唇が触れ合う。ただそれだけの行為に、なぜ人は意味を求めるのだろうか。
「最悪……っ!」
私も、そして私の想い人もご多分に漏れずそうであったのは、全くもって不幸であったとしか言いようがない事実だ。
「ああカフェ……すまないね。少し、脚から力が抜けてしまった。」
声の震えを抑え、必死に平静を取り繕う。
「……いえ……これは単なる"事故"ですから……」
何事でもなさそうに振る舞う彼女。だがしかし、彼女もまた平静では無いのが見て取れる。先程までは熟れた桃のようだった顔色も、今は少し血の気が引いて白く、彼女本来の色を映し出している。沈黙に耐えきれなくなったのだろう。彼女は、この旧理科室を足早に去っていった。
「はぁ……」
私、アグネスタキオンは曇っていた。無論その原因は、先の『最悪』発言である。彼女―マンハッタンカフェ―とは、それなりに良好な関係を築けていると自認していた。それは友人関係のみに非ず、実験台と実験者、あるいは一人のウマ娘とウマ娘としての関係も含めてのことだ。……が、端から、私が彼女に想われているなどとは思ってはいない。とはいえ、想い人に事故とはいえキスして、最悪と言われればそれなりに心が傷つくのが道理だ。つまりはそういうことだった。
それからの私の行動原理は明確だった。
「せめてこれより嫌われるようなことがないようにしよう」
……つまりは、自己の防御だ。相手の事を思う感情などではなく、自らが傷つかないための本能。こんなところに自分本位さが出るのだなと、我ながらおかしく思った。手始めに、取り違えてしまったことのあるマグカップを廃棄した。今までの過ちを、全て消してしまえるように……無かったことにするのだ。きっと、これまでの行い全てが、彼女には嫌悪するべきものであったのだろう。そしてそれが、ひときわ大きなきっかけによって表に出た。なんとも笑える話だ。私が恋心を隠していた時、彼女は嫌悪を隠していたのだから。私が心を弾ませるとき、彼女の心は深く沈むのならば、それはきっととても悲しくて、愚かで、哀れで、そして無意味な恋なのであろう。
また、私はなるべく彼女と二人きりにならないようにした。……何か、この関係を全て壊してしまう言葉を聞くのが怖かったから。話しかけられても、まくし立ててはぐらかしてそしてまた逃げる。そうするしかないのだ。そうすることで、表面上は変わりなく続いていた時間。それは、同じようにたった一つのきっかけで崩れ去った。
私、マンハッタンカフェは悩んでいた。自ら事故と割り切ったはずの現象に、何か大きな喪失を受けた気がするのだ。私の好きな人で、きっと私を好きなはずの人とのキスという事象に。勿論私だって、好きな人とキスできれば嬉しい。大体の人は同じだと信じている。喪失など、どこにもあるはずがなかった。だ、しかし。それならばあの時、「最悪」と口に出してしまった理由は、一体何なのだろう。苦悩の末に、私はソレをこう考えた。
「あのような行為は、告白して、関係を深めて、互いに愛を確かめ合う過程の上で。思い出に残るよう、忘れられないように成されるべきものなのだ。そして、その過程を飛ばして突然に行われてしまったことこそが、その理由だ。」この思考は、大いに理にかなっているように思えた。ならば、これを解消するにはどうする?簡単な話だ。告白して、愛を語り合って、そしてもう一度忘れられないようなくちづけを。そう思った私の行動は迅速だった……のだが。彼女が、いつもと違うのだ。最初は、彼女のマグカップを廃棄したことだった。袋の中に入っているカップはどれも見た事があるものばかりで、ひとつの共通点を持っていた。私が間違えて使ってしまったものであるということだ。そして、彼女と二人きりになることが無くなった。あの旧理科室での心地よい時間も、私の部屋へと押しかけてくることも、全て。私が思いを伝える暇など、どこにもなかった。それで、漸く私は理解した。私は、彼女に好かれてなどいなかったことを。……だけど。それでも、今この関係を続けていきたい私は、無理に何も言うことは出来なかった。そんなぬるま湯の関係が、終わる。
『アグネスタキオン様
今日、午後5時にトレセン学園本舎裏にてお待ちしております』
「タキオンさん……それ……」
「ん……ああ……カフェか。なんの用事だろうねえ?もしや、愛の告白……なんてね」
彼女は動じない。なぜなら、彼女の最も大切なものは、ソレではないから。そして、私も動じない……訳では無い。心は揺れているが、顔に出すことが出来ないだけだ。顔に出してしまえば、何かが終わってしまうから。
その日の授業を終えた後、私は校舎裏へと向かった。随分と自暴自棄になっていると、自らを嘲笑う。まあ、月経杯の時もそんなようなものではあったが、それはそれとして。できるだけ彼女と関わらないように、この告白を受けてしまっても良いかもしれない。そんなことを思うほどに、私の心は荒れていた。向かう道のり。五分ほどのそこに、立っていたウマ娘。
「アグネスタキオンさん……私と、付き合ってください!」
予想通りの言葉。いいよなどと言ってしまえば、私のこの無意味は終わりにできるのだろうか?それならばと、私の中の弱虫が囁く。
「さっさと終わらせてしまえ」
「辛い思いなど懲り懲りだろう?」
でも。この辛さも証であるならば、恋の証であるならば。いつの日か、幸せに思えるだろうと思ってしまって。
「すまないね」
「……薄々、わかってたんです。告白したって、意味ないだろうなって。だから、私は大丈夫です。本当に、ありがとうございました。マンハッタンカフェさんと、仲良くしてくださいね!」
そんなことを言って去っていく後輩。私が振り向くとそこには、息を切らした彼女……マンハッタンカフェが立っていた。
「……大事なことを、伝えなきゃいけないんです。だから、聞いてください」
視界がどんどん狭くなる。これが、完全な絶望、というやつなのだろう。今ここで私は引導を渡されるのだ。……そんなのは、嫌だ!逃げ出した私は、しかし見えない壁に阻まれる。
「ありがとう……おともだち。」
そして、今明かされるその言葉は。
「私は、あなたのことが好きです。嫌われてもいいから、それだけはどうにか伝えたかった」
……え?
「ただ、それだけです。あなたが私を好きじゃないのはわかっています。なにか答えて欲しいなんて言いません。……じゃあ、それでは。」
去ろうとする彼女を急いで引き留める。
「カフェ、それは本当かい!?」
こんなところで嘘をつくはずは無いのに、自らの耳を疑ってしまう。ならば、それならば。私の言うべき言葉は……!
「カフェ、私も君が好きだ!」
「え……じゃあ、カップを捨てたのは?ずっと私に会おうとしなかったのは、一体なんだったんですか!?」
「だって、君に嫌われたんじゃないかと思って……じゃあ、君の方こそ、『最悪』ってなんだったんだい!?」
「それは……もっと、なんというか、告白とか……好きだって教え合いながら、したかったんですよ!」
「ええ〜!?」
「なら、私が離れようとしていたのは……」
「私が諦めようとしていたのは……」
二人の声が合わさる。
「全部、勘違い!?」
金くれ
単位もくれ