの背中があった。

 

「俺の目の前で、これ以上は見過ごせない」

 

 振り切った両手剣を軽々と動かし、切っ先をボスに突きつける。

 ミトから男の表情は見えない。

 けれど、その背中が、男の纏う“必ず成し遂げる“という覇気が、ミトに安心感を与えていた。

 そうだ。

 彼の近くで、誰かが死ぬことはない。他ならない、彼がそれを許さないのだから。

 

「……ぁ、キリト! あの人だ!!」

 

「──ヘッ、遅いんだよ」

 

 もう大丈夫。

 男がここにいる。たったそれだけで、ミトだけでなく周囲のプレイヤーさえもそう確信した。

 

 

 

 

 こうして、乱入した男の存在によって士気がかつてない以上に高まったボス攻略は、プレイヤーたちの勝利に終わった。

 最後、ボスのHPを削り切ったのは男ではなく同時に攻撃を放ったキリトだったが……。

 

 自分が倒したと勘違いした男は、引き留めようとする攻略組には目もくれず、迷宮の外へと走っていった。

 

「ど、どうして!?」

 

「待ってくれよ!? 俺、アンタに助けてもらったんだ! せめて礼だけでもさせてくれねえか!?」

 

「……行かせてあげて。きっと、それが一番彼が望むことよ」

 

「おまえさんは……?」

 

「あなたと同じ、彼に助けられたプレイヤー。……あなた達も、感じてるはずよ。彼は、このデスゲームで人が死ぬことを許さない。だから、愚直に誰かを助けようとしてるの。……死への恐怖を押し殺してね。今も、助けを求める誰かを助けに行ったはず。そんな決意をした彼を、私たちが止められるはずがないわよ」

 

「なんて……男だ……! 俺は、感動した! 魂に響いちまった! あいつこそ真の英雄だ……! 俺は、あいつのために何かしてやりてえ……そうだ! 口伝を広めよう! 自身のことは顧みない、滅私奉公の優しい男の物語を……! それが俺にできる恩返しだ!」

 

 熱い涙を流して語る男に看過されたのか、周りのプレイヤーもまた涙を流していた。

 ミトも少しだけウルウルした。

 

 ちなみに。

 

「俺が倒した! 俺が倒したよなあれ!? ひゃっふう!! 俺は英雄! SAOの解放者! おっぱい揉めるぞぉぉぉおおお!!! 早く始まりの街に凱旋しなきゃ!!!!」

 

 ボス部屋から離れたところで叫んだので、男の声が聞こえた人は誰もいなかったとか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 コンコン、と扉をノックする音が室内に響いた。

 

「はい、どうぞ」

 

 誰だろう、と首を傾げつつ、少女──朝田詩乃は返事を返す。

 スライド式のドアが軋む音がして、間を置かずに入ってきたのは、初老の男。

 彼は、医者だった。

 

「やあ、詩乃くん。こんにちは」

 

「こんにちは、先生。……私がいることを、知ってたんですか?」

 

「知ってたわけじゃない。ただ、居るのだろうと思った。……あれから、君は毎日こうやって見舞いに足を運んでるから。こんなに可愛らしい妹さんに大事にされて、彼は幸せ者だ」

 

 先生の目線が、詩乃から彼女の隣のベッドに映る。

 そこには、男が寝ていた。

 その頭には、ナーヴギアを被っていた。

 

「……幸せなんかじゃないです」

 

 俯いた詩乃が吐き捨てるように言った。

 

「私が……私がナーヴギアを兄さんにプレゼントしたいなんか言ったから……。私のせいで……私のせいで兄さんは今……ッ!」

 

 握りしめた手の爪が、皮膚に痛々しく食い込む。

 少女の胸の中に巣食う後悔がどれほど大きいのか、先生に計る術はない。

 それは先生の想像でしかないからだ。

 けれど、彼女の心の痛みを思うことは出来た。

 

「思い詰めたらいけない。SAOが……ゲームがこうなるなど、誰にもわからなかったことだ。ナーヴギアを渡した時、彼はとても喜んだのだろう? その暖かな記憶を、1人の狂人の行いの結果で捻じ曲げたら、彼も浮かばれないと私は思うよ」

 

 震える詩乃の小さな肩に乗っている後悔という名の重荷を、少しでも軽くできればと、先生は言葉を選ぶ。

 

「彼がここに運び込まれた時に、少しだけ彼の身の上を聞いたけどね。……話を聞けば聞くほど、とても見上げた若者じゃないか。早くに父親を亡くして、精神的に弱った母親を支えながら懸命に家の中のことをこなして。……例の事件の後、心身を崩した母親に代わって、高校を中退して働き始めたと聞いたよ。……詩乃くん。彼は、ナーヴギアを渡した君のことを、恨むような人なのかい?」

 

「……違います……っ」

 

「うん、そうだと私も思う。だから、もう泣かないでおくれ。君が悔いてばかりだと、彼も浮かばれないさ。今は、ただ、彼が無事に帰ってくることを信じて待とう。……口惜しいけど、私たちにできることはそれだけなんだ」

 

 先生の声には、無力に起因する悔しさが滲んでいた。

 

 話を聞いた時から、強く思っている。

 この若者を死なせたくないと。

 この家族思いで優しい兄を、彼をとても慕っている妹から奪わないでやってくれと。

 

 けれど、ナーヴギアに囚われた彼を解放する目処は未だなく。

 政府の必死の解析も進展はなく、日び募る焦りに憔悴する毎日だった。

 絶食で人が生命を維持できる期間には限りがある。

 それまでに解放されることを願うことしかできない己の未熟さが、やるせなかった。

 

「……君も、早く帰ってきてくれよ。本当の意味で詩乃くんの涙を止められるのは、兄である君だけなんだ」

 

 祈るように伝えて、病室を退室しようとした先生の白衣の裾を、詩乃が掴んだ。

 

「詩乃くん……?」

 

「とても大切な、兄なんです」

 

 涙で震えている声だった。

 

「小さい頃から、お母さんに代わって私を育ててくれた兄なんです。自分も遊びたかったはずなのに、学校が終わったらまっすぐ家に帰ってきて、私のご飯を作ってくれてた兄なんです。そのせいで、友達も出来てなかったみたいで、それでも、泣き言も不安も一回も言わなくてっ、ずっとニコニコしててっ! 時間がない中、お金に余裕がないからって働こうとしてた兄を説得して、でも、あんなに頑張って勉強して入った高校も私のせいで辞めちゃって!! お母さんの治療費とか、私の学費とか、お金が必要だからってずっとずっと働いてて、それでも私は兄さんが弱音を言ってるところなんて見たことなくて……っ! 少しは、自分の幸せも、考えて欲しくて……っ!」

 

 一気に、捲し立てるように言った詩乃の言葉は要領を得ない。

 けれど、詩乃がどれほど兄のことを想っているのかは、身を切るように伝わってくる、そんな叫びだ。

 

「だから、だから……っ! 自分の幸せに不器用で、家族のことばっかりでダメダメな兄を……死なせないでください……っ!」

 

 そんな詩乃の叫びに、先生は床に膝をつき、彼女の手をとって答えた。

 

「……ああ、約束する。ナーヴギア以外の死因で、彼を死なせることは絶対にない」

 

 先生が退出した後の病室で、詩乃は兄のベッドの隣の椅子に腰掛けて、その顔をのぞいた。

 年の割に深い皺が刻まれているのは、兄の努力の証だろうか。

 なんにせよ、見慣れた兄の顔だ。

 兄の顔で、兄の声で、名前を呼ばれることが詩乃は嫌いではない。

 

「早く帰ってきてよ、兄さん」

 

 手を握って、つぶやく。

 気持ちはきっと伝わったような気がした。

 

 その後、体を拭こうと布団を上げた時、詩乃は兄の兄がビッグダディになっていることを発見した。

 

「多分そっちで変なこと考えてるんだろうけど、そういうところは本当にどうかと思う」

 

 さっきまで泣いていたとは思えない冷たい声。けれど、どこか家族の絆を感じる呆れ声だった。




SAO杯、楽しかったです。(遅刻)

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