東京喰種[滅]   作:スマート

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第三章「喰事」
#015「淹方」


 芳村さんの営む喫茶店へ働くことを決めてから数日、着々とその下準備は進み、ウエイターの制服やエプロン等は予備があったのか、芳村さんが2階にある倉庫から出してきてくれた。

制服があるからと言って僕はまだまともにコーヒーも入れたことが無いので、店に出るよりもまず閉店の後の時間を利用して、美味しいコーヒーの淹れ方の練習をしていたのだった。

今日は明日が休日という事もあって、少女…ああいや董香が僕に付きっ切りでコーヒーの淹れ方、タイミングについて教えてくれていたのだった。

「えっと、まずはこの紙の袋に炒ったコーヒーの粉を入れて、ガラス製のサーバーに固定してお湯を入れていくんです」

サーバーというのは、緩やかな逆三角形の形をした、ガラス製のやかんのような形状をしている器具で、コーヒーを作るときに欠かせないものなのだという。コーヒー粉に湯を流しんこみ、それを余計な固形物を取り除くために紙でろ過し、そのサーバーに貯めていくという過程を繰り返す。

スーパーや外の自販機で売っていたコーヒーに比べて、この喫茶店のコーヒーが酸味が無い美味しさを保っていたのはすべてこの過程があるからなのだという。

コーヒーはとても繊細な飲み物で、入れる者の技術次第で美味しくも不味くも、それこそ千差万別に味を変えてしまうと芳村さんは教えてくれた。市販で売られているコーヒーの殆どがスチール缶に入っているのは、コーヒーが空気と反応して酸化してしまうのを防ぐためなのだという。

だがそれでも、空気は何処にでも入ってくるものなので、少なからず味は落ちてしまうらしかった。

 

 こうして黙々と作業を続けていると、ほんの少し前まで13区で血濡れの殺伐とした生活を送っていた毎日が、随分と昔の出来事のように感じられた。コーヒーの粉に熱い湯を注ぎいれる時に出る香ばしい匂いは、喰種の肉以外で始めて僕の腹を鳴らしてくれた。唐突に漏れた滑稽で大きな音に、きょとんとした董香は、僕の顔を驚いたようにまじまじと見て、笑いが我慢できなくなったと言うように口を決壊させてしまう。

「ふふ…幸途さんもお腹は鳴るんですね」

「恥ずかしいな、ちょっと最近忙しかったんで食べてなくてね」

肩の長さまでまで伸びた黒い髪で顔の半分を隠してしまっている董香は、まだ僕が喰種だという事に気が付いていない。僕の喰種としての匂いは少し他と違っているようで、同種であっても僕を喰種とは見抜くことが出来ないようなのだ。それに加えて僕はいつも匂い消しの香水をつけているので、董香が自分から僕の正体に気が付くという事はあり得なかった。

芳村さんもそのことに関しては黙認してくれているようで、僕もそれならばとバレるまで隠し通すことにしたのだった。喋らなくて良い情報を無暗にしゃべらなくて済むなら、あえて言わなくてもいいだろう。

相手が勝手に誤解してくれるのならば、それに越したことは無い。迂闊に真実を話してその噂が喰種に広まってしまえば、僕の命が危険になるのは明白な事だった。僕が今まで行い、これからも続けて行こうとしている行為は喰種を喰らうという共喰い。

同種を喰らうと言う天敵の存在がミステリアスな内は恐れられるだけだが、その素顔がどこどこの誰だという風にバレてしまえば、いつか集団で襲い掛かられるかもしれない。

6人程度なら捌けるが、前にも言ったようにそこにSSが一人でも追加されてしまえば、僕が負けてしまう確率がグンと跳ね上がってしまうのだ。だからこそ、僕は喰種を襲うときにもマスクを欠かしたことは無かった。

まあ正体を話したところで、下種そうな喰種に比べると董香が漏らすとは考えにくいのだが、何処でどういう風に情報が漏れるとも限らないのだ、人の口には戸が立てられないとも言うので、僕は彼女に何も話してはいなかった。もちろん、「人間関係」についてもだ。

 

「そ、そういえば、お、美味しいケーキがあるんですけど一緒に食べませんか?」

……本当にこの少女の考えることはよくわからない。喰種の味覚は人間のそれとは違い、普段人の食べているものを食べようものなら、想像を絶する不味さに顔をしかめるというのに。

もっとも、僕は今まで人間の社会に溶け込むという事をあまりしてこなかったので、人間の食べ物の味は豚肉くらいしか知らないのだが、あれは暫く舌が動かせなくなるような鋭いエグ味があった。

あの娘の言葉を借りて、人間にも伝わる様にするなら、渋柿を30倍にまで濃くした後に、ミキサーにかけて泥水と一緒に飲んだような味覚だと思う。

ケーキというものはあの娘の誕生日に見かけて、僕は眺めているだけだったスイーツだったが、恐らくそれも豚肉と同じで、食べない方がマシな味なのに間違いはない。にもかかわらず、この少女はわざわざ自分からそんな苦痛を味わいたいと言って来たのだ。人間だという事にしている僕に進めてくるのならわかる、だが彼女は一緒に食べようと言ったのだ。

この喰種は、下種で意味不明な言動の多い喰種の類に漏れず、自分が苦しんでいる様を誰かに見られて興奮するような変態だったのだろうか、もしくは泥水も汚水も喜んで食べるゲテモノ食いだったのだろうか……少し、董香の印象に対して改めなければならない部分があるらしい。

 

「いや、遠慮しておくよ、僕はあんまり甘いものは好きじゃないんだ」

その言葉は嘘ではない、人間の味覚になぞらえた甘いものを僕は食べようとは思わない。先日出会ったリゼ程ではないが、僕も喰種の肉の甘さに美味しさを見出しているので、目の前の董香の肉の甘さなら是非とも美味しくいただきたいのだが、此処は「あんていく」だ。

そんな立場を無視したことをすれば、折角僕を鍛えてくれると言っていた芳村さんに、僕への不快感を植え付けてしまう事につながってしまう。最悪、此処を追い出されるだけではなく人生ですら諦めさせられることになるかもしれない。

目の前にとても美味しそうなごちそうが転がっているのに食べてはいけないなんて、どんな据え膳だと思わなくはなかったが、楽しみは先に残していくのも悪くないと、ひとまずは納得することにしたのだった。

 

「そ、そうですか…」

「悪いね、その気持ちだけもらっておくよ…そうだ、今度一緒に映画でもみにいかないかい?」

僕がゲテモノの賞味を断ったからだろうか、眼に見えて落ち込み肩を落とす董香……あまり喫茶店での関係が悪くなっても、コーヒーの淹れ方などまだ完全に教えてもらっていないので、それに支障が出ても困るので、僕は董香の肩に手を置いてそんな話題を切り出したのだった。

正直なところ、餌と二人っきりで出かけるというのは、僕の精神状態的に悪影響しか及ぼさないだろうが、それもまたこの喫茶店でやっていくためだというのなら、我慢しよう。

映画を見ている最中にポップコーン感覚で董香の肉を貪ってしまわないように注意すれば、あとは大丈夫なはずだ。

 

喰種が楽しく一日を過ごせる場所、レジャー施設と言えば、ある3つの項目をクリアしなければならないだろう。それは「人気が少ない」「飲食店ではない」「ほかの喰種に出会わない」というものだ。

最初の2つはある程度目星が付くが、最後の1つはかなり難しい問題である。だが、これを守らなければいつなんどき、CCGの捜査官に包囲されたり、敵対する喰種グループに絡まれたりといったバッドイベントが発生しかねないのだ。

そして、そこから僕が頭をひねって考え付いたのが、デパートにある映画館だった。あそこなら人の往来はあるが、混まない時間帯というものがあるし、出入りが激しいので他の喰種とのバッティングも少ないと考えたのだ。

「は、はい!!い、行きます!!」

董香はまるで生き別れの両親に再会したとでもいうように眼を輝かせて、大きく威勢のいい声で返事を返してくれた……

 

 

                     ・

 

 映画とはただ単に大きい外観のテレビのような物というわけではない。薄暗い空間の壁の一面を覆う巨大なスクリーンに、背後から映写機によって投影される映像は、場面の変化とともに響き渡る大きな音と共に、まるで自分自身がそこにいるかのような、恐ろしいまでの臨場感を与えてくれるのだ。

自宅や電気量販店においてあるテレビで、そこまでのリアリティを求められるかという話ではあるが、近未来的なVRゲームにも通じる、体験できる映像というものが映画なのだ。

真っ暗な空間において、一箇所だけに映像を大きく展開し、迫力ある大きな音を発生させることで、まるで自分が本当にその世界へ言ってしまったような錯覚を与えてくれる。

特に、特撮やホラー、パニックもののなどは、その映画独自の特徴をより効率的に利用しているといえよう、例としては、視界に突然何か異形のモンスターが写るなどしたり、巨大な音を静かな音の後に挿入することで、視聴側の驚愕を誘うのだ。

映像が動けば、自分自身が移動しているかのような臨場感がある映画は、総じて世界的に評価されるクォリティが高いものなのである。それだけ監督の技能と、まるで心理学に精通したかのような躍動感あふれる登場人物の動きは、見ていて飽きが来ない。

 少し聞きすぎのクーラーの冷気が立ち込める人気の少ない映画館の1ブースで、電車の座席や飛行機の座席のように規則的に横に並べられた指定席に座り、スクリーンに映し出された映像を眺めていた僕は、隣の席に座っていた少女、霧島董香の現状に若干引いてしまってしまっていた。

「う…うあああああっ」

カチカチと歯をかち合わせ、身体全身で何かに怯えるように小さくなって震えているのは、いったい何の冗談なのかと聞きたかった。いや、だっておかしいだろう、いくら感情移入がし易い映画とは言っても、今僕が董香と見ているモノは、最近流行りの飛び出してくる3D映画でもなければ、泣けるともっぱらのうわさの動物との人間ドラマ映画でもなかったからだ。

これは、「人喰いババア」…しわくちゃで入れ歯をした70超えの歳のお婆ちゃんが、よたよたとおぼつかない足取りで手に包丁を持って人を襲いに来るという、シュール極まりないホラー映画?なのだから。

じめじめとした陰湿で、暗い雰囲気が目立つ海外のホラーとは一線をかくした、数々のジャパニーズホラーをヒットさせて来て久しい日本。「井戸から出てきて、画面から出るヤバイ奴」は、何人もの惨殺現場に鉢合わせたことのある僕でさえ、薄ら寒いものを感じたというのに。

この映画は、ただお婆さんが奇声をあげながら、だれかその辺に歩いていた人に襲い掛かるというどこにでもありそうなB級なものだった、こんなもので怖がるのは馬鹿くらいだろう。

最後に入れ歯を発射するお婆ちゃんのシーンがあったのだが、あまりにも映画館内が静まり返って空気の温度が2度くらい冷えたかのような錯覚に襲われた。

 ギャグとホラーの融合大作とでもいうのだろうか、映画というものは永近君と何度か行った事があったが、その時に見たものはもう少し迫力と、心を揺さぶるものがストーリーにあったはずだ。

喰種とはいえ、年頃の女の子と映画に行くという事で、僕のセンスではまずいと思い、喫茶店の同じく従業員の金髪に近い茶系の髪を、前方に盛り上げた軽いリーゼントの様にしている人に、最近どんな映画が女の子の好みなのか聞いたのだったが「女の事を一緒に行く映画と言えば、ホラー映画しかないでしょ」と言ってくれたドヤ顔は間違っていたのだろうか。

此処は矢張り、董香よりも年上の女性である、同じく従業員の髪の長い地味な女性の「恋愛映画…に決まってるわね」に賛成しておけばよかったかもしれない。

恋愛など生まれてから一度もしたことが無かったので、そういうのを見ても董香と映画の感想について話すことは出来ないと感じ、前者を取ったのだが、まさか彼女がこれ程までの怖がりとは予想していなかった。

何かに怯えているかのように、偶に顔をあげては心配そうにキョロキョロと周囲を見回す董香を見ていると、いやお前喰種だろ、というツッコミを入れようとした言葉が止まってしまう。

「大丈夫?気分が悪いのなら、もう出ようか?」

「ゆきみ…ち…さん」

 自らの身体を抱きしめるように、腕を胸の前で交差させていた董香は、焦点の定まっていない瞳に大粒の涙を浮かべながら、青白い顔で僕に助けを求めるかのように、手を伸ばしてくる。

正直、今の状況で喰種の手を眼前にさせだされると、つい自然に口元に持っていきそうになるのだが、その衝動を深い呼吸を繰り返すことで抑え込み、董香のおいし…か細い手を受け止めて、僕は少し腰を浮かせ董香の正面に移動し、董香の背中に手を回して僕と董香の身体を反転させる。つまり、僕が董香の座席に座り、董香は僕の膝の上に正面から抱き付いた格好になったのだった。

「え…?」

「仕方ない、落ち着くまでこうしててあげるから、さ…」

小さな子供には、親にあたる人がこうやって自分の体温の温もりを感じさせてあげるのが、一番良い恐怖の拭い方だと、以前読んだ小説に書いてあった。

董香もその例には漏れないようで、おっかなびっくり僕の背に手を回すと、絶対に離さないとばかりにしっかりと抱きしめてきたのだった。喰種と言えども、創作物の蘇りのグールとは違い、しっかりと人並みの体温を彼女から感じることが出来る。若干心音が速い気もするが、それも泣いていた所為だろう。

まだ恐怖が残っているのか、僕の胸に頭を埋めて震える董香に抱きしめる腕に力を入れてぎゅっと力を込めてやれば、少しは落ち着きを取り戻してくれたようで、時たま口から洩れる苦しそうな嗚咽が聞こえなくなっていった。

身動きするたびに、彼女のほのかな髪から洩れる喰種の汗の匂いが鼻腔をくすぐり、食欲を増進させる。本当の事を言うなら、そろそろリゼの肉で補っていた空腹がまたぶり返してきそうだったが、今日この時だけは暴走できないと、必死に理性を保ったのだった。

 そういえば、董香と始めて出会った時も、似たようなことがあったのを思い出す。あれも含めてこの董香という喰種は、色々と心が不安定なのかもしれない。芳村さんの話によれば、董香は最近になって何かの転機があったのかは知らないが、自分で生きている人間を襲って食べる行為に躊躇し始めたらしい。まだ喰種としての本能からか、お腹が空くと人間を襲ってしまうらしいが、それでも芳村さんは良い変化だと言っていた。

……このままいけば董香も、以前の笛口のように既に死んだ人間の肉を食べて生活するようになるのかもしれない、それは僕にとっても人間への被害が抑えられて非常に喜ばしい限りだったが、僕の空腹という意味で、董香を「悪」だから食べてもいいという大義名分が無くなってしまったのには、微妙な気持ちになったりもした。

まあ、それはともかく、この董香という少女も、芳村さんのような思想に目覚めたのかもしれない、人と喰種が共存できる可能性に、何を思ったかたどり着こうとしているのかもしれないのだ…

 だが、芳村さんの意見も尊重したいが、僕は矢張り死体であっても人間の肉を食べるという行為には食欲よりも嫌悪が先に立ってしまう、過去のトラウマとも言っていいいあの光景を、鮮明に思い出してしまうからだ。

喰種のみを襲って食べる僕は、喰種からも人間からも敬遠される立場にあった、永近君は何故か僕に構ってくれるが、あれはほんの一握りでしかない。だからだろうか、寂しかったのかもしれない。この僕の腕の中で安心したような表情を浮かべている少女に、喰種の肉の味を教えてあげたいと思えるほどに……

幸い僕たち以外の視聴者は、かなり後ろの方にいるので、こうして董香を抱きしめていても何も変な目で見られることはない。

 

 20区に存在するそれほど大きくない、どちらかというとマイナーな映画館から、どうしてもと言って董香が頼むので手をつないで出てくると、ブース内のクーラーの効きすぎた空間と、外との温度差に息が詰まった。まるで分厚い壁の様に、熱気が出口を越えた先に広がっているのだ。

乾燥した冷たい空気から、じっとりとした暖かい空気の場所へと放り出されれば、身体能力の高い喰種と言えども例外なくだるくもないだろう。

むしろ、感覚が普通の人間以上に研ぎ澄まされている喰種の方が、そういうモノに関してより大きな弱点になりえるかもしれないのだ。極端に言えば、冷凍室からサウナへと放り出されたような、肌でも感じられるほどの変化があった。

董香の方も、僕と同じ状態らしく、照り付ける太陽に日差しに眼を細めて、小さく溜息をついていた。だがチラリと僕の顔を見て笑顔を浮かべるのは何なのだろうか……、それだけ僕が信頼されているのだろうか。

「さて……次は何処に行こうか、近くのデパートに服でも見に行こうか?」

泣き顔はなんとかおさまったが、まだ目元を見れば泣きあとが残る董香には、気分転換が必要だろう、映画の恐怖心を払拭してやるために、僕は眼の先に見えるデパートの看板を指差したのだった。

「女の子は見るだけの買い物も大好きなんだよ」とまたドヤ顔の従業員が言っていたので、今度はその言葉を信用してもう一回試してみることにした。

 そして僕の隣にいる少女、董香はあくまで喰種だ、だからいくら映画の後良い昼食時になったとして、人間の様にレストランへ連れて行くという選択肢は存在しない。人間の形式に従って、そんなことをしてしまえば、董香の喰種としての肉質が落ちて……いや、彼女をまた不快な気持ちにさせてしまうだろう。別に食い物である喰種にいくら嫌われようとも、最後には腹に収まるので心底どうでもよかったが、喫茶店で働く同僚として、お互いに険悪というのもお客の印象としてはまずいだろう。

愛しくか弱い人間の用心棒という名目で芳村さんに雇われている以上、守るべき対象に変な不信感を抱かれて逃げられては守れるものも守れないからだ。

一度守ると決めたものを、憎きゴキブリ以下の喰う事しか考えられない畜生共に奪われてしまうのは、とても許容できない。

そもそも僕は人間を守るために、こうして喰種悪しき喰種でありながら生きているだけの存在だ。あの娘との約束がなければ、とっくにCCGに出頭するか、自殺するくらいはしている。

勿論、自殺方法は理性が無くなりかねない餓死ではなく、自分の赫子で自分の頭を握りつぶすだけの簡単なもので、だ。

「えっと、そうですね、じゃ……じゃあデパートに」

小一時間、映画を見ている最中ずっと僕に抱き付きっぱなしだった事への羞恥からなのか、董香は僕の視線に自分の視線を合わせようとしない。顔を合わせようとすると、さっと微妙に眼をずらしてしまうのだ。恥ずかしいなら、あの時拒否するばよかったじゃないかという話だが、まあそんなの事も言っていられない状況になりつつあるらしい。

董香の言葉が途中で言いかけて止まってしまったのは、ただ僕を恥ずかしがっていたからではない、映画館を挟んだ道路の反対側に漂ってくる空気が変わったからだ。鉄のような、それでいて食欲をそそるような匂いの発生。

「……っ!?」

 まだ赫眼の制御が完全には出来ていないのか、董香の眼がその匂いに反応して血の色をたたえた真っ赤に染まり、自分でもその変化に驚いてるのか慌てて顔を伏せた。そうなのだ、この道路から漂ってくる匂いは、普通の喰種なら惹かれてしまう程濃く、そして深いものだったのだ。

強烈な血の香、これはもしかすると死んでいる人間の数は一人では無いのかもしれない、強力な喰種による大量の捕食行為、もしくは喰種の集団的な捕食……

いずれにしても、愛しい人間がこんなに近くで命が失われていくことを僕が許せるはずが無かった、助けられる掌にいるのなら、そこに助けを求める人間がいるのなら、僕にその力があるのなら……もう、迷う必要はなかった。

「ゆ、ゆきみちさん?」

「え、ああ、いや何でもないんだ、ただちょっと嫌な気配がしたというか…」

僕が黙ってしまったことに、董香は自分の赫眼を見られたのかもしれないと不安になったようで、僕の顔を上目づかいに伺ってきた。だが、董香が喰種だというのも僕は、あの時地べたに座り込んで泣きそうになっていた初対面の時から、そのとても美味しそうな匂いからわかっていた。

だから今の董香の心配は完全に無用のものなのだが、此処はまだ「知らぬ存ぜず」で通した方が潤滑に彼女との関係はうまく回っていくだろう。

だから僕は適当に言葉を濁し対応しつつ、董香の存在を記憶の片隅に追いやってから、どうやってこの漂う臭いの元凶である所の喰種を潰すかを考えることにした。

人間を守る行い、それに加えて、久しぶりのまともな食事にありつけるチャンスだ、敵が複数でも少数でもこの規模で血の匂いをまき散らしているのから考えれば、大した相手ではない。

強い喰種というのは、その肉体もさることながら、地獄のようなこの世界を渡ってこれるだけの脳味噌が必要であり、あまり目立った動きをしようとしないからだ。

喰種の汗や分泌物の匂いが、人間の血液の匂いが漂い始めていた時から、僕の食欲はじわじわと増大し始めると共に、僕の胃はまだ捕まえても殺してもいない喰種の肉を溶かすために、胃酸を分泌し始めていた。唾も飲み込んでも飲み込んでも切りがないほど溢れ出してくるのだ。

もう、今ここでターゲットを逃したら、なりふり構わず董香を襲いかねない、それは更生しつつある喰種を襲う事になってしまい、それこそ僕のしていることが、僕の嫌っている喰種と同じになってしまう。

僕の行いは、あくまでも世界からの喰種の抹殺、梟に出会ったことで若干の方針転換があったとはいえ、その大まかな理由は変わらない。だからこそ、僕はその憎しみと、喰種の食欲に耐えるため、人間をまかり間違っても食べてしまわないように喰種を殺すのだ……

 

 リゼの腕を先日食べていたおかげで、まだ身体能力においてはリゼと一戦を交えた時よりは余裕がある。拳を握りしめて、背中に意識を集中すれば、赫子を出せるぐらいの細胞が十分に集まっている事がわかる。喰種を食べる事ばかり考えていると、口全体にまろやかな舌触りの喰種の肉の味が浮き編んでくるのだ。もう…流石に我慢できそうもない。

「ふむ、やっぱり、映画館の寒さの所為かな、ちょっとお腹壊しちゃったみたいだからさ……その」

「え、あ…はいごゆっくり!!」

我ながら苦しい言い訳だったが、この嘘をつく相手は数々の地獄を見てきた歴戦の喰種でも、恨み憎しみと絆で切磋琢磨してきたベテランのCCG捜査官でもない、ただの喰種の少女だ。

僕の言葉をまったく疑う様子もなく、快く承認してくれた董香に笑顔を作って、臨場感を出すために腹を押さえながら、映画館の中に戻ったのだった。そうして、逆の入り口から外に出て、董香に気づかれないように道路の反対側に素早くわたり、匂いの漂う場所へと急いでかける。

懐から、黒い光沢のある蟋蟀のマスクを取り出して顔へとはめて、上着を脱ぎ捨てて、いつでも赫子を出せる状態にする。

早く…早く…殺して捌いて、その潤った肉を骨の一本、血の一滴に至るまで味わいたい!!

何度も命乞いする喰種に、自分の罪を教え、涙ぐんだ顔を恐怖で歪めたうえで、もっとも痛い方法で肉を切り取っていきたい!!

絞殺、刺殺、撲殺………何がいいかな。




ここから「梟」「リゼ」に続く暫くぶりの喰種とのガチバトルに入ります、弱い者いじめが印象的な彼の本領発揮です、次回をお楽しみください。

2015/4/1  合併修正

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