東京喰種[滅]   作:スマート

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#006「記憶」改訂版

 そう、あの日の僕も、自分が分からなくなっていた。

これは僕の、始まりの記憶。

 

 

 

 

 

 この世界に生まれ落ちた時、僕は孤独だった。

 周りには誰もいない、家族も親戚も友人も、知り合いでさえも僕には……いない。正確にはいたというのが正しいだろう。今から思えば、僕は棄てられたのだ。生まれて直ぐにその辺りの路地に棄てられて、そのまま放置されたのだ。

 

その事を、ある日育ての親から聞かされたときは唖然とした。唖然として、開いた口が塞がらなかった。この人達は何を言っているのか、あなた達が僕の両親ではないのかと、自身の血の繋がりを疑い憤慨したこともあった。

 

 悲しく、苦しく、嫌な気持ちにさいなまれたが、あまりそこまで深く考えても仕方がない。確かに言われたように考えてみれば、昔から親に似ていないといわれることも多かったが、どこの家庭の子供であっても、親に似ていない部分は少なからず誰でもあるものだろう。

 

 それこそどこもかしこも親とそっくりだったら、それはもう子ではなく親から生まれたクローン(複製体)だ。個性も何も全く同じものだったら面白味もかけらも無い。工業製品ならまだしも人間のような生物が全く同じだったら気味が悪いじゃないか。

 

 それに、僕を育ててくれた人は、どこまで行っても今の両親だけなのだし、その事実は僕が覚えている限り、というか死んでも変わることない。

 

 なら、驚きこそすれ、今の親を嫌いになると言うことがあるはずがなかった。まあ多少鬱陶しく思う事はあっても、そんな赤の他人にするといった具合に嫌えるはずもない。

 

「大岡裁き」でも言っていたように、もし他の家庭において生み親と育ての親が違っていた場合、そしてどちらの両親をとるか選択を迫られた場合、生みの親よりも、育ての親の方が子供は信頼しついて行くだろう。

 

それに僕には妹もいる、義理とは言え幼いときから本当の家族のように育てられた妹を、血の繋がりがないからといって今更邪険に扱えるわけもないだろう。いつもいつも義兄である僕のそばをついて歩いてくる妹の健気さは、とてもではないがそんな事を口走ってわざわざ泣かせる気にもなれなかったのだ。

 

もっとも最近賢しくなってきて僕に何かと小遣いをせびる様になって来たので、多少の拳骨くらいはくれてやっても良いと思ってはいるが、それを抜きにしても目に入れても痛くない家族だ。

 

 両親は真実を告げたことによる僕の変化を心配していたようだったが、それは無用な心配と言わざるをえなかった。と言うか、そう思われていたこと自体に少し憤慨した。僕を嘗めないでほしいと怒りたいぐらいだった。

 

両親は僕を愛してくれていた、小っ恥ずかしくて面と向かっては言えないが、血の繋がっていない僕を実の娘が生まれてからも愛してくれていた事は素直に感謝している。といえばきっと父さんも母さんも僕を叱るのだろう。僕の事は何のしがらみもない本当の家族だと、心の底から愛していると僕を叱ってくれるのだろう。お互いに思い思われているつまりはそういう事なのだ。

 

そして、今さら僕の本当の両親に対して何故捨てたのかなどと恨むつもりも勿論ないし、それ以前に何も感じることはなかった。勿論どうして僕を捨てたのかという純粋な疑問が無かったわけでは無いが、それをあえて蒸し返して両親を悲しませたくはなかった。

 

子供を捨てることは世間一般的には悪いことだが、生み親達にはそれをしなければならないほどの、何かしらな理由があったのだろうし、例え無かったとしても今の両親に囲まれた僕は満足していたからだ。

 

 今さら、本当に今更だ。僕に本当の血縁者が居たからと言って、「はあ、そうですか」という気持ちでしかないし、正直考えるのも億劫で面倒くさかった。本当の両親の事を考えるという事は、今の両親を否定してしまうというどうしようもない罪悪感にかられたのも理由の一つだ。

 

だが、そんな幸せな家族も一瞬にして僕の前からいなくなってしまうとは、そのときの僕は予想だにしていなかった。

 

東京3区のまあまあの成績を誇る進学校に通っていた僕は、何時もと同じように勉強をし、少ないながらもいた仲の良い友人たちと、放課後運動場や教室でスポーツに興じたり雑談をして家へと帰宅したのだった。

 

帰り際に中学校により、少し反抗期になってしまった所為で不満そうに頬を膨らます義妹を迎えに行くのも忘れず、共に手をつないで帰る様子は今考えても教科書通りの「良い兄」をこなしていたと思う。

 

「いつも迎えに来てくれるけど、別に来なくてもいいんだよ?私だってもう13歳だし子供とは違うんだから……」

 

中学生にもなって誰かに迎えに来てもらっているという恥ずかしさがあるのだろうか、妹は周囲を見渡して誰もいない事を確かめてから、小さな声で話しかけてきたのだった。

 

部活帰りという事で学校指定の青色に白のラインが一筋入ったタイプのジャージを着こんだ妹は、汗が染み込んでベッタリと肌にくっ付いた黒髪を鬱陶しそうにかき分けてポケットから出した消臭スプレーを丁寧に身体にかけていく。

 

妹の取り組んでいる部活は剣道部、道着や防具を身に着けて小一時間特訓すれば、そう頻繁には洗うことの出来ない防具の汗と体液が凝縮された何とも言えない酸っぱいような匂いが肌に移ってしまう。

 

僕も小学生の時両親の付き添いで剣道の試合に連れて行ってもらった事が数度あったが、道場中に立ち込めるあの独特の匂いがどうも身体に合わなかったのか、いずれも意識が飛んでしまったり記憶が曖昧になってしまうのだ。

 

両親に聞いてもその時の事をあまり覚えていないとはぐらかされてしまうので、きっと僕は子供ながらに大きな失態をしてしまったのだろう…多分暑苦しい雰囲気に乗せられてお吐いてしまったのだろうと思う。

 

立ちくらみ解消のために両親から薬を持たされている程なので、あまり心配をかけないようにあれから僕は剣道の部室へ近づかないことにしていた。

 

こうして妹と並んで歩いている時に漂ってくる汗の甘い匂いならまったく気にならない。むしろ妹の匂いより柑橘系のスプレーの匂いの方が鼻について気持ち悪いのだが、兄として自分の体臭を気に掛ける妹にそれは言ってはいけないだろうと押しとどめる。

 

妹の体臭について語る兄の姿など、それは変態以外の何物でもないじゃないか。僕の友人にも一人、妹属性とかいうのに憧れている奴がいるが正直「萌え」について嬉々として語っている奴の姿は気持ち悪かった。

 

それから僕は奴を反面教師として、妹に絶対にやってはいけない事を奴の気持ち悪さから学んでいる。まあその趣味を除けば至って普通の奴なので、極端に避けたりはしていないのだが。

 

「ねえ、聞いてるのお兄ちゃん?」

 

「あ、ああ…聞いてる、獅子舞を育成するゲームを買ってもらった友達の話だっけ」

 

「違うって、何それ……私の迎えがもういらないって話、お兄ちゃんもそろそろ勉強で忙しくなる時期だし、私も部活が何時もの時間に終わるとは限らないし……待ってて貰うのも悪いし」

 

僕が中学生の時はお父さんに偶に迎えに来てもらっていた時があったが、その時は少しこっぱずかしく感じる程度で、妹の様にあからさまに怒気をあらわするほどの事ではなかったように思う。

 

矢張り男女でその辺りには違いがあるのだろうか、だとしてもこの件に関しては周りから妹に甘いと揶揄される僕でもはいそうですかと引く訳にはいかない理由があったのだ。

 

「分かってるよ、でもこの辺りはよく不審者が出るって言われてる場所じゃないか、年頃の女の子をそんなところで一人にするほど僕は人間やめてないんでね」

 

妹の通う中学校から僕たちの家までは大人の足でも歩いて30分はかかる、その道は非常に入り組んでいて、集合住宅が一種の迷路のようになっている場所を通らなくてはならなかった。

 

背の高い住宅は通り道に影を作り人の眼には見えない死角を沢山作ってしまう、いわば不審者の出没スポットのような場所に成り果ててしまっている。早朝の通学はまだ妹の同級生の姿もちらほらと居るのでそこまで心配の必要はないが、下校となると話は別だった。

 

妹は夜遅くまで部活をやっているので、必然的に帰りは遅くなってしまう。仲の良い友人もその頃には皆帰ってしまっているので妹は一人で帰る事になってしまうのだ。

 

兄の欲目か僕の妹はそれなりに容姿が整っているので、こうして黙ってうつむいていればそれは淑女の様な可愛さが溢れてくるだろう。それは言ってしまえば不審者の格好の的である。

 

口ではこう言っている妹もいざ不審者と面と向かい合ったらそれは怖いだろうし、今後そのことで妹に取り返しのつかないトラウマが出来てしまうかもしれない、それはなんとしても兄として避けたかった。

 

「ええ、不審者ってお兄ちゃん心配しすぎだよ、最近はそんな話全然聞かないし学校でも話題にならないよ。私、こう見えてもちゃんと初段はとってるからさ、不審者なんか来ても返り討ちにしちゃうかもよ?」

 

「それでも注意するに越したことはないさ、お前は黙っていれば可愛いんだから……それに剣道やってるからって中学生の腕力で大人は倒せないだろ?」

 

背中に背負った竹刀の入った麻袋を自慢げに指さした妹に溜息を吐いて、僕は首を横に振った。正直どこまで本気で言っているのかわからない、本当に不審者を倒すつもりでいるのかそれとも僕の言葉に売り言葉に買い言葉でとっさに出てしまったものなのだろうか。

 

もし妹の言葉が本気なら、危なっかしい事はやめてほしいというのが僕の本音だ。

 

この妹は昔からそうだった。女の子という事を接している内に忘れてしまいそうになるほど好奇心旺盛で活発なのだ。気になる事があれば躊躇なく誰かに尋ねたり、誰にも相談せずに勝手に実験してしまう時だってあった。

 

そしてとりわけ厄介だったのがこの子の持つ妙な正義感だったのだ。妹は僕を含めた現代っ子にしてはなんとも時代錯誤も甚だしいような感性をもっていた。

 

とやかく言いすぎても妹は頑固なので聞く耳を持ってくれないだろうから、声に出して注意する事はないが、いつか彼女の中の変な正義感が暴走しそうで怖かった。ある日突然、不審者を倒しに行ってきますと桃太郎の如く家を飛び出していく姿が目に浮かぶ。

 

「黙ってればって…素直に可愛いっていってよ、ほら…年頃の女の子と夜の通学路で一緒にいるってドキドキしない?」

 

「ドキドキか、確かに普段僕に冷たい態度のお前がそんなことを言ってくるから、小遣いでもせびられるんじゃないかって、ドキドキしてるけどな」

 

「なにそれ……すっごい落ち込むわぁ不満爆発ですよ」

 

上目づかいで僕を見つめて来る妹、だが今は歩いている最中だという事もあって夜道を照らす電燈も少ないので妹の表情を正確に窺い知ることが出来ない。というか手を繋いでいる状態でそんな事をされると歩きにくくて煩わしい。

 

此処で妹の同級生の青春真っ盛りの男子辺りなら心臓の鼓動が高まってしまうのだろうが、例え血の繋がらない妹と言えども、今まで一つ屋根の下で過ごしてきた家族だ。親愛の情は湧けども恋愛感情なんて抱くわけがない。

 

最近妹は僕をそういう恋愛絡み、女性がらみでからかってくることが多くなった。中学生になり思春期の女の子としてしっかりと成長している印なのだろうとは思うが、矢張り僕としてはこういう事をやっている内は一人で帰らせるわけにはいかないと強く思うのだ。

 

妹は危機感が足りていない、若い女の子が一人で夜道を帰るという事がどれだけ危険と隣り合わせなのか分かっていないのだろう。それに加え剣道部に入り、なまじ高成績の所為で不審者という恥も外聞のない存在に油断してしまっている。

 

剣道は一本入れれば仕切りなおされるが、不審者に一本入れた所で逃げられるか逆上して襲い掛かられるかのどちらかだ。相手が刃物を持っていたら目も当てられない、竹刀を向けた所で金属製の刃物には歯が立たないだろう。

 

通り魔、痴漢、誘拐……世の中には一見テレビでしか聞いたことが無いようで、何時どこにでも存在してもおかしくないような不審者が多くいるのだ。世間を全く知らない子供が不審者に相対しようとしたところでどうなるかは決まっている。

 

大人は汚い、都合の悪い事は棚に上げて自分に都合のいいことしかしようとしない子供以上に自分勝手な生き物だ。それを叱ってやれる人間が居ないのもよりたちが悪いのかもしれない。

 

せめて妹がしっかりと周りに警戒心を持つようになるまで僕がこうして、悪い大人たちから護ってあげたい。

 

無邪気に笑うこの笑顔をもう二度と失わせたくない。最後にはお嫁に行ってしまう妹、その時まで僕は彼女にとって良いお兄ちゃんでいたかった……

 

「そういえばお兄ちゃんは学校を卒業したらどうするの、やっぱり成績も良いし進学?」

 

これ以上からかうと怒られるという雰囲気を感じたのか、妹は明後日の方を見て唐突に話題を変えてきた。僕としてもこれ以上居もしない彼女やガールフレンドについて探られるのは嫌だったので特に何も言うことなく先を促したのだった。

 

「そうだなぁ、進学も良いけどちょっと興味がある仕事があるんだ、まだしっかりと決まってるわけじゃないけど進めるならそっちに進みたいと思う」

「へえ、就職かぁ。それ、なんて職業?教えてよ」

「ええ……ちょっと恥ずかしいからまた今度で良いかな?」

「そこまで話したんだから最後まで言ってよ、これじゃぁ夜寝られないよ、不完全爆発だよ、燃焼不満だよ」

 

良くわからない言葉を矢継ぎ早に繰り出す妹、まあ言いたい事は分かるのだが、僕はこの場で妹に話すつもりは無かった。まだ、父さんにも母さんにも言っていない事だ。

 

日本国内で最も常に命の危険に晒される職業、でも僕はその職員の在り方、誇りが憧れだった。自己犠牲の精神と言うのだろうか、自分の命を糧に周りを救う。自分は傷ついても護りたかったものを護れればそれで満足だと、RPGゲームの勇者のような感性に僕は、昔テレビの密着取材番組を見た時から囚われていた。

 

ああいう人間になりたい、当時の僕はそう強く思った。感覚としてはテレビのスーパーヒーローに対するチビッ子の憧れに近いだろうか、そしてこの手で自分の護りたいものを護ってやるんだとその職業を志したのだ。

 

ヒーローに憧れる子供と僕が違いその憧れを失わずにいれたのは、目の前に護るものがいたのと、憧れたものが現実のものだったからなのだろう。確固として存在しているからこそ、僕は現実と言う「冷め」に襲われることなく夢を今まで持つことが出来た。

 

もっともそんな危険な職業に家族が賛成してくれるのかは難しいところだが、今まで僕の事を家族として受け入れてくれた優しい人たちだ、今すぐには打ち明けず徐々に外堀を埋めていって、僕の意思を真摯に伝えていけばいつか認めてくれるだろう。

 

良心に漬け込むようで何となく背徳感が無いわけでもないが、僕の護りたいものを護ることが出来るのなら安いものだろうと思う。あとは、勉強しかない。仕事に必要な最低限の知識を吸収して、就職試験に備える……それが今僕が出来る最低限の事だった。

 

「はぁ……お兄ちゃんは何時もこういう時は頑固なんだから、良いよ。でも、いつかは教えてもらうからね」

「わかった。そうだね1年後、その時に改めてお前に話すよ」

「約束、約束だからね!」

 

 将来に向けた覚悟を決め、早く知りたいと急かす妹と指切りをした日、その約束がまさか叶わない夢になってしまうとは思いもよらなかった。運命の歯車はまるで僕の事を嫌っているかのように動き出す。

 

 

その日、妹と共に帰宅した僕が感じたのは微かな違和感だった。僕の家は東京の田舎に位置するベッドタウン、その端っこにある古寂れたマンションの一階にある。

 

まだ新婚だった両親が少ない給料を切り詰めて購入した初の新居だった中古マンション、当時はいつか安定した収入を貰えるようになった辺りで、これよりランクの数段上の住居に引っ越すことも考えていたらしい。

 

だが、何時しか僕を引き取り義妹が生まれ、成長を今まで見守って来たこ思い出の詰まったこの家をとても手放す気には成れなかったのだという。

 

東京という都会に越してきた両親は、この府が故郷と言うわけではなかったが、彼らに言わせてみればこの家は第二の実家になっているのかもしれない。そう考えてみれば僕もこの古い雰囲気は嫌いではないし、修学旅行で行った先の沖縄のホテルでこの家の有難みを実感した事もあった。

 

長年同じ場所で過ごした鳩は、自分が其処から遠く離れた場所に連れていかれても、必ず自分の故郷である地を目指して帰って来るのだという。帰巣本能と言われるそれは、きっと僕の中にもあるのだろう。

 

何気なく過ごし住んで来た家だが、そこは何よりも僕にとって、義妹にとって掛け替えのない場所だったのだ。

 

しかし、コンクリートの壁はカビで所々黒く変色し、大きな亀裂が目立つ壁、今にも崩れてしまいそうだと心配になった事は何度もあるが、僕が感じた違和感はそんな日常にありふれたものでは無かったのだ。

 

「扉が…開いてる?」

 

103号室、立てつけが悪くなり近々大家さんに代えてもらう予定だった僕たちの家の扉が無造作に開かれていたのだ。今の時間帯は8時35分、いくら時間にルーズな両親と言っても流石に帰ってきている時間帯。だが、それでも何故玄関の扉が開きっ放しになっているのは分からなかった。

 

東京の田舎と言ってもそこは不審者も泥棒も当然のように出現する地域、金目のものを蓄えている筈の若い家庭の玄関の扉が開きっ放しになっているは聊か不用心ではないだろうか。

 

というか、僕の両親は家の扉を開けたまま放置するほど能天気な性格じゃない。家に帰ってきたら鍵はしっかりと閉めるし、ドアチェーンだってしっかり嵌めるくらいの警戒心はもっていたはずだ。

 

外に出ているのだろうか、家に帰って来たとたん急に会社から電話が来て慌てていて扉を閉める余裕がなかったとか、それともお隣さんとでも話している内に何処かへ行ってしまったのかもしれない……と考えて僕は首を横に振った。

 

有りえない、時刻は何度も言うが夜の8時を回っている。父の会社はもうとっくに営業を止めて全員帰宅している頃だろうし、母の会社も流石に仕事を行ってはいないだろう。残業にしろ二人とも接客系の客商売なので、人が少なくなる時間帯には防犯の事も含めて早めに切り上げて帰って来るのだ。

 

それなのに……扉が開いているという事は、つまり。

 

「泥棒……?」

「お、お兄ちゃん……?」

 

妹も僕と同じ考えに至ったのか心配そうに自分の家と僕の顔を交互に仰ぎ見た。とっさに僕は扉と妹の間に入り僕の背後に隠した。開けられた扉から洩れでる微かな電光、それはまだ中に侵入した犯人がいるということも考えられるからだ。

 

泥棒がものを盗んで去っていく時間はざっと5分くらいだという、侵入してから短時間で犯行を終わらせて出ていく泥棒が家に残っているという可能性は低かったが、それでも悪戯に家の中を覗き込んで犯人に気づかれでもしたら、僕の未熟な体力では妹を逃がせられない。

 

ここは警察に通報した方が良いと考えて、近くのコンビニで警察へ電話でもかけようと引き返そうとした瞬間、僕の後ろに立っていた義妹がすり抜ける様に開いている扉から中へと入って行ってしまったのだ。

 

「お母さん!お父さん!」

「あ、おい!?」

 

泥棒に部屋を荒らされている可能性、そして両親が帰ってくる時間帯、開け放された扉。妹はきっと我慢できなかったのだろう。この扉の向こうで何が起こっているのか、はたして自分の両親は無事なのかどうか心配だったのだ。

 

かくいう僕も心配していなかったわけではないが、両親よりもか弱い妹の手前、そんな愚行を犯すわけにはいかなかった。とは言え妹が先行してしまった今、僕もそれに慌てて続き泥棒が潜んでいるかもしれない部屋の隅々に注意を払いつつ進む。

 

中古でそれ程ローンを組むことなく購入することが出来たというマンションの間取りは、小さく僕と義妹、そして両親の部屋と台所とリビングがあるだけのとても質素なものだ。

 

ひょろりと長い柱についた横に伸びる無数のカッター傷は、僕と義妹の成長の証。他にも落書きをしてしまった壁や、両親に反抗した義妹が竹刀付けた壁の穴など、様々な思い出が刻まれた屋内。

 

家に帰って来たのだという安心感と共に僕に襲い掛かって来たのは、どうしようもない空腹感と鼻を刺激する何とも美味しそうな香りだったのだ。なんだ、父さんと母さんはとっくに帰ってきていたのか。

 

それで僕たちの帰りをまって料理を作ってくれていたのだろう、先ほどまで感じていた嫌な気持ちも何処かへ吹き飛び、リビングの前で妹の背を見つけ、今日の夕飯は何なのか尋ねようとした所で僕は見てしまったのだ。

 

「何なんだよ、これ」

 

部屋一面に真っ赤な液体をまき散らしたかのように染め上げられ、鉄のような鼻の奥に残る臭いに、僕はいったい何が起こったのか理解できなかったのだ。いや、何が起こったのか、それを考えることを拒否していたのかもしれない。

 

それは…きっと僕の人生のなかで一番衝撃的で……二度と味わいたくない程恐ろしいものだったから。

 

何時もの様に家に帰った僕の目の前で、ある日突然何の前触れもなく誰かの犯行によって僕たちの両親は殺害された。無残に腹を切り開かれ、内臓が周囲に飛び散った無残としか言えない姿が見つかるなど、夢にも思わなかった。

 

この惨状が余りにも突飛で唐突過ぎて、それが死んでいて今日の朝まで生きていた僕の家族だと、妄想でも仮想でも夢でも白昼夢でもなんでもなく、実際に起こってしまったいう事実を理解するまで数分をようした。

 

当時の気持ちとしては、驚いたというよりも呆然としたというのが正しいだろう。この光景が本当に真実なのか、先日読んでいた小説の続きを夢に見ているのではないかと一瞬馬鹿な事を考えたが、周囲に漂う死臭に現実から引き戻されてしまう。

 

とっさに僕は妹にこの光景を見せてはいけないと思い、両手で顔を被ったのだが、その行為はもう遅かったようで、義妹の眼にはもう真っ赤な鮮血にまみれた、両親の姿が焼き付いてしまっていた。一瞬その光景を見て固まった妹は、この現場がこの状況が表している意味を理解して顔を真っ青にする。

 

「い、いやあああああああああああああああああああああああああああああああ」

 

もはや人間の形をとどめていない、辛うじて朝着ていた服の所為で両親だと判別できるだけの肉の塊へと成り下がった存在に向かって、妹は泣いた、それはそれは大きく声を荒げて「お母さん、お父さん」と肉塊に問うのだ。

 

自分が血塗れになる事すら厭わず、妹は血の染み込んだリビングへと足を踏み出しぐちゃぐちゃになり、どちらのモノか最早わからなくなった内臓を掻き集めて抱きしめたのだ。

 

「いやだ…いやだ、いやだ…」

 

同じ言葉を繰り返し、妹は飛び散った肉塊に引っ付けと、元に戻れと意味のない罵声を浴びせ、涙を流し肉の塊を掻き集めていく。ひとしきり周囲に巻かれた肉が集まったか頃、敷かれたカーペットに転がった目玉を愛おしそうに妹は拾い上げ、そっと掻き集めた肉塊の上に乗せたのだった。

 

小説の中では軽々しく触れられてきた「死」という出来事。殺人、病死、老衰、事故死それは数あれど違わないのは、この世から人が居なくなったという虚無感と悲しさだけ。それを何処か紙を隔てた上で感じていた僕は矢張り「死」を軽んじていたのだろう。

 

「死」とはこれこれこういうモノだと、小説や漫画の情報を鵜呑みにして自己満足の悲しさに浸っていたのだ、軽々しく可哀想と口にする上から目線の同情のごとく、自分に一切害が及ばない高見から見下ろす様に僕は「死」と言うモノを捉えていた。まだ縁遠いものだと。

 

目の前の死に対して何も言えなかった。

狂ったように叫ぶ妹を前にして何の言葉もかけてやることが出来なかった。

 

もう、父さんの怒った顔も、優しく頭を撫でてくれた武骨な手も僕に向けられることは無い。母さんの心のこもった手料理、何時も学校に持っていっていた弁当の味も、朗らかにほほ笑む慈母のような笑顔ももう僕は見ることも味わう事も出来ない。

 

だが、此処で物思いにふける様に死の悲しさについて考えてしまった僕は、一つ重大な過ちに気が付いていなかったのだ。いや、気づけていたのならそもそもこんな事態には成っていなかったのかもしれない。

 

ここで、僕が……僕自身が惨殺された両親の死体を見ても何ら感情を揺さぶられることなく平然としている事実に気が付けたのなら、これから先に起こる周りの人生まで変えかねない転機を未然に防ぐことだって出来たのかもしれない。

 

そう、僕は両親二人の血の匂い、内臓の香りに空腹を感じてしまっていたのだ。泣き叫ぶ妹の目の前で、腹が空腹を訴えるかのごとくぐうと音を上げたのだった……

 

 あの光景は今でも鮮明に、それこそ動画の映像のように色褪せず思い出すことができる。吐き気がした、妹にあんな顔をさせている状況に、そして両親だった肉に対してお腹が空いていると無意識に思ってしまった事に対して。

 

確かに育ての親が死んでしまったことに対して涙したし、妹とともに喪服に身を包んで親族らと葬儀に出席したときは悲しかった。悲しかったが、それ以上に僕はあの火葬されていく二人の肉に対して空腹を催していたのだ。

 

その事実に気がついたとき、僕は驚愕し、そして自己嫌悪した。どこに自分の両親を「喰いたい」などと感じる息子がいるのか。この時はまだ、僕は自分が一度にいろんなことがあった所為で、ストレスでどこかおかしくなってしまったのだろうと思っていた。

 

 自分に対して恐ろしくなった僕は、葬儀場から尻尾を巻いて家に逃げ帰りあれほど愛おしく思っていた妹をもほっぽり出して、家に自分の部屋へと閉じこもった。外に出ることが、怖かったからだ。

 

外に出て、人間を見ればまた両親のように美味しそうなどと感じてしまうのではないかという恐怖心が僕を支配していたのだ。

 

だが、そんな引きこもりも長くは続かなかった、家に閉じこもる生活…つまりは引き篭もりは僕には向いていなかった、というより僕の腹が持たなかった。

閉じこもりを始めてゆうに3日目で僕の身体は限界を向かえ、何か口に入るものが欲しいと思うようになってしまっていた。

 

 ……そこで初めて僕は人間ではないのだと、気づかされた。

 

心配する妹のことも気がかりになり空腹に負けて、自分の部屋の前に置かれた食事を食べてしまったのだ。炊き立てのご飯からはあり得ない腐臭がした。妹の自信作という味噌汁は雑巾の搾りかすを飲まされているのかと感じた。

 

メインの生姜焼きは食事が不味かったという表現では収まりきらなない、とても口にできないような人の食べるものでは無いだろうという触感と匂いだったのだ。牛乳を拭いた雑巾のような味がする肉、長く掃除されていない公園のトイレのような匂いのするチーズ、全てが最悪のものだった……

 

盆の上に乗せられていたもの全てが、僕を拒絶しているように感じた。当時あれを食べ物として出してきた妹に怒りを覚えたほどだ。

 

なんの悪戯だろうと思った。こんな時に……大切な家族が死んでしまったときに……

だが、それは違ったのだ。思えば、妹を外食に連れて行くことはあっても、僕は家で留守番をしていることが多かった。

 

大方それは両親が可愛らしい妹を贔屓しているのかと、あきらめていたのだが、実際は間逆だったのだろう。両親……僕の育ての親は僕の正体に気がついてなお、僕を生かすために…「人間の肉」…を僕に与え続けていたのか。

 

わかりにくいようにしっかりと加工して、ほかのステーキやしゃぶしゃぶ等と見分けがつかないように細工までして。そのことに気がついたとき僕は死にたくなった。最近巷を騒がせている殺人鬼の種族が、僕だと知ってしまったのだから。

 

両親が死んで居なくなってしまったことで、僕は自分で食事を作ったり、他人からのおすそ分けを食べるしかなくなり、その食事の得も言われぬまずさから、皮肉ながらその事実に気がつくことができたのだ。

 

当初は自分の味覚が両親の死体を見たトラウマか何かで変になったのか、それとも僕に対しての周囲の圧力か何かだと思ったが、時がたっても料理がおいしく感じることは無かった。

 

周囲の人間には、僕が引き篭もっている理由が、両親の死にトラウマを抱えたかわいそうな男の子、という印象だったのだろうが、妹だけは違っていた。僕が人の肉を食べなければ生きてはいけないとどこで知ったのかは分からないが、大方僕の態度で気が付いたのだろう。

 

妹の料理に一切口をつけない傍ら、僕はじっと慣れない料理を作り怪我をした手の先を凝視し続けていたのだから。

 

あろうことか、引きこもってこのまま餓死してしまおうと死を覚悟していた僕に、義妹は自分の腕をカッターナイフで切り裂いて、僕に……自分を食べろと促したのだ。まだ、15歳にも見たない中学生がだ。

 

そのとき、僕は怒れなかった……自分の命を簡単に捨てようとした妹に対して、怒ることが出来なかった。ただ義妹の手首から湧き上がる鮮血に、皮膚の切れ目からのぞく柔らかそうな桃色の肉に目を奪われてしまったのだ。

 

「美味しそう」だと思ってしまった自分自身を殴り飛ばしたかった。兄失格だ、両親を、義妹を「食べる」などと、考えただけでもおぞましかった。だが…僕はその匂いに、色に、次第に抗えなくなり…

 

一緒に生活を共にしてきた家族を、僕は喰らったのだ。あの楽しかった生活を、今までの思い出をかなぐり捨てて、目の前の肉に眼を奪われてしまった。最悪で、最低、クズで醜悪で下種の所業だった。

 


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