東京喰種[滅]   作:スマート

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#009「救援」改訂版

 青く雲ひとつない海のような空模様が、どこまでも続いているかに思える晴天の景色、私はその暖かい太陽の日差しを受けて、ゆっくりとベッドから身体を起こしたのだった。

 

治安の比較的良い、20区にあるマンション。東京なら何処にでもあるごく普通のマンションの一室に私は一人で住み込んでいた。以前は弟と二人暮らしだったのだが、ほんの1年前に出て行ったきりまるきり消息がつかめない。

 

あの弟のことだから、きっとどこかで上手くやれているのだろうと思うがそれでも姉としては心配にならざるを得ないのだ。見知った親戚はもう弟しかいない、父は殺されたし、母も現在に至るまで消息さえわかっていない。だからこそ、私と弟は二人でこの暗い東京の闇を生き抜いてきたのだ。

 

ともに協力し合い、お互いに足りない力を補い合いながら戦ってきた。

だが、それも私がほんの少しの平凡を望んだ所為で、人間のような暮らしを望んだ所為で、弟は家を出て行ってしまった……

 

甘い奴だと思われたのかもしれない、心が弱いと思われたのかもしれない、いずれにしても私はともに戦い抜いてきた弟の気持ちを裏切ってしまったのだ。

朝、起きてすぐに窓の外を見れば、決まって思い出すことといえば、出て行った弟のこと、この広い東京のどこかにいるとは思うのだが、それがどこかは分からなかった。

 

探してみようとは思った、思ったがもしそれで弟が見つかったとして、彼を裏切ってしまった私に対して、何を言われるのかが無性に怖くなってしまったのだ。

 

「いっつ……くそっ」

 目が覚めてからしばらくたってから遅れて鳴り響く、内臓が飛び出したウサギをデフォルメしたピンク色の目覚まし時計を止めてから、私は勢いよくベットから立ち上がった。

 

するとお腹に、電撃が走ったかのような鋭い痛みが来て、私はお腹を押さえて床にうずくまってしまう。あまりの自分のふがいなさに、床を叩こうとしてここがマンションだったことを思い出しかろうじて踏みとどまる。近所の人たちとの余計な争いごとはもうごめんだった。

 

あの思い出したくもない凄惨な一夜から、今日でざっと5日。光沢のある黒い虫のようなマスクを顔に貼り付け、同じく真っ黒なレインコートを着込んでいた男に傷を負わされてから、それだけの時間が経過していた。

 

私が喰種ということもあって、傷の治りは人間に比べ早いが、それも事故や人為的以外の要因によって付けられたものに限る。同じ喰種によって付けられた傷は、自分の中にある再生機能を低下させて、切り口の再生が未だに遅れていたのだ。

 

まだ私のお腹には何針も縫われた糸が入り、それを覆うように包帯でしっかりと締め付けている状態だった。無理をしたり少しでも息が上がる運動をすれば、傷口が開いてしまいかねないのだ。

 

何度か喰種とも戦ったこともある私だったが、ここまで傷の治りが遅いと何か毒でも盛られていたのかと勘ぐってしまう。もっとも喰種にはよほどの毒でない限り効きはしないのだが。

 

まあ、おおむねあの赫子に貫かれて切り開かれた傷や、食べられた内蔵の所為で再生に予想以上に負荷が掛かっていたのだろう。

「……はぁっ」

 

 ほんの少しでも自分の身体に付けられた傷に目が行くと、嫌でもあのときの光景を思い出して肩が震えてしまう。私は自分の体を腕で抱きしめて、再びベッドに突っ伏してしまった。

 

恐ろしい、男だった。マスクを被っていた所為であまり素顔を見る機会はなかったが、あの人を食ったような口調、語ること全てが自分の存在を揺さぶってきたのだ。

 

あの男は言った、私のことをこの世界に存在するすべての喰種を指して「悪」だと。自らが喰種であるに関わらず、それを言ってのける感性は私には分からなかったが、余程の事でもない限りああは、ならないだろう。男がどれだけ喰種という種に対して恨みを抱いているかが伝わってくるようだった。

 

多分だが、あの男は自分のことでさえ嫌っている。

私も、少なからず喰種という存在に対して、凄まじい悪感情を抱いている人間を数多く見てきていた。それを私は今まで、さして気にせず、人間はそういうものなのだと割り切って、「自分が生きるために仕方がない」とそんな人々の命を奪ってきた。

 

安易な理由を定めて自身を肯定していたのが私なら、あの男は端から自分のことを否定しながら生きているのか。

 

そこに自分との明確な違いがあり、きっとそれは本人でさえ気がついていないことなのだろう、闇がある。

それが私にはどうにも恐ろしかった。あの時に見せた、まさに蟋蟀のような姿もそうだ。

自分を含めた喰種を喰らい尽くすという意思がにじみ出んばかりの異形な、共食いをする昆虫を模した姿……赤黒く虫の外骨格にもにた赫子を鎧のようにまとう男。

あれはもう、化け物と言わずして何だというのだろうか。

 

治安の悪く喰種同士で争いあう13区に突如現れた超新星、そういう噂が5年前に流れたきり、「蟋蟀」の話はめっきりと聞かなくなっていた。だがそれは違ったのだ。

聞かなかったのではなく、もうあの男が13区において当たり前の存在になってしまったと言うだけのこと、珍しければ噂にもなるが在り来たりな光景ならば、話題にも上らない。

 

だからこそ、私は蟋蟀の恐ろしさについて失念してしまっていたのだろう。だから私は逃げることが遅れ、今こうして痛みを抱えている。

 

「……でも、蟋蟀の言い分も間違ってはいない」

 

 まるきり間違いならば、私も否定することが出来ただろう、だが男の言葉は本当に鋭くいままで、自分を騙し騙し生きてきた私の心を勢いよく貫いたのだ。

 

 今日は休日、学校は休みなので芳村さんが営んでいる喫茶店でバイトをする日だ。芳村さんはしばらく身体を直すために来なくても良いと言ってくれていたが、流石に私が今日抜けてしまうと経営的に今日と明日は立ち行かなくなってしまう。

 

新しくバイトを雇うという手も考えられるが、数日後には復帰できそうな私の代わりを入れたとしても、すぐに任期が終わりというわけには雇うほうも、雇われるほうもいかないだろう。

 

さっそく着ていた寝巻きを取り、肌を露出させると痛々しいまでの戦闘の痕跡が残っていた。

擦り傷や浅い切り傷は流石に治ってはいるが、首の付け根や、お腹に入った真一文字の傷は今も残り続け私の気分を鎮めていた。

 

 

少なくともしばらくの間は、学校で体育は出来ないだろう。勉強べたな私としては、喰種としての能力もあいまって、体育においては、かなり成績上位な方だったので、少し残念に思ってしまう。

頭部を思い切り打ち付けられたときに出来た顔の傷が、比較的見えなくなるくらいには直ったので、よしとしよう。頭に包帯を巻いて学校に行った日には学校中の質問の的になるに違いないのだから。

 

「4日も学校休んじゃったから、依子にはどやされるだろうけどね……」

 

 私の人間としての親友、いつも私のことを小食だと心配してくれる彼女は、きっと何も言わず私が学校を休んでしまったことを心配している、そして自分に何も教えてくれなかったことを起こっているはずだ……あの子は、とても優しくて良い友人なのだが、怒ったりするとなかなか口を利いてくれなかったりする。

 

いろいろな事を想像し、あまり良くはない未来像にますますブルーになりながらも、私は手短にTシャツとGパンに着替え、マンションを出たところで後ろから声をかけられたのだった。

 

「すいません、ちょっと良いですか?」

「…っ!?」

 

5日前にあんなことがあったからだろうか、私は急にかけられた声に対して敏感に反応してしまっていた。それに後ろから漂う気配からは、仄かに喰種の血の匂いが染み付いていたのだ。

 

肩を震わせてしまってから、しまったと後悔する。相手に不自然な動作を見せてしまったと。この手の輩とは、出来ることならば戦うことは避けたいと思っていた。

 

「はい、なんですか?」

 

顔の強張りを無理やり治して、あまり違和感を感じさせないようにと努力しながら、声の主の下へ振り返ると、予想以上の光景に思わず息を飲み込む。今度は態度に出ないように肺から送り出された空気を口で止めるが、その動揺も目の前の人物には悟られてしまっただろう。

 

夜の闇を映し出しているような艶のある黒髪をたなびかせ、口元を手に持ったハンカチで覆う女性。一見すると普通の何処にでもいる通行人だが、学校に通いバイトをして多少の人間を見る目を養ってきた私にはわかる、その仕草が塗りつくろっただけの上辺だけの上品さだと。

 

私が黙っているのが不思議に思ったのか、子供に話しかける様に人当たりの良い笑みを浮かべる女性。だが研ぎ澄まされた感覚が教えてくれるのだ、あれはまるで獲物を狙う猛禽の眼……保護色を纏い、獲物に限界まで近づこうとする捕食者の顔だ。

 

直前まで漂っていた喰種の匂いとあいまって、私の予想は確信に変わる。ならば、これはただ道を尋ねる意味合いで近づいてきたのではなく。この地区に住んでいる私に対しての威嚇…もしくは牽制…?

 

「あんた、喰種?」

 

「あぁら、もうバレちゃった?20区は平和ボケしてると思ってたけど、意外に鋭い子もいるのねぇ。引っ越してきてそうそう悪いけど、私すっごくお腹がすいているのだから貴方の狩場……ちょうだい?」

 

「……っ」

 

今日は学校に行けそうもない思わず舌打ちする、こんな時に最悪のタイミングで厄介ごとが降りかかってくる。一瞬視線を反らした隙に目の前に巨大な触手が振り下ろされていた。

 

咄嗟に身体を捻って後ろへと飛びのくが、矢張り鱗赫は相性が悪い。力の限り振り下ろされた鱗赫は少しでも掠っただけでその鉄鑢のような胴体に皮膚を削られてしまう。他の喰種よりも速度に優れているはずの羽赫の私でさえ、その突貫する鱗赫の速度には反応しきれなかった。

 

赤黒く流動する鱗赫は豆腐でもつつくかのように軽くアスファルトの地面を抉り陥没させる。周囲に亀裂が蜘蛛の巣上に走り私が飛びのいた先の地面をも揺らし体制が崩れてしまう。

 

「くそっ…」

「ふうん、避けるんだ」

 

どう考えても相手は私よりも一枚も二枚も上手。ここは逃げに徹した方が良い。下手に戦おうとして殺されてしまっては目も当てられない。きっと数日前の私ならここで意地を張って戦おうとしてしまっただろう。

 

だけれど、あの恐ろしい蟋蟀の姿を見てしまった私は、どこか戦いというものに対して臆病風に吹かれてしまっていた。殺される、命を奪われるという事がどうしようもなく怖くなっていた。

 

幸いにして相手は区外から来た余所者、この付近の地理は私の方がよく把握している。一度巻いてしまえば、そして血の匂いさえ漂わせなければ例えどんな喰種であっても、羽赫をくしして逃げる私を追いきれないはず。

 

赫眼を発現させ、嘗め回すようにじっくりと私を見つめる女の動きは油断しているのか前に見た蟋蟀と比べて幾ばくか遅い。これなら逃げきれるかもしれない。

 

「へぇいるじゃない、少しは骨のある子が……でも残念ね」

 

僅かにできた希望が、私にとっての足かせになってしまう。それは僅かな間にできた隙だった。私が女の言動に疑問を感じてそこに意識を集中してしまった所為で、女が今何処にいて何を狙っているのか、赫子がどう動いているのかを意識の外に置いてしまった。

 

「私、今すっごく機嫌が悪いのよ」

「うぐっ…っはぁああ!?」

 

突如わき腹に感じる鈍痛、そして間髪入れず背後から頭めがけて打ち出された赫子のハンマーのような重く鋭い一撃が命中する。視界が真っ白に染まり、足から力が抜けそうになって慌てて力を入れるが、頭を打った衝撃のせいで思うように体が動かせなかった。

 

これは…あの時と同じ。蟋蟀に先制されて手も足も出なかった時も、まず蟋蟀は頭をねらって動きを止めに来た。硬い皮膚を持っている喰種でも、脳だけは柔らかいという点をついた攻撃、それは見事に私を朦朧とさせ立ち上がることもできず硬い地面にしりもちをついてしまう。

 

ドクドクと血が流れていく音が聞こえる、霞んできた眼で身体を見れば、蟋蟀との戦闘で切り裂かれた傷口を狙って女は赫子を突き刺してきたらしい。開ききった傷口はぱっくりと内臓を晒し来ていた衣服ごと黒い地面を鮮血に染めていった。

 

陰湿な戦い方をする……蟋蟀とはまた違った意味で厄介な喰種だった。意識しない死角から次々と責めてくる、計算された動きに暴力的なまでの赫子の威力、私の一挙一動を見逃さず的確に対処してくる正確さ。

 

それは何十もの戦闘を繰り返してきた強者の証。実力のある喰種ほどこういった場の掴み方は卓越している。

 

「うふっ…若い芽はここで詰んでおきましょう、なんてただお腹すいてイライラしたただけなんだけどね。運が悪かったわね貴女、私の機嫌がよかったらもう少し遊んであげたのに」

 

逃げられない…どうしよう…どうして、私ばっかり…

必死に力を入れて何度も試してみるが、神経が通っていないかのように下半身はまるで動こうとしてくれない。喰種の肉体というのも、あるいみ精神的な面では人間とあまり変わらないのかもしれなかった。

 

「…たくない」

「え?」

 

情けない、本当に情けなかった。弟の気持ちを不本意だったとはいえ裏切り、芳村さんに人間の事を学んで学校まで通わせてもらって、蟋蟀に喰種の本質を見せつけられ……挙句の果てにだらしなく道の端にうずくまってしまったのだ…。弱い、私は何もかもが弱い。

 

喰種という存在にかこつけて、自分は強いと思い込んできてしまっていた、だけど実際ふたを開けてみると、私は何も手に入れることが出来なかったじゃないか。

両親も、弟も、本当の友人も、なにもかも!!

 

そして、もう芳村さんが助けてくれるなんて奇跡がそう何度も起こるわけない。今度という今度こそ、私は死ぬんだ。あの時死ぬ運命だった私……そのわずかに伸びた寿命が尽きてしまっただけの事。

 

だから…怖くなんか…

 

「死にたくない!!」

 

決して届くことの無いだろう悲鳴、私はここで死ぬんだと、そう悟り無意識に目を閉じたとき。目の前に移った女の顔が引きつったかのようにゆがんだ気がした。

 

「うん?こんなところでどうしたんだい?何か困ったことがあるのなら僕に言ってみるといい、出来る範囲の事でなら協力するよ?」

 

それと同時に耳元で聞こえるどこか聞き覚えのある、優しい声。それは暖かく私を包み込んでくれる。

この日、この時、この時間、私の人生は大きく変わっていくことになる。

突然現れた男の人…それは私にとってヒーローだった。

 


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