東京喰種[滅]   作:スマート

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#008「凶兆」改訂版

 『CCG本部より報告、今日未明、13区のマンション地帯、路地裏にて喰種のものと思われる戦闘跡を発見。

 

繰り返す、CCG本部より報告、今日未明、13区のマンション地帯、路地裏にて喰種のものと思われる戦闘跡を発見』

 

 人間に出来る喰種への唯一の抵抗と言えば、ターゲットにされないように夜を出歩かないこと、出会ったら直ぐに逃げることしかない。喰種は人間に比べ身体能力に優れており、通常の武器では傷一つでさえ付けることが出来ないのだ。

 

 ただ食べられることを恐れて人間達は泣き寝入りするしかないのか。

 そんなときに出来上がったのが、喰種の脅威から住民を守ることを主にした、対策組織だった。

 

 政府により制定された、喰種を駆逐するために作られた法案「喰種対策法」に基づき作られたそれは、Commission of Counter Ghoul」の頭文字を取り「CCG」と呼ばれるようになる。

 

 喰種が人間を狩るこの世界に、喰種を狩る人間を作り出し、喰種撲滅を歌う組織。

 それは、人間からは頼りにされ、期待され。反対に喰種からは疎まれ、親の敵のように嫌悪される組織でもある。

 

 

 

 CCG「喰種対策局」、一区に作られた本部ではその放送に一同が騒然となっていた。

 13区は確かに血の気の多い喰種が多数存在し、捜査官も困難を極める魔所として有名だった。だが、今回の放送に聞こえた喰種の名前には、喰種対策局の捜査官達を騒がずにはいられない。

 

「うそ…」

 

 ある喰種についての資料を纏めていた私は、何気なく耳に聞こえてきた情報に耳を疑った。

 

 自慢ではないが「準特等」に先日昇進した私でも、その報告は滅多に回ってくることのない異常なものだったのだ。これはどちらかというとS2辺りの秘匿情報なのではないか、私の様な一般区を担当されたしがない捜査官の耳には入れてはいけない情報。

 

そんなあり得ない放送がけたたましく鳴り響いた驚愕で落としそうになった書類を慌てて持ち直し、自分のディスクへと運ぶ。だが周囲の捜査官たちも私同様にその放送に動揺しているらしく、中にはCCG上層部へと確認の電話を取っているものまでいた。

 

 

『戦闘跡から採取された血痕には、3名の喰種ものと思われる、Rc細胞を検出された。

CCGの誇る喰種の過去数百種類のデータが登録された総合データベースから、Rc細胞の種別特定を行った結果、一名の喰種の正体が特定された』

 

再度立て続けに細かい情報が放送され、それに合わせて部屋の隅に取り付けてあったファックスから参考資料が事務所類に交じって送られてくる。

 

 

だが、私が驚いたのは、その交戦が行われたという放送ではない、珍しいが一部の区ではそういう事件は度々報告されていた。だからこそ、珍しいが本部の捜査官が躍起になって現場へと急行していくほど、大げさな話ではないのだ

 

 問題は、その放送がこの私の部署にまで流れたことにあった。

 

CCGでは喰種の強さを簡単にランク分けして、赫子発生を確認できた、もしくは赫眼の発生を確認できた、捜査官一人で十分相対できるBレート。上等以上捜査官数名で駆逐できるAレート。準特等以上捜査官数名で駆逐できるSレートが存在する。

 

そしてそのSレートの中でも強すぎる喰種に対してSSやSSSレートと分類されるのだ。S2とはつまりSSレートの喰種を駆逐するために組まれた複数の班が集まった合同班の事を指す。

 

その存在は常に命の危険が付きまとうことから、万が一にもそれが外部に漏れてはいけないという事からCCG本部で厳重に情報管理されており、万が一にもその情報が一般の捜査官の耳に入ることは無い。

 

「誤報……?」

 

可能性としては、それが本部の放送局員が間違えて全棟に向けて機密情報を流してしまったという事だろう。だが地方の局員ならいざ知らず、精鋭ぞろいのCCG本部局員がこんな致命的なミスを犯すだろうか。

 

だとすると……私の背にうすら寒いものが走る。これは、CCG全ての局員に伝達する必要性があるもの、至極切迫したものであると考えられないだろうか?

 

13区のS級喰種、捜査官の間でも一切人間を襲わないと有名な、共喰いを主とする「蟋蟀」が何者かの喰種と交戦を行ったものだと判断された。

 

そしてその場所に付いた傷跡や血痕の付き方から戦いは相当苛烈なモノと予想され、13区にS級もしくは、それ以上の喰種の襲来が予想された。喰種と喰種が出合えばどうなるか、その問いに答えられるものは少ない。

 

縄張り意識が強く、自分の縄張りに執着の強いほとんどの喰種は、自分の縄張り外からやってきた部外者を酷く嫌う傾向にある。その者が縄張りの外の区からやってきた余所者だとするならその嫌悪度は一入だろう。

 

だが、喰種同士が出会ったとき、争いと言えるものは頻繁には起こらない。それは何故か、それは外部からやってきた侵入者が殆どの確率で強者であるからだ。誰かの縄張りを奪おうとしている時点で、その喰種は腕に自信があるということになる。

 

まして周囲一帯に切り刻んだ跡を残すなど普通では有り得ない。それは少なくとも外部からやってきた喰種が、S級の実力を持つ「蟋蟀」に匹敵するほどの実力の持ち主ということになってしまう。

 

暗闇の中で蠢く大きな影を見たような気がして彼女は息を吐き出した。一度、徹底的に13区を綺麗にする必要がある。徐々に集結しつつあるS級レートの動き、そして組織的な喰種の犯行はここ最近増加の一途をたどっていた。

 

 

「それが全て、13区から始まっている……?」

 

確かに13区は他の区と比べても総合的な喰種数が多く、そして凶暴な喰種が集まるスラム街と化している地域だった。だが、端的に言えばそれだけで黒幕がいるというよりは不良のたまり場といったニュアンスの方が近い場所だったはずだ。

 

それがここ最近様子がおかしい。かつてあれ程当区で猛威を振るっていた「13区のジェイソン」の消息不明。そして最近きな臭くなってきた「アオギリの樹」もこの周辺に出没しているという。

 

「これは、まさか考えすぎかな」

 

 手元に無数のペンと、東京都の細かな地図を広げながら、ふと女は物憂げな表情で、窓の外を見つめた。彼女の脳裏に思い浮かぶのは、一人のとても優しげな笑顔を浮かべる、線の細い男の顔。

 

 今はどこでどうしているのだろうか、たまにこうして話題に上がることはあるので、元気なのは分かるが…懐かしそうに薄く微笑んだ彼女は、そして背後に誰かが立っていることに気が付き、振り返った。

 

「13区か、確かに最近きな臭くなってきている。私の見立てでは20区の方に主眼を置いてみた方が良いと考えるがね。「大食い」「美食家」探せばボロが出てきそうな大物を一刻も早く駆逐することが大事だと思うがね?」

 

 色の抜けたような、真っ白な白髪を首あたりまで伸ばした、不健康に痩せた格好の男。ギョロギョロと左右で不釣り合いな目を動かしながら、私を観察するように見つめてくる男は、名前を「真戸 呉緒」と言った。

 

 私と同じ捜査官であり、何かに執着するように喰種を追い掛け回す一風変わった性格を持っている。直情的な性格では無い為、あまり知れ渡ってはないが、この人ほど喰種に恨みを抱いて心の底から憎んでいる人も少ないだろう。

 

 喰種の赫子から造られるある武装を収集する事に楽しみを覚えているのは、憎い敵をより酷いやり方で殺す事に生きがいを感じてしまっているからなのだろう。こうして暇を見つけては喰種(武器)の情報を聞いて回っているのだった。

 

「いえ、あくまでそれは私の主観ですから」

 

「ふむ…そうかね」

 

 素っ気なく答えた私の対応に、若干不満さを見せながらも、真戸さんは何かを思い出したように手を打った。如何にも聞いて欲しそうなキラキラとした目で見つめられては、彼女としても、聞かないではいられなかった。

 

 階級が下だとは言え、真戸は彼女の師であり、また共に喰種と闘ってきたパートナーだった。喰種を狩ってきた功績を認められ、準特等へと階級が変わるまで、彼女と組んでいたのはこの真戸なのだ。

 

 一見ホラー映画に出てきそうな怖そうな外見なので、何度かCCGで保護した子供に泣かれた事があったが、内面は其処まで恐ろしくないという事を彼女は、今までの同僚として知っていた。

 

 特に大好きなクインケを語るときの顔など、子供が新らしい玩具を親にねだるような顔をしているのだ。

 

そして彼の娘同様、どこか天然なボケを時折かます、その外見とのギャップが激しすぎて少し顔がにやけてしまうが、彼女は外面だけ平常心を保って、冷静に対応した。

 

「はい、なんですか?」

 

「そうだ、一度君のクインケを見せてくれないかね?あの[朱美protectー1]は興味深い!」

 

 狂気が入り混じる顔で迫られれば、彼の事情を知らない新米の捜査官なら、理由を求めることなくあっというまに自分のクインケを差し出してしまうだろう。だが、私…は違う。もうこの人の対応には手慣れたものだ。

 

「またですか、真戸さん…私は無闇に人にクインケを見せびらかしたくないのは知っているでしょう?」

 

喰種とは言え、彼らも生きている。そんな彼らを殺す道具は十分「凶器」だ。禍々しい死の匂いが染み付いたそれを、私は理由も無く他人に見せようとは思わない。生物を殺したナイフを誰が好き好んで見せびらかしたがるだろうか。

 

血の染み込んだ武器で喜べるのは、漫画の中のキャラクターか戦闘に狂った狂戦士だけだ。

 

「知っている…君とは長い付き合いだからね。だが君も知っているだろう、どうしても気になってしまうんだ!どうかね、今度飯でも奢ろうじゃないか?」

 

 真戸さんの執着心は人並みはずれている。だが、こういう捜査官がいるから、喰種は無闇に人を襲えなくなっているのには違いない。抑止力というか毒をもって毒を制すというか、普段はかなり凄腕の捜査官で当時は私もその腕にあこがれたものだが、いかんせんこの粘着性がそれら全てを上書きしてしまう。

 

正直ちょっと煩わしい……

 

「…そうそう今度新型のクインケが造られるらしいそうじゃないか?

心が躍るね、確か…名前は…アラ」

 

「真戸さん、それ以上は機密です。とても、こんな一介職員のいる場所で話して良い話題じゃない…」

 

 おいおいと私は冷や汗を書きながら、どこで掴んできたのか、特等にのみ伝えられた機密情報をしっていた真戸さんに辟易する。大方、彼の知り合いであるところの、不屈のなんたらが教えたのだろうが…

 

 今度、合ったら絶対に抗議してやる。いくら旧知の間柄とは言え公私はきちんとわけてもらわないと困る。やがて真戸は、諦めたのか、それとも別の捜査官へとターゲットを変えたのかいそいそと何処かへ言ってしまった。

 

「あの人も、あれで子持ちなのが凄いよ…ふふっ。さて、仕事、仕事っと」

 

兎に角これで13区はしばらく捜査官の出入りが多くなるだろう。それに伴い喰種たちの動きも多かれ少なかれ変化する。逃げる者もいれば反発して襲い掛かってくるものもいる、どちらにしろこの数か月は荒れるだろう。

 

私の仕事はそのお手伝いだ。迅速に書類をまとめ上げ、対応する記事やスクラップを抜き出し前例から喰種の性格、赫子の癖を分析する。いわゆる研究者といったところか、もっともクインケ等の製造に携わる専門職ではなくあくまでも情報分析官としての役職だが。

 

眠気覚ましに階下で先ほど買ってきた缶コーヒーの蓋をあけ、一気に飲み干そうとしたところでふと真戸さんがこちらを振り返り……

 

「おっと、言い忘れた。どうやらこの放送は誤報等ではないようだ……上等以上の捜査官に召集命令が出ている、時間は10分後……大ホールらしいね」

「はい!?」

 

いつもそうだ…この人は私が油断をした時を見計らったかのように重要な事を言ってくる。もっとも彼にとってはCCG捜査官として常に気を張っていなければならないという苦言なのだそうだけれど、私としては少しは休む時間がほしい。

 

いつも緊張の糸を張り詰めていてはいつか千切れてしまう……もしかすると真戸さん自身、もうその糸は解れかかっているのかもしれない……

 

 

 

 

 

 

 

 

 私が物心ついたころ、もう私の側に兄という存在はいた。それは当然だろう、私より後に生まれた家族を兄とは呼ばないのだから、私より前に生まれた、そして親よりも後に生まれ出た家族を、私は「兄」と呼ぶ以外言葉を知らなかった。幸途鈴音それが私に付けられた、幸途家の家族として、父や母の娘として、兄の妹としてつけられた名前だった。

 

私の家はそれほど裕福な家計でもなかったが、だからといって明日食べていく食料に貧窮するほど、貧乏な家計という訳でもなかった。有り体に言えばどこにでもある平凡な家計。

 

父親が二流企業のしがないサラリーマンで、母親が近くのスーパーでパートに勤しむ専業主婦という、両親と兄妹の4人の核家族。探せば日本全国に何千人と見つかりそうな、珍しくもない家族構成でしかない。

 

祖母や祖父は私が生まれる前にどちらも他界してしまったらしく、どこかのアニメの家族の様に家族大団欒といった事は今までされたことは無い。だが、別にそのことに関して私は何も感じてはいなかったし、まあ月に貰えるお小遣いが少ないと不満はあったけど、おおむね私はその家族に満足していた。

 

とても仲の良い家族だったように思う。父や母は顔を合わせばいつも笑顔を見せ、兄は少し無愛想だったが、いつも学校に迎えに来てくれたりと、内面はかなり優しかった。流石に中学生になった時にも学校に迎えに来てくれたのには恥ずかしかったが、嬉しくもあった。

 

ああ、兄はそこまで私の事を心配してくれているんだなと、友人達にあれこれ言われる恥ずかしさも忘れて物思いに耽ってしまったこともあった。兄妹は歳が近いと険悪になりやすいと、学校の友人から聞いたこともあったが、その言葉が都市伝説に思えるほど私たちは仲が良かったのかもしれない。

 

兄と過ごす時間は、私にとって友達と遊ぶ時間や一人で過ごす時間を潰してでも得たい、至高の時間だった。私は中学生になるまでに何度も何度も事あるごとに兄の部屋を訪れて、知識人だった兄の話に聞き耽っていた。

 

昔から本を沢山読む兄は、兄と同年代の人と比べても、頭一つ抜けて知的で、それゆえに兄のする話は難しかったが、とても内容が深く最後には私にも成程と思うものばかりだった。

 

兄は年下の私のわがままに、全く嫌な顔ひとつせずに付き合ってくれた……分からない勉強や作文もそれと無く教えてくれ、友人たちとの約束を蹴ってまで、私と共にいてくれたのだ。

 

当時はそれが普通だと疑わなかったが、中学生になるにつれて徐々に心から話せる友人も出来てきた時点で、私の兄が他とは違っていることに気が付いたのだった。

だから、私は誇りだった。優しく賢くカッコイイ兄との日々が、私にとっての宝物だった。

…あの日までは。

 

 あの日、私たち家族の住んでいた家が真っ赤に染まってしまった日から、私の幸せだった日々は終わりを告げることになる。それは、本当に唐突に何の前触れもなく、私の目の前から家族を全て奪い取った……両親を血に染め上げ、そして、あんなに優しかった兄を変えてしまった。

 

血に濡れた部屋を兄は私に見せまいと、手で眼を隠してくれた時の兄の顔は、どこか暗く……何か遠くを見つめているようでもあった。数少ない親戚が集まったしんみりとした葬式の最中、うわ言のようによくわからない言葉を呟きながら、当然葬式の会場を飛び出していった兄の背中を今でもはっきりと覚えている。大きかった憧れの背中は、どこかやつれてひどく小さく見えた。

 

その日から兄は自分の部屋から何をしても、何を言っても出て来なくなり、心配になった私が無理やり部屋にかけられた鍵を壊して中に入ったときには、部屋の隅に頭を抱えて蹲り、今にも死にそうな風に蚊の鳴くような声で呻いていた……「食べたくない」と。

その、言葉が聞こえてしまった時、兄の右目がやつれた体に対して嫌に真っ赤に輝いているのを見た時、私は兄が人間ではない事を知ったのだった。

 

 巷でガセネタと共に色々なメディアにも取り上げられて、今や日本中の人間が知っている生物。だが、殆どの人間はその存在とは無縁に人生を送り、そして無縁なところで人生を終える。私もよく騒がれているなとニュース番組を横目に、だが私とは無関係だとあまり気にはしていなかったのだ。

 

兄が教えてくれた都市伝説の一種か何かだと、その時までは思っていた。本当に存在するはずはない、空想上の産物なのだと……恐ろしい殺人鬼の別称か何かなのだと、そう、思っていた。

 

『喰種【グール】』、日本では「屍鬼」と書くゾンビなどの別称。それを捩り、「人を喰べる、人では無い新たな種類」ということでつけられた喰種は、私の兄だった。

だったが、それだけで私の心が変わってしまったわけではない、そして兄の心が根本から全てそんな化け物になってしまったのかというと、そういう訳でもなかったのだ。

 

兄は、私の大好きな兄は、「人を喰べたい」という強烈な空腹感と戦っていた、部屋の隅に居座る兄は私の存在にいち早く気が付き、その口を開け…床に思い切り自分の顔を叩きつけたのだ。

ゴンという鈍い音が聞こえた、私は悲鳴をあげそうになったが、兄の声を聴いてその喉から出かかったものを飲み込んだ。

 

「にげ…ろ」

 

 兄は…何処まで、私の兄であろうとするのか、知っていた…兄が本当の私の兄ではないことくらい。以前、夜に目が覚めた時に両親が話していたのを聞いてしまった。

 

それなのに、兄は兄のままで…こんなに苦しい状態でも兄は私の事を思い、私を絶対に食べまいと自分自身を痛めつけていたのだ。涙がこぼれた、兄をこんな状態になるまで気が付くことが出来なかった自分を恨んだ。いつもいつも私のわがままに付き合ってくれ、少ないお小遣いを使って私の服やアクセサリーを買ってくれる兄に、いつしか私は負い目を感じていたのかもしれない。

 

兄は私の事をどう思っているのか、もしかすると要らない子だと思われているんじゃないだろうか。

兄に甘え過ぎていた私は、兄がおかしくなってしまって初めて、自分のしてきたことに気が付き、兄にどう見られていたのかが酷く気になってしまったのだ。

 

大好きな兄に嫌われてしまっていたのなら、それに気が付かず何年も過ごしてきたのなら、私は兄にとって目の前をうろつくハエ以下の邪魔ものでしかない。

 

だから…だからせめて、いままで兄が私にしてくれた分の感謝と謝罪をしようと、最後の最後まで私の兄でいてくれた音把に、私も最後まで音把の妹として兄を救ってあげたかったのだ。途轍もない苦しみから、解放してあげたかった。それが、その行為が後の兄の心をどれほど傷つけてしまうかも分からずに、私は自分の肉を差し出したのだ。

 

部屋に散らばっていたカッターナイフの刃で自分の手首を、目をつぶって思い切り、切り裂いてから溢れ出る自分の血を肉を骨を、飢えに苦しむ兄にささげた。これが、今まで兄にわがままを言い続けた、生意気で蟲以下な私の出来る恩返しなのだと思っていた。私の命で兄が救えるのならば、少しは兄は私の事を好きになってくれるのだろうか…と。

 

兄が…何のために、私を食べずに今まで我慢していたのか、何のために、私のために時間を作ってくれていたのかを……その時の私は何も知らなかった。

 

私の肉を食べ、正気に戻った兄のあの……この世に絶望したような叫びと、私に向けられた涙が……忘れることが出来ない。

 

 

 

「どうされました、顔色が優れないようですが?」

 

CCG本部の上階層、大きく区切られた部屋の隅に申し訳程度に座った私は、大型スクリーンに映し出される喰種の情報を自前のノートに書き写したデータと見比べながら、壇上に立つ捜査官の有りがたい話を耳に入れる。

 

だがいくら話を聞こうとも、肝心な事は一切頭に入って来ずにあの時の、兄との思い出が延々と脳内に浮かんでは消えるのを繰り返していた。徹夜明けで疲れているのだろうか、矢張り慣れないことはするものじゃない。

 

昔から、私はそうだった。事あるごとに兄に突っかかり、兄のすることなす事にケチをつけていたように思う。部活の帰り、頼まれもしないのに自分から迎えを買って出ていた兄の気持ちを考えもせず、私はただ自分が恥ずかしいからという理由だけで兄を遠ざけようとした。

 

意地っ張りで、そのくせ後先考えずこうして熱を出したり、たまたま道に置いてあったなんてことのない小石に躓いたりしてしまう。兄にとって私はきっと、不出来な妹として映っていたのかもしれない。

 

だけれど……だとしても、私はあの時兄に確かに必要とされていた、家族として……愛してもらっていたことはわかる…

 

「いや、大丈夫だ…すこし疲れただけだよ」

 

いけない……また感傷的になってしまった。こんなことを延々と考えていたらそれこそ兄に申し訳が立たない。私は隣に座っていた捜査官に一言礼をしてから、気分を入れ替えてくるとだけ言ってその場を後にしたのだった。

 

会議中に途中退出するのは決して褒められたものではないが、トイレや気分が悪くなった際などの退出はある程度例外として認められている。それに、私のような準特等の捜査官ともなれば、ある程度会議を聞いた程度でも全体の概要は、全部聞かなくとも大体分るという経験に裏打ちされた知識もあった。

 

会議室の大扉を音を立てないようにそっと開けてそこから身を滑り出すように外へ出た私は、深呼吸を繰り返し廊下に満ちた窓から入る新鮮な空気を肺に取り込んだ。

 

鬱屈としたピリピリしたという表現が似合う部屋に長時間いるのは矢張り慣れない、一つの部屋に閉じこもるという何て事の無い行動が、私にはどうしようもなく気持ち悪く感じてしまう。

 

「はぁ……」

 

ため息交じりに廊下に立てつけられた窓から外を見ると、見る者の心を奪うような真っ赤な夕焼けに包まれ、とても幻想的な色彩の街並みが映っている。 そしてこんな光景を見て思うのだ、こんなに綺麗な都市の暗闇で今日もまた、誰かが喰種に殺されているのだろう。理不尽に、まったく抵抗も出来ず、一方的に惨殺されているのだろう。

 

「私がこうしている間にも、何百と知れない命が失われている……」

 

そんなことを決意しつつ私はそっと視線を窓からずらし、至近距離まで迫ってきていた真戸さんの少し怒ったような表情に次に来るであろう運命を悟りつつ、辛いからと言ってさっさと会議を抜け出そうとしてしまったさっきまでの私を呪ったのだった……

 

 

 

嫌な事からすぐに逃げ出したくなる私の癖は、この時途轍もない方向で運命の歯車を狂わせていく……

 

その事実に私が気付くのは、この実に3日後だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『SSレート喰種、蟋蟀討伐作戦を開始する』


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