私は…此処で死ぬのか…
思えば、殺されて当然鋸とをしてきた。無闇に人間を家畜のように扱い、何の尊厳も持たず殺していた。
この、私を食べようとしている「蟋蟀」の言うとおりだった。
私は、自分が喰種としてではなく弱い生き物として殺されるという段階になってから、初めて自分の犯した過ちに気が付いたのだから。
私は、食べる事以外ででも、ただその個人に腹が立ったと言うだけで、人間を殺していた。
命の価値を、見失ってしまっていた。
父親に先立たれ、弟と二人、貧しく汚く、このずさんで歪んだ世界を歩んできた、はずだった。
父親が死んでしまったと分かったとき、私はどんなに悲しみ、そしてその悲しみを持ってなお、生きていかなければならなかったか。
死とは、軽々しく恣意的に起こしてはならなかったのだ。
自身が生きるために、仕方なく命を食べるのならまだわかる。
それならばこの「蟋蟀」にも、罵声を浴びせられたときも私は言い返せていた。
どこかで、私は人間に対して、自分よりも下に見て居たのかもしれない。
私と同じ様に喋り、意志を通わせることの出来る存在を、見下していたのかもしれない。
私の元から居なくなった弟なら、こんな時、なんと言うだろう。
一緒になってキザ野郎を倒した時のように、自分の意志を曲げず、人間を殺し続けるのだろうか。
さっき昏倒させた人間の男もそうだった、私はお腹が空いていたのにも関わらず、わざと足を遅くし、相手が必死で逃げる姿を追いかけることを……楽しんでいた。
「蟋蟀」、13区に止まらず「美食家」や「大食い」とならんで東京23区全体に響き渡る大物に出会ってしまったのも、そんな私に神様が罰を与えたからなのかもしれない。
「蟋蟀」に自分の身体を食べられていく感覚は、とてもおぞましく、死への恐怖が頭をかすめた。
空腹に羽赫の使いすぎで、私の身体はもう指の一本たりとも動かす事が出来なくなっている。
それに加えて、ほんの少し残っていた力でさえ、切られ続ける身体を再生させるために使うしかない。
切られては治り、切られては治りの繰り返し、私の赫胞は何度も何度も肉を再生させていた所為で、段々と動きが鈍くなってきていた。
それに伴い、私の頭も靄が掛かったように急に視界がぼやけ、痛みがあまり響かなくなってくる。
背中にあって赫子を作る場所の赫胞は、喰種にとっての心臓と同じ。
そこの機能が止まってしまえば、喰種は身体の全身の機能を保つことが出来なくなってしまう…
死が近づいていた…
痛かった、だけどそれ以上に、今の自分が信じられなくなってしまったのだ。
楽しんで人間を殺していく自分は、もう喰種でも生き物でも無いのではないのかと…
「蟋蟀」が言うように、人間を面白半分で死へと追いやってきた私は、悪なのだと絶望に沈んでしまったのだ。
だから「蟋蟀」がそのおどろおどろしい赫子を私の頭に向けたとき、私は「ああ、やっと殺してもらえる」と思ってしまった。
この痛みから、訳の分からない喰種のしがらみから解き放ってくれる、と。
眼を閉じ、静かに自分の死を受け入れようとした時、私の鼻に漂ってきたのは、忘れもしないあの香ばしいコーヒーの香りだった。
ほろ苦さとほのかな旨味が出たあのコーヒーの匂い、その匂いが漂ってきたという事は、つまり…
私は幻覚でも見ているのだろうか、「蟋蟀」の背に黒い帽子のあの人の姿を見た。
死ぬ寸前に見るという走馬灯?
だけど…その人影は幻想とは思えないほど暖かく、優しい笑みを浮かべていたのだった…
気が付くと私はその人の名前を呼んでしまっていた。
私に喰種としてではなく、学校へ通わしてくれ、人間として生きる事が出来るように計らってくれた恩人。
私がアルバイトしている喫茶店の店主の名を…
「芳村さん…」
呼んでしまってから、対応は早かった「蟋蟀」は即座に私への攻撃をとり止め、先手必勝とばかりに赫子をぶつけたのだ。
驚いた、あの「蟋蟀」の赫子を威力がではない…その太く大きい赫子の柔軟性に対して、私は驚愕した。
私は自分が食らった技の威力から、あの赫子が鱗赫だと思っていた。
いや、確かにあの蟋蟀の赫子は間違いなく鱗赫なのだろう、だが鱗赫に彼処までの伸縮性はあっただろうか…
まるで羽赫のように軽やかに蟋蟀は、赫子の長さを瞬時に変えて、真後ろの敵に向かって伸ばしたのだ。
矢張り…レベルが違った。
私とは、磨き上げられた自力が違う。人間を殺してきた私と、喰種のみを殺してきた蟋蟀では…戦闘経験値が違いすぎている。
アレは多分、弟と共に戦ったとしても、勝機を見つけられないほどの、正真正銘の化け物だ。
キザ野郎なんて相手にならない…「蟋蟀」はもうSS級を越えているのかもしれない…
蟋蟀の赫子を軽くいなし、何か牽制をしていた芳村さんが、私の側に来てしゃがみこんだ。
芳村さんは、笑っていた。
こんな事を…人が大好きなアナタに反抗して、勝手に喫茶店を飛び出して…
勝手に人を襲って、自業自得に無惨な姿をさらしてしまった私に対して、優しく微笑んでくれたのだ。
よく頑張ったね、もう大丈夫だよ…顔がそう言っているように感じられた。
多分、それほど間違った考えでは無いのだろう。芳村さんが私の口へ、人間の肉を押し込んでくれたからだ。
力無く沈んでいた私も、死ぬことを受け入れていた私も、人間の肉の匂いに身体が反応して、口を動かししっかりと粗食してく。
私の中の赫胞に力が戻っていくのがわかる、活力が戻ってくるにつれて、勝手に頬から大粒の涙が溢れ出してきた…
まだ、私はここまでの醜態をさらしてなお、生きていたかったらしい。
はは…私は何がしたいのだろう?
死にたいと思ったり、生きたいと考えてみたり…本当に…本当に…
感謝しても仕切れないよ、芳村さん…
それから二人の言葉の言い合いが始まり程なくして、蟋蟀の身体が大きく膨れ上がった。
赫胞が一体いくつあるのか、私を倒したときには2本だけだった鱗赫を4本に増やし、それらを順に身体に巻き付け始めたのだ。
ゆっくりとした、動きだった。だけど、私はその光景を見ているだけで、足が震え、歯がガチガチと鳴ってしまう。
「なに…あれ」
赫子を身体にまとわりつかせ、鎧のように変化させる喰種を、私は今まで見たことがない。
赤く鈍い流動が、蟋蟀の黒い服を着た身体にすい付くように張り付き、まるで昆虫のような外骨格を出現させる。
腕に外側へと生えた無数のトゲ、蟋蟀のマスクに現れた3つの小さな文様…
蟋蟀自身もその姿を制御出来ていないのか、所々鎧に包まれていない部分があるが、それだけでも感じた。
感じずには居られなかった。
何を? 決まっている、恐怖をだ。 アレは、まさに喰種を、私を裁かんと鎌首をもたげる死神だった。
禍々しく、悪魔のような昆虫の外見に息が止まりそうになる。
これが13区の「蟋蟀」の本気…
最早あれが私と同じ喰種なのかさえ、疑わしかった…
あんなものと戦えば、私なんか跡形もなく消し飛ばされていただろう。
それだけに、その異形とも言うべき蟋蟀を前に、驚きこそすれ余裕の笑みを絶やさない芳村さんには感服する。
「ギュ…ギュギュギュギュギュギュギュギュギュギュ!!」
気持ちの悪い虫に似た奇声を発し、蟋蟀は新たな赫子を背中から出現させた。
楕円形で平べったい、一見すると甲赫にも羽赫にも似ている、奇妙な赫子。
だがそれは、どちらとも似つかない、余りにも恐ろしい叫声を叫ぶ。
まさに蟋蟀だった、この「蟋蟀」の意志なのか、それとも自然にそうなってしまったのか。
現れた二枚の奇妙な赫子は、互いに互いを擦り会わせ、黒板を引っかいたときのような、聞くも不快になる音を発生させる。
……頭が揺さぶられる、これは長く聞いていれば、心が負けてしまう。
反抗心を、抵抗しようとする心を丸ごとへし折り、砕いていくかのような音色。
「あ、あれ」
人間の肉を食べ、ある程度回復したはずの私の身体が…
立ち上がろうと足に力を入れた瞬間、私の意志を拒絶したかのように、身体の力が抜けてしまった。
これ…は…蟋蟀の音…をきいた…から?
そのまま私の意識は深い闇の中へと引きずり込まれていったのだった。
・
闘いは、二頭の野獣のぶつかり合い、お互いにSSレートを超えた喰種どうしの、意志のぶつかり合いだった。
人間が大好きな「梟」と「蟋蟀」が、好みを等しくして何故対立しているのか。
理由は喰種に対しての思いにある。
かたや共存を望み、助け合いを語る「梟」、かたや喰種の根絶を望み、人にのみその愛を注ぐ「蟋蟀」。
例えお互いに人が好きであったとしても、その到達点には天と地ほどの明らかな差が出来ていたのだ。
そして、その黒い帽子を被ったもっとも有名で、CCGの精鋭からも勝てないといわしめる喰種「梟」は、自分の助けを必要としている仲間を置いて、無関心を貫けるほど冷たくはなかった。
闇の狩り人「梟」は、背後で気絶してしまった、娘のような存在を見やり覚悟を決める。
「蟋蟀」は下さなければならない相手だと…
そして、この喰種もかつての「黒犬」や「魔猿」のように救ってあげなければならないと…
「梟」は薄い眼を開き、老獪な相貌に鋭い赤き光を宿す。
夜を馳せる猛禽類の瞳が、蟋蟀という今回の餌をじっとりと睨みつけていた。
正に絵は、鳥と虫…本来弱肉強食である鳥に軍配が上がることは必至の組み合わせ。
だが、彼らは鳥でも昆虫でもなく、死肉に群がる悪しき喰種。
その戦いは、まだどちらが勝つのか全くわからないものだった。
しかし、この両者の発する歴戦の気配には、どちらにも負けるなどという諦めは存在していないのだ。
「赫者……いや、半赫者か。
君は今まで、何人の喰種をその手で殺めたんだい?」
その言葉に呼応するようにして、梟の背中、特に肩の辺りが羽毛に包まれたかのように大きく肥大した。
バキバキと身体を変化さえ、梟もまた「蟋蟀」と同じような、黒髪の少女が形容した化け物へと姿を変える。
肩から腕にかけてを何種類もの剛毛のような赫子に被わせ、サーフボードのような巨大な太剣を肩口から、双方の手の先まで伸ばしきる。
顔がマスクをつけていないのに変形し、口を引き結んだ厳ついものへと変貌を遂げた。
右目は真っ赤に輝き、閃光の糸を引かせ、左目の位置には三本の線を引いたかのような文様が浮かび上がる。
その姿はまさに何百、何千の戦いを経験してきたかのような、武士にも見える。
赫者…同族のRc細胞を一定量接種し続けることで、喰種としての肉体に起こる体力の向上と、赫子の変容をさして、そう呼ばれている。
同族を多く喰らい喰らったという、汚く浅ましい証であり、人間にも喰種にも一歩下がった見方をされる、悲しみの権化。
多種多様の異質な変容を遂げていく赫者において、共通点は赫子が自らの肉体を守るように、鎧のように巻き付いてくること。
赫子を覚醒させた者として、悟りを開くなどの意味と皮肉を込めて赫者。
だが、圧倒的な威力と強靭な肉体性能を誇る赫者には、一つだけ致命的とまでいわしめる欠点があった。
「ギュギュギュギュギュギュギュ!!」
それが自我の崩壊である。
変容するRc細胞は、喰種の肉体を新たな進化をもたらす替わりに、喰種としての理性を著しく削り取ってしまうのだ。
その姿は獣…いや凶戦士と呼んだ方が良いだろう。
喰種としての本能を最大限まで高めてしまう狂った形態は、総じて何もかもを吹き飛ばす最悪の災害となる。
「ぎゅええええええええええええええええええええええええうぇっうぇっっうぇえええ!!」
その喰種の本能に身を委ねてしまった幼い蟋蟀が、停滞する闘いに嫌気がさしたのか、勝負を仕掛けた。
コロコロ コロコロ コロコロ
コロコロ コロコロ コロコロ
甲高く、それで居て脳髄を揺さぶられるような音が、狭い路地裏で反響し、より複雑な音階を伴って広がっていく。
「む…!?」
突如として蟋蟀が梟の視界から唐突に姿を消した。
まるで古いテレビの映像を見ているかのように、蟋蟀の姿が揺らぎ、霧のようにその場から消滅してしまったのだ。
逃げられた?いや、あの赫者には明確な殺意があった。
逃げたのならそれでも良いが、自分を油断させ、隙を狙っているのだとすれば気を抜くわけには行かない。
恐らく、赫者特有の向上したスペックで、目にも留まらない速度で動き、自分の背後にでも回ったのだろう。
一瞬でそこまで考えた梟はしかし、一つの間違いを犯してしまう。
今まで戦ってきた闘いの経験が、今このときは梟の蟋蟀に対する、考え方の柔軟性を奪っていた。
この時、自分の視界の変化…敵の不可思議な消滅に対して、もう少し疑いを持っていれば、結果はもう少し違ったものになっていただろう。
一閃。
距離を消してしまったかのように、瞬間移動のごとく梟の眼前に姿を表した蟋蟀は、驚き動きが止まった梟を前に、頭へと回し蹴りを撃ち込んだのだった。
一本の伸ばした鱗赫を地面へ突き刺し、回転するようにもう一撃を後退する梟の胸部に打ち込む。
「ぬ…ぐっ!!」
胸を抑えて負けじと黒い弾丸を背中に生えた羽毛に似た赫子から、無数に射出するも、その頃にはもう蟋蟀は随分と離れた場所へと後退してしまっていた。
羽赫の弾丸に頼った攻撃は、Rc細胞を体内から失わせ著しい体力の消耗を招きかねない。
だが、だからといって梟が近付こうものなら蟋蟀は、お得意のすばしっこい動きで、さながら闘牛を交わすように適切な間合いを維持し続けてしまう。
弾丸は当たらない、接近戦も不可能…だがそれは相手に対しても、近付くことが困難だと言うことを意味している。
相手の赫子はどう見ても鱗赫…羽赫のように細胞そのものを弾丸のように発射することは出来ない。
ならば、詰まるところ相手が攻撃しようと近付いてきたところを、その両腕の強大なブレードで引き裂いてしまうこと…
だが、そう戦略を整えた梟の耳にまたあの音色が聞こえ始めたのだ。
コロコロ コロコロ コロコロ
コロコロ コロコロ コロコロ
ズキリと頭が痛み、その変化と共に蟋蟀の姿が、先ほどと全く同じように消えてしまった。
喰種の聴覚を生かしても、嗅覚を使っても蟋蟀の姿は、場所は掴むことは出来なかった。
気付けば梟はまた、死角から頭部に回し蹴りを喰らわされ、横に弾け飛んでいた…
「これは…なんだ?」
コンクリートの壁に背中から突っ込んだ梟は、蟋蟀の攻撃に対応出来なかった自分に、自分の身体に違和感を覚えていた。
いつ追撃が来ても良いように、両腕のブレードを頭部を被うようにクロスさせて梟は思案する。
赫者とはいえ、まだ生まれたてのヒヨッコに過ぎない蟋蟀。
いくら喰種だけを喰らってきたからと言っても、老獪で聡明な梟が負けるには、まだ技術が足りなさすぎる若輩だ。
頭に受けた蹴りも、胸部に受けた蹴りも、その威力を見れば、普段の梟なら難なくかわす事が出来たはずだった。
言ってしまえば、蟋蟀が最初危惧していた通り、梟に対して蟋蟀の勝機は万が一にも有り得なかった。
それだけ技術において、肉体において力が違いすぎていたのだ。
それが、今…半赫者となった事で、梟に劣る肉体面を補って余りある「何か」の獲得に成功したと見て良い。
拙い攻撃ながらも、あの有馬やCCG特等レベル何人もの相手と多対一で戦った梟を翻弄しているのだ。
これはある意味、異常ともいえた…有り得ない、最悪の意味での奇跡が起こってしまっていた。
路地裏という狭い場所なのも蟋蟀を後押しして、梟の驚異的な攻撃の要であるブレードの使用を著しく制限しているというのも幸運だろう。
梟はブレードを防御に回し、盾とすることは出来ても、力一杯それを振るうことは出来ないのだ。
振るえばブレードはあっさりとコンクリートに突き刺さり、抜くための時間で致命的な隙が生まれてしまう。
恐らくだが、蟋蟀は本能的にそれをわかった上で、梟に接近してきているのだ。
ブレードを最大限に生かせない梟など、少し注意をすれば良いだけだと、考えているのかもしれない。
この状況を突破するには、矢張り蟋蟀の持つ奇妙な技の秘密を暴かなければならない。
視界から完全に消滅し、意識の外から攻撃を当てられ続ければ、やがてタフな梟であっても力尽きる時は来てしまうだろう。
だからと言って、蟋蟀を消える前に先制して襲うことは論外だった。
梟には今、守らなければいけない少女がいる。
梟が彼女の存在を忘れ、特攻すれば確かに勝機は見いだせるかもしれないが、今の状態の少女から目を離すのは危険きわまりない行いでしかない。
蟋蟀は、今赫者として目覚めている…
半赫者とはいえ、暴走状態にある精神状態の蟋蟀…
彼が当初行っていた行為は何だったか?
答えは簡単「共食い」だ。
躊躇の消えた今の蟋蟀の脅威に、少女を晒してしまったら…どうなってしまうかは想像に難くない。
「ふう…」
蹴り飛ばされた頭が痛む、梟は静かに溜め息をついてまた、受け身の姿勢で意識無き少女の前へと立つ。
「まったく、面倒な相手にあたったね…」
久しぶりに…梟は追いつめられていた。 闘いは苛烈を極めた。
攻撃しては姿を消すという、タッチandエスケイプを繰り返し、梟に全く攻撃の隙を与えない蟋蟀は、あの強靭な梟の顔面についにひびを入れることに成功していた。
頭部から斜めにひび割れた梟の面は、喰種の再生能力が遅れ、未だに直る兆候が見られない。
喰種は、人間の使う武器…一般的にはナイフや銃弾などの攻撃を、その硬い皮膚で防いでしまう。
だが、そんな硬い皮膚で被われた喰種であっても、喰種の発生させる赫子による攻撃を受ければ、たちまち肉は断絶されてしまうのだ。
そして、赫子によって切られた傷は、再生しようとするRc細胞に、傷を穿った喰種のRc細胞が反発するのか、再生能力が低下する。
よって梟は自分が攻撃できないまま、悪戯に時間を過ごし、自らの身体に何本もの打撲痕を残していた。
蟋蟀はあくまで赫子を補助として使い、元々の身体能力に赫子をバネにしてブーストをかけることで、高速な軌道を可能にしていた。
そのため、蟋蟀は赫子で戦うという喰種の基本とも言える戦闘スタイルを捨て、近接格闘に近いスタイルを生み出していた。
回し蹴り、蟋蟀の鍛え上げられた脚力を回転を加えることで、威力を増大させ、地面に穿った一本の赫子でしっかりとした軸を保ちつつ打たれる攻撃は、その単語からは及びも付かないほど千差万別だった。
梟が頭を守れば、足へと、ブレードを振り上げればその背後へと、予想も付かない連続攻撃を加えていく。
中には、赫子を最大限に利用し、逆さまの体制下から、斜めに肩に掛けて繰り出された蹴りもあった。
「……っ」
段々と蓄積されていったダメージがついに、梟の足元をぐらつかせる。
そして、その間に生まれたわずかな隙を逃すほど蟋蟀は鈍くはない。
「ギュッ…ゲァァァァァアアアア!!!」
ふらついた足へと、蟋蟀は回転しながら回し蹴りを当て、梟に体制を大きく崩させる。
直ぐに梟は眼前の蟋蟀に向けてブレードを突き刺そうとするが、蟋蟀は器用に身体を捻って、また回転し今度は開いたわき腹へと蹴りを浴びせる。
ボキリと梟から何かが折れる嫌に鈍い音が響いた。
「ぐ…ぬっ」
それは梟のわき腹の下、肋骨の骨が何本か折れた音だった。
何度も何度も連続で攻撃を喰らい、皮膚が弱っていたのだろう。
蟋蟀の射し込むように鋭い足技は、見事に梟に決まり、梟は地面に膝をついてしまう。
もしも、この光景をかのCCG特等の面々が見たならば、驚愕し、そして新たなSSSレートクラスの出現に、苦虫を噛み潰したような顔になっただろう。
それ程までに、蟋蟀は強く…いや、巧くなっていたのだ。
赫子の扱いが、まるで自分の腕のように繊細で細かいのだ。
「ギュッギュッ…!!」
梟を地面に下した蟋蟀は、勝利を確信したかのように、虫のような奇声を高らかに発し、そして…
「が……ぁああ!?」
自分の背中を突き破って、腹へと生えた大きな太剣を見つめ、ドサリと何も喋ることなく地面へと崩れ落ちたのだった。
油断、蟋蟀はこの強靱かつ老獪な化け物に対して、一番してはいけない事をしてしまったのだ。
それが戦闘中での油断、一瞬でも気の張り詰めた空気を乱すことは自殺行為だ。
もっとも、一般的な喰種であればその一瞬ではどうすることも出来なかっただろう。
だが化け物であるところの梟は、それをわざと狙っていた。
攻撃をわざと防御せず、自分が弱ってきていると相手に見せ付け、膝を付き隙を大きく見せる行為。
一見すればそれは起死回生の一手であり、一か八かの賭けだった。
失敗すれば、梟はさらした隙によって逃げることもままならないほどの大怪我を追ってしまう。
肋骨や頭部を負傷してしまっている今、このまま耐え続けてもいずれ負けると判断した梟が出たのは、まるっきり運任せの作戦だったのだ。
だが、そこは老獪な梟。
彼が長い人生経験に裏付けられた知識から出たフェイクは、生まれて間もない暴走する蟋蟀を意図もたやすく騙してのけたのだ。
梟は賭に勝った。
勝利を確信し、動きに余計なものが混じるその瞬間で、梟はとっさに動き、背後からその巨大なブレードを突き刺したのだった。
「が、ぎあ…がば…ぎぎ」
「私が此処まで追い詰められたのは…随分と久しぶりだよ」
梟が無造作に、だが蟋蟀の赫胞を傷つけないように、ゆっくりとその大きなブレードを抜き取った。
真っ赤な血がついたブレードを、一回虚空で降り、血液を振り飛ばしてから、梟は自身を覆う鎧を解いた。
地面に落ちていた黒く丸い帽子をそっと拾い上げて、頭に被ると梟はもう語ることはないとばかりに、背を向け少女を担ぎ上げる。
「な…ぜだ、何故!何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故
」
胴体に開けられたら大穴を直すためにRc細胞が其方の方に多く使われ、身にまとう鎧が崩れ落ちた蟋蟀が、狂ったように梟に向かって叫んだ。
その言葉は、「自分はどうして負けたのか」ではない。
「何故、喰種が僕を助ける!留めを刺さない!
僕はお前を殺そうとした、なら僕はお前に殺されても文句は言えない!
喰種は自分の利害で他人を殺すんだろう!
自分が殺したいから殺す、生きたいから殺す!食べたいから殺す!戦いたいから殺す!
なのに……どうしてお前は僕を殺さない?
殺してくれないんだ…」
少女を背に背負い、静かに路地裏を後にしようとしていた梟は、その訴えかけに立ち止まり、振り向かずにただ応えた。
「喰種は利害で人を殺す、確かにそう言う喰種もいるのだろうね」
「ああ!?」
「…なら私は、君に生きていてほしい、だから生かす。これでは駄目なのかな?」
「な……」
梟の言葉は、蟋蟀が戦ってきた喰種からは聞いたこともないような、まるで人間のような言葉だった。
殺そうとした、憎い喰種相手に情けをかけられたと怒りで頭が煮えくり返りそうだった蟋蟀の感情が、氷でも入れられたように冷やされていった。
「何を…言っている、喰種の戯れ言はもう聞き飽きた!」
違う、これは戯れ言ではない、この梟がそんな理由もなく嘘をつくとは思えなかった。
出会って間もない関係だが、蟋蟀はこの梟の事を噂だけだが知っていたし、意識無き戦いの中でも、彼の紳士さに気が付いていた。
ならば、梟の紡いだ言葉は例え綺麗事だろうと、彼の本心なのだろう。喰種が喰種を倒し、そして生かす…そんなことを言ってのける梟に蟋蟀は何も言えなかった。
いや、言いたいことは沢山あった、だが…口が開かなくなってしまっていた。
長時間における戦闘の所為で、初めて赫者となった蟋蟀の身体は、もう限界だった…
「君のその喰種でありながら、人間の側に立つ姿勢…私は尊重したい。
君は、これから沢山の苦難に直面していくだろう。
君の、君のその気持ちは喰種には理解できないものなのだろう。
そして…人間にもね。
恨みに任せて喰種を殺める君の所行は、私から見れば、君の言う喰種と変わらないよ」
「くっ…」
理解はしていた、梟に諭されずとも「蟋蟀」が今まで行ってきた行為は、共食い。
喰種を食べ尽くすという理念を掲げると言っても、所詮は一匹の喰種に過ぎない。その蟋蟀がいくら喰種を食べたとしても、人の眼には恐怖しか写らないだろうと言うことは…そしてその残虐行為はまた僕の殺してきていた喰種に通ずるということも、わかっていた。
拳を握り締め俯く蟋蟀に、梟はまた言葉を投げかける。
それは蟋蟀の心に強く…とても強く響くものだった。
「だけどね、私は人間と喰種の共存が、本当に出来れば良いと考えているんだ。
君はまだ若い…若者は大いに悩みなさい。
悩んで、悩んで…そして自分の結論を導き出しなさい。
君とは考えが違うけれど、私もまた人を愛している喰種として覚えて置いて欲しい…」
「あ…」
自分の持つ考えを、理解してくれた、知った上で自分も人間が食糧としてではなく愛していると言ってくれた。今まで孤独に生きてきた蟋蟀にとって、思想は異なるがそれを尊重し、理解してくれた喰種は後にも先にも彼だけだろう。
蟋蟀はほんの少し暖かい気持ちになり、去りゆく梟を見ながら涙を流したのだった。
2015/4/1 合併修正